後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

シクラメンの花の季節になりました。そして倒産してしまった花屋さんの思い出

2012年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

毎年、暮が近づくと花屋さんにシクラメンの花の鉢が並びます。家内はいくつかの鉢を買って、先生、お世話になった恩人や両親や姉へ贈ってました。でもみんな亡くなってしまい今年は姉と自分自身のためだけになってしまいました。一番上は家内用と自分用です。別々の店で買って来ましたが趣味が一致していたので笑ってしまいました。

二番目の真紅の鉢はは姉へ贈りました。その下の3枚の写真は花屋さんに並んでいた花々です。

今日買って来たシクラメンの花と店に並んでいた花の写真をお送りいたします。

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毎年シクラメンの花を買うと、なくなってしまったある花屋さんのことを思い出します。

私達が何十年も通っていた大きな花屋さんが五日市街道沿いにありました。それが数年前に突然無くなってしまったのです。倒産してしまったのです。

働き者の大柄な明るい奥さんが花を売り、静かなご主人がいつも花々の手入れをしていました。手伝っていた若い人々も皆元気で優しい人ばかりでした。

みんな、みんないなくなってしまいました。

それは我が家にとっても悲しい大事件でした。

その花屋さんへは、毎年暮れに、シクラメンの鉢を数個買いに行ったものです。パンジーや芝桜の苗、クロッカス、フリージアの球根も買いました。

庭木もいろいろあり、海棠やライラック、源平桃の苗木を買いました。家内の母が好きな牡丹桜の木も買いました。大きな花屋さんで4棟の温室には熱帯の花々がいつも咲いていたので楽しい場所でした。

その花屋さんのあった場所は現在、大きな回転すし屋さんになっています。

最近は武蔵境の東八道路に面したJマート店の広い花売り場へ時々行っています。

広い売り場には鉢植えの花も、切り花も庭木も売っています。売り場を歩き回りながら時々写真も撮れます。珍しい花もあります。

上の3番目から5番目の写真はこのJマート武蔵境店で撮って来た写真です。

それにしても花々にはいろいろな思い出がまつわりついています。その思い出を楽しみながら花を買う時はささやかな幸せな時間です。

間もなくクリスマスもやって来ます。皆様も楽しい時を過ごせますようにお祈り申し上げます。    (終わり)


12月16日の衆議院選挙・・・大津波と原発爆発で変わった日本人の人生観

2012年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、12月16日の衆議院選挙にむけて人々はどの人へ、どの党へ投票すべきか迷っています。

原発廃止か推進かという問題以外にも日米関係や日中関係をどうするかという外交問題も重要ですし、経済政策も非常に重要です。すべての分野の政策提案を考えると自分の考えと完全に一致する候補者はなかなか見つかりません。

そこで個々の政策提案にとらわれず、最後は自分の人生観に近いような感じがする候補者へ投票しようかとも思っています。すなわち感じ方によって候補者を選ぶことになります。

このブログを始めて丁度5年になります。ブログを書いていて私の人生観も変わりました。科学者、あるいは技術者として信じていた事に反対する人々が多いことに気がつきました。反対する人々には合理的でない人が多いのです。理屈抜きで直観的に判断しています。

その様子を虚心坦懐に観察した結果として私は、2009年2月24日に原子力発電を廃止して行くべきという記事を掲載しました。(原子力発電に反対し、現実的な解決法を提案します」)

原子力発電の問題だけでなく日米関係や日中関係、そして国内の経済政策についても所詮は将来の問題です。一見合理的な予測でも、予測はあくまでも予想に過ぎません。全ては不確定な仮説に過ぎません。

昨日は、それを考えなが下の写真のような神代植物公園を散歩していました。そうしたら12月16日の選挙には、日本人の人生観がどのように反映されるかという問題に行き着きました。

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2011年3月11日に1000年に一度という大津波が東日本を襲ったのです。そしてそれに続いて福島にある原子力発電所の4基の原発が爆発したのです。それ以後、いろいろなことがありました。

しかしこの未曾有の大震災と大事故で日本人の人生観がかなりの程度変わったように思います。

2011年3月11日までは、経済成長こそが幸せな生活を保障し、そして経済成長だけが日本の幸福と信じる人が多かったのです。GDPのランキングが2位だったことを自慢していました。

しかし大津波と原発の爆発はそのような人生観を根本から変える可能性を与えたのです。

経済成長を犠牲にしても安全な国に住みたいという考えが広まったのです。日本が貧乏国になっても放射能の恐怖の無い国になったほうが良いという人生観に変わったのです。

反原発を主張する人々は日本が貧乏国になることは覚悟の上なのです

一方、原発推進派は日本の経済成長のためには原発が絶対必要だという理論を構築し、反対派を攻めたてます。反対派は経済成長はもう不要だと覚悟しているのですから議論が噛み合いません。互いに暖簾に腕押しの空虚な対立が続いているのです。

突拍子も無いことを連想するのは私の悪い癖です。この「もっと貧乏になっても良い」という考えが、何故か下の長崎にある26聖人の像を思い出させたのです。彼らは現在の日本の様子をどのように思っているのでしょうか?

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和お祈りをいたします。後藤和弘(藤山杜人)

=====2009年2月24日掲載記事と補足===========

矛盾した考え方があなたを幸せにする(2)私は2009年に原発反対に態度を変える事が出来た!

個人的な経験ですが、私は1961年に東海村の日本原子力研究所で日本最初の原子炉の運転講習会に参加しました。それ以来、2009年2月まで一貫して原子力発電賛成の態度を持ち続けていたのです。

2007年にブログを書き始めてから、原子力発電の分かり易い解説記事を何度か掲載しました。そしてその安全性を説明する記事も掲載しました。ところが、色々な反対意見のコメントを貰ったのです。

その反対意見は立場を変えれば当然な意見です。

その結果、私は「矛盾した意見や見解も、両方を受け入れて、自分で咀嚼してしまえば幸せになれる」という考えを持つようになりました。

原発賛成者には技術者や政治家が多いのです。大会社や役人も賛成派でした。

要するに日本の主流派が賛成していました。しかし共産党や社会党は反対です。その上大多数の主婦が反対していました。

私は原発の事故の確率は飛行機事故の確率より小さいように考えられるという説を盲信して推進に賛成でした。あくまでも技術的な視野からだけ考えていたのです。

共産党や社会党の政治的反対には感情的に反発して来ました。

ところがブログを始めてみると主婦達の反対意見は女性の本能的な直感からの反対です。

「一旦事故が起きたら広範囲に放射能がまき散らされる」。「そして子供の成育に長期間の悪い影響がでる」。この2つの理由だけです。少しも政治的な意見が混じっていません。

技術的な確率論だけから考えて来た私はこの盲目的な反対論を軽蔑していました。しかしよくよく考えて見ると一旦事故が起きたことを想定すると主婦達の考えの重要性が理解出来たのです。

その上、ここが一番重要な事ですが、主婦達が恐怖を抱いて生きている国は幸福な国とは言えないという考えです。世の中の全ての女性が少しでも恐怖を抱いて生けている国は不幸な国なのです。

「国家の幸福度」という指針を考慮に入れれば原発は次第に縮小した方が良いのです。

====補足=======================

このように私は2009年に原発反対者になりましたが、2011年にあの福島の4つの原発が大爆発したのです。主婦達の主張がまったく正しかったのです。

さて原発の現状はどのようになっているでしょうか?

現在日本にある54基の原発のうち48基が定期検査で全て停止します。大飯原発の2基だけが稼働しています。

そして定期検査終了後の再稼働の開始には、原発のある県の知事の認可が必要です。多くの知事は福島県の困難な状況を見て、再稼働の認可に反対です。

従来から反対運動をして来た主婦達の意見の正しさを認めないわけにはいけなくなりました。

その上、原発が無くても日本全国の電力のやりくりがつくことも明らかになって来たのです。

この情勢では日本の原発はその数を減少せざるを得ません。完全撤廃にはまだ問題が残っていて早急には進みませんが。

しかし定期検査中の原発も、運転中と同じ位危険なことを忘れてはいけません。

数百本の核燃料棒が貯蔵プールの中にあるのです。プールの水が無くなる事故が起きればすぐに水素爆発をします。福島原発の4号炉と同じ爆発をするのです。

定期検査中の原発の現状をマスコミはもっと突っ込んだ取材をして実情を公開すべきと思います。

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都営神代植物公園とはこういう所です・・・是非一度お出かけ下さい

2012年11月29日 | 写真

なかなか良い所です。JR三鷹駅や吉祥寺駅から深大寺行きのバスが結構頻繁に出ています。京王線調布駅からもバスの便があります。車の場合は植物公園の西入り口に広大な有料駐車場があります。

今日の午後の散策で撮りました。

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小春日の深大寺かいわい

2012年11月29日 | 写真

今日は朝から穏やかな小春日です。深大寺遊びに行き美味しい蕎麦の店、「多聞」でとろろソバを食べました。午後は少しばかり神代植物公園を散歩しました。風の無い暖かな日のせいか多くの人々が深大寺かいわいに歩いていました。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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美しいバラの花と冷たい鉄・・・高度成長期のある歴史的エピソード

2012年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

まずバラの花のお好きな方々へ写真を3枚お送りいたします。

11月5日に箱根町の山のホテルの庭で撮った秋バラです。

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よく見るとバラの花は気品があってその上ふくよかな暖かさがあります。

このバラの花と冷たい鉄の関係について日本の高度成長期のある歴史的エピソードとして書いておきたいと思います。

日本の経済が急速に伸びだしたのは東京オリンピックのあった1964年ころからでした。当時の工場地帯には高い煙突が何本も立ち、煙をもうもうと吐き出していました。その煙突の数の多さと煙を見て人々は「ああ、日本も復興した!」と感激したものです。

しかしあまりにも煙が多くなると喘息や気管支炎になる人が増え、いわゆる「公害病」が起きるようになります。工場廃水で汚染された海の魚を食べた人が悲惨な「いたいいたい病」にもなったのです。工場廃水に含まれていた有機水銀が原因でした。

そこで工場は排出される煙を取り除き排気するものは水蒸気と炭酸ガスにだけしたのです。喘息や気管支炎の原因になる粉塵や硫黄酸化物ガスや窒素酸化物ガスを取り除いてから煙突から排気するようになりました。そのうち煙突も公害の象徴のようで目障りなので撤去してしまいました。排気は巨大な低い排気管から行い、工場の外からは見えなくなりました。強力な送風機を使えば高い煙突は必要無くなったのです。

こうして1970年代には日本の工場地帯からは高い煙突が消えてしまったのです。

次に起きた歴史的運動は「工場緑化運動」でした。工場の周囲や空いた敷地に常緑樹を沢山植えて外からは工場が見えなくしたのです。「工場を美しい森の中に作る」というコンセプトです。

その頃、私は大学で鉄鋼製錬の基礎研究をいていました。

当時は製鉄会社の技師が基礎研究の成果を自分の工場に導入しようという情熱を持っていました。その情熱が高度成長の原因の一つでした。その結果、私は日本鋼管、川崎製鉄、八幡製鉄、富士製鉄の工場の見学に招かれたものです。見学の前後には技師たちと鉄鋼製錬の基礎に関する討論会が必ずついていました。その時気が付いた事は、工場の技師たちは、外国における鉄鋼に関する化学や物理の研究成果をよく知っていることでした。彼らは工場内でグループを作り外国の専門書や研究論文を自主的に勉強していたのです。今思えば、その熱情も高度成長の一つのカギと思います。兎に角、当時の技師たちは燃えていたのです。

さて話がそれてしまいましたがバラの花々と鉄の話へ戻ります。

上に書いた「工場緑化運動」では鉄鋼業の各工場ではキョウチクトウやツバキのような常緑樹を植えたのです。背が高くなるクスノキやヒマラヤ杉なども植え工場を外から見えなくしたのです。

その中で特に日本鋼管の新鋭の福山工場では周囲に高い鉄製のフェンスを作り、そのフェンスにバラを絡ませ、大輪の花を咲かせたのです。山陽新幹線の福山駅を降りて車で日本鋼管の工場を訪問すると、まず500m以上の長さのフェンスに見事な白いバラの花がえんえんと咲いているのです。工場内に入ると表通りに面したフェンスだけでなくあちこちの空き地に色とりどりのバラの花が咲いています。案内した技師が、「バラの花園の中の工場」、これがコンセプトですと自慢そうに言います。

福山市も勢いづいて「バラの町、福山市」という看板を新幹線の駅に掲げて観光客を呼び込んでいます。下に溶鉱炉工場の写真を示します。これをバラの花で飾り、その内側に背の高い常緑樹を植えて近接する道路からは見えないくなるように努力したのです。

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近年、日本鋼管の経営は苦しくなり川崎製鉄と合併し、会社の名前もJFEと変わってしまいました。えんえんと続くあの見事なバラのフェンスも無くなったのではないかと心配しています。

日本の高度成長期のある歴史的なエピソードとしてご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


やはり海の風景には心がいやされます・・・伊豆半島東海岸の海

2012年11月28日 | 写真

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11月19日に伊東から石廊崎まで往復のドライブを楽しみました。往復170Kmでした。

やはり海の風景には心がいやされます。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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アルゼンチナ丸と南米移民の物語

2012年11月28日 | インポート

この前の記事(戦後のアメリカ留学の記録・・・その喜びと苦しみ)で黒田さんが南米へ渡る移民達と一緒にアルゼンチナ丸に乗って11日を費やしてサンフランシスコへ上陸したとことを書きました。そこでこのアルゼンチナ丸や戦後の南米への移民について調べ始めました。

そうしたら戦前、戦後の移民の歴史をまとめた詳しいブログ記事を見つけましたので以下にご紹介いたします。まずアルゼンチナ丸の1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。出典:http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571 

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そして南米へも移民の歴史を書いたブログを以下にご紹介いたします。未知の南米大陸へ移民する人々の勇気と決断には頭が下がります。その決断の後で乗ったアルゼンチナ丸での生活の記録が載っているブログです。そしてその後の開拓の様子も報告してあります。

このよう戦後の移民の実態を記録した文献は歴史的に大変貴重な文献と考えられます。

戦後の復興にばかり目をやらないで海外における日本人の活躍も忘れずに歴史に刻んでおくべきと思います。海外に住んでいる日本人をもっと、もっと重要に思うような視野の広い文化を持ちたいと祈っています。

これから少しずつ日本人移民のことを調べて行きたいと思いますので、どうぞ情報をお教えてください。

======『ブラジル戦後移民』 50年の記録 ======http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.php
私たち、あるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス港下船)の同船者681名は、平成14年5月11日で40年を迎えました。当時のあるぜんちな丸第12次航の船内新聞「さくら」の編集責任者をしていた私と船内ニュース班の仲間として手伝って呉れた編集員が中心になり船内新聞の40年後の特別号、号外の形で戦後移民40年の移住史の一部を皆で書き残そうとの企画が持ち上がり、出来れば印刷、出版もと考えていましたが、時間的な問題、資金面の問題もありせめて寄稿して頂いた貴重な記録、原稿を大事にし、書き物にして後世に残して置きたいとの切なる願いから、当時のガリ版刷りの船内新聞の一部、黄色くなった名簿、懐かしい写真等を文明の利器PCを使い資料のDIGITAL化による保存を考えついた次第です。これらの無形に近い数多くの資料、写真等を我々同船者全員の資産として共有し、後世に残して行く事、民族の移動、移民、移住問題、個人の人生の選択等に関心を寄せる人達、特に海外に夢を馳せる若い人達に読んで頂ければとの気持ちでこのホーム・ページを開設しました。

平成14年5月にこのHPを正式公開し既に10年5ヶ月の歳月が過ぎました。今年の5月で私たちも着伯50年を迎えました。この50年に及ぶ戦後移住者の定着の過程、移住者としての記録を書き残すという作業は、編集者の私の力不足、時間的制約等に起因して思うような成果が挙がっていませんが、2008年は、日本移民100周年を日本とブラジルの両国で盛大に祝い日伯、特にブラジル社会で日本移民の100年に渡る歴史を認識して頂き、マスコミにも大いに喧伝されました。これからのブラジルに置ける我々日本移民は、200年に向かいどのように生きて行けば良いか問い掛けられる立場にあります。特に2009年にはアマゾン移民の80周年の節目の年に当たり、トメアスー、べレン、マナウスに置いて9月に盛大な式典が行われ在伯県人会主催の『第32回移民のふるさと巡り』の慶祝団232名の一員として参加させて頂き北伯に入られた同船者の皆さんと共にお祝いできたことはブラジルに住む者として大変幸せに思いました。
また昨年、2011は、南伯リオグランデドスール州の戦後移民55周年に当たり8月20日に初めてリオグランデ港に降り立った23人の内、州内に健在の9名の先駆者に州議会よりメダルを送られる式典を日本文化祭に実施しました。
本日、250万回アクセスを記録したのに合わせこのTOP PAGEの一部を書き換える事にしました。同船者仲間、ブラジルの領域を大きく超えて現在では、世界150カ国以上の国々からのアクセスが記録されており、2007年10月11日(水)になんと一日に6575回のアクセスがありました。10年5ヶ月で250万回のアクセスを記録、ブラジル総合サイトとして育って来ており、その管理運営にも大袈裟に云えば社会的な責任も伴うのではないかと身が引締まる思いがしております。

しかしながらアクセス数がどんなに増えようが基本的には同船者681名の戦後移住者としての生き様を書き残して行くという大要は変わりませんが今後はあるぜんちな丸で着伯した多くの仲間(合計11,102人)、ひいては戦後移住者全員、移住と直接関係の無い日本企業短期派遣社員、留学生、研修生、旅行者と幾らかでもブラジルと繋がりの出来た多くの方にブラジルを語って頂きインタネットを通じて少しでもブラジルに関心を持ちブラジルを知りたいとのお気持ちを持たれた時には『私たちの40年!!』にアクセスすればその目的が果たせると云った総合『ブラジル学?』のサイトとして育って行けばと念願しております。更に私達の同船者が入ったボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの仲間の様子、それらの国以外の移民の歴史(明治初期のメキシコ榎本移民、ハワイ移民、ペルー移民、戦後のドミニカ移民等)についても記録を集めて行きたいと思います。

=======以下省略==============


日本の高度成長を支えた技術・・・その歴史的一断面

2012年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、横浜で大学の同級会がありました。1958年に仙台の金属工学科を一緒に卒業した30人ほどの同級生のうち関東地域にいる15人ほどが4ケ月毎に集まって昼食会をするのです。

昨日集まったのは6人だけでしたので、皆が現職の時どのような仕事をしていたか丁寧に聞きました。技術者たちがどのように日本の高度成長を支えたか記録したいと思ったからです。

聞き出してみると、それは世に知られていない戦後史の一断面です。このような断片的な記録でも後世の役に立つと考え以下に簡略にご紹介いたします。

まず新日本製鐵で溶鉱炉の生産性を非常に増加させた製鉄技術者のGNさんの話です。

1958年にGNさんが入社した当時は溶鉱炉1本で一日に生産出来る鉄の量は1000トンだけでした。それが定年で退社するころには毎日10000トンも出来るように技術改良をしたそうです。溶鉱炉1本あたりの鉄の生産量が実に、10倍になったのです。

そのためには溶鉱炉の直径を大きくし、内部を高圧にして空気の吹き込み量を増大したのです。そうするとコークスの燃焼が急速になり鉄鉱石の還元が早くなったのです。

空気を吹き込む羽口からは重油や石炭粉を吹き込む技術も開発しました。

このような先進技術はソ連から購入したそうです。当時の溶鉱炉技術はソ連が世界一だったのです。そのためGNさんをはじめ溶鉱炉の技術者はロシア語を必死で勉強したそうです。

製鉄業の技術革新はもう一つありました。それは西ドイツから購入した連続鋳造装置でした。それを担当した技術者の苦労話は何度も聞いたことがあります。

こうして確立した日本の先端的な製鉄技術はその後韓国の浦項大型製鉄所へ伝授され、上海の宝山製鉄所へ流れて行ったのです。その結果韓国や中国の製鉄業が日本の競争相手になっているのです。

一方、ある大手商社に技術者として就職したOMさんはオーストラリアに埋蔵してあるウラン鉱石を掘り出して日本の原発の燃料として輸入する仕事に人生の大部分を捧げました。

まず大きな投資をして、オーストラリア政府を説得し、山奥に鉱山会社を設立し、ウラン鉱石を掘り出す技術と設備を作ったのです。それは大がかりな仕事でした。苦労の連続でしたが資源のい無い日本の繁栄のために身を粉にして働いたそうです。

もう一人のOTさんは石川島重工業でジェット戦闘機のエンジンの製作をしてきました。

航空自衛隊が完成した戦闘機をアメリカから購入するよりも日本で組み立てれば安く済むのが道理です。そこで戦闘機の設計図を買い、その製造を勉強すためにアメリカから技術者と腕の良い職人を招聘するのです。

戦闘機を日本で分解し、広い工場の床に数多くの部品を整然と並べます。それからまた組み上げます。それを何回も練習すると今度は設計図を見ただけで部品を組み上げることが出来ようになるのです。ところがここで一番重要なのはアメリカの職人から日本の職人が組み上げの途中の些細な注意を事細かに教えて貰うことです。

航空自衛隊の使用している新鋭戦闘機は実に職人技によって支えらているのです。このようなアメリカの技術者と職人の指導を一年位受けると、後は図面だけを買っても日本で新鋭戦闘機が作れるのです。

外国からある先端技術を買うということは人間による直接指導も一緒に買うのが普通です。

このようにして日本の製造技術が次第に進歩して行き、やがて世界を驚かす高度成長を達成したのです。このようなことは工業界すべての分野で実行されたのです。

日本の高度成長を支えた技術の歴史的一断面です。

さて余談ながら原発再開についても昨日のメンバーの意見はほぼ一致しています。皆は日本に資源が無いことで非常な苦労をしました。戦後の貧困も体験し、必死に努力してやっと日本の繁栄かちとったのです。

ですからこそ昨日の全員は原発が無くなり日本がまた貧困国に戻ることを本能的に恐れています。原発の事故防止の技術開発をし、使用済み核燃料の処理技術を前進させ、原発を速やかに再開するのが良いという意見です。

日本の高度成長に一生を捧げた彼らの意見を無視するのは人間として失礼な態度のような気がしています。

しかし一方、関係も無い福島県の人々が自分の家や故郷を捨てざるを得ない事実はどのように理解すべきでしょうか?それはあまりにも非道な話です。

このような非道は許されべきではありません。このことを考えると原発はやはり止めるのが良いと私は思います。

そんな感慨に打たれながら下のような午後のよわよわしい陽差しを眺めてから帰路につきました。湾岸道路で快適なドライブをしながら日本の将来を憂いていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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秘郷、秋山郷の悲惨な生活と離島、初島の厳しい生活の比較

2012年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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秋山郷は細い山道の奥深くにあります。

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この秋に長野と新潟の県境の秘境、「秘境、秋山郷」の旅に行きました。上の写真にあるような小型バスがやっと通れるような山道を根気よく分け入ると益々紅葉が綺麗になっていきます。

そして、2番目の写真の山々の奥には13もの村落が存在していたのです。

案内人が、「江戸時代の飢饉で村落全員が死に絶えたところもある」 と言います。衝撃を受けました。食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。改めて見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。

帰宅してから江戸時代の秋山郷の生活ぶりを記述した「北越雪譜」を丁寧に読み直してみました。<o:p></o:p>

「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。魚沼郡、塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。

そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。

そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。

フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。

家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。<o:p></o:p>

飢饉で一村が全滅した時もあったのです。その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。

考えてみると険しい山々の連なる山奥には人間の食べられる野生の植物や木の実は非常に限られた量しか生育しません。わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。そかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。

山の幸とよく言いますが、わずかな春先の山菜や秋のキノコや栃の実だけです。それも冷害で、取れない年が何年に一回巡りくるのが山奥の秘境なのです。

私はいろいろ考えています。何故、ヤギやウサギを飼育し、夏に太らせて冬に食べないのだろうかと考えます。ヤギやウサギは草食なので山の木々の若葉や下草で育つはずです。それを食べなかったのは江戸時代までの仏教の戒律だったのかも知れません。四足の動物は殺して食べてはいけないのです。場所によってはイノシシをや山クジラと称して、コッソリ食べていた地方もあったのに秋山郷ではそんな話も聞きませんでした。

秋山郷のことをあれこれ考えていましたら熱海の沖にある初島という離島の江戸時代からの生活を思い出し、つい比較してしまいました。下に熱海ー初島間の客船の上から撮った初島の写真を示します。

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そこは温暖な海に囲まれた島で、四季折々、魚貝が手に入ったはずです。

それでも生活は厳しいいので島全体の家の数を41家に厳密に制限した歴史があったのです。

 熱海から船で30分の初島には現在も41家族しか住んでいません。

長男が跡を継ぎ、娘だけの家では長女が婿をとり、家の数を一定にする伝統が現在でも生きています。それ以外の子供は島を出ます。

近海漁業と畑作だけの島では41家族しか生きて行けないからです。<o:p></o:p>

 船が島に着くと火山灰のような保水力の無い土が島を覆っているのに気がつきます。作物が出来にくく、真水に困る土地と分かります。これでは生活が苦しい筈と心が痛みます。<o:p></o:p>

 しかし島はあくまでも平和です。明るい雰囲気なのです。立派な家も貧しげな家も混在していません。41家族に貧富の差が無いようです。漁港に引き上げられ、並んでいる41隻の小型漁船は下の写真が示すように、みな同じ大きさです。

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漁期の申し合わせによって平等に魚や貝や海藻が行き渡るようにしているそうです。

苦しいとはいえ秋山郷の村落の生活の悲惨さに比較すると天国のような生活です。

下にこの初島の春の光景を示します。

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「海の幸」の対句として「山の幸」という言葉があります。しかし海の幸が圧倒的に多くて、山の幸は僅かばかりです。これがこの世の現実です。一体神様は何故このような不平等を作るのでしょうか?
不思議です。不可解です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

 


冷たい氷雨が降り続いています・・・暖かい夏の写真を2枚お送りいたします4

2012年11月26日 | 写真

自分で撮った夏の写真を見て暖かい気分になっています。

近所にある武蔵国分寺の七重塔跡で今年の夏に撮りました。

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下は去年の夏に霞ヶ浦で撮りました。この後の秋に25年間続けたヨットの趣味を止めましたが、ヨットの写真を見るのが楽しみです。ヨットの写真も撮りに行くのが趣味になりました。

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戦後のアメリカ留学の記録・・・その喜びと苦しみ

2012年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は横浜を出航する氷川丸です。戦後のアメリカへの留学生はこのようにして多くの親類や友人に見送られながら旅立って行ったのです。

1960年前後にオハイオ州立大学に留学した古い仲間が昨日集まりました。その中の福山さんと小林さんがこの氷川丸に乗って、はるばる太平洋を横断したのです。西海岸からはグレイハウンド社の長距離バスや鉄道でアメリカ大陸を横断してオハイオへ行ったのです。

そんな時代の記録を残すのも日本の戦後史の一場面として重要と思い、以下にご報告いたします。それは歴史には消えてしまうような、ささやかな歓喜と苦難の記録です。

下は昨日、渋谷、東急プラザビル9階の「甍」に集まった昔の留学生の写真です。

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当時、オハイオ州立大学の隣にあったバテル・メモリアル研究所で研究をしていた先輩格の増渕さんがボストンで養老院に入りました。奥さんも病気で入院したので、お二人へ声援を送って励まそうという趣旨の会合でした。

増渕さんは東大の造船学科の卒業で溶接の研究をしていました。従来不可能だったジュラルミンなどのアルミニューム合金の溶接方法を発見し、アメリカのNASAの宇宙ロケットの建造に大きな貢献をしました。後にマサチューセッツ工科大学の教授になりましたが、1960年頃はコロンバス、オハイオに夫婦で住んでいて、多くの日本からの留学生が大変お世話になったのです。

当時のアメリカは夢のように豊かな国でした。スーパーマーケットも高速道路も無い日本から行くと毎日が驚きの連続です。貧しい留学生でも大型のアメリカ車を自家用車にしていました。日本では富豪以外は自家用車を持っていない時代です。

そのようなアメリカに生活出来ることが「喜び」でした

そして真面目に勉強すると確実に成績が上がります。アメリカ人が尊敬してくれます。大学からの奨学金が上がって行きます。努力すれば報われる。そんなアメリカ生活が「喜び」だったのです。

勿論」、「苦しみ」は沢山ありました。貧乏の苦しみと勉強の苦しみです。しかしこの記事では省略いたします。

それよりも皆様にご紹介したいのは太平洋横断の往年の船の旅です。

福山さんは氷川丸の一等船客、小林さんは2等船客です。黒田さんはアルゼンチナ丸で移民と一緒の大部屋の客でした。太平洋壟断には11日間かかったそうです。

片山さんは大阪の郵船会社の貨物船に乗り込みました。

私は船では行かなかったので船旅に興味がありました。

そこで昨日は船の旅についていろいろ聞きました。

まず氷川丸ですが一等に乗った福山さんは良いダイニングで食事も毎日3回あり、何の苦労が無かったそうです。しかし2等に乗った小林さんは船内の行動範囲が制限されていて、その上、部屋も蚕棚の8人部屋です。丸窓が一つついているだけです。かなり窮屈な思いをしたようです。

現在、氷川丸は横浜の山下公園に係留され、一般公開されているのでこの蚕棚の客室を見学することが出来ます。バスもシャワーもついていません。共同のシャワールームがあるだけです。

私は係留されている氷川丸の内部を何度も見学しました。そして一等客室や一等デッキと、2等客室や二等デッキのあまりにも大きな差別に暗い気持ちになったものです。現在の豪華客船では一等客も二等客もあまり差別は無く、同じデッキを散歩しています。

一方、黒田さんはアルゼンチナ丸という移民船に乗りました。移民と一緒だったので窓もない船倉の大部屋だったの苦労したようです。しかし彼は気性のサッパリした九州男児です。苦労話は一切しません。ただ当時一番安い船にに乗ったというのが昨日の自慢話でした。その彼も、茫々50余年後の来週にはヨーロッパ漫遊の旅へ航空機で出発の予定と言っていました。なにやら豪華なパック旅行のようです。

ところで一番良い船旅をしたのは片山さんです。大阪の会社の貨物船に乗ったのです。貨物船は1人や2人の乗客を乗せます。食事も船長や機関長や航海長と一緒です。一等船客として丁重に扱ってくれるのです。部屋にもバスとトイレがついています。もちろん料金は高いのが普通です。

その貨物船で片山さんはパナマ運河を大西洋側へ出て、ニューヨークに上陸したのです。行程は1ケ月かかったそうです。パナマ運河の入り口に着くと現地の人々が小舟にバナナを積んで売りに来るそうです。船長が多量に買って片山さんへもくれたようです。戦後の日本ではバナナが貴重品です。片山さんはそのバナナが嬉しかったと何度も話していました。

太平洋を横断する船の旅は苦労が多いと思いますが、皆が青雲の志を持った留学生だったので苦労話は出ませんでした。しかし一緒に旅した移民達は大変だったようです。このブログでも戦後の移民についてこれから調べて、報告したいと思いました。

このように船に乗っての留学も1960年の氷川丸の引退を契機にして次第に旅客機へと変わって行ったのです。

なお昨日の出席者の中に先年亡くなられた秦さんの奥様もいました。秦さんご夫婦は当時生まれたばかりのお嬢さんと3人で暮らしていました。私も含め当時の日本人留学生は秦さんの家に行ってはよくお世話になったものです。

その奥様とはオハイオでお別れしてから50余年お会いしませんでした。昨日は黒髪豊かで、年を取っていないご様子なので大変吃驚しました。最近訪問したオハイオ州立大学の写真を沢山ご持参くださいました。懐かしい建物の写真を見て楽しい時を過ごせました。

この記事に対して増渕さんから以下のようなメールが来ましたので添付しておきます。

======増渕さんからのメール==============

去る11月11日に非常に久し振りに福山さんから e-mail を戴き「11月25日に Columbus に留学しておられた方々が近くお集まり」の由伺いました。今日その会合の「ブロク記事」を e-mail でお送り戴き有難く存じます。その記事には我々夫婦のことも記載されており非常に有難く存じます。

私は1958年12月4日にアフリカ丸で横浜を出発し、Los Angeles の近くの港に着きました。LA からは生まれて始めて飛行機に乗り、Chicago で一泊してから Columbus に行き、Battelle Memorial Institute に留学しました。それが始まりで今日まで人生の大半を米国で暮らすことになりました。

来年(2013)1月11日には私は89歳になりますが、久し振りに日本に行って見ようと思っております。現在の案では5月13日(月)成田着、26日(水)成田発を考えております。出来れば Columbus 時代の方々にお目に掛かる機会を得たいと思っております。増渕

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下に横浜に係留され公開されている氷川丸の写真とその歴史に関する参考資料をつけました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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=========氷川丸に関する参考資料========

氷川丸70年の航跡:http://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/01/index.htm

各地で歓迎された処女航海
 昭和5年5月17日、内地でお広めを済ました<氷川丸>はいよいよ神戸を出港、太平洋を渡りシアトルに向かいました。
 昭和5年といえば、排日移民法が可決されるなど、いよいよ日米の雲行きが怪しくなってきた時期でしたが、「グレートノーザン鉄道を父に、日本郵船を母に」育ったシアトルには未だ反日の嵐は及んで居らず、5月27日に無事に到着した<氷川丸>はシアトル市民から大歓迎を受け、3万人近い見学者が船を訪れました。
 6月29日、無事横浜に到着。神戸を経由して7月6日に門司に入港しました。
 門司港は岸壁を整備したばかりで、接岸第1船が<氷川丸>という事で、ここでもブラスバンドが繰り出され、数千人の市民が集まりました。
 その後、東支那海を渡り上海に進み、大陸にそって南下し、7月12日、帰着港・香港に到着。63日1万浬に及ぶ処女航海は成功裏に終了しました。
太平洋の貴婦人
 本来なら「太平洋の女王」といいたい所ですが、同計画の1万7千トン型客船の浅間丸型や欧州航路から移ってきた<新田丸>が居るので、「貴婦人」あたりがしっくりくるところです。もっとも、後に<氷川丸>の見せた芯の強さは「貴婦人」というより「おかん」(大阪弁でお母さん、おばちゃん。上品な言い方ではない)に近いものがありますが・・・
 共にシアトル航路に就役した妹2隻(<平安丸><日枝丸>)とサンフランシスコ航路に就役した異母妹とも言うべき浅間丸型3隻(<浅間丸><龍田丸><秩父丸>)と共に太平洋航路の主役として大活躍しました。
 中でも<氷川丸>は「料理がウマい」と評判になり、他の船をキャンセルして<氷川丸>を選ぶ人も出たそうです。
栄光の日々
 そんな<氷川丸>の評判をききつけ、昭和7年5月発航の第11次航海では、日本から帰国する喜劇王チャップリンが乗船しました。
 喜劇王が乗船したという事は宣伝になるので、ライバルのカナダ太平洋汽船などと争奪戦を繰り広げ、ついに<氷川丸>に軍配があがりました。チャップリンは天ぷらが好物という事だったので日本郵船では司厨員をチャップリンが贔屓にしていた天ぷら屋に派遣して勉強させたそうです。
 昭和12年9月発航の第47次航海ではイギリス国王ジョージ7世の戴冠式に天皇陛下の名代として出席された秩父宮夫妻が御乗船になられました。日本の国際的な孤立の深まる中での皇族の乗船という事で、関係者一同はかなりピリピリしたようですが、結局は何事も起こらず平穏な航海となりました。
 また、<氷川丸>は貨客船なので、荷物も運びました。日本からは日本船の代名詞(シルクライナー)となっていた生糸や茶などを、アメリカからは機械製品や資源を運びました。
 かわったものでは、昭和5年発航海の第3次航海でロンドン条約(軍縮条約)の批准書を運んだりもしています。

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氷川丸http://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/01/index.htm

昭和5年にシアトル航路用に建造された貨客船です。当時の最新鋭大型ディーゼル機関を搭載し、水密区画配置など先進の安全性を誇っていました。一等客室にはフランス人デザイナーによるアールデコ様式の内装が施され、太平洋戦争前には、秩父宮ご夫妻、チャーリーチャップリンをはじめ、約1万人が乗船しました。  その後、戦雲ただならぬ中、政府徴用船、および海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷しましたが、日本郵船の大型船では沈没を免れたのです。

戦後も引き続き病院船のまま復員輸送に従事し、昭和22年に復元工事で貨客船に戻り、国内航路定期船、後に外航不定期船、昭和268月からはシアトル・ニューヨークおよび欧州航路定期船に就航しました。 昭和28年には内装をアメリカンスタイルに改装し、シアトル航路に復帰、フルブライト留学制度での渡航者約2,500人を含む乗客、約16,000人を輸送し、活躍しました。

昭和35年、船齢30年に達し、同10月シアトル、バンクーバーから神戸に寄港、係留地横浜への回航を最後に第一線を退きました。太平洋横断254回、船客数は25千余名。

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ヨーロッパ人とラテン語の関係

2012年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

ヨーロッパ文化を知るためにはラテン語が大切だとよく言われています。

ギリシャとローマの文化がヨーロッパを作ったのですから、ギリシャ語とラテン語が重要なのかとボンヤリ考えながら今日のカトリックのミサに出ていました。

ところがそれだけでは無かったのです。ラテン語はもっと深くヨーロッパで最近まで使用されていたのです。

今年は1962年に開催されたバチカン公会議の50周年目なので、その公会議への感謝の祈りをする年と言います。

今日のミサのパンフレットに大倉一美神父さまがこの公会議の前後で何が大きく変化したか解説を書いています。

驚いたことに50年前まではカトリック教会のミサは日本人に理解されないラテン語で行われていたのです。祈りも聖歌もラテン語です。説教だけは日本語だったようです。

ミサの形式も現在のロシア正教のように聖職者はすべて祭壇の方向へ向いたままでミサ参加者の方へはほとんど顔を向けなかったようです。

仏教のお葬式ではお坊さんが意味の分からないお経を長々と唱えます。お経の幾つかは漢文なので意味が想像出来るのもあります。

しかしラテン語は大部分の日本人にとってはチンプンカンプンです。

考えてみると1542年にザビエルが日本へカトリックを伝承して以来、すべてラテン語を用いていたのです。ですから神父になるためには、ラテン語が上手に使いこなせる能力が絶対条件だったのです。

1962年のバチカン公会議で初めてラテン語を止めて現地の言葉を使う方針に決定したのです。そして聖職者は信者の方向を向いて、対話形式でミサを進めることにしたのです。

それは大きな革命でした。私は1971年に洗礼を受けたのでラテン語はすでに使われていませんでした。

このブログでご紹介したように、最近では三陸の気仙地方のように方言で聖書を書いたり、祈ったりするカトリック教会があるのです。そしてそれをローマ法王が推奨しているのです。

カトリックでラテン語を大切にしているのはローマ帝国時代にカトリックが保護、推奨され盛んになったためと思います。

話は変わりますが、ヨーロッパ人のインテリの条件は古代ギリシャ語が読めて、ラテン語が出来ることと聞きます。

日本でも知識階級は漢文が読め、日本の源氏物語や徒然草などの古文が読めるそうです。

現在、日本の高校や大学で漢文や古文を習うようにヨーロッパでは古代ギリシャ語やラテン語を教えている学校が多いそうです。

今日のミサの間に、こんな取りとめも無いことを考えていました。その罪滅ぼしにケルンの大聖堂の写真をお送りします。教会の周りにいる人々の寛いだ様子をご覧ください。教会は人々の心が解き放たれる場所なのです。イエス様が人々を愛してくれるのです。

特にケルンの大聖堂をご紹介したのは理由があるのです。第二次世界大戦の直後の苦しい時代にこの教区は寄付を集め、東京教区のカトリック教会の復興を支援してくれたのです。

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======参考資料:ラテン語とは==========

元々は古代ローマ共和国の公用語として広く普及した古代言語である。西ローマ帝国滅亡後も、ラテン語はローマ文化圏の古典文学を伝承する重要な役をはたし、勢力を伸ばすキリスト教会を通してカトリック教会の公用語としてヨーロッパ各地へ広まり、祭祀宗教用語として使用されるようになると、中世には、中世ラテン語として成長。ルネッサンスを迎えて、自然科学・人文科学・哲学のための知識階級の言語となる。さらにラテン語は、読書き主体の文献言語や学術用語として近世のヨーロッパまで発展存続。現在もバチカンの公用語であるが、ラテン語の文章は、日常ではほとんど使われなくなったとはいえる。しかし、各種学会・医学・自然科学・数学・哲学・工業技術など各専門知識分野では、世界共通の学名としてラテン語名を付けて公表する伝統があり、新発見をラテン語の学術論文として発表するなど、根強く用いられ続けている。

もともと、 イタリア半島中部のラティウム地方(ローマを中心とした地域、現イタリア・ラツィオ州)においてラテン人により用いられていた言語であったが、ローマ帝国の公用語となったことにより、広大な版図に伝播した。ギリシア語から多くの語彙を取り入れ、学問・思想などの活動にも使用されるようになった。東ローマ帝国においてはやがてギリシア語が優勢になったが、今日の西ヨーロッパに相当する地域においてはローマ帝国滅亡後もローマ・カトリック教会の公用語となり、長らく文語の地位を保った。現在でもバチカン市国の公用語はラテン語である。たとえば典礼は第2バチカン公会議まで、ラテン語で行われていた。


日本人は2つの理由で中国や韓国を憎むのは止めよう・・・寛大な気持ちの重要さ

2012年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム

今日の新聞によると、中国に親しみを感じない人が80.6%で、韓国へ対しては59%となっています。内閣府の最近の世論調査です。そして92.8%の人が日中関係は良好だとは思っていません。韓国との関係についても78.8%の人が良好だとは思っていません。

これらの%数字は、ここ数年毎年増加しています。

憂慮すべき現象が日本人の心の中に起きているのです。

しかし私は以下の2つの理由で中国や韓国を憎むのは止めるべきだと信じています。

(1)相互に助け合って経済を発展させる関係が樹立出来ない。

憎み合っていては相手が困るようなことをしたくなるのが自然な心情です。相手国の経済を助けようとする気持ちが無くなります。無くなるどころか、相手国の経済発展を邪魔したくなります。

中国人や韓国人を許し、そして好きになる努力をすべきです。少なくともその姿勢を取るべきです。それを根気よく続けていると人間は自然に中国や韓国が好きになるのです。好きになるような寛大な気持ちが日本の将来の発展のためには一番重要なのです。

寛大な気持ちになれば相手の良い点が見えて来ます。自然に相手を尊敬したくなります。

尖閣諸島や竹島の問題は鄧小平が言ったように将来に賢い解決方法が見つかるまで棚上げにすべきなのです。このような小さな島々につまづいて日中関係や日韓関係を悪化させるのは愚かなことです。関係する日韓中にとって大きすぎる損害を与えるのです。

利するのは欧米諸国だけになります。

(2)中国や韓国を憎むと自分がイライラして幸せな毎日が送れない。

隣の国を憎み続けている状態は憐れむべきものです。

相手が非道なことをするから憎むというのは、自分を相手のレベルまで低級にさせる行為なのです。憎む心が自分を卑しめているのです。

度量を大きくして毎日寛大な気持ちでいると人生が楽しくなります。

中国人や韓国人を憎まないのは彼らの為でなく自分自身の為なのです。自分自身が幸せになるために必要なことなのです。

少し長い歴史を考えれば中国や韓国は日本へいろいろな文化を贈ってくれました。その贈り物の大きさは筆舌に尽きません。

最近の数十年という短い期間のことだけを考えるべきではないのです。そのような思考方法こそが自分を幸せにします。

下の写真はこの秋に訪ねた上高地の写真です。このパソコンのデスクトップの背景として毎日、何度も眺めています。じっと見ていると自然に寛大な気持ちになfります。

今日は皆様の心が寛く、中国や韓国を憎まないようにとお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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近所の公園もすっかり晩秋の風景に変わりました。

2012年11月24日 | 写真

最近は気温も下がり、朝夕は冬の気配さえ感じられます。

秋も押し詰まって、来週の土曜日には師走になるのです。季節の移り変わりの速さに驚く毎日です。近所の公園もすっかり晩秋の淋しげな風景に変わりました。

皆様の近所の公園はいかがでしょうか?

下に3日前の小金井公園と今日の浅間山公園の風景をお送り致します。上の3枚が小金井公園で下の2枚が浅間山公園です。

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下の2枚の写真のように浅間山は日当たりが良く暖かいので紅葉が遅いようです。

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