後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本三大桜と日本五大桜」

2023年03月23日 | 写真
日本三大桜とは、福島県の三春滝桜・山梨県の山高神代桜・岐阜県の根尾谷薄墨桜の3つの巨木の桜のことです。
これに埼玉県の石戸蒲桜と静岡県狩宿の下馬桜を加えたものが、日本五大桜です。
写真をお送り致します。
1番目の写真は日本三大桜のひとつ福島県田村郡三春町にある三春滝桜です。滝のように枝を大きく垂らした鮮やかなベニシダレザクラです。国の天然記念物です。
2番目の写真は日本三大桜の山梨県北杜市にある山高神代桜です。樹高10.3m、根元・幹周り11.8mもある巨大なエドヒガンザクラで、樹齢はなんと2,000年。日本最古、最大級を誇る桜と言われています。
大正時代に国指定天然記念物第1号に指定され、1990年には「新日本名木百選」にも選ばれました。
3番目の写真は日本三大桜の岐阜県本巣市にある根尾谷淡墨桜です。樹齢1,500余年、樹高約16m、幹囲は約10mの名桜は国の天然記念物にも指定されています。四方に25m以上枝を伸ばす、迫力を感じさせる美しさの巨木です。
4番目の写真は日本五大桜の石戸蒲桜です。埼玉県北本市にあります。樹齢800年のエドヒガンザクラとヤマザクラが自然に交配したもので、世界にたった1本しかない貴重な桜です。枝にはピンクと白の2種類の花が咲き、枝がかなり低い位置まで下りてきているので、手の届く近さで花を観賞することができます。

「近所の親しみやすい小金井祭典という会社」

2023年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

近所に小金井祭典株式会社という店があります。葬儀社です。写真を示します。

1番目の写真は近所にある小金井祭典株式会社という店の外観です。

2番目の写真は店の内部で撮った写真です。左が是枝嗣人社長で右がスタッフの加藤順子さんです。

3番目の写真はもう一人のスタッフの大浜なつみさんです。大浜さんは是枝嗣人社長の奥さんです。

4番目の写真も大浜なつみさんです。

さて是枝嗣人さんが考えている葬儀にまつわるサービスを説明します。3つに分けて順々に書ます。
(1)是枝嗣人さんが考えている葬儀とはどういうものでしょう?
人の死は悲しいものです。遺族は悲嘆にくれています。そんな時、葬儀社がよくドカドカと機材を運び込んで大きな祭壇を作ってしまいます。遺族の気持ちなどお構い無しです。
しかし小金井祭典株式会社は違います。あくまでも遺族の心に寄り添って葬儀の相談を静かにします。心のこもった家族葬も大がかりな葬式もします。仏教の習慣も尊重します。是枝嗣人さんは仏教の立正大学の仏教学科を卒業しました。学生の頃から葬儀社でアルバイトをしていたのです。そして2007年に小金井祭典株式会社を起業したのです。葬儀の本質を深く考え理解しています。
葬儀とは故人の供養と遺族の悲しみを取り除くため行うのです。
(http://www.ks-sougi.com/ に詳しく書いてあります。)

(2)遺族の悲しみを癒すグリーフサポートやセミナーを行い何でも相談出来るサロンです。
グリーフとは悲嘆を意味します。小金井祭典では、ご遺族の悲嘆をやわらげ、支えるためのグリーフサポートに力を入れています。ここが他の葬儀社と違う特徴です。
故人と一緒に多くのものを失ったことにより、様々な感情や考えが湧き上がってきます。しかし、こうして湧き上がってくる感情や考えは、常識や習慣、私達自身の持つ先入観や誤解によって抑えつけられ、心の中に閉じ込められたままになってしまうのです。
しかし、死別によって深い悲しみを体験している時には、ちょっと話しを聴いて貰っても、一人になるとすぐに、再び深い悲しみの状態に戻ってしまいます。一度自分の感情を外に向かって出すことが出来ても、何かのちょっとした出来事をきっかけに、再び自分の思いを外にだせなくなってしまうのです。心の中にあるものを外に出せるようになったり、また元に戻ってしまったりといった状態を繰り返しながら、少しずつ心は元気になっていきます。そして、だんだんと心の整理がついてくると、悲しみに浸ってばかりいることも少なくなってくるのです。
この過程で相談に乗って早く楽な精神状態にするのがグリーフ・ケアです。
詳しくは小金井祭典のちょっと訊ける場所「めぐる」を訪問して加藤順子さんに聞いて下さい。
そしてセミナーです。
お葬式を中心とした介護、成年後見、看取り、相続、遺言、グリーフ(悲嘆)サポート,海洋散骨、樹木葬、などシニアライフ全般の情報共有のためいろいろな所でセミナーを開催しています。
是枝嗣人さんは学校、医療機関、介護施設、自治体、NPOなど幅広い講演実績があり少人数からの講演依頼も受けています。
何でも相談出来るサロン、
小金井祭典の「ちょっと訊ける場所・めぐる」は、お葬式のあれこれを気楽に無料相談できるサロンです。事前のご相談はもちろん、お葬式後のことなどもお気軽にお尋ねください。
手続きなどのご相談だけでなく、大切な人を亡くされた方がお茶を飲みながらおしゃべりして帰る…そんな場所にもなっています。

(3)是枝嗣人さんが経営している都心のもう2つの会社と地元の活性化のための活躍、
2つの会社とは、株式会社クローバーと株式会社葬送支援です。株式会社クローバーについて詳しくはホームページをご覧ください。
さて是枝嗣人さんの地元活性化の活動を少しだけ書いておきます。彼は小金井で生まれ育った郷土愛の強い人です。
小金井青年会議所の理事長もしていたこともあります。本町5丁目の商店会の副会長として夏祭りやいろいろなイベントを実行して地元の活性化をして来ました。その他市内の各種団体と連携して小金井市の活性化に活躍してきたのです。簡単に言ってしまえば小金井市の実業家のリーダーなのです。
あまり長くなるので、この辺で止めます。最後になりましたが小金井祭典は是枝嗣人社長の奥さんのなつみさんが経理を担当して健全財政で経営してます。

以上、小金井にある小金井祭典株式会社という店をご紹介致しました。
皆様のお住まいになっている所に地元活性化を熱心にしている会社があるでしょうか?意外にもよく調べると必ずあると思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「民族とは何か?何故お互いに戦うのか?」

2023年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

現在この地球上のウクライナで激しい戦争が行われています。ロシア民族とウクライナ民族の抗争です。長い歴史的な両民族の憎しみ合いを背景にした戦争です。私は民族とは何かと考えます。何故お互いに戦うのかと悲しい気持ちになります。

今日はそんな民族問題を背景にしてウクライナの戦争を考えてみたいと思います。具体的な足がかりとして岸田文雄首相のウクライナ訪問の写真を示します。

1番目の写真はーウに到着し、ウクライナ政府高官に出迎えられる岸田文雄首相(右から2人目)です。2023年3月21日[ウクライナ外務省提供]。 ウクライナのゼレンスキー大統領は21日、岸田文雄首相を「国際秩序の強力な擁護者であり、ウクライナの長年の友人」と呼び、首都キーウ(キエフ)訪問を歓迎しました。

2番目の写真はウクライナの惨状です。

3番目の写真は戦うウクライナの戦車です。
一般に、ある民族は輝かしい文化と暗黒の歴史の両方を持っています。ウクライナ民族とロシア民族も同様です。
例えば民族同士の抗争としてヨーロッパにおけるユダヤ人排除と殺戮の歴史です。そこで今日はこの問題を取り上げたいと思います。

さて一般論を言えば、キリスト教徒はイエス・キリストを十字架にかけて殺したユダヤ民族を憎んでいます。自分たちの大切なイエス様を残酷にも十字架にクギで打ち付け脇腹を槍で刺し殺したのです。
国土を持たぬユダヤ民族はヨーロッパ全域とロシア西部に流れ、キリスト教徒の中に混じって暮らすことになったのです。
思慮の浅い一般大衆は何か騒乱が起きると、その度にユダヤ人を殺すのです。ダヤ人殺戮はヨーロッパの伝統文化の一つなのです。
ヨーロッパ人のユダヤ人殺戮の最近の例としてヒットラーによる600万人余のユダヤ人を殺したホロコーストがあります。
ユダヤ人の殺戮は長い歴史のなかで連綿と繰り返されてきたのです。
例えば1096年にヨーロッパを出発した民衆十字軍はエルサレム奪回の途上で、次々と各地のユダヤ人を殺戮しながら遠征して行ったのです。それは第一回十字軍の遠征前のことでした。
各地でユダヤ人を見つけると虐殺しながら、ハンガリー王国やビザンツ帝国内を占領し、小アジアに攻め入ったのです。
しかし所詮は烏合の衆です。セリジューク朝の軍隊に蹴散らされ、遠征に参加した民衆はイスラム教徒の奴隷になったり殺されてしまったのです。彼等の唯一の戦果は各地でユダヤ人を殺戮したことだけでした。
このようなユダヤ人の殺戮はヨーロッパ各地で戦乱や飢饉が起きるたびに繰り返されてきたのです。これはヨーロッパ文化の「闇の半面」です。
ですからヒットラーのホロコーストはこの伝統の延長線上に起きた悲劇だったのです。
600万人とも言われるユダヤ人の大部分は東ヨーロッパとソ連西部地域から狩り集められたのです。
この大量殺戮は、そこに住んでいたキリスト教徒の協力があったればこそ可能だったと考えるのが自然です。ヒットラー個人にだけ罪を負わせるのは浅薄な理解です。
何故、アウシュヴィッツ強制収容所がポーランドに存在したのか?
ポーランドには一番多くユダヤ人が住んでいたのです。270万人以上です。ポーランドのユダヤ人は99%殺されたのです。
ヒットラーによって殺されたユダヤ人の出身国はポーランド、ソ連、ハンガリーなどです。ユダヤ人は東ヨーロッパからウクライナ、ベラルーシ、ロシアに多かのです。

4番目の写真は「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線です。

5番目の写真はハンガリーから到着したユダヤ人(1944)です。写真に写っている人々の顔が絶望の表情を見せています。
以上のようなユダヤ人の差別と迫害はヨーロッパの闇です。ヨーロッパ文化の暗い側面です。

さて私はカトリック教徒です。そしてアウシュヴィッツ強制収容所のあったポーランドは カトリック国です。ですからこそ最後に一言書かざるを得ません。
もともとユダヤ人だったイエス様はユダヤ人を殺せとは絶対に言いませんでした。「汝の敵を愛せ」と言い、「汝の隣人を愛せ」と言ったのです。そして異教徒のサマリア人を大切にしたのです。
ヨーッロッパ人がユダヤ人を殺すのはイエス様の教えに反するのです。それはキリスト教へ対する反逆行為なのです。ですから私はそれを「ヨーロッパ文化の闇」と言うのです。

今日は現在のウクライナの悲劇の背景にはロシア民族とウクライナ民族の抗争の歴史があると書きました。民族同士の抗争の一例としてユダヤ人排除と殺戮の歴史を紹介しました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「江戸時代の小金井桜の絵」

2023年03月22日 | 写真

広重の「江戸近郊八景之内小金井橋夕照」に描かれています。桜と上水と富士がきちんと描かれています。小金井橋のたもとには馬が繋がれています。馬子は煙管をくわえています。客を待っているのでしょうか。 写真の出典は、http://uzo800.blog.fc2.com/blog-entry-484.html です。


「江戸時代から有名な小金井桜が満開になりだしました」

2023年03月22日 | 写真

江戸時代から有名な小金井桜は玉川上水の堤沿いに咲いていました。しかし現在は市内のあちこちに咲いています。小金井は櫻花であふれるようです。
今日は午後から玉川上水付近の櫻花の写真を撮りに行きました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。


「川の物語(5)美しき青きドナウ川」

2023年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム

ドナウ川はドイツ南部のシュヴァルツバルト(黒い森)に源流があります。源流域はドナウエッシンゲンと言い昔住んでいたシュトッツガルト市のすぐ南にあるので見に行ったことがあります。何の変哲も無い小さな泉でした。

そこから東あるいは南東方向に流れ、ヨーロッパの10ヶ国以上を通って黒海に注いでいます。全長は2,850 kmで、ヨーロッパではヴォルガ川に次いで2番目に長い川です。船舶の遡行が可能で運河を通じて北海とも繋がっています。ヨーロッパの水運の大動脈です。このドナウは日本でも数々の歌で有名です。

例えば一つだけご紹介致します。 シュトラウス2世の「三大ワルツ」の『美しく青きドナウ』です。

Donau so blau,
Durch Tal und Au
Wogst ruhig du hin,
Dich grüßt unser Wien,
Dein silbernes Band
Knüpft Land an Land,
Und fröhliche Herzen schlagen
An deinem schönen Strand.

とても美しいドナウ川
谷や野を通って
ずっと穏やかに流れる君に
私たちのウィーンはあいさつをする
君の銀色のリボンは
国と国を結び
心は楽しく鼓動する
君の美しい岸辺で

メロディーは、https://tsvocalschool.com/classic/donau-chorus/ にあります。さてドナウ川の風景写真を示します。1番目の写真は豊に流れる中流域のドナウ川です。2番目の写真は上流域のレーゲンスブルグです。3番目の写真は中流にある渓谷の風景です。4番目の写真は下流域にあるブタベストの街です。

さてドナウ川沿岸はヨーロッパの戦乱の度に戦争に巻き込まれる運命にありました。例えば第一次世界大戦によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれます。ドイツ、オーストリア、ブルガリア、オスマン帝国の同盟国とロシア、セルビア、ルーマニアとの間で激しい戦闘が続いたのです。1918年にドイツ側は敗北し、ブルガリアは南ドブロジャをルーマニアに割譲します。ルーマニアは大戦中のロシア革命成立したソ連から一部領土を獲得し大きなルーマニアになりました。

オーストリー・ハンガリー帝国は解体しドナウ沿岸にはオーストリア共和国、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィアの4つの新独立国が誕生したのです。

しかし1938年になるとオーストリアがナチス・ドイツに併合されたのを皮切りに、ドナウ川流域諸国は次々とナチス・ドイツ側の枢軸国となるか、その占領下に置かれたのたのです。独ソ戦争ではドナウ川は輸送路や渡河作戦の舞台となったのです。

戦後、東欧諸国はソ連に占領されルーマニアもブルガリアのソ連圏になりました。

冷戦終結後は政治的障害がなくなり、やっとドナウ川流域も平和になります。そしてドナウ運河も完成し、北海から黒海までの水運が可能になったのです。

このようにドナウ川沿岸はヨーロッパの戦乱の度に戦争に巻き込まれたのです。しかし1991年のソ連の解体によりやっと平和になったのです。

日本人はあまりドナウ川沿岸の戦乱は知りません。知っているのはシュトラウス2世の『美しく青きドナウ』という歌です。日本はドイツの同盟国だったのでドイツが占領したドナウ川沿岸の悲劇は知らされていなかったのです。しかし現在は歴史を客観的に見ることが出来ます。ドナウ川沿岸の悲劇も理解出来るのです。それにしても戦争は悪ですね。ロシアのウクライナ武力侵攻も悪です。ロシアをもっと強く糾弾すべきです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「野川にさしかかる桜花の風情」

2023年03月21日 | 写真
近所に野川にさしかかって咲いている桜花があります。何とも言えない良い風情なので毎年写真を撮りに行きます。
満開の頃なので午後から写真を撮りに行きました。あいにくの曇り日の写真ですがお楽しみ下さい。

「現在は四旬節、日本の土になった外国人の神父を想う」

2023年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今年、2023年の灰の水曜日は2月22日でした。四旬節は2月23日から4月8日までで4月9日は復活祭です。現在は四旬節の最中です。
そこで今日は今年の四旬節にあっての教皇のメッセージを紹介して、その後日本の土になった2人の外国人の神父をご紹介したいと思います。
まず教皇のフランシスコ神父さまをご紹介いたします。

1番目の写真はフランシスコ法王です。(2014年8月撮影)教皇就任 は2013年3月13日でした。

2番目の写真はフランシスコ神父さまが長崎を訪れたことを記念する原爆落下中心碑です。法王は2019年11月23日から11月26日まで日本を訪問しました。
フランシスコ神父さまは1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスでイタリア系移民の子として生まれました。さて2023年の四旬節にあたって次のような教皇メッセージを出してます。
・・・親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 マタイ、マルコ、ルカの福音書は、いずれもイエスの変容のエピソードを描いています。そこでは、弟子たちがご自分を理解できなかったことへのイエスの反応を見ることができます。その少し前、イエスが神の子キリストであると信仰告白した後にその受難と十字架の予告を否定したペトロと師との間には、激しい衝突がありました。イエスは彼をきつく叱責しました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16・23)。それに続いて、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マタイ17・1)のです。・・・

以下は、https://www.cbcj.catholic.jp/2023/02/24/26555/ に掲載されています。

私は四旬節の間、日本の土になった2人の外人神父んもことをあれこれ想います。フランスから来たド・ロ神父さまとロシアから来たニコライ神父さまです。 

さてド・ロ神父さまですが、彼は美味しいソーメンを作って九州の人々を助けました。そのド・ロさまソーメンを現在でも製造している会社が長崎にあります。
(株式会社サンフリード、http://www.sunflead.co.jp/  )
ド・ロさまは、明治12年(1879年)に現在の長崎市の旧黒崎村出津の里に赴任したフランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父(1840~1914)のことです。
彼は、村人たちの暮らしが、あまりにも貧しいのに驚き、村人の生活の向上のために布教活動のかたわら障害者の為の授産所や救助院を設けます。その上、故国、フランスから小麦粉を取り寄せ、フランスに残してあった私財を投じてパン、マカロニ、ソーメン作りの工場を建て製造技術を教えました。
ド・ロさまは72歳で亡くなるまでの42年間、故郷のフランスに一度も帰りませんでした。終生、長崎の貧しい人々に優しく接したのです。信者でない人々へも等しく支援したのです。

3番目の写真は出津教会です。ド・ロ神父はパリ外国宣教会所属で、1868年(慶応4年)6月に来日し、長崎市外海地区において布教活動のために建てた教会です。

ド・ロ神父が設計した出津教会堂、大野教会堂、旧羅典神学校、旧大司教館および、社会福祉事業に関連する遺跡(ド・ロ神父遺跡、旧出津救助院)は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定一覧表へ登録された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に加えられています。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/マルク・マリー・ド・ロ です。

次にロシアから来たニコライ神父さまをご紹介致します。彼は日本の土になったロシア正教のニコライ・カサートキンという人でした。ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。日本に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、上野の谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。
4番目の写真はニコライ神父様が建てた東京、神田にあるニコライ堂です。
5番目の写真はニコライ堂の内部です。1904年と1905年には日露戦争が続きました。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えられています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。1912年、持病の心臓病が悪化し、コライ堂で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から上野の谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。多くの日本人がニコライの死を悲しんだのです。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の写真に見えます。
6番目の写真は谷中にあるニコライのお墓です。ニコライは明治天皇を尊敬し、深く日本の信者を愛していたのです。日本人を愛すことは「隣人を愛せ」というイエス様の教えなのです。   今日は今年の四旬節にあっての教皇のメッセージを紹介して、その後日本の土になったフランスから来たド・ロ神父さまとロシアから来たニコライ神父さまをご紹介致しました。    それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ついでに小金井公園のパンジーの花園の写真もお送り致します」

2023年03月20日 | 写真

珍しくもないでしょうがパンジーの花園の写真もお送り致します。


「小金井公園で菜の花も綺麗です」

2023年03月20日 | 写真

特に小金井公園の自慢をしているのではありませんが菜の花も綺麗です。


「小金井公園にはいろいろな桜が咲いていました」

2023年03月20日 | 写真

小金井公園の中央の数十本のソメイヨシノはまだ開花してませんが周辺にいろいろ桜木が満開になっていました。それぞれ種の名前はあるのでしょうが私は分りません。しかしいろいろな桜花の美しさに魅了されて歩き回って来ました。上手写真ではありませんがお送り致します。


「川の物語(4)ヴォルガ川とレーピンの油彩画、『舟引き』」

2023年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム

ヴォルガ川はロシアの西部を流れる長大な川です。ロシアの主要部を水系に含む「ロシアの母なる川」です。全長は3,690kmです。

古くから、ヴォルガ川はロシアの内陸水運や国内輸送の重要な幹線となっていて舟引きなども行われていました。現在も、ロシアの河川貨物の、じつに3分の2はヴォルガ川とその支流によって運送されているのです。川沿いに建設された巨大ダムには閘門が設けられカスピ海からヴォルガ川最上流まで航行することができます。これらの内陸水路は比較的大きな船舶が通ることができるよう設計されています。

1917年に革命が勃発するとヴォルガ川沿岸地域も政治的混乱に巻き込まれた。しかし新しく成立したソヴィエト政府はヴォルガ川の開発を進め、各地に水力発電所などや巨大なダムを建設します。ヴォルガ川の写真を示します。

1番目の写真は蛇行する中流のヴォルガ川の写真です。(ヴォルガ川のストックフォト - iStock (istockphoto.com)

2番目の写真は美しいヴォルガ川沿いの町、ブリョスです。(https://4travel.jp/travelogue/11147318)

ロシアは、広大な大陸国であり自然の厳しさと闘い独特の文化を作ってきました。ロシアは厳寒の中で大地で生きることの厳しさと闘い同時に大地を崇拝してきました。ロシア文化の特徴は「暗い」のです。それを如実に示している1枚の油彩画をお送り致します。出典は、ヴォルガの船曳き - Wikipedia です。

3番目の写真はイリア・レーピンの「舟引き」です。1870年頃描れました。131.5 cm × 281 cmの大きさです。サンクトペテルブルクの美術館にあります。

川の船の運航は下流へ行く場合は帆に風を受けたり川の流れに乗って進むことができますが、上流へのぼるには人や馬が曳くしかなかったのです。舟引き労働を最も必要とした川はヴォルガ川でした。ヴォルガ河畔にあるルイビンスクは「船曳きの首都」とも呼ばれ、人夫たちは「ヴォルガの船曳き歌」などの歌を歌いながら舟を曳いていました

この1枚の絵は19世紀までのロシアの激しい階級差を示しています。ロシアの暗い文化を活写しています。その上芸術的な優れた絵画です。1873年に開催されたウイーン万国博覧会に出品された絵です。

イリア・レーピンのもう1枚の絵を示します。

4番目の写真は『クルスク県の復活大祭の十字行』(1880年~1883年) トレチャコフ美術館です。

今日はロシアのヴォルガ川を紹介しました。あわせてイリア・レーピンの「舟引き」という油彩画をご紹介致しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考=======================

イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン, (1844年 - 1930年)は移動派を代表するロシア帝国画家彫刻家です。心理的洞察を持ち合わせた写実画によって名高く、いくつかの作品は既存の社会秩序の矛盾や階層間の緊張を露わにしています。社会的名士の肖像画を制作する一方、しばしば貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材として数多くの作品を残しました。

詳しくは、イリヤ・レーピン - Wikipedia をご覧ください。


「小金井公園の櫻も本格的に咲き出しました」

2023年03月19日 | 写真
小金井公園のソメイヨシノも咲き出す頃と思い、午後から写真を撮りにいきました。本格的に咲き出していました。しかし数本だけです。

数十本のソメイヨシノが全て満開になるのはもう1週間かかると思いました。
満開になっている3本の写真をお送り致します。


「大瀬簗場の風景写真」

2023年03月19日 | 写真
栃木県茂木町にある「大瀬簗場」は数ある那珂川の簗場の中で最大の規模です。大瀬簗場のある那珂川は「漁獲量全国第1位」「天然遡上全国第2位」の鮎の名産地です。詳しくは、https://oose-yana.com/ をご覧ください。

「川の物語(3)利根川と鮎料理で有名な坂東梁」

2023年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
利根川は信濃川に次いで日本で2番目に長い川です。群馬県の奥の大水上山を水源にして関東平野を北から東へ流れ銚子で太平洋に注ぐ大きな川です。日本三大河川の一つで、首都圏の水源です。
坂東太郎」ともよばれ日本三大暴れ川で江戸時代初期から河川改修が何度の行われて来ました。河川改修で流路を変更された歴史を持つ川です。昔は霞ヶ浦に注いで、そこから銚子に抜けていました。現在は霞ヶ浦に入らず霞ヶ浦の南を通って銚子に抜け太平洋にそそいでいます。一部本流から枝分かれして江戸川になり東京湾に流れています。
この利根川の中流付近の渋川のすこし下流に鮎料理で有名な坂東梁があります。
毎年、6月になると坂東簗から今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しくださいと案内状が来たものです。それが2年前のものは 店仕舞いの挨拶状でした。何十年も家族とともに楽しんできたのでしばし寂寞感にとらわれました。
これはある地方文化の終焉です。簗で鮎を捕り、見晴らしの良い川岸で鮎料理を楽しむのは、その地方の食文化です。時代が変わればその文化も終焉するのです。
坂東簗の発祥は江戸時代末期です。戦争の影響で一旦閉鎖されましたが、昭和29年に利根川の坂東梁として再び営業を始めました。
アカシヤの林に囲まれた広い部屋で鮎を食べていると夏草の茂る利根川の広い川原が見渡せて、その向こうには榛名山や伊香保の山並みが見えるのです。その風情ある情景が忘れられません。
美味しい鮎は果物のスイカのような高貴な香りがして、食べると適度に油ものっていて意外に芳醇な味がするのです。その香りと味は鮎が川石に生えている苔を食べているからだと言われています。
坂東簗でも釣り師が持ち込む天然鮎を使っていました。川石に生えている苔が無くなって天然鮎が不味くなってしまったのです。それで廃業です。
私の家内は鮎が特に好きだったので毎年のように坂東簗に通いました。娘夫婦、息子夫婦、孫とも一緒に楽しんだものでした。
ある時、店のなかを見物してまわりました。料理場の外の廊下に古い写真が沢山飾ってあります。明治、大正時代に前橋の金持ちが人力車で乗り付けています。それには芸者さんの乗った人力車も続いているのです。栄枯盛衰は世のならいという言葉を思い出します。
鮎料理の衰退は、鮎が不味くなっただけが原因ではありません。街々に美味しい手軽なレストランや寿司の店が展開し、イタリアンでも中華でも何でも簡単に楽しめるようになったのも一つの大きな原因になっているのです。人々の食の好みが鮎や鯉などの川魚料理だけでなく、多様になったためなのです。
さて、そこで新ためて全国の鮎の簗場を調べてみました。そうしたら末尾に付けたように数は多くありませんが、まだ営業している簗場があったのです。
このほかに鮎ではなく、アカハラやハヤなどの川魚を取って川原で焼いて供している簗場もあるようです。
坂東簗も店仕舞いしたので、その嘗ての写真を掲載し、群馬県地方の一つの食文化の記録を残したいと思います。

1番目の写真は坂東梁です。関越道路の渋川インターを出て、前橋方向に戻り利根川を渡るとすぐにこの坂東簗があります。

2番目の写真は鮎を焼いている様子です。店の玄関を入ると直ぐに左手に広い焼き場があり、菅笠をかぶった職人たちが汗を流して熱心に数多くの鮎を焼いています。
鮎料理はこの塩焼きだけでなく、味噌焼き、鮎の甘露煮、鮎のフライ、鮎のうるか、鮎のお澄まし、鮎ごはんなどが出ます。

3番目の写真は客席からの風景です。客席に座ると上の写真のように木を組んだ簗が見え、その向こうに利根川と榛名山が広がっています。

3番目の写真は鮎を捕る梁です。鮎料理を注文すると、料理が来るまでしばらく時間がありますので、上の写真のような簗に降りて行き、しばし水流を眺めます。簗の先端には時々、鮎の小さなものやハヤが上がってきます。拾って備え付けの木箱に入れて生かしておきます。子供が自由に持ち帰って良いのです。

4番目の写真は鮎の塩焼きです。簗から上がってくると上のような塩焼きが来ます。熱いうちに中骨を抜いて食べます。

5番目の写真は家内が鮎を食べているところです。昔、幼少の頃、多摩川の天然鮎を沢山食べたことを思い出すそうです。
このように利根川で取れた鮎を川風に吹かれながら食べる風習はもう少なくなってしまったのです。夏の風物詩が一つなくなり、淋しくなりました。今日は「川の物語」の(3)として利根川と鮎料理で有名な坂東梁をご紹介致しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
全国の鮎の簗場:http://www.yana215.com/entry11.html を調べると簗の名前、営業期間、地図などが出てきます。
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