後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

「今日の日記、拝島大師のそばの藤の花の写真を撮りに行く」

2017年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日も晴天で薫風が心地良い日です。
午前中は教会のミサに行きました。
午後に東京都昭島市の拝島町の拝島公園の一角にある樹齢800年という東京都の天然記念物の「千歳の藤」の写真を撮りに行きました。
この公園は拝島大師と日吉神社の間にあり、大日堂や円福寺も近くにあります。
なお拝島大師は天台宗の仏教寺院で、本覚院が正式な名称です。本尊は叡山延暦寺の中興の祖として知られる良源(元三大師、慈恵大師)を祀っています。
藤の花は満開ではありませんでしたが日当たりの良い枝は見事な花房が垂れ、緑の風に揺れています。藤棚の下のベンチに憩うと甘い香が漂いなんとも穏やかな気分でした。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。








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イエスの復活を疑い、指を傷跡に入れて信じたトマス

2017年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教が理解されない理由は幾つかあります。その中で一番判らないのがイエスの復活です。
ローマ総督のピラトによって死刑判決を受けたイエスは十字架の上で絶命します。墓に葬られますが、3日目に生き返って墓を出て来るのです。
そうして弟子たちの前に現れたのです。
その時、その場所に居なかった弟子の一人のトマスはイエスの蘇りを信じませんでした。もう一度、自分の目の前に現れて、自分の目で見ない限り、トマスは絶対に信じないと言ったのです。
イエスはもう一度弟子たちの前に現れてトマスに話しかけます。
イエスは十字架の上でローマ兵の槍で刺された脇腹の傷跡がそのままある姿でトマスの前に立ったのです。
その傷跡に手を差し込んだトマスはこの人物は、一度死んだイエスが生き返ってここに居るのだと、はじめて信じます。
そしてイエスの教えを全て信じ、神を信じますという信仰告白をしたのです。
ここは聖書の中でも重要な部分です。
見ないで信じる者は幸せなのです。全ての宗教では「見ないで信ずる」ことが一番重要なのです。
宗教を理解するためには人間によって再現出来ないことを信じることが必要なのです。信じれば理解されるのです。
この理解しにくい場面をどなたか明快に説明していないかと調べてみました。

そうしたら北海道の砂川市のある教会の牧師の銘形秀則さんが「牧師の書斎」という実に明快なホームページを発表されていたのです。
そのURLは、http://meigata-bokushin.secret.jp/ です。
読めば誰でも判るように書いていらっしゃいます。
そこでそのホームページからトマスの分部を抜粋して以下に転載いたします。

【聖書箇所】ヨハネ20:24~29
復活されたイエスが40日間、地上にとどまられたその第一の目的は、復活の事実を弟子たちに確信させるためでした。しかし、彼らは容易には悟れませんでした。

(1) よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかった使徒たち
弟子の一人、トマスは他の弟子たちからイエスがよみがえられたことを聞かされても信じようとしませんでした。このことはトマスだけが責められることではありません。マルコ16:14では「イエスは、その11人が食卓についているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らか、よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかったからである。」と記されています。イエスはマグダラのマリヤに最初に現われ、彼女を通して使徒たちに話したのですが、彼らは女(たち)を信用しなかったのです。そのことがここでイエスから責められています。
それほどに復活の事実は信じがたいことなのです。しかし、使徒たちはイエスの復活の証人とならなければなりませんでしたから、イエスはすべての使徒たちにご自身を現わす必要がありました。

(2) トマスに対するイエスの顕現とトマスの信仰告白
トマスも他の使徒と同様、よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを信じなかったひとりです。しかも彼の場合は自分と立場を同じくする10人の使徒たち全員が、イエスを見て復活されたことを証言しているにもかかわらずです。相当、疑い深いと言われても致し方ありません。なぜなら、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」 (ヨハネ20:25)。「絶対に信じたりしない」(岩波訳)と言ったのですから。
そんなトマスのもとにもイエスは現われて、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわき(腹)に差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者となりなさい。」とイエスは言われました。このことから最高の信仰告白である「私の主。私の神」という言葉が彼の口から出たのでした。
「私の主、私の神」とは、イエスこそ全き従順をもって服従すべき絶対主権者としての主であり、神であることを認める告白です。

(3) 信仰の本質は、見ずに信じること

イエスはトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。信仰の本質は「見ずして信じること」です。トマスへのイエスの顕現の目的はここにあると信じます。
今日に生きる私たちはイエス・キリストを信じる人たちを通してイエスを信じています。つまり、見ずして信じているわけです。よみがえりのイエスの証人である使徒たちが記した聖書を信じています。イエスが復活されてから昇天されるまでの40日間にイエスと出会った者たち以外のキリスト者はみなイエスを目にしてはいません。しかしイエスがよみがえられたことを聞いて信じているのです。
・・・以下省略します。是非、「牧師の書斎」をご覧下さい。

今日の話はこれだけです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た奥多摩湖の写真です。湖の向こう側の山々に点々と白いソメイヨシノが咲いていることにご注目下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









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平峰 盛敏 著、「ブラジル生活あれこれ(2) ブラジルは左傾反米思想」

2017年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがきーー後藤和弘ーー
今回の記事は4月22日掲載の「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」の続編です。
あわせて読むとブラジルの社会と政治が非常に明快に分かります。生き生きとした活写でです。日本とあまりにも違うのですが、これさえ読めばブラジルが理解出来るようです。是非、お読み下さい。
今日の挿し絵代わりの写真は平峰さんが送って下さったブラジルの花の写真です。
===平峰 盛敏 著、「ブラジル生活あれこれ(2) ブラジルは左傾反米思想」======
(1) ポルトガル語が ブラジルの国語である事に因んで---
19歳で移民したので、世間のことは、知らず、この南米の大国の田舎で、肉体労働のみを、数年味わいました。
町に出て、田舎の野菜を市場で卸売りもしました。そして八百屋を持って野菜や果物の小売をするようにもなりやっと経済的に余裕が出てきました。
生活が安定したので、ポルトガル語 の勉強を する気になったのです。特に日系企業に就職出来てから、通訳の職に磨きをかけたいと思い大学に学びました。

ブラジルの国語は、ポルトガル語ですが、何故か、それを、国語と呼ばず、ポルトガル語と、今でも呼んでいます。まぁ、アメリカその他の多くの国でも、英語を話しているのと同じ事なのだと思います。
ヨーロッパの或る小国の作者に成る、"最後の授業" と云う 一文を 少年時代に読んだ事を、今思い出しました。 その国の言葉は、もう学習出来なくなったんですね、敗戦で! その悲しみを、巧くまとめた一文でした。 日本では、日本語だけが国語と呼ばれ、当然ですけど、 世の中には、色々複雑な事情が沢山あるもですね。

ともあれ、私は、此方の新聞が読める様になることを目指し、 辞典を手放せない日々が、長く続きました。
さて昔のブラジル地方には、三百近い原住民の原語があったと云う記録を最近読みました。日本の大昔の先祖達は、日本国内の戦を繰り返していました。やがて朝鮮半島の国々からの攻撃に備えるためにも、大きな「大和の国」を創り、日本を護りました。
いまだに日本語の中に大和言葉が伝えられている事は、輝く日本の文化です。
ポルトガル語が 此処の国語であることは、原住民全てが蹂躙されたのである という事実を裏付けていると思います。それは悲劇でした。しかし現在のブラジルを愛し、この現状の上に全国民のご幸福を願うのが正しいと思うので、過去の悲劇はむしかえさないのが賢明だと思っています。その事は、残念ながら反古に付して置くよりもう術は 無いと、思っています。

(2) 左傾思想伝播に熱心な教授達---
夜間大学での体験は、きつかったけれど、学問に真剣に精を出している人々と、数年過ごした思い出は、貴重なものとし、大切にしています。
その大学でのことですが、共産主義の正しさを吹聴する為に授業をしているような感じの教授がいました。
アメリカ化された多量生産方式の害、自然の破壊の深刻化、奴隷の歴史、迫害されている大衆の悲惨さ、等々を、巧みな話術で語るのです。すると学生の皆が納得して、推奨される本を読む気になります。 そして、既成の富裕層及び支配階級全ては、全人類の仇敵であるという悪夢の世界に住むようになるようです。
また、職場でも、同じような見解を話題にして、企業の方針に従うべきじゃないと同僚を組合運動に誘う人が数人いました。
虐げられている貧しい人々の人生を、繰り返し強調されて聞いているうちに、怒り心頭に達し、革命の戦士になる決意をしてしまうという 筋書のようです。
押しなべに纏めてしまうと、 ブラジルの 大部分の大学生達は、共産主義に深く感化されています。
就職先では、管理者となって出世する為に、それを隠して、上司および企業の方針に真面目に従っている振りをしています。しかし給料も増え、次第に豊かな生活をするようになると共産主義の実践は、諦めてしまいます。
しかし、選挙運動で演説の上手い候補者が現れると、実現性は問わず、その左傾候補者に投票してしまうというパターンがブラジルにはあります。
私にとっては、左傾政治家を革新系と呼ぶ事が分かりません。共産主義の政治体制は、ソ連を始め東欧の国々の全ての国で失敗している事実があるのです。
共産主義は独裁政権を作ります。大衆の言うこと書く事すべてに規制が有ります。"平等化"とは、国民総貧困化、痴呆化することになるのは明白です。しかしブラジルなど南米の国々では催眠術にかかったように多くの人が共産主義に憧れているのです。これがブラジルの悪い一面です。しかし良いところも沢山ある国です。ブラジルを愛しています。

(3) 私は、共産主義の教授達、仕事場の共産主義者達へいつも反論していました---
大学の教室で、手を挙げて"質問よろしいでしょうか?" と云うと、許可されます。
そこで自由競争が、コストダウン、品質改善に繋がっていて、大衆の生活を 潤している事実を明快に説明します。共産圏には、表現や報道の自由がない事実、そして独裁的な政府は、国民の意見を 聞かない事実を説明します。
その上、神を否定する事実、支配階級が 無くならない事実 等を挙げて、質問します。
すると教授は、"理想実現途上の、一期間は、君の指摘するような 現象が現れるのだ。" などと応えます。
この教授は、最後の授業の時、"このクラスだけは、何故か、意識統一が出来ず、一年が過ぎた事が遺憾である。" と語られました 。

就職した会社では私は共産主義の同僚達へ言いました。
「20人位有志を集め、共産会を作って下さい。その共産会では、家計なども全てを共有し、息子たちにも、着物、玩具、全てを共有し合って、平等な誰にも虐げられない状態を現出させて見せて下さい。そんなことは出来ないでしょう! 考え直してください。そんなことは出来っこないのです。 もしそれが出来たなら、 世界中が、 君達に従うと思うよ」
このように言って、共産主義の同僚達へ反省を促したりしていました。

(4) 緩やか過ぎる反応の中、幸いにして、立憲主義の実力が輝き始めました ー
私が移民してから二年後、 1964年に、共産化防止を建前に、軍部独裁政治が 出来、20年間続きました。
教育面、経済面、 保安面、上手く管理されましたが、地方の田舎の生活は、少しも変化しませんでした。
規律が徹底したところで、軍部独裁政治が民主政治に戻されました。
そうしたら瞬く間に、規律が乱れました。 命の尊厳や社会正義等は、建前だけになったのです。そんな社会では本音の利己主義だけがまかりとうります。
善い政治をすれば全体的な改善が出来るという信念は、選挙運動の時以外では何処からも聞こえて来ない風潮になってしまいました。
ここ数年、左傾為政者の不正、汚職蔓延が、国際評価のトップレベルに達し、正々堂々と、"汚職イコール善政也" と、言わんばかりの振る舞いをしている事すら見え過ぎるのです。 その鉄面皮の態度に、腹の立つ事かぎりない日々が続きました。
それに加えて暴力犯罪もひどくなりました。
従って、この悪い現象を理由に、53年前のように、軍部独裁国に戻す事を唱える人が増えています。
嗚呼! この国は、自由の女神の愛を受け入れられないのか? ! 自由は、民衆自ら取りに行くべきものと、言う認識が無い事が、 嘆かれます! 汚職の汚名を着ていても、訴訟数件進行中でも、少しもおじけず、立候補する人も多いです。 これまでも理解に苦しむ事、多々あります。

でも、幸いにして、立憲主義の力が表面に現れ、五年程前から、これまでの慣習に逆らって、 汚職高官の逮捕が実現し、最近、有名な政治家、大型下請け業の社長等逮捕があい継ぎ逮捕されています。数十億ドルの不正金の回収が達成されています。
それは、ある国営油田開発会社に関わる汚職に 限定された捜査の結果です!一社で数十億ドルの不正金の回収なのですから驚きです。
前大統領四人、現大統領、現連邦上院下院為政者の大半の上に、汚職嫌疑がかかっているレポートが、今月 (2017年四月)、正式公表されました! 胸のつかえが やっと降りましたが、一方で国政不安定の心配が募ります。
こんな状態でも、左傾鉄面皮政治家の人気が、思うほど下がらないのが、分かりません。
全てに、鈍牛の様に 緩やかな反応をする国民性の事を忘れて、慨嘆し、気にし過ぎる自分を笑うばかりです。

現在、神奈川に勤務している長女は、若い頃、身を削る様な努力を払って早稲田大学に留学しました。経営学を、ブラジルで学んだ 頃は、私の説得にもかかわらず極端な右翼思想の感化されていました。
しかし日本の教授達から、生命尊重が、全ての学問に優先することを教えられ、又、極右、極左は、主義に囚われて、人間性を見失った唯物思想であるから、注意すべきことを、教えられて、大変幸運だったと言っています。(続く)

では、皆様のご健康と平安を遠くからお祈りさせていただきます。
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「今日の日記、明日は昭和の日なので武蔵野御陵の新緑の写真」

2017年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
この季節は北野街道沿いの左右の山並みの新緑が綺麗です。
午後に高幡不動前から北野街道に入り青葉の雑木林の眺めを楽しみながら高尾山登山口の向こうまでドライブしました。

帰りは甲州街道に入り、明日は昭和の日なので武蔵野御陵に寄り、新緑の写真を撮ってきました。

緑豊かな昭和天皇の眠る武蔵野御陵の樹々の写真をお楽しみ下さい。








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世界の戦争(2)1979年、中国とベトナム間の大戦争

2017年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、『世界の戦争(1)第二次大戦後も多数の戦争が!』という記事を掲載しました。
そして第二次世界大戦後にも実に多数の戦争があったことを示しました。
それらの数多くの戦争で、日本人のほとんど知らない戦争が幾つもあったことは大きな驚きです。
そこで、日本と利害関係の無い戦争を取り上げてみると、戦争の原因が客観的に見えてくるのではないでしょうか。日本へ利害関係が無いので、日本人が感情的にならないで公平に考えられるのです。
そのような戦争の一例が、1979年に起きた大規模な中越戦争です。
ベトナム戦争が終ってやっと平和になったと思ったベトナムへ中国の解放軍の60万人が戦った大戦争でした。しかし結果的に中国軍が敗退したのです。
この戦争は共産主義の国同士の戦いで日本には直接の利害関係が無いと考えられ、日本人の強い関心は惹かなかったのです。もう忘れている方も多いと思います。
そこでこの戦争を簡単に復習してみましょう。

1979年の中越戦(英語: Sino-Vietnamese War)は、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国の間で行われた戦争です。
その概略を、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89 から抜粋します。
この中越戦争の起きる前に、大量虐殺を行ったカンボジアのポル・ポト政権が圧倒的なベトナム軍の侵攻で崩壊したのです。これが中越戦争の原因になったのです。
カンボジアを支援してきた中華人民共和国が「ベトナムへの懲罰行為」と称し、軍事侵攻を開始したのです。
カンボジアに駐留するベトナム軍主力の留守を突く形で侵攻した中国人民解放軍は初戦は優勢でした。ベトナムの国境守備隊を圧倒しようとしたのです。
しかしベトナム戦争で実戦経験を積み、装備にも優れていたベトナム人民軍に、中国軍は多大な損害を出して、苦戦を強いられ、最終的には撤退してしまったのです。
中国は短期間でベトナムを制圧できると考えていました。しかし中国軍の指揮系統が内部崩壊することを全く想定していなかったのです。中国の軍隊は国民党との内戦の時代と同じ古いゲリラ戦と人海戦術のための指揮系統しか持っていませんでした。ベトナム軍が中国軍の幹部を戦死させると中国軍は指揮系統を失い烏合の衆になったそうです。
その上、ベトナム軍はアメリカの強力な武器や戦車を持っていたのです。
戦争に勝つのは当たり前でした。
この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍は2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告しています。
一方ベトナム国防省の軍事歴史院は60万人の中国軍の内2万人が戦死し、4万人が負傷し、合わせて1割の死傷者が出たと記している。
双方の損害は誇大に報告されているのでしょうが、この戦争は数か月の短期間にこれだけの損害が出たのです。熾烈な戦争でした。

さてこの中越戦争の原因は何だったのでしょうか?
上の説明では、中国の支援してきたカンボジアのポル・ポト政権がベトナム軍の侵攻で崩壊したので、それが中越戦争の原因になったと説明しています。これは戦争のキッカケでしたが真の原因ではないようです。
私には中国の共産党員の親友がいました。共産主義は間違っていますが、兎に角、彼は私が深くつきあった中国人の親友でした。天津市を国民党軍から解放した時に協力し、その後、天津市の行政に参加した古参の党員だったのです。中央政府にも人脈を持っていました。
ある時、一緒に北京の裏通りの北京ダックの店でビールを飲みながら、彼は1979年の中越戦争の原因を次のように説明したのです。
「原因は1966年に始まったベトナム戦争にあります。ソ連は武器、弾薬をベトナムに送りました、中国は食べるものも節約して食料をベトナムに送りました。特に揚子江の南の農村は自分たちが食べないで、多量の米を送り続けたのです。それでベトナムがアメリカ軍に勝ったのです。ところが勝った後でベトナムは中国の恩を忘れ、中国の嫌いなソ連へ海軍基地を与える交渉を始めたのです。
中国人は怒り心頭に発しました。そこでベトナムに懲罰を与えるためにその北部へ侵攻したのです」
こういう彼は怒りで顔を赤くしていました。いつも温厚な彼が感情的な表情をしながら説明したのです。

中国は清朝の末期から欧米の植民地主義で厦門や香港を失い、北京や上海や青島やハルビンなどに欧米の租界を持っていたのです。
中国人はこの屈辱を絶対に忘れません。
ベトナムがそのことを忘れていたのです。しかしその後、ベトナムは中国の屈辱を理解し、ソ連と距離を置き、中国と国交回復しました。
以上のように戦争の真の原因を理解することは難しいものです。
ですから表面的な戦争のキッカケを原因とすることが多いのです。例えば真珠湾攻撃が日米戦争の原因だと言うようなものです。しかし本当の原因は満州建国にあったと考える方が深い理解ではないでしょうか。

今日の挿し絵代わりの写真は中国の武漢の公園に咲いているソメイヨシノの花の写真です。
この公園は東湖桜花園です。武漢東湖磨山桜園とも呼ばれ、中国の湖北省武漢市武昌区の東湖地区にある桜の名所です。日本軍の武漢占領時代から武漢大学近辺には日本の桜が植えられていて、戦後もさらに日本の桜が植えられ、遼寧省大連市旅順口区の龍王塘桜花園と共に中国の2大桜の名所となっているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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世界の戦争(1)第二次大戦後も多数の戦争が!

2017年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「今日の日記、裏高尾に分け入り新緑の桂の林の写真を撮る」という記事を掲載しました。
そして林野庁が裏高尾に昭和3年に植林した1400本ほどの見事な桂の林をご紹介しました。
私は軍国主義の吹き荒れる昭和初期にこんな平和的な植林をしていた林野庁の役人の優しい心に感動を覚えました。
昭和3年から89年経過する現在までの間に、満州事変、上海事変、日中戦争、太平洋戦争とたて続けて戦争が起きました。さらに、2・26事件のようなクーデターも起きたのです。
そして戦後も朝鮮動乱やベトナム戦争や湾岸戦争、そしてイラク戦争などと戦争が絶え間なく続いています。
昨日、訪れた桂の樹々は裏高尾から、これらの戦争を昭和3年から静かに見てきたのです。
春の新緑、夏の濃い緑、秋の黄葉、冬の落葉と四季折々姿を変えながら、それでも静かに世界の戦争を見て来たのです。
この想いで新緑の桂の大木に長い間見とれていました。そして何故戦争が絶えないのかと思っていました。

この想いが帰宅後も続きました。そこで世界で起きた戦争を調べてみました。
以下は第二次世界大戦の終了した後で起きた戦争の一覧表です。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%B8%80%E8%A6%A7 です。
少し長いですが、、まずご覧ください。
(1)東西冷戦時代
1945年~1989年 - 冷戦・Category:冷戦
1945年~1949年 - インドネシア独立戦争
1945年~1954年 - 第一次インドシナ戦争
1946年~1949年 - ギリシャ内戦
1948年~1971年 - 印パ戦争(第一次~第三次)
1948年~1973年 - 中東戦争・Category:イスラエル・アラブ戦争
1948年 - 第一次中東戦争
1956年 - 第二次中東戦争
1967年 - 第三次中東戦争
1973年 - 第四次中東戦争
1948年~(継続) - パレスチナ紛争
1948年~(継続) - ミャンマー紛争
1949年~(継続) - 東トルキスタン紛争
1950年~1951年 - チベット紛争
1950年~1953年(事実上) - 朝鮮戦争・Category:朝鮮戦争
1954年~1962年 - アルジェリア戦争
1955年~1972年 - 第一次スーダン内戦
1956年 - ハンガリー動乱
1959年 - チベット動乱
1959年~1962年 - 中印国境紛争
1959年~1975年 - ラオス内戦
1960年~1965年 - コンゴ動乱
1960年~1996年 - グアテマラ内戦
1960年~1975年 - ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)・Category:ベトナム戦争
1961年 - キューバ危機
1961年 - クウェート出兵
1961年 - ゴア紛争
1961年~1962年 - 西イリアン紛争
1962年~1969年 - 北イエメン内戦
1962年~1963年 - ベネズエラの反乱
1963年~1968年 - アルジェリア・モロッコ国境紛争
1963年~1964年 - キプロス内戦
1963年~1966年 - マレーシア紛争(インドネシアのボルネオ介入)
1964年~(継続) - コロンビア紛争
1965年 - ドミニカ共和国内戦
1965年~1979年 - 南ローデシア紛争
1965年~1984年 - チャド内戦
1967年~1970年 - ビアフラ戦争
1968年 - プラハの春(チェコ事件、ソ連のチェコ介入)
1969年 - 中ソ国境紛争
1969年 - サッカー戦争
1969年~1998年 - 北アイルランド紛争
1969年~(継続) - フィリピン紛争
1970年 - ヨルダン内戦(黒い九月事件)
1971年~1992年 - カンボジア内戦
1971年~(継続) - カシミール紛争
1974年 - キプロス紛争
1975年~1989年 - ナミビア独立戦争
1975年~1990年 - レバノン内戦
1975年 - インドネシアの東ティモール侵攻
1975年~2002年 - アンゴラ内戦
1977年~1979年 - ウガンダ・タンザニア戦争
1978年~1988年 - オガデン戦争
1979年~(継続) - 西サハラ紛争
1979年 - 中越戦争
1979年~1989年 - ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻
1979年~1990年 - ニカラグア内戦
1980年~1992年 - エルサルバドル内戦
1980年~1988年 - イラン・イラク戦争
1980年~(継続) - ペルー紛争
1982年 - フォークランド紛争(マルビーナス戦争)
1983年~2004年 - 第二次スーダン内戦
1983年 - グレナダ侵攻
1983年~2009年 - スリランカ内戦
1984年 - 中越国境紛争
1986年~1987年 - トヨタ戦争
1987年~(継続) - ブルンジ内戦
1988年~(継続) - ナゴルノ・カラバフ紛争
1989年~2001年 - アフガニスタン内戦
1989年~1992年 - 第一次南オセチア紛争
1989年 - パナマ侵攻

(2)冷戦後
1989年~1990年 - エチオピア内戦
1989年~1996年 - リベリア内戦
1990年~1994年 - ルワンダ紛争
1990年~1991年 - 湾岸戦争・Category:湾岸戦争
1991年~2001年 - シエラレオネ紛争
1991年~2000年 - ユーゴスラビア紛争
1991年 - 十日間戦争(スロベニア独立戦争)
1991年~1995年 - クロアチア戦争
1992年~1995年 - ボスニア紛争
1999年~2000年 - コソボ紛争
2001年 - マケドニア紛争
1991年~2001年 - ジブチ内戦
1991年~(継続) - ソマリア内戦
1991年~(継続) - カザマンス紛争
1992年~(継続) - オセチア・イングーシ紛争
1992年~1994年 - アブハジア紛争
1992年~(継続) - アルジェリア紛争
1994年 - イエメン内戦
1994年~1996年 - 第一次チェチェン紛争
1995年~1998年 - ハニーシュ群島紛争
1996年〜1998年 - 第一次コンゴ戦争
1998年~2000年 - エチオピア・エリトリア国境紛争
1998年~2002年 - 第二次コンゴ戦争
1998年~2001年 - ポソ宗教戦争
1999年~2009年 - 第二次チェチェン紛争
1999年 - 東ティモール紛争
1999年 - カルギル紛争
2000年~(継続) - インドネシア紛争

(3)21世紀になってから
2001年~2014年 - アメリカのアフガニスタン侵攻(対テロ戦争)
2001年~(継続) - パキスタン紛争
2002年~2003年 - コートジボワール内戦
2003年 - リベリア内戦
2003年~2011年 - イラク戦争・Category:イラク戦争
2003年~(継続) - ダルフール紛争
2004年~(継続) - サリン紛争
2004年~(継続) - タイ紛争
2004年~(継続) - ワジリスタン紛争
2006年 - 東ティモール内乱
2006年 - イスラエルのガザ侵攻・レバノン侵攻
2006年 - エチオピアのソマリア侵攻
2006年~2009年 - スリランカ内戦
2008年 - 第二次南オセチア紛争(グルジア紛争)
2008年~2009年 - イスラエルのガザ紛争
2011年 - リビア内戦
2011年~(継続) - シリア内戦
2012年~(継続) - マリ北部紛争
2014年 - イスラエルのガザ侵攻
2014年〜(継続) - 2014年ウクライナ内戦

この一覧表には日本人のあまり知らない戦争も沢山あります。
そして現在も継続中の戦争も数多くあるのに驚きます。
そこで今日から「世界の戦争」という連載を始めて、幾つかの戦争の原因を考えてみることにしました。
現在、北朝鮮と日米間の軍事力の対峙が危険な状況になっています。過去の戦争の原因を考え、北朝鮮との戦争回避も考えたいと思います。

次回は中越国境紛争を取り上げて、1984年にベトナムと、鄧小平の中国が戦った原因を考えてみます。
当時、中国の共産党員の友人から直接聞いた戦争の原因です。中国側の言う原因です。ベトナム側は当然、別の原因を考えているようです。

それにしても上記の「世界の戦争の一覧表」を見ていると、実に数多くの戦争が絶え間無く起きている事実に驚きます。粛然とします。
今日の挿し絵代わりの写真は、裏高尾の旧甲州街道で昨日撮って来た花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)












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「今日の日記、裏高尾に分け入り新緑の桂の林の写真を撮る」

2017年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
裏高尾には約1400本の桂の木を昭和3年に林野庁が植えた見事な桂林があります。現在でも林野庁が木道を整備し、一般へ公開している場所です。今日の午後カメラを持って明るい緑の桂の林の光景を撮って来ました。
桂は私の大好きな木です。1980年に自宅の庭に植えたら成長が早くすぐに大木になってしまい困ったことになりました。折角、成長しましたが、泣く泣く切ってしまった苦い経験があります。
それ以来、山の桂を見つけて鑑賞することにしました。桂は秋になると美しく黄葉して,甘い独特の芳香を放ちます。
神代植物公園にも桂の林があります。
そんなことを考えながら木道の上を歩いて来ました。
新緑の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。








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今年見ることが出来なかった甲州の桃の花と梅岩寺の枝垂れ桜

2017年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
花の命短しと言います。遠路はるばる見に行っても、まだ咲いていなっかたり、散ってしまっていて落胆することがあります。花の咲く時期は年々違うので丁度、満開の時に見に行けるとは限らないのです。
今年、見残し残念に思っている春の花を思い出しています。
そこで今日は昨年撮った甲州の桃の花と東京青梅市の梅岩寺の枝垂れ桜の写真をお送りします。

桃のほうは甲州の韮崎市の長府の桃の花を見に行きます。毎年、同じ場所に行って残雪の鳳凰三山の山稜を背景にした桃の花の写真を撮るのです。
桃畑の農家の人が寛大で花に触らない限り自由に写真を撮らせてくれます。
下に昨年の4月12日に撮った桃の花の写真をお送りいたします。
今日の挿絵代わりの写真は一昨日撮ってきた青梅市の梅岩寺の枝垂れ桜の写真です。

1番目の写真の背景は鳳凰三山の地蔵岳です。桃の花の梢と共に撮った風景です。

2番目の写真は梢の桃の花の写真です。

美味しい桃を鳳凰三山が見守って育てているように感じられる場所です。
さて次は青梅市の梅岩寺の枝垂れ桜の写真です。今年行きましたが全て散ってしまっていました。そこで去年の4月10日に撮った写真を送ります。

3番目の写真は梅岩寺に2本ある巨木の枝垂れ桜の左の木の上の方の枝の写真です。

4番目の写真は2本ある巨木の枝垂れ桜の右の木の上の方の枝の写真です。

5番目の写真は今年行った時の風景です。右の木が枝垂れ桜ですがご覧のように散ってしまっていました。しかし左の鬱金桜(ウコンザクラ)が見事な満開で落胆している私共を慰めてくれています。

さて桃の花の写真を一層深く楽しむように桃の花に関する漢詩をお送りいたします。
桃の花は隣の中国では紀元前のはるか以前から愛されていました。
詩経の中にある「桃夭」という詩を、http://manapedia.jp/text/3801 からご紹介いたします。
この漢詩では、嫁ぐ若い女性の美しさを桃の花のみずみずしい美しさに例えています。このことから桃夭とは「女性の嫁入り時、婚期」を意味するようにもなりました。

「桃夭」   (原文)

桃之夭夭
灼灼其華
之子于帰
宜其室家

桃之夭夭
有蕡其実
之子于帰
宜其家室

桃之夭夭
其葉蓁蓁
之子于帰
宜其家人


書き下し文

桃の夭夭(ようよう)たる
灼灼たる其の華
之の子于(ゆ)き帰(とつ)ぐ
其の室家に宜しからん

桃の夭夭たる
蕡たる有り其の実
之の子于き帰ぐ
其の家室に宜しからん

桃の夭夭たる
其の葉蓁蓁(しんしん)たり
之の子于き帰ぐ
其の家人に宜しからん

現代語訳(口語訳)

桃の木々の若々しさよ。
燃えるように盛んに咲く花よ。
(その花のように若く美しい)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先にふさわしいだろう。

桃の木々の若々しさよ。
たわわに実る桃の実よ。
(その実のように子宝に恵まれるであろう)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先にふさわしいだろう。

桃の木々の若々しさよ。
盛んに茂る桃の木の葉よ。
(その葉のように栄える家庭をもつであろう)この子が嫁いでいく。
その嫁ぎ先にふさわしいだろう。

上の漢詩は結婚披露宴でよく紹介される漢詩です。
桃の花の風景写真を2000年以上も前の中国人の詩とつなげて見るとまた一段と味わいが深くなります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考====
詩経とは:
『詩経』は、中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。
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「今日の日記、大学卒業後59年目のクラス会に出ました」

2017年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
1958年に我々30名は東北大学工学部金属工学科を卒業しました。
茫々59年目のクラス会が東京駅地下のビアホールでありました。亡くなった者4名です。東京近辺の同級生が毎年2、3回集まってビールを飲み昼食を共にします。
今日は8人あつまりました。以前は16名ほど集まりましたが流石に80歳を越えると次第に参加者が少なくなります。

今日の参加者はみんな達観の境地のようで、何を言ってもニコニコ聞いてくれます。老いると人間が穏やかになるのですね。心地良い雰囲気で談論風発してきました。
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山林の中で会った馬場駿と、その創作の世界

2017年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「庄野英二の『星の牧場』に誘われて山林の中に楽しい小屋を作る」という記事を掲載たしました。
少しロマンチックな発想で、43年前に山林を買い小屋を作りました。その東側には牧場がある場所でした。私は庄野英二の『星の牧場』を読んでいたので、牧場のそばの雑木林の中に小屋を建てたのです。
建てて数年した時、山林の中でもの思いにふけりながら散歩をしている若い男の人に会いました。こんな人気の無い山道で会ったので少し話をしました。
彼は後に小説を馬場駿という筆名で沢山書く人でした。

1番目の写真は馬場駿に会った山道です。30年以上も前と同じように人気の無い山道です。
彼は兄の山荘に一緒に住んでいるから寄ってみないかと言います。山荘は約1000坪ほどある山林の中に建っていました。広い山荘に兄弟が2人きりで暮らしています。
私は馬場駿と彼の兄と親しくなりました。
ある時、兄弟は石造りの暖炉が完成したから一緒にビールを飲もうと誘ってくれたのです。
行ってみると暖炉は自然石を上手に組み、間をコンクリで固めた立派な出来でした。
薪を焚きながらよく冷えたビールを男3人が飲むのです。赤く揺れる炎と香しい煙が男たちを楽しくさせます。談論風発です。その上、弟の馬場駿の話が面白いのです。話が小説の文章のようにドラマチックで面白いのです。
その山荘は現在でも兄さんが独りで住んでいます。毎月、私は甲斐駒岳の麓の小屋に行く度にこの兄さんの山荘にちょっと寄ります。
2番目、3番目、4番目の写真は最近のこの山荘の周りの風景写真です。

2番目の写真は山荘の庭に咲いていたカタクリの花です。私が撮った写真です。

3番目の写真は庭にあるモクレンの花です。写真は兄さんが撮ったもので、ブログ「北杜市・自然の中で」、http://sizen068.blog95.fc2.com/ から転載させて頂きました。

4番目の写真の庭先のサクラです。この写真も兄さんが撮ったもので、ブログ「北杜市・自然の中で」、http://sizen068.blog95.fc2.com/ から転載させて頂きました。

さてこうして山林のなかで知り合った馬場駿はその後、静岡県の伊東市に引っ越し、そこで 岩漿文学会を立ち上げ、主宰し、『岩漿』という同人誌を20年間発刊することになったのです。
私は2007年から始めたブログで、この『岩漿』を発刊するたびにその内容を紹介して来ました。馬場駿は『岩漿』に創作した小説を掲載してきたのです。
この『岩漿』は伊東市を始め静岡県の公立図書館に寄贈され地方の文学活動として注目されてきたのです。
馬場駿の創作活動は『岩漿』への執筆だけではありません。以下のような単行本も含めた出版物があるのです。
小説「夢の海」 *愛をのせる秤をください
小説「孤往記」 *なぜ学ぶのですか、青春を彷徨してまで 
短編小説集  *さまざまな愛のかたちを
小説「太田道灌」 *主君に謀殺されるまでの1年間を描く
(小説太田道灌・全文 *本は絶版なので全文をPDFでどうぞ)
埋め草のみやこ *女性になりきって埋め草を書いたもの
そして馬場駿の創作活動は、「馬場駿と蛙声爺」のホームページ、http://aseigansho.web.fc2.com/ に新作を含めて詳しく紹介されています。
末尾の参考資料として最新作の中編小説の冒頭部分をご紹介してあります。

さて私はこの馬場駿と最近、何十年ぶりかに甲斐駒岳の麓の山林の中で会いました。
私は彼の一生は何だったのだろうかと考えています。
彼は間違いなく創作に情熱を注いだ小説家です。その小説は売れませんでした。有名にはなりませんでした。
生活を支えるためにある会社に停年まで勤めていました。私は彼は必ずや充実感を持っていると思います。
そんな人生があっても良いのではないでしょうか。
彼に幸い多かれと祈りつつ最後に先日撮ってきた甲斐駒岳の写真を送ります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:馬場駿の新作、『ヘクソカズラの遺産』=======
「ヘ ク ソ カ ズ ラ の 遺 産」、 馬 場 駿
少 し ゆ っ た り し た ス ラ ッ ク ス を は き 、 赤 い ウ イ ン ドブ レ ー カ ー を 羽 織 っ て か ら ド ア を 開 け た 。 ま だ 薄 暗 い 。
遠 い 空 だ け が も う す ぐ 日 の 出 だ と 教 え て い る 。 百 円 均一 で 買 っ た ホ ル ダ ー の 鈴 が 鳴 ら な い よ う に 、 強 く 握 って 鍵 を 差 し 込 む 。 カ タ ン と 小 さ な 音 が し て 私 は 外 の 人に な っ た 。
考 え て み れ ば不思 議 だ 。 た し か に 泥 棒 の 侵 入 は 防 げる が 、 鍵 を 失 く し た と た ん に 自 分 自 身 も 入 れ な く な るの だ 。 そ の リ ス ク を 外 出 の た び に 冒 し て い る 。
い ま の コ ー ポ ラ ス に 住 み 始 め て か ら ず っ と 、 塩 野 が部 屋 の 中 に 居 る と き で も同じ よ う に し て き た 。 い っ そ鍵 を 失 く せ ば ず っ と 家 庭 と い う名の 檻 の 外 に い ら れ た 。
そ う な の か 。 期 待 し て い た の だ ろ う か 。 心 の 奥 底 の 部分 に 棘 が 刺 さ る の を 感 じ た 。 塩 野 は も う 居 な い の に きち ん と 閉 め た 。 部 屋 の 中 に も 、 外 に も 、 護 る べ き も のは 何 も 無 い の に 。
外 廊下を 歩 く 靴 音 が 身 体 に 響 い た 。 い や 、 い つ も 以上に 大 き く 感 じ た 。 一 睡 も し て い な い の だ 。 き っ と 、そ の せ い だ 。
三階 か ら 二 階 へ と下る 階 段 で 背 広 姿 の 若 い 男 と す れ違 っ た 。
「散 歩 で す か」の 声 に 『 大 き な お 世 話 よ 』 と 心 で 反 発し て 、 朝 の 挨 拶 も し な か っ た 。
三十 所 帯 も 住 ん で い るの に 、 誰 が 誰 だ か 分 か る も の か 。 気 安 く 口 は き け な い 。そ う 思 っ た 。
「朝 帰 り な ん て 、 ろ く な も ん じ ゃ な い わ」と 、 一 階 に下り て か ら 小 声 で 毒 づ い て も み た 。
コ ー ポ ラ ス の そ ば を 流 れ て い る 川 は 嫌 い で は な い 。
最 初 の 頃 は 瀬 音 が 強 い 雨 音 の よ う で 気 に な っ て 仕 方 がな か っ た が 、 い ま は 区 別 も つ く し 、 店 の こ と で イ ラ イラ し て い る と き に は 、 多 少 な り と も 癒 さ れ る こ と が ある 。
塩 野 は 時 折 、 ベ ラ ン ダ に 出 て 小 一 時 間 も 川 の 流 れ を見 て い た 。
何 を 考 え て い る の か と 聞 い た こ と が あ る 。
「川 っ て な 、 違 う 水 が 次 々 に や っ て き て い る の に 、 僕ら の 目 に 見 え る 川 面 の 姿 は同じ な ん だ 。 そ れ っ て 凄 いこ と だ よ」
愚 に も つ か な い 内 容 に 呆 れ て
「布 団 干 す ん だ か ら どい て」と 大 声 で 追 い 立 て た も の だ 。
眼下に 濃 墨 色 の 流 れ が あ る 。 年 に 数 百 回 も 渡 る 橋 なの に 、 手 摺 か ら 身 を 乗 り 出 し て 水 と 話 し た こ と な ど 、一 度 も 無 い 。 た ま に 二 人 で こ の 橋 を 渡 る こ と が あ っ た 。
隣 で 喋 っ て い た 塩 野 が い な い の に 気 づ く と 、 た い が い後 ろ の 方 で 立 ち 止 ま り 、 呆 け た よ う に 川 面 を 見 て い た 。
最 期 ま で 理 解 で き な か っ た 夫 、 そ れ が 塩 野 。
真 正 面 か ら 飛 ん で き た 白 い 鳥 が 、 羽 を 大 き く 広 げ て瀬 に下り 立 っ た 。 じ っ と 見 て い る と 、 長 め の 首 を 左 右に 振 っ て か ら 、 橋上の 方 に 視 線 を 固 定 し た 。
『 ま さ か 』 と 思 い 、 ゾ ク リ と し た 。
来 い と い う の だ ろ う か 。 飛 び 降 り ろ と 。 私 は 合 掌 をす る や い な や 、 足 早 に 橋 の上を 駆 け 抜 け た 。
空 が 少 し 明 る さ を 増 し て き た 。
小 走 り で も 五 十 五 歳 、 年 齢 に は 勝 て な い 。 広 い県道の 横 断 歩 道 を 渡 り き っ た と こ ろ で 、 呼 吸 を 整 え た 。
何 か ら 逃 げ た と い う の だ ろ う 。 自 分 自 身 を 笑 い 飛 ばし た く な っ た 。
『 わ た し ら し く も な い 』
そ う 思 っ て い ま 来 た 橋 の 方 角 に 目 を や る と 、 階 段 です れ 違 っ た 男 が 、 信 号 機 の下に 立 っ て 、 こ ち ら を 見 てい る 。 ス ク ラ ン ブ ル で 青 な の に 動 こ う と し て い な い 。
今 度 は県道 沿 い に 歩 道 を 走 り 出 し た 。
『 い っ た い 何 な の 、 あ の 男 』
ウ イ ン ド ブ レ ー カ ー の ポ ケ ッ ト か ら 携 帯 電 話 を 出 し 、操 作 を し な が ら 逃 げ る 。
「マ サ ル さ ん 、 す ぐ 来 て 。 お 願 い 、 何 だ か変な 男 に 尾行 さ れ て る」
「分 か っ た 、 き の う の 今 日 だ 、 ま だ 近 く の ホ テ ル に いる」
叔 父 の 即 答 に 、 う っ か り 目 頭 を 熱 く し た 。
夜 明 け の 街 で 開 い て い る 店 と 言 え ば コ ン ビ ニ エ ンス ・ ス ト ア だ 。 叔 父 は 約 束 の 場 所 に 、 タ ク シ ー で や って き た 。 幸 い に も 電 話 を か け た 時 点 で 、 す で に 起 き てい た ら し い 。 連 絡 し て か ら 十 五 分 と 経 っ て い な い 。
嬉し い こ と に 、 店 の 片 隅 が 小 さ な 喫 茶 店 の よ う に な
っ て い た し 、 客 は 私 一 人 だ っ た 。
「何 だ い 、 男 な ん か に 頼 ら な い 主 義 じ ゃ な か っ た の か」
「こ ん な と き ぐ ら い い い じ ゃ な い 。 そ れ を 、 の っ け から 皮 肉 は な い わ よ」
か ら か わ れ る の に は 慣 れ て い る が 、 私 が 口 を 尖 ら せて 抗 議 し た の で 、 叔 父 は 急 に 真 顔 に な っ た 。
・・・・以下省略。
続きは、http://aseigansho.web.fc2.com/hekusokazura1.pdf に御座います。
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庄野英二の『星の牧場』に誘われて山林の中に楽しい小屋を作る

2017年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
少しロマンチックな発想かも知れませんが私は43年前に山林を買い小屋を作りました。
その少し前に、私は庄野英二の『星の牧場』という本を読んでいました。この小説の内容はつぎのようなものでした。復員兵イシザワ・モミイチはインドネシアで戦ってきたが、愛馬ツキスミを失い、記憶を失っていたのです。彼が山中の牧場に辿りついて、音楽を演奏するジプシーたちと出会い、そこで心の癒しを得るのです。空には満天の星が輝いていました。・・・そして幻想的な話が続きます。
この牧場の上の満天の星空という光景が心に焼き付いてしまったのです。
それ以来、牧場のそばの雑木林の中に小屋を建てるのが夢になりました。
そんな折、1973年の頃でしたか、新聞に「別荘を建てる山林を格安で売ります」という広告を見ました。
早速、広告主の不動産屋さんへ連絡しました。牧場のそばの山林を買いたいと言ったら、丁度良い山林がありますから現地をご案内しましょうと答えるのです。
現地に小学生だった息子と行ってみるとその山林は牧場から白樺が混じっている雑木林を通リ抜け、その先の崖を下りた谷間のような土地です。
谷間に大きな松の木や雑木が生えた暗い林でした。そしてその松林の西側には花崗岩が白く輝く甲斐駒岳が高々と聳えていたのです。
暗い、じめじめした谷のような場所なので躊躇していたら、不動屋さんが、「この一画を買うと庭の中をヤマメのいる清流のある別荘が建てられますよ」と真剣に薦めます。
「ヤマメの棲む清流」に負けて買う決心をしました。何本も樹を切って貰い、小さな鉄筋コンクリートの小屋を建てました。
さて「星の牧場」ですが、それは小屋の前の崖を登り、白樺の雑木林を通って行くと広い牧草地に出ます。
乳牛を30頭ほど飼っている牧場です。石原さんという一家が牛の世話をしています。
早速、挨拶に伺い、すぐに親しくなりました。気持ちのよい家族でした。祖父、祖母、中年の夫婦に小学生くらいの息子が2人いました。私どもも子供が2人いたので乳牛をよく見に行きました。
山林の小屋に泊まっていると、石原さん一家の祖母が孫の小学生とともに一升瓶に入った牛乳を何度も届けてくれました。
その上、春には筍を掘ってくれるのです。正月には赤飯やなまこ餅もくれるのです。
夏の夜にはその牧草地にあがって天の川を見上げました。周囲が暗いので星々が鮮明に見えるのです。
夏の夜空を見上げていると宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という幻想的な物語を思い出します。
北西の方角には八ヶ岳が見え、大泉村らしい集落の家々の灯が小さくチラチラ見えます。
それはまさしく庄野英二の『星の牧場』のなかに出て来る光景と同じようだったのです。
そこは星の美しく見える高原なのです。
その牧場の先には『星山荘』という民宿もありました。何度も泊まった民宿です。おばさんが花が好きで何時泊まっても庭に花々が溢れていたものです。
この山林の中の小屋が完成したのは1974年です。それ以来、毎週、毎月のように通いました。
いろいろな楽しい思い出がたくさん出来ました。
完成以来、茫々43年です。
牧場をしていた石原さんも乳牛を飼うのを止め、生活に便利な集落に立派な家を作り悠々と暮らしています。お世話になったので時々寄りお礼をします。
何度も泊まった『星山荘』も廃業しました。お世話になったので寄りましたら、ご主人とおばさんが仕事が辛くなったので民宿は止めましたと笑顔で言っていました。
山林の小屋から下って、一番近くの集落にあった大きな食品店の野本屋さんも高齢になったので店仕舞いをしてしまいました。よく食料品やビールを買ったものです。
そして鹿肉や猪肉も買った沓川肉屋さんも店仕舞いです。
こうして私の山林の小屋のまわりが淋しくなりました。
しかし甲斐駒岳や山林の風景は43年前と同じです。
写真を数枚、示します。

1番目の写真は私の小屋の西に聳える甲斐駒岳です。

2番目の写真は石原さんの牧場の東にある真原の風景です。この写真の東側に『星山荘』がありました。

3番目の写真も真原の風景です。

4番目の写真は私の小屋の庭を流れる小川です。ヤマメが棲んでいましたが最近は見たことがありません。

5番目の写真は山林の中の小さな、小さな小屋です。最近はイノシシや猿や鹿が急に多くなりよく見かけるようになりました。
こんな山林の周囲の人々も年々歳歳、しだいに年老いていきます。
しかし自然の風景だけは変わりません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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「今日の日記、新緑の写真を撮りに薬草植物園に行く」

2017年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は朝から抜けるような碧い空が広がり薫風が吹いています。
午前中は教会のミサに行きました。
午後から若葉青葉の写真を撮ろうと津田塾大学のそばの玉川上水の新緑の下を車を走らせ都立薬草植物園まで行きました。
植物園では薫風の中を散歩しながら爽やかな緑を楽しみました。
新緑は長い間眺めていても飽きないものです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。








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あなたは仏教を欧米人へ説明できますか?

2017年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
あなたはキリスト教のことを知っている欧米人へ仏教のことを説明出来ますか?
私は彼等に仏教とはどういう宗教ですかと聞かれて非常に困ったことが何度かありました。
第一、自分自身が佛教とはどんな宗教なのか理解していなのですから、他人へ説明できる筈がありません。
そこで付け刃のように仏教の入門書を読み、その内容を自分流に勝手に要約して欧米人へ説明して来ました。勿論、私の説明は間違っていると思います。ですから必ずこれは私の間違った理解かも知れませんが、と話し始めます。
それともう一つ注意すべきことは彼等はキリスト教と比較すると仏教に興味を持つということです。
従ってキリスト自身の布教活動と比較出来るように釈迦の生い立ちや宣教活動から説明します。
それから仏教がインドから中国に伝わり、空海や最澄によって日本へ伝承された様子を説明します。
その後で私の好きな曹洞宗の座禅の話をします。
最後に仏教の教えを釈迦が弟子のシャーリプトラに話した『般若心経」の概意を私の理解した範囲で説明します。
これでお終いにします。
そこで以下にこの順序で説明いたします。これは自己流の説明ですから大いに異論があると思います。

(1)釈迦の誕生と菩提樹の下で悟りを開いた経緯
以下は、http://www.kotobuki-p.co.jp/manabu.htm からの抜粋です。
佛教の開祖は釈迦です。生没年正確には分かっていません。前565年生まれ、前 486年に亡くなったという説と、前 465年生まれ、前 386年に亡くなったとう説などが有力とされています。
釈迦は北インドの一部族の名でした。
俗姓をゴータマ、名をシッダルタといい、現在のネパール南部のターライ盆地にあったカピラバスツー城で、シュッドーダナ(浄飯)王を父、マヤ(摩耶)夫人を母として生まれたといいます。
国王になるための教育を文武両面で受け、16歳でヤショダラ(耶修陀羅)女と結婚、1子ラーフラをもうけたが、29歳(19歳説も)で出家します。
出家した後、11年間にわたって苦行を続けたが、肉体を苦しめるだけの苦行では目的が達成できないことを知ったのです。そして菩提樹の下で思索、瞑想にふけり、35歳で成道します。
悟りを得た釈迦はサールナート(鹿野苑=ろくやおん)に行き、かつての同僚であった5人の修行者を相手にはじめて説法をします。
その後も釈迦は一カ所に止まることなく、主としてガンジス河の中流域で、民衆の問に応じてさまざまな教えを縦横に説いたそうです。
故郷でも父王や親族に自らの悟りを伝え、導きました。
西に東に、北に南に。教えを説く旅を死の寸前まで続けた釈迦は、80歳でクシナガラで入滅しましました。
教えの中心は全ては空と信じれば、自我に対する執着によって生じる苦悩から自由になることができると説いたのです。
釈迦の教えは、キリストの説法のように譬喩や例え話が多く、わかりやすかったのです。
実践の方法も極端な苦行などを避け、倫理を重視した方法を用いたので、さまざまな階層の人々に受け入れられました。

その教説はキリスト教と同じ様に生前は筆記されませんでいた。亡くなった後、数度にわたる議論の後で弟子たちが多数の仏教経典としてまとめました。
1番目の写真は1世紀ごろ北インドのガンダーラで作られた釈迦の像です。

この釈迦には十人の弟子がいました。
十人の弟子たちはそれぞれにそれぞれの分野で道をきわめた人たちであり、智慧のシャーリプトラ(舎利弗)や、神通力のマウドガリャーヤナ(目蓮)や、頭陀行のマハーカーシャパ(大迦葉)などの10人でした。
釈迦は菩提樹下で成道し、80歳で入滅するまで北インド各地で教説をしました。
当時インドで大きな勢力を誇っていたバラモンの哲学を打ち破り、カーストによる差別を認めない立場を貫き、人間の平等を訴えたのです。
仏教の最大の特色は、神と人との関係において宗教が成立するのではなく、人間自身に根ざし、人間自身の生き方を根本問題とするところにあるのです。

(2)仏教の中国への伝来
仏教が中国へ伝来したのは後漢の明帝の永平10年(67)とされますが、紀元前後にも西域諸国を通じて、すでに伝えられていたと考えられています。シルクロードを通って、仏教は中国に伝来したのです。
後漢末から魏・西晋時代になると、インド、西域から来朝する僧も多くなり、経典の翻訳も行われ、次第に世間の注目を集めるようになった。
西域から鳩摩羅什が入朝し、経典を数多く翻訳、中国独自の仏教の発展に大きく貢献します。
特に玄奘三蔵法師はインドに16年も滞在し経典を収集し中国へ持ち帰りました。
現在、日本で読まれている全てのお経は玄奘三蔵法師の漢訳によるものなのです。

(3)仏教の日本への伝来
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされています。
平安時代になると空海及び最澄が遣唐使とともに中国に行き、密教を学んだ。そして最澄は比叡山に天台宗を開き、空海は高野山み真言宗を開いたのです。

(3)鎌倉時代の宗教改革と曹洞宗の成立
鎌倉時代に入ると、それまでの仏教が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式のための仏教だったものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのです。
叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られます。
こうして生まれが「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける事で救われるとする浄土宗、浄土宗からさらに浄土真宗(一向宗)、時宗が生まれたのです。

(4)日本における曹洞宗の成立
鎌倉時代の宗教改革で臨済宗、曹洞宗の2大派も生まれました。
私の父方の祖父は曹洞宗のお寺の住職でしたので曹洞宗のことを少しご紹介いたします。
日本の曹洞宗は道元が鎌倉時代に中国から導入したものです。
座禅こそが釈迦の教えを理解する唯一の方法であるという考えです。
曹洞禅は臨済禅と考え方がやや異なり、公案は用いず只管打坐、ただ座るということを重んじています。座禅は仏のはたらきを理解する方法として座禅をします。そして日常生活の全てが座禅と同じだとして重要視されています。
道元は、極めて厳格で、格調の高いものであり、一般に広まる性格のものではなかったのです。しかしその門下の瑩山紹瑾(1268~1325) が禅を大衆化し、現代の大教団の基礎を築いたのです。瑩山紹瑾は、石川県の能登に総持寺を開創しますが、明治に入って火事にあい、横浜の鶴見に移っています。現在、曹洞宗は道元の開いた福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとり、道元を高祖、瑩山を太祖として尊崇しています。

(5)仏教の教義のエッセンスとしての 般若心経
仏教の教義のエッセンスは般若心経にあると言われています。
そこで般若心経にはどのような意味があるのか、般若心経の現代語訳と共に、流れなどをご紹介いたします。
以下は、http://www.osohshiki.jp/column/article/138/ からの抜粋です。
2番目の写真は4つの文節に分けた般若心経です。それぞれの文節毎に意味を確認してみましょう。

■各ブロックの説明を下に示します。
①「誰がどのように般若を得たか」
第1のブロックでは、誰がどのようにしてこの知恵を得たのか、ということが説明されています。
観音菩薩が悟りを得る修行の中で、この世の五蘊(ごうん)には実体がないことを明らかにし、苦しみから解き放たれる方法を見つけたことが書かれています。
②「弟子への呼びかけ」
第2ブロックでは、10人の弟子の一人である舎利子(シャーリプトラ)に呼びかけています。
1行目には、「この世の形あるもの全てに実体がなく、実体がないからこそあらゆる形を得ることができる。これは人間の感覚についても同じである」と書かれています。
2行目には、「実体がないのであれば、生まれることもなく、消えることもなく、汚れることもなく、清らかでもなく、増えもせず、減りもしない」と書かれています。
③「空の思想の説明」
第3ブロックでは、第2ブロックでの呼びかけに続く形で、空の思想についての解説がされています。
真実の世界では、目に見えるもの、それによって感じたこと、思ったことなどは全て存在せず、それらの無知からくる悩みもありません。
しかし、その悩み自体は尽きることがありません。苦しみはなく、それを解決する方法も、それを知る方法もありません。
だからこそ、苦しみを知る観音菩薩はこだわりを持たず、全ての夢想・欲から離れることで涅槃(ニルヴァーナ)へと至ることができたのです。
④「般若心経の真言について」
第4ブロックでは、その悟りの境地に至るための真の言葉について説明しています。
この真理の言葉は並ぶことのない言葉であり、これにより苦しみは解き放たれるとされていて、それこそが般若心経なのです。
真理の言葉は「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」の部分で、
これには「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」という意味があります。

般若心経の意味が以上ですが、もっと分かり易い意訳もあります。下に示します。
★ 般若心経 新訳;http://blog.goo.ne.jp/triarrowstar/e/de2310ff6cb1b632fef1f5ec2d299787

超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。・・・・以下略

さて表題の「あなたは仏教のことを欧米人へ説明出来ますか?」という問題に戻ります。
私は上に書いた(1)と(5)だけをを簡略に説明します。
全ては空だという部分は、All is empty.と言います。そしてLife is meaningless! と言います。しかし、Life is dingerous.とも言います。
欧米人が神の居ない仏教は宗教ではないと言います。釈迦をキリストとみなして崇拝すればそれも宗教と定義されるのですと言います。
欧米人は分からないという顔をします。そしたら私も分からないのだから無理もないと応じます。それでお終いになります。

彼等は疑問なのであとで本を読む人もいます。それで良いのではないでしょうか?
最後に日本人が誇りにしている法隆寺の写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」

2017年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
はじめに、
私は19歳で、 1962年に、ブラジルへ移 住しました。 農業の目的が 途中で変わって、 通訳として、 日系の自動車部品製造会社に勤めました。そのおかげで、日本から派遣して来られる 駐在者の好意で、新聞、 週刊誌、 月刊誌、単行本などの読みさしをふんだんに 読め、日本の政治や社会の変化を知りました。ですから日本の社会から 断絶しないで過ごせました。
また、仕事のおかげで 数回日本の土を踏むこともできました。 今は、74歳で、年金生活をしています。 さて、自己紹介は、これで終わりにして、 以下、ブラジルに、 半生を送った日本人の眼から見えたブラジルのあれこれを紹介いたします。

(1)ブラジルでの日本人への高い評価
ブラジルで、 日本人移民は実直で、仕事に精を出す民族として 尊敬されています。ブラジル南部では、日本人移民無しでは、都市での食生活が成り立たない程、農産物の分野で貢献していると言っても、決して過言ではありません。 野菜、果物、養鶏、養魚等の面で、全消費量の八割強の生産品が、日系人の手によるものと認められています。
私は、ブラジル東北部に住んでますが、ここでは日本人にお会いするのは稀です。
グロバリゼーションが世界の隅々まで進んでいる今日でも、私の住んでいる地方には日本人はめったに来ません。
この地方に長く住んでいますが、人種差別を感じたことはありません。

2006年の話になりますが、ごく親密であった移民家族の娘さんが 結婚しました。当時、 ヨーロッパ諸国で移民者の不満分子が、 多数のバスに放火していた事件がありました。その事件がブラジルでも報道されていました。
そこで私のスピーチの時に、それにふれました。そして次のような祝辞を述べたのです。
"ヨーロッパへ移住した移民達は、差別に耐えられず、暴力的な抗議を多発させているけれど、私共は、ブラジルの皆様の寛容偉大な心に受け入れられ、本当に、 ありがたい事と思っています。ブラジル国民の受け入れ態勢の良さは、世界中から認められています。 この素晴らしい国に感謝を表すためにも 益々奉仕の気持ちで生きたいと 思います。この皆様の国民性に加えて、100年前から移民して来られた 日本の 先輩達が、皆様と仲良くすることに努められ、仕事熱心の定評を築いて下さった恩も、忘れられません。 これから、家族になる新しい夫婦も、ご先祖の御恩に報い、ブラジルの地で互いに善いところを認め合い、助けあう暖かい家庭を作っていくことをお祈り申し上げます。これからも、至らない新郎新婦たちを、どうぞ宜しく善導して下さい"
私はブラジル国民は、本当に偉大な心を 持っていると信じています。

(2)ブラジルの移民の歴史と移民たちによるブラジルの繁栄
ブラジルへの各国からの移民は、129年前の奴隷制廃止がきっかけで始まりました。始めの頃は、奴隷の代わりに移民労働者を似たような環境に受け入れたのです。
そのような 苦境にもめげずに、ヨーロッパから来た移民も、日本から行った移民も、よく働き、子孫に良い教育をし、ブラジル国の発展に尽くしました。移民の同士は全然差別されませんでした。ブラジルは人種差別の無い国なのです。
特に、日本の子弟達の勉学熱心は目を見張るものがあり、一時、"大学に入りたい者は、日系二世を殺すべし。" というジョークをよく聞いたものです。それは、日系には、勉学ではとても勝てないと言う意味です。これも、長い歴史を通じて、日本で "不言実行"の国民的教養を築かれた御先祖様の贈り物と、感謝しています。
日本移民者の方々の、謙遜融和的な態度、効率高い働きぶりを目の当たりにし、日本の美しい歴史文化の情報に触れた 人々は、本気で、喜んで、親日家になられるようです。 ブラジルには、日本に憧れる人が、本当に沢山います。日本の責任は重いです。

上に、都市住民の台所に直結した農業に従事した日系移民者の成功に触れましたが、ヨーロッパ移民、白系の人々の移民者が定着している地域でも、同じような良い現象がみられます。最南端、南大河州では、畜産、葡萄酒産業、そしてサンタカタリーナ州には、織物業、ビール産業が大きな成果を実らせています。
移民者がそれぞれの祖国で教わった事を実行し、その上に、その祖国との、情報、技術交換や技術者の移住等が 積極的に振興された事が、ブラジルでの産業発展の遠因となっていることは、明らかです。
移民を推進した結果が、時を経て、このような収獲に繫がっている事を確認できることは、本当に幸せなことです。

(3)ブラジルにおける貧困層の存在と問題点
1888年に、解放された奴隷の子孫は、 しかし、130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。
この貧困層の問題点は、教育不足、就職難、悪い道への下り坂などです。
貧困層も住むスラム地域には、黒人系が多く、教育不足、就職難、悪い道の悪循環が有ります。
その事実を考える時、イエスキリストが言われたという言葉を思い出します。"私は、多く持つ者に多くを与え、持たない者からは、その少ない物もとりあげる。" (善い信念を多く蓄えなさいと言う教え。)
私がブラジルで、高校、大学に学んだ際、ビックリしたのは、貧乏が食物不足を生み、その子弟達は、餓死寸前の環境に何年も過ごすことになります。 そこで、脳が発達出来ず、知能の発達を妨害している事実を医学が認めているのです。
この貧困層の問題を私が初めて知った時の驚きと暗い気持ちを忘れられません。
そこでブラジルの貧困層の歴史を調べました。
奴隷解放の当時は、解放された奴隷たちが、途方に暮れて、餓死を余儀なくされていたのです。この悲劇は短い期間ではなかったのです。生活能力が無い人々は、野垂れ死にするより手段が無かった時代が暫く続いていたらしいのです。
最底辺での生活者の間で、真面目に話題にされる事の一つに、"では、又 どろぼうでもして、暫く、刑務所で過ごす事にしようかな。あそこでは、飯の食い上げはないからなぁ。" というのがあります。
肌の色では無く、人種ではなく、腹の空き具合が、問題である群衆が、水面下に、もがいていた事が、昔のブラジルの歴史の中で、何度かあったわけです。
昔あったし、現在もあるようです。
警察の一つの仕事に、奴隷的労働条件下の雇用の摘発があります。時々ニュースになります。街にも田舎にも、金儲けだけを目的にしている悪徳事業主がたまには いるようです。背に腹は替えられないと言われているように、餓死を恐れ、なんでもする気の人がいつもいるらしいです。
従って現在のブラジルは、経済的、 政治的、道徳的、治安的に、凄く厳しい情勢です。
上は、大統領、宰相たちから、下は、町役所の公務員に至るまで、汚職が満延しています
真面目な労働者や納税者は、ピエロの様に、嘲笑の対象にされている感さえあります。 有識者指導階級の方々の善策で、是非 秩序と繁栄を回復して欲しいと願うばかりです。

(4)それでも私はブラジルを愛す
ブラジルの美点は、世界中の民族の血潮が此処に、渦巻きながら融和し、それぞれの発祥地の文化遺産を継続しながらブラジル化して、お互いに批判せず仲良く暮らしていることです。 批判するのは良くないから、批判しないよう努力しているのでは無く、沢山の異種なものが 混在している状況が、ブラジルの自然な現象なので、批判の根拠がないのです。
大きな大陸で、人類の坩堝と呼ばれる社会で、違う人種、違う伝統、違う美術、違うもの、違う定義が混在している空気を、毎日呼吸することは、それだけで、心の拡大や解放になります。
ただし、正直さを全く無視する思想だけは、大目に見てはなりません。
神様の 万物に及ぶ大きな愛と知恵を皆様が実践されて、最低限の必需品にも恵まれない人々が早く神の子らしい、豊かな生活に入れる様な善政を敷いて欲しいものと思います。各自その方向へ努力をしたいものです。何と言っても、ほんとうの教育が 望まれます。 神仏の法愛に触れられる様な、謙虚、善行を教える良い教育と、干ばつに耐えられる全国的な植林をこの大国にみんなで実現したいものです。
私はこのブラジルを愛しています。
では、皆様のご健康と益々のお幸せをお祈りいたします。(続く)

この記事の挿し絵は著者の平峰さんご自身でとった 二つの 都市の写真です。

後藤和弘による後書き
平峰盛敏さんとはFace Book で知り合いました。私の記事へ建設的で公平なコメントを下さる方です。
長い間、ブラジルに在住しています。その国は地球の反対側にある遠い国です。きっと日本人の知らない面白いことを沢山ご存知だろうと思いご寄稿をお願いいたしました。
連載記事になるようにブラジルのいろいろな分野の珍しいお話を書いて下さるように頼んであります。楽しみにしています。
第一回の今日の記事は19歳で太平洋を渡り移民して以来、ブラジルで感じたことを概観的に書いて下さいました。
平峰さんは日本を出る際、結婚し、あとから、奥様とお母様がブラジルへ行き幸せな家庭を作りました。七人子供ができました。八人の孫がいます。東京の三鷹に、四女様が家庭を持っています。9番目の孫を待っているという事です。長女様も神奈川に勤め、家庭を持っています。まもなく二番目のひ孫が生まれる予定だそうです。
平峰盛敏さんはブラジルの社会に溶け込み言葉も流暢に話しているようです。彼のFace Bookを見るとポルトガル語でいっぱい書いてあります。ブラジルを愛していますが祖国、日本を誇りにしています。こういう方を「成功者」と言うのかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









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口腔リハビリステーションとは何か?そして言語聴覚士とは?

2017年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢になると口が不自由になります。歯も悪くなります。たべものも呑み込み難くなります。声もしゃがれます。ろれつが回らなくなり会話が流暢でなくなります。誤嚥やむせることも多くなります。
このような問題に取り組み問題を解決するのが『口腔リハビリテーション・センター』です。
勿論、口腔リハビリには乳幼児の言語発達や吃音の問題や成人の失語症も診療し、問題解決をしてくれます。
このような口腔リハビリを行ってくれる施設が最近少しずつ増えてきました。
私の住んでいる小金井市には日本歯科大学が作った口腔リハビリのセンターがあります。
老人介護保険の対象になっている私もこの施設のお世話になっています。口腔リハリビとは何か分からないのに市役所の福祉課が行くように薦めてくれたのです。
そしてこの立派なセンターを作った菊谷教授のお話を聞き、はじめて口腔リハリビの重要性が分かりました。
数回通い咀嚼、嚥下訓練に通った後で、『日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックと菊谷武教授を讃える』という記事を2017年02月18日 に掲載しました。

このセンターはJR東小金井の駅前にある立派な建物です。広い駐車場もあります。毎週、車で10回通い、咀嚼と嚥下のための歯の治療と舌の筋肉の訓練をしました。
この全国的に有名な口腔専門の施設を作ったのが菊谷 武教授です。2月18日掲載の前回の記事で菊谷先生の業績を詳しくご紹介してあります。
1番目の写真にこの日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックのy建物の写真を示します。

2番目の写真はこのセンターのスタッフの写真です。菊谷教授は前列の中央に写っています。
この写真の出典は、http://dent-hosp.ndu.ac.jp/nduhosp/tama-clinic/ です。

そして3番目の写真は2月以来」10回の咀嚼、嚥下訓練と歯の治療をしてくれた岩渕 信歯科医の写真です。


さて10回の咀嚼、嚥下訓練の後で、この4月から私の話す言葉を明瞭にする訓練が始まりました。
そこで今日は4月から始めた言語機能訓練の様子を具体的にご紹介したいと思います。
最初に少し専門的な説明をします。
言語聴覚療法とは、病気や交通事故、発達上の問題などで、損なわれた言語、聴覚、発声・発音、認知などの機能を少しでも良くしようとする治療法です。
この治療は以下のように「乳幼児・学童期」と「成人」とによって違います。
【乳幼児・学童期】
うまく発音できない、また、お口の中の器質的な問題からおしゃべりが上手ではない、どもってしまう・声がうまく出ない・聞こえが悪いなどによる、発達の遅れ・自閉症・学習障害などの治療を行います。
【成人】
脳卒中や神経疾患、腫瘍の術後、事故などの後遺症から起こる構音障害や高次脳機能障害(失語症や記憶障害など)、認知症にともなうコミュニケーション障害、音声障害、聴力障害などの治療を行います。

私の場合はろれつが回らないので妻とのコミュニケーションがつかえることが時々あります。
筋肉の動きをコントロールする小脳が委縮して行く一種の病気を持っているのです。歩くとフラフラします。転びやすくなります。ろれつが回らず言葉が不明瞭になります。治療法が無いので難病の指定をされています。従って介護保険の適用を受けています。
そこで会話能力を改善する訓練を受け始めたのです。
4番目の写真にその指導をしてくれる言語聴覚士の橋本久美先生の写真です。

この橋本先生は教育系の有名大学を卒業し、発達障害児童の特殊クラスの先生の資格も取得しています。そして国家資格の言語聴覚士もとっているのです。
資格のことは後で知ったことですが、一番感動したことは具体的かつ適切な指導法です。
はじめてお会いした時、明言したのです。「高齢者のロレツを回るようにすることは易しいことではありません。しかし適切に訓練すれば良くなるものです。明快な会話が出来るように訓練してあげます」と言い切ったのです。
そして「北風と太陽」という童話を取り出して、朗読してくださいと言います。
なんとか読んだら以下の指導をうけました。
「単語は意味が分かるように一つ、一つ区切って明快に発音すること」と、もう一つは「文章の語尾は明瞭に発音し、そこで一回区切ること」でした。そしてろれつが回らないと、ついいそいで大声で話しがちですが、落ち着いて小さな声でゆっくり話せば、会話が順調になりますという指導です。
帰宅して、さっそく妻との会話に応用しました。妻は会話が流れるので「急に良くなった」と喜んでくれました。
それ以来、毎日、新聞小説を朗読しています。朗読には「単語は区切って明快に発音すること」と「文章の語尾は明瞭に発音すること」さえ実行すれば、朗読を聞く妻も文章の意味が分かります。

さて話をもどします。
言語聴覚士の橋本久美先生の守備範囲は高齢者特有のコミュニケーションの指導だけではありません。
乳幼児・学童期の、「どもってしまう・声がうまく出ない・聞こえが悪いなどによる、発達の遅れ・自閉症・学習障害など」の治療も行っているのです。
そのような子供を持った母親にとっては深刻な問題です。それに対応するのが「言語聴覚士」なのです。
世の中にはいろいろなプロフェッショナルな人々がいるものです。「言語聴覚士」もそのような人の助けになる貴重な存在なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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