後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「遂に小金井でも桜が本格的に咲き出しました」

2024年03月31日 | 写真
小金井のあちこちで遂に桜が本格的に咲き出しました。今日の陽気に誘われて小金井公園まで行って来ました。ところが小金井公園の中央広場の数十本のソメイヨシノだけは咲き出していません。あと4,5日はかかるようです。残念。
今日撮ったサクラの花の写真をお送り致します。




「カトリック小金井教会の今日の復活祭のミサの風景」

2024年03月31日 | 写真
カトリック小金井教会の今日の復活祭のミサの風景の写真をお送り致します。
通常のミサの式次第は以下のとうりですが、今日は3人の洗礼式が挿入されていました。
通常のミサの式次第、
  開祭
司祭:父と子と聖霊のみ名によって。
会衆:アーメン。

回心の祈り、栄光の賛歌、ことばの典礼、感謝の典礼、奉献文、感謝の賛歌、閉祭



「教養としてのキリスト教、今日の復活祭の意味」

2024年03月31日 | ブログ
キリスト教のことを知れば欧米人の考え方が分かると言います。文学や絵画彫刻や音楽がもっと味わい深くなるとも言います。ですから多くの日本人は教養としてキリスト教を身につけています。
今年は3月31日の日曜日で復活祭です。キリスト教の復活祭です。
そこで復活祭の意味やその重要性について簡単に書いてみたいと思います。
簡単に書いてしまえば復活祭はキリストが十字架にかけられ処刑され、3日後に生き返ったことをお祝いするお祭りです。
キリストが生まれた日はクリスマスとして日本でもお祝いの食卓を囲む人が多く、日本の重要な歳時記として定着しています。12月24日のクリスマスはヨーロッパの原始宗教の冬至祭を踏襲しました。
その一方で復活祭は日本ではあまり有名ではなく、一部のクリスチャン関係者だけが祝っています。
復活祭は春の到来を祝うお祭りを踏襲していますので、日本でももっと有名になっても良いと思います。しかし「一旦、死んだ人が生き返る」という不自然さ、不合理さがあるので日本では受け入れらなかったのでしょう。
しかしキリスト教徒にとっては復活祭は一番重要な祭日です。ある意味ではクリスマスよりも非常に重要な祭日です。

さて復活祭に関した写真を示します。
この絵画は「イエス・キリストの復活」です。ラファエロRafaelo が描きサンパウロ美術館(ブラジル)にあります。1499-1502年の制作です。

今日は復活祭なので私と妻は教会のミサに行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============================
マルコの福音書 16章 復活したイエス
1 翌日の夕方、安息日が終わると、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、それにサロメの三人は、さっそくイエスの遺体に塗る香料を買い求めました。
2 その翌朝早く、日が昇るとすぐ、女たちは香料を持って墓へ急ぎました。 3 女たちには気にかかることが一つあり、道々、そのことばかり話し合っていました。どうしたら、あの大きな石を入口から取りのけることができるかということでした。 4 それがどうでしょう。墓に着いてみると、あの重い石は動かしてあり、入口が開いているではありませんか。 5 中に入ると、右のほうに白い服を着た青年(天使)が座っています。女たちはびっくりして、息も止まるほどでした。 6 その青年がおもむろに口を開きました。「そんなに驚くことはありません。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのでしょう。あの方はもうここにはおられません。復活されたのです。ごらんなさい。ここが、あの方の納められていた場所です。


「あるドイツの友人の旅立を悲しむ」

2024年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は後期高齢者になると友人たちが一人一人と旅立って行きます。自分と同じ位の年齢の友人が先に逝ってしまうのは淋しいものです。ドイツの友人のグーデナウさんが2019年に亡くなりした。
彼との交友の思い出を書きます。冥福を祈りつつ書きます。
彼と最初に会ったのは1970年にドイツ西部のアーヘン工科大学を訪ねた折でした。アーヘン工科大学には鉄冶金の研究で有名なシェンク教授がいたので憧れていたのです。しかしシェンク教授は引退してしまって会えませんでした。その代わり私を暖かく歓迎してくれたのがグーデナウさんだったのです。彼は私と同じくらいの年齢でしたので自然と友情が生れたのです。

1974年に再びアーヘンを訪問したときは彼は自分のスポツカー、ポルシュに私を乗せあちこちに連れて行ってくれたのです。
まずアーヘン市内の古代ローマの遺跡へ案内してくれました。アーヘンに近いベルギーへも観光に連れて行きました。
そして彼の実家に泊まり掛けで招待してくれたのです。
両親はもういませんでしたが工場経営者だった父の思い出を聞きました。

そんな縁で私の大学の研究室の雀部実さんをアーヘン工科大学へ招聘してくれたのです。
その後、鉄鋼会社の日本鋼管がグーデナウさんを顧問として日本に招いたのです。
グーデナウさんの日本滞在中は私の研究室によく出入りして、若い大学院生たちと一緒にビールを飲んだのです。
特に博士課程の板谷宏さんとはとても親しく交わっていました。

ある時はグーデナウさんと研究室の若い人たちが甲斐駒岳の麓の山林の中の私の小屋にも来てくれました。
麓の酒屋さんに頼んで小さい木の樽に詰めた生ビールを私の小屋まで運び上げて貰ったのです。
それは星の美しい夏の夜でした。あの時の木の樽の生ビールの美味しかったことが忘れられません。
私の家にも何度か遊びに来ました。大柄な体格で陽気な性格でしたので日本人の友人も沢山出来たようです。

グーデナウさんは日本語が出来ませんでしたが日本人に分かり易い英語でゆっくり話してくれたのです。
その後、私は何度かドイツに行ったときはアーヘンのグーデナウさんを訪問しました。その頃はかつてのシェンク教授の後継者の教授になっていました。
もう随分前に私も大学を引退し、久しくグーデナウさんと会っていませんでしたが彼の友情を終生忘れません。

今日の挿し絵代わりの写真は彼の実家の庭で咲いていたドイツの夏の花々の写真です。写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_82873405_ドイツの夏の中でバラの芳香花.html?fbclid=IwAR22SMycwFa8dViVnJnI73y2tcPQiftH5q7cbmmW0dNPmfHmt7KKUgby35Q です。

さて高齢者の皆様にも先立たれる友人達の思い出が沢山あると存じます。こうしてその思い出を書くのも供養の一つの方法と思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の小金井公園の桜と菜の花などの写真」

2024年03月30日 | 写真
2,3本の桜がやっと咲き出しました。しかし中央広場にある数十本のソメイヨシノは全然咲いていません。その圧巻の風景はあと4,5日後になるようです。
今日咲いていた桜と菜の花などの写真をお送り致します。


「ドイツの紅葉の思い出」

2024年03月30日 | 写真

ドイツの紅葉は緯度が高いので、急に真っ赤、真っ黄色になって、冷たい雨が降って、すぐに散ってしまいます。その紅葉の色は鮮烈です。

もうすっかり遠い昔になってしまいましたが、1969年の9月に見たローテンブルグの町の紅葉は忘れられません。城壁の外の住宅に下宿していたので、毎日、車で城門をくぐり、ドイツ語学校へ通ったものです。

そして日が暮れ行くころには、タウバウ川のほとりから、紅葉に彩られた町を囲む城壁が夕陽に輝くのを毎日見上げたものです。

それはいつも独りで見上げていた晩秋の風景でした。異国の秋の夕暮れは何故かもの悲しいものでした。

そんなドイツの紅葉を思い出したのでネットに写真が無いか探してみました。

そうしたら、「もうすけさん」のブログ(http://mo-suke1122.blog.so-net.ne.jp/2010-10-31)の中にありましたので、以下にドイツの紅葉の写真をお送りいたします。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。




「曾遊の地、スイスの風景の写真」

2024年03月30日 | 写真

南ドイツに住んでいた頃にスイスは近いのでよく行きました。懐かしいです。スイスの風景の写真をお送り致します。
写真は順に、グリンデルワルト、インターラーケン、ルツェルン、マッターホルンです。昔、旅した懐かしい曾遊の地です。
写真の出典は、https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/sLyW0 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「青雲の志でドイツにも留学、そしてハプスブルグ家のこと」

2024年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は「青雲の志を抱いて郷関をいづる」という記事を書きました。
私が青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ留学したのです。1960年の夏のことでした。何故か、「青雲の志」という言葉は私の心に長く住み着いて今度はドイツに留学しました。
ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで1年4ケ月住んでいました。
そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化の非常に違うということでした。
日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。
ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツでは「グリュースゴット」と言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。
シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバーベン出身の人以外には貸さない家主が多いのです。シュツットガルト地方は昔、シュバーベン王国だったのです。要するに地元の人にしか貸さないのです。新聞広告にはっきり「 シュバーベン人に限る」と明記してあります。

さてヨーロッパの中世の文化を眺めるとハプスブルグ家の影響が大きかったことに気がつきます。
中世のハプスブルグ家がヨーロッパのあちこちに広大な領土を所有していました。ハプスブルグ家は軍隊も持っていました。
日本では産業革命以後のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの文明を熱心に取り入れて富国強兵を実行し幾つもの戦争をしました。
従って産業革命より古い中世のヨーロッパの文化をとかく軽視する風潮があります。
しかしヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を調べてみるとヨーロッパのある重要な側面が見えて来るのです。
ハプスブルグ家は武力と婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めた一家だったのです。
中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼし、「ヨーロッパは同じ文化圏」という考え方を定着させたのです。
ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメディチ家です。
この2つの家だけが有名なのは王様の権力以上の権力を握っていたからです。
王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり学校では丁寧には教えません。
それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを一番目の写真の地図で示します。

1番目の写真は1547年時点でのハプスブルク家の領土を黄色で示した図です(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)
ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しております。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。

2番目の写真はがウイーンのシェーンブルン宮殿です。(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83…)
そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。
その歴史は複雑ですが、ご興味のある方は末尾に付けた参考資料をご覧ください。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その例はマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させたことでもよく知られています。その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、現在のヨーロッパ統合のEUの成立の背景になっているのです。現在のヨーロッパ連合や通貨の統一はこのような歴史の影響があるのです。
現在も日本では、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/operafestival/8729389.html)を発表しています。
ハプスブルグ家がこのように現在の日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。
ハプスブルゲ家の詳細は末尾の参考資料にあります。
最後に1969年の夏から秋の3ケ月間のドイツ語研修で私が住んだローテンブルグ・オプ・デア・タウバーの写真を示します。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)
===========参考資料=================
ハプスブルク家(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。以下省略。

「青雲の志を抱いて郷関をいづる」

2024年03月28日 | 写真
戦後の貧しさが漂っていた頃の仙台の思い出です。主な道路の中央しか舗装されていず、風の日は砂ぼこりが舞っていました。
私はその砂埃りの道を自転車で高校に通っていました。その高校は旧制の中学校がそのまま高校なった学校です。旧制中学のドイツ語や漢文の先生が熱心に教えていました。特に漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。
何度も青雲の志を抱いて郷関をいづるという文を教えていたのです。
若い私はその教えを文字どおり信じ、人生の道しるべにしました。
この「青雲の志」は唐時代の張九齢の次の漢詩の中に出てきます。若い頃の青雲の志を懐かしんでいる漢詩です。
この教えに従って私は仙台を飛び出してオハイオ州に留学しました。
私が青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ行ったのは1960年の夏のことでした。
私は故郷、仙台の友人や親類の見送りを受け、羽田を飛び立ちました。主翼に4個のプロペラが勢いよく回っているノース・ウエスト機で太平洋を渡りました。
大学では指導教官のセント・ピエール先生が歓迎してくれて、いきなり9月の学期から博士コースの講義を3課目聴きなさいと言います。
その指導教官のセント・ピエール先生を懐かしく思います。講義を聞いたスパサー先生を懐かしく思います。茫々60年以上前のことでした。
そこで懐かしい二人の先生の写真を示します。

この写真は私どもの結婚披露宴でのセント・ピエ-ル先生(右)とスパイサー先生(中央)です。私どもは左に写っています。
懐かしさのあまりセント・ピエ-ル先生とパイサー先生の写真をお送り致しました。


「アメリカでの質素な結婚式とレセプションの写真」

2024年03月28日 | 写真
結婚は人生の重大なことです。私は67年間幸福な結婚生活を続けています。今日は私どもの結婚に関する写真です。
67年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。もう67年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。
1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。
 
2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。

3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。

4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です。レセプションはダウンタウンのディッシュラ―ヒルトンホテルで行いました。左の人が私の指導教官のセント・ピエール教授です。セント・ピエール教授の右に私の父は立っていましたがこの写真では人陰になって写っていません。

5番目の写真はデョッシュラ―ヒルトンホテルで行ったレセプションに出てくれた同級生です。

6番目の写真はレセプションに出てくれた同級生の奥さん達です。
結婚式とレセプションには内木先生夫妻や秦先生夫妻も出てくれました。内木先生と秦先生の奥さんは色鮮やか和服姿でした。
同級生の2人はレセプションの後で残った大きなウエディングケーキを私どもの家に届けてくれたのです。おかげで私どもは数日間ケーキを美味しく食べました。
7番目の写真は無事に結婚した直後の私どもと私の父の写真です。私どものアパートの駐車場でした。

今日は私どものオハイオ州のコロンバス市での結婚に関する写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「我が人生で一番感動した若い頃のアメリカ留学」

2024年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
幸運にも老境まで健康に生きてきました。長い人生には嬉しいこと、悲しいこと、苦しいことなどいろいろありました。しかし我が人生で一番感動したことは若い頃のアメリカ留学でした。
今日は私のアメリカ留学のことを書きたいと思います。
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。初めての外国体験でした。
その時アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。今でも感謝しています。
例えば博士過程で実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属した機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。
1番目の写真はオハイオ州立大学のロードホールという建物ですが、その一階の右の部屋にその実験装置を作りました。2階には講義室がありました。インターンットからお借りした写真です。
そして学科主任のフォンタナ教授が励ましてくれたのです。そしてフォンタナ教授の秘書のヘレンさんもいつも親切にしてくれました。
同級生もノートを見せてくれたり、英語のできない私を助けてくれました。
そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。 妻を日本から呼び寄せ、オハイオで結婚式を挙げたのです。 それは1961年のことでした。
セント・ピエール教授夫妻が結婚式や披露宴の会場などを手配してくれたのです。その上地元の新聞に私共の結婚の記事や写真が大きく掲載されるように手配してくれたのです。地元の新聞はコロンバス・ヂスパッチといいました。

アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。
例えばオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ家内と生後6か月の娘と行ったとき車が故障しました。周りはぼうぼうたるトウモロコシ畑です。途方に暮れていると、一台の車が止まってくれました。
2番目の写真はその時乗っていた車と妻です。自分で撮った写真です。
若い男が私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。この様な体験は数回しました。
このような体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。それが人間として当然ではないでしょうか?
老境にいたった今、それらを静かに思い返しています。
懐かしのでオハイオ州の写真もっと出します。
3番目の写真は夏のオハイオ州の平原です。インターンットからお借りした写真です。
4番目の写真はよく走った道路の風景です。インターンットからお借りした写真です。

5番目の写真は大学の正門前のオハイオ州立大学の看板の写真です。
大学は中心街からノース・ハイ・ストリートを北に行った所にありました。

6番目の写真はオハイオ州立大学の全体の航空写真です。インターンットからお借りした写真です。
中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。

7番目の写真は大学の近くのノース・ハイ・ストリートに面した店です。よくアメリカ人の同級生とコーヒーを飲みに行ったものです。インターンットからお借りした写真です。
私が妻と娘と一緒に帰国したのは1962年の秋でした。帰路にパリやロンドンを回りました。

茫々、あれから60余年です。親切に接してくれた全ての人に感謝しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「曾遊のリゾートホテル、上高地帝国ホテルと穂高連峰の写真」

2024年03月26日 | 写真
よく泊った上高地帝国ホテルです。家内が撮った上高地帝国ホテルの写真と残雪のある穂高連峰の写真 をお送り致します。 
 上高地帝国ホテルは1933 年(昭和8 年)わが国初の本格的高級山岳リゾートホテルとして開業しました。
 スイスの山小屋をイメージした赤い三角屋根と吹き抜けのロビーの巨大な暖炉が特徴のクラシックホテルです。
残雪のある穂高連峰が眼前に迫る眺望は上高地帝国ホテルの大きな魅力です。上高地は標高1500mで冬期は雪に覆われて通行ができなくなるので毎年4 月下旬から11 月上旬の約半年間だけ営業しています。
上高地帝国ホテルと残雪のある穂高連峰の写真をお送り致します。帝国ホテルの写真は家内が撮りました。穂高の写真は2010年7月5日午後に大正池から河童橋へ梓川沿いに歩きながら撮りました。青空の見える日でした。 


「曾遊のリゾートホテル、ウインザーホテル洞爺の思い出」

2024年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
2014年12月1日に泊まったウインザーホテル洞爺は感動的なホテルでした。
絨毯が厚く、その模様が落ち着いた美しい柄で感銘深い内装でした。その上ホテル内の壁紙や装飾が実に華やかです。ケバケバしくない品の良い華やかさです。
そこでその外観と内装の写真をお送りします。華麗な内装の美しさをお楽しみ下さい。「ザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパ」は、洞爺湖を一望できる高台に建っているリゾートホテルです。ロビーやレストラン、そして客室から臨む洞爺湖や内浦湾の美しさと、思わず深呼吸したくなる開放的な大パノラマが魅力です。 

そして朝食の写真です。

このホテルの華麗さのかげには経営の破たんによる有為転変があったのです。
そんな苦難の歴史があったような気配を感じさせない従業員の態度には別の意味で非常に感動しています。
http://biz-journal.jp/2014/05/post_4766_2.html  より抜粋します。
このホテルには有為転変の歴史があり、経営が破綻した北海道拓殖銀行の乱脈融資により生まれた“バブルの殿堂”としても知られる。
カブトデコムの子会社エイペックスが700億円を投じて1993年6月に開業した会員制の高級ホテル、エイペックス洞爺が前身である。
イタリア産の大理石張りのロビーなど贅を尽くした建物は、バブルならではの産物といわれた。
 しかしバブルは崩壊し、同ホテルのオープンを境にして、巨額融資した拓銀とカブトデコムの関係が悪化。
そして97年11月、バブル崩壊で多額の不良債権を抱えた拓銀が破綻、エイペックスも98年3月に自己破産を申請した。負債総額は949億円に上った。
そんな中、同ホテルに救済の手を差し伸べたのがセコムだった。
施設を改装してザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパと名前を変え、2002年6月に営業を再開した。そして2014年7月1日より明治海運グループとなったのです。
このように経営の破たんによる有為転変があったのです。
しかしウインザーホテル洞爺は感動的なホテルでした。