後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「甲斐駒岳山麓の花畑の写真を撮って来ました」

2019年08月31日 | 日記
昨日は秋雨が降ったり止んだりでした。山梨県と長野県の県境の甲斐駒岳山麓の花畑の写真をと撮って来ました。
夜はまたホテル・スパシオ小淵沢に泊まりました。
今日は晴れて八ヶ岳が美しく見えました。
秋の花畑の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。









中国共産党員と親しくなり中国社会の実態を知る(4)

2019年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
中国は世界2位の経済大国です。日本のすぐ隣にある国です。日本の経済と安全保障にとって日中友好が非常に重要なことは明々白々です。
この日中友好を深く進めるためには中国人の心の奥を理解することが大切です。中国人の政治に対する本音を知るのです。
中国人が本当に好きな政治家は周恩来と胡耀邦です。しかしそれは言えません。言うと実生活の上でいろいろと不都合なことが起きるからです。特に胡耀邦は禁句です。共産党が胡耀邦のことを喋ったり書くことを厳禁しているのです。しかし中国人の本音では周恩来と胡耀邦を絶対に忘れません。

今日はこの周恩来と胡耀邦のことを書いてみたいと思います。
さて中国には二つの天安門事件が起きました。1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件です。周恩来と胡耀邦の死を悼んだ民衆が天安門広場に集まったのです。その民衆を共産党中央権力者が武力で蹴散らした事件です。
中國人は周恩来と胡耀邦を慕っていたのです。愛していたのです。
以下に二つの天安門事件を簡潔に書きます。

(1)周恩来の死と第一次天安門事件
1976年4月5日に北京市にある天安門広場において、1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されました。
激昂した民衆がデモ鎮圧隊と衝突しまし、共産党の軍隊に武力で鎮圧された事件です。これを第一次天安門事件と言います。
この4月5日の鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動も第一次天安門事件に包括して言う人もいます。
第一次天安門事件では死傷者が少なかったので日本ではあまり重要視されません。しかしこの事件は中國人の本音を知る上で大変重要な事件だったのです。
昨日掲載した記事では私が1981年に実際に見た周恩来追悼行事の光景を書きました。
  
(2)第一次天安門事件と第二次天安門事件の間に何が起きたか?
1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件の間に中国は激変しました。鄧小平が市場経済へと大きく舵を切ったのです。
1972年から1989年までの17年間の日中関係は熱烈友好の時代だったのです。
1972年には田中総理と大平外務大臣が訪中し、周恩来首相と交渉を重ね、「日中共同声明」を発表し、ついに国交回復をしたのです。

1番目の写真は田中角栄首相が交渉した周恩来総理の写真です。
毛沢東主席も周恩来総理もこの後の1976年にあいついで亡くなります。
その後の実権を握ったのは鄧小平でした。

2番目の写真は鄧小平とカーター大統領の写真です。1979年に鄧小平が訪米し、ジミー・カーター大統領と会ったときの写真です。
鄧小平は終始一貫、日本と友好政策をつらぬき、1978年には「日中平和条約」の批准書を交換するために日本を訪問しました。そして昭和天皇を訪問し、新日鉄、君津製鉄所を見学し、新幹線に乗ってトヨタ自動車を見学、その後京都や奈良の観光もしたのです。

3番目の写真は1978年に鄧小平が昭和天皇を表敬訪問した時の写真です。
中国の権力トップの人物が日本を訪問するのは日中の歴史で初めてのことでした。
これに答えて、新日鉄は上海に宝山製鉄所を建設し、トヨタは中国に自動車の生産工場を作りました。
日本政府は多額のODAを提供し、外務省のJICAは多数の技術者や専門家を中国へ派遣したのです。
そして日本の企業は中国の工業特別地区に工場をつくり生産技術を伝えたのです。
この1972年から1989年の間は中国は日本の歴史認識や靖国神社問題で日本側を一切非難しなかったのです。
しかし1989年の天安門事件が起き、その後に権力の座に登った江沢民はまったく鄧小平の親日政策を逆転し、激しい日本非難を繰り返すようになったのです。

(3)胡耀邦の死と第二次天安門事件
まず胡耀邦のこと書いて置きたいと思います。
彼は、1981年から1987年まで中国共産党主席でした。
胡耀邦さんの行ったことを3つだけ紹介いたします。
1)1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われています。
ラサで共産党幹部らに対する演説で、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁したのです。
更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放しました。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回されたのです。

4番目の写真は胡耀邦です。

2)1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請(当時交渉を担当したのは胡錦濤)。
日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案しました。胡はこれに賛同し、他方胡は、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせたのです。

5番目の写真は中曽根首相と会談する胡耀邦です。

3)1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去します。
その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していったのです。
五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生や市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展します。
ここで胡耀邦の弟子だった趙紫陽総書記が学生運動に同情的な発言を行います。それが致命傷になり、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとして趙紫陽も失脚しました。
胡耀邦は人民服ではなくて西側の背広を真っ先に着込み、フォークとナイフを使い、合理的なことは何でも取り入れる柔軟な指導者でした。
胡耀邦の墓は中国首脳の指定墓地である北の八宝山公墓ではなく、李昭夫人の希望により江西省の共青城にあります。
中国共産党が胡耀邦の記憶を抹殺しようとすればするほど益々中国人の心に深く刻まれて行くのです。そして胡耀邦と周恩来を絶対に忘れません。
そんな中国人に私は強い親近感を持ちます。同情し尊敬します。
これこそが日中友好の基礎になるのではないでしょうか?
そして現在の習近平主席は第一次天安門事件と第二次天安門事件から何を学んで政治を行っているのでしょうか?
国民の関心を世界覇権と一帯一路政策に向けさせ共産党独裁への不満を弱めているようです。
あまり長くなるので今日はこれでお終いにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「旧懐の情かきたてる昔の自動車の写真」

2019年08月30日 | 日記
戦前、1936年から1938年の日産のダットサン乗用車の写真です。

日本で初めて量産された乗用車で、4気筒、722cc、でした。
いずれも以前に河口湖自動車博物館で撮りました。





中国共産党員と親しくなり中国社会の実態を知る(3)

2019年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は中国政府の指示を無視して周恩来の追悼行事をする人々のことをご紹介いたします。
中国人は唯々諾々として政府の言うことに従っている訳ではありません。時と場合によっては立ち上がるのです。
政府の指示を無視した周恩来の追悼行事がやがて21989年の天安門事件へと続くのです。現在は経済発展で生活が年々良くなり、かなり満足しているので反政府運動は顕在化していません。
しかし中国人は絶対に文化革命時の悲惨さと、民衆を救おうとした周恩来を忘れません。民主化を進めて失脚した共産党総書記、胡耀邦と趙紫陽を忘れません。
今日は私が実際に見た反政府の周恩来追悼行事の光景を書きます。
地下室で見た中国人の本音です。
中国の首相、周恩来が1976年に死にました。中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会や集会を禁止しました。周恩来の人気が高すぎるので政権内に混乱が起きるのを恐れたのです。この政府による禁止命令は1980年代まで続きます。

1981年に北京に行った私に、2年前ベルサイユ宮殿で知り合った周栄章さん(北京鉄鋼学院教授)が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、大学の地下3階の部屋でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。
そしてその大学の学生達が集まっていて、周恩来が出した文書などを静かに読んでいたのです。
周さんは「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と興奮した様子で私に言うのです。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。

深い恩ある人の死に対して嘆き悲しみ、追悼する。これは人間共通の普遍的な心情です。
このような光景を見て中国も日本も人々の考えは全く同じだと確信したのです。
中国人は恩人を絶対に忘れません。
中国の東北部にある瀋陽に行った時、東北工科大学の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で話しかけてきました。
そこで私は、東北大学で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しました。
すると陸学長は、「日本人にはいろいろな人がいました。大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は絶対に忘れません」と懐かしそうに言うのです。
中国人は非常に人間的なことに吃驚しました。満州に行った日本人が全て悪いのではなく、敗戦後36年経過しても中国人から感謝されている日本人が沢山いたのです。

話は周栄章さんの戻りますが、彼は本音で話すのです。
1949年の共産党の中国が建国されてから1959年まではソ連と蜜月時代が続いたのです。
しかし1959年に中国とソ連が大喧嘩をして決別します。日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっていたのです。
その喧嘩の原因を周栄章さんが説明してくれました。
「イデオロギー論議なんて高尚な話ではない。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからです。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということだったのです」、「当然、毛沢東は断固拒絶しました。ソ連は中国全土から引き揚げる時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収した。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残ったのです」

そしてある時は日本の真珠湾攻撃の話になりました。植民地や治外法権の租界を作られた中国人は西洋人を恨みに思っている筈です。ですからその西洋人に一矢を報いた真珠湾攻撃は中國人も内心嬉しかった筈ですと私が言いました。周栄章さんは否定も肯定もしませんでしたが、笑顔がそうですと言っているようでした。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になると私は確信しています。
この周栄章教授は2004年に亡くなりました。

今日の挿絵代わりの写真は山中湖の風景です。静寂な湖の風景を見て恩ある人の死に対して嘆き悲しむ中国人の想いを想像しましょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






遥かなる霞ヶ浦の夏の風物詩、白帆漁

2019年08月29日 | 写真
霞ヶ浦の帆引き漁は夏の風物詩です。2011年迄は霞ヶ浦でヨットをしていましたので毎年夏になると大きな白い帆で魚を獲っている風景を見ていました。
もう霞ヶ浦に行くこともありませんが毎年夏になると大きな白い帆が静かに動いている風景を思い出します。
自分が2008年に撮った白い帆の写真をお送りいたします。







魚を獲る方法です。
幅の広い大きな網を横向きにした船の長さいっぱいに水中へ入れ、巨大な白帆で横向きの船をゆっくり引いて行きます。数キロメートルも引いて行きます。
8月にはワカサギを取っていますが、10月になると透明な白魚をとります。霞ヶ浦に江戸時代からあった伝統的な漁法だそうです。東風の吹く日は毎日毎日、大きな白帆が沖に見えます。
ワカサギは佃煮にします。沖宿でも売っていますが土浦駅ビル地下食品売り場の小魚佃煮専門店でも売っています。
白魚の生の刺身は蓮田の中の「うなぎの山中」(電話0298-28-0804)で食べることが出来ます。川海老の天麩羅や釜揚げもあります。うなぎは焼きの濃い昔風の蒲焼です。(撮影日時:2008年8月22日午後2時頃 )

中国共産党員と親しくなり中国社会の実態を知る(1)

2019年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。私は偶然にその共産党員と非常に親しくなりました。
北京の周栄章さんと瀋陽の金応培さんです。親しくなったいきさつは続編で書きますが、この2人のお陰で中国社会の実態をかなり深くかつ詳細に知ることが出来たのです。
そこで中国の社会の実態を連載記事として数回お送りします。

今日は1949年の共産主義中国の建国から最近の習近平時代までの歴史を5つの大事件に従って振り返ってみたいと思います。私が考えた5つの大事件とは次の通りです。
(1)1949年10月の天安門上での毛沢東による建国宣言。
(2)1966年から1976年までの毛沢東主導による文化大革命という内戦。
(3)1976年4月の周恩来追悼に端を発した第一次天安門事件。
(4)1989年6月の胡耀邦追悼に端を発した第ニ次天安門事件。
(5)2012年11月の習近平が胡錦濤氏から中共総書記を受け継いだこと。
これら5つのことが現在の中国の歴史の大きな節目になっていると私は考えています。
その理由は5枚の写真を示しながら簡略に説明いたします。

1番目の写真は1949年10月、天安門上で建国宣言をする直前の毛沢東です。
1949年1月、林彪軍は東北から南下し北京に入城します。
一方南では4月に、解放軍はいっせいに長江を渡河して南京を占領しついに中国全土が共産党の手中に帰したのです。。
周恩来によれば、北京入城のとき毛沢東は大浪のように湧きかえる大群衆を一目みたとき、しばらく無言で立っていたが、やがて突然両手で顔をおおって泣きだしたそうです。
万感こもったのは毛沢東だけではありません。その場に居た私の北京の友人達も感極まって泣いたと言ってました。19世紀以来の欧米の侵略を跳ね返して中国はやっと独立を勝ち得たのです。
しかし彼等の歓喜は長くは続きませんでした。
やがて毛沢東の発動による大躍進運動と文化大革命によって国民は塗炭の苦しみを味わうのです。特に文化大革命は悲惨極まりない内戦だったのです。

2番目の写真は1966年8月18日に紅衛兵の歓呼に答礼する毛沢東です。紅衛兵は略奪と暴虐をくりかえしたのです。私は見ました。北京の民家の全ての窓が紅衛兵の侵入を防ぐ鉄格子に覆われているのを見たのです。

3番目の写真は1976年4月の周恩来追悼の為の行進です。
天安門広場において、同年1月8日に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆とデモ隊工人が政府に暴力的に鎮圧された事件です。
四五天安門事件とも言いますがこれこそ第一次天安門事件なのです。
この事件がやがて1989年の第二次 天安門事件へ続くのです。

4番目の写真は1989年6月の胡耀邦追悼に端を発した第ニ次天安門事件の写真です。
この天安門事件の詳細は皆様も詳しくご存知と思います。

5番目の写真は2012年11月に習近平が胡錦濤から中共総書記の座を受け継いだ時の写真です。
習近平政権の中国は大きく変わりました。世界の覇権を握ろうとして一帯一路の政策を推進し、大国アメリカと厳しく対立、抗争するようになったのです。
その原因は鄧小平による市場経済への改革によって中国のGDPが世界2位のなったことこそ原因になっているのです。
鄧小平の時代、1980年から1990年は熱烈日中友好の時代でした。日本の先進技術を導入し日本の工場誘致をしたのです。
現在の習近平政権も日中友好政策を続けています。中国が世界の覇権を握るためにはGDP3位の日本を味方にした方が有利だからです。鄧小平の時代は熱烈日中友好の時代でしたが習近平政権のは冷めた日中友好の時代なのです。
私自身は鄧小平時代の熱烈日中友好の時代に中國に何度も行ったのでその熱烈歓迎ぶりについては続編書いて行きたいと思います。
今日は1949年の共産主義中国の建国から現在の習近平政権までの中国の歴史を分かり易く書いたつもりです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「曇り日の多摩湖周遊道路をドライブして来ました」

2019年08月26日 | 写真
多摩湖は村山貯水池とも言い東京の水道水の一つの水源になっています。
東端に高く長い堤防があり、今日は時計回りと反対方向に周遊道路を堤防の下からぐるりとドライブして来ました。
撮った写真をお送りします。

1番目の写真は多摩湖の真中の道路上から東の堤防の方向を写した写真です。

2番目の写真も多摩湖の真中の道路上から東の堤防の方向を写した写真です。

3番目の写真は北側の周遊道路の風景です。

4番目の写真は北側の周遊道路の脇にある西武球場の巨大な屋根です。

5番目の写真は南側の周遊道路の風景です。
多摩湖の周遊道路は緑が多く自然が一杯なのでよく行くところです。今日はミンミン蝉が鳴いていましたが、その声が写真に写らないのが残念です。
今日も平穏に暮れ行くようです。年を取ると平穏が一番大切に思うようになりますね。

老境になって初めて分かる人、分からない人

2019年08月26日 | 日記
老境になって初めて分かる人と分からないでそのまま死んでしまう人。人はさまざまです。
最近、石山望さんの日記に次のようなものがありました。感銘を受けたのでここに転載します。原文は、https://smcb.jp/diaries/8048527 にあります。
================================
『ああ、人生、』
この頃、思うことがある。
でも、それは、私くらいの年齢の人達にとっては、同じことかもしれない。
そして、それが、「分る」ということかもしれない。

よく思う。ことに、逝き去りし、今は亡き人達のことである。
私7歳の時、父が亡くなった。享年57歳。
それまで、父が商売(京都中央市場の塩干仲買)をしていて、我が家を支えていてくれたので、これはすぐに後継をというわけで、私の2番目の姉に白羽の矢が立った。彼女23歳。
彼女には4つ違いの兄がいたが、これがまた、全く商売には向いていなかった人で、早々と家を出て、大阪の裁判所に勤めていた。

でも、この2番目の姉、一人では商売を継げないから、誰か婿養子をというわけで、急遽、血のつながらない親戚の人と結婚した。
しかし、この人、いわゆる「いい人」であったが、金勘定もできない。姉は、嫌だったそうだが、「この人と結婚しなかったら、家が潰れると思った」と、後年私に話してくれた。まあ、家の犠牲になったというわけである。

その婿養子に来られた人は、商売が下手、また、周りの者の決めた結婚で、自分の嫁との仲がそんなにいいということがなかった。というわけで、我が家の雰囲気は、なんだか冷たく、ギスギス、。
この養子さん、丹波の大きな農家の3男坊で、非常に呑気。したがって、姉は商売の全てを自分で仕切らなくてはならなくなってしまった。

子供は、男一人、女2人。ただ、その誰ともあまり親近感はなかったように思う。
当時、私の母親がまだ生きていたので、私もその実家にいたが、その養子さん、極めて保守的。韓国人のことを声高に「チョーセン!」と呼ぶような人で、私、それが厭だった。

そんなこんなで、彼は、まず完全に家の中で浮き上がってしまっていた。
商売の方は、なんとか姉が頑張って、切り盛りしたが、彼女夫婦のなめた辛酸は、それはそれは筆舌に尽くしがたいものがあったと思う。

私、今にして、この義兄のことを思う。なんと立派な人であったかと。
冷たい家の中で完全に孤立。これといって友達もなかったのではなかろうか。
しかし、それでも、離婚して口うるさい田舎に帰るわけにもいかず、我慢に我慢を重ねて、我が家にいてくださった。これは立派である。
だって、この人が来て下さられなければ、我が家は潰れていたに違いないのであるから。

私、彼の存命中に、そういうことを理解して、彼と親しくしようという努力をしていれば、どれほどこの義兄、救われたかもしれない。
ただ、その頃は、私、自分自身に問題があり、そこまで膨よかな気持ちになれなかったのも事実である。それどころか、口汚く罵ったこともある。
本当にゴメンね、兄さん。

その義理の兄さん、最後には、好きなタバコ(彼の唯一の友達、「いこい」というきつくて安いタバコ)を吸い続けて、70歳の若さで死んでしまった。脳梗塞。
今の私、これは十分理解できる。周りに誰も親しい人がいない状態で、生きているのが嫌だったのであろう。ましてや、自分の妻に先立たれるなんて以ての外。いわば、間接的自殺である。

この兄さん、お酒でも飲まれれば、私も、もう少し話しやすかったのであるが、それもなかったし。
そして、姉もまた、後を追うようにして、その数年後亡くなった。今度は、脳溢血で、。

人間は、死ぬと、誰でも仏になるというのは、本当です。
ああ、こういうことが理解できるようになるのには、自分自身の生活がやっと安定するようになり、心に余裕ができ、人の痛みも分る、この歳まで待たなければならないのですか。

するとそのあとは、「自分が逝く」ということの為の準備にとりかからなければならないのですね。
ああ、人生、、(終り)

挿し絵代わりの写真はロンドンの住宅街の風景です。今日の著者の石山望さんは長年ロンドンにお住まいです。こんな場所だろと勝手に想像しています。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/samberasam51/33555930.html です。


西洋の食文化の奥深さと鹿肉を美味しく食べる方法

2019年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
世界各国の食文化というものは現地に行って食べてみないと分かりません。
例えば中国料理でも日本のそれは日本人好みの味に変えれてしまい中国各地の独特の美味しさが無いのです。
西洋料理も同様です。フランス料理やドイツ料理の独特な美味しさがありません。日本流のフランス料理が一番美味しい料理でドイツ料理は不味いと信じ込んでいます。
最近はイタリアンが人気ですが、日本のイタリアンはイタリア現地とは随分と違うそうです。
以前ドイツに住んでいた頃、デパートの地下でカモやガンなどの野鳥が羽が付いたまま売っていました。野生のシカ肉も売っています。ライン河で捕れたウナギも養殖の鱒もドイツ鯉も活きたまま売っています。
私は嬉しくなり野鳥のカモ、活きた鱒、活きウナギ、野生のシカ肉などを買って来て料理をして美味しいドイツビールとともに食べました。
ところがバターでムニエルにした活きた鱒以外は美味しくなかったのです。それ以外は酷く不味かったのです。
ドイツの食文化としての料理法に無知でそれぞれの料理方法が間違っていたのです。
素材を煮たり焼いたりする前の下準備が重要なことを無視していたのです。
最近、北海道で獲れたエゾシカ肉を沢山頂く機会がありました。その鹿肉を送って下さった「でいしゅうさん」という方から鹿肉を美味しく食べる下準備の方法を教えて頂きました。

今日は野生の鹿肉を美味しく食べる方法をご紹介いたします。
鹿肉を送ってくれた「でいしゅう」さんは三重県に住んでいて趣味で北海道のエゾシカ猟をしている方です。
頂いた鹿肉を山椒味噌味のステーキにしたり、フランス料理風のソースをステーキにかけて食べました。ところが単純に塩コショウだけで焼いたものがロースでもモモ肉でも一番美味しかったのです。
美味しい肉はあまり凝った料理をしないで、焼いて塩コショウだけで食べると美味しいのだと分かりました。
焼いた鹿肉は実に柔らかで滋味豊かな奥深い美味しさがあったのです。ほんの少し野生の風味がして奥行のある味です。その上、同じ草食動物の和牛のような風味がかすかにするのです。
そこで鹿肉を送ってくれたでいしゅうさんにどうして美味しいのかを聞きました。
3つの絶対条件があるようです。
(1)鹿を一発で即死させ苦しめない。(苦しんで死んだ肉は全て不味い)
(2)即死後、体温の下がらないうちに完全に血を抜く。
(3)解体の時、毛皮に触った手で肉に絶対に触ってはいけない。毛皮に触った手で肉に触ると腐敗菌や雑菌がすぐに繁殖し長期の熟成が出来なくなるのです。

以上をきちんと行った鹿肉は数日間の冷蔵庫での熟成で柔らかになり風味も増すのです。
結論を先に書けば、以上の3条件を完全に出来る猟師の獲った鹿肉は美味しいのです。
では不味い鹿肉はどうして出来るのでしょうか?
多くの猟師は上の(1)と(2)は知っています。なるべき完全に血を抜くように努力します。
ところが解体の時、皮を剥いだ手で、そのまま肉も切ってしまうのです。
これでは数日間の熟成期間中に雑菌が繁殖し不味くなるのです。酷い時には腐敗してしまうのです。

草食動物の肉は和牛でも輸入牛でも鹿でも数日間熟成しないと不味いのです。
私はでいしゅうさんから、濡れタオルで包んで送られて来た鹿肉を、別の新しい濡れタオルで包んでさらに3日間冷蔵庫で熟成しました。
そうしたら実に柔らかになりました。風味も一段と増したのです。
写真はでいしゅうさんに送って頂いたエゾシカ肉です。

1番目の写真は私の家で3日間の熟成が終わったモモ肉を切っている場面の写真です。

2番目の写真は切り終わった肩ロースの写真です。これも私の家で3日間の熟成が終わったものです。

3番目の写真はローズマリーとともにステーキにしたモモ肉の写真です。

あまり美味しかったのででいしゅうさんに更に美味しい鹿肉について聞きました。そうしたら以下のような事が大切だと教えくれました。

1、美味しい年齢(2歳の牡)の鹿であるか。
2、牧草をしっかり食べて肥育している季節か。(北海道の鹿は牧草地に出て牧草を食べている)
3、雪の季節は美味しくない。
4、撃った時に一発で首の骨を砕いて、即死させたか。苦しめた鹿は不味い。
5、直ぐに放血を行う。小バケツ一杯は出る。
6、内臓をすぐに抜く。
7、体温を下げる。皮は早く剥いだ方が良い。
8、皮を剥ぐときに、毛に触った手で肉を掴まない。
9、大分けにした肉は吊るして血を抜く。
10、肉をブロックにしてから、濡れタオルに包み、3日ほど熟成さす。
11、肉からはスジを取、肉の繊維に気を付けて切る。

私は山梨県の甲斐駒岳の麓にある肉屋さんから鹿肉やイノシシ肉を買って食べたことが何度もありました。
イノシシ肉は美味しいのですが、鹿肉は全て不味かったのです。
その肉屋さんの息子さんが鉄砲撃ちの猟師で甲斐駒岳の麓で獲った新鮮な肉なのです。
鉄砲撃ちの息子が獲った新鮮な鹿だから美味しいよと女主人が自慢していました。
しかしその息子さんの血抜きや解体処理が間違っていたのです。
その長年親しんでいた肉屋さんも、主人が病気になり廃業してしまいました。

さて冒頭にスーパーに並んでいる牛肉も豚肉も美味しいと書きました。それらは解体方法が適切で熟成されているからです。
西洋人な野生のカモや鹿肉を購入後に自分で適切に処理し美味しく料理します。
ドイツ人もカモなどの野鳥の下準備と料理法を知っているのです。
ライン河で捕れたウナギを清浄な水で3日飼って泥を吐かせることも知っています。
その後輪切りにて美味しいウナギのスープにするのです。
ドイツと言えばニシンの発酵させたものもあります。日本の鮒寿司に似た強烈な匂いと味がします。
上手に発酵させれば最高に美味ですが下手に発酵させたものは最低です。

この様に西洋の食文化は奥が深いのです。ドイツ料理は不味いと言う人は上手に発酵させたニシン(マテユエステ・ヘリング)を食べたことが無いのです。世界各国の食文化というものは現地に行って食べてみないと分かり難いものですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「平凡な今日の日記です」

2019年08月25日 | 日記
朝6時30分起床。午前はカトリック小金井教会のミサに行く。昼は冷たいとろろ蕎麦。
午後から小金井市立はけの森美術館の企画展、「模写ー西洋絵画の輝き」を見に行く。

1番目の写真は「はけの森美術館」の入り口です。
この企画展は9月8日までで、西洋古典絵画を模写した作品を展示します。
油彩画は16世紀以降に発展した技法ですが、この展示ではそれ以前のテンペラ技法で模写した見事な絵画を展示していました。
油彩画よりも明るい色彩が魅力でした。そして絵画の精密さに感心しました。絵画はマリア様の聖画が主で宗教画です。しかしブリューゲルの風景画も数点ありました。
テンペラ技法は現在でも使われていて現代の作品も少しありました。

展覧会の後は隣接する都立武蔵野公園の広々した風景の写真を撮りに行きました。

2番目の写真は武蔵野公園の広々した風景です。
この後は三鷹市の「花と緑の広場」に花々の写真を写しに行きました。

3番目の写真は「花と緑の広場」の全体の風景です。

4番目の写真は花と遊んでいる愛らしい子供です。

5番目の写真は今日無料で摘み取って良い百日草の花畑です。
この「花と緑の広場」では毎年3、4回くらい花を自由に摘みとって良い時期があります。
楽しい気分になります。
以上が私の平凡な日記です。陽射しは強い日でしたが秋らしい風が吹き渡っていました。
こうして老境の一日がまた流れ行きます。

日本のカトリック、ロシア正教、聖公会、プロテスタント諸宗派

2019年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本にあるキリスト教に関することです。
日本へ輸入されたキリスト教の宗派は、カトリリック、ロシア正教、英国聖公会、プロテスタント諸教会の4つに分類されます。

1番目の写真は世界のキリスト教の諸宗派が分離した年号を示す図面です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E8%AB%B8%E6%95%99%E6%B4%BE%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 はこの図の出典です。

さてカトリリック、ロシア正教、英国聖公会、プロテスタント諸教会の4つはどの様にして日本へ入って来たのでしょうか?

カトリックは1549年、ザビエルの訪日以来、スペイン、ポルトガルから伝承されました。
ロシア正教は幕末にニコライによってロシアから伝わりました。
英国聖公会、プロテスタント諸教会は明治維新後に日本へやって来たのです。
特にプロテスタント諸宗派は第二次大戦後のアメリカ軍の占領期間中に勢いを増しました。
このようにキリスト教の諸宗派は日本へ伝えた国々が違う上に、伝承された時代も違うのです。
ですから教義も教会組織も違います。

その違いを以下において簡明に書いてみます。
大きな違いは16世紀のルターの宗教改革で生まれたプロテスタント諸宗派か、あるいは古い宗派かの違いです。
カトリックとロシア正教、英国聖公会は古い宗派です。
古いと言えば特にロシア正教が一番古いのです。
ヨーロッパのカトリックも、それから分離したイギリスの聖公会も宗教改革の起きたドイツやスイスに近かったので宗教改革に大きな影響を受け、随分と革新されたのです。

ロシア正教の古い感じは、東京、神田にあるニコライ堂の礼拝に参加してみると歴然とします。礼拝の儀式は日曜日毎に、3時間も続くのです。神秘的な歌の連続と祈りの繰り返しです。雰囲気が暗いのです。ロシア文学の暗さと通じ合っているようです。

他の日本にある宗派の礼拝やミサは1時間だけです。明るい楽しい雰囲気です。
古い宗派と新しいプロテスタント諸宗派の違いは簡単です。
古い宗派ではマリア様を大切にします。ミサでは必ず毎回、イエス様の体と言って神父が信者一人一人へパンを与えます。聖霊を信じ、体の復活を信じています。

一方、新しいプロテスタント諸宗派では神秘的な儀礼を廃して、福音書に書いてある隣人愛や世界の真の平和を祈り、強調します。近代合理主義的な教義の部分のみを強調します。
極端に言ってしまえば古い宗派は土俗的であり、プロテスタント宗派は近代的な感じがします。
余談ながら、私は古い考えを持ったなんとなく土俗的なカトリックが好きで信者になりました。ヨーロッパの近代文明は何故かキリスト教にそぐわない感じがするのです。

古い宗派とプロテスタント諸派の相違は教会組織と運営方法にもあります。
古い方の代表例のカトリックでは全世界のカトリック教会がローマ法王の直属組織になっています。
神父さんの給料も含めた一切の費用は最終的にはバチカン法王庁が責任を持ちます。
これと対照的なのはプロテスタント諸宗派です。個々の教会の牧師さんの給料も含めて一切の費用は個々の教会に属した信者の寄付金だけで賄います。
日本にあるプロテスタントの教会は一応、「日本キリスト教団」に所属していますが、そこからは、ほとんど財政援助はありません。

日本へ入って來たロシア正教は、やがて日本正教会と名前も運営方法も変わりました。そしてニコライ堂も含めて現在日本にある正教会の聖職者の給料と一切の費用は日本正教会が責任を持っています。正教会ではグルジア正教会やアルメニア正教会のように、国別に正教会組織を作るのです。

新旧のキリスト教では聖職者になるための条件も異なります。
カトリックでは一生独身を通さなければ神父になれません。日本正教会では神父は結婚しても良いのです。プロテスタント諸派では牧師は結婚し、健全な家庭を持っています。
日本にあるカトリック、日本正教会、聖公会、プロテスタント諸宗派はこのように異なるのです。
しかしイエス様の教えを一番大切にするという点ではどれでも同じです。

日本に入ってきた多神教的な大乗仏教の諸宗派の複雑さは分かり難いものです。その上、鎌倉佛教のように日本独自の宗派が加わり一層分かり難くしています。
それに比べればキリスト教のカトリリック、ロシア正教、英国聖公会、プロテスタント諸教会の4つに分類される宗教は分かり易いのです。分かり易いので単純な私はキリスト教を信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵代わりの写真は「カナの婚礼」というベニスで活躍したベロネーゼの作品です。大きさはなんと66㎡です。日本の平均的な2LDKマンションの大きさです。

旅立つ前に決着をつけるべき野猿峠の名前の由来

2019年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
府中市から八王子市に行く道路の一つに野猿街道というものがあり、その峠を野猿峠と言います。
よく通る峠なので名前の由来を何十年と考えてきました。
昔は峠付近に野猿が棲んでいたので野猿峠と言ったと説明する人や本があります。私はそんな簡単な理由でないと思っていました。日本の地名には複雑な由来があることも多いのです。
決着をつけるべきと思い昨日車で現地を確認してきました。

1番目の写真は野猿街道です。

2番目の写真は野猿街道の峠の頂上にある「野猿峠」の看板です。

3番目の写真は峠の左右にある山です。明治、大正時代まではこの山の上に野猿峠があったのです。
自動車が通れるように山を切り崩して現在のような低い所に舗装道路を作ったのです。

帰宅後いろいろ手を尽くして調べました。遂に信用出来る次のような郷土史家の記録をみつけましや。
(http://www.pompoco.or.jp/1999_2016/chiikitai/tama_rekishi/20030324_yaentoge.htm)

「野猿峠という名称の由来は何でしょうか。 「武蔵名勝図会」によると、この峠は猿山領 猿山峠とも号す。・・・ 嶺上のまた高き丘に、大石道俊(道俊は大石定久の法号、晩年 永林寺-野猿峠の下柚木側の麓-に住んだ)の碑石があり。或 云大石定久入道遺命して、この嶺上に着具の甲(かぶと)を埋 めて碑石を建てけるゆえ、往古は甲山峠と唱えけるが、その後 甲を申(さる)に書きたりければ、サルと読み来たれるより転じて読み やすき猿という文字になりけると云。・・・そして、猿山峠と 呼ばれるようになったらしいのですが、江戸時代末ころにはさ らに転じて猿丸峠と呼ばれていたようです。

大正12年の南多 摩郡史八王子地図には猿丸峠との記載となっており、打越八幡 神社の昭和3年の道路大改修碑にも猿丸峠となっているため、 野猿峠となったのはそれ以降のことと思われます。

国土地理院 の地形図に野猿峠の名前が登場するのは昭和28年の版からだ そうです。この頃、京王電鉄で峠周辺にハイキングコースを整 備し、初めて「野猿峠」という名前を使ったと言われています が、京王電鉄が名付け親だという確証はないようです。眺望 の勝地だったということです。

昭和40年頃でも大型車がやっとすれ違える程度の道幅しか なく、両側の谷戸の谷間は深く、転がり落ちるのではないかと 怖いほどの道だった野猿峠ですが、現在は道路の拡幅や宅地開 発などで昔日の面影は薄れてしまいました。」

以上を分かり易く書きます。

(1)昔、大石定久という人が甲(かぶと)を埋 めた。それで往古は甲山峠と言った。
(2)甲を申(さる)に間違って書いて猿山峠と 呼ばれるようになった。
(3)猿山峠が江戸時代末ころにはさらに転じて猿丸峠と呼ばれてた。
(4)昭和28年の版の国土地理院の地形図に野猿峠の名前が登場した。それ以後、野猿峠や野猿街道の名前が定着し普及したのです。
なお江戸時代でもこの付近に野猿が一匹もいなかったと言い伝えられています。

これで決着をつけるべき問題が解決したのです。安心しました。

田舎暮らしで自給自足する人を訪ね話を聞く

2019年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の八ヶ岳や甲斐駒岳の山麓にはよく遊びに行きます。来週も行く予定です。
その辺には別荘があり都会から移住している人々も数多く住んでいます。
しかしよく見ると移住しても農業をしている人はいません。庭にキュウリやナスを育てていますがとても自給自足なんて出来ていません。
実際には農業を一切しないで都会から引っ越す人も多いものです。その別荘地に隣接する村落の地区の組合いには加入しないで独自の生活をするのです。
このような移住の仕方のほうが問題が少なく、かえって良いのです。
ところが私の山林の中の小屋に近い所で本格的に稲作をいている人を発見したのです。米も野菜も他人へ分け与えるほど作っています。完全なに自給自足をしているのです。
その人は停年前はある大会社の研究所長をしていたのです。
訪問して詳しく話を聞きました。
今日はこの田舎暮らしをして完全に自給自足している方の話をご紹介したいと思います。
まず風景写真をご覧下さい。

1番目の写真は甲斐駒岳山麓の蕪(かぶら)開拓地の風景です。

2番目の写真は北杜市白州地区の新しい別荘地区です。不動産会社が開発し都会の人々が移住していますが農業はしていません。後の山は八ヶ岳です。
しかし稀には本格的に農業をしている人もいます。
その人の家は白州の尾白の湯の周囲の田圃に囲まれた村落にありました。
この方、K氏は田舎暮らしに憧れ定年後、都会生活を引き払いご夫婦で引っ越してきて10年以上になるそうです。K氏を訪問したら、まあ、お茶でもどうぞと招じられました。

3番目の写真はそのK氏の家です。写真のように都会風の家です。下の方は広々とした水田になっています。 南には地蔵、甲斐駒、北には八ヶ岳、東には金峰山が見えます。

4番目の写真は声楽がご趣味の奥様の作ったカボチャです。奥様はもっぱらガーデニングが趣味でロマンチックな洋風の庭を作り上げています。

5番目の写真はご主人のK氏が使っている300坪の水田です。これで毎年7俵(420Kg)のお米が取れるそうです。他に畑も借りて野菜も作っています。米も野菜も完全有機栽培で農薬は使っていません。
農機具や水田はほんの少しのお金で村落の人が貸してくれるそうです。農作業の仕方も親切に教えてくれます。どうもその地区の区長さんと仲が良いようです。
 k氏は有名なあるベアリング製造会社の研究所で定年まで働いていて、研究所長をしていたそうで、悠揚迫らない雰囲気です。筆者も工学の研究をしていましたので話が合いました。
家の1階の大きな部屋には高級なステレオ装置とピアノがあります。
一角には食卓用のテーブルがあり、そこに座れば地蔵岳や金峰山が見えます。手前に目をやると芝生と草花の庭があり、その先には水田が広がっています。陽射しが明るい場所で、昔からの村落の端にあります。
ピアノが置いてあっても狭く感じません。奥様は毎月、何度か都会の声楽の先生の所へ通い、ソロの演奏もしています。田舎でレッスンの合宿もするそうです。近くの花白州というペンションに泊まりながら。
このK氏の話から私は以下のような条件の全てが満足されていなければ田舎へ移住し農民と同じ生活をすべきでないという結論にいたりました。
(1)夫婦揃って本当に田舎暮らしが好きで、夫婦がそれぞれ車の運転が出来る。
(2)夫は稲作や農作業が大好きで、自給自足以上の米や野菜を作る決心をしている。
(3)奥さんもガーデニングが好きで、独自の趣味をしっかり持っている。
(4)自宅の中は完全に都会風で、日常の生活が清潔で便利に出来ている家である。
(5)日当たりが良くて、近くにスーパーや病院があるような立地条件になっている。
(6)ゴミ収集や無料の健康診断など市役所のサービスが無くても不平不満を言わない。
(7)村落の地区の区費を毎月出して共同作業に参加する決心をしている。
偶然にお会いしたK氏の暮らしは上の7つの条件を完璧に満たしています。
多くの人々は農作業が好きではありません。 しかし、農作業が好きでも野菜作りまでです。水稲栽培が出来る都会人は少ないものです。
一般的には奥さんが都会に残り、ご主人だけで田舎に住んでいる人が多いです。こういう場合は家庭を犠牲にしているので長続きしません。
k氏は土地が高価でも日当たりの良い農地を購入し宅地へ変更申請をしたそうです。水田は借りたそうです。
各種のベアリングは現代技術の根幹技術です。この地味な分野の研究をこつこつ努力してきたK氏だからこそ実行出来た「完璧な田舎暮らし」ではないでしょうか?

このk氏はまれに見る自給自足に成功した方です。
とにかく無理をしないで悠々と自然の中で暮らせば幸せになります。自給自足にこだわると大変です。何でもこだわることはいけませんね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

夏の甲子園で優勝校を出していない県

2019年08月23日 | スポーツ
北海道の北北海道。

東北の青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島。

関東の山梨。

北信越の新潟。富山、石川、福井。

近畿の滋賀。

中国の鳥取、島根、岡山。

九州の長崎、熊本、宮崎、鹿児島。

そして大阪は14校も優勝していて2019年現在最多の優勝校を出しています。
その一方で何故優勝校を出していない県がこんなにあるのでしょうか?
いろいろ考えさせられます。

履正社と星稜、甲子園歴代優勝校一覧

2019年08月23日 | スポーツ
ほとんどスポーツ音痴に近い私でも夏の甲子園は毎年見ています。門外漢の私が変な発言をするので家内は「貴方のせいで奥川君がフォアボール出した。ホームラン打たれた」などと文句を言い別室で試合を観ています。松井選手以来の星稜贔屓なのです。
今朝は日刊スポーツのネット版で履正社対星稜の試合の数多くの静止画を熱心に見てテレビでは分からない選手達の表情や躍動感を見ています。そして若者の燃えるような情熱を感じ心地良い思いをしています。素人の変な評論を書かずに履正社対星稜の試合の写真を以下に5枚だけをお送りします。写真の出典は日刊スポーツのネット版です。 https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/201908220000039.html

1番目の写真は 履正社対星稜 記念撮影に納まる星稜・奥川と履正社・井上(撮影・梅根麻紀)

2番目の写真は初優勝を決めマウンドに駆け寄る履正社ナイン(撮影・上山淳一)

3番目の写真は履正社対星稜 初優勝を飾り喜ぶ履正社ナイン(撮影・清水貴仁)

4番目の写真は履正社対星稜 力投する星稜先発の奥川(撮影・宇治久裕)

5番目の写真は履正社対星稜 3回表履正社2死一、二塁、左中間へ逆転3点本塁打を放つ井上(撮影・清水貴仁)
履正社が5-3で勝ち、初優勝しました。日刊スポーツのニュースを転載します。
先発は星稜が奥川、履正社が清水のエース対決。
履正社は1回表、1死から2番池田が左三塁打も後続倒れ無得点。
星稜は2回裏、2死二塁から7番岡田の右越え適時二塁打で先制。
履正社は3回表、2死から連続四球で一、二塁。4番井上が高めスライダーを捉え中越え3ランを放ち逆転。
星稜は7回裏、1死二塁から9番山瀬の左中間適時二塁打で1点差。2死後、3番知田の右前適時打で同点。
履正社は8回表、1死三塁から7番野口の中前適時打で4-3と勝ち越し。さらに1点を加え5-3
星稜は9回裏、1死一、二塁も知田が二ゴロ併殺打に倒れ試合終了。履正社が初優勝!

それにしても夏の甲子園は日本の時代を刻む文化です。過去の試合たちはそれぞれの時代の空気を思い出させてくれます。
そこで夏の甲子園歴代優勝校一覧を以下に示します。

第101回、2019年、履正社5-3星稜
履正社が5-3で勝ち、初優勝した。歴代優勝校、
以下は、https://mainichi.jp/koshien/senshuken/data/ からの転載です。
第100回
2018年
大阪桐蔭(大阪)[13―2] 金足農(秋田)
大阪桐蔭が4年ぶり5回目の優勝を飾るとともに2012年以来となる史上初の2度目の春夏連覇。金足農・吉田は6試合で881球。エースとしてチームを準優勝に導いた。
第99回
2017年
花咲徳栄(埼玉)[14―4] 広陵(広島)
花咲徳栄が春夏通じて初優勝。埼玉県勢としても夏初優勝。広陵は佐賀北に敗れて準優勝した2007年以来10年ぶりに決勝に進んだが、夏の初の頂点には届かなかった。
第98回
2016年
作新学院(栃木)[7―1] 北海(南北海道)
作新学院が第44回大会以来54年ぶり2回目の優勝。夏の複数回優勝は20校目。54年ぶりの制覇は、前回の東海大相模の45年ぶりを超える選手権史上最長ブランク。
第97回
2015年
東海大相模(神奈川)[10-6] 仙台育英(宮城)
東海大相模が第52回大会以来、45年ぶり2回目の優勝。神奈川県勢は通算7度目の優勝。
第96回
2014年
大阪桐蔭(大阪)[4-3] 三重(三重)
大阪桐蔭が、第94回大会以来、2年ぶり4回目の優勝。春夏通算では5度目の優勝で、横浜(神奈川)と並ぶ5位に浮上した。
第95回
2013年
前橋育英(群馬)[4-3] 延岡学園(宮崎)
前橋育英が初出場で初優勝。エース高橋を中心とした堅い守りで1999年の桐生第一以来、県勢2度目の優勝を勝ち取った。
第94回
2012年
大阪桐蔭(大阪)[3-0] 光星学院(青森)
大阪桐蔭が光星学院(青森)を降し、3回目の優勝。エース藤浪を擁し、史上7校目の春夏連覇。
第93回
2011年
日大三(東京)[11-0] 光星学院(青森)
日大三が6試合すべて2桁安打など打線が好調で2度目の優勝。東日本大震災復 興支援大会と位置づけられ、東北勢も健闘した。
第92回
2010年
興南(沖縄)[13-1] 東海大相模(神奈川)
興南が沖縄県勢として初優勝。史上6校目の春夏連覇も飾った。主戦・島袋を中心に投打とも他校を圧倒した。
第91回
2009年
中京大中京(愛知)[10-9] 日本文理(新潟)
中京大中京が7度目の優勝で優勝回数最多記録を達成。新潟県勢で初めて決勝進出した日本文理が、九回5点を入れる猛攻をみせたが一歩及ばなかった。
第90回
2008年
大阪桐蔭(大阪)[17-0] 常葉菊川(静岡)
記念大会で55校が出場し、北京五輪の影響で史上最も早い8月2日に開幕した。決勝で大阪桐蔭は史上最多タイの17得点で17-0と圧勝した。
第89回
2007年
佐賀北(佐賀)[5-4] 広陵(広島)
私立有力校が野球特待生問題で揺れる中、公立校の佐賀北が優勝。がばい旋風と呼ばれた。
第88回
2006年
早稲田実(東京)[4-3] 駒大苫小牧(北海道)
早稲田実の斎藤と3連覇を狙う駒大苫小牧の田中の投げ合いで決勝(1-1 延長15回)は引き分け再試合に。
第87回
2005年
駒大苫小牧(北海道)[5-3] 京都外大西(京都)
駒大苫小牧が戦後初の連覇を達成。しかし、大会後、部長が部員に暴力をふるった事件が発覚する。
第86回
2004年
駒大苫小牧(北海道)[13-10] 済美(愛媛)
駒大苫小牧は北海道の高校として初優勝。練習時間がとれない冬も雪上ノックなど独特の練習法で鍛えた。チーム打率4割4分8厘は史上最高。
第85回
2003年
常総学院(茨城)[4-2] 東北(宮城)
常総学院の木内監督は大会後の勇退を表明しており、常総学院の初優勝で花道を飾った。
第84回
2002年
明徳義塾(高知)[7-2] 智弁和歌山(和歌山)
明徳義塾は春夏合わせて19回目の甲子園で初優勝。
第83回
2001年
日大三(東京)[5-2] 近江(滋賀)
日大三は前年の智弁和歌山を上回るチーム打率4割2分7厘を記録した。
第82回
2000年
智弁和歌山(和歌山)[11-6] 東海大浦安(千葉)
智弁和歌山は11本塁打、100安打と大会記録を更新。チーム打率も4割1分3厘で史上最強の打線と呼ばれた。
第81回
1999年
桐生第一(群馬)[14-1] 岡山理大付(岡山)
決勝で桐生第一が14-1の大差で岡山理大付を破る。
第80回
1998年
横浜(神奈川)[3-0] 京都成章(京都)
横浜・松坂が決勝の京都成章戦でノーヒット・ノーラン。準々決勝のPL学園戦は延長十七回を投げた。青森大会で122-0の大差記録。
第79回
1997年
智弁和歌山(和歌山)[6-3] 平安(京都)
開会式の司会者を地元高校生が担当する。
第78回
1996年
松山商(愛媛)[6(延長11回)3] 熊本工(熊本)
女子マネジャーのベンチ入りが認められる。地方大会の参加校数が前年より9校少ない4089校と戦後初めて減少。
第77回
1995年
帝京(東京)[3-1] 星稜(石川)
柳川の責任教師、高木教諭が女性として初めて甲子園のベンチ入り。阪神大震災の影響で選手は電車で球場入り。
第76回
1994年
佐賀商(佐賀)[8-4] 樟南(鹿児島)
佐賀商は決勝で同点の九回、主将・西原の満塁本塁打で試合を決めた。決勝での満塁本塁打は史上初。
第75回
1993年
育英(兵庫)[3-2] 春日部共栄(埼玉)
鹿児島商工は2回戦を雨天コールドゲームで勝った後、3回戦は四回まで4ー0でリードしたが雨でノーゲーム。次の試合で負けた。
第74回
1992年
西日本短大付(福岡)[1-0] 拓大紅陵(千葉)
星稜・松井が明徳義塾戦で5打席すべて敬遠。試合は明徳が勝った。ラッキーゾーンを撤去。
第73回
1991年
大阪桐蔭(大阪)[13-8] 沖縄水産(沖縄)
愛知大会決勝で、愛工大名電が敗れ、鈴木は夏の甲子園は出場できなかった。
第72回
1990年
天理(奈良)[1-0] 沖縄水産(沖縄)
沖縄水産が沖縄勢として初めて決勝に進出するも、0-1で天理に敗れる。
第71回
1989年
帝京(東京)[2-0] 仙台育英(宮城)
決勝で帝京は延長十回の末、仙台育英を破る。
第70回
1988年
広島商(広島)[1-0] 福岡第一(福岡)
1回戦の滝川二ー高田が戦後初めて雨天コールド試合となる。
第69回
1987年
PL学園(大阪)[5-2] 常総学院(茨城)
PL学園が春夏連覇。
第68回
1986年
天理(奈良)[3-2] 松山商(愛媛)
松山商が準決勝の浦和学院戦で1イニング11連続安打の記録を作る。
第67回
1985年
PL学園(大阪)[4-3] 宇部商(山口)
PL学園が2回戦、東海大山形を29-7の大差で破る。1試合最多得点、毎回得点などを記録する。
第66回
1984年
取手二(茨城)[8(延長10回)4] PL学園(大阪)
大会期間中の14日間、すべての日に本塁打が記録される。
第65回
1983年
PL学園(大阪)[3-0] 横浜商(神奈川)
桑田(元巨人)、清原(元西武)のKKコンビの活躍でPL学園が初優勝。
第64回
1982年
池田(徳島)[12-2] 広島商(広島)
やまびこ打線の愛称の池田高校打線が爆発。初優勝。蔦監督の上半身を鍛えるトレーニングはその後に影響を与えた。
第63回
1981年
報徳学園(兵庫)[2-0] 京都商(京都)
名古屋電気工の工藤がノーヒット・ノーランを記録。
第62回
1980年
横浜(神奈川)[6-4] 早稲田実(東京)
決勝で敗れた早稲田実の荒木大輔投手に人気が集まる。
第61回
1979年
箕島(和歌山)[4-3] 池田(徳島)
箕島が春夏連覇。3回戦の星稜戦は延長十八回サヨナラ勝ちの熱戦だった。
第60回
1978年
PL学園(大阪)[3-2] 高知商(高知)
全都道府県から1校(東京、北海道は2校)出場するようになる。
第59回
1977年
東洋大姫路(兵庫)[4-1] 東邦(愛知)
東洋大姫路が決勝で延長十回の末、東邦を破る。決勝でのサヨナラ本塁打は史上初。
第58回
1976年
桜美林(東京)[4(延長11回)3] PL学園(大阪)
東海大相模の原貢監督、辰徳選手の親子出場が注目される。
第57回
1975年
習志野(千葉)[5-4] 新居浜商(愛媛)
浜松商・高林が史上初のサヨナラ本塁打。
第56回
1974年
銚子商(千葉)[7-0] 防府商(山口)
金属バットの使用が認められる。これ以降、本塁打の数などが増える。
第55回
1973年
広島商(広島)[3-2] 静岡(静岡)
作新学院・江川(元巨人)栃木大会で75奪三振の記録で話題に。甲子園では2回戦敗退。
第54回
1972年
津久見(大分)[3-1] 柳井(山口)
沖縄が本土に復帰し、名護の平安山主将が選手宣誓。
第53回
1971年
桐蔭学園(神奈川)[1-0] 磐城(福島)
決勝は桐蔭学園-磐城と、初の東日本勢の対決となる。
第52回
1970年
東海大相模(神奈川)[10-6] PL学園(大阪)
東海大相模はスクイズなしで優勝する。
第51回
1969年
松山商(愛媛)[4-2] 三沢(青森)
決勝の松山商-三沢が0-0で延長十八回引き分け再試合に。敗れた三沢の太田投手に人気が集まる。
第50回
1968年
興国(大阪)[1-0] 静岡商(静岡)
記念大会で、入場行進の際、歴代優勝校の校旗も行進する。市川昆監督が記念映画「青春」を制作。
第49回
1967年
習志野(千葉)[7-1] 広陵(広島)
1回戦の大宮-報徳学園で、報徳が本盗でサヨナラの珍しい記録。
第48回
1966年
中京商(愛知)[3-1] 松山商(愛媛)
中京商は春夏連覇。夏の大会試合数が通算1000を突破。
第47回
1965年
三池工(福岡)[2-0] 銚子商(千葉)
工業高校として初めての優勝。
第46回
1964年
高知(高知)[2-0] 早鞆(山口)
選手はすべて戦後生まれになる。
第45回
1963年
明星(大阪)[2-1] 下関商(山口)
沖縄代表・首里が沖縄県勢として初勝利。
第44回
1962年
作新学院(栃木)[1-0] 久留米商(福岡)
作新学院、初の春夏連続優勝。
第43回
1961年
浪商(大阪)[1-0] 桐蔭(和歌山)
尾崎が柴田に最後の大会で勝つ。銚子商・柴が大会初のサヨナラ本塁打。
第42回
1960年
法政二(神奈川)[3-0] 静岡(静岡)
法政二・柴田(元巨人)と浪商・尾崎(元東映)が2回戦で投げ合う。翌年のセンバツ、夏と全部で3度投げ合うエース対決だった。
第41回
1959年
西条(愛媛)[8(延長15回)2] 宇都宮工(栃木)
北海道を南北2つに分ける。
第40回
1958年
柳井(山口)[7-0] 徳島商(徳島)
準々決勝の徳島商ー魚津戦は延長十八回で初の引き分け再試合に。徳島商のエース板東は6試合で83奪三振の最多記録。
第39回
1957年
広島商(広島)[3-1] 法政二(神奈川)
早稲田実・王投手が2回戦の寝屋川戦でノーヒット・ノーランを記録。
第38回
1956年
平安(京都)[3-2] 県岐阜商(岐阜)
大会初日、伊那北ー静岡で初のナイターが行われる。
第37回
1955年
四日市(三重)[4-1] 坂出商(香川)
大会後、選抜チームがハワイ遠征を行う。
第36回
1954年
中京商(愛知)[3-0] 静岡商(静岡)
高鍋が宮崎県の学校として初めて甲子園出場。これで全都道府県の学校が出場したことになる。大会後、優勝旗が2カ月以上行方不明に。
第35回
1953年
松山商(愛媛)[3(延長13回)2] 土佐(高知)
初めてテレビ放送が行われる。
第34回
1952年
芦屋(兵庫)[4-1] 八尾(大阪)
石川が沖縄県の学校として戦後初めて予選参加も東九州大会で敗退。ユ二ホ-ムに背番号をつけるようになる。
第33回
1951年
平安(京都)[7-4] 熊谷(埼玉)
戦時中無くなった内野スタンドの大屋根復活。
第32回
1950年
松山東(愛媛)[12-8] 鳴門(徳島)
決勝は鳴門-松山東の初の四国対決に。
第31回
1949年
湘南(神奈川)[5-3] 岐阜(岐阜)
ラッキーゾーン設置。開会式で地元・西宮高校の女子生徒がプラカードを持つようになる。平安・杉山が初のサイクル安打。
第30回
1948年
小倉(福岡)[1-0] 桐蔭(和歌山)
学制改革で新制高校設置。全国高等学校野球選手権大会に。小倉・福島が5連続完封で連覇。公募で「栄冠は君に輝く」が大会歌に制定
第29回
1947年
小倉中(福岡)[6-3] 岐阜商(岐阜)
甲子園に戻る。予選参加校が1000校を突破。関門海峡を越え、初めて九州の学校が優勝。
第28回
1946年
浪華商(大阪)[2-0] 京都二中(京都)
甲子園が米軍に接収されたため、西宮球場で再開。朝鮮、満州、台湾の代表がなくなり19校が出場。
第27回
1941年
戦争で中止

第26回
1940年
海草中(和歌山)[2-1] 島田商(静岡)
戦時体制となり、全日本中等学校体育競技総力大会の一部門として開催。海草中が連覇。
第25回
1939年
海草中(和歌山)[5-0] 下関商(山口)
海草中の嶋投手が5試合すべてを完封する記録。準決勝と決勝は連続ノーヒット・ノーランだった。
第24回
1938年
平安中(京都)[2-1] 岐阜商(岐阜)
決勝の平安中-岐阜商戦で平安中がサヨナラ勝ち。
第23回
1937年
中京商(愛知)[3-1] 熊本工(熊本)
中京商・野口(元阪急)が熊本工・川上(元巨人監督)に投げ勝ち、4度目の優勝。
第22回
1936年
岐阜商(岐阜)[9-1] 平安中(京都)
外野スタンドが改装され、現在のスリバチ状になる。
第21回
1935年
松山商(愛媛)[6-1] 育英商(兵庫)
中学生が入場式のブラスバンドを担当。
第20回
1934年
呉港中(広島)[2-0] 熊本工(熊本)
野球乃塔が甲子園に建てられるも、戦時中撤去。藤村富美男(元阪神監督)の活躍で呉港中が優勝。
第19回
1933年
中京商(愛知)[2-1] 平安中(京都)
準決勝の中京商-明石中で延長25回4時間55分の熱戦の末、中京商がサヨナラ勝ち。中京商は3連覇も果たす。
第18回
1932年
中京商(愛知)[4-3] 松山商(愛媛)
中京商が松山商に延長11回サヨナラ勝ちで連覇達成。
第17回
1931年
中京商(愛知)[4-0] 嘉義農林(台湾)
中京商、初出場で優勝。
第16回
1930年
広島商(広島)[8-2] 諏訪蚕糸(長野)
予選参加500校を越える。広島商が連覇。
第15回
1929年
広島商(広島)[3-0] 海草中(和歌山)
アルプススタンドが完成。
第14回
1928年
松本商(長野)[3-1] 平安中(京都)
代表校は補欠を含めて出場選手を14人以内にすることが決まる。
第13回
1927年
高松商(香川)[5-1] 広陵中(広島)
ラジオの中継放送始まる。早稲田実が初の三重殺に成功。
第12回
1926年
静岡中(静岡)[2-1] 大連商(満州)
応援団が禁止される。大連商が現在の日本国外の学校としては初めて決勝進出。
第11回
1925年
高松商(香川)[5-3] 早稲田実(東京)
初めて試合経過をラジオで放送。
第10回
1924年
広島商(広島)[3-0] 松本商(広島)
会場を阪神甲子園球場に移す。3日目で早くも満員に。静岡中・田中が初の満塁本塁打。
第9回
1923年
甲陽中(兵庫)[5-2] 和歌山中(和歌山)
台湾、東京の代表校が加わり19代表に。
第8回
1922年
和歌山中(和歌山)[8-4] 神戸商(兵庫)
和歌山中が決勝の8回に4点差を逆転し、大会初の連覇。
第7回
1921年
和歌山中(和歌山)[16-4] 京都一商(京都)
満州(中国東北部)、朝鮮からも代表校が加わり17代表に。和歌山中が4試合で75点の大会記録。
第6回
1920年
関西学院中(兵庫)[17-0] 慶応普通部(東京)
北海道代表が加わり15代表に。
第5回
1919年
神戸一中(兵庫)[7-4] 長野師範(長野)
全国14代表が参加。敗者復活戦を廃止。
第4回
1918年
米騒動で中止
予選は行われたが大会は中止に。
第3回
1917年
愛知一中(愛知)[1(延長14回)0] 関西学院(兵庫)
会場を兵庫県の鳴尾球場に移す。五輪を参考に初の入場式。
第2回
1916年
慶応普通部(東京)[6-2] 市岡中(大阪)
全国12代表が参加。市岡中・松本が大会初のノーヒット・ノーラン。敗者復活戦を導入。
第1回
1915年
京都二中(京都)[2(延長13回)1] 秋田中(秋田)
大阪府の豊中球場で全国中等学校優勝野球大会として開催。全国10代表が出場した。広島中・中村が大会初本塁打。

この一覧によると第1回は1915年 の京都二中(京都)と秋田中(秋田)の試合でした。延長13回の末、2対1で京都二中が勝ちました。
第二次大戦の為1941年から45年まで中止になりました。
自分は1936年の生まれなので主に戦後の試合に思い出があります。
その時代のことをいろいろ想うのです。
皆様も夏の甲子園にまつわるいろいろな思い出をお持ちのことと存じます。
夏の甲子園は日本の時代を刻む文化です。過去の試合たちはそれぞれの時代の空気を思い出させてくれます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)