後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

モンゴル民族をもっと知る(3)内モンゴル自治区の独立と消滅

2015年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日から相撲の大阪場所が始まりました。白鵬などの横綱だけでなく逸の城らのモンゴル人力士の活躍が期待されます。
しかしちょっと考えてみると変です。何故、モンゴル人力士は中国領内の内蒙古自治区からは来ないのでしょうか?
現在、モンゴル民族はモンゴル共和国に265万 人と中国領の内蒙古自治区にその2倍以上の580万人が住んでいるのです。ですから現在のモンゴル人力士の2倍以上の関取が内蒙古自治区から来てもおかしくは無いのです。しかし一人もいません。
何故でしょうか?皆様はその理由をご存知でしょうか?
疑問に思ったらすぐに調べるのが私の老化防止の趣味のようなものです。
そうしたら明快至極な答えが見つかりました。
戦争中に満州国を作った日本の軍隊の助けをかりて内モンゴルの独立を果たしたモンゴル人がいたのです。その名前はデムチュクドンロブ、通称、徳王と言います。1902年に生まれ1966年に亡くなりました。
この独立した内モンゴル国はこともあろうに日本の傀儡政権の汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだったのです。(詳細は末尾の参考資料をご覧下さい。)
ですからこそ現在の中国政府は内蒙古自治区のモンゴル人と日本人の交流を忌み嫌います。それは中国にとっては悪夢の再来なのです。
内モンゴル地域への日本人の訪問は長らく禁止されていました。しかし流石に最近は自由に行けるようになったのです。
そのような事情から中国政府が内蒙古自治区のモンゴル人が関取になるのを支援する筈がないのです。共産党独裁の中国で政府の意向に逆らったらどうなるかは火を見るより明らかなのです。
それではモンゴル共和国から日本へ力士志願者が多数いるのを中国政府が何故黙っているのでしょうか?それには清朝以来のモンゴル共和国を取り巻くロシアと中国の歴史的事情が影響していると私は思います。この件はいずれ続編で取り上げたいと思います。
このよう政治的なことにご興味にない方々の為に内モンゴルの草原に咲く花々の写真をお送りします。撮影された方へ感謝しつつ、http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/29743269.html?type=folderlist より転載させて頂きます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)











===参考資料===============
徳王による内モンゴルの独立と消滅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A0%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%96
デムチュクドンロブ(1902年2月8日 - 1966年5月23日)は、南モンゴルにおけるモンゴル独立運動の指導者。通称徳王(とくおう)。中国語における字は希賢。1930年代から日本軍に協力し、モンゴル人の独立政権蒙古聯合自治政府の主席を務めた。
現在、彼の評価についてモンゴルの民族自決を支持する立場からは汎モンゴル主義を推進したモンゴル民族自決主義者であったとする向きもある。一方で、北京政府(中華人民共和国)からは、日中戦争期に日本人の手先として活動した反逆者(漢奸)とされている。
満州事変勃発後、徳王は日本軍と連絡を取り合うようになり、同じモンゴル独立運動を指導していたユンデン・ワンチュク(雲王)などともに1933年に内蒙古王公会議を結成。国民政府に対し高度な自治を要求した。これを認める形で翌1934年に蒙古地方自治政務委員会が成立、徳王は秘書長となった。
その後1936年2月10日に関東軍の支持の下蒙古軍政府が成立すると総司令・総裁に就任。1936年11月に徳王麾下の内蒙軍や李守信と王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、同省主席の傅作義軍に撃退された(綏遠事件)。盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、1937年10月17日に包頭を占領。雲王・徳王・李守信はこれに応じる形で10月28日に厚和(綏遠を改称)にて蒙古聯盟自治政府を成立させた。当初、雲王が主席となり、翌年3月に雲王が病没すると、徳王が後任の主席となった。1938年10月、徳王は初めて訪日した。準国賓待遇を受け天皇に拝謁し、勲一等旭日章を受勲した。蒙古聯盟自治政府は、1939年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と合併し蒙古聯合自治政府となった。首都は張家口に置かれ、名目としては汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだった。1941年2月徳王は二度目の訪日を行った。自治国として承認させることであったが、承認しなかった。1942年東條首相は大東亜共栄圏の首脳を招いたが、徳王は出席しなかった。
そして日本の敗戦と同時に、蒙古聯合自治政府は一瞬にして消滅します。
徳王は中国政府に逮捕され日中戦争期に日本人の手先として活動した反逆者(漢奸)として長らく収容所に幽閉されたが後釈放され自叙伝を出している。