後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

モンゴル民族をもっと知る(4)はるかな草原のかなたモンゴル国とチンギスハンの復権

2015年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
はるかな草原のかなたのモンゴル国は1992年にソ連崩壊とともに誕生した議会制国家です。その前身のモンゴル人民共和国はソ連の衛星国で共産党独裁の国でした。このモンゴル人民共和国はロシア革命の直後の1924年に建国され1992年まで存続しました。
それ以前はモンゴルの全て、すなはち現在のモンゴル国と内モンゴルの両方は清国の支配下にあったのです。
モンゴル国が1924年から1992年までの68年間、ソ連の支配下にあったのです。したがって現在のモンゴル国の文化はロシアの影響を深く受けています。
特に政治体制はロシアと似ています。大統領に権限がある一方で複数の政党がある一院制の議会を持っています。ロシア型民主国家の形をとっています。
しかし政治以外の文化や風習は伝統的なモンゴル文化を復活させています。チベット仏教のラマ教も復権しました。
その象徴的な一例は「チンギスハーンの復権」です。ソ連の衛星国であった時代にはチンギスハーンはウクライナなどのロシア領を侵略し残虐行為をしたという理由で悪い評価を受けていたのです。その上、チンギス・ハンの子孫である約1500人を数年間の内に処刑したのです。
このようにソ連の政策を受け入れたのでモンゴル人民共和国の軍隊はソ連と一緒に行動をしました。
例えば、1939年にはノモンハン事件(ハルハ川戦争)では、ソ連の赤軍と共に日本軍(関東軍)と戦い、第二次世界大戦末期の1945年8月にはソ連と共に満州国に侵攻して勝利したのです。1945年には中ソ友好同盟条約によって中華民国からも独立を承認されましたが、中国領内の内モンゴルの併合は断念することとなりました。
1992の改革開放によって市場経済制が導入されましたがその発展は遅く都会と草原の牧畜民との経済格差が広がる一方です。
下の一番目の写真はモンゴル国の草原の風景です。何世紀も変わらぬ放牧の風景です。
二番目の写真は首都のウランバートル市の風景写真ですが、高層ビルが立ち並んでいます。はてしない草原の中に突如、この写真のような大都会が現れるのです。
近代的な高層ビルが並立しています。しかし街中を見ると三番目の写真のようにソ連時代に建てられたロシア風の古い建物もあります。
そしてモンゴル国の建国以後は共産党による宗教弾圧もなくなりラマ教も復権します。
四番目の写真は改装が完成したラマ教の寺院です。
このようにモンゴル国はロシア文化の影響を受けましたが、共産主義の壊滅によってその影響は消えつつあると考えられます。
そのような国から朝青竜、白鵬、日馬富士、鶴竜など多数の関取が来ているのはモンゴル相撲の復権とも関係があるのかも知れません。そしてモンゴル国のテレビで日本の相撲の放映も人気があるせいでもあります。その上、対日感情が非常に良いことも一因になっています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

草原の風景写真の出典:http://blogs.yahoo.co.jp/eerdunbateer/folder/828831.html?p=54
ウランバートル市の2枚の写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB
4枚目の写真の出典:http://4travel.jp/travelogue/10392541








====参考資料=================
(1)モンゴル人民共和国の建国とその後の歴史:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
モンゴル人民共和国は、モンゴルが1924年から1992年まで使用した国号である。
歴史:
1921年、ボドー、ダンザン、ドクソムらの指導、ダムディン・スフバートルの軍事的活躍とソビエト連邦(ソ連)の赤軍の支援でボグド・ハーン(活仏・化身ラマ)を推戴し中華民国から独立したモンゴルは、1924年にボグド・ハーンの死に際して、コミンテルンの指導もあり、モンゴル人民革命党による一党独裁の社会主義国を宣言。こうして1924年11月26日にモンゴル人民共和国が誕生した。当時ではソ連に続く世界で2番目の社会主義国家であった。中華民国はソ連の傀儡国家として独立を認めず、ソ連の軍事力によって中国からの独立が保たれた。

その後も一貫してソ連一辺倒の政策を続け、「ソ連の16番目の共和国」とまで呼ばれた。かつて東側陣営に属する社会主義諸国が「ソ連に従属する衛星国」と表現されることもあったが、この「衛星国」という表現はモンゴル学者オーウェン・ラティモアがこの時期のモンゴルの国際的地位を表現する用語として使用したものである。

外政では、1939年にはノモンハン事件(ハルハ川戦争)で赤軍と共に日本(関東軍)と戦い、第二次世界大戦末期の1945年8月にはソ連と共に満州国に侵攻して勝利した。1945年には中ソ友好同盟条約によって中華民国からも独立を承認されたが、内モンゴルの併合は断念することとなった。1949年の中華人民共和国成立により中ソ蒙3カ国の蜜月状態が現出し、1961年には国際連合への加盟も果たしたが、1960年代からの中ソ対立により再び中国と敵対関係となり、モンゴル国内にはソ連軍部隊が展開して中華人民共和国(中国人民解放軍)からのモンゴル防衛と有事の際の北京攻撃の役割を担った。

国内では1930年代以降ホルローギーン・チョイバルサンやユムジャーギィン・ツェデンバルによる独裁体制を取った。ソ連のような重工業の発展は起こらなかったが、首都のウランバートルでは軽工業の建設と人口の集中が発生し、それ以外の地域では牧畜業の集団化が起こった。1962年には経済相互援助会議(コメコン)に加盟して経済面でもソ連への依存を一層強めたが、人口の希薄さや遊牧の存続にも起因した都市や市場の不在による重工業建設の難航、地下資源開発の遅れなども災いして大きな経済発展は起こらなかった。また、文化面でもソ連化を進め、モンゴル語の表記をチンギス・ハン時代からのモンゴル文字からロシア語と同じキリル文字への切り替えを強行したほどであった。また、社会主義体制のエリート層の多くはソ連への留学を行った。

かつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンについては、ソ連においてタタールのくびきの元凶とされていることから肯定的評価を禁じ、またチンギス・ハンの子孫である約1500人を数年間の内に処刑した。このため、処刑を免れる為に子孫であることを隠して生き延びた人々も数多い。また、帝国時代から続く家系図は社会主義の平等思想に反することから多くが破却された。

1980年代後半、モンゴルでもソ連のペレストロイカが波及して民主化運動が高まり、ジャムビィン・バトムンフ指導による人民革命党の一党独裁政権は1990年に崩壊、複数政党制による自由選挙で行われる大統領制と議会制を導入して人民革命党と民主化勢力の連立政権へ移行した。その後新体制にふさわしい国名改称が提案され、「モンゴル国」と改称し社会主義の放棄を実行。モンゴル人民共和国は名実とともにその歴史的役割を終えた。
(2)政治制度:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
国民大会議と大統領の二元主義;
社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としてきたが、1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制(半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、そのたびに政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによって直ちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、より長い歴史を持つ国家大会議との関係は微妙である。
(3)1992年の改革開放によるモンゴル国の誕生:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%9B%BD
1989年末、ソ連・東欧情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。ただしこの民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な市場経済化が進められ、経済成長を重視するあまり富の公平な配分を怠り、社会福祉を削減することで貧富の差を拡大させた[3]。資本主義化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。
ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、社会主義時代に全く省みられなかったチンギス・ハン時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。