後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今年もお盆が来て精霊流し をします」

2024年07月22日 | 写真
今年もお盆が来て精霊流し をします。
お盆の期間は、8月13日~16日の4日間(8月盆)が一般的ですが、東京をはじめとする一部地域では、7月13日~16日の4日間(7月盆)で行われます。また、東京の多摩地区では7月31日〜8月2日
に行う場合もあります。
お盆には、お盆提灯やキュウリ・ナスで作った牛馬など、お盆独自のお飾りをして故人様をおもてなしする風習があります。
ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「迎え火」を焚き、ご先祖様の霊をお迎えします。
迎え火と同様に、ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「送り火」を焚き、ご先祖様の霊をお見送りします。
お盆の風物詩は「精霊流し」です。
有名なのは長崎の江迎千灯籠祭りです。
十五日夜、亡くなった人の霊を精霊船に乗せて西方浄土に送る行事です。
写真は「精霊流し」の風景です。夏の風物詩です。

「チベット仏教の風景」

2024年07月22日 | 写真

チベット仏教の風景の写真をお送りいたします。写真はインターンットからお借りしました。

チベット仏教は7世紀以来、チベットで独自に発展した仏教で、現在もチベット民衆に根強く続いている。
 インドで起こった仏教の中で、北伝仏教とも言われる大乗仏教が、7世紀ごろ、チベット(吐蕃)に伝わりソンツェン=ガンポ王の保護を受け、チベット固有の土着宗教であるボン教という呪術的な宗教と融合して独自に発達し、チベット仏教となった。

吐蕃王朝は衰退したが、チベット仏教はその後モンゴルやネパールにも広がった。特にモンゴル帝国ではフビライなど歴代のハンがチベット仏教を保護したため、チベット仏教はモンゴルにも定着した。

現在もチベットを中心に、内モンゴル、ネパール、ブータンなどに信者がひろがっている。17世紀からはチベット仏教の教主としてダライ=ラマの権威が確立し、その転生による継承は現在に至っていが、チベットが清朝の滅亡後は一時独立を宣言したものの、中華人民共和国に編入されたため、チベットの政治的独立と共にチベット仏教のあり方も大きな転機を迎えています。


「韓国にある世界遺産の仏国寺や海印寺などの写真」

2024年07月22日 | 写真
日本にも貴重な文化遺産があります。奈良の唐招提寺や京都の高台寺などなどです。同じように韓国にも素晴らしい世界遺産のお寺があります。
今日は韓国の世界遺産の仏国寺や海印寺などのを写真でご紹介いたします。
写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/18683 です。
1番目の写真は韓国の世界遺産の「宗廟 」です。お寺です。牌を祀ってあります。
朝鮮王朝の歴代王と、そして王妃の位牌を祀っており、神聖な場所として知られています。
正殿19室に49位、永寧殿16室に34位、功臣堂に臣下の位牌83位、合計166位が安置されています。
 
2番目の写真は世界遺産の「仏国寺 」です。
仏教芸術の最高傑作かつ国宝の寺院とされている仏国寺は理想的な彼岸の世界観が表現されております。
この仏国寺 は1982年に家内と訪問したことがあります。
3番目の写真は韓国の世界遺産の「慶州歴史地域 」です。
慶州市周辺の史跡や古墳の総称で、塔や仏像などが山全体に散在している南山(ナムサン)地区、新羅の王宮が置かれていた月城(ウォルソン)地区などの地域があります。
慶州市の南山地区は1982年に家内と訪問したことがあります。
4番目の写真は韓国の世界遺産の「海印寺 」です。
1200年以上の歴史があり、韓国最大規模の宗派である曹渓宗の寺院です。
海印寺も1982年に家内と訪問したことがあります。瓦屋根の稜線が優美に反っているのが印象的でした。
5番目の写真は韓国の世界遺産の「朝鮮王陵の王墓群」です。
朝鮮王朝の歴代の王が眠っている墓です。40基がソウル近隣に点在しており、遺跡では現在も祭礼が行われています。
 
ついでに韓国の世界遺産の一覧を以下に示します。
 
世界文化遺産:
石窟庵と仏国寺 - (1995年登録)
海印寺大蔵経板殿- (1995年)
宗廟 - (1995年)
昌徳宮 - (1997年)
華城 - (1997年)
慶州歴史地域 - (2000年)
高敞、和順、江華の支石墓群 - (2000年)
朝鮮王陵 - (2009年) 
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞 - (2010年)
南漢山城 - (2014年)
 
世界自然遺産:
済州の火山島と溶岩洞窟- (2007年)
 
以上の世界遺産の中で朝鮮王陵を見てみると李朝朝鮮の歴史が一挙に分かります。
朝鮮王陵は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵です。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られたのです。
2009年6月27日に韓国が申請した朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録されています。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5 より)
 
そして同じく世界文化遺産の昌徳宮の概略を説明すると以下のようになります。
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まったのです。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用されました。
1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失しました。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失したのです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%A6%8F%E5%AE%AE より)
 
以上、韓国の世界遺産のお寺についてご紹介いたしました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「『仏教』を分かりやすく書いた資料の紹介」

2024年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

欧米人とビールを飲んで雑談していると、よく仏教とはどんな宗教ですかと聞かれます。仏教の教義はどのようなものですかと聞られます。答えに戸惑う問いです。困った質問です。仏教の全体を分かり易く説明することは容易ではありません。

そこで今日は『仏教』を分かりやすく説明しようと思います。分かりやすい資料をご紹介したいと思います。

さて日本ではお盆になると墓参りをします。春、秋のお彼岸にも墓地の掃除をして先祖の供養をします。みな仏教の風習です。
私は仏教のことが好きでよく仏教に関連した記事を書いています。そんな場合参考にしている資料があります。
それは『仏教へのいざない』というホームページ、(http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/01.html )です。
大変分り易く仏教全体のことを過不足無く説明した優れた文献です。東京大学仏教青年会が作った文献資料です。
この『仏教へのいざない』というホームページをかいつまんでご紹介したいと思います。
まず目次をご覧下さい。

第01回ブッダの悟りから仏教へ

第02回 原始仏典とは何か
第03回 原始仏典を読む
第04回 原始仏教の様相
第05回 大乗仏教の発生
第06回 龍樹の思想
第07回 大乗仏教の展開
第08回 密教の世界
第09回 インド仏教の滅亡と再興
第10回 ガンダーラ仏教の隆盛
第11回 シルクロードの仏教
第12回 玄奘三蔵の旅
第13回 チベット仏教の形成
第14回 ダライ・ラマの誕生
第15回 中国に伝わった仏教
第16回 中国仏教の広がり
第17回 漢訳仏典を読む
第18回 隋・唐の仏教
第19回 宋代から清代まで
第20回 朝鮮半島への伝来
第21回 朝鮮仏教の展開
第22回 戦後の東アジア仏教
第23回 南伝仏教とは何か
第24回 スリランカの仏教
第25回 タイの仏教
第26回 ミャンマーの仏教
第27回 日本への仏教伝来
第28回 旅する僧侶たち
第29回 南伝仏教との出会い
第30回 日本仏教のゆくえ

第01回「ブッダの悟りから仏教へ」の書き出しはこんな具合です。
・・・仏教はブッダ(仏陀・仏)の教えに由来する。ブッダは「悟った人」の意で一般名詞に近く、特定の一人に限らない。その中でも歴史的に実在し、仏教の開祖とされるのは、紀元前五または四世紀にインドに現れた人物で、本名はゴータマ・シッダールタ(シッダッタ)と言い、そこからしばしばゴータマ・ブッダとも呼ばれる。その出身の種族はシャーキャ(釈迦)族で、そこからシャーキャ・ムニ(釈迦牟尼。釈迦族の聖者)、あるいは釈尊とも呼ばれる。また、如来・世尊などとも呼ばれる。その伝記は伝説的な色彩に彩られているが、北インドの王族の出身で、出生の地は現在のネパール南部のルンビニーであったという。世俗の生活に満足できずに出家し、はじめは当時の修行者の常として厳しい苦行を行った。しかし、それでは悟りは得られず、二九歳、あるは三五歳の頃、苦行を捨ててブッダガヤーの菩提樹のもとで禅定に入って悟りを開いた。・・・

そして第30回の「日本仏教のゆくえ」にはこんなことが書いてあります。


・・・日本の仏教は、アジアの中でも随分と異色のところが多い。第一に、僧侶の肉食妻帯。厳格な地域では一般の信者でも精進料理しか食べないのに、 僧衣を着た坊さんが平気で肉を食べているのは、随分と異様に見えるようだ。第二に、葬式仏教。仏教寺院というとふつうには墓地があり、僧侶のいちばんの仕事は墓地の管理をして、 葬式や法要をすることだと思われている。これも他の仏教国には見られない。第三に、神仏習合。神社でもお寺でも同じように参詣して手を合わせる。 二つの宗教をかけ持ちしているようで、日本人はきわめていい加減だ、ということになる。このように、日本の仏教のあり方は外から見ると相当に奇妙で、しばしば顰蹙を買うことになる。・・・

否定でも惰性でもなく、仏教がそのような近代的な人間観に疑問を突きつけることが可能とすれば、まず葬式や墓地の見直しから出発しなければならないのではないだろうか。
神仏習合にしても、日本に仏教が伝来して以来の長い経緯を持つもので、それが二つの別々の宗教に分けられたのは、明治の神仏分離によるきわめて人為的で無理な政策によるものであった。 日本のみならず、東アジアにおいては仏教は単独の宗教ではなく、儒教や道教などと交流しながら発展してきている。 とりわけ日本の神仏習合は、神仏が緊密な構造を構成していて、近代に外から持ち込まれた宗教観で切り分けることはできない。
 このように、日本の仏教のあり方はそれなりの必然性をもって展開してきているのであり、他の地域の仏教と違っているからといって、単純に否定的に見る必要はない。 しかしまた、過去の仏教の形態がそのまま惰性的に未来に続いていくというわけでもない。・・・

私は仏教に関するいろいろな本を読んできました。しかしこの電子化された文献資料ほと客観的に、そして公平に仏教を説明した資料は見たことがありません。
以下はこれを参考にして書いた記事です。
「愛と文化は国境を越える(4)日本文化の基礎を作った玄奘三蔵法師のインドへの旅」、2014年08月29日掲載。
「聖徳太子の師は朝鮮の慧慈・・・朝鮮仏教の日本への深い影響」、2014年08月30日掲載。
以下にこれら2つの記事で示した写真と図表をお送りいたします。

1番目の写真は玄奘三蔵法師のインドへの旅の道程です。彼は602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。以後、翻訳作業で従来の誤りを正しながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。

2番目の写真は玄奘三蔵法師の遺骨があるという埼玉県の慈恩寺の玄奘三蔵法師の墓の入り口です。私が2009年の9月に訪ねて撮った写真です。遺骨は偽物かもしれません。しかし遺骨と称するモノが日本へ渡って来て、埼玉県の慈恩寺に埋葬されたいきさつを調べて行くと人々の願いや祈りが私の胸を打ったのです。

3番目の写真は慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が建てた玄奘塔と玄奘三蔵法師の像の写真を示します。この写真の玄奘三蔵さまが背中にうず高く背負っている物がインドから持って来た経典の詰まった入れ物なのです。

4番目の写真は埼玉県の慈恩寺の玄奘三蔵法師の墓の周囲の風景です。

5番目の写真は三国時代の朝鮮半島と日本への仏教伝来を示す表です。日本に仏教が伝来したのは日本書記によると552年、欽明天皇の時、百済から伝わったということになっています。しかし538年という説も有力です。そうして朝鮮半島出身の慧慈(えじ)が聖徳太子の師になっていたのです。

6番目の写真は朝鮮の仏教の変化を示す表です。676年に朝鮮半島を統一した新羅は、仏教文化を花咲かせました。
新羅王朝も後半の九世紀になると、中国仏教の動向をうけて禅が盛んになりはじめるのです。中国に求法した禅僧たちは新羅に帰国すると、山を根拠地として教えを広めていったのです。それら九つの山で活動した禅の流れを「九山禅門」と総称します。

7番目の写真は韓国・慶尚南道にある世界遺産に登録されている海印寺の伽藍全景です。802年の創建で、13世紀半ば制作の「高麗八万大蔵経」の版木が1398年以来、所蔵されています。伽藍は1817年の再建されています。

日本の学校では遣隋使や遣唐使だけを強調して教えています。盲目になっても日本へ渡来した中国僧、鑑真のことを教えます。
聖徳太子の師が朝鮮の慧慈であったことや、朝鮮仏教が日本へ深い影響を与えたことを教えません。公平を欠いています。これは日本人が伝統的に朝鮮半島を軽視する精神文化を持っていたためです。

今日は『仏教へのいざない』という優れたホームページをご紹介致しました。そしてこの資料にもとずいて玄奘三蔵法師のインドへの旅と朝鮮の仏教にまつわる写真や図表を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「フィリピンのミアガオ教会の写真」

2024年07月21日 | 写真

パナイ島イロイロ市の西方にあるミアガオ市にあるローマ・カトリック教会で、イロイロの人気観光スポットの一つです。「サントトマスデヴィラヌエバ教会」としても知られています。

1797年に建てられ、要塞としての役割も果たしていた場所でもあります。

バロック様式に中国・フィリピンの様式が混ざった他に類を見ない教会で、その古い構造と歴史から「フィリピンのバロック様式教会群」のひとつとして、1993年12月11日、マニラのサンアグスチン教会とともにユネスコ世界遺産に登録されました。
https://philippinetravel.jp/miag-ao-church/


「スイスのルツェルン湖とアルプスの山と教会の写真」

2024年07月21日 | 写真
昔、南ドイツに住んでいた頃は近くのスイスにはよく行ったものです。懐かしい風景の写真をお送りいたします。
写真はインターンットからお借りしました。

「東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの風景」

2024年07月21日 | 写真
 
東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの風景の写真をお送りいたします。
 

「東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの動画配信」

2024年07月21日 | 日記

東京のカトリック・イグナチオ教会の今日のミサの動画配信です。

https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/

写真はイグナチオ教会です。

聖イグナチオ教会
〒102-0083 東京都千代田区麹町6-5-1
JR中央線(麹町出口)/東京メトロ 丸の内線・南北線(赤坂出口) 四ツ谷駅下車(徒歩1分 上智大学手前)
教会受付(受付時間: 9:00~19:00):
 電話 03-3263-4584
 ファクシミリ 03-3263-4585


「欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違い」

2024年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は日曜日です。日曜日には宗教に関する軽い記事を書くことにしています。
今日は欧米のキリスト教と日本のキリスト教はどのように違うかということを考えてみたいと思います。
まず同じ花でも植えた場所によって違ってしまうということを考えてみます。
日本の楚々とした花でも西洋に移植すると派手な色の洋花になります。
育つ場所の土壌と気候によって、花々は同じ種類のものでも変わるのです。樹木の場合は材質も変わります。それは自然なことです。自然現象として当然です。
明治維新以来、日本は西洋文化を輸入して来ました。しかし日本の文化的土壌はヨーロッパと違います。輸入した文化が日本に入ってくると大きく変化するのが当然です。
宗教も例外ではありません。
佛教の場合もミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムに伝わった仏教は出家を重視した戒律の厳しい上座仏教になり、中国、朝鮮、日本に伝わったものは在家でも成仏出来る柔軟な大乗仏教になりました。
同じようにキリスト教も日本に移植されると変化します。
日本古来の文化的土壌にあう部分は力強く育ち、合わない部分は衰えます。
人間の営みも自然現象の一部と考えれば当然です。

1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父は順応主義でした。
それでは日本のキリスト教はどのように変化したのでしょうか?
いろいろな変化がありますが、とりあえず次の2つだけを取り上げてみたいと思います。
(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。
欧米のキリスト教では先祖崇拝がありません。故人の記念ととして墓はありますが「先祖代々の墓」は存在しません。先祖が子孫を守るとは信じていないのです。人を愛し、守ってくれるのは神様なのです。イエス様なのです。先祖にはそんのような力はありません。
上の二つの相違は私が1971年に洗礼を受けて以来、カトリックのミサへ出席し、説教を聞いた経験から得た体験的結論です。
長い間カトリックの神父様達の説教を聞きましたが先祖崇拝を否定したり、仏教を攻撃した説教は一度も聞いたためしが無いのです。
日本の数多くのキリスト教徒は「先祖代々の墓」を大切にしています。
キリスト教だけが良くて仏教は悪いとは思っていません。多くのキリスト教徒は仏教も良いと思っているのです。

さて、それでは日本の仏教的文化土壌とはどのようなものでしょうか?
多くの無宗教の日本人でも幼い頃から「孫悟空」の絵本を読み、そしてテレビのアニメを見て育ちます。そうして大人になって、その話は唐時代にインドに行って仏教の経典を持ち帰ってきた玄奘三蔵法師がモデルになっていることを知ります。
玄奘三蔵法師は粗末な衣服以外身につけないで言葉も不自由な異国を旅したのです。危害を加えられたことも無く、各地の王に大歓迎されたのです。
それは玄奘三蔵法師の人格が抜群に良かったからです。その上、玄奘三蔵法師の仏教に対する篤い信仰心が異国の人々へ感動を与えたからです。その玄奘三蔵法師の像は各地にあります。

日本の仏教文化的な土壌を説明するための実例は枚挙にいとまがありません。
その中からもう一つだけ書かせて下さい。
日本人は無宗教でも京都や奈良のお寺へ観光に行きます。修学旅行でも行きます。そして知らず知らずのうちに仏教の歴史や教えになじむのです。

日本人なら諸行無常という言葉を知っています。動物を意味もなく殺してはいけないと知っています。南無阿弥陀仏という言葉を知っています。色即是空という言葉を知っています。人生は修行だという言い方も知っています。
みんな、みんなお釈迦様の教えたことです。

仏教を信じない、無宗教の日本人もこのお釈迦様の教えの海の中に暮らしているのです。
そして信じない人々も困った時には、上に書いたお釈迦様の教えをフッと思い出すのです。
これこそが日本の仏教的文化土壌の実態なのです。
この土壌にキリスト教が根着くためには、その排他性を捨てなければなりません。自然なことです。

よく日本のインテリはお釈迦さまは神の啓示を受けなかったから仏教は宗教でない。ですから排斥しないのだと説明します。これはトンデモナイ間違いです。
誤解を恐れずに書けば、日本のクリスチャンは仏教も好きなのです。好きなものを排斥する筈がありません。
以上は欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違いなのです。今日は下記の2つの違いだけを書きました。

(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。


今日の挿し絵代わりの写真は昨年、遥かな五島列島で訪問した青砂ケ浦天主堂です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は青砂ケ浦天主堂です。


「夏になると妻が思い出す群馬県の下仁田小学校」

2024年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
夏になると妻が思い出すのは群馬県の下仁田小学校のことです。それは小さい、小さい昭和の歴史の一駒です。
昭和20年7月頃、当時海軍の文官だった家内の父は、鎌倉の海水浴場にアメリカの上陸用舟艇が砂浜につき海兵隊が襲って来ると予想したそうです。
当時、家内の一家は鎌倉に住んでいました。まだ少女だった妻は鎌倉の御成小学校に行っていました。
そして1945年の夏に妻の一家は、群馬県の山の中のネギで有名な下仁田町に疎開しました。終戦後も進駐軍の横暴を恐れて昭和22年夏まで山国にひそんでいました。
下仁田国民学校に転校した家内は海浜の生活から山里の生活に変わり、毎日が新鮮で楽しかったそうです。
しかしそこは米が一切採れず、麦と芋と野菜しか採れない山里でした。
ある地主の家に疎開したのですが、その家の毎日の主食はオキリコミでした。小麦粉を練って薄く伸ばし、それを味噌汁に入れて食べるのです。苦しい生活でしたが子供だった妻は頓着せず、学校の同級生とともに野山を駆けて遊び回っていたそうです。
特に学校の傍を流れれる鏑川(カブラ川)は格好の川遊びの場所で、家内は流され溺れかかったことがあったそうです。
その下仁田小学校の同級会が数年前にありました。家内を関越道路と信濃道路を経由して車で送って行ったのです。そんな様子を写真に従ってご説明いたします。
1番目の写真は昭和22年(1947年)に撮った下仁田小学校4年2組の家内の同級生達の集合写真です。小さくてよく見えませんが、当時の小学生は貧し気な身なりながら希望に溢れた活き活きした表情をしていたことに驚きます。この集合写真に写っている幾人かがの数年前の同級会に集まったのです。茫々、79年後の同級会です。
2番目の写真は現在も同じ場所にある下仁田小学校の校門と校舎の写真です。裏の方へ回ってみると清潔そうな給食センターが建っています。毎日栄養士が考え、美味しい給食を子供達が食べているのです。終戦前後は小麦粉か芋が主食でした。
3番目の写真は家内が溺れかかった鏑川の深みです。この上流の浅瀬で遊んでいましたお転婆の家内が遊びに夢中になり過ぎて流されたようです。3歳上の姉がこの岩の上から跳びこんで助けてくれました。ここは現在、青岩公園になっています。
4番目の写真は家内の一家が疎開していた家の隣の清泉寺です。このお寺の境内は家内の遊び場でした。当時は神社やお寺の境内は子供達が走り回る遊び場でした。
5番目の写真は下仁田町にある妙義山の写真です。
同級会をしている間、私自身は暇です。そこで下仁田町ジオパークを見物して時を過ごしました。古代の地層が露出し興味深い地形になっています。風穴などもありました。
 
下仁田町は山に囲まれた静かな町です。特産品は美味しい下仁田ネギとコンニャクです。それから奥の神津牧場のジャージー種の牛の乳製品です。
 
このように79年経過しても家内を暖かく迎えてくれる下仁田の人々に感謝しています。下仁田を私の故郷のように想うこともあります。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏になると感動する冷蔵庫と冷凍技術の進歩」

2024年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、夏になると感動することがあります。冷蔵庫と冷凍技術の進歩です。戦後の日本の技術革新の成果です。おかげで私どもの暮らし方が随分と変わりました。
戦前に家庭の冷蔵庫と言えば断熱材の木で出来た箱で中の上の段に大きな氷を入れ下の段に食品を入れておきました。しかし戦後、冷凍技術が次第に進歩して安価な冷蔵庫が出来るようになったのです。
気体を圧縮して急に膨張させると温度が下がる原理を利用したのです。しかし気体を圧縮すれば温度が上がります。温度が上がった部分を外気で冷やし、温度が下がった部分を冷蔵に利用するのです。文章で書けば簡単そうですが、温度が上がった部分と下がった部分を分離するのが技術的に難しいのです。この困難を克服したのが現在の家庭用の冷蔵庫です。
中の上の段は氷が出来る氷室なっていて下が食品を冷蔵するスペースになっています。
上の段の氷が出来る氷室を大きく作り車に積んだものが冷凍車です。列車に積んだものが冷凍貨物列車です。
従って野菜や魚肉を新鮮なまま遠方から近所のスーパーや商店まで届けることが出来るのです。
一例として近所のある鮮魚店に並んでいる活きの良い魚の写真を示します。写真は小金井の駅前の魚屋で自分で撮ったものです。
このような写真を撮りなが私が愕然としました。ひどく驚いたのです。終戦後の魚屋は大変臭かったのです。魚の腐った臭いがフンプンとしていました。それが驚いたことにまったく無臭なのです。無臭なので隣には肉や野菜が何事も無かったように静かに並んでいます。感動します。
こんな事情なので私の趣味は魚屋で活きの良い魚の姿を眺めることになりました。活きの良い魚の姿を見ると何故か幸せな気分になるのです。
戦前、戦後に塩釜漁港に近い仙台で育ったせいでイワシやニシンを毎日のように食べたせいです。イワシやニシンは塩着けで活きが悪いものでした。氷が無くて塩着けしか出来なかったのです。当時は肉が貴重で魚しか食べれなかったのです。
ですからこそ活きの良いいろいろな魚の姿を眺めると感動してしまうのです。

この私の趣味は幼い頃に魚をあまり食べなかった家内には理解しにくい趣味です。家内は利尻コンブや三陸のワカメを買って喜んでいます。
趣味ですから外国に行っても魚屋を見に行きます。圧巻はバンクーバーやシアトルの魚市場、フィッシャーマンズ・ワーフでした。売り場の規模が大きくて種々の魚が無造作に並んでいるのです。感動ものです。
アメリカではキャット・フィッシュというナマズを何度も食べました。白身で上品な味です。キングサーモンもよく食べました。
ドイツに住んでいた頃は、淡水のマスやドイツ鯉やウナギもよく食べました。水桶に生きたまま売っているのです。ニシンやキングサーモンも美味しかったです。
 
それにしても日本で売っている魚の全てが活きが良いのです。冷凍運送技術の驚異的進歩が活の良さを保っているのです。技術の進歩に感慨無量です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏が来ると思い出す日本の敗戦と激動の時代」

2024年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の歴史で徳川幕府の成立や明治維新は大きな歴史の転換でした。それらに匹敵する歴史の転換は1945年の日本の敗戦でした。軍国主義の国がいきなり民主主義の国になったのです。その時代はまさに激動の時代でした。戦前生まれの高齢者はみなこの激動の時代を体験しています。
1945年の8月15日に終戦になりました。ですから夏が来ると思い出すのは日本の敗戦です。
私は当時仙台市に住んでいて向山小学校の3年生でした。
以下に、敗戦という激動の時代の私の体験を書いてみたいと思います。
まず仙台の街の様子です。戦争中は、まだら模様に色を塗った建物があちこちにありました。アメリカ機の爆撃から逃れる迷彩なのです。そして繁華街の国分町には制服制帽の軍人が沢山歩いていました。それが8月15日の敗戦とともに皆消えてしまったのです。街は一面焼け野原となり、壊れたビルがあちこちにポツンと立っていました。
そしてしばらくすると海外からの疲弊した復員兵が街に溢れました。白衣を着た傷病兵がギターを弾きながら物乞いをしていました。駅近くにはヤミ市が立ち飢えた人々が群がっていました。
私が通よっていた向山小学校でも敗戦で急にいろいろな事が起きました。
石で出来た立派な正門にかけてあたった「向山国民学校」の看板がすぐに「向山小学校」に変わりました。教科書はわら半紙に戦前の文章を印刷した紙の束でした。ちゃんと製本してませんでしてませんでした。
そして戦前の軍国主義的な部分を墨で消したのです。墨で消す部分は先生が教えたのです。私どもはところどころが墨で消えたわら半紙の束を教科書として使っていたのです。
小学校の校庭には立派な奉安殿が建っていました。中には天皇陛下の教育勅語がしまってありました。祝日には教育勅語を校長がうやうやしく朗読するのです。
この奉安殿も教育勅語も消えて無くなりました。多分アメリカの占領政策で無くなったのです。
先生は軍国主義を批判し民主主義を教え始めました。それは日本の歴史の転換でした。軍国主義が急に民主主義になったのです。民主主義の教育はその後の新制中学でも続きました。
敗戦後の激動の時代は深刻な食糧難の時代でした。戦争中は統制もとれ少ないながらも米の配給がありました。それが敗戦と共に途絶えたのです。山野に生えているハコベ、ヨメナ、カンゾ、スカンポなどを採ってきて食べました。ダイコンの葉もサツマイモの葉も食べました。どれも不味かったものです。
米は田舎に買い出しに行きました。三食はお粥や雑炊でした。味噌汁に小麦のダンゴを入れたスイトンをご飯の代用食として食べました。
食糧難のことを書くともっと酷いことが沢山ありますが悲しくなるので止めます。
今日は日本の敗戦という激動の時代の私の体験を書いてみました。
添付の写真は終戦直後の宮城前の光景、買い出し列車、ヤミ市の写真です。写真の出典は、 https://kirigami.hatenablog.jp/entry/70205741 です。
 
それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は終戦直後の宮城前の光景です。人々が自分達の努力が足りなくて戦争に負けたことを昭和天皇へ謝っているのです。
2番目の写真は買い出し列車です。列車はいつも満員でした。
3番目の写真はヤミ市の写真です。

「夏の海辺と山の風景」

2024年07月20日 | ブログ

夏の海辺と山の風景です。
夏といえば海水浴と登山を楽しむ人が多いと思います。そこで夏の風景の写真をお送りいたします。
写真はインターネットからお借りしました。


「元気が出る富士見高原花の里の写真」

2024年07月20日 | 写真
暑いと何となく体を動かすのがおっくうになります。今日も朝から太陽が照りつけて暑い日になりそうです。
そこで元気が出る花園の写真をお送りいたします。標高1250mの富士見高原花の里です。

ここに示した写真は「富士見高原花の里の写真」を検索してインターネットにある多くの写真から選びました。
富士見高原花の里の住所です。
〒399-0101長野県諏訪郡富士見町境12067
中央道・諏訪南I.C から約15分
中央道・小淵沢I.C から約8分

「白鳥は人に懐く、仲良くなった不思議な体験」

2024年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
白鳥は人に懐く野生の鳥のようです。今日は私自身が白鳥一家と仲良くなった不思議な体験をご紹介したいと思います。
日本で見られる白鳥は冬になると遥々シベリアのアムール河の河口付近から飛んで来ます。しかし幾羽かの白鳥は日本に棲みついています。春になってもシベリアに飛んで行かないのです。
私が霞ヶ浦でヨットをしていた頃、そこで白鳥の4羽の一家と仲良くなったのです。それは不思議な体験でした。
白鳥は霞ヶ浦だけでなく猪苗代湖や屈斜路湖など全国の湖や川に沢山来ます。白鳥のいる風景は日本の冬の風物詩です。
さて仲良くなった4羽の一家は夏になってもシベリアに帰らないで霞ヶ浦にとどまっていたのです。
当時私は土浦港にヨットを係留していました。その係留していた岸壁から湖沿いに600mほど歩いた芝生のところに2007年の春から白鳥4羽がいたのです。
 
1番目の写真は2羽の親の白鳥の写真です。子供2羽はすでに巣立って沖に遊びに行って姿が見えません。2007年の晩秋に撮った夫婦の白鳥です。
白鳥は草食性なので岸辺の草を食べていました。
この写真に草原の向こうに黒っぽい堤防のようなものが写っていますが、そこは浮島になっています。4羽の白鳥一家は夜になると寝る浮島です。野犬や野良猫の行けない安全なねぐらです。
白鳥の夫婦は離婚なしで一生そいとげるそうです。成程、2羽の大きな白鳥の夫婦が何時も仲良くしています。人間に慣れていて、傍に行っても平気です。何度も白鳥の夫婦の傍により話しかけて遊んでいました。この白鳥一家とはは2007年12月から2013年と末まで6年間仲良くしていました。
私どもが沖でセイリングを楽しんで係留する岸壁に帰ってくると4羽の白鳥がお帰りと言って迎えてくれます。
2番目の写真はそんな4羽の白鳥をヨットの上から撮った写真です。
好奇心が強くて船の傍に寄ってきて何か話しかけてきます。残念ながら白鳥語は理解出来ないので、何を言っているのかは分りません。
ある時ヨットに泊まりました。そうしたらその夜にこの4羽の白鳥が遊びに来ました。
3番目の写真はその時の写真です。家内が手を伸ばしてパンを食べさせています。
キャビンの中で作った夕食を食べた後で、後ろの甲板で夜景を楽しんでいたら来たのです。いろいろ話しかけると分かったように首を振ります。それでつい話し込んで1時間以上も一緒に居ました。
さて上で「4羽の白鳥一家」としきりに書きましたが、それは夏と秋に間だけで晩秋から初冬になると親鳥だけの2羽になってしまうのです。
子供の2羽は毎年親を離れてシベリアのアムール河の河口付近に飛んで行ってしまうのです。
夫婦の白鳥だけが残って毎年2羽ずつ子供を育ていたのです。
私は2011年、75歳の時ヨットを止めました。霞ヶ浦へも行かなくなりました。しかしあの4羽の白鳥一家が気がかりで2013年11月に車で霞ヶ浦に行きました。白鳥一家が巣にしていた浮島の傍に行ったのです。
そしたら同じ草原に4羽の白鳥一家が居たのです。4羽の白鳥一家に近づくとただ小首をかしげてくれるだけです。それが久しぶりに会った私への挨拶なのでしょう。
あの白鳥の夫婦に最後に会ったのは2013年です。その後も子供を育てて元気にしていると思っています。それにしても美しい白鳥一家と仲良くなったのは不思議な体験でした。
 
今日は私が霞ヶ浦でヨットをしていた頃、白鳥の4羽の一家と仲良くなった不思議な体験をご紹介しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)