後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

林間に紅葉を焚く・・・甲斐駒の麓の山林で

2013年10月31日 | 写真

今日は山梨県北杜市の甲斐駒岳の麓の山小屋へ家族で行きました。

林間に酒を煖め、紅葉を焼く・・・という白楽天の詩をそらんじながら紅葉を焚いて来ました。

下がその林間の写真です。

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寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易(白楽天)

曽於太白峰前住
数到仙遊寺裏来
黒水澄時潭底出
白雲破処洞門開
林間煖酒焼紅葉
石上題詩掃緑苔
惆悵旧遊復無到
菊花時節羨君廻

訳:その昔、私が太白峰の麓に住んでいた頃はよく仙遊寺へ出かけたものだ。
水が澄む秋の季節には、川淵の底まで透けて見え、白雲が切れた辺りに
仙遊寺の山門があった。また仙遊寺の林間では散り落ちた紅葉を焚いて
酒を煖めたり、緑苔を払った石の上に詩を書いたりしたものだ。
ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。
菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。


カラマツが紅葉する季節に、北原白秋の詩をお送りいたします

2013年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム

「からまつ」    北原白秋


               一

 からまつの林を過ぎて、

 からまつをしみじみと見き。

 からまつはさびしかりけり。

 たびゆくはさびしかりけり。

      二
        

         
 からまつの林を出でて、

 からまつの林に入りぬ。

 からまつの林に入りて、

 また細く道はつづけり。

      三

 からまつの林の奥も

 わが通る道はありけり。


  霧雨のかかる道なり。

 山風のかよふ道なり。

      四

 からまつの林の道は、

 われのみか、ひともかよひぬ。

 ほそぼそと通ふ道なり。

  さびさびといそぐ道なり。

      五

 からまつの林を過ぎて、

 ゆゑしらず歩みひそめつ。

 からまつはさびしかりけり、

 からまつとささやきにけり。

      六

 からまつの林を出でて、


  
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。

 浅間嶺にけぶり立つ見つ。

 からまつのまたそのうへに。

      七

 からまつの林の雨は

 さびしけどいよよしづけし。

 かんこ鳥鳴けるのみなる。

 からまつの濡るるのみなる。

      八

 世の中よ、あはれなりけり。

 常なれどうれしかりけり。

 山川に山がはの音、

 からまつにからまつのかぜ。

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下の4枚の写真は昨年、10月29日に上高地を散策しながら撮った風景写真です。

大正池の向こう側の遠方のカラマツ林をズームで撮りまた。

そして田代橋から梓川の上流に向かって右側の岸辺を歩きながらカラマツ林を撮りました。

梓川の向こう側の遥か上の方には穂高連山が見える筈です。雲が多く、わずかに時々雪山の稜線が見えていました。

河童橋には相変わらず人が沢山いましたので敬遠しました。

このようにカラマツ林が見事に紅葉している風景は何度も上高地に来ていますが初めてです。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


江戸落語の悲しみ・・・貧乏話、吉原遊びなどなど

2013年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜、新宿の紀伊国屋ホールでの落語を聞いてきました。話には貧乏な長屋の家主さん、賢くない熊さん、八っつん、物知りのご隠居さんが必ず出て来ます。

私は聞いてて何故か悲しくなってきました。

長屋の生活があまりにも貧乏なのです。しかし住んでいる人々の人情は篤いのです。なにか切々とした人生なのです。可哀相なのです。

そして熊さん、八っつんの愚かぶりが人々の笑いを誘うのです。

それは吉原などの江戸落語の多くの話に共通なものです。

下に昨日の紀伊国屋ホールの入り口の写真と小遊三さんの写真を示します。

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予定では桂歌丸さんの真景累ケ淵という江戸時代の傑作落語の第六話と第七話が出るはずでした。

しかし持病の肺気腫が悪化して急に入院したのです。

代役に柳亭市馬、桃月庵白酒、三遊亭小遊三の3人が出ました。3人ともベテランの話上手で充分楽しめました。特にトリの小遊三の「千早振る」はよく知っている噺ですが、所々に現在の話題を取り入れて大変面白かったです。

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さて私が悲しく思った理由は、この芸能がすたれて無くなってしまいそうだからです。

会場の席が80%位しか埋まっていません。観客が高齢者ばかりで、若者が居ません。会場の紀伊国屋ホールが古すぎて椅子も狭くて侘しいのです。最近の映画館の椅子や内装が豪華なだけに一段と見劣りがします。

昔はラジオ寄席という番組があったりテレビにも落語をジックリ聞かせる番組があったものです。

柳家金語楼や可笑の芸はラジオでさんざん聞きました。

桂文楽も古今亭志ん生の至芸もテレビでジックリ見ました。

柳家小さんや林家三平や立川談志の落語、そして上方漫談の横山やすし、きよしのような名手たちの芸を何度もテレビで見聞きしたものです。

現在、テレビで唯一あるのは桂歌丸が司会し、数人の落語家が出演する「笑点」という30分の番組が週に一回あるだけです。

落語や上方漫談の凋落にかわって吉本興業の「お笑いタレント」の隆盛があります。そのテレビ番組は毎日のようにあります。

この「お笑いタレント」達の芸は長年磨き上げた芸でなく、思いつきの芸なのです。

ですから消えてなくなるのも一瞬です。

こんな風潮を悲しく思います。悲しく思う私が年を取りすぎたのでしょう。

老人の愚痴で失礼しました。(終わり)


ヨーロッパ文化の闇(2)ユダヤ人排除と殺戮はヨーロッパの伝統文化

2013年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

キリスト教徒はイエス・キリストを十字架にかけて殺したユダヤ人を憎んでいます。自分たちの守護者のイエス様を残酷にも十字架にクギで打ち付け、死ぬのを待つ方法で殺したのです。

国土を持たぬユダヤ民族はヨーロッパ全域とロシア西部に流れ、キリスト教徒の中に混じって暮らすことになったのです。

思慮の浅い一般大衆は何か騒乱が起きると、その度にユダヤ人を殺すのです。

戦争行為も人間の文化という広義の定義を用いると、ユダヤ人殺戮はヨーロッパの伝統文化の一つなのです。

しかしこのような人間の本性はヨーロッパ人に限りません。

戦争や暴動が起きると、人間の人格が破壊され手近かにいる弱小民族を殺戮するのです。日本でも大正時代の関東大震災のとき、パニックになった群衆がデマに踊らされ、多数の朝鮮人を虐殺したのです。

さてヨーロッパ人のユダヤ人殺戮の例を考えて見ましょう。

よくヒットラーだけを悪者にして、600万人余のユダヤ人を殺した事件を非難する人がいます。それは浅薄な見方です。

数こそ多くはありませんが、ユダヤ人の殺戮は長い歴史のなかで連綿と繰り返されてきたのです。

例えば1096年にヨーロッパを出発した民衆十字軍はエルサレム奪回の途上で、次々と各地のユダヤ人を殺戮しながら遠征して行ったのです。それは第一回十字軍の遠征前のことでした。

Peter_the_hermit1(左の絵は隠者ピエールに率いられた民衆十字軍)

この民衆十字軍はフランスの隠者ピエールの扇動的な演説で、4万人もの民衆がエルサレムをイスラム教徒から奪い返すために出発したのです。
各地でユダヤ人を見つけると虐殺しながら、ハンガリー王国やビザンツ帝国内を占領し、小アジアに上陸したのです。

しかし所詮は烏合の衆です。セリジューク朝の軍隊に蹴散らされ、遠征に参加した民衆はイスラム教徒の奴隷になったり、殺されてしまったのです。

彼等の唯一の戦果は各地でユダヤ人を殺戮したことだけでした。

このようなユダヤ人の殺戮はヨーロッパ各地で戦乱や飢饉が起きるたびに繰り返されてきたのです
これは輝かしいヨーロッパ文化の「闇の半面」にある一つの伝統文化なのです。

ですからヒットラーのホロコーストはこの伝統文化の故に起きた悲劇だったのです。

ユダヤ人の大量殺戮はおもに東ヨーロッパとドイツ占領地域のロシアで起きました。

600万人とも言われるユダヤ人の大部分は東ヨーロッパとソ連西部地域から狩り集められたのです。

この大量殺戮は、そこに住んでいたキリスト教徒の協力があったればこそ可能だったと考えるのが自然です。

ヒットラー個人にだけ罪を負わせるのは行き過ぎと考えるのが公平な見方でしょう。

一体、東ヨーロッパやソ連のドイツ占領地域では何が起きたのでしょうか?少し冷静に、そして客観的に考えてみたいと思います。

我々日本人は東ヨーロッパ諸国の歴史や文化にあまり興味がありません。明治維新以来の富国強兵の為に役に立たない国々であった為です。

我々日本人は東ヨーロッパ事情に興味が無かったのです。

従って、私は何故、アウシュヴィッツ強制収容所がポーランドに存在したか?その理由が理解出来ませんでした。

しかしポーランドには一番多くユダヤ人が住んでいたのです。270万人以上です。

ヒットラーがユダヤ人絶滅戦略の為には、まずポーランドのユダヤ人を殺すのが一番効率の良い方法です。

そしてソ連のドイツ占領地域やハンガリーやチェコスロヴァキアなどに多くのユダヤ人が住んでいたのです。

他の地方のユダヤ人は数も少なく、集める労力がかかり過ぎます。従って結果的に殺戮率も少なくて終りました。

それに比べて、ポーランドのユダヤ人は99%殺されたのです。

ヒットラーによって殺されたユダヤ人は600万人と言われています。その出身国を以下に示します。ポーランド、ソ連、ハンガリーがば抜けて多いことにご注目下さい。

その原因はユダヤ人の人口が東ヨーロッパからウクライナ、ベラルーシ、ロシアに多かったからです。西ヨーロッパ諸国ではキリスト教徒による歴史的な迫害が続いたので東のヨーロッパ地方へ逃げて、移住して行ったのです。

ヒットラーの殺戮が始まると、その地域のキリスト教徒もユダヤ人の逮捕と収容に協力したのです。

・・・・・・・・「ドイツ人に殺されたユダヤ人 の出身地」・・・・・・・・・・・

ドイツ: 165,000人 、オーストリア: 65,000 、フランスおよびベルギー: 32,000 、オランダ: 10,000以上 、ギリシャ: 60,000 、ユーゴスラヴィア: 60,000 、チェコスロヴァキア: 140,000以上、ハンガリー: 500,000 、ソ連: 2,200,000 、ポーランド: 2,700,000 人。(数字の出典:Wikipediaの「ホロコースト」の項目より)

さて私はカトリック教徒です。そしてアウシュヴィッツ強制収容所のあったポーランドは カトリック国です。ですからこそ最後に一言書かざるを得ません。

イエス様はユダヤ人を殺せとは絶対に言いませんでした。「汝の敵を愛せ」と言い、「汝の隣人を愛せ」と言ったのです。そして異教徒のサマリア人を尊敬した言葉も伝わっています。

ヨーッロッパ人がユダヤ人を殺すのはイエス様の教えに反するのです。それはキリスト教へ対する反逆行為なのです。ですから私はそれを「ヨーロッパ文化の闇」の一つと言うのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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(この教会の写真の出典:http://free-photos.gatag.net/2013/06/18/140000.html


止めた筈ですが、ヨットの写真を見ると血が騒ぎます

2013年10月29日 | 写真

「満天星の海」というブログの主は清水港のそばの安良里にヨットを停泊している方で以前にもこちらのブログでも何度かご紹介いたしました。独りであちこちを帆走し、ロマン溢れる海を静かに楽しんでいる方です。

そのURLは、http://kakesu3.exblog.jp/18815287です。

久しぶりに彼のブログを拝見しました。最近、瀬戸内海までシングル・ハンドで帆走して来たときの記事と写真が出ています。鳴門海峡の渦潮の写真もあります。

私は2年前にヨットをすっぱり止めた筈ですが、ヨットの写真を見ると血が騒ぎます。

下にその写真をお借りして、独り、海の上を帆走する様子を示します。

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独り帆走なので28フィート位の長さのヨットに見えます。外洋に耐えるような装備万端整えている様子です。

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独り帆走では暗くならない前に港に入りたいものです。美しい夕焼けも心細い時間です。しかし経験の深い彼なら大丈夫だと私は思っています。

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独りで帆走しているとコックピットに座っているのでこのような風景しか見えません。たまに自動操舵装置に舵をあずけて炊事の準備を手早くします。写真の右に写っている青と赤の大きな風船は、岸壁とヨットの間に吊るしてヨットが岸壁で傷つかないようにするものです。初めて入港する漁港ではこの大きな緩衝風船が必需品です。

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ヨットは重いキールが船底についているので横転しません。渦潮に巻き込まれても沈没しません。それにしても随分近くまで行って写真を撮ったものだと感心しました。

「満天星」さんの勇気へ敬意を表し、彼の帆走の安全をお祈りします。(終わり)


ヨーロッパ文化の闇(1)イスラム過激派を生んだ十字軍国家

2013年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

日本は明治維新以来、キリスト教圏のヨーロッパやアメリカから政治体制や軍事体制を導入しました。近代文明の科学技術も導入し富国強兵をしました。科学技術だけでなく絵画、文学、音楽などの芸術もヨーロッパに学びました。

したがってヨーロッパ崇拝、アジア蔑視の傾向がどうしても日本人にはあります。そして中近東のイスラム圏の諸国は日本人の眼中に無かったのです。

米ソの厳しい冷戦構造が崩れる頃からイスラム過激派がアメリカやその同盟国でテロを繰り返すようになりました。

こうした世界情勢になると悪いのはイスラム過激派であると多くの日本人が考えています。明治維新以来、お世話になった欧米の肩を持つのは自然な人情です。

極端な日本人は欧米勢力イコール善、イスラム勢力イコール悪と単純に考えています。

しかし国際間の抗争や戦争に善悪の判断をすべきでないというのが私の考えです。

そこで今回から「ヨーロッパ文化の闇」という連載で欧米諸国と、「宗教や文化の違う他国」との抗争を公平に考えて見たいと思います。

今日の記事ではイスラム過激派を生んだ一つの原因は十字軍国家だという指摘をしたいと思います。

日本の学校では11世紀、12世紀、13世紀、に十字軍が中近東からキプロス島、ギリシャ、トルコを占領し、幾つもの封建制のキリスト教国家を作った暴虐ぶりは教えません。

キリスト教の聖地のエルサレムは武力占領し、「エルサレム王国」というキリスト教の国家を作って、191年間も存続させたのです。

第一回十字軍は、イスラム教勢力を粉砕して、以下のように幾つものキリス教国を勝手に作ったのです。

  • エデッサ伯国
  • アンティオキア公国
  • エルサレム王国
  • トリポリ伯国
  • 最初の十字軍国家エデッサ伯国は1098年に建国され、1144年、最初にムスリムに滅ぼされた。

  • エルサレム王国は1100年成立し、アッカの港が陥落する1291年まで、最後まで存続した十字軍国家でした。

  • 他に、多くのエルサレム王国の従属国がありましたが、そのうち主要な4カ国は以下の通りです。

  • ガリラヤ公国

    ジャッファとアスカロン伯国

    トランスヨルダン領

    シドン領

    詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8Dをご覧下さい。

    現在のイスラム過激派は上記のような歴史的事実を宣伝に使っているのです。

    戦意高揚のために利用しているのです。

    新聞の国際ニュースを注意深く見ていると度々十字軍のことが出て来るのです。

    その十字軍のイスラム教徒への暴虐行為に対する復讐が過激派テロの動機になっているのです。少なくても動機の一部になっていることは間違いありません。

    このように考えると現在の中近東の紛争やイスラム過激派による数々のテロ事件には深い歴史的な背景にあると考えざるを得ません。

    イスラム教側が悪で、キリスト教側が善であると判断することは単純過ぎるような気がします。下に十字軍関連の地図や挿絵を示します。

    それはそれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

    Asia_minor_11401

    1140年ごろの小アジアと十字軍国家群

    Ritoania151
    14世紀の東方諸国の大体の領域
            *リヴォニア騎士団領は実際には
    多数の独立司教領およびハンザ都市が含まれる。(http://www11.atpages.jp/te04811jp/page1-1-2-5.htm

    Reconstruction_of_the_temple_of_jer

    ギヨーム・ド・ティールの年代記『海の彼方でなされた事蹟の歴史』(Histoire d'Outremer)の古フランス語訳本の挿絵(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB

    ====十字軍の実態==================

    十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍であった。宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、第4回十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブル)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈している。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告されている。

    もともとはエルサレムの回復を目的としていた十字軍であるが、後には、キリスト教徒から見た異教徒やローマ教皇庁から異端とされた教会や地方の討伐軍をも十字軍と呼ばれるようになった。このような例としてはアルビジョア十字軍などが知られており、ヨーロッパにおいても非難されることになる。

    また、十字軍は純粋に軍人だけで構成されていたわけではなかった。従者のほかにも巡礼者や女・子供、娼婦など雑多な人間が混じっていた。騎士は巡礼者らの保護に努めたが、戦闘時には足手まといになる場面が見られた。

    十字軍とともにエルサレムをめざす民間の巡礼者(武装巡礼団等)の運動も活発化したが、その純粋な信仰心が報われることはほとんどなく、途中で命や財産を奪われる者が多かった。

    ===http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8Dより============


    苗場のゴラドンゴラと雨にけぶる紅葉

    2013年10月28日 | 写真

    昨日、乗った苗場のゴラドンゴラは確かに特筆に値いします。紅葉の谷を登ったり、降りたりを繰り返して5Km以上の紅葉のパノラマを見せてくれます。

    雨や霧に霞んだ紅葉も良いものです。下に写真をお送りします。

    尚ゴラドンゴラの詳細は、http://www.princehotels.co.jp/ski/kagura/ropeway/autumn.html に出ています。田代ロープウエイと組み合わせると苗場山を周遊できます。

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    林間に酒を煖めて、紅葉を焼(た)く・・・苗場、谷川岳の紅葉

    2013年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

    人間の記憶力とは不思議なもので、幼少や少年の頃に覚えたことは一生忘れません。忘れていても必ず、フッと鮮明に思い出すのです。

    少年のころ学校で習った白楽天の詩の一節、「林間に酒を煖めて、紅葉を焼く」は何故か心に焼き付いていて、毎年紅葉の季節になると思い出します。

    そして紅葉を求めて遠くへ旅をします。

    昨日は三国峠の向うの新潟県の苗場と群馬県側の谷川岳の麓に行ってきました。

    高崎、前橋、渋川までは美しい青空でしたが苗場と谷川岳は風雨が荒れています。

    下に苗場のゴラドンゴラという日本一長い5キロメートルもあるロープウエイに乗って撮った紅葉の写真をお送りします。全山が黄、橙、茶色に彩られ、起伏のあるゴンドラからの俯瞰は今まで見たことも無いすばらしさでした。しかし窓が曇り、外側には水滴がついて鮮明な写真が撮れませんでした。

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    苗場山を降りてバスに乗り、水上温泉、湯檜曽温泉を抜けて谷川岳の天神平へ上がるロープウエイの下駅まで来ました。

    ところが風雨がますます強くなり屋外を歩けません。

    仕方なくて、林間に酒を煖めて、紅葉を焚くことにしました。

    焚火禁止で、紅葉を焚くことは出来ませんが、酒を温めることは出来ます。

    と言っても昼間から熱燗の日本酒はいけません。かわりに生ビールを飲みました。

    紅葉した山の見える大きなレストランの窓際に座って悠然と飲みます。

    肴は何もありません。家内が下仁田ネギを入れたポテトチップスの大袋を買ってきてくれたのでそれが良い肴になります。そうして2時間も、下の写真のような窓の外の紅葉を眺めていたのです。 

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    2時間も他愛もない夫婦の話をしていました。家内は家ではポテトチップを絶対に食べないのに、この下仁田ネギの粉末がまぶしてあるチップスは食べていました。食べながら、疎開していた下仁田の山川のことなど楽しそうに話しています。

    しかし、私は白楽天の詩の全文を思い出そうとして考え込んでいました。

    確か寺の裏の林間で友人と酒を飲んだはずだと思い出しました。それは若い頃のことで年老いた現在は、遥か遠方の寺へは行く体力は無くなったと若い頃のことを懐かしんでいたはずです。

    そこで帰宅後、調べて全文を見つけました。なんとそれは3年前のこのブログに掲載されていたのです。その記事は、林間に紅葉を焚き、行く秋を惜しむ(2010年11月20日掲載) です。

    その全文はこうです。

    寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易(白楽天)

    曽於太白峰前住
    数到仙遊寺裏来
    黒水澄時潭底出
    白雲破処洞門開
    林間煖酒焼紅葉
    石上題詩掃緑苔
    惆悵旧遊復無到
    菊花時節羨君廻

    訳:その昔、私が太白峰の麓に住んでいた頃はよく仙遊寺へ出かけたものだ。
    水が澄む秋の季節には、川淵の底まで透けて見え、白雲が切れた辺りに
    仙遊寺の山門があった。また仙遊寺の林間では散り落ちた紅葉を焚いて
    酒を煖めたり、緑苔を払った石の上に詩を書いたりしたものだ。
    ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。
    菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。

    以上の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/200812110000/

    白楽天のことは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%85%E6%98%93にあります。

    今回の旅は悪天候でしたが、こうして白楽天の詩を改めて深く鑑賞でき、悠久の唐時代の風流に思いを馳せることが出来ました。

    それに家内が苗場のゴラドンゴラという長大なロープウエイから見た紅葉に長い間憧れていたので、夢がかなってうれしそうにしているので良かったと思いした。

    そして年老いた私にとっては、「ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。」(惆悵旧遊復無到、菊花時節羨君廻)」の最後の2行がこの詩のメイン・テーマであることに初めて気がつきました。この2行がしみじみ心に沁みます。

    それはそれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


    趣味を持っていると人生を豊かな気持ちで過ごせます!

    2013年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

    趣味は職業と違います。生活のための職業とは対照的です。

    無駄な時間を費やして一つの遊びを何年も続けることを趣味と言います。

    趣味には良い趣味、悪い趣味の区別はありません。どんなに良い趣味でも耽り過ぎて、家族や周りの人々へ迷惑をかければ悪い趣味に変化します。

    趣味はほどほどにするのが良いのです。しかし人生の達人になる為には良い趣味を持って、ゆっくりと長年続けることが非常に重要です。

    そんな趣味を持っていると人生を豊かな気持ちで過ごせます。

    その上、その趣味を通して仲間が出来ます。いろいろな職業の人々です。

    そのような人々と折にふれて話をすると、自分の考え方が自分の職業にとらわれた偏狭なものであったことに気がつきます。

    その偏狭な考え方は「心の職業病」のようなものです。それを卒業すると、いろいろな考え方にはそれなりの良さがあることに気がつきます。

    それこそが人生を豊かに過ごし、「人生の達人」になるために必要なことです。

    そのような生き方は金持ちでなくても、程々の収入があれば誰でも出来ることです。

    私の趣味は山林の中に小さな小屋を作り、そこへ時々行くことです。40年くらい続けています。現在も続けています。

    数年前の、ある日の午後に、小屋の前の小川の傍で山小屋日記を書いていました。そこへ白樺林の中に独りで住んでいる人が寄ってくれました。

    元共産党本部で働いていた人です。問わず語りに共産党の話をしました。

    戦争中でしたが、彼は自由で平等な社会に憧れていたのです。ある帝国大学を卒業するとすぐに代々木本部で働き出したのです。自由で平等な社会に一番近いものが代々木にあるように見えたのです。別に共産主義でなくても良かったようです。

    軍国主義の厳しかった戦争中に日本で自由や平等という考え方が許される所は代々木にしかなかったのです。彼は自分の人生を後悔していません。

    私は共産党の役割が時代とともに変化するということを知りました。

    「革命は銃口から生まれる」という物騒な時代はとうに過ぎ去ったのです。

    全ての思想は変化するのです。

    私は少し人生の達人になったような気分になりました。そんなことを教えてくれた彼も遠いところへ旅立ってしまいました。

    私は自然と共に遊ぶ趣味は良い趣味ではないかと信じています。

    下の写真は小屋の前の小川の水面です。この水面に写る木々や草の色合いが時間の経過とともに変化するのです。それを飽かずに眺めるのも私の趣味です。

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    自然の姿の中に自分が溶け込んだような気分になります。

    そんな経験を何度も続けていると野生動物が私を恐れないようになります。下はある日、小屋の前で遊んでいた時に、偶然会ったキツネです。何か私に話しかけたいことがあったのか傍によって来たのです。

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    山小屋の近くではサルや鹿にはよく会います。先方が私を警戒しないので、会うチャンスが増えたと勝手に考えています。

    こんな感じは嬉しいものです。山でだけと思っていましたら、都会の中の公園でも大きなアオサギが私が近づいても恐れないのです。

    下に写真を示します。数年前に都立水元公園で撮った写真です。

    近づいた私を気にしないでザリガニを探しています。そしてザリガニを咥えたのです。ザリガニが大きすぎて嘴から落ちてしまいました。一瞬の出来事でした。

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    趣味を長年続けていると、いろいろな人々の話が聞けます。自分が無意識に持っていた「心の職業病」から卒業できます。

    自然と共に遊ぶ趣味をもっていると自然の樹木や動物と心が通うようになります。

    このような経験が、人生を豊かな気持ちで過ごす為に大変重要なことと信じています。皆様はどのような趣味をお持ちでしょうか?

    それはそれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


    ラムサール条約登録の渡良瀬遊水池の川霧の夢幻

    2013年10月26日 | 写真

    渡良瀬遊水池は関東平野のほぼ中央にある広大な遊水池です。

    足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池です。2012年(平成24年)7月3日、ラムサール条約に登録され、その自然がよく保護されています。行ってみるとその広さには驚いてしまいます。

    この広大な遊水池には、秋になると川霧が発生し、夢幻の世界になるのです。

    その川霧に覆われた渡良瀬遊水池の写真を、堀内洋助さんという方が撮影しています。あまりにも感動的な写真なので下にお送りします。

    出典は、http://www.tokyo-np.co.jp/tochigi/watarase/1998/11/です。

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    堀内洋助さんによる説明文の抜粋です。
    ・・・・ 川霧を見る“お立ち台”は何カ所もあるが、有名な場所は、遊水地西側の旧谷中村合同慰霊碑前の土手だ。谷中湖と渡良瀬カントリーゴルフ場の間になる。土手前の大池から沸き立つ霧を見ることができる。アシ原の彼方に筑波山と日の出も望める。日の出の1時間前に到着したい。川霧の朝は土手に写真愛好家の車が十数台止まっているので目印になる。

     このアシ原は、足尾鉱毒事件の歴史を伝える旧谷中村の跡地である。川霧の美しさが自然環境保護の大切さを訴えているかのようで、心を打たれる。・・・


    あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没など

    2013年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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    (写真の出典は、http://www.tokyo-np.co.jp/tochigi/watarase/1998/11/です。)
    宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は難しくて自分には分からないと言う人が多いものです。

    しかし非常に感動的で、内容の深い、そして美しい作品であることには間違いありません。

    そこで何故、難解なのかを考え、自分流に編集しなおして読むと明快になります。すなはち「私の銀河鉄道の夜」にするのです。

    優れた文学作品を編集し直すということは不遜過ぎると怒ってはいけません。こんな読み方もあるという単なる一例なのです。天上のお釈迦様のそばにいる賢治様も温かくこんな文章も見て下さっていると私は信じています。

    この作品の難解な部分は、

    七、北十字とプリオシン海岸、

    八、鳥を捕る人、

    九、ジョバンニの切符、

    と終わりまです。

    この部分は筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の、255ページから300ページと45ページもあり長いのです。

    一方、その前の部分は六つの章に分かれているのに、231ページから254ページまでの23ページと短いのです。

    何故そうなったのでしょうか。

    それは軽便鉄道をモデルにした銀河鉄道がこの物語の主題だからです。そして作者はこの銀河鉄道の客車がこの世のものでなく、あの世の列車だと強く描きたかったからです。

    そのためには客車に乗っている人々も、車窓から見える景色も超自然的に描かねばなりません。不思議な印象を読者へ与えなければいけません。車窓から見える風景もこの世の常識では理解されないものです。それは夢幻の世界なので脈略がありません。一貫したストーリがあってはいけません。

    その上、登場人物も風景も数が多過ぎます。

    それは宮沢賢治の脈略の無い心象風景の連続なのです。情熱を込めて書き込んだ部分なのです。

    ある人の心象風景を他人が読んで理解出来る筈がありません。その世界にスッと入り込でしまえばよいのですが、それが難しいのです。

    私は登場人物や風景を自分好みに省略して、以下のようにしました。

    七、北十字と乗客たちのキリストの賛美と信仰

    八、鳥を捕る人の不思議さ、そして灯台守の話

    九、豪華客船沈没で死せる人々

    十、友との訣別とジョバン二のこの世への帰還

    上の七の始めの部分で、車窓から、青白く後光の射した島の上に白い十字架が見えたと書いてあります。それは北極の方角でした。

    客車の全ての乗客は立ち上がって、ハレルヤ、ハレルヤ、と神を賛美し、信仰が篤い様子です。これが北十字の部分です。

    法華経の宮沢賢治がキリスト教の信者のことを書いたのです。何故でしょうか?

    そもそもこの童話の舞台はキリスト教を信じている西洋のある国と設定されているのです。死んで銀河鉄道に乗ってくる人々は一応キリストの信者なのです。

    あの世に行くということはイエス様の足もとに行くことなのです。ですから当然、始めの部分に北の十字が出てきます。そして終わりの部分に出て来る南十字星へと繋がって行くのです。

    宮沢賢治は熱心な仏教徒でしたがキリスト教も好きだったのです。

    この同じ章にあるプリオシン海岸は飛ばし読みします。

    八、鳥を捕る人の不思議さ、そして灯台守の話

    この部分は6ぺージくらいしかありません。

    鳥を捕ってそれを平らな形のお菓子にしてしまいす。それを商売にしている人が乗り込んで来るのです。

    その鳥を捕る人は、列車が停車すると、客車の外に出て、空から降りてくる鳥の足を次々につかまえるのです。

    つかまえた鳥を大きな袋に入れるのです。

    袋の中で鳥たちの目が光っていますが、次第に弱々しくなり、しまいには消えてしまいます。鳥の息が絶えたのです。そうするとその鳥たちは平べったいお菓子に変わるのです。

    そして客車に帰ってきた鳥捕り人は、その鳥のお菓子をちぎってジョバンニとカンパネルラへ与えるのです。傍の灯台守も調子よいことを言いながら一緒に食べます。

    内容が不思議な上、童話的に面白いので誰でも丁寧に読むと思います。飛ばし読みはしない方が良い部分です。

    九、豪華客船沈没で死せる人々

    丁度、宮沢賢治がこの童話を書いている頃にタイタニック号が沈没します。

    そして、ある豪華客船に乗っていた少女と弟と、その家庭教師がずぶ濡れになって銀河鉄道に乗り込んでくるのです。みんな裸足で、青ざめています。

    この部分は268ページから296ページまでの28ページもある長い部分です。

    九の豪華客船沈没で死せる人々、と 十の友との訣別とジョバンニのこの世への帰還、を纏めて、原本では、一つの章にして、「ジョバンニの切符」という題にしています。

    そこで私はそれを二つの章に分けて読みやすくしてみました。

    その上、九 豪華客船沈没で死せる人々、を読むときは死んだ少女とカンパネルラやジョバンとの会話を拾い読みすると脈絡がつながって明快になるのです。

    そして、十の友との訣別とジョバンニのこの世への帰還、の始めの部分の296ページで、カンパネルラが不思議な石炭袋のそばで本当の天上を見つけるのです。そこに、先に死んでしまったカンパネルラの母が見えるのです。(カンパネルラの水死の場面で父親しか描かれていなっか謎が解けるのです。)

    カンパネルラはアッというまに母の方へ飛んで行ってしまいます。訣別がこうして起きるのです。

    「ジョバン二はまるで鉄砲玉のようにたちあがりました。そして誰にも見えないように窓の外へからだを乗り出して、力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱいなきだしました。」

    その後、ジョバンニはこの世に帰ってくるのです。そして母と一緒に住むのです。

    この部分は5ページだけです。

    この悲しい、美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。宮沢賢治の多くの作品の基調低音と同じです。彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。(続く)

    それはそれれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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    (写真の出典は、http://www.voiceblog.jp/ilmuffin/car36.html です。)


    モノクロの写真は何故か印象が深い・・・写真技術の進歩は隔世の感です

    2013年10月25日 | 写真

    写真は昔、巻いたフィルムを写真機に入れて、一枚、一枚の映像をフィルムに塗った感光薬品に焼き付けて撮ったものです。そのフィルムを写真屋さんへ出して現像して、さらにそのフィルムの陰画を印画紙に焼きだしてもらって、数日後受け取ったものです。

    写真は白黒だけのモノクロでした。そしてそれは月日を経るとセピア色になりました。

    それが現在はデジタルカメラになり、映像はカメラの中のメモリーチップに記憶させます。画像の焼き付けはコンピューターに接続したプリンターで自分で、即刻、焼き付けます。そしてメモリーチップに記憶した映像はメールで転送したり、ブログに掲載できます。すべて天然色です。更に自分の好きな色合いに変える「人工色」も可能になりました

    隔世の感です。時代の移り変わりに驚いています。

    そこで昔のように白黒の写真にして以下に掲載します。先日撮った神代植物公園の風景です。こうしてモノクロの写真にしてみると、何故か印象が深く感じられます。

    昔の写真を見てるような懐かしさのせいでしょうか。これからはモノクロの写真も活用してみたいと考えています。

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    あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会

    2013年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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    (上の写真の出典は、http://gensun.org/pid/86817 です。)

    昨日、「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 という文章を書きました。

    そしてハッと気がついたのですが、宮沢賢治の作品は彼の心象風景や謎めいた表現が沢山書き込んであります。ですから読む人はその心象風景や謎めいた表現を自分なりに想像してしまいます。

    そうすると宮沢賢治の作品は彼から少し離れて、読んでいる人特有のものになるのです。大げさに言えば宮沢賢治の作品は読者の数だけ違ったものになるのです。

    今日から始める、連載記事、”あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」” とはそういう意味を込めているのです。

    ですから、私の「銀河鉄道の夜」も、読む自分の年齢にしたがって違ってきます。賢治の作品を何度も読み返している人が沢山いるのはそのせいもあるのでしょう。

    そこで筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の中にある「銀河鉄道の夜」をもう一度読んでみました。

    第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。その中で何故か「銀河鉄道の夜」には、私にとって理解できない謎が沢山あって、気になって仕方が無い作品なのです。

    しかし最近体力がどんどん無くなってきて、いずれは私もこの銀河鉄道に乗る運命にあると感じるようになって来ました。

    自分がこの世と別れて「銀河鉄道」に乗ったと考えて、この作品を読んでみると書いてあることがよく分かるのです。

    この作品のあらすじです。

    夏の夜空にかがやく天の川には銀河が流れていて、そこに鉄道があり列車が走っているという話です。人間は死んで天に登り、星になる。ですから銀河鉄道の汽車に乗っている人は死んだ人です。

    主人公のジョバンニ少年が、星祭りの夜に水死した親友のカンパネルラを探しに行きます。カンパネルラは、水に落ちて溺れそうになっている友人のザネリを助けるために飛び込んで、水死したのです。一方ザネリは助かるのです。

    カンパネルラを探そうと暗い丘に登って行きます。そしてジョバンニは、いつの間にか銀河鉄道の汽車に乗っているのです。そして其処でカンパネルラを見つけ、一緒に汽車の旅をします。

    その列車にはいろいろな人が乗ってきます。

    ただ一つだけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時、無理にボートに乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから「タイタニック號」という名前は書いてありませんが、私はそのように想像しています。

    最後に、一緒に乗っていたカンパネルラもみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは降りて現世に帰る時が来ます。親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り、病気の母親を助け、真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。

    この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの世の悲しみが滲んでいるのです。涙が出て来るのです。

    もう一度読んでみてこの作品のキーは死んでしまった愛する人と再開するという奇蹟です。

    再開出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。

    カンパネルラは川に落ちたザネリを救って、自分が死んでしまうのです。友のために死んだ者は天国へ行くのです。

    行方不明になったカンパネルラの捜索を見ながら、彼の父が自分の腕時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」

    この一言に父の悲しみが溢れています。

    ですからこそジョバンニは死せるカンパネルラともう一度会わねばなりません。

    そして銀河鉄道の中でカンパネルラを見つけるのです。(続く)

    下に参考記事の一覧をつけました。記事の後にある年月日はこのブログ上での掲載日です。

    それはそれとして、

    今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

    ====宮沢賢治に関する過去の掲載記事=================

    宮沢賢治の作品を気楽に読む(11)完結編:注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、 12/06/01
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(10)童話、「銀河鉄道の夜」 12/05/21
    このブログに仏教のことが出て来る記事の検索結果 12/05/14
    たかがブログ、しかし内容の深い話し合いも出来るのです 12/05/12
    日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・そして宮沢賢治のこと 12/05/09
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から生まれた詩 12/05/09
    宮沢賢治の信奉していた法華経と国柱会の説明 12/05/08
    宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか? 12/05/08
    宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か? 12/05/08
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(8)「注文の多い料理店」の序 12/05/08
    37歳で逝った賢治の親不幸・・・そして残された原稿の山 12/05/04
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治 12/05/03
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(6)膨大な作品群に踏み迷う 12/05/02
    宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版 12/04/20
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から 12/04/20
    宮沢賢治の活躍始まる・・・農学校、羅須地人協会、東北砕石工場技師、そして東京、樺太、大島への旅 12/04/17
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品 12/04/16
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院 12/04/15
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(2)盛岡中学3年の頃 12/04/05
    盛岡高等農林学校と宮沢賢治 12/04/04
    宮沢賢治の作品を気楽に読む(1)盛岡中学の頃 12/04/03
    突然ですが、宮沢賢治の「慟哭」という詩とその朗読をお送りします 11/11/01

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    (上の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/rocky1010akio/folder/1148396.html?m=lc&p=5です。)


    大多数の中国人が気軽に祈る道教寺院・・・中国人の本音が分かる

    2013年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

     まだまだ動いている、中国の宗教の現状() 

    http://d.hatena.ne.jp/wanbi/touch/20110706/1309923707

     中国には、宗教人口の正確な統計が取られていないが、「百度百科(2011.7現在)」に、おおよその数字が記されていた。それによると、

     「仏教は、現在1.3万カ所の寺院があり、僧侶は約20万人、そのうちチベット語族の「ラマ教」の僧は約12万人、活仏は1700数人、寺院は3000余寺。「小乗仏教系」の僧侶は1万人、寺院は1600寺である。

     「道教」は、道教の宮観(寺院)が1500カ所、道師は2.5万数人である。

    「イスラム教」はウイグル族など10の少数民族が信仰している。これらの少数民族の総人口は約1800万人、モスクは3万カ所あって、イマム(僧侶)は4万人。

    「ローマン・カトリック教」は、信者の数は約400万人で、神父、教職人員は約4000人、教会堂、会所は4600か所。

    「プロテスタント」は約1000万人いて、牧師が1.8万人。教会堂が1.2万か所、簡易集会所は2.5万か所となっている。

     1966年~1976年の“文化大革命”で、宗教を含む各方面に壊滅的の破壊をもたらした。現在は、中華人民共和国憲法第36条で、宗教の信仰の自由が定められている。

    ・キリスト教徒の7割が女性

     2009年に中国社会科学院世界宗教研究所が、31省でキリスト教信者の調査をまとめた「中国宗教報告」(2010)によると、中国のキリスト教徒は2305万人で、およそ全国の人口の1. 8%を占めるという。

    (これは”百度百科”のカトリックとプロテスタントの合計数の1400万人よりも905万人上回るので、数字が著しく更新されたことになる)

     キリスト教徒のうち、洗礼を受けた者は1556 万人で67.5%占めた。中国の女性のキリスト教徒は男性より多く、その割合は7人対 3人といわれる。

    ・1993年以降に入信した者が73.4%

     中国のキリスト教徒の文化水準は、半数以上が小学校および以下にあった。入信の理由として、7割近くが「自分や家族の病気など」をあげ、「家がキリスト教徒であったため」というケースは15%であった。ただしここ数年来、キリスト教徒の数が大部分の地区で上昇しており、1993年以降に入信した者が73.4%に達しているという。

    資料 金沢編「中国宗教報告」社会科学文献出版社(2010.8)