後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

大晦日、水辺の風景

2012年12月31日 | 写真

今日は午前中に家内と大掃除をしました。午後は遊びに行って良いことになりました。水辺の風景を求めて清瀬市の金山緑地公園に行って写真を撮ってきました。

流石に大晦日です。人があまりいなくて森閑とした雰囲気でした。風も無く暖かい陽射しと青空が水面に映っていました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

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読者の皆様へ感謝しつつ今年も暮れて行く。

2012年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は今年さいごの日です。今年もいろいろなことがありました。でも何もなかったような気も致します。平穏な一年でした。

この一年を振り返って心にふつふつと湧いてくるのはこのブログの読者へ対する感謝の気持ちです。多くの方々に読んで頂きました。そして好意溢れる数々のコメントを頂きました。勇気づけられました。

生きている充実感で幸せになりました。本当に有難う御座いました。人はたかがブログと言いますが、私にとってはかけがえのの無い生きがいなのです。

皆様が読後に少しでも幸せを感じるようにと毎日書いています。心温まるエピソードやささやかな旅の話を書いています。新聞の明るい記事も取り上げます。

石器時代からこの日本に住み、家族を愛していた人々の痕跡を求めた記事も書きました。住居跡が何層にも重なって埋まってあるのです。暖をとり、料理をした炉の跡が必ずあります。そこには家族の愛があったに違いありません。

このブログは2007年の11月に始めました。私の山林の中の小屋の近所に独りで住んでいる木内正夫さんがブログを始めなさいと言ってくれたのです。そして彼の山荘の3階のコンピューター室で必要な技術を何度も教えてくれました。

それ以来木内さんはこのブログを毎日読んでくれています。彼自身も「北杜市・自然の中で」というブログを書いています。(http://sizen068.blog95.fc2.com/

そのブログから最近の雪に埋もれた彼の山荘の写真をお借りして示します。

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山荘は木内さんが一人で作ったものです。いろいろ趣の違う2階の部屋や3階の部屋がついていて実に楽しい構造になっています。そして上の写真の家の向こう側はイワナの棲んでいる谷川になっていて、大きな池があります。モリアオガエルが産卵にやって来る池です。下がその写真です。

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この山荘の周囲は何もありません。起伏のある雑木林が果てしなく広がっています。兎に角何も無いのです。コンビニもスーパーもはるか下の里へ下りて行かないとありません。あるのは風の音だけです。雑木林の梢を吹きすぎる風の音だけです。

そしてその風の吹いてくる方向を見ると雄大な甲斐駒と八ヶ岳があります。朝日に輝く山々や夕日に染まる姿を見ると幸せになるのです。最近、私が撮った写真です。

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上が甲斐駒岳で下が八ヶ岳です。

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ついでに私の小屋の写真も示しておきます。木内さんの山荘よりもっと奥にあります。

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このように山林を思い浮かべると心が静かになります。そうすると感謝の気持ちが自然に湧いてきます。今年もいろいろな方々にお世話になりました。

特にブログをお読み頂いた方々へ深く、深く感謝申し上げます。有難う御座いました。

どうぞ良いお正月をお迎えください。皆様の来年のご幸福をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中

2012年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、考古学的趣味にとりつかれて車で2時間以内に行ける展示館を探して出かけています。幾つも記事を掲載しましたが、以下はその代表的な記事です。

日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見

私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷

所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代

先日、相模原市の田名向原遺跡公園を訪問した折に入手した資料をその後丁寧に読みました。

そうしたら相模原市の相模川北岸の塩田、田名、谷原、東原などの地名の地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。

2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。

発見された住居跡や古墳は田名向原遺跡公園に復元されています。

考えてみるとこの相模川中流の北岸の平野は人間が住みやすいので、2万年前の旧石器時代から絶えることなく人間が住みついていたのです。

それがが発見されたのは平成になってからです。相模原市や文部科学省からの研究調査費の支出が大きな考古学上の進歩をもたらしたのです。

実はこのような旧石器時代の発掘を多くの市町村が実施しているのです。それは主に平成時代になってからのことです。

その結果、日本には約4万年前の旧石器時代から人間が住んでいたことが明確になったのです。精巧な黒曜石製の石器も沢山出てきたのです。黒曜石の産地と流通経路も明らかになったのです。

今日は田名向原遺跡公園に復元されている住居跡や古墳の写真を以下に示します。

まず20000年前の住居跡の説明です。

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下は公園に復元された円形の住居跡です。12本の柱穴と2か所の炉の跡が示されています。

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次は5000年前の縄文時代の家跡の説明です。

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下は5000年前の縄文時代の住居を公園に復元したものです。

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次は1400年前の古墳の発見の説明です。玄室から直刀や装身具も出て来ました。

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下はその古墳の復元です。

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この古墳の約1400年後の平成21年に以下の展示館が完成したんぉです。

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こうして上の写真を見るとこの地域の約2万年の歴史が概観出来るのです。

人々の生活は縄文時代、弥生時代、古墳時代になってもほとんど変わらなかったというのが真実に近いと思います。

円形の掘っ立て小屋に住み、土器や木製の農具を使い、石器も相変わらず使っていたに違いありません。青銅器や鉄の道具は高価すぎて支配階級しか使えなかったのです。

農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?

下は現代に作った石器です。これをを見ると、それらは安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。鉄器は高価だった時代には農民はこのような石器も使っていたと私個人は想像しています。

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旧石器時代、縄文時代、弥生時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代などという時代区分は歴史学者が勝手につけたものです。地方、地方に住む農民の生活の実態とは何の関係も無かったのです。これが私の歴史を考える視点です。

火山が噴火するたびに土が降り注ぎ、住居跡が三重、四重と重なって土中に埋まっているのです。今後ますます発掘調査が進むことを祈ってこの記事の終わりと致します。(終わり)

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油絵を楽しみながら世界の貧困を考える

2012年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

絵画と貧困を考える事の関係はこの記事の最後に書きます。

それよりもまず子供たちを描いた油絵を楽しんで頂きたいと思います。

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ヴォーデン

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ドガ

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グラッケンス

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モジリアニ と ピカソ

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モリゾー と ゴーギャン

=====世界の貧困を考える=================

国連の機関にユニセフというものがあります。第二次世界大戦直後のヨーロッパで飢餓と病気に悩む子供たちを助けるために国連が1946年設立した機関です。

その後その支援活動はヨーロッパのみならず全世界の貧しい子供たちを支援する活動へと発展していったのです。

この機関はいろいろな事業を繰り広げています。

その一つにいろいろなものを売って、その売り上げの何割かを貧困地帯の子供たちへ送る事業も行っているのです。

ユニセフが売っている冊子にアート・ダイアリーがあります。

上の絵は2013年のアート・ダイアリーという日記とカレンダーを兼ねた冊子からデジカメで撮った写真です。

この冊子を買ってあげると貧困地帯の子供たちが助かる仕組みになっています。下にこの冊子の写真を示します。少年の絵はエゴン・シーレです。

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この日記風のカレンダーは毎年、我が家へ送られて来ます。家内の知人で高貴な心を持った若い女性が送ってくれるのです。

ユニセフを検索するとこのアートダイアリー以外のいろいろなものが販売されています。インターネットで購入できます。購入するとその人は貧困な子供を助けたことになります。

外国の貧困地帯なんて自分と関係ないと思っていらっしゃいませんか?

ところがあなたの収める税金の一部が貧困地帯の支援に使われているのです。

国際ボランティアという言葉を検索すると、実に数多くのNPO団体が海外で活動をしています。この団体の活動歴と実績に従って外務省が資金援助をしているのです。

15年ほど以前に「国際ボランティア協会」という団体の事務局を訪れたことがあります。その時貰った年報に外務省から資金援助を受けているグループの一覧表と収支決算表が公開してありました。

外務省がODAやJICAなどの外国支援政策で貧困国を支援していることは誰でも知っています。しかし民間のいろいろなボランティアグループにお金を渡していたことは知りませんでした。日本の外交をうまく進めるために民間のグループの助けを借りているのです。

一方、今日ご紹介したユニセフの品物を買って外国の貧困を助ける行為はまったく個人の力で出来ることなのです。ですから多くの国々で購入する人が増えていきます。このアート・ダイアリーも15の国の言葉で説明が書いてあります。イスラム教の国々の言葉も使われています。

貧困地の子供を助ける方法はいろいろです。少数の子供の里親になる日本人もいます。小学校を作る人もいます。文房具を送る人もいます。

現地でのボランティア活動に参加する人もいます。

それにしても何故この世には「貧困」があるのでしょうか?

しかし必ずや「貧困」は根気良い努力で根絶出来るのです。日本の戦前の東北地方の貧困は根絶出来たので。現在、日本では凶作で飢饉になることは無くなったです。

ゆっくり、ゆっくりではありますが必ずや全世界から貧困が無くすことが出来ると私は信じています。その一つの方法のユニセフの活動への参加をご紹介いたしました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

Food to Europe
After World War II, European children face famine and disease. UNICEF is created in December 1946 by the United Nations to provide food, clothing and health care to them.

http://www.unicef.org/about/who/index_history.html

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東京都立野山北・六道山公園をご紹介します

2012年12月29日 | 写真

東京の西の郊外の多摩地方には都立公園が沢山あります。

今日は都立野山北・六道山公園をご紹介します。大体の場所は村山貯水池の西側に広がる雑木林地帯にあります。

旧青梅街道の武蔵村山市の「宿」という信号機のある交差点を北の方向に入った所にあります。交通の便が悪そうですので車で行くのが便利です。公園の下に無料駐車場があり、そこから雑木林の中の遊歩道を登って行きます。険しくはない、なだらかな上り下りです。

冬の雑木林がお好きな方向きの公園です。先ほど撮ってきた写真をお送りいたします。

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下は六地蔵という供養塔です。赤痢で41人の村人が亡くなったのです。

昔は赤痢や疫痢で多くの人が亡くなっていたのです。

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おせち料理を食べる人、食べない人、作る人、作らない人・・・それぞれの自由

2012年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

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年末になるとおせち料理を作る人も多いと思います。日本の年末の風物詩です。日本の原風景です。

しかしその伝統に縛られて窮屈な思いをする人もいると思います。お正月の挨拶やお年玉の用意など面倒なことも多いので温泉場に連泊する人もいます。若い家族は暮れからお正月は海外旅行に行く人もいます。

まったく個人的な話で恐縮ですが我が家では今年おせち料理を作らないことにしました。数日まえから夫婦そろってノロウイリスにおかされて昨日、今日やっと楽になりました。夫婦で話し合って結婚以来50余年続けてきた「おせち料理」を今年は休むことにしました。伝染すといけないので3世代が集まる新年会も取りやめにしました。外国風料理を毎年国を変えて作ってオセチの後に出していましたが。(大掃除の方は、幸い11月から少しずつこなしておいたので庭以外はまあ綺麗になっています。)

そうしたら心が晴れ晴れして楽しくなってしまったのです。良い妻は「おせち料理」が作れないといけない。こんな価値観にとらわれていた家内が安心してのびのびとしています。

どちらかというと教条主義的な家内はこの季節になるとおせち料理の材料を詳細に書きだして買い物のタイミングを調整します。一つでも買い忘れないように緊張します。

料理にかかると楽しそうでもありますが表情が変わります。沢山の野菜類の皮を剥き、切り、煮炊きします。ゴマメや昆布巻きなどなどを作ります。

下手に口出しすると叱られます。あげくには手伝いもさせられます。

出来上がった数々の料理をこの時しか使わない輪島塗の重箱に綺麗に詰めます。それはお正月が来るまで触ってはいけません。

私の育った仙台では大晦日の31日の夜は年越しのご馳走を食べます。ソバは見たこともありません。なんでも良いのですが頭つきの魚を必ず食べます。

しかし家内は年越しはソバだと主張します。東北ではそうかも知れないが、東京は違うのだと言います。

そんな恒例の争いもなくなると思うと気が楽になります。

年越しには、毎年の贈り物の燻製のサーモンで久しぶりにジョニーウオーカーを飲みながらテレビを見て過ごそうと思っています。こうして今年も暮れて行くのです。

読者の皆様には今年も本当にお世話になり有難う御座いました。

今年のクリスマスの前日の日曜日には一日のアクセス数が3612件という空前の記録を頂きました。本当に有難う御座いました。

どうぞ楽しいお正月をお迎えください。そして皆様の来年のご好運を」お祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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冬の花園・・・今日の京王フローラルガーデン

2012年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

寒い曇り日でしたが散歩をすべきと思い京王フローラルガーデンに行ってきました。

冬枯れの花園をすがすがしい気持ちで散歩しました。時々、まだ枯れていない花の写真を撮ってきました。

それにしても寒かったです。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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ふるさとを愛し、幸多い老後を過ごす人たちの話・・・下仁田物語

2012年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

忙しい年末なので逆にのんびりした話をお届けいたします。

私の家内は鎌倉生まれですが戦争中に群馬県の山郷、下仁田町に小学校2年生から3年間疎開しました。その土地で家内が通っていた小学校のクラス会が時々あり、私も下仁田に何度も行きました。

鏑(かぶら)川が流れ、周囲を山々に囲まれた山紫水明の里です。ああ、これが「ふるさと」というものだと何度も感じたものです。決まり文句で恥ずかしいのですが、それこそ日本の原風景のような場所です。家内は初めての山里での生活が余程楽しかったのでしょう。何度も当時の話をするので、私も住んでいたような気になってしまいました。

夏の朝早く桑の葉を、背負ったカゴ一杯に摘んできて蚕を養ったこと。大きな鎌を持って野原へウサギの餌にする青草を刈りに行ったこと。授業で使う粘土は文房具屋で買うのではなく山から掘って来たこと。川の深みにはまり溺れかけたこと。冬の寒さで指がかじかみ病気になったと思い込んでしまったこと。などなど・・・・彼女にとって全く驚くことばかりのそして楽しい日々だったのでしょう。

友達も大勢出来て毎日自然の中を駆け回ってお転婆ぶりを発揮していたそうです。疎開先の「番場」の家族にも可愛がられ、オキリコミや囲炉裏の灰の中で焼いたオマンジュウを頂いたのも珍しい体験であり、戦後の食糧難のこととて嬉しかったようです。

荒船山と妙義山がこの町の自慢です。まずその写真を示します。

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上が荒船山です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E8%88%B9%E5%B1%B1です。そして下は妙義山です。

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この3枚の写真は家内の同級生だった横山君が送ってくれたものです。

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下仁田で家内の同級生だった何人かの人と会いました。

私が感動したことは皆が故郷を愛して下仁田に住んでいるのです。都会に出て働いていた人も定年後には下仁田に住んでいるのです。下仁田が好きなのです。そして生まれ育ったこの町の思い出を大切にして悠々と暮らしているのです。

その様子を皆様へ伝えして皆様も少し幸せになってもらいたいと思いました。

そこで家内の同級生だった横山美知彦君にお願いして昔の下仁田の思い出の文章を下のように4回このブログに掲載しました。

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)横山美知彦著、「若き日のある危険な山の思い出」横山美知彦著、「風吹かし(かざぶかし)」・・・懐かしい日本の原風景

こんな交流をしていましたら横山君がやはり下仁田に住んでいて、下仁田町の依頼で荒船山や妙義山の管理をしている荒木勝巳さんを紹介してくれました。その荒木さんから以下のようなメールを頂きました。

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後藤様
 初めまして 同級生の横山君から先生のブログのことをお聞きし 暇があれば 毎日のように 「お気に入り」にいれて読ませていただいております。
関越自動車道を高崎方面に向かうと特異な形の山「荒船」が目に入ります。荒船山は航空母艦の様な 大岸壁が 見る者を圧倒する山です。
今の厳冬期には頂上台地から染み出る水が巨大なツララを作ります。
その頂上の展望台からの眺めは西北に北アルプスが真っ白に輝き、 北には 浅間山 東には 妙義 榛名 赤城山の上毛三山が望めるのです。
登山道は良く整備されているので 誰でも親しみやすい山です。
 四季を通じてて登山者が絶えません。
登山コースは5コースあります。
 一番 ポピュラーなコースは群馬、長野の県境の通称「県境コース」と呼ばれており、駐車場から頂上台地まで1時間半位で到達できます。コースの途中「鋏岩修験道場」跡があり 今現在滝からの水が氷瀑をつくっているところです。修験者が昔使った建物の台石が整然と並んでいます。
5月頃から新緑 ハルリンドウ やコイワザクラ 6月にはレンゲつつじ 8月はレンゲショウマ 10月には紅葉がたのしめる名山です。
頂上には 避難小屋があり これは群馬県が作り 下仁田町に管理を依頼し町から個人的に小屋の管理を頼まれ、私は月一回の割合で登って管理しています。
県知事の委嘱で 自然保護指導員として 下仁田町全域を巡視しています。
私たちの 山岳会は「荒船山岳会」として 独自の会の山行のほかに 町体育協会山岳部に所属して 町民ハイキング等を年3回ほど行っています。
  
      体育協会の24年度の行事で 「初日の出参拝登山」を1月1日午前3時に町役場に集合出発で挙行します。もう40回くらいになりますか。・・・・
      
               平成24年12月25日    荒木 勝巳
===================================
このように故郷の山々を大切にしながら悠々と生きている荒木さんの人生も良いものです。
老後はふるさとに還る。そしてそこで自然を愛し、流れゆく日々を静かに眺めている。それは一つの理想的な老境ではないでしょうか。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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冬の雑木林がお好きな方へ送る写真

2012年12月27日 | 写真

冬の雑木林の魅力は木々の梢のシルエットではないでしょうか。

多摩川中流の是政橋を府中市から稲城方面へ渡るとすぐ右手の多摩川段丘の上に雑木林あります。

日中は太陽を背にしているので冬のあいだ中うつくしいシルエットが虚空に見えます。清冽な美しさです。

寒風のなかを歩きながら先ほどその写真を撮って来ました。電線が多くて避けるのに苦労しました。都会の丘ですから仕方ありませんが。

冬の雑木林がお好きな方へ送る写真です。

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・下は是政橋です。向こう側が府中市です。上の写真の雑木林は稲城側の河岸段丘の上にあります。

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日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見

2012年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の歴史は約16000年前の縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の岩宿遺跡の発見で数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。

それ以来急に旧石器時代の研究が盛んになり、怪しい仮説がいろいろ主張され、終いには旧石器捏造事件まで起き、考古学の非科学性を暴露したのです。その結果、旧石器時代へのロマンや情熱が一挙に冷めてしまいました。

しかし平成になってから、各地の自治体が行う土木工事の前に注意深い科学的な発掘調査をするようになります。その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。

そして精密な地層の年代調査と炭素同位体の分析からこれらの石器が4万年から縄文時代の始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。

現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた後期旧跡時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。

その概略は以下の2つの記事でご紹介してあります。

私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷

所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代

それにしても考古学の学説には信用出来ないものが多いのです。例えば旧石器時代には人間は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていました。

しかしこの学説は間違っていたのです。少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、田名向原(たなむかいはら)遺跡公園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。

昨日、この20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て来ましたので以下に簡単にご紹介いたします。場所などのついては検索するとあります。

行ってみると其処は下の写真のように相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。

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下が20000年前の旧石器時代の住居の復元模型です。

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黒曜石石器の多量生産で裕福だったので萱ぶきの小屋でなく獣の皮で覆った小屋だったと考えられています。

下の写真は住居兼用の石器製作場で一人の男が石器を一心に作っている様子です。

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家の中で石器を作っていたという証拠は日本ではここだけで見つかりました。

地中へ50cmから70cmに埋め込んだ柱の穴が12本出てきました。そして室内の2ケ所に炉のあとが見つかりました。炭と、焼けた土がその証拠です。

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作っていた石器は指先くらいの大きさの矢じりから掌大の刃物までいろいろでした。下は掌くらいの刃物の写真です。黒曜石を削ったものです。

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この石器の大量生産の原料の90%は長野県の諏訪湖の北方の和田峠、男女倉、星が塔、麦草峠から来たものです。他に神津島からも来ています。その原産地は黒曜石の蛍光X線スペクトルから精密に分析して決定されます。

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上の説明で石器の大量生産工場という表現を用いました。その理由はこの小屋の周辺から2986個もの大量の石器が発見されたからです。下にその一覧表を示します。

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この3000個もの石器は個人や一家族で使うには多すぎます。獣肉や獣皮との交換や、木の実や野生の果物との交換に使われたと考えるのが自然です。

また原料の黒曜石を遠方の長野県から取り寄せる費用にもあてたはずです。

黒曜石とその石器は当時のお金の役割のようなものとして使われたと仮定するのが合理的ではないでしょうか?

さて20000年前の住居が一つだけ見つかったからといって、全ての当時の人々が定住していたと結論するのは早計です。そんなことも含めてこの連載記事を続けて行きたいと思います。素人の書く記事ですので間違いも多いと思います。ご訂正、ご批判を頂ければ嬉しく存じます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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3年間の民主党政権で愚かな私が学んだ3つの事

2012年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

今日の午後、国会で安倍首相が誕生し新政権が発足します。

3年ほど前の選挙では私は民主党が良いと思い投票しましたが、今回国民の大多数は民主党の政治を低く評価し自民党と公明党が圧勝したのです。

12月16日の選挙以前から、安倍総裁は安保強化、原発維持、憲法改正、そして強い日本を取り戻すと鮮明に政策を発表しています。そして大きく金融緩和を実行し、インフレの方向に舵をとり、経済活性を目指しています。

安倍さんの言動は旗色鮮明で歯切れがよいのです。国民が支持しやすいのです。

最近のアメリカ政府や中国や韓国の安倍さんの政策に対する反応を見ていると私は愚かだったと思います。国際間の軍事的バランスや国民の本音を理解していなかったのです。一般大衆は愚かだとよく聞きますが、それはとんでもない間違いです。

民主主義の根底は一般大衆の意見や選択を尊重することにあります。

そんな思いをしながら私の間違った理解を3件以下に書いてみます。

(1)日米安保は現状よりも強化し軍事同盟に格上げすべき。

これが安倍さんの方針です。それに敏感に反応してクリントン国務長官は尖閣諸島は日米安保の守備範囲と声明を発表しました。最近は上院総会で日本が尖閣諸島の施政権を持っていると確認する決議をしました。この決議が出た途端、中国の艦船や飛行機が近づかなくなりました。

韓国が実効支配している竹島へも韓国の政治家が上陸して日本人の感情を刺激することが無くなりました。同じように北方四島も静かになりました。

鳩山政権が安保条約を軽視してつまらない発言をしてアメリカを怒らせてしまったのです。その隙をすかさずついて来たのが中国や韓国やロシアだったのです。

アメリカが攻撃されたら日本はその敵国を武器を使って攻撃する。これが対等の立場に立った軍事同盟なのです。一方的にアメリカだけが日本を守るという現在の安保条約では台頭する中国を抑えきれないのです。その事実を私は深く理解していなかったのです。

(2)原発反対は本音でなかった・・・やっぱり不況の方が怖い。

原発を20基残すか、30基残すかはまだ分かりませんが、国民の大多数が原発維持の自民党へ投票したのです。

原発反対か賛成かだけで国民投票をすれば反対派が多いと思います。しかし原発問題と不景気対策とどちらが重要ですかと国民投票すれば不景気対策に軍配があがります。今回の選挙結果はこのことを明らかにした結果です。

原発が爆発しても被害はその地域にとどまる。経済不況は全国の人々を苦しめているのです。私は間違っていました。経済不況になっても原発廃絶に賛成する人が大多数と思っていたのです。愚かでした。

(3)憲法9条を止めて日本が武力を使い戦争出来るようにすべきだ。

戦後教育をたたきこまれた私は憲法9条こそが世界に自慢出来る条文だと信じていたのです。その条項では国際間の紛争解決には武力を用いないと明記されていたのです。この理想主義を憲法に明記した国は人類の歴史では空前絶後のことだとも教わりました。日本は世界の模範になる平和な国だったのです。

その結果、日本は朝鮮戦争やベトナム戦争や湾岸戦争に出兵しなかったのです。

この憲法9条を弊履のごとく捨てようとするのが安倍政権です。まさか国民の大多数がそれを支持するは思っていませんでした。私は間違っていました。国民の大多数が理想よりも現実主義を選んだのです。私は愚かでした。

そんな想いをする今日、この頃です。そうして今年も暮れて行きます。

愚かな自分の気分を良くするために先月旅した伊豆半島の小室山で撮った写真を掲載いたします。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)

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クリスマスだけでなく試しに教会へ行って見よう。

2012年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

今年はノロウイルスにやられ24日のクリスマス・イブのミサへは出席出来ませんでした。今朝から少し良くなったので25日午後2時からのクリスマスの日中のミサに行って来ました

例年24日の夜のミサに出席していましたので、日中のミサに出るのは初めてです。

明るい午後の陽射しが祭壇にだけ射しこんでいます。クリスマスの聖歌を唄っていると何とも幸せな気分になります。イエス様が生まれてくれたおかげです。この幸せ感は何処から来るのでしょうか?そんな事を考えながら皆様にも幸福を少しでも分けて上げられないものかと考えていました。

キリスト教信者になるためには仏教を捨てなければいけない。神道もいけない。先祖代々のお墓にお参りしてもいけない。お葬式も法事にも出てはいけない。

よくこういう事を言う人がいます。しかしその考えは極端すぎると思います。

私は他の日本人と全てを同じように行っています。日本文化を愛しているのですから当然です。

日本は古来から多神教文化圏です。そこでのキリスト教はヨーロッパのような一神教文化圏とで信仰の内容が異なるのが当然です。

私は仏教も神道も大切にします。

その上でイエス様に近づき。洗礼を受けました。毎週ミサに出ているだけでイエス様が私を愛してくれているよう気になります。神様が私を愛してくれています。

そうです。人間は誰かに愛されていると幸せに感じるのです。ですから信者でない人もクリスマスの折りにためしに教会へ行ってみると良いのです。

必ずや少し幸せな気分になります。平和な気分になります。この世の平和以上の神の与えてくれる平和です。

幸せな気分で聖歌を唄っていると誰に対してか分かりませんが感謝の気持ちで胸が一杯になります。感謝の気持ちがいっぱいになると何故か幸せになるのです。

そんな気分になると思いますので家族連れで一度教会へお出かけになって下さい。

教会へ行くのはクリスマスや復活祭のような特別の祭日でなくても良いのです。

いつでも日曜日の午前中に行けば良いと思います。

下に今日のミサの様子を示す写真をお送りします。

司祭様はベトナムからボート難民として日本へ来て神父に叙階されたヨゼフ・ディン主任司祭さまです。

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この世の理不尽さと神が与える不平等

2012年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

冬になると毎年、毎年、深く感じることがあります。それは日本列島の天候の理不尽さです。神が人間に与える不平等です。答えは出ませんが冬になるとつい深く考えてしまいます。

 本州の太平洋側は晴天で暖かい陽射しの日々が続きます。ところが島根、鳥取、福井、石川、富山、山形、秋田のような日本海側は低い暗い雪雲に覆われ、地吹雪の吹きまくる毎日なのです。

その上、この日本海側の山沿いは豪雪に悩まされるのです。その苦難の冬の生活は鈴木牧之の「北越雪譜」に忠実に描いてあります。

日本列島の中央に高い山脈が南北に走り、それに水分を含んだ西風が強く吹き付けるからです。

高齢の女性は何故か天気予報が好きで、家内もテレビで天気予報を欠かさず見ています。そうして気がついたことです。

一言に太平洋側と言っても冬の天気には随分と差があります。

山梨県は内陸盆地ですが南、北アルプスが日本海から吹き付ける西風を遮るので東京と同じ天気です。しかし琵琶湖盆地は西に高い山脈が無いので北陸の天気になりがちです。東海道新幹線が冬に関ヶ原近辺で遅れていました。最近は雪対策工事も完成してそんなニュースも聞かなくなりました。

南国の九州や四国は本州中央部のような高い山脈がないので冬の天候は厳しいのです。

一方、仙台平野は太平洋側天候です。冬でも晴天の日が多いのです。それが盛岡盆地や山形盆地になると曇った暗い日が続きます。津軽盆地も青森も日本海側のような厳しい天候です。

 さて北海道になると日高山脈を境にして西は日本海的な天気になります。道東は太平洋側の天気です。しかしこの言い方は雑過ぎます。

松前、函館、江差、色丹半島は北陸や越後のような日本海側天候ですが札幌から内陸は乾燥した天気で雪が少ないといいます。

内陸の帯広や道東の網走、ウトロ、斜里、川湯、釧路、別海町、野付湾、風連湖などは雪が少ないのですが厳寒地帯です。零下20度以下になるところがあちこちにあります。

大地は少しの雪に覆われ、来春まで溶けない凍土が広がります。白い大地です。

今年の9月にこの道東地方を旅した時の写真を下に示します。

今頃は色が一切ない白い大地が広がり零下20度の烈風が吹いているのでしょう。

神様は何故、人間へこのような試練を与えるのでしょうか?そして人間の住んでいる土地によってその試練は平等ではないのです。何故か深く考えさせられます。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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たった独りのクリスマス

2012年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

世の中は一寸さきは闇だと言います。一昨日の昼食後、激しい嘔吐をして、それから18時間ほど嘔吐10回、下痢15回の七転八倒をしました。ノロウイルスにやられたようです。嘔吐するときの気持ちの悪さと胃腸の苦しさで寝ても身の置き所が無く蒲団のなかで転がりまわっていました。

今日の昼食からオカユ、茶わん蒸し1ケ、パイナップルの缶詰め2切れを食べましたが下痢は止まっています。

しかし24時間の絶食でフラフラしていて今夜のクリスマスイブのミサへは行く気力がありません。ゴム手袋、消毒液、汚れ物はビニール袋に入れて外へと、ずいぶん気を付けていた家内も今日の朝食後から嘔吐しはじめて何回も苦しんでいます。

そこで今夜のミサは諦めて午後の暖かい時間に独りで教会に行きクリスマスのお祈りをして来ました。一年間イエス様にお世話になったことへの感謝の祈りです。来年もどうぞお守りくださいというお願いです。会堂には暖かく陽が差し込んでいました。

オルガン奏者がクリスマスの歌の伴奏を練習しています。

家内のぶんもお祈りしながら、こうしてたった独りのクリスマスも良いものだと思いました。苦しがっていた家内も大分落ち着き「老老介護の予行演習ができた」など相変わらず楽天的なことを口にするようになってホッとしました。

明日、25日の10時からのミサには行けそうです。

皆様はクリスマスイブをどのようにお過ごしでしょうか?くれぐれも伝染性のノロウイルスにはお気をつけて下さい。

下に先ほど撮って来た写真をお送りいたします。

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私の郷土史(3)八王子千人同心の半分武士・半分農民の不思議な歴史

2012年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

甲州街道を下って八王子の中心街から高尾方面へ出ると「千人町」という交通信号ががあります。

昔からそこを通るたびに不思議な名前と思い、いろいろ調べてきました。

主な資料は八王子郷土資料館にあります。そして小金井公園の江戸・東京建物園にはその千人同心の組頭だった塩野家の農家が復元展示してあります。

この千人同心は徳川側に滅ばされた武田信玄の下級の武士だったのです。それを徳川家康が引き取って江戸幕府の一つの組織にしたのです。その事も特異な歴史と思いましたので以下に簡略にご報告します。

まず八王子郷土資料館の展示の写真から紹介いたします。

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千人同心の役割は日光の東照宮の警備や江戸幕府の種々な雑用から幕末戦争への参陣でした。

苗字帯刀は許されず必要がある時だけ刀をさして良いことになっていました。幕府からの扶持米では生きて行けないので普段は農業をしていました。下の写真は勤めに出るために正装した同心の幕末期の写真です。刀を腰にさしています。

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次に小金井公園の江戸・東京建物園に復元してある千人同心の組頭の塩野家の家の写真です。

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下に塩野家が復元されたいきさつの説明を示します。

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下は家の内部の写真です。一般の幕末のころの農家と全く同じです。ただ少し裕福な農家のように見えます。したがって千人同心は武士階級ではないと考えられています。

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下にWikipedeaの「八王子千人同心」の項目からの抜粋文を示します。それにしても、八王子千人同心の歴史は悲しいものと私は感じています。

江戸時代は複雑で地方、地方によっては非常に異なる統治形態がとられていたのです。

特に関東地方は天領が多くて、独立した藩が無かっただけに歴史の実態は不明なことが多いのです。江戸幕府直轄の新田開発も活発でした。関東の開発は江戸幕府によって随分と進められたのです。

=====参考資料===============

八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持であった。 寛政12年集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った。

千人同心が武士身分であったかについては疑問も多い。従来は千人同心だったもの達の主張に従い武士(御家人)だったというのが通説であったが、近年に入り現存する史料などの研究が進むと、武士身分としての実態が伴っていなかったことが判明してきている。

例えば、千人同心は苗字を公称することがゆるされておらず、帯刀についても公務中のみと制限されていた、そして同心の家族であっても帯刀はゆるされず、引退した同心経験者であっても同心職を退いたならば帯刀は出来なかった。さらに同心職の譲渡にあたっても養子縁組を擬制することなく同心職のみが継承された。

また江戸時代中期頃より株売買による千人同心職の譲渡が盛んになり、八王子に集住していた同心達にかわり、関東近在の農村に散在する富農層が千人同心職を兼帯するようになる。 千人同心たちは居住する村落では人別帳に他の農民同様に百姓として記載されており、幕府代官所をはじめとする地方領主達は、かれらを武士とは認めていなかった。このため千人同心たちはたびたび御家人身分の確認をもとめて幕府に願い出るが、幕府は毎回これを却下している。例えば幕府の最高法廷である評定所は、人別帳への苗字記載をめぐって争われた苗字一件において、明確に千人同心が正規の御家人身分を有しないとの判決を下している。

今日では武家奉公人にあたると考えられている。

以上の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%8D%83%E4%BA%BA%E5%90%8C%E5%BF%83です。

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