goo blog サービス終了のお知らせ 

後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「あるドイツの友人の旅立を悲しむ」

2025年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は後期高齢者になると友人たちが一人一人と旅立って行きます。自分と同じ位の年齢の友人が先に逝ってしまうのは淋しいものです。ドイツの友人のグーデナウさんが2019年に亡くなりした。
彼との交友の思い出を書きます。冥福を祈りつつ書きます。
彼と最初に会ったのは1970年にドイツ西部のアーヘン工科大学を訪ねた折でした。アーヘン工科大学には鉄冶金の研究で有名なシェンク教授がいたので憧れていたのです。しかしシェンク教授は引退してしまって会えませんでした。その代わり私を暖かく歓迎してくれたのがグーデナウさんだったのです。彼は私と同じくらいの年齢でしたので自然と友情が生れたのです。

1974年に再びアーヘンを訪問したときは彼は自分のスポツカー、ポルにシェに私を乗せあちこちに連れて行ってくれたのです。
まずアーヘン市内の古代ローマの遺跡へ案内してくれました。アーヘンに近いベルギーへも観光に連れて行きました。
そして彼の実家に泊まり掛けで招待してくれたのです。
両親はもういませんでしたが工場経営者だった父の思い出を聞きました。

そんな縁で私の大学の研究室の雀部実さんをアーヘン工科大学へ招聘してくれたのです。
その後、鉄鋼会社の日本鋼管がグーデナウさんを顧問として日本に招いたのです。
グーデナウさんの日本滞在中は私の研究室によく出入りして、若い大学院生たちと一緒にビールを飲んだのです。
特に博士課程の板谷宏さんとはとても親しく交わっていました。

ある時はグーデナウさんと研究室の若い人たちが甲斐駒岳の麓の山林の中の私の小屋にも来てくれました。
麓の酒屋さんに頼んで小さい木の樽に詰めた生ビールを私の小屋まで運び上げて貰ったのです。
それは星の美しい夏の夜でした。あの時の木の樽の生ビールの美味しかったことが忘れられません。
私の家にも何度か遊びに来ました。大柄な体格で陽気な性格でしたので日本人の友人も沢山出来たようです。

グーデナウさんは日本語が出来ませんでしたが日本人に分かり易い英語でゆっくり話してくれたのです。
その後、私は何度かドイツに行ったときはアーヘンのグーデナウさんを訪問しました。その頃はかつてのシェンク教授の後継者の教授になっていました。
もう随分前に私も大学を引退し、久しくグーデナウさんと会っていませんでしたが彼の友情を終生忘れません。

今日の挿し絵代わりの写真は彼の実家の庭で咲いていたドイツの夏の花々の写真です。写真の出典は、https://jp.123rf.com/photo_82873405_ドイツの夏の中でバラの芳香花.html?fbclid=IwAR22SMycwFa8dViVnJnI73y2tcPQiftH5q7cbmmW0dNPmfHmt7KKUgby35Q です。

さて高齢者の皆様にも先立たれる友人達の思い出が沢山あると存じます。こうしてその思い出を書くのも供養の一つの方法と思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「夏になると思い出す仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島」

2025年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
昔はテレビも無く夏の娯楽と言えばハイキングや海水浴だけでした。海水浴の思い出は仙台の近くの荒浜、菖蒲田浜、桂島や宮戸島の思い出です。
今日は海水浴の思い出を書いてみようと思います。
私が育った所は仙台でしたので海水浴と言えば仙台から近い荒浜か菖蒲田浜でした。とにかく夏になると何度も行きました。少し遠方では松島湾の桂島や宮古島へ行ったこともあります。
足が焼けるような砂浜を歩いて波打ち際に立つと冷たい透明な海水が足を洗い、心地良いものでした。
夏の日の楽しい思い出は人それぞれ沢山あると思います。
そして夏の果物と言えばスイカとマクワウリです。
夏は子供にとっては天国です。夏休みが長いうえに、親たちもお盆のころ休暇をとり、よく家族旅行に行きます。
夜になると、現在は無くなりましたが蚊帳というものを吊ります。蚊帳に入ったり出たりして遊んだものでした。
キンチョーの渦巻き形の蚊取り線香の煙の匂いが懐かしいです。
夏になると楽しかった子供のころをいろいろ思い出します。
しかし楽しい思い出だけではありません。夏の大空襲で仙台市が一面の火の海になった光景を思い出します。そして、じりじり照りつける太陽の下で玉音放送を聞いたことも忘れません。

年老いた現在は楽しいことを思い出します。

今日の挿絵の写真は以前に海水浴に行った所の現在の写真です。みな昔海水浴に通った場所です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は宮城県宮戸島の遠景です。
2番目の写真は宮城県菖蒲田浜です。

3番目の写真は松島湾の桂島の海水浴場です。
4番目の写真はは宮城県宮戸島の月浜の写真です。

「夏でも涼しい北海道の写真」

2025年08月18日 | 写真
北海道は夏でも涼しいといいます。そんな写真をお送りいたします。
写真の出典は、https://hokkaidolikers.com/archives/57458 です。


「残暑です」

2025年08月18日 | 日記
立秋が過ぎてのも猛暑が続いています。
謹んで残暑お見舞い申し上げます。


「立秋が過ぎても猛暑が続く今年の夏]

2025年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
立秋が過ぎれば少しは涼しくなると思っていたら今年は相変わらず猛暑が続いています。立秋とは何でしょうか。あらためて調べてみました。
立秋とは秋の気配が立ち始める日です。初めて秋の気配が感じられる日です。今年の立秋は8月7日でした。夏至と秋分の中間です。
二十四節気が成立した中国内陸部は大陸性気候のためこの頃には徐々に涼しくなり始めます。しかし海に囲まれた日本列島は立秋を過ぎてもしばらくは猛暑が続くのです。
それでも立秋の後の暑さを「残暑」といい、手紙等の時候の挨拶などでは「残暑」が用いられます。この日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すことになるのです。
以下に2025年から2030年までの立秋の日を示します。
2025年8月7日

2026年8月7日

2027年8月7日

2028年8月6日

2029年8月7日

2030年8月7日







今日は立秋とは何かを説明しました。立秋が過ぎても猛暑が続く今年の夏です。はやく涼しい秋が来るように祈っています。

添付の写真は晩秋のすすき野の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






「夏の花々の写真と「秋立つ」という季語」

2025年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝は夏の花々の写真を見ました。そして「秋立つ」という季語を用いた俳句を読んでみました。秋がはやく来るように祈っています。
秋がはやく来るように祈りながら幾つかの俳句をご紹介いたしま

秋立つや雨後の夕ベは樹も匂ふ    田口泡水

秋立つや軽井沢にて購ふ髪飾り    柴田蓉子

秋立つや残り風鈴鳴りやまず     永野秀峰

身ほとりに物を少なく秋立ちぬ    田中藤穂

川波の縹渺として秋立てり     斎藤道子

灯台の白さに風の秋立ちぬ     須藤常央

秋立つや山に小さな美術館      前田達江

熊笹の鯖街道に秋立ちぬ      大島翠木

秋立つや蝉声はたと止むあした    久保晴子

以上は季語、「秋立つ」の句集(http://www.haisi.com/saijiki/akitatu.htm)より。

「秋たちぬ」とは美しい言葉です。秋風が吹き清涼の季節が始まるという情感が込められた言葉です。

以下に夏の花々の写真をお送りします。
はじめの2枚は自宅の庭で撮ったものです。残りの3枚は三鷹市緑と花の広場で撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツの夏祭り、バイロイト音楽祭」

2025年08月17日 | アート・文化
ワーグナーの生誕地、バイエルン州のバイロイトで毎年7月から8月にかけて開催される夏祭り、バイロイト音楽祭はドイツ国民にとって最も高貴な夏祭りです。

この夏の音楽祭はワーグナー自らが「ニーベルングの指環」を上演するために創設したもので 7月25日から8月28日に渡り、約30公演が行われるのだそうです。
チケットは毎年争奪戦で、約2時間でチケットが完売してしまうそうです。
ドイツといえばベートーベンやバッハ、ブラームスにシュトラウスなど、数多くの天才を輩出しています。
 

「夏のフィナーレ、8月下旬の山形新庄まつり」

2025年08月17日 | 写真
毎年8月24日~26日の3日間開催され、圧倒的なスケールで、見る者を魅了する新庄まつり。新庄の夏は、まつりの熱狂でフィナーレを迎える。

その歴史は古く、今から260年以上前の江戸中期までさかのぼります。宝暦6年(1756年)、時の藩主・戸沢正のぶ(言べんに甚)が、前年の大凶作にうちひしがれている領民に活気と希望を持たせ、豊作を祈願するため、戸沢氏の氏神である天満宮の祭典を領内あげて行ったのが起源とされます。
https://yamagatakanko.com/festivals/detail_2991.html

「東京のカトリック高円寺教会の年間第20主日のミサ」

2025年08月17日 | 日記
今日は東京のカトリック高円寺教会の年間第20主日のミサにインターネットをとうしてあずかりました。

今日のミサの写真をお送りいたします。

住所 〒166-0003 東京都杉並区高円寺南2-33-32 



湖の岸辺に別荘のような宿泊所を持つ方法

2025年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
山中湖から見上げた富士山は絶景です。青い湖水の上に雪を戴き高く聳える山頂が美しいのです。そしてなだらかに下がっている稜線も悠然としています。
この山中湖の岸近くに何時も一隻のヨットが停泊しています。
1番目の写真がそのヨットです。何十年も時が止まったよう山中湖の同じ場所に停泊しています。
この位の大きさのヨットの船室には炊事道具と寝室が付いています。水洗トイレもあります。
自分で料理をして星空の下のデッキでビールを飲むことが出来ます。夜が更けたら小さい寝室に潜りこめます。つまり湖に浮かんだ別荘です。
ヨットは帆走の快適さとスリルを楽しむ趣味です。しかし同時に湖畔の小さな別荘のようにも使えるのです。

今日はヨットを小さな別荘のように使う方法をご紹介したいと思います。
霞ヶ浦の岸壁に全長26フィートのヨットを23年間係留して別荘のように使った体験記です。自分のヨットに泊る趣味の話です。
2番目の写真は私のヨットを後から撮った写真です。船尾が低く、湾曲した台になっています。
台の上面が水面すれすれに出来ていて水中へ飛び込んで泳いだ人が水中から船の上に簡単に上がれるような構造になっています。遊びの為の台ですのでプレイ・デッキといいます。
ヨットに泊まる時は乗り降りが容易なように後ろ向きに係留します。

さて次はヨットのキャビンの中について説明いたします。
ヨットの船体の中は全て空洞になっています。3ケ位の小さな部屋に区切ってあります。前甲板の下は寝室、中心がメイン・キャビンで炊事場と食堂、後甲板の下の左右は細長いカプセルホテルのような構造で左右に一人ずつ寝ることが出来ます。

さてヨットの楽しさの一つは料理を作りデッキの上に持ち出して食事したりビールが飲めることです。
3番目の写真は炊事用の2口コンロです。燃料はプロパンです。そのボンベはデッキの椅子の下に収納してあります。ガス漏れで起きるガス爆発を防ぐために船室にはボンベを収納しません。
4番目の写真は調理台(右)と流し(左)の写真です。
料理に使う水は下方に蛇口のついた水入れ(中央)を満杯にして自宅から持っていきます。
流しの排水は船底に付けてある排水パイプから水中へ排出します。
コンロと流しと料理台さえあればどんな肉料理も魚料理も出来ます。
料理台に面してガラス戸のついた戸棚があり食器が入れてあります。鍋やフライパンは別の戸棚です。包丁や切り板や料理道具、そしてナイフやフォークや箸などはガスコンロの下の引き出しに分類してしまってあります。
パーティなどをするときはビーフシチューやオデンの煮込みを作ります。それにオードブルの盛り合わせをつけて乾杯します。シャンパンがあれば上々です。このような炊事道具がヨットの中についているのです。
5番目の写真は作った料理とシャンパンの写真です。招いたお客さんがシャンパンを持って来てくれました。テーブルの周りには最大7人が座れます。
さてキャビンの中での生活を快適にするために欠かせないのが水洗トイレです。
6番目の写真の真ん中に縦に光っているステンレスの棒はマストの下部構造です。その右に見える入口と白い壁が水洗トイレのある小部屋です。小さい電動水洗トイレがついていました。白い壁の上の方には丸い小さなキャビン灯がついています。
マストの左奥は前甲板の下に広がっている寝室で、大人2人が寝ることが出来ます。
7番目の写真はデッキの上でビールを飲んでいたら遊びに来た白鳥一家の写真です。4羽の一家ですがこれには3羽だけ写っています。家内がパンを投げて遊んでいました。

このようにヨットの構造は寝泊まり出来るための最小の設備を完全に揃えています。
ですから湖の岸辺に係留していると別荘のように楽しめるのです。
23年間霞ヶ浦の湖畔に家内と一緒に何度も泊まりました。係留した岸壁は茨城健の県庁の港湾局が管理していました。幸運にも係留料が格安でした。茨城県に今でも感謝しています。
最後にヨットの楽しさをまとめておきます。
風を受けてセイリングする楽しさ、ジーゼルエンジンで霧の海をゆっくり走る低音のエンジン音の楽しさ、流線形の船体を美しく塗りあげる楽しさ、室内の木製の床や壁にニスを塗る楽しさ、キャビンの中で炊事をしてパーティをする楽しさ、ゆっくり流すように巡航し海鳥や冬鳥を観察する楽しさ。とにかく色々な楽しさがあります。
そして意外に多くの人々がヨットを別荘がわりに使っているのです。船を沖に出すのは危険な上に人数も揃えなければいけません。
そんな理由もあるでしょう。独りでキャビンの中で遊んでいる人が多いものです。
私は8年前の75歳でヨットの趣味を止めました。26年間ほど続けて来ました。
今振り返って考えてみるとどうも別荘がわりのように使って来たような気もします。
家内もよく一緒に泊ってくれたことを感謝しています。楽しい趣味でした。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘

「三浦半島の魅力、剣崎、三崎港、城ヶ島、油壺」

2025年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
三浦半島は小さな半島なのでご存じない方もいると思いますので、まず地図を示します。

1番目の写真は三浦半島の地図です。この地図の出典は、三浦半島三浦半島マップ (rakuten.ne.jp) です。
三浦半島の西側の相模湾の海岸は風光明媚なので今日は突端の剣崎と西海岸の三崎港、城ヶ島、油壺などを写真でご紹介したいと思います。
剣崎、三崎港、城ヶ島、油壺という観光地を巡る小さな旅です。2012年春の日の旅でした。
まず三浦半島の突端にある剣崎灯台を訪れました。剣崎は1番目の写真の三浦半島の地図の城ケ島の右上にある半島の突端の岬です。
東京湾に出入りする航路における要所の一つで、明治5年に剱埼灯台が造られ現在も使用されています。
剣崎灯台には車が入る道がありません。細い舗装道路を怖々走って行ったら300m位手前に農家が経営している有料駐車場がありました。観光客はそこから徒歩で灯台まで登ります。家内が元気良く写真を撮ってくれました。

2番目の写真は剱埼灯台です。
剣崎はとても広い平らな台地で、旅したのは春でしたが一面に大根が植えてありました。
さて次はマグロで有名なの三崎港に車を走らせました。マグロが美味な「うらり」という名前の大型店舗があり、いろいろなマグロの部位を売っています。

3番目の写真は昼食としてマグロ刺身定食とマグロの「づけ丼」を食べた店です。マグロの味が格段に美味なのです。3種のマグロの刺身とマグロの角煮、味噌汁、ご飯、漬けもの付きで1570円でした。
「うらり」という大型店ではマグロの頬肉、目玉、カマ肉、頭の頂点の肉、そして赤身、中トロ、大トロなどを売っています。
この大型店の前には綺麗な木造桟橋があり、モーターボートやヨットでマグロを買いに来る人も多いのです。
昼食後は橋を渡って、城ヶ島公園へ行きました。
昔は観光客は島の三崎港の対岸の観光地に必ず行ったものです。昔風の小さな商店が沢山ある騒がしい場所でした。
そこにも寄ってみましたが、2012年には既にシャッターの降りている店も多く、さびれていました。時代の移り変わりです。
磯の岩の上にあった白秋の「雨は降る、降る、城ヶ島の磯に、利休鼠の雨が降る・・・」という碑も大橋の下にできた白秋記念館の前に移されていました。
城ヶ島の後は又橋を渡って油壺へ行きます。油壺の突端には有名なマリンパークという水族館があり、京急油壺ホテルもある観光スポットです。
油壺半島はヨットの係留地としても有名です。西の入り江には小網代湾があり、シーボニアマリーナがあります。私自身も26年間、ヨットの趣味を持っていましたのでシーボニアへは何度も行ったことがあります。

4番目の写真は油壺半島のヨットの係留地です。
さて油壺の観光が終われば三浦半島の先端部分の旅も終りです。後は佐島、森戸海岸、一色海岸、葉山しおさい公園、鐙摺港を訪問します。

5番目の写真は佐島から見下ろした漁港の風景です。のどかな風景です。

6番目の写真は佐島のヨットのマリーナの陸置きのヨットの風景です。このようなヨットのマリーナは油壺、小網代湾、葉山などにありいずれも溢れんばかりのヨットが陸置きされています。

7番目の写真は森戸神社から撮った富士山です。三浦半島の西海岸の魅力です。車窓から遠景の富士山が所々で青い海の向こうに見えます。

さて写真で示したように三浦半島の風景はとても良いのです。三浦半島への旅の魅力です。食事のことは省略しましたが、洒落たレストランが葉山にも森戸にも佐島にも沢山あります。
今日は三浦半島の魅力をご紹介しました。剣崎、三崎港、城ヶ島、油壺などを巡る旅の思い出でした。
三浦半島は冬も温暖なので四季折々何時行っても素晴らしい所です。皆様もお出掛けになっては如何でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「疎開先の農村に咲いていた夏の花々の写真」

2025年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
疎開先の農村に咲いていた夏の花に似た花を探しました。
農村とは大げさですが、東京都に隣接する埼玉県の所沢市のはずれの畑作地です。 
花の好きな人の畑です。四季折々、何時行っても畑の隅に花々が咲いています。 夏の花の紅蜀葵、鹿の子百合、カンナなどの花々の写真をお楽しみ下さい。


「人それぞれの終戦直後の思い出」

2025年08月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は人それぞれの終戦直後の思い出のある日です。
80年前の8月15日は日本が無条件降伏した日です。終戦記念日です。
 人にはそれぞれの思い出があります。私も毎年8月になると終戦直後のことをいろいろ思い出します。 
私は男3人の兄弟の長男でした。その3人だけで宮城県北部の農村に疎開してました。7月10日の空襲で仙台が焼け野原になった後に疎開したのです。 8月15日が来ると自分が聞いた玉音放送を思い出します。
真夏の太陽が照りつける田舎の国民学校の校庭で聞きました。 雑音が大きくてよく聞き取れませんでしたが、敗戦を告げる昭和天皇の悲しそうな声が途切れ途切れに聞こえました。 
先生が敗戦だから今日は家に帰れと言います。 田圃のあぜ道をつたい歩きしながら疎開先の農家に帰りました。
その夜はドジョウがいっぱい入ったスイトン汁がでました。これが80年前の私の終戦の日でした。 
戦前の昭和11年に生まれた私は毎年、終戦の日が来ると太平洋戦争のことをいろいろと思い出します。 7月10日の故郷の仙台の大空襲の真っ赤な炎、一面の焼け野原の光景は心に焼き付いています。
そして戦後の疲弊しきった日本、殺伐とした社会、食糧難の戦後、それらは忘れようとしても忘れられません。 
第二次世界大戦で日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人もヨーロッパ戦線での死者も含めて40万人も死んだのです。 
朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。 
毎年8月になると 第二次世界大戦のことを考えます。そしてこの平和な状態に感謝します。この平和が永遠に続くように祈ります。 

今日の写真は終戦直後の風景です。写真は、「終戦直後の風景写真」を検索してインターネットにある数多くの写真から選びました。 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「南の国、沖縄の美しい花」

2025年08月14日 | 写真
南の国、沖縄の美しい花の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://bluegreen.jp/2247/ などです。
1番目の写真は竹富島の赤いユリです。
2番目の写真は竹富島のピンクのブーゲンビリアです。
3番目の写真は竹富島の黄色いキンレイジュです。
4番目の写真はナンバンサイカチです。


「沖縄に行くとお世話になる水牛の写真」

2025年08月14日 | 写真
沖縄に行くと水牛が引く牛車に乗ります。遠浅の海の上をゆったり渡ります。
御者が三味線をひいて土地の民謡をうたいます。嗚呼、沖縄だなあと思いながら海の上をゆったり渡ります。それを思い出しながら水牛の写真をお送りいたします。