後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

あなたを不思議な世界へ誘う(1)宇宙の1万以上の銀河の写真を見て考えよう

2013年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

趣味にはいろいろあります。私の趣味は科学です。科学的なテレビ番組や雑誌や本のたぐいを見るのが好きです。

最近はBBCテレビの宇宙の謎の解明に関する番組を興味深く見ています。

しかし理解出来ない部分が沢山あります。科学の趣味を楽しむためには自分の能力の限界を明確にしておくことが非常に重要です。

例えば私はニュートンの古典力学は理解できます。古典熱力学もかなり深く理解出来ます。数学では偏微分方程式のつくり方と近似的な解き方は理解できます。

しかし宇宙の事を解明するために必要なアインシュタインの相対性原理は理解出来ません。ガモフの理論も理解出来ません。残念です。

しかし天才的な科学者が解明した事実は信用します。解明の道筋は理解出来ませんが天才達が出した結論は信用します。

これが科学を趣味として楽しむための鉄則です。

したがって、「あなたを不思議な世界へ誘う」という連載記事でも、私が理解出来た範囲だけに限定せざるを得ません。

まず地上600kmの高さの宇宙にあるハッブル宇宙望遠鏡の写真をしめします。

1990年4月4日にNASAなどによって打ち上げられました。まだ正常に稼働しています。

宇宙では空気や水蒸気が無いので、今まで見えなかった130億光年のかなたにある1万個以上の銀河の写真を撮るという驚異的な成果を上げました。

地球はこの1万個のなかの一つの銀河系の中の無数の太陽(星)の惑星なのです。

Hubble_011_2

下に1万個以上ある宇宙の銀河が写っているという写真を示します。下の写真の左下の端にある小さな二重の四角形をクリックして、出て来た写真をもう一度クリックすると写真が出て来ます。それをもう一度クリックすると非常に大きく、しかも鮮明に拡大します。

最大に拡大して、宇宙の不思議な光景をお楽しみ下さい。

Hubble_ultra_deep_field1_2

上の写真の左上の部分と左下の部分を拡大した写真を下に示します。
Hubble_ultra_deep_field
Hubble_ultra_deep_field1_3
さて宇宙が出来たのは136億年前と言われています。地球が生まれたのは46億年前です。宇宙科学が進歩すればこの136億年とか46億年は多少修正されるでしょうが、ほぼ正しい数値と私は信じてます。
地球が生まれて生物が生まれたのが、40億年前。
そして恐竜が活躍したのは2億5千万年前から6,600万年前と分かっています。
人間の誕生はほぼ100万年前です。
そして日本の旧石器時代は僅かに、ほぼ4万前に始まったばかりです。
宇宙の生まれのが136億年前と言いますから人間の誕生以来の年月はほんの一瞬です。そしていずれ人間も間違いなく絶滅する時が来るのです。
下にはるか6600万年前に、巨大隕石の落下で地球が急に寒冷化したために、はかなくも絶滅してしまった恐竜の絵を示します。
この恐竜の絵を見た後で、もう一度、ハッブル宇宙望遠鏡の撮った写真をご覧ください。
そこには1万個以上の銀河があり、そのそれぞれに無数の星(太陽)があるのです。そしてその無数の星のまわりには数多くの惑星が回っているのです。
その惑星の一つや二つには必ずや恐竜が住んでいるのです。人間が住んで居るのです。そのように考えるのが確率論として自然な理解です。
ですから多くの科学者は宇宙にある惑星には必ずや生物が棲んでいると信じているのです。勿論、私も信じています。
このように想像しますと、私たちは本当に不思議な世界へ迷い込んだ気分になります。どうぞ想像力をたくましくしてこの不思議な世界への旅をお楽しみ下さい。(続く)
====参考資料=======================
(1)ハッブル宇宙望遠鏡について
ハッブル宇宙望遠鏡(ハッブルうちゅうぼうえんきょう、英語:Hubble Space Telescope、略称:HST)とは地上約600km上空の軌道上を周回する宇宙望遠鏡であり、グレートオブザバトリー計画の一環として打ち上げられた。名称は、宇宙の膨張を発見した天文学者・エドウィン・ハッブルに因む。長さ13.1メートル、重さ11トンの筒型で、内側に反射望遠鏡を収めており、主鏡の直径2.4メートルのいわば宇宙の天文台である。大気や天候による影響を受けないため、地上からでは困難な高い精度での天体観測が可能。出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%96%E3%83%AB%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1 
(2)ハッブル宇宙望遠鏡の撮った写真について
ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールド。130億年前(ビッグバンから4億?8億年後)と推定されている宇宙の画像。現在までに撮影された中で最も深い宇宙の画像である。誕生後4?5億年の銀河が、1万個以上も映し出されており、通常の渦巻銀河や楕円銀河に混じるようにして奇妙な形の銀河も多数映し出されており、宇宙初期の混沌の中で銀河同士が影響しあっていた状態が映っている、と考えられている。(2003年9月24日?2004年1月にハッブル宇宙望遠鏡のデータを集めるかたちで撮影)。高解像度画像を選択し、(PCのブラウザで閲覧なら)最後に + 印の虫眼鏡ポインタで画像を押せば特大写真になり、ひとつひとつの銀河をはっきりと見ることができる。出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99 
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夏が過ぎ、秋たちぬ

2013年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

P8160254_2 宮古島にて(2013年8月)
今朝、コーヒーを静かにのみながら、

庭の樹木の下枝を見やると、

秋の陽が、

うす紫いろに、そして

よわよわしく射しこんでいます。

いつのまにか忍び寄る秋

===========================

今日は1998年生まれ、1927年に29歳の若さで夭折した詩人、八木重吉の秋の詩をお送り致します。

 「素朴な琴」               八木重吉

 

       この明るさのなかへ

       ひとつの素朴な琴をおけば

       秋の美くしさに耐えかね

       琴はしずかに鳴りいだすだろう

==================================

上の詩は「古今東西・すてきな詩の世界へ」:http://homepage3.nifty.com/kukkie/top04.html から転載させて頂きました。

このHPは本当に美しい詩を沢山集めてあります。是非、他の詩もお楽しみ下さい。

このHPの著者の言葉を贈ります。

・・・・詩は、時空を超えた詩人からの手紙です。
見えないものを見つめ、言葉になった手紙です。
古今東西のすてきな詩をあなたに・・・・・・・

そして八木重吉についてのメモを以下のように書いています。

この詩には崇高さを感じます。この世でもっとも美しい時を詩にした八木重吉(1898・明治31年~1927・昭和2年)は、清らかな詩を2千以上も書きました。この純粋さのままで現実を生きたのかと、彼の29年の短い生涯を想います。八木重吉は秋が好きだったのでしょう。秋に心を寄せた詩は数多くあります。空気も澄んで晴れわたる秋の美しさに感応し、ひとりでに静かに鳴る素朴な琴。「琴線にふれる」という言葉がありますが、だれしも胸のなかに素朴な琴があるのです

==================================

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1921_2 河口湖にて(2012年9月)

 

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北海道には弥生時代も古墳時代も無かったのです

2013年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っています。

石器時代から縄文時代までは本州と同じでしたが、本州の弥生時代や古墳時代は存在せず、代わって続縄文時代が本州での古墳時代まで続いたのです。その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついたのです。

そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。

そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htmです。

以下にこのHPの抜粋を示します。

下の抜粋文の中で、アンダーラインが引いてある言葉をクリックすると実に明快で多彩な歴史的情報が開きます。是非、ご覧下さい。

=====北海道教育委員会のHPの抜粋文========

北海道には、弥生時代や古墳時代っていう時代区分がなかった?

 北海道は、本州と津軽海峡を挟み、気候も寒冷であるため、本州とはちがう独自の文化を育みました。本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」(北海道史年表参照  PDF)を迎えていました。
 北海道に住むあなたの町にも、そのころの時代の遺跡があると思います。平成23年度に市町村で行われた発掘調査の概要を別ページで紹介しています。
 北海道立埋蔵文化財センターでは、色々な遺跡の様子や土器、石器、木製品、土偶などを展示公開しています。
 北海道立埋蔵文化財センターに、土器などを見に出かけませんか。

1  埋蔵文化財包蔵地数一覧 

2  埋蔵文化財保護のための事前協議

3  重要文化財  ママチの土面

4  北海道の珍しい土器やアクセサリーなど

5  埋蔵文化財 Q&A

6  出土文化財を見ることのできる主な博物館・資料館

=========以下省略===============

縄文時代の不思議な遺跡としてやく4000年くらい前に作られたストーンサークルがあります。

以下に北海道の森町にあるストーンサークルの写真を示します。

写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715です。

Vol017_0121_2

このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。

ついでに秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真を下に示します。

Oyukanjyouretuseki1
上下の写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.htmlです。

No011

話はそれましたが、私が想像している仮説をここで提起したいのです。

「縄文文化は主にアイヌ人の祖先が担っていて、弥生文化は南方や朝鮮、中国からの渡来、移住した日本人が担っていた」という仮説です。

この仮説が正しいとすると弥生遺跡や古墳が北海道に存在しないことも無理なく説明できます。

この仮説の最大の疑問点はアイヌ人が土器を焼かなかったという事実です。縄文時代や続縄文時代の北海道では数多くの多彩な土器が作られていました。

その文化が擦文土器に変化して、アイヌ文化成立とともに消えてしまったのです。擦文土器は本州の土師器の影響を受けたことが特徴です。後にこの土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられました。

このようなことが本当に起きたのでしょうか。自分で上の仮説を立てながら、それを疑っている最大の原因はここにあります。

どなたかこの問題についてお教え下さいませんでしょうか?(終わり)

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自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(4)八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展

2013年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県北杜市の甲斐駒山麓に小生の山林の中の小屋があります。日本人の心にある「方丈記」を思い出し6畳と4畳半二間だけの小さな小屋を作りました。しかし40年ほど通っているとその北杜市が自分の故郷のようになります。

そこでこの連載記事ではこの北杜市の石器時代から縄文時代までの歴史を調べ下記のような記事を掲載してきました。

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう!(1)山梨、北杜市の考古学

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(2)八ヶ岳山麓から出土した土器

自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(3)八ヶ岳山麓の縄文人の暮らし方

以上の記事の結果、北杜市の北半分の八ヶ岳南麓には見事な縄文土器が出土するが釜無川の南側の南半分からは殆ど縄文土器が出土しないことが明らかになりました。

釜無川の南側は甲斐駒の東北にあたり更に南アルプスの山陰になり日照時間がすくなく冬は厳寒の地になります。

従って小生の小屋のある甲斐駒山麓には縄文人が定住していなかったという結論を書いても大きな間違いはありません。

しかしあれほど栄えた八ヶ岳南麓の縄文人も後期の急激な寒冷化で衰退してしまったのです。

それに入れ替わるようにして甲府盆地には弥生文化(紀元前300年から紀元後300年)が入ってきて、水田耕作が始まるのです。当然、生活の安定を求めて縄文人が山を下り、韮崎市の湿地帯や甲府盆地で稲作を始めるようになったと推定されます。

さてこの水稲栽培は何処から導入されたのでしょうか?いろいろな経路が想定されますが、一番自然な経路は静岡県から富士川を遡って甲府盆地へ伝えられたと考えられます。ただし、これは私の想像で、学問的結論ではありません。

そこで重要なのは富士川の河口に近い登呂遺跡の水田跡です。

登呂遺跡は弥生時代後期の紀元後100年から300年頃の集落跡です。

以下にその復元写真を示します。

Photo11_2
農家や米の貯蔵庫が縄文時代よりも大型になっていることにご注目下さい。

Photo21
登呂遺跡の周辺から発見された畔を作る杭や水路遺構から弥生時代の水田を復元したものの写真を上と下にしめします。特に下の水路の整然とした様子に吃驚します。

Photo51
登呂遺跡の水田復元写真の出典は、http://kankodori.net/japaneseculture/site/023/index.htmlです。

山梨県の弥生時代の遺跡は下に示すように数がそんなに多くありません。静岡県のような温暖地に比較すると寒冷で水稲の栽培に向いていなのです。

現在こそ山梨県は武川米なというブランド米などを生産していますが、弥生時代の稲は品種改良も進んでいなくて寒冷地では収穫量が少なかった筈です。

勿論、水稲栽培が始まっても従来通り八ヶ岳山麓に棲みついて縄文時代と同じような生活をしている人も少数ながら居た筈です。そして平地で稲作をしている人々も周囲の山地で狩猟や採集も兼業していた筈です。

縄文時代から弥生時代への移行時期については地方、地方によって非常に異なると私は信じています。

北杜市の縄文遺跡は金生遺跡、神取遺跡、酒呑場遺跡とあり隣町には江戸尻遺跡があります。しかし弥生遺跡は皆無なのです。

従って一般的に言えば、現在の北杜市や韮崎市や甲府市は弥生時代には衰退した時代と言えます。

弥生時代には北杜市の人口は縄文時代に比較して非常に減少してしまったのです。結果、小生の山林の中の小屋の近辺には人が入ってこなくなったのです。

鹿や猪や猿や雉や山鳥の天国になったのでしょう。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=======参考資料========================

(1)山梨県の弥生時代の遺跡:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.B1.B1.E6.A2.A8.E7.9C.8C

山梨県の弥生時代の遺跡:

  • 身洗沢遺跡(笛吹市)
  • 油田遺跡(南アルプス市)
  • 大師東丹保遺跡(南アルプス市)
  • 二本柳遺跡(南アルプス市十日市場)
  • 長田口遺跡(南アルプス市)
  • 金の尾遺跡(甲斐市)
  • 宮ノ前遺跡(韮崎市)

(2)金尾遺跡と韮崎市の宮の前遺跡の概略:

以下の文章の出典: http://www.pref.yamanashi.jp/smartphone/maizou-bnk/topics/201-300/0273.html

1、金の尾遺跡は、山梨県甲斐市、中央線竜王駅の約400m北にある遺跡で、1978年に中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。調査の結果、縄文時代前期から弥生時代後期にかけての家の跡などが見つかりましたが、弥生時代の大規模な集落跡というのは山梨県内ではこのときが初めての発見でした。現在、金の尾遺跡は、山梨県を代表する弥生時代の遺跡として知られています。

2、韮崎市、宮の前遺跡:http://www.isekiwalker.com/iseki/356529/

時代:縄文/弥生/奈良/平安

所在地:山梨県韮崎市藤井町駒井字宮ノ前

遺構概要

市報1991(縄文(前期+中期+後期)-竪穴住居6+配石+単独埋甕/弥生-水田/奈良~平安-竪穴住居417+掘立柱建物54+土坑+溝+条里関連溝/平安-水田)
遺物概要
市報1991(縄文(前期+中期+後期)-縄文土器+石器/奈良~平安-土師器+須恵器(墨書土器+線刻土器)+灰釉陶器+緑釉陶器+金属製品+鍛冶関連遺物+石製品+木製品/平安-奈良三彩+須恵器製円面硯+帯金具+線刻土器(「寺」)+人面墨書土器+斎串)
発掘概要:韮崎北東小学校建設
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弥生時代の代表的な遺跡、「吉野ケ里遺跡」の概略

2013年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の旧石器時代は4万年前から12000年前までの38000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。

縄文時代の代表的な遺跡として青森県の三内丸山遺跡がありその概要は、驚異の三内丸山遺跡と縄文時代に繁栄した青森県 と題する記事でご紹介いたしました。

そこで今回は、弥生時代の代表的な遺跡として佐賀県の「吉野ケ里遺跡」の概略をご紹介したいと思います。

この遺跡は稲作の始まった紀元前300年から紀元後300年にわたって造営された環濠村落で数多くの建物は堀や柵で囲まれ独立した小王国のような構造になっています。敵の襲撃に備えた堅固な柵や堀で囲まれた小さな王国です。

原始的ながらも中世の城郭都市を彷彿とさせる構造になっています。その様子を下の図で示します。

1205819508_11
この図はまつりごとの行われていた北内郭で出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。

下の写真の出典は、http://www.yado.co.jp/kankou/saga/sagasi/yosino/yosino.htmです。

Yosino021
上は政治の行われていた北内郭の写真で、下はその北内郭を環濠と柵の外から撮った写真です。

Yosino011
手前の高床式の家と竪穴式の倉庫は食料の貯蔵庫と考えられます。

上の写真と比較するために縄文時代の三内丸山遺跡の写真をもう一度掲載します。

Img015111
この写真と吉野ケ里遺跡を比較すると明快に次の2点が大きな違いです。

(1)青森の縄文時代は戦争が少なかったらしく、敵襲へ備えた環濠や堅固な柵が無かった。

(2)青森の建物群は非常に土俗的デザインで原始的な構造をしている。それに対して佐賀県の建物群は高床式の発展した高殿式構造を有し、中国大陸や東南アジアからの文化的影響が暗示されている。

その上、縄文文化は北東北から南北海道にかけて栄えたのに対して弥生文化は九州や西日本で始まっているのです。

稲作という大きな生産力のある農業が人口増加を生み、いろいろな手工芸や鋳物細工や鉄器製造の職人をそだてたのです。

生活に使用される道具も次第に石器から金属製へと変って行ったのです。土器のデザインも呪術的な装飾が姿を消し、実用的な簡素な形に変化して行きました。

縄文文化を支えたのがアイヌ民族で、弥生文化を支えたのが朝鮮や中国から移住してきた日本人と仮定すると判りが良いのです。

しかし事実はもっと、もっと複雑でアイヌ人も弥生文化を受け入れたのかも知れません。アイヌと日本人の混血も進み、地方によってはその区別もなくなったのかもしれません。そんなことを考えながらもう少し弥生文化の様子を見てみましょう。

以下の全ての図面の出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。

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上は環濠の内部へ入る入り口の様子で、敵襲を防ぐ逆木や乱杭が恐ろしい印象を与えています。

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上は畑作の様子です。吉野ケ里遺跡ではまだ水田の跡は見つかっていませんが付近の湿地からは鍬などの農具が見つかっているの当然、稲作もされていたに違いないと考えられています。

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上は居住区から離れた所にある墓地の航空写真です。

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上は王の墳墓です。銅剣とガラスの管玉が副葬されていました。この墳墓の形は後の古墳時代の古墳の原型のように見えます。

あまり長くなりますので、ここで一旦止めにして、続きはまたの日にご報告したいと思います。(続く)

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英米仏軍がいよいよシリア内戦へ参戦、介入する・・・戦争がまた起きる!

2013年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典:
http://japanese.ruvr.ru/2012_05_24/beikoku-no-genshiryokusensuikan-kasai-fushousha/

イギリスが主導して、英米仏軍がいよいよシリア内戦へ参戦、介入する決心をしました。

地中海には英米の艦隊が展開済みで、上の写真のような英米の原子力潜水艦がシリア沖に潜航し、いつでもトマホークミサイルを打つ用意を終了していると考えられています。

英国海軍はフリゲート艦2隻と航空母艦と原潜タイヤレス、米国海軍は巡航ミサイル搭載の駆逐艦4隻と原子力潜水艦がシリア沖に配備されています。

攻撃はシリアの東側のペルシャ湾のアメリカ第5艦隊からもする準備をしています。

それに加ええてトルコ、キプロス、アラブ首長国連邦にある英米仏の空軍基地からは戦闘機や爆撃機が飛び立つと考えられます。

攻撃対象はシリア政府軍の軍事施設で、作戦は48時間で終えると言われています。

しかしシリア軍側も、英米仏の戦闘機や艦隊を攻撃するミサイルを多数撃ち返しと予想されます。そうすると本格的な戦争になる可能性もあります。

それよりも多数の民間人が米英仏の攻撃の犠牲になるのです。

今回はイラク戦争のように米国は地上部隊を送り込まないと言っていますので、長期戦にはならないようです。

一応、形だけは国連の安保理に英国が提案しますが、ロシア、中国の反対で否決されます。すると、すかさず、米英仏は軍事行動をとるのです。

この戦争は以下の図面のように代理戦争の要素を含んでいます。

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(この図面の出典:http://www.nikkei.com/article/DGXNASDC2800B_Y3A820C1EA2000/ )

この図面で注意すべきは中国がロシアと組んで、アメリカに対抗していることです。太平洋への進出の邪魔になる尖閣諸島の問題で、中国はアメリカ、日本と抗争をしています。その抗争が地中海まで広がっている事実に日本人は注意すべきと思います。

この戦争の開戦理由はシリア政府軍が化学兵器を使用したということです。

確証はありませんが、戦争の理由はどうにでも言えるといういつもの例と同じです。このような事が21世紀の地球上で起きていることは本当に驚きです。

人間は絶対に戦争を止めないのです。

さてこの戦争に日本はどのように参加するのでしょうか?自衛隊がシリアの隣国のトルコやヨルダンへ派遣されてシリア政府軍に攻撃され難民になった人々の受け入れ施設の設営と食料援助を行う可能性があります。シリア内戦は日本とは関係が無いと考えるのは早計です。

今後の動向が心配です。

米英仏の攻撃が小規模で、非常に短期間で終了することを祈っています。

そして戦争の犠牲者が少ないようにと祈っています。

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驚異の三内丸山遺跡と縄文時代に繁栄した青森県

2013年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていた約12000年間です。土器や石器は使っていましたが、農業は無く、村落の規模も小さく、文化程度の低い時代だったのです。ですからあまり関心がありません。日本人の縄文時代に関する平均的な考え方はこのようなものです。

しかし青森県にある三内丸山遺跡やその他の数多くの縄文遺跡の発掘研究の結果を知ると上記の考えは全く間違っていることが判ります。

三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅があり、食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。

しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。

それは弥生時代や古墳時代の地方の豪族の領地支配の歴史へと繋がる社会と文化だったのです。

三内丸山遺跡はこのような縄文中期の高度な文化を示す驚異的な遺跡であり、実に多彩な出土品も出ているのです。

そして他にも青森県の全域には数多くの縄文遺跡が発見されています。

しかしこの青森県の縄文文化はその後の縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。

縄文前期の日本全土の縄文人の総数は2万人で、中期には26万人まで増加します。しかし、後期の寒冷化によってまた数万人までに減少するのです。

人口が確実に増加に転ずるのは稲作が始まった弥生時代からです。青森県の三内丸山遺跡も縄文後期には衰退してしまうのです。

以下にこの写真や図面で上記の事実を説明いたします。

Img01511
(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)

写真の左下に写っている巨大な木柱を組んだ建造物は祭祀用の祈祷檀のようです。

その後ろに続く大きな藁屋根の家は祭祀にも使ったでしょうが、この領地の権力者(王とも言える)の住居、すなはち宮殿と考えるのが自然ではないでしょうか。

この大きな家の左上にある3軒の高床式の建物は食材の貯蔵庫と言われています。

そしてこの3軒の貯蔵庫の後ろには比較的大きな竪穴式の住居が見えます。

権力者に仕える家臣の家でしょうか。その左遠方には小さな竪穴式の住居も見えます。

そして墓地はこれらの住居よりは離れて作られていました。

上の写真の遠方には白い青森市街と青い陸奥湾が見えます。

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上の写真は男女の縄文人の服装を示しています。

柔らかい植物の繊維で織った肌着の上に鹿や猪のなめし皮で作った服を着ました。

勿論、季節によって服装は変わり、厳寒の冬には上の服装に更に毛皮の外套を着ていたと考えられます。

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上は縄文人がかなり使い込んだ「堀り棒」です。

山の土を掘って自然薯や食用にする根を採った道具です。あるいは住居の周囲に堅果類の木を植栽するときに植える穴を掘ったのかも知れません。

原始的な農業用の道具です。

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上の左の写真は植物の繊維で編んだ袋です。木の実採集の時に使ったり、小物入れにして使ったと想像できます。このような繊維製品や漆器も出土していて文化の高さを示しています。

上の右の写真は墓地の発掘現場です。楕円形に並んだ石の中心に墓穴が掘られ、人骨が埋葬されていたものと推定されています。

その他の出土品は以下の通りです。(出典は、http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/photo/index.htmlです。)

下の表の「画像を見る」という所をクリックすると本当に画像が出て来ます。お楽しみ下さい。

青森県三内丸山遺跡出土品
第6鉄塔地区出土 住居跡出土
土器・土製品 185点 土器・土製品203点
石器・石製品 911点 石器・石製品 247点
骨角牙貝製品 406点 小計 450点
木製品 2点  
編物 4点  
小計 1,508点  
合計 1,958点

   

土器・土製品
深鉢形土器 369点
浅鉢形土器 7点
壺形土器 1点
土偶 11点
骨角牙貝製品
針 133点
錘 22点
刺突具 85点
釣針 24点
銛頭 2点
箆 4点
ナイフ形牙製品 4点
ハンマー 1点
装身具 27点
針入れ 3点
骨刀残欠 3点
未製品等 101点
木製品
皿残欠 1点
鉢残欠 1点
 
石器・石製品
石鏃 134点
石槍 45点
石匙 530点
石錐 83点
石箆 17点
削器 101点
磨製石斧 13点
敲磨器類 13点
石錘 2点
石皿・台石類 10点
砥石 15点
擦切具 8点
半円状扁平打製石器 14点
抉入扁平磨製石器 1点
石棒 6点
石冠 1点
異形石器 22点
装飾品 6点
編物
編籠 1点
編物残欠 1点

さて縄文遺跡は青森県全域で以下の図面に示したよう多数発見されています。ご参考までに以下に示しておきます。

Img01311
上の図面の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。

そして縄文時代後期の急速な寒冷化に関する厳密な学術調査の結果は、

http://scienceportal.jp/news/daily/1001/1001041.htmlに説明してあります。合わせてご覧ください。

それにしても縄文時代は想像していたよりも遥かに文化程度も高く、社会の統治組織も出来ていたのですね。(終わり)

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中国は仮想敵国、韓国は仮想同盟国、しかし日本経済依存国

2013年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

中国は太平洋の制海権を手中に収めようと海軍力の軍備拡張をしています。日米安保に隙が生じたら尖閣諸島を軍事占領しかねない国です。

のような国は日本の仮想敵国と言います。

一方韓国は日本人の感情を逆なでするような不愉快なことを執拗に言い続ける嫌らしい国ですが、アメリカと軍事同盟を結んでいる民主国家です。

日本と韓国は軍事同盟は結んでいませんがアメリカとは安全保障条約という軍事同盟を結んでいます。従って韓国は日本の仮想同盟国となります。

昨日、安倍総理の精力的な国際外交展開を絶賛する という記事を掲載しましたが、安倍総理は就任以来まだ1年も経過していないのに、すでに16ケ国を訪問し、精力的な国際外交を展開しています。

彼の外交戦略は中国と韓国を敬遠し、訪問は後回しにする戦略です。

そして以下の国々を訪問しています。ベトナム、タイ、インドネシア、米国、モンゴル、ロシア、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、トルコ、ミャンマー、ポーランド、英国、アイルランド、マレーシア、シンガポール、そしてフィリピンの16ケ国です。そして現在は、バーレーンなど中東の4ケ国を訪問中です。 
この戦略は中国と韓国とは距離を置いて付き合うということを意味します。 
国際礼儀はつくしますが、熱烈友好という関係は作りません。
 
さて日本の右翼的な人々は韓国や中国とは団交し、外交関係を断絶し、尖閣諸島に自衛隊部隊を常駐させるべしという意見を持っているようです。感情的には理解出来ますし、私もそれが良いと感じています。
 しかしそれはあまりにも非現実的な発想です。それを実行すれば我々の経済生活が一挙に破綻するのです。
下の「日本の貿易相手国の一覧表」をここで是非ご覧下さい。
日本の貿易相手国で非常に重要なのは中国とアメリカと韓国です。
この事実を全ての日本人はいつも忘れないでいるべきです。中国や韓国とは絶対に戦争が出来ないのです。
 
経済交流が平和を保障しているのです。これは下手な軍事同盟や相互不可侵条約よりも頼りになる平和への礎(いしずえ)なのです。
 
政治家は経済よりも自分の権力増強が使命です。自民党の安定と権力維持が安倍首相の使命です。結果としてどうしても経済のことは後回しになりがちです。
 
安倍さんが訪問した16ケ国が束になっても中国、アメリカ、韓国の重要さには勝てないのです。
安倍さんも早く中国と韓国を訪問して、日本との経済交流を一層強固にすべきなのです。昔から「虎穴に入らざれば、虎子を得ず」と言うではありませんか。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

======日本の貿易相手国の一覧表================

日本が輸入している国の金額の上位10位までの移り変わり(単位100億円)

出典は、http://www.jftc.or.jp/kids/kids_news/japan/country.html です。

順位1990年
輸入総額 [3,386]
2000年
輸入総額 [4,094]
2005年
輸入総額 [5,695]
2012年
輸入総額 [7,067]
国名
輸入額(シェア)
1アメリカ
759(22.4%)
アメリカ
アメリカ
778(19.0%)
アメリカ
中国
1,198(21.0%)
中国
中国
1,503(21.2%)
中国
2インドネシア
182(5.4%)
インドネシア
中国
594(14.5%)
中国
アメリカ
707(12.4%)
アメリカ
アメリカ
608(8.6%)
アメリカ
3オーストラリア
179(5.3%)
オーストラリア
韓国
220(5.4%)
韓国
サウジアラビア
317(5.6%)
サウジアラビア
オーストラリア
449(6.3%)
オーストラリア
4中国
173(5.1%)
中国
台湾
193(4.7%)
台湾
アラブ首長国連邦
280(4.9%)
アラブ首長国連邦
サウジアラビア
437(6.1%)
サウジアラビア
5韓国
169(5.0%)
韓国
インドネシア
177(4.3%)
インドネシア
オーストラリア
271(4.8%)
オーストラリア
アラブ首長国連邦
350(4.9%)
アラブ首長国連邦
6ドイツ
167(4.9%)
ドイツ
アラブ首長国連邦
160(3.9%)
アラブ首長国連邦
韓国
270(4.7%)
韓国
韓国
323(4.5%)
韓国
7サウジアラビア
148(4.4%)
サウジアラビア
オーストラリア
160(3.9%)
オーストラリア
インドネシア
230(4.0%)
インドネシア
マレーシア
261(3.6%)
マレーシア
8アラブ首長国連邦
(しゅちょうこくれんぽう)
129(3.8%)
アラブ首長国連邦
マレーシア
156(3.8%)
マレーシア
台湾
199(3.5%)
台湾
インドネシア
257(3.6%)
インドネシア
9台湾
123(3.6%)
台湾
サウジアラビア
153(3.7%)
サウジアラビア
ドイツ
197(3.5%)
ドイツ
ドイツ
197(2.7%)
ドイツ
10カナダ
122(3.6%)
カナダ
ドイツ
137(3.4%)
ドイツ
タイ
172(3.0%)
タイ
タイ
188(2.6%)
タイ
参考アジア
973(28.7%)
アジア
1,706(41.7%)
アジア
2,529(44.4%)
アジア
3,129(44.2%)
中東
442(13.1%)
中東
531(13.0%)
中東
966(17.0%)
中東
1,354(19.1%)
EU
507(15.0%)
EU
504(12.3%)
EU
647(11.4%)
EU
664(9.3%)

日本から輸出している国の上位10ケ国の移り変わり(単位100億円)

順位1990年
輸出総額 [4,146]
2000年
輸出総額 [5,165]
2005年
輸出総額 [6,566]
2012年
輸出総額 [6,374]
国名
輸出額(シェア)
1アメリカ
1,356(31.5%)
アメリカ
アメリカ
1,536(29.7%)
アメリカ
アメリカ
1,481(22.5%)
アメリカ
中国
1,151(18.0%)
中国
2ドイツ
257(6.2%)
ドイツ
台湾
387(7.5%)
台湾
中国
884(13.5%)
中国
アメリカ
1,118(17.5%)
アメリカ
3韓国(かんこく)
252(6.0%)
韓国
韓国
331(6.4%)
韓国
韓国
515(7.8%)
韓国
韓国
491(7.7%)
韓国
4台湾(たいわん)
223(5.4%)
台湾
中国
327(6.3%)
中国
台湾
481(7.3%)
台湾
台湾
367(5.7%)
台湾
5香港(ほんこん)
189(4.6%)
香港
香港
293(5.7%)
香港
香港
397(6.0%)
香港
タイ
349(5.4%)
タイ
6イギリス
156(3.8%)
イギリス
シンガポール
224(4.3%)
シンガポール
タイ
248(3.8%)
タイ
香港
327(5.1%)
香港
7シンガポール
155(3.7%)
シンガポール
ドイツ
216(4.2%)
ドイツ
ドイツ
206(3.1%)
ドイツ
シンガポール
186(2.9%)
シンガポール
8タイ
132(3.2%)
タイ
イギリス
156(3.1%)
イギリス
シンガポール
204(3.1%)
シンガポール
ドイツ
166(2.6%)
ドイツ
9オーストラリア
100(2.4%)
オーストラリア
マレーシア
150(2.9%)
マレーシア
イギリス
166(2.5%)
イギリス
インドネシア
161(2.5%)
インドネシア
10カナダ
98(2.4%)
カナダ
タイ
147(2.8%)
タイ
オランダ
145(2.2%)
オランダ
オーストラリア
147(2.3%)
オランダ
参考アジア
1,288(31.1%)
アジア
2,125(41.1%)
アジア
3,180(48.4%)
アジア
3,486(54.6%)
中東
126(3.0%)
中東
105(2.0%)
中東
182(2.8%)
中東
226(3.5%)
EU
773(18.7%)
EU
843(16.3%)
EU
965(14.7%)
EU
650(10.1%)
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樹林のお好きな方々へ送る写真です

2013年08月27日 | 写真

今日は朝から秋らしい晴天で乾いた涼風が吹いています。空が高くなり雲のたたずまいが秋になりました。

久しぶりに小平市の玉川上水沿いの遊歩道を5.2Kmほど歩いて来ました。

樹林のしたをミンミン蝉の合唱を聞きながら少し汗をかいてきました。

下は樹林のお好きな方々へ送る写真です。

Img_0001

Img_0005

Img_0008

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安倍総理の精力的な国際外交展開を絶賛する

2013年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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安倍総理は就任以来まだ1年も経過していないのに、すでに16ケ国を訪問し、精力的な国際外交を展開しています。

訪問した国々は以下の通りです。

ベトナム、タイ、インドネシア、米国、モンゴル、ロシア、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、トルコ、ミャンマー、ポーランド、英国、アイルランド、マレーシア、シンガポール、そしてフィリピンの16ケ国です。

そして現在は、バーレーンなど中東の4ケ国を訪問中です。

左の写真はこの中東4ケ国訪問へ羽田空港を出発する時の写真です。

そして今後の予定は以下の通りです。

9月5,6日、ロシアでの主要20ケ国会議。9月7日、アルゼンチンでの国際オリンピック総会。9月24日、アメリカでの国連総会で演説。10月7,8日、インドネシアでのアジア・太平洋経済協力会議出席。10月9、10日、ブルネイでのASEAN関連首脳会議。などなど5つの外交活動が決まっています。

安倍首相の外国首脳の訪問の目的は、日本の安全保障の強化と、先端技術の輸出、そして国際親善の推進を具体的に進めることにあります。

安倍総理の記者会見を聞くと常に明快な具体的な言葉を用いて相手国の首脳に話しかけている様子が判ります。

安倍総理のこのような外交活動のニュースはあまり大きく取扱われていませんが、もっと関心を持って注目すべきと思います。

特に感心することは最近の首相でこれほど国際外交を精力的に取り組んだ人はいません。

それだけでも絶賛すべきと、私は信じています。

さてこの安倍さんの活躍で分かったことがあります。

それは彼が外務省の役人を信用して彼等の外交努力を子細に勉強していることです。

その上、経済産業省の意見をよく聞き、今後数年間、日本の工業界が何を輸出すべきかを理解しているのです。そしてそのトップセールス活動をしています。

日本の発展に不可欠な海上輸送ルートの防衛も相手国と相談しています。

この姿を見てやっぱり自民党は安心だと得心が行きます。

自民党の政治家は官僚の力を重視し、その日頃の努力の結果を上手に利用しようとします。官僚の仕事の成果を無駄にしないのが自民党です。

勿論、その弊害は政治家と官僚の悪しき癒着にあります。

それを嫌った国民が3年前に民主党を選んだのです。

衆議院の過半数を取った民主党は官僚を無視し、官僚と抗争をしました。

外務省や防衛省の役人が努力を積み重ね築いてきた日米関係を鳩山首相は一朝にして破壊してしまいました。

市民運動で有名になった管直人首相は若い時から官僚を無視し、対立してきました。市民運動とは、「官僚は悪だ!」という思想を振り回さないと盛り上がらないという本質を持っています。

管直人首相へ従来の政策を説明するために各省庁の官僚が資料を持って官邸を訪問しました。管さんが機嫌の良い時は聞いたふりをしてくれましたが、全然別なこと考えていたそうです。機嫌の悪いときは、うるさい、資料を置いて帰れ!と怒鳴ったそうです。ようするに完全に官僚を敵視していたのです。

管さんがヘリコプターで福島原発事故直後に視察したから辞任させられたという理解は浅薄過ぎます。官僚の猛反撃によって辞任へ追い込まれたのです。

今回の安倍政権の動きを観察していると各省庁の官僚の重要性があらためて理解出来ます。彼らを高く評価し、もっともっと日本の将来の為に働いて貰うべきです。

そんなことを教えてくれたのが安倍総理の精力的な外交活動でした。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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渇水で干上がった河口湖・・・沖の六角堂の小島も陸続きになってしまった

2013年08月26日 | 写真

河口湖はこの春からずうっと渇水で干上がっています。

梅雨が過ぎて、夏の夕立が沢山降りましたので、もう水が溜まったころと思い昨日行ってみましたが相変らず干上がったままです。

河口湖は西湖から流れ下る水路はありますが、流出する川はありません。

富士山の伏流水が、溶岩で出来た湖底から湧き出すだけです。

その水位は予測がつきません。河口湖は不思議な湖です。

昨日、撮影した写真をお送り致します。

Img_9949
上の写真は例年でしたら水が満々とある湖です。今年は干上がって沖の六角堂のある小島まで陸続きになったままです。

Img_9955
沖の小島に近づくと、その岸の石積の高さに驚きます。私が立っているところは例年でしたら湖底なのです。堂の前に「床上まで浸水したことがあるので、腐っている恐れがあります。堂に入らないでください」という張り紙があります。水位の差は5,6メートルはあるのでしょうか。

Img_9964
昨日は雨が降ったり止んだりでした。河口湖の向う側の外輪山の山襞に霧が湧き出してとても神秘的な風景を見せていました。

Img_9953
暗い写真が続きましたので、最後に湖畔の花畑の写真をお送り致します。

Img_9983

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自分が住んでいる場所の歴史を調べよう(3)八ヶ岳山麓の縄文人の暮らし方

2013年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

八ヶ岳山麓の縄文人の暮らし方を推定しようと思い、インターネットの上で縄文時代の生活の様子をいろいろ調べてきました。

資料は幾つかありますが、玉川学園の多賀 譲治先生の描いた、ゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが2つの点で圧倒的に優れていました。

そのURLはhttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/index.htmlです。

二つの点の一つは、多賀先生のHPは神奈川県にある羽根尾遺跡から出土した多数の土器、食料にした魚やイルカ、そして鹿や猪の骨から当時の生活の様子を学問的に推定している点です。

多賀先生の研究に誠実な様子は、縄文時代のタイムカプセル・羽根尾遺跡http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/haneo/ をご覧頂くと納得がいきます。

もう一つはHPにある絵画が楽しげに描いてあります。何故楽しげかというと描いている人が縄文人を尊敬しているからです。

この2つの原因でゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが傑出しています。

このHPでは縄文人の生活を、(1)海浜に近い場所に住んでいる場合、と (2)八ヶ岳山麓のように海から遠い内陸部に住んでいる場合の2つに分類して縄文人の暮らし方を説明しています。

この2つの場所の食べ物の違いは海の魚貝類とイルカやクジラが有るか無いかの違いだけです。そこで以下に内陸部の縄文人の暮らしぶりを示す絵画をご紹介します。

Dokitsukuri1
八ヶ岳山麓では非常に多数の土器が出てきます。その数は自分たちで使う数以上の多量な土器なのです。

土器の生産を仕事にしていた人々がこの上の絵のように多量の土器を生産していたに違いありません。土器を焼く燃料の樹木が山麓には豊富だったのしょう。

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現在でも八ヶ岳山麓には猪は多すぎるくらい棲んでいます。

冬山で追い詰めて、弓矢や槍で仕留めた猪はその場で解体し、肉と内臓と毛皮を背負って帰りました。毛皮は後でゆっくりなめして、敷物にしたり服に仕立てます。

Usurifull1
この絵は生活用具の木工品に漆を塗っている場面です。漆塗りは全国の縄文遺跡から出土します。漆の成分が付着した生活用具が出てくるのです。

八ヶ岳山麓には現在も漆の木が沢山茂っています。漆にする樹脂が簡単に採れたはずです。

Jchrotitle1
この絵は秋の終わりごろ冬越しの食料を加工、貯蔵している様子です。

絵の後の方に吊るしてある大きな魚は河川を登ってきた鮭です。塩漬けにして乾しています。手前の人々は何やら木の実のようなものの皮を剥いでいるようです。

さてここで疑問があります。八ヶ岳山麓に流れている釜無川へは鮭が登って来たでしょうか?富士川を登り、釜無川を登って来なければいけません。

魚と言えばヤマメやイワナやウグイの方が自然です。その辺は正確ではないかも知れません。この絵は海浜に近い場所の秋の様子なのかも知れません。

Fuku11
この絵は縄文人の男性の冬の服装を示しています。

肌着としては麻や柔らかい植物の繊維で織った着物を身につけます。その上に鹿や猪のよくなめした毛皮の外套を着ます。

足には毛皮製の靴を履いています。

手に持っているのは野獣を獲る棍棒か槍のように見えます。この姿で山野を走り回って鹿や猪を獲っていたのでしょう。

鹿や猪は一度落とし穴に落としてから仕留めていたようです。

さて内陸部の縄文人の食物の一覧表をここで示しておきます。出典は、多賀 譲治先生のHPです。

穀類・豆類」 アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・えごま・緑豆 

「野菜類」 ごぼう・のびる・アブラナ・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・みょうが・しょうが・うど・たら・ふき 

「果実類」くり・やまぶどう・きいちご・あけび・さるなし・またたび 

(平野・山村の部)

鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな・沢ガニ・川ガニ,などの魚類・甲殻類 

しじみ・たにし,などの貝類

「肉類」 いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・すずめ・つぐみ,などの獣や野鳥

「調味料・他」 醤(ひしお)・塩・甘草(かんぞう)・酢・魚醤(ぎょしょう)・酒・山椒・わさび

それにしても意外に豊かな食生活をしていたものです。当時は日本全国の縄文人の人口は26万人しか居なかった事実がこの豊かな食糧の最大の原因だったのでしょう。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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ロシア正教とは?・・・そして日本とのかかわり

2013年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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今日は日曜日なのでキリスト教の一派のロシア正教の話を書いてみようと思います。

ロシア正教はギリシャ、ビザンチン、ロシアに伝わったキリスト教で、旧教と言われるカトリックに近い宗派です。

ギリシャ正教、ロシア正教、などは東方へ伝承したキリスト教の一派です。アフリカへ伝承したキリスト教はコプト教と言います。ヨーロッパに伝わったキリスト教はカトリックやイギリス聖公会やプロステタン諸宗派に分かれています。

キリスト教は、日本へ1549年にザビエルさんがカトリックを伝え、その信仰はその後の250年間の隠れキリスタンによって現在へ伝承されています。現在の日本のカトリックの信仰には465年の歴史があるのです。

一方、ギリス聖公会やプロステタン諸宗派は明治維新後に日本へ伝承されました。

そしてロシア正教は幕末にニコライによって函館に伝承されたのです。

今日はこのニコライのことをご紹介したいと思います。

1861年に、ニコライが宣教師として函館に着任した時は既に「救主復活聖堂」というロシア正教の教会が函館にあったと記述しています。

このロシア正教の傑出した宣教師のニコライは東京に「ニコライ堂」を建てたのです。

上の写真は私が撮ったものですが、東京のお茶の水の駿河台にあるニコライ堂の現在の姿です。

このニコライ堂は1891年、明治24年に完成しています。参観日には一般開放しています。日曜日の9時からは礼拝をしています。見学は自由です。

日本にあるキリスト教会のなかでもトップクラスの豪華さと古い歴史がある建物です。

このニコライは日本に骨を埋めた感動的な宣教師でした。

下に彼についてのエピソードをお送りいたします。私が書いたものなので細部に誤りがあるかも知れませんが、大筋には誤りが御座いません。

是非、ご一読下さい。

=====ニコライさんの人間的偉さについて==========

1904年、明治37年に日露戦争が始まりました。翌年日本の勝利で終わりましたが、日本側の死傷者は20万人、ロシア側は15万人という凄惨な戦争でした。 

日本人のロシア人へ対する敵愾心は凄まじく、全国に散在するロシア正教関係の教会や集会所は暴徒の襲撃に会います。

しかし東京、駿河台のニコライ堂に居るニコライは顔色一つ変えず動揺しません。

日本の政府や軍部関係者は日露戦争の間、軍隊の一小隊を常時派遣しニコライ堂を暴徒から守ったのです。

特に1905年9月15日の日露講和条約(ポーツマス条約)の日には激しい日比谷公園焼き打ち事件が発生します。神田、駿河台のニコライ堂へ暴徒の群衆が押し寄せます。

しかし日本の軍隊が暴徒を一歩もニコライ堂の構内へ入れなかったのです。

日露戦争になる前にニコライはロシアへ逃げ帰ることも出来たのです。しかし彼は、「私はロシアに仕えるのでない。キリストに仕える者です」と明言して断固日本に残留したのです。日本の信者を見捨てる筈はなかったのですが、それを実際に見た政府関係者や軍部も武士道精神に従ってニコライを大切にしたのです。

これだけではありません。ロシア正教の日本人信者とその家族がロシア兵の捕虜の慰問を日本政府と軍部が許可したのです。慰問にはロシア正教の礼拝式を捕虜収容所で行うことも含まれていました。

1905年にはおびただしい数のロシア兵捕虜が日本の収容所へ送られて来ました。旅順や奉天での捕虜も含めるとその数は7万人以上と言われています。

日本国内には27ケ所の収容所が、弘前から始まって仙台、京都と南の熊本まで各地に散在していました。

ロシア語の出来る日本人の司祭がそれぞれの収容所を担当して死者の埋葬、病者の見舞い、家族からの郵便の配布、ロシアからの慰問袋の仲介、礼拝式や祈りの会の開催、行方不明者の調査などなどを日本人司祭と信者が手を尽くして行ったのです。

私の手元にはそのような当時の写真があり、それを見ながら書いています。

捕虜収容所を訪問したニコライと日本軍幹部との記念写真。イオアン小野帰一司祭の指導による大阪、浜寺捕虜収容所の祈りの会の風景。松山捕虜収容所を担当したセルギイ鈴木九八司祭の上半身肖像写真。ペトル内田 補司祭と信者の家族とロシア兵捕虜との集合写真。京都、伏見捕虜収容所を担当したシメオン三井道郎司祭の上半身肖像写真。習志野捕虜収容所でのイアコフ藤平新太郎司祭とロシア兵との集合写真。神田、駿河台のニコライ堂前でのロシア兵捕虜慰問会の集合写真。

ここで皆様に是非ご想像して頂きたいのです。1905年と言えば、1917年の共産党ソ連の出来る随分前です。ロシア人はロシア正教徒でした。戦いに敗れ、呆然自失の状態で敵国の収容所へ送られたのです。そのような傷心の時、突然ロシア語の話せる日本人の司祭が現れたのです。信者の家族が親類のように子供連れで遊びに来てくれたのです。彼らの心が躍った様子が目に見えるようではありませんか?

それを許した明治時代の日本人は心が広く、本当に偉かったと思います。1912年、聖ニコライは75歳で日本の土になりました。明治天皇が大きな恩賜の花輪を供えました。

第二次大戦のアメリカ兵の捕虜に対して軍部は過酷な扱いをしました。アメリカからのキリスト教牧師が慰めに行くのを許しませんでした。それどころか敵性外国人として監視やスパイの嫌疑で逮捕していたのです。

明治時代の日本人のロシア兵に対する寛大な処置は長く外国から称賛されたのです。我々日本人はこのような明治時代の日本人をもっともっと誇りに思うべきではないでしょうか?

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。取りあえずここに転載しご紹介いたします。

=====ニコライの生い立ち======

スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。

翌1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

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隠れキリシタンの野首天主堂の上の星空の写真です

2013年08月24日 | 写真

Seb20111004007911_2

出典は、http://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201110040074.html  です。 原画をトリミングして縦長にしました。そうするとブログ画面では大変大きな写真と掲載されます。下の部分にあるのは明治41年に建てられたカトリック野首教会です。現在は過疎化で無人島になり、この天主堂だけが島を守っています。五島列島の無人島の野崎島です。

撮影者は大阪の佐々木隆さんです。以下にその佐々木のことを紹介した文章をを引用します。

=====星降る教会、静寂の夜 長崎・野崎島====

世界遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一つ、旧野首教会(長崎県小値賀町)の背景に天の川を配した写真を大阪府在住の佐々木隆さんが撮影した。

 教会は五島列島の野崎島にある。佐々木さんは数年前から撮影したいと考えており、空気の澄んでいた9月24日夜に125秒の長時間露光で撮影した。「わずか2時間の滞在だったが、美しい教会と銀河が撮影できた。星のきれいな島だった」と話している。

 

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秋桜の写真です

2013年08月24日 | 写真

秋桜はコスモスの和名です。

この花の原産地はメキシコですが、日本には明治時代にヨーロッパから渡来しました。

そろそろ満開なるに頃と思い、三鷹市の「花と緑に広場」へ、家内と一緒に写真を撮りに行きました。しかしまだ咲き出したばかりでいけません。それでも下に写真をお送り致します。

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