後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

箱根ガラスの森美術館

2011年08月31日 | 写真

仙石原の箱根ラリック美術館の近くにあります。

ヴェネチアのガラス工芸の美を集めた美術館です。なにか世紀末の退廃への道行きを暗示するような展示物が丁寧に蒐集されてあります。

私はヨーロッパ文化を誤解していました。どのように誤解していたかは明日キチンと書きたいと思います。

その準備として、箱根ガラスの森美術館の風景写真をお送りいたします。

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箱根のラリック美術館に何故か初期のフォード車の実物があります

2011年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

箱根、仙石原にあるルネ・ラリック・ミュージアムにフォード社の初期の車の実物が2台あります。公道は走れませんがエンジンは動き、構内は走れるそうです。。

何故、苦労してアメリカから運んで来たのでしょうか?その解答は明日の記事でご説明いたします。

今日はその準備で、2台の車の写真だけをお送り致します。

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箱根ラリック美術館 に何故かオリエント急行があります

2011年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

ラリック・ミュージアムにオリエント急行の車両があります。コーヒーや紅茶、ケーキを楽しみながら寛ぐサロンカーです。1929年製の車両でパリとニースの間を1990年まで走っていた車両でした。毎月1回はトルコのイスタンブールまで行っていたそうです。

この一輌だけを輸入して船で運んで来ました。何故こんなに苦労して運んで来たのでしょうか?その解答は明日の記事でご説明いたします。

今日はその準備で、サロンカーの写真だけをお送り致します。

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東京のお茶の水にある二コライ堂をご紹介します

2011年08月31日 | 写真

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ロシア正教はギリシャ、ビザンチン、ロシアに伝わったキリスト教で、旧教と言われるカトリックに近い宗派です。1861年に、ニコライが宣教師として函館に着任した時は既に「救主復活聖堂」というロシア正教の教会が函館にあったと記述しています。

東京のお茶の水の駿河台にあるニコライ堂は1891年、明治24年に完成しています。参観日には一般開放しています。日曜日の9時からは礼拝をしています。見学は自由です。

日本にあるキリスト教会のなかでもトップクラスの豪華さと古い歴史がある建物です。一度ご覧になることをお薦めいたします。(終り)

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碧い虚空、そして紺青の芦ノ湖の輝き

2011年08月31日 | 写真

一昨日から2泊3日の箱根の旅へ行きました。昨日は快晴でした。高い、碧い空には早くも秋の白い雲がかかっていました。芦ノ湖は深い紺青の色に染まり、水面がキラキラ輝いていました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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ニコライも偉かったが、明治の日本人も偉かった!

2011年08月31日 | インポート

1904年、明治37年に日露戦争が始まりました。翌年日本の勝利で終わりましたが、日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。

日本人のロシア人へ対する敵愾心は凄まじく、全国に散在するロシア正教関係の教会や集会所は暴徒の襲撃に会います。

しかし東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライは顔色一つ変えず動揺しません。

日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂を暴徒から守ったのです。

特に1905年9月15日の日露講和条約(ポーツマス条約)の日には激しい日比谷公園焼き打ち事件が発生します。神田、駿河台のニコライ堂へ暴徒の群衆が押し寄せます。

しかし日本の軍隊が暴徒を一歩もニコライ堂の構内へ入れなかったのです。

日露戦争になる前にニコライはロシアへ逃げ帰ることも出来たのです。しかし彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言して断固日本に残留したのです。日本の信者を見捨てる筈はなかったのですが、それを実際に見た政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライを大切にしたのです。

これだけではありません。ロシア正教の日本人信者とその家族がロシア兵の捕虜の慰問を日本政府と軍部が許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。

1905年にはおびただしい数のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。

日本国内には27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。

ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどを日本人司祭と信者が手を尽くして行ったのです。

私の手元にはそのような当時の写真があり、それを見ながら書いています。

捕虜収容所を訪問したニコライと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の上半身肖像写真。ペトル内田 補司祭と信者の家族とロシア兵捕虜との集合写真。京都、伏見捕虜収容所を担当したシメオン三井道郎司祭の上半身肖像写真。習志野捕虜収容所でのイアコフ藤平新太郎司祭とロシア兵との集合写真。神田、駿河台のニコライ堂前でのロシア兵捕虜慰問会の集合写真。

ここで皆様に是非ご想像して頂きたいのです。1905年と言えば、1917年の共産党ソ連の出来る随分前です。ロシア人はロシア正教徒でした。戦いに敗れ、呆然自失の状態で敵国の収容所へ送られたのです。そのような傷心の時、突然ロシア語の話せる日本人の司祭が現れたのです。信者の家族が親類のように子供連れで遊びに来てくれたのです。彼らの心が躍った様子が目に見えるようではありませんか?

それを許した明治時代の日本人は心が広く、本当に偉かったと思います。1912年、聖ニコライは75歳で日本の土になりました。明治天皇が大きな恩賜の花輪を供えました。

第二次大戦のアメリカ兵の捕虜に対して軍部は過酷な扱いをしました。アメリカからのキリスト教牧師が慰めに行くのを許しませんでした。それどころか敵性外国人として監視やスパイの嫌疑で逮捕していたのです。

明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたのです。我々日本人はこのような明治時代の日本人をもっともっと誇りに思うべきではないでしょうか?

そして日本のロシア正教が実質的に日本正教会への育って行ったのはこの日露戦争の頃からと私は感じています。皆様は如何お考えでしょうか?(終り)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。取りあえずここに転載しご紹介いたします。

=====ニコライの生い立ち======

スモレンスクベリスクベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。

1861年函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、懐徳堂中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

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 「封建時代を背負ったドイツ人達

2011年08月31日 | インポート

      ◎家を貸すならシュバーベン人

ドイツのタウバー河ほとり、ローテンブルグにあるゲーテ協会でドイツ語を習い、シュツットガルト市のマックスプランク研究所に着任したのは1969年の晩秋だった。アメリカでアパート探しをした時のように、地方紙を買って貸家の広告欄を見たが、どうしても分からないドイツ語がある。

研究所に持って行ってドイツ人の大学院生に聞いた。彼、ニヤリと笑って「貸家。広さ○○平方㍍、家賃月△△マルク。ただし、シュバーベンの人に限る」。かつて、バエルン王国の西にシュバーベン王国というのがあったそうだが、どうやら貸すのはその地の人に限るということらしい。

「なぜシュバーベン人に限るの?」「シュバーベン人は掃除が大好きで、借家をいつも最高の状態で使うからさ」「じゃ日本人の私は借りられないの」。彼はまたニヤリと笑って、「僕はシュバーベン人です。一緒に行って保証人になってあげるから大丈夫」。そして、モーツアルト・シュトラーセのアパートに一年間住み着くことになった。

あとで分かったことだが、シュバーベン人は背が低く、横に広い赤ら顔、がっちりした体躯の人が多い。いかにも農業向きの体つきである。南ドイツのフランス国境寄りに多く住み、その南にあるボーデンゼー湖の周りにも住んでいる。

家内と親しくなったハインツェル婆さんは昔美人だったらしく、気位が高い。「このごろはよそ者が多くなってシュツットガルト市も住みにくくなった」「われわれのような外人が多くいるからですか?」「違うよ。北ドイツの気性の分からない人間がたくさん引っ越して来たのでね」。われわれ外国人はシュバーベン人の関心の外なのである。

            @ビールの肴は悪口

ドイツに住んで驚いたのは、彼らは封建時代の王国の領土をよく覚えていて、自分の王国以外の人々の悪口を言い合ってビールを飲むこと。日本の学校の歴史では教えない、中世の「三十年戦争」でどの地方とどの地方が戦ったかが議論になる。自分は会津藩の人間だ、君は薩摩藩の人間だと本気で議論を戦わせると同じである。

昔の王国の悪口の次は、フランスの悪口、スウェーデンの悪口、イギリスの悪口である。そんな話を聞いてしまうと、週末にフランスやイギリスへ観光旅行するが恐くなる。特にフランスは恐い。フランス語以外は絶対に喋らないし、レストランはフランス語だけのメニューだ。とんでもない料理が運ばれることが度々ある。

あとで分かったことだが、彼らは結構英語もドイツ語も分かる。特にドイツとの国境に近い地方の人はドイツ語が分かる。しかし、絶対に喋らない。こちらがドイツ語で料理を注文すると、フランス語でなにやら喋り返す。ところが、ニッコリ笑って料理の名前を何度もドイツ語で繰り返と、希望の料理が出てくる。(終わり)

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田中一村の絵画世界・・・その圧倒的な衝撃

2011年08月30日 | インポート

田中一村の絵を前にして私は言葉が出ません。ご覧下さい。今までの画家とは違う真の、純粋な芸術と感じたのです。金銭慾、名誉慾など全く求めず、ただ自分の描きたいものに向かい、描きたいように画くという悲壮なまでの情熱に撃たれたのです。               出典は、http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/tanaka/frm.htm です。このHPを書いている方の文章もぜひお読みください。そしてこの方のHPの全て:http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/index.htm の数々の随筆も是非お読みください。

====註:田中一村、1908年ー1977年、69歳で没========

以下の出典はWikipedeaより。

1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。

没後に南日本新聞NHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、数年前から全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村奈良県立万葉文化館[1](館長中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。

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日露戦争に勝ったのは英国製戦艦、三笠の数多くの砲の優秀さのお陰です

2011年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

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日露戦争で日本がロシアに勝ったのは英国の支援のお陰です。戦費を貸してくれ、優秀な武器や戦艦を売ってくれたからなのです。

その事を日本の歴史教育ではとかく無視する傾向があります。

そこで今日は日本海会戦で旗艦を務めた戦艦、三笠の戦闘能力をご紹介いたします。

東郷元帥の戦略も独創的で敵の意表をつく見事なものでした。でも、英国のビッカース造船所へこの戦艦を発注した海軍省の官僚も偉かったと思います。砲身の直径30cmの主砲を前後に2門ずつ、両舷側に15cm副砲を7門ずつ、そして8cm砲を両舷側に10門ずつ、合計38門の大砲を持つ三笠の戦闘能力を当時は抜群のものでした。

大砲の戦闘能力は一分間に何発の砲弾を発射出来るか?砲身の方向を変える速度は大きいか?射程距離と命中精度が敵艦より優れているか?などによって決まります。

ビッカース造船所の戦艦製造技術と艦載大砲の優秀性がロシアのバルチック艦隊より優れていたら勝つのが自然だったのです。

その上、七つの海を支配していた当時のイギリスはロシアのバルチック艦隊が大西洋、インド洋、フリッピン沖を廻航する途中の燃料と食料の補給を妨害したのです。イギリス領の港への入港を拒否したのです。バルチック艦隊は疲れ果ててようやく日本海へ入って来たのです。東郷元帥率いる英国製の日本の艦隊に負けるのは当然ななりゆきだったのです。

ロシア艦隊に完全勝利しすぎた結果、大艦巨砲主義がその後の帝国海軍の主流となったのです。しかしその過ちが明白になったのは、巨大戦艦、武蔵や大和を建造し、アメリカの航空攻撃に沈められた後です。

そんな歴史を思い返しながら三笠の甲板を歩いてきました。風の爽やかな晴天で、猿島の緑が美しい3年前のある5月の日の事です。

撮影日時:2008年5月27日午前11時頃、 撮影場所:横須賀市三笠記念公園

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アメリカ社会における離婚の実態と悲劇の解消方法

2011年08月30日 | インポート

    ◎アメリカの離婚―光と陰

オハイオ州コロンバス市で結婚式の世話をしてくれた友人夫妻と先生夫妻がしばらくして、ともに離婚した。自由・平等の国アメリカには離婚の自由もある。しかし、離婚で生ずる子供の犠牲、悲劇への友人の巻き込み、経済的損害などを考えると、離婚の自由には代償が大き過ぎる。

われわれの結婚式場の予約をし、式では付添い人をし、結婚祝いのシャワーをしてくれたのは友人のジャックと奥さんの金髪美人ナンシー。料理上手で、服も自分で縫い上げる。数学が得意で、その才能を発揮できる会社で働きながら二人の子供を育てていた。センスのよい自宅へ呼ばれたが、カクテルシェーカーでマテーニを作ってくれた時のナンシーの優雅さは脳裏に焼きついている。

4、5年後、東京にナンシーから突然の航空便。夫が浮気をしたので離婚した。いま子供二人を連れて行商のような仕事をしながらアメリカ中をさすらっている。田舎町の行商旅の悲しさ。夫のいない三人だけのわびしいホテルでの夕食の様子などが細かに書いてある。悲劇的な映画の場面を見ているようである。何度もそのような手紙が来た。そのたびに勇気付ける手紙を家内が出していた。

ナンシーから手紙が来なくなった。再婚したに違いない。子供が二人いてもスレンダーな金髪美人である。再婚できないはずがない。一方、あんなに親切だった夫のジャックからは手紙が来ない。夫にも言い分があったはずだが、ジャックは沈黙でよく耐えた。

     @離婚と職場の関係

離婚は個人的な悲劇にとどめよう―それがアメリカ社会の約束である。しかし、恩師夫妻の離婚のように職場を巻き込むこともある。離婚されそうになった奥さんのメアリーが夫と同僚のスミス教授に相談。恩師夫婦の離婚は成立し、その後スミス教授は離婚の相談に来たメアリーと結婚。恩師は若い婦人と再婚した。スミス教授の前の奥さんははじき出された形になり、消息は伝わってこない。

この騒動の後、オハイオを訪問した。友人が一部始終を話してくれた。「あす大学に行くが、恩師に会った時、何って言えばよいの」「何も言うな。一切知らなかったことにするのがよい」「恩師の前の奥さんには大変お世話になったので、家内からのお土産を持って来たが」「今晩、その奥さんの再婚先の家へ連れて行ってあげる。でも離婚のことは話題にするな」

大学で共同研究の相談をしている時、メアリーと結婚したスミス教授がそっと私を呼び出して、「先日は家内を訪問してくれてありがとう。東洋人は恩を忘れないと家内が喜んでいたよ」

       @離婚後の付き合い

夫婦が別れた後は顔も見たくないというのが洋の東西にかかわらず本音であろう。しかし離婚の多いアメリカでは「離婚の自由」が「離婚後はお互い友人として付き合い、社会生活では離婚による差別はしない」という規範に支えられている。悲しい偽善のように思えるが…。

離婚した恩師はその後、学科主任になった。学科主任は毎年二回ぐらい教授と学生を自宅へ招くのが普通である。離婚した前の奥さんメアリーも招待しなければいけない。招待を受けたら出席するのが義務だ。パーテイーでは友人同士として明るく話し合う場面を見せなくてはいけない。

前の夫が学科主任になり、その部下になった現在の夫スミス教授のためにも晴れやかに談笑するつらさは察するに余りある。それが証拠に、その場面が済むとパーテイー半ばにもかかわらず引き揚げる。親しい教授に「前の奥さんがかわいそうだ。帰る時そば行って慰めてやりたいが」「やめなさい。帰るのに気が付かない振りをするのが親切というもの。それがアメリカのルールさ」

皆ホッとして、これで米国社会は健全だとも思うのか一段と楽しそうになる。その後は日本の「二次会」のような雰囲気になる。パーテイーをする家の前庭には大きな星条旗が風に揺れ、少しずつ遅れて到着する参加者を歓迎している。旗は何も言わないが、「自由と平等の国アメリカを忘れないでね」というメッセージを語りかけている。(終わり)

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何となく郷愁を感じさせる野火止用水の風景

2011年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

江戸時代の初期の1655年に川越城主の松平伊豆守信綱が玉川上水から枝分かれした野火止用水を作りました。自分の領地だった所沢東部、新座市近辺の農産物増産のために明治維新までの長い間、威力を発揮したそうです。

そして1663年には平林寺を岩槻から野火止の地へ移転させたのです。現在も平林寺の裏の雑木林の中に野火止塚があります。野火を見はる高い小山です。

野火止用水は埼玉県の指定史跡として大切に保存されています。何となく郷愁をさそう風景なので時々散策に行きます。

下に現在の野火止用水の写真、その脇にある遊歩道の写真、近所の田園風景の写真、用水の説明板の写真を示します。平林寺に行ったら、その裏にある野火止用水も是非ご覧下さい。平林寺の裏に回るには新座市の市役所前の交差点を北方向へ入ります。一番下の写真が示すように、左手に平林寺の雑木林がある暗い道です。

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ヨット泊地の写真をご覧になってゆうゆうたる気分になって下さい

2011年08月29日 | 写真

夏が足早に過ぎようとしています。秋がやって来ます。何故かあわただしい季節ですね。三浦半島の先端の油壺のヨットの停泊地の風景写真をご覧になって、悠々たる気分になって下さい。

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撮影日時:2008年 5月27日午後2時頃、

撮影場所:三浦半島、三浦市三崎町、小網代湾の油壺ヨットハーバー及び油壺京急マリーナにて。

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貧乏だった若い頃・・・アメリカでの結婚式の思い出

2011年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

私の若い頃はとても貧乏でした。しかし皆の助けで何とか結婚式をあげました。新婚旅行は貧乏で行けませんでした。その結婚式の事を思い出しながら書いてみました。

========= ◎アメリカでの結婚 =======

1961年、オハイオ州コロンバス市で婚約者を日本から呼んで結婚式を挙げた。結婚式と披露宴の準備は、留学先のオハイオ州立大の教授と大学院生の奥さんたちが手づくりでしてくれた。招待状はきれいな花模様のカードに手書きする。式は大学内の教会を同級生が予約してくれ、年上の同級生が代父・代母になり、牧師の司式で行う。

披露宴はその地域で一番大きなヒルトンホテルでシャンペンとカナッペで祝う。大きなウエデイングケーキを全員で分けて食べながら、一時間ぐらいで終わる。日本の披露宴のように、仲人の挨拶や来賓の長い「演説」は一切ない。一般にアメリカのパーテーにはヤボな乾杯も迷惑なスピーチもない。三々五々お喋りしながら、飲んだり食べたりして散会する。それと同じである。

指導教授の奥さんが地元紙へ連絡してくれたおかげで、式前の準備やわれわれの様子が大きな写真三枚とともに新聞に掲載された。結婚祝いは、式の前に「結婚祝いのシャワー」と称して女性だけが家内をコーヒーと手作りのケーキの会へ呼んで、結婚したらすぐに使う鍋、食器、日用品を祝いのカードとともに手渡す。次の年に子供が生まれた時も、「出産祝いのシャワー」をしてくれ、かわいい服やタオル、毛布などをプレゼントされた。

子供用のベッドやバギーも貸してくれる。使用後は子供の生まれた他の夫婦へ回す。お返しのお礼などをしてはいけない。夫婦共働きで忙しいのに惜しみなく労力を提供してくれるアメリカでは、開拓時代からお金のない移住者が結婚・出産する時は皆で助け合うのが伝統なのだと言う。われわれをアメリカへの移住者と思ってくれていた。

          @手づくりの伝統

このようにすべてを手づくりでやるのがアメリカ流の理想的な生き方である。結婚や出産も例外ではない。結婚後、古い車で少し遠方の鍾乳洞を見に行った。人家の見えない草原で車が動かなくなる。長時間途方に暮れていた時、子供連れの夫婦が通りかかった。何も言わないでニッコリし、目顔で「分かった。修理屋のある町まで引っ張って行く」と合図して遠方の町までけん引してくれた。家内がお礼にと少しの現金を紙に包み渡そうとするが受け取らない。あとで子供向きのお菓子を郵送したらサンキューカードが来た。

日本でも結婚は楽しいことであり、家族、友人も心から祝福してくれる。しかしそのやり方は違う。式は親族だけで行うので神式、仏式どちらでもアメリカの教会での結婚式と同じ雰囲気である。しかし、日本では現金を包んで披露宴に持って行く。仲人が長々と新郎新婦を紹介し、多数の来賓がスピーチする。お色直しと称して一緒に居てもらいたい新郎新婦が出たり入ったりして落ち着かない。帰りには引出物を渡される。

クオリティー・オブ・ライフ(人生の豊かさの質)の考え方は人さまざまで一つの定義は存在しない。結婚祝いの仕方が日米の違いを説明してくれている。可能ならすべて手づくりで―これがアメリカ流。日本では「借金してでもお金を気前よく使いましょう」ということになる。どちらもどこか不十分であるような気がする。しかし、どちらも正しいような気もする。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人 

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この世とあの世の境の風景を写真に撮りました

2011年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

曇りの日や霧の立ち込める日にセイリングをしていると不思議な光景が見えます。曇り空の暗い日に限って、一瞬ある場所だけが不思議な光に輝くのです。

雲間から見える薄い陽光が短い時間だけ幻想的な風景を作りだします。

それは非常に宗教的な風景なのです。

昨日、霞ケ浦でセイリングしていたらそんな光景に出合いました。一緒にいた家内が、「あの世の風景みたい」と言った瞬間、私も同じ感じで見ていました。私はあの世ではなく、この世とあの世の境にはこんな風景が広がっていると考えながら見ていました。

白っぽく、ピンボケしたような風景が船の回りに広がっているのです。自分の体が急に透明になり、この白っぽい風景に溶け込みます。死ぬときはそのような気分なのだろうと想像しながら写真を撮りました。撮り終ったら、一陣の秋風が湖面を渡り、白っぽい輝きが消えてしまいました。

なかなか写し取ることが難しい輝きです。あまり出来の良い写真ではありませんが、4 枚の写真を下に示します。

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福島原発事故の総括(1)どのような経過で何処が壊れたか?

2011年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

福島原発事故が起きてから6ケ月近くになります。人々の動揺もおさまり一体、何が起き、その社会的な影響はどのようになるか静かに考えられる状況になりました。そして将来の現実的なエネリギー政策はどのようにすれば良いのかが自然と見えて来ました。

そこでこのブログでは連載で「福島原発の総括」を掲載して行きたいと思います。

第一回では、まず福島原発の現場でどうのような経過で爆発事故が起きたかを具合的に総括してみました。

福島原発で起きた現象を冷静に振り返って見ると、その全体像が正確に分かります。

地震・大津波が起きた後に起きたもろもろの現象を「起きた順序」に従って整理します。

この整理をすると、残った原発50基の現場で今後起きるであろう危険な現象が分かります。残った原発の今後の安全対策の指針になるのです。

(1)大地震によって緊急スクラム装置が作動し、核連鎖反応を停止する事に成功しました。

制御棒のボロン・カーバイト棒が燃料棒の間に挿入され、核反応が緊急に停止したのです。

はじめの地震によっては、原子炉の配管や冷却系統は大きな損害を受けず、正常に冷却水が循環していたのです。

女川原発や茨城県・東海村の東海原発は緊急停止後も正常に冷却を続行していたのです。

(2)数十分後に襲った大津波で冷却システムと緊急発電機が流されたり、海水をかぶって全ての冷却水が止まってしまったのです。

全電源喪失という大きな悲劇が起きてしまったのです。

これに対して、女川原発と東海原発は緊急電源の津波対策のお陰で、津波襲来後も冷却系統が動いていたのです。

(3)炉心の高温化で残留水と燃料保護管のジルコニュウムが激しく反応して大量の水素ガスが出来てしまったのです。そして、その高い圧力で炉心圧力容器と、原子炉格納容器のあちこちの割れや損傷から沁み出して水素ガスが建屋内に充満したのです。

この時に炉心融解と、格納容器の底が抜け落ちたのです。

水素ガスが沁み出したということは放射能物質も水蒸気と一緒に格納容器に充満したという事になります。

(4)建屋内に充満した水素ガスが大爆発したのです。この衝撃の大きさは建屋の鉄筋コンクリートのコンクリートが粉々になって飛び散り、鉄骨だけが残り、グニャグニャになった事から理解できます。

この爆発の衝撃で、原子炉格納容器と炉心圧力容器に繋がっている数多くの配管や配線が繋ぎ目で壊れてしまったのせす。

この状態で、自衛隊と消防庁の献身的な注水で外部から冷却することに成功しました。しかし水素爆発で建屋内に充満していたヨウ素131やセシウム137が大量に空中に放散されたのです。放射能汚染は福島県の大部分へ広がりました。

(5)格納容器に繋がる多くの配管や配線が繋ぎ目で壊れたので、大量の外部注水が漏れ出し、炉心からの放射能物質が原発工場敷地や各種のトンネル内に拡散したのです。原発敷地内で強い放射性物質がつぎつぎに発見されたのがその証拠です。

(6)原発近辺で強い放射能が発見されても大局的には安心して良い状態であいた。ただし復旧作業をしている人々の安全を守りながら復旧作業をしなければいけないので、作業が難航しました。その後の汚水の浄化と循環に苦労したのです。

さて何処が壊れたのでしょうか?もう少し具体的に何処が壊れたか知る為に沸騰水型原子炉の図面をもう一度ご覧下さい。

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ここで原子力発電という事を離れて、高温や高圧を使ういろいろな石油精製や合成化学の工場での爆発・火災事故の過去の例を振り返って見ましょう。するとその大部分の原因は配管からの可燃性ガスが漏えいして工場建屋内に充満して爆発・炎上したことが原因になっています。

今回の福島原発の水素爆発も良く似た現象です。上の原子炉の炉心圧力容器と格納容器には図面には描いていませんが、数百本の配管や配線が貫通しているのです。その付け根の部分が割れるのです。

大きな容器に、それとは成分の違う合金製の配管を溶接で付けるのです。難しい技術です。その上、水素爆発の衝撃と応力は数多くの配管付け根に集中します。割れないとしたら奇跡です。

話は飛びますが、敦賀の新型原発の「もんじゅ」は熱交換に使用していた高温の液体ナトリュウムが漏れて、水蒸気爆発をして建屋の外へ放射能が漏れた事故でした。液体ナトリュウムが漏れた場所は温度測定用のステンレス管の付け根だったのです。今後、精密な調査が進めば原子炉のいろいろな所の割れや損傷が明確に見つかります。

以上の福島原発の爆発の経過が判明したので、現在稼働中や定期検査中の50基ほどの原発の津波対策が具体的に進められるようになりました。

第一に、原発施設が津波に現れても絶対に全電源喪失にならない対策を徹底的に実行することです。

緊急電源を二重、三重にし、高台に設置することが一番重要な対策です。

第二に不幸にして炉心冷却に失敗して水素ガスが発生しても建屋内に充満しないように建屋の巨大な排気装置を早急に設置する事です。

第三に、全ての配管の繋ぎ目を柔軟性のある材料に交換し、地震や水素爆発によって繋ぎ目が割れないようにする事です。

配管さえ健全に残っていれば冷却水が循環できますし、汚染水が海へ漏れ出す事もありません。

第四に、福島原発事故は、他の原発の改良すべき耐震設備や大津波対策を具体的に示したのです。この結果、各地の原発は総合的に改良工事が出来るようになったのです。

以上のように不幸にして起きてしまった福島原発の大事故は大きな教訓を具体的に与えたのです。その教訓を活用して原発の改良を期待しています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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