後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

ヨットの普及に絶大な貢献をしたヤマハ・・・日本の戦後のヨット史の主人公

2011年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

白崎謙太郎著「日本ヨット史」と渡辺修治著「どんがめ物語」の内容を紹介した記事を合計8回連載して来ました。戦前、戦後の日本のヨット史に直接関係する記事は以下の5編です。

白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆

白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(2)明治時代、横濱に在住した外人のヨット

白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(3)明治20年代の横濱にあったヨットの写真集の発見

白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(4)ベルリンオリンピックへの参加と戦前の外洋レース

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(4)我が国での外洋ヨットレースを確立する

この連載の目的は日本のヨットの趣味がどのような経緯で始まり、どのように広がって行ったかを明らかにする事でした。

明治維新から大正時代の関東大震災までは横濱や神戸に住んで居た外国人が盛んにヨットレースを楽しんでいました。しかし日本人は興味を示さず、日本人の趣味にはなりませんでした。

関東大震災で横濱港が壊滅すると外人が一斉に帰国します。昭和になり日本の軍国主義が優勢になるに従って外人が引きあげて行きます。これで日本にあった外人のヨットクラブも無くなります。しかし昭和11年のベルリンオリンピックの前からオリンピックに刺激されたヨット趣味が次第に広がります。日本はベルリンオリンピックへヨット選手の代表団を派遣します。結果は惨敗でした。

一方、日本の初めての外洋ヨットレースは昭和12年に大島廻航コースで開催されます。しかしそのヨットの趣味は満州事変、上海事変、真珠湾攻撃と続く戦争で途絶してしまいます。

敗戦後、進駐して来たアメリカ軍将校がヨット趣味を日本人へ教えます。クルーザーヨットの設計方法と建造技術を日本人へ教えたのです。

その上、性能の違うヨットが同じコースのレースに出場する場合のハンディキャップの精密な計算方法を教えてくれたのです。

それが土台になり日本に初めて日本人の運営による全日本ヨット協会や日本オーシャンレーシングクラブの基盤が充実したのです。全日本ヨット協会は一応戦前からありましたが、戦後に学生ヨットレースの隆盛で運営基盤が確立したのです。日本オーシャンレーシングクラブは進駐軍将校の指導で日本人の手によって作られたのです。

朝鮮戦争やベトナム戦争で日本の経済が高度成長するに従って、ヤマハという会社が小型ヨットだけでなくクルーザーヨットの大量製造に乗り出すのです。

これで日本人のヨット趣味が一挙に拡大したのです。1990年頃のバブル経済の崩壊までは拡大を続けたのです。しかしそこをピークにして、ヨット趣味は次第に勢いを失い始めるのです。

ヤマハは明治30年に創業された楽器製造会社です。それが次第に他の業種へ展開し、オートバイから漁船に至るまで広い分野の製品を生産している会社です。品質が高く、比較的廉価なのでその製品は世界中へ輸出されています。

私もYAMAHA-19という小型のクルーザーに10年間乗っていました。復元力が大きくてセイルと船体のバランスが良く、信頼出来るヨットでした。金具類は絶対に故障しない品質です。勿論、水は一滴も漏りません。エンジンはヤマハの船外機でしたが一度も故障をしたことがありません。

たった一つの欠点は、製品が何故か優等生のようで、面白みに欠けるのです。欠点が無さ過ぎて、なにか魅力的な船ではないのです。完璧過ぎる秀才を相手にしているようで、本物のクルーザーではないような気分になるのです。その後、アメリカの26フィートのクルーザーに13年間乗りましたが、ヤマハー19との違いが興味深いのです。あちこちに欠点のあるクルーザーなのですが、その欠点のせいで面白くなるのです。

ヤマハとかヤマハ発動機というキーワードで検索すると詳しい情報があります。

ある一つの会社が日本の音楽趣味やオートバイ趣味やヨットの趣味の拡大に大きな 貢献をしたのです。業務内容がとても面白い会社です。以下に本業のピアノとヨットやモーターボートの写真を掲載します。

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最後に今年一番悲しかった記事をもう一度お送りします

2011年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

2011年、平成23年も今日で終わります。

この一年を振りかえって見ると、このブログの紙面を、東日本大震災と福島原発事故に関する悲しい記事が覆っています。

しかし悲しみの中に心暖まるエピソードや、勇気づけられる国際ボランティアに関する記事も混じっています。なるべく元気が出るようにと明るい話題を取上げました。

しかし今もう一度読み返してみると悲しみに満ちた記事の方が多い事に驚いています。私自身が悲しんでいたので自然にそうなったのでしょう。来年は明るい記事を多く書いて行きたいと思っています。

悲しみと言えば、大震災とは関係なく、1984年に39歳で亡くなったある女性の物語も悲しい話でした。残された夫が亡き妻を愛して、現在でもその遺稿集を無料で配布しています。私も送って貰い、この遺稿集の書評を3回連載の記事として掲載しました。それを読んだ何人かの読者が遺稿集を申し込んでくれました。

39歳の若さで亡くなった方の少しばかりの供養になったと満足しています。

この物語を簡略に整理して、皆様へ紹介した記事を11月25日に掲載しました。

以下に再掲載致しますので、是非遺稿集をお申込みになさいますように祈っています。

それにしても今年は読者の皆様に例年とは違った意味で大変お世話になりました。

勇気づけられまた。ご好意溢れるコメントを頂きました本当に有難う御座いました。

皆々様のご健康と平和をお祈り申し上げます。どうぞ来年もよろしくお願い申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

美しい夫婦愛、そして美しい写真

夫婦愛は美しいものです。奇蹟のように感じられるときもあります。

織田寧人さんの最愛の妻、美保子さんは1984年にガンで亡くなりました。寧人さんはすぐに美保子さんの遺稿集を出版しました。「風を愛したひと」と題した装丁の美しい単行本です。

現在は2011年ですのでそれ以来27余年が経過しています。しかし寧人さんはこの本を読みたいという人に現在でも無料で送り続けています。以前、このブログでその事を紹介しました。そうしたら3人の方が申し込んでその本を送って貰ったのです。

申し込み先は、http://www.ne.jp/asahi/oda/kaze/kazeai.htmに書いてあります。是非、寧人さんから送って頂き、お読み下さい。

その本は夫と2人の子供を残して39歳で旅立って行った美保子さんの悲しみが溢れています。悲しい本ですが、一方で夫婦愛の美しさが溢れているのです。そして亡くなってから27年余になっても寧人さんは妻の遺稿集を多くの人へ送り続けてるのです。27年前に別れてしまった妻を忘れられないのです。妻に対する愛はますます強くなっているようです。

この織田寧人さんは美しい写真を撮り続けています。妻と別れた悲しみが写真の印象を一層奥深いものにしているようです。人間は写って居ません。風景、建物、教会、廃墟、鉄道写真、万葉集、芭蕉、などとテーマ別に分類されています。

このブログの「推薦したいブログ」の一つの、織田寧人@風工房 です。

その中の「天主堂巡礼」というテーマの中の2枚の写真を下に示します。

私も遺稿集、「風を愛したひと」を読み、感想文を3回に分けてこのブログに掲載しました。

それらは(1) 39歳、ガンで逝った織田美保子さんの遺稿集の書評(1)分かりやすい文章、美しい日本語、(2)織田美保子さんの遺稿集「風を愛したひと」の書評(2)結婚しようとしている男性、夫婦生活をしている夫が読むべき書、(3)織田美保子さんの遺稿集「風を愛したひと」の書評(3)涙、涙、涙、そして慟哭  です。

再度お読み頂き、この遺稿集を取り寄せて是非お読み下さい。夫婦愛の美しさが分かります。そしてあなたの夫婦愛が今まで以上に輝きだすと思います。仲の良い夫婦も、仲の悪い夫婦も是非お読み下さい。

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山林の中に独り住む人とのメールの交換

2011年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
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鬼家さん :
こんばんは。
昨日、息子や孫と鬼家さんの家を訪問しました。お留守でしたが、帰り道でお会い出来嬉しかったです。
自転車で坂道を登って来たのでビックリしました。凄くお元気ですね。
でも冬の間は自宅近辺だけで生活して下さい。 非常食が充分あるので3年くらいの越冬は出来るようですが、野菜が無かったので心配しています。野菜はどのようにして冬の間、食べているのですか?
お元気でお過ごし下さい。後藤和弘:2011/12/29(木) 22:03:50 | URL | 藤山杜人 #-[ 編集]
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後藤さん、おはようございます。
須玉の塩川病院まで行っての帰りにお会いしました。
距離があるのでバッテリーが持たず、少しの坂は自力で登って、最後の自宅付近の坂に温存しています。 バッテリーがなかったら最後の登りは歩いていたかもしれません。
1月中旬に診療所に行きますが、もう冬眠生活に入っています。
野菜、肉、卵、魚がなくても2ヵ月半程度は生きていけます。過去に何回となく実験済みです。
また、レトルト食品の中には肉、野菜など含まれています。
乾燥ワカメや切り干し大根などの乾物なども用意してあり、缶詰などもあり、3月中旬までの冬眠は大丈夫だと思います。
20日以上更新がなかったら冷たくなっていると思ってください。
コメント有難うございました。良いお年を。 2011/12/30(金) 09:11:41 | URL | 鬼家(オニイエ)雅雄 #-[ 編集]
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このブログの読者の皆様へ…本当に今年はお世話になり有難う御座いました

2011年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

今年もこのブログを見て頂きまして有難う御座いました。お世話になり有り難う御座いました。

今年もあと2日で、新しい年を迎えます。明けましておめでとうと書くにはいきません。今でも、避難のために仮設住宅にお住まいの方々の生活を思うと粛然とした思いで、年の暮れを迎えています。

先週行った鎌倉の淋しい海の風景が今年の暮れの感じのようなので写真をお送りします。

本当に今年は読者の皆々様に助けられて、このブログを続けられました。

有難う御座いました。どうぞ楽しいお正月をお迎え下さい。後藤和弘

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このブログの読者へ、年末にあたり深く感謝します(2)大地震と大津波の記事ではお世話になりました

2011年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

今年の3月の大震災と原発事故の被害者の方々が一日も早くもとの生活が取り戻せるようにお祈り申し上げます。犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りしています。

そして、皆様にはこのブログをお読み頂きまして本当に有難う御座いました。

年末にあたり心から感謝申し上げました。

今年を振り返ってみるとこの一年は、このブログにとっても激動の一年でした。いろいろ間違ったことや考えの浅いことも書きましたが、読者の温かいコメントと支持に勇気づけられて無事今年も終りに近づきました。

今回の大地震と大津波は私の故郷の仙台市も大きな被害を受けました。

仙台には弟が二人住んで、その家族たちが石巻市や多賀城市で働いています。幸い無事でしたが、仙台の被害はマスコミで見るよりも深刻でした。

24歳で仙台を離れるまでよく遊びに行った松島や石巻や七ヶ浜、野蒜海岸、宮戸島などなどの思い出深い町々が津波ですっかりガレキの原になってしまったのです。

心の中の故郷が完全に壊滅してしまったのです。

衝撃を受けました。そして沢山の記事を書いたのです。毎日書きました。

下にこのブログに3月、4月そして12月に掲載した大震災関連の記事を示します。

私自身は直接の被害がありませんでしたが、気持ちが動転しました。落ち込みました。以下の記事の題目を順に見て行くと私自身の気持ちの変化が分かります。

動転。悲嘆。落ち込み。少し落ち着く。ボランティアの活躍で元気になる。数々の美談を読んで更に勇気づく。戦後の復興を思いい出す。復興への情熱を感じる。

そして12月に至って、この運命を静かに受け入れる。このように私の気持ちが少しずつ元気になって来た様子が分かりました。

文章とは書き手の気持ちを写す鏡のようなものだと思います。

そのような心の動揺や変化に対して多くの心暖まるコメントを頂きました。勇気づけられるコメントを沢山頂きました。そのようなコメントでどんなに元気がでたことでしょう。感謝の気持ちでいっぱいです。

年末にあたり深く感謝しています。有難う御座いました。

年末にあたり来年は自然災害の起きない年になるように心からお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

下に津波で一切流された土地に例年のように静かに桜が咲いた写真と記事を再掲載いたします。4月中旬、東北にも遅い春がやって来た様子です。まだ寒そうな陽射しです。

===3月11日から31日までに掲載した大震災関連の記事====

現在、テレビでは大津波が船や車や家を陸上の街や農地へ押し寄せている映像を流しています

何故、今日の大地震と大津波が起きたのでしょうか?

今回の巨大地震・大津波が何故予測出来なかった!!!

大津波・巨大地震の被災地の方々へ・・・そして2人の弟とその家族へ

少年の頃の思い出の浜辺が皆大津波で被害を受けた・・・野蒜海岸、宮戸島、松島、荒浜、石巻

電気・ガス・水道の無い生活を静かに受け入れる日本人の偉さ!

今夜の停電のために簡単なランプを作る・・・ローソクも電池も買えなかった方々へ

私は仙台平野には津波が来ないと教わっていた!

今回の地震・大津波は第二次大戦敗戦につぐ第二の国難

地震・大津波の後で見た3つの美談

大津波にまつわる美談、ー続きー

世界中の人々から届いた心強いメッセージ

原子力空母ロナルド・レーガンや普天間の海兵隊が救援活動開始

心に太陽を持て、唇に歌を・・・

危機に、落ち着いて対応している日本人の品格を褒めている外国の人々

佛教、神道、キリスト教合同で、地震・大津波犠牲者への追悼式がニューヨークで開催されました

こんな風景写真を見て自分の心を落つかせています

明るいニュース・・・ばあちゃんと孫 2人で9日間頑張った!

放射能に過剰反応せず大津波災害救援と復興を急ぐべし!

さあ、復興に立ち上がろう!・・・胸打つラーメン屋さんのボランティア活動

国破れて山河あり・・・少し元気の出る写真をお送り致します

地震・大津波・原発災害は第二次大戦の敗戦とは違う・・・東京以西は無傷

岩国、広島で見た義捐金を入れる人々・・・美しい心の絆

大津波の動画集・・・ああ、神様はあまりにもむごすぎる!!!

こんな時にヨットをしている人は非国民!!?

大地震・大津波・・・でも何事も無かったように静かな湖畔の風景

以上が3月11日から31日までに掲載した大地震と大津波に関連する記事です。

=====以下は4月の掲載記事です。==========

あなたは米軍の献身的な救援活動に胸が熱くなりませんか?

大津波で亡くなり、中国で英雄になった日本人・・・日本、加油!

米軍・自衛隊・海上保安庁の大規模捜索で見つかった66人のご冥福を祈って来ました

気仙沼市、大島へ強行上陸したアメリカ海兵隊の活躍

大津波、しかし碧い空に輝く人々・・・被災地を支援する外国の、日本の人々

水戸市内住宅地の大地震による惨状の写真

地震と大津波は絶対に予測できない・・・地質学の限界を正しく理解しよう!

終戦後の事をしきりに思い出す今日、この頃

原発事故の責任追求よりも大津波被災者救援を急げ!

桜花を見て元気になろう!・・・桜は日本人の心

仙台の河北新報社が大地震・大津波の写真集を出しました

春の花々を見て元気になろう!・・・東北、頑張れ!

大災害で、あなたの心は動揺していませんか?・・・しかし明るく生きましょう!

日本には無傷の財産がたくさん残った!・・・東北地方は必ず復活する!

大津波の被災地にも桜が満開になる!

大地震・大津波、原発事故以来毎日流れる涙の原因はいろいろ

今回の地震・大津波は絶対に天罰ではないと考え・・・死者の鎮魂を強く祈れ!

そして5月の記事へと続くのです。

12月23日の記事は以下のようなものです。

大震災と原発事故の心の受け止め方・・・年末にあたって冷静に考える

=============================

大津波の被災地にも桜が満開になる!

桜は大和民族の心です。皆が大津波の被災地に桜が咲くことを祈っています。そして被災地の人々の心の中にポッと小さな灯が燃え始めるように祈っています。

そう祈りながら、「被災地の桜」という言葉で検索して見ました。沢山写真が有りました。日本中の人々が被災地にも桜が咲くようにと祈っていたのです。

沢山ありましたが「時事ドットコム」(http://www.jiji.com/jc/d4?p=chr100&d=d4_quake )から三陸地方の写真と、被災地ではなかったが観光客の激減した福島市の花見山の桜の写真をお借りしてました。

 「春 望」
  国破山河在  国破れて山河在り
  城春草木深  城春にして草木深し
  感時花濺涙  時に感じては花にも涙を濺ぎ
  恨別鳥驚心  別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

今日は被災地の多くの人々が桜の花で少しでも勇気づけられますようにお祈り申し上げます。藤山杜人

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山へ門松を取りに行きました

2011年12月29日 | 写真

お正月の準備のために山へ門松を取りに行きました。一族の男性4人だけで行きました。

山小屋の隣の松林が伐採中なので、松の枝が沢山落ちている筈です。

ところが門松のように穂先が真っ直ぐ伸びた松の枝が一切ないのです。全て曲がっています。仕方なく、お正月用の活け花に添える松を数本持って帰りました。

松飾りの松は今日、鹿児島産の栽培した真っ直ぐな穂先の松枝を買って来ました。栽培でないとこんなに真っ直ぐな松枝が大量に市場に出ないと納得しました。

皆様、楽しいお正月をお迎え下さい。

下の写真は松の伐採地の写真2枚と、門松になる松が無くて、仕方なく甲斐駒の写真を撮ったり、一面に氷った池の写真を撮ったりしたものです。

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森林の伐採に関する林業専門家からのご意見を頂きました

2011年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の、森林の伐採をあなたはどのようにお考えですか? という記事について林業専門家からの貴重なご意見を頂きましたので以下に全文をご紹介致します。私の訂正すべき事は伐採の広さが素人の大雑把な堪で2km四方と書きましたが1km四方のような気が致します。済みませんでした。それ以外は正しいと思います。

======saboさんからのコメント==========

初めまして。私は別の地域で林業に携わっています。(ので、ほとんど存在しないと言われるとちょっと…)

さて、松の丸太以外は打ち捨ててあるという状況は写真からは判然としませんが、
ごく普通の作業現場に見えます。(アカマツですかねー)面積については2km四方つまり400haというのならそれはとんでもない話です。そんな大面積を皆伐するという点、その昔人力でそんな大面積に単一樹種を植えたという点、両方からとんでもないです。東京ドーム85個分ですからね。ただ、残っている木を見る限り、手入れ不足で手遅れの木、つまりあとは枯れるのを待つだけの木に見えます(2枚目の写真は特に)。
完全に枯れる前に手を入れて、再植する費用を捻出するというのならば、そう悪い考えではないと思います。これだけ平らなところを400haもやれば十分収益が上がるでしょうし。ところで、山ツツジもコブシもウツギもヤマザクラも明るいところを好む陽樹です。鬱蒼とした森林の中では生育できません。ゆっくり枯れていき姿を消します。
雉も野ウサギもカヤネズミも草原を好みます。モリアオガエルについては4~7月の産卵期に水を濁すようなことをしなければ絶滅するような大きな被害は出ないでしょう。
そして昆虫、は虫類、両生類、動物類は移動できます。あるいは近年、クマタカをはじめとして猛禽類の減少が問題となっていますが、この原因として伐採(皆伐)を行わなくなったために草原(植栽後の幼齢の森林)が減り、えさとなるウサギやネズミを捕獲できなくなったことが一因として挙げられています。伐採跡地というのは美しくないかもしれません。しかし、2枚目の写真にある枝を積み重ねたところなどはネズミやウサギのすみかです。彼らにとっては好ましい環境なのです。

物事にはいろんな側面があります。ですから、必ずしも森林が地方都市の持ち物であるとは限らないですし、費用が役所から出てるとも限りません。ましてや、経済的に成り立たないとまで言われている林業で地元の人が潤うのでしょうか。もし役所がやってる仕事ならば(私も詳しくはないですが)法廷受託事務における行政の不作為と言えるかもしれません。行政審査という文句が言えます。
先ほど述べたように動物は移動できますので、山で食べるものが減れば畑の作物を食べるために今までより多く出てくることになるでしょう。先ほど述べたとおり、物事にはいろんな側面がありますから、八方良いことだけってことはほとんどないでしょう。また、成り立たない産業に3年毎の細やかな手入れを求めるのも酷な話です。
もちろん私も400ha一斉皆伐することが正しいとは思っていませんが、手入れをできないから手をつけないというよりかは、こんな最低限の形ででも手入れができるならするに越したことはないです。なんだか反論ばかりになってしまいましたけどもご容赦ください。追伸
>>日本の林業は安い輸入材のおかげで経済的に成り立ちません。これも本当にいろんな側面があります。(国産材の質、日本の住宅需要などなど)。あと、近年は(実質的なものも含め)諸外国の丸太禁輸政策により国産材の利用率は高くなってきています。投稿 sabo | 2011/12/28 19:14

====これに関連したyuyuさんからのコメント========

森林を木材を得るための対象とだけするだけでは、確かに、海外の安価なものに価格面で太刀打ちが出来ないのだと思います。これまでに増改築を含めて普請を何度もした経験で申しますと外材は価格が示す通りの問題があるものばかりです。南洋材の短期に成長した材質の脆さ、北洋材の米松なども国内の松とは比較にならない弱さを持っています。不況の間接的な影響もありますが、低価格のみに拘り、耐久性を考慮すれば寧ろ値打ちな国産材を認識すべきなのです。

建築中に経験したのは、背の届かない高さの作業を職人がする場合に、材木の足場を使うのですが、日本材で今まで行ってきた作業をすると突然、太い木材が人の重みに耐えられず折れてしまうのです。棟梁は「北洋材は油気が足りないのです」といいます。安くて当然です。

下草刈りと混んだ樹木の間引きと言う、森林を守る基礎の作業の手抜きが成長を阻害し、良い材木が育たないという悪循環となったいるのでしょうか。三Kとかと称していやな仕事を敬遠する日本人が山仕事に従事する人を激減させていると思います。若者が全て、高学歴のホワイトカラー族ばかりになっているのが今の日本ではないでしょうか。檜や松や杉も密集してしまっては、成長のしようがなくなってしまいます。写真の松林でも、全部を切り倒すのではなく、間引きすることで残った樹木が利用できる太さに生長するのではないかと思います。自然を破壊して山保水力をなくした結果、土石流や洪水を起こしているのだと思います。国有林も地方の森林も有効利用に知恵を使って欲しいですね。投稿 yuyu | 2011/12/28 15:31

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初めのご意見は林業専門家としての御意見ですが、後のコメントは木材の利用者の立場の方のご意見です。

日本産の材木の良さが分かり大変参考になりました。

林業にはいろいろな側面があり、私の記事は思慮に欠けていたと反省しています。

saboさんとyuyuさんへ感謝致します。有難う御座いました。

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このブログの読者へ、年末にあたり深く感謝します(1)原発事故の記事ではお世話になりました

2011年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

今年の3月の大震災と原発事故の被害者の方々が一日も早くもとの生活が取り戻せるようにお祈り申し上げます。犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りしています。

そして、皆様にはこのブログをお読み頂きまして本当に有難う御座いました。

年末にあたり心から感謝申し上げました。

今年を振り返ってみるとこの、一年はこのブログにとっても激動の一年でした。いろいろ間違ったことや考えの浅いことも書きましたが、読者の温かいコメントと支持に勇気づけられて無事今年も終りに近づきました。

年末にあたり私の深い感謝を、理由別に何回かに分けて掲載いたします。

今日の感謝は私の数多くの原発事故関連の記事へ対する、皆様のご理解と支援に対してです。そして原発事故の被害者の方々が一日も早くもとの生活が取り戻せるようにとお祈り申し上げます。

話は古い事ですが、私は1959年にアメリカから日本へ初めて輸入された沸騰水型の試験用原子炉の運転の講習を東海村で受けた経験があります。

その後、原子炉とは関係の無い分野の仕事をして来ましたが、原発の原理は理解していたつもりでした。

そこでマスコミ発表に対して、自分の論理的推定を加え、数多くの記事を掲載しました。大変多くの方々が不安に思っていた頃でしたので、一日に2200件以上のアクセス数がありました。

私の記事に対して直接の被害者から感情的な非難が幾つかありました。しかし多くのコメントは、「記事を読んで、何が起き、何が危険なのか分かりました。有難う御座いました」というものでした。

悪意は無かったのですが、直接の被害者の一部の方々を怒らせたことをここでお詫び申し上げます。

そして私の記事を支持し、勇気づけてくれた皆様へ心から感謝申しあげます。

年末に当たり、今日も皆々様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

尚、下に原発関連の3月29日の記事を一つだけ再掲載し図面の訂正をいたします。

使用していた図面が加圧水型軽水炉のものでしたが、それは間違いで、沸騰水型軽水炉なので以下の再掲載にあたっては図面だけを差し替えました。この誤りについてはお詫び申し上げます。しかし説明文には大きな間違はいないと思いますのでそのまま再掲載いたしました。

福島原発の何処が壊れたか?・・・もう安心だが、、、、

福島原発で起きた現象を冷静に考えて見ると、その全体像がほぼ想像できます。地震・大津波が起きた後に起きたもろもろの現象を「起きた順序」に従って想像をまじえて整理します。この整理をすると今後起きるであろう危険な現象がある程度想像出来るので心の準備ができます。

(1)大地震によって緊急スクラム装置が作動し、核連鎖反応を停止する事に成功した。

制御棒のボロン・カーバイト棒が燃料棒の間に挿入され、核反応が緊急に停止したのです。この地震によって原子炉の配管や冷却系統は損害を受けず、正常に冷却水が循環していたと想像出来ます。女川原発や茨城県・東海村の東海原発は緊急停止後も正常に冷却を続行していたのです。

(2)数十分後に襲った大津波で冷却システムと緊急発電機が流されたり、海水をかぶって全ての冷却水が止まってしまったのです。女川原発と東海原発は津波対策のお陰で津波襲来後も冷却系統が動いていました。

(3)炉心高温化で残留水と燃料保護管のジルコニュウムが激しく反応して大量の水素ガスが出来て、その圧力で炉心圧力容器を更には原子炉格納容器のあちこちの小さな割れや損傷から沁み出して水素ガスが建屋内に充満したのです。

水素ガスが沁み出したということは放射能物質も水蒸気と一緒に格納容器に充満したという事になります。

(4)建屋内に充満した水素ガスが大爆発したのです。この衝撃の大きさは建屋の鉄筋コンクリートのコンクリートが粉々になって飛び散り、鉄骨だけがグニャグニャになった事から理解できます。この爆発の衝撃で、原子炉格納容器と炉心圧力容器に繋がっている数多くの配管や配線が繋ぎ目で壊れてしまったと想像出来ます。

この状態で、自衛隊と消防庁の献身的な注水で外部から冷却することに成功しました。しかし水素爆発で建屋内に充満していたヨウ素131やセシウム137が大量に空中に放散されたのです。

(5)格納容器に繋がる多くの配管や配線が繋ぎ目で壊れたので、大量の外部注水によって炉心からの放射能物質が原発工場敷地や各種のトンネル内に拡散したのです。今後、原発近辺で強い放射性物質がつぎつぎに発見されるでしょう。

(6)原発近辺で強い放射能が今後発見されても大局的には安心して良い状態です。ただし復旧作業をしている人々の安全を守り、間違っても特攻的な精神が入って来ないように充分注意すべきです。今後のマスコミ発表に一々驚いたり、不安に思う必要はありません。

さてこの記事の題目にあるように何処が壊れたのでしょうか?その理解の為に沸騰水型原子炉の図面をもう一度ご覧下さい。

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ここで原子力発電という事を離れて、高温や高圧を使ういろいろな石油精製や合成化学の工場での爆発・火災事故の過去の例を振り返って見ましょう。するとその大部分の原因は配管からの可燃性ガスが漏えいして工場建屋内に充満して爆発・炎上したことが原因になっています。

今回の福島原発の水素爆発も良く似た現象です。上の原子炉の炉心圧力容器と格納容器には図面には描いていない数十、いや数百の配管や配線が貫通しているのです。その付け根の部分が割れるのです。大きな容器に、それとは成分の違う合金製の配管を溶接で付けるのです。難しい技術です。その上、水素爆発の衝撃と応力は数多くの配管付け根に集中します。割れないとしたら奇跡です。

話は飛びますが、敦賀の新型原発の「もんじゅ」は熱交換に使用していた高温の液体ナトリュウムが漏れて、水蒸気爆発をして建屋の外へ放射能が漏れた事故でした。液体ナトリュウムが漏れた場所は温度測定用のステンレス管の付け根だったのです。今後、調査が進めば原子炉のいろいろな所の割れや損傷が見つかります。それをマスコミは大げさに取り上げるでしょうが驚いたり怖がったりする必要はないのです。そのような割れや損傷は初めの頃の水素爆発で、すでに出来ていたものなのです。問題は原発周辺や東北地方の放射能の強さを毎日見守ることです。幸いこれらは最近減る傾向を示しています。もう安心して良い状態へ収束しているようです。

今日は福島原発現場で復旧作業をしている方々の安全を心からお祈りいたします。間違っても特攻精神を発揮しないようにくれぐれもお願い致します。藤山杜人

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森林の伐採をあなたはどのようにお考えですか?

2011年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の林業は安い輸入材のおかげで経済的に成り立ちません。林業はほとんど存在しなくなったのです。何十年も前に植林した松林や杉林は手入れをしないので雑木が生い茂り、種々の樹木が混在した自然林になってしまったのです。自然林では倒木が重なり合って人間が踏み込めなくなっています。

誰も森林に入らなくなったので猿や鹿やカモシカやイノシシが急に増えました。熊さえ里に下りて来るようになりました。

先日も山の小屋へ行きましたら1頭の雌鹿と見事なツノを持った2頭の雄鹿がこちらを見降ろしていました。猿も沢山いました。

人間が踏みこまなくなった森林は縄文時代の森林に還ったようです。

下の写真は昔松林として植林した所ですが雑木が混じり、殆ど自然林になった様子です。

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ところがこの秋から市役所が急に伐採を始めたのです。とにかく樹木は一本残らず切り倒して、売れる松の丸太だけを集めているのです。その仕事ぶりが荒っぽいのです。

松の丸太以外は打ち捨ててあります。下の2枚の写真がその様子を示しています。

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エンジンの音をけたたましく響かせて、ブルドーザーで丸太だけを運び出しています。そして伐採の広さが大きいのです。一辺が2km位の4角形を伐採するようです。

美しい花を咲かせる山ツツジもコブシもウツギもヤマザクラの木も全て切ってしまいます。

森に棲むモリアオガエルも絶滅するかも分かりません。雉も野ウサギもカヤネズミも棲まなくなるでしょう。そのような生物を一顧だにしません。

何か自然林を手荒く伐採して、森の富を収奪しているような光景です。

人間の残酷さを見る様で心が痛みます。

伐採したあとの景観を美しくようという意図が感じられません。

森林は地方都市の持ち物です。伐採の費用は役所から出ています。誰も文句を言うことが出来ません。伐採の費用で地元の人が潤うのです。そしてイノシシの数が減れば農作物の被害が少なくなります。八方、良い事だけです。

しかし何故か私は感心出来ません。今まで何十年もほったらかしにしていて急に根こそぎ伐採するという考え方が「思いつき行政」の証拠のようで賛成出来ないのです。もう少し長期的に考えて3年おきに部分的に伐採し、跡地の植林は丁寧に進めるというやり方は出来なかったのでしょうか?

観光地でない森林はいつも乱暴に伐採されるのでしょうか?

あなたはどのようにお考えでしょうか?コメントを頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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過ぎ去りし紅葉を懐かしむ・・・Director_ヒロさんの時・空写真館より

2011年12月27日 | 写真

季節の移ろいは早く、もう本格的な冬です。

紅葉の風景が懐かしくなり、Director_ヒロさんの時・空写真館(http://www.toki-sora.com/ を開いて沢山の見事な写真を見て楽しんでいました。

この写真館には鮮明で上質の写真が数千枚展示してあります。写真がご趣味で一枚一枚丁寧に撮影したものだけが選んで展示してあります。

以前にもこのブログでDirector_ヒロさんの時・空写真館から写真をお借りしてご紹介したことがありました。

そこで下に2枚の見事な紅葉の写真をご紹介いたします。

Director_ヒロさん、お写真を貸してくださいまして有難う御座いました。

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セピア色の我が高校時代と別離の悲しみ

2011年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

セピア色とは我ながら甘過ぎる言葉ですが、実はこれには2つの意味を込めた表現なのです。勿論、昭和27年から29年の高校時代は50年以上の遥か昔になって色あせてしまったという意味もあります。そしてもう一つの意味はその高校は時代遅れの古風な学校という意味を込めているのです。

その学校は旧制の仙台一中を名前だけ仙台一高と変えただけでした。

新制中学の3年を終えた私達が仙台一高に入学したのですが、上級生は旧制の中学生でした。先生も校舎も全て仙台一中のままです。

旧制の中学は漢文とドイツ語を重視し、体育は剣道と柔道だけです。黒い制服にマント姿で、通学には高下駄をはいていました。校風は封建的で野蛮です。しかしその一方、教育程度は高く、ついて行くのに苦しい勉強をしました。先生の教えかたも高圧的で、暗記を強要するのです。試験の度に生徒の名前を得点順に廊下の壁に墨黒々と貼りだすのです。

自由で民主的なクラブ活動を楽しんでいた新制中学から入学した私は急に暗い気持ちになったのです。そして暗い気持ちで3年過ごしました。私の学校生活で高校だけが悪い思い出です。切ない、悲しい思い出が一杯詰まった時代だったのです。

しかし、老人になって考え直して見るとこの考え方は決定的に間違っていることに気がつきました。「ものは考えようによって、どうにでもなる」ということを絵に描いたような一転ぶりです。

高校時代は旧制中学の最後の輝きの中にあったのです。今にして思えばそれはエリート教育の輝きでした。クラブ活動として松島の海をカッターに帆を上げて何度も航行しました。演劇部では効果と小道具を担当しました。科学部ではいろいろな真空管の特性を測定し大きな紙に図面を描いて発表もしました。先生方はお前達はもう大人だから勝手にしなさいと遠くから見ているだけでした。

あとから知ったことですが、当時の全国の県立高校は旧制中学をそのまま名前を高校に変えただけでした。男子校と女子高と別れていて、校風は皆同じようだったと分かりました。

その仙台一高で私は3人の友人と別れたのです。二度と会えない別離です。

だれでも青春の頃の別離は甘く切ないものです。

野田君はフルートを吹いていました。彼の戦後のバラックの暗い家の中で何度か美しいフルートの音色を聞かせてくれました。ガランとして貧しそうな家の中に澄んだフルートの音が響き渡ります。

曲目を聞くとバッハの「トッカータとフーガ」と言います。野田君は色の白い小柄な少年でした。無口で控え目な性格でした。野田君とは高校卒業以来二度と会えません。どんな人生を送ったのでしょうか。「トッカータとフーガ」のオルガン曲を聞くたびに野田君の事を思い出します。暗いバラックの家に響いたフルートの音をありありと思い出すのです。

皆川君はフランスの象徴詩を読んでいました。当時大学生のあいだに流行っていた象徴詩です。彼は私に装丁の立派な象徴詩の本を一冊くれて読んで見ろと言います。彼は私に象徴詩を読む楽しさを教えようとしたのです。

髪がちぢれてロシア人のような風貌をしていました。背丈も高くなんとなくヨーロッパ文化を連想させる雰囲気を持っていました。

高校卒業以来消息が分かりません。私の本棚には彼のくれた装丁の立派な象徴詩の本が一冊残っているだけです。その背表紙を見る度に、彼の人生安らかなれと祈っています。

村木君は演劇部の仲間でした。大川君や佐藤徹君も同じ仲間でした。この仲間達とは高校卒業以来、ときどき会って来ました。お酒を一緒に飲みました。

しかし村木君だけ4年ほど前に旅立ってしまいました。TBS社でテレビディレクターと活躍し、後にテレビマンユニオンの創立メンバーとして有名になります。テレビマンユニオンでは「遠くへ行きたい」、「世界不思議発見」、「海は甦える」など歴史的な作品のプロデューサーの仕事をしました。名番組を数々送り出したのです。

村木君は物静かな印象でしたが、テレビ界の視聴率第一主義、金銭主義に強く反発して、常に良質の作品を作ったのです。

彼のお葬式は芝の増上寺でテレビマンユニオン社葬でありました。彼の同僚の追悼文の朗読を聞きながら彼の視聴率第一主義反対の炎が燃えるような錯覚を覚えたのです。

このブログでも村木良彦君の追悼文:あるテレビマンの死 を掲載しました。

村木君はあの世に居ます。もうこの世では会えません。しかしテレビの画面にテレビマンユニオンの字が出る度に村木君のことを思い出します。彼とは中学校からの友人でした。彼の家にも何度も遊びに行きました。

こうして高校時代のことをもう一度考えなおして見ると自分にとって楽しい青春の一こまだったのです。

セピア色の我が高校時代になり別離の悲しみもありましたが、その別離は悲しいというより楽しい思い出に変化しています。人生は後でどのようにでも変えることが出来ると思います。そのように確信しています。

あなたの高校時代はどのようなものだったのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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あまりにも寒い日々が続くので熱帯樹の写真をお送りします・・・気分だけでも温かくなって下さい

2011年12月26日 | 写真

日本列島へ年末の寒波襲来です。日本海側は連日大雪です。太平洋岸も雪が降ったり、青空になったりですが、気温が低くて手袋やオーバーなしでは出歩けません。

あんなに暑かった夏はウソのようです。

気分だけでも温かくなって頂けるように近所の植物園の温室の中の熱帯樹の写真をお送りします。先週、神代植物公園で撮って来ました。

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タイの小乗仏教のお寺と日本のお寺を少し比較しました

2011年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真はタイの田園地帯にあるお寺の写真です。タイのチェンマイにご夫婦で住んでいるgakuさんの書いているブログ(http://gaku404.exblog.jp/)から貸して頂いた写真です。そして下の写真は同じくgakuさんからお借りした写真です。僧院から繰り出した僧侶の托鉢の状況です。

タイやミャンマーやベトナムなどの諸国は佛教国です。しかし日本の大乗仏教とはかなり違う小乗仏教です。

どのように違うのでしょうか?

分かり易く言えば小乗仏教は生活に密着した戒律を守ればお釈迦様の教えが分かると信じられています。

それに対して日本の仏教にはあまり戒律がありません。江戸時代までは生物の肉を食べないという戒律がありましたが、現在は一般の日本人は自由な生活を送ります。

タイの僧院の中での僧侶の修行の様子は青木保氏が出版した「タイの僧院にて」を読むと明快に分かります。1976年に中央公論社から発行されています。私は1977年頃、読んで感銘を受けました。

この本は、青木さんが人類学者として研究を始めた頃の1972年3月から1973年12月までの1年8ケ月間、小乗仏教のタイの僧院に修業僧として戒律を守りながら生活した時の記録です。

この本の面白さはその戒律の内容が解り易く説明してあります。殺すな。盗むな。性的な事は禁止。黄色の衣を着て、托鉢をする事。などなどの戒律が227もあります。そしてその戒律が生活の中に自然に溶け込んでいる僧院の中の日常が書いてあります。

もう一つ興味深い事は一般人と僧との関係です。成人すると男性は必ず数か月から1、2年、髪を剃って僧院で修業僧の生活をします。それが修了してから、環俗して職業生活を続行するのです。男性は全員ある一定の期間僧になるのです。

一般の女性は托鉢に来る修業僧へ食べ物や供物を捧げ、僧を尊敬します。

タイでは仏教が身近な日常生活の一部になっているのです。

昔この本を読んだ時は、小乗仏教の戒律の内容に興味がありました。そして現在、老境になって再度読んでみると成人した男性が一度、僧院に入る事実に感動します。

宗教は訓練です。一度でも訓練を受けると一生忘れないのです。その訓練を現在も重要視している国が存在している事に感銘を受けます。

今年はタイで大洪水がありました。しかしタイの人々は慌てません。悠々と暮らしています。洪水がいずれ終わることを信じて、動じないのです。タイの男性は全て僧院で修業しているのです。それを考えるとタイの人々の冷静ぶりが理解できます。

一方、日本も佛教国です。しかし日本の学校では佛教のことを習いません。従ってお寺に特に関係の深い人々以外は仏教の教義をあまり詳しく知っていません。

日本人がお寺のお世話になる時はお葬式の時だけです。僧侶が有難いお経を読んでくれるのですが意味が分かりません。

お経は丁度キリスト教の福音書に相当します。お釈迦様の教えをいろいろな人が違う時代に書いたものです。非常に数多くの経典があります。

日本で読まれているお経は唐の時代に、三蔵法師がインドから持ち帰った経典です。インドの現地語で書かれたお経と、漢文に翻訳されたお経を読んでいます。

お経のエッセンスは般若心経です。その骨子は色即是空、空即是色という哲学的な宇宙観です。宇宙にある全ての物は人間も含めて空です。空なるものこそ宇宙の全ての物の本質です。

お経には戒律はほとんど書いてありません。

日本の仏教の大きな宗派は、浄土真宗、曹洞宗、真言宗、浄土宗、日蓮宗、臨済宗、天台宗の7つです。この7つの宗派のお寺の数を下に示します。

(出典:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210106697

浄土真宗系・・21487
曹洞宗系・・・14680
真言宗系・・・12701
浄土宗系・・・8336
日蓮宗系・・・7466
臨済宗系・・・5758
天台宗系・・・4257
黄檗宗・・・462
時宗・・・411
融通念仏宗・・・358
奈良仏教系・・・294
(10年ぐらい前の資料ですが、現在もそれほど変化はないと思います。) 

以上を合計すると日本には66200余のお寺があるのです。

こんなにお寺の数があるのに一般の日本人は仏教のことをあまり知っていません。極く少数の人だけがお寺で修業をしています。

タイのように成人男性のほとんどすべてが僧侶の修業をするのとは大変違います。

同じ佛教国でもタイと日本はこんなにも違うのです。何故か考え込んでしまいます。日本はこのままで良いのかと考えてしまいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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クリスマスの朝、はるかなインパールを想い平和をせつに祈る

2011年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

この記事は、昨日の、クリマスイブ、こんな素晴らしいメールを頂きました!という文章の続きです。

第二次大戦の時、インドの北のインパールで日本軍とインド人を含む英国軍との間で激戦があり多数の戦死者が出ました。無理な作戦でした。愚かな行為でした。

生き残りの日本兵や遺族がお金を集め、現地にカトリックの教会を建設し、戦没した日本、イギリス、インドの全ての兵士の冥福を祈ったのです。

現在でも現地の神父さんや信者がインパール作戦で戦死した全ての人の為に祈っているそうです。

土浦に住むVCさん(田中宣之さん)から再度メールを頂きました。

日本語のせつせつとした文章を読み、粛然たる思いをいたします。

地球上では、いろいろな天災も起きますが、人間の悪意で起きる戦争だけは絶対にしてはいけないと思います。

クリスマスの朝、はるかなインパールを想い平和をせつにお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

以下に田中宣之さんからのメールを掲載し、インパールのある日本語の碑文をお送りいたします。

=====田中宣之さんからのメール=========

後藤和弘様:  お返事ありがとうございました。
写真の文章をワードに入力して添付します。
ひとつひとつの言葉を選んだ戦友会の方々の思いが伝わってきます。
現在は外国人の入域が制限されている地域ですので、現地でこの碑文を読める人はいないでしょう。ここ数年やっと2人以上であれば州政府から10日間の滞在許可が出るようになったようです。私たちもその許可を得て帰省しました。
そのような土地で今日も戦没者を覚えてミサが行われているでしょう。
この文章を読むことのできる私たちは、往時の方々の願いに応えて生きなければなりません。
こんな私のところにもイエス・キリストの福音が届いたのですから。
後藤さんのブログを読まなければ、このようなことも思わなかったかもしれません。
ありがとうございました。田中宣之
追伸:ワード文書が開かない場合もありますので、下記に本文をコピーします。
=======奉納趣意書================
一九四四年の春、ここコヒマでは、ガリソン高地の争奪に日・英両軍が鎬を削って戦い、彼我合わせて数千の将兵が、祖国の為に死んで逝きました。
“君、故郷に帰りなば伝えよ 
祖国の明日の為に死んで逝った
われらのことを”
ガリソン丘にあるこの碑文は、亡くなった日・英・印全将兵に共通の想いであり、そして彼らの願った、「祖国の明日」とは平和と繁栄に満ちた祖国だったと確信します。
しかし、今や世界は狭くなり、世界の平和なくして祖国の平和も繁栄も有り得ません。私達はお互いに国境を越えて共存共栄に努力することが大切であり、これが引いては、亡き勇士達の願いに応える事にもなりましょう。
このたび、カトリックの聖堂がコヒマに建立され、朝夕亡き勇士にミサを捧げてくださることは誠に有難いことです。又地元の皆様が司教様と一緒に末永く往時の勇士を偲んでくだされ、彼らが願った平和と繁栄の為に精進くださるならば これに優る供養はございません。
茲に、私達生き残り戦友並びに遺族相諮り、聖堂建立資金を集めて奉納する次第です。
                                    合掌
一九八九年一月吉日
日本国 
コヒマ戦生存戦友
 同 戦没者遺族   一同

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クリマスイブ、こんな素晴らしいメールを頂きました!

2011年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝の私が掲載した記事、キリスト教と仏教の楽しい交流と融和・・・対立より愛を へ感動的なコメントを頂きましたので、皆様へも是非ご紹介したいとと思います。

日本民族は今回の東日本大震災と同様に太平洋戦争の悲劇を子々孫々伝え続くべきと思います。その太平洋戦争の中でもインパール作戦の愚かさと悲劇の大きさを忘れるべきではないのです。そのインパール作戦の後に示された日本人の良識をご覧下さい。

以下のVCさんからのメールは私にとって最高のクリスマスプレゼントです。

有難うございました。後藤和弘

なお、このVCさんのことは、恥ずかしいこの私の迷いと悩み という記事でもご紹介してあります。あわせてご覧下さい。世の中には立派な人が沢山いるものですね。

====VCさんからのメール==========

後藤和弘(藤山杜人)様

寒さが厳しい折柄、いかがお過ごしですか。
本日のブログの記事を拝見し、以前からお伝えしたかったことを思い出しましたので画像を添付するためメールをします。
私の家内はインド、ナガランド州の州都コヒマの出身です。
インパール作戦の激戦地であり、人口の約90%がキリスト教(バプテスト)の州です。
新しい出来事ではありませんが、日本の戦友会の有志のみなさんによって1989年にカトリック記念堂が建設されました。本来であれば慰霊碑を建立したかったのですが、数年に及ぶ政府間の交渉では埒があかなかったと聞いております。
2009年に里帰りをした際に、記念堂を訪れました。門の傍らにひっそりと日本語のプレートがありました。
政治・宗教の壁を越えて実際に建てられた悲願の記念堂であることが読み取れました。

後藤さんにぜひご覧いただきたく、送ります。
よいクリスマスをお迎えください。     VC
より
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