後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真

2018年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日の主日のミサが10時から11時までありました。
司式はイエズス会の竹内修一神父さまがなさり、福音書の朗読は加藤 豊主任司祭さまがながなさって下さいました。
今日のミサの光景の写真をお送りいたします。

1番目の写真は福音書の朗読は加藤 豊主任司祭さまです。今日の朗読は「マルコによる福音」の13章の24節から32節まででした。

2番目の写真は説教をしているイエズス会の竹内修一神父さまです。竹内神父の説教はいつも知的で、しかも分かり易いのです。

3番目の写真は10月17日のミサの写真で、加藤 豊主任司祭さまが祈っている場面です。

4番目の写真は10月17日のミサの写真で、加藤 豊主任司祭さまがパンと葡萄酒はイエスの体と血に変化するように祈っている場面です。

5番目の写真はイエスの体に変化したパン片を信者へ配っている場面です。

今日は何故、私が カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真をご紹介するのかの理由を説明します。

その理由は、ミサは信者だけの秘密の儀式ではなく、一般に広く公開された儀式だということを知って頂きたいためであす。
信者でなくても誰でも自由に気軽に見学出来るのです。
勿論無料です。ミサの間に献金袋が回って来ますが、何も入れないで隣の人に回せば良いのです。気が向いたら100円位入れても良いのです。
カトリック教会の場所と日曜日のミサの時間は検索すると簡単に出て来ます。
教会に行ったら入り口の受付の人に「見学に来ました」と言って下さい。するとその日のミサの「聖書と典礼」と聖歌集と「お知らせ」をくれます。あとは自由に好きな席に座って見学すれば良いのです。聖歌を一緒に歌うと楽しくなります。
西洋の文化を深く理解するためにはミサの見学が重要だと思います。
カトリック教会の場所と日曜日のミサの時間は検索する手順を示します。
もし仮に貴方が札幌にお住まいなら、まず北海道のカトリック教会一覧を検索します。
札幌の貴方の家の近くの教会を見つけ、そのHPを検索します。
するとミサの時間と地図が分かります。
是非一度ためしに カトリック教会のミサをご覧になっては如何でしょうか?

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日本社会に溶け込んだキリスト教への誤解

2018年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教は日本の社会にいろいろな形で溶け込んでいてその独特な風景を示しています。
例えば結婚式は教会でしたり、クリスマスは多くの家庭で祝います。丁度、お正月を祝うように社会の習俗になっています。
すなはちキリスト教は、明治維新以前までの佛教、儒教そして神道を背景にした日本の伝統文化と混然一体となり、日本文化の一部として融合しているのです。
キリスト教の教えの「隣人を愛しなさい」は皆が知っています。「汝の敵を愛せ」という言葉も知っています。
「人間はパンのみで生きてはいけない」という教えも知っています。そして深いところで日本人の考え方に影響を与えています。
しかしその一方で、キリスト教は水と油のように日本文化と溶け合わない部分も持っています。日本人がキリスト教をなんとなく嫌いと思っているのです。
私はカトリックなので、ついキリスト教の話をよくします。
しかし日本人の本音は、「私はヤソは嫌いだ!アジヤやアフリカを植民地にしたような欧米人は嫌いだ!それに西洋文化は物質的で日本の伝統文化の美しい精神性に融合する筈がない!」というものでないかと思っています。
私はこれは浅い理解にもとずいた大きな誤解です。
それは悪い西洋人がキリスト教を無視して私利私欲のために植民地を作っただけなのです。
西欧人の悪行を全てキリスト教のせいにしていることことが大きな誤解の原因なのです。
植民地と言う悪いものを持っていた西洋人の手によって、キリスト教が日本へ紹介されたのです。ですから、キリスト教に対する誤解はある程度、自然な誤解です。

私はある時、3つのプロテスタント教会と日本正教会のニコライ堂を訪問したことがありました。
その結果、明確に理解した事があります。
それはキリスト教がある国を経由して日本に入ってくると、その国の良い文化も悪い文化を背負って入ってくるという事実です。
一番明確なのはロシア正教として聖ニコライが持ち込んだ正教会は、共産革命以前のロシア文化そのものを背負って来たのです。
アメリカ経由のプロテスタントはアメリカの自由主義と平等の文化を背負っています。
カトリックは産業革命に遅れたスペインやイタリーのラテン文化を背負いっています。
私は国々の固有の文化をそぎ落として、それぞれの宗派のキリスト教のみを比較してみたのです。
そうすると全ての宗派は全く同じように、イエスの教えを記録した福音書を一番大切にしているのです。

日本人がキリスト教を嫌うのは、ロシアの悪い文化や、ラテン文化や、アメリカ文化の悪い側面に違和感を感じているからなのです。
それが、「私はヤソが嫌いだ!」という発言になるのです。

最後に日本人の鶴田健次さんという牧師さんがアメリカのラスベガス市に在住日本人の為の教会を作った事実をご紹介しておきます。そのホームページ http://lvjcc.com/index.htm を是非ご覧下さい。
「日本人に福音書は理解できるか?」という問題へあるヒントを与えています。

結論です。
キリスト教を信じていることになっている欧米人が悪い行いをすると日本人はキリスト教が悪いと誤解します。
佛教を信じていることになっている日本人が悪い行いをすると欧米人は仏教がが悪いと誤解するでしょうか?
宗教に背き悪い行いをするのが人間なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮って来た多摩湖の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








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縄文時代の驚異的な社会組織と文化の発達

2018年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム
私の記事は長すぎるというコメントを時々頂きます。そこで今日は文章を短くして写真を主にして縄文時代の驚異的な社会組織と文化の発達をご紹介します。
まず縄文時代の村落の中心にあった大型の建物の写真をご覧下さい。

1番目の写真は200人以上の人が集会を開くことが出来る大きな広間のある建物です。
青森県で、縄文時代前期中頃から中期末葉まで存在した大規模集村落跡を復元したものです。

2番目の写真はこの大型の建物の内部の写真です。中に3人の現代人が立っていますので、建物の大きいことが良く分かります。
この縄文時代の大規模集村落は復元されてされていて誰でも見ることが出来ます。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/三内丸山遺跡 をご覧下さい。

3番目の写真はこの三内丸山遺跡を復元した村落の全体の様子です。遠方には白い青森市街と青い陸奥湾が見えます。
この写真の左にはこの村落の守り神の6本の大きな柱のある祭祀用の掘立柱構造物が写っています。
写真の中央には大規模集会所があり、その上には3棟の高床式の穀類貯蔵庫があり、栽培していた粟や植栽していたクルミやクリを貯蔵していました。
これら3棟の高床式の穀類貯蔵庫の後ろには家臣の大きな竪穴式の家と小さな家が並んでいて身分の上下があったことを示しています。
個人の家の跡は全部で、約780軒にもおよぶ住居跡が確認されています。
そしてこの村落には最大500人位が住んでいたと推定されています。
村長は武装した豪族と考えれば適切な理解と思います。
当時は食料難に陥った他の村落が襲撃して来るのを防ぐため石器の武器や棍棒で武装し、村落の周囲には環状の堀があるのが普通でした。
強大な村落に周囲の弱小村落が服従して現在の県の中の郡くらいの地域を支配する豪族も存在したと考えらえれます。
豪族は世襲制でしょうが、村落の社会組織はかなり高度に出来ていたと想像されます。
それは村落には住居区域、墓地、捨て場、宗教用の大型柱建物、貯蔵穴、土坑墓地、粘土採掘穴、盛り土、道路などが計画的に配置されていることから容易に想像出来ます。

その上、縄文人は粟やエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどを栽培していたのです。残念ながら生産性抜群の水稲だけは栽培していなかったのです。
三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しておりました。
これらは縄文時代の社会と文化が従来考えられていたものよりも格段に進んだものであることを示しています。
今日の話はこれでお終いです。

しかしその頃の縄文人の暮らしぶりを示す写真を数枚お送りします。
(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)

4番目の写真は男女の縄文人の服装を示しています。
柔らかい植物の繊維で織った肌着の上に鹿や猪のなめし皮で作った服を着ました。
勿論、季節によって服装は変わり、厳寒の冬には上の服装に更に毛皮の外套を着ていたと考えられます。

5番目の写真は縄文人がかなり使い込んだ「堀り棒」です。
山の土を掘って自然薯や食用にする根を採った道具です。あるいは住居の周囲に堅果類の木を植栽するときに植える穴を掘ったのかも知れません。原始的な農業用の道具です。

6番目の写真は植物の繊維で編んだ袋です。木の実採集の時に使ったり、小物入れにして使ったと想像できます。このような繊維製品や漆器も出土していて文化の高さを示しています。

7番目の写真は墓地の発掘現場です。楕円形に並んだ石の中心に墓穴が掘られ、人骨が埋葬されていたものと推定されています。
その他の出土品は、http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/photo/index.html に出ています。

8番目の写真は青森県全域で発見された縄文遺跡です。この時代は北海道南部でも縄文文化が栄えた時代で青森県と全く同じ土器などが多数出土しています。

こんなに発達した縄文時代もやがて後期の急速な寒冷化に遭遇したのです。その様子は厳密な学術調査の結果の、http://scienceportal.jp/news/daily/1001/1001041.html 説明してあります。

それにしても縄文時代は想像していたよりも遥かに文化程度も高く、社会の統治組織も出来ていたのですね。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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黄葉した樹々を眺めている、それが老境の幸せ

2018年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム
11月11日に「何も考えずに淡々と生きると幸せになれる」という記事を掲載しました。
その趣旨は次のようなものでした。
人間は自分の不幸の原因を考えて、その原因を取り除けば、幸せになれると考えます。しかしこの考えは決定的に間違っています。
ですから不幸の原因を考えることは無駄なことです。自分が幸福なのか不幸なのかも考えてはいけません。
そんな暇があったら山里の秋の風景写真でも見て、淡々と生きて行くほうが良いのです。
風景写真を見ている間は無欲なのです。ようするに淡々として生きているのです。
流れゆく日々を淡々と生きる。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きるのです。

このような趣旨の記事を掲載しました。幾つかのコメントを頂きました。
この記事のように淡々と生きることは意外に難しいという内容のコメントです。
もっともなコメントです。私も毎日淡々と生きてはいません。この世の煩悩に悩みながら生きています。
しかし若い頃とは決定的に違う生き方を発見したのです。
一日、24時間の中の10分でも20分でも無我の境地になれる方法を発見したのです。
10分や20分は短い時間ですが、その影響は長い時間のこります。深山の木霊のように残るのです。
無我の境地になる方法は幾つかあります。座禅も良いでしょう。仏像へ祈っても良いでしょう。
しかし私の無我の境地になる方法は大きな樹々の姿をじっと眺めていることです。

高い梢を風が静かに渡っていきます。秋の黄葉が秋の陽に輝いています。
樹々の足元の水場には住み着いているカモたちが泳いでいます。
ススキの穂が白くなって黄葉の中に見え隠れしています。
私は車から持ち出した椅子に座ってこのような風景を飽ずに眺めています。

このようにして流れゆく日々を淡々と生きています。
この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きています。

昨日、国立市の青柳北緑地で大きな樹々の姿をじっと眺めて、淡々と時間を過ごしてきました。
ここに示す写真は妻が撮りました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









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八王子いちょう祭りの3日前のイチョウの黄葉の写真と韓国の徴用工の問題

2018年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
八王子市のJR中央線の西八王子駅近くから高尾駅入口まで、ほぼ4Kmにわたる甲州街道(国道20号)の両側に、約770本のいちょう並木が続きます。
11月中旬になると一斉に美しく黄葉します。今週の週末の17日(土)と18日(日)には「八王子いちょう祭り」があります。
その3日前の昨日、黄葉の進行状態を見にいきました。雑に言うと約770本のいちょうの3割ほどは美しく黄葉していましたが、残りは緑のままでした。
以下の写真では黄葉が見事な樹の写真を示します。









5番目の写真は甲州街道を曲がって多摩御陵、武蔵野御陵へ行く参道のケヤキ並木です。

6番目の写真は多摩御陵、武蔵野御陵への「車止め」を入ると直ぐにある池の上の紅葉です。

7番目の写真も同じ池の上の紅葉です。ここは毎年紅葉が美しくなる場所なのでよく写真を撮りにきます。
さて「八王子いちょう祭り」この欄の2018年11月04日掲載の「イチョウの黄葉が圧巻、 八王子いちょう祭り」で詳しくご紹介してありますので詳細は省略します。
今週の週末の11月17日(土)と18日(日)です。

さて昨日、写真を撮りながら最近の韓国の徴用工裁判の判決のことを考えていました。
昔日本が朝鮮を領有していた時代に新日鉄系の会社で徴用工として働いていた高齢の韓国人へ、新日鉄が慰謝料を払うべしと韓国最高裁判所が最終判決を下したのです。
例によって日本政府は怒りました。何せ1965年の日韓条約で、日本は多額の賠償金を韓国へ支払い、韓国は全ての請求権を放棄したのです。
新日鉄が慰謝料を払うべきという韓国最高裁判所の最終判決をどのように考えるかは人それぞれです。
いろいろな感じ方を次に示します。
(1)また日本への無法な韓国側の嫌がらせが始まった。断固、拒否すべきである。
(2)原告は自分が応募して新日鉄系の会社で働いて給料を貰っていたので徴用工ではない。裁判そのものが無効です。
(3)朝鮮を併合した恨みは理解出来るので、日韓政府が話合い、妥協点を見つけるようにした方が良い。日米韓の団結は徴用工裁判よりも重要なのです。
(4)日本と韓国の国家間の日韓条約は個人の人権問題とは別です。従って韓国の請求権の放棄は韓国人の人権保護を要求する裁判は含まれません。裁判は自由で良いのです。しかし新日鉄は日本の会社なので韓国の法律に従う必要はありません。賠償金は払う必要はありません。

皆様は徴用工裁判の結果をどのように感じていますか?

私自身は日本人ですから上記の(1)から(4)まで全て理解出来ます。
特に(4)の人権と国家の権利の関係には強い関心があります。
韓国人の人権は日本人の人権と同じように重要なのです。
しかし韓国最高裁判所の最終判決は倫理的なものなので日本側に強制するのは大間違いです。
しかるに韓国政府は新日鉄側が判決に従わない場合は報復処置を取ると発表しているのです。
このような韓国の嫌がらせは永遠に続きます。それだけ朝鮮併合に対する怨念が深いのです。
韓国の憲法の前文に、朝鮮併合の後、李承晩らが上海に作った亡命政府が現在の韓国政府の始まりだと明記してあるのです。この憲法は韓国の学校でみんなが習うのです。
この前文を削除しない限り朝鮮併合に対する怨念が消えないのです。
実に悩ましい問題なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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縄文時代の少ない人口と豊かな食生活の実態

2018年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
縄文時代の人口は最大でも26万人でした。現在の都道府県の数は全国で50程です。ですから縄文時代は平均すると各都道府県に約5000人ほどの人間しか住んでいなかったのです。
それに対してイノシシ、シカ、海川の魚や貝は豊富でした。野生の木の実や果物も、そして食用植物も充分ありました。

今日は縄文時代の人口の変化をご紹介します。そして豊かな食生活などの生活の実態を記してみたいと存じます。信頼できそうな学術的研究なので、かなり縄文時代の生活の実態が明快に分かります。
縄文時代・弥生時代の人口数は遺跡数等からの推計されています。
その研究、http://honkawa2.sakura.ne.jp/1150.html によると、縄文時代の人口は単純な増加ではなく、早期(8100年前)・前期(5200年前)から中期(4300年前)にかけて急増した後、後期(3300年前)・晩期(2900年前)にかけて急減し、その後、弥生時代(1800年前、西暦200年頃)に入って、再度、急増しているのです。この様子を図に示します。

1番目の写真は縄文時代から現在までの日本の全人口の推移を示す図です。縄文時代や弥生時代の人口は学者の鬼頭 宏博士の推定ですので信頼しても良いと思います。
さて1万年前の日本列島の平均気温は現在より約2度低かったが、6000年前には現在より1度以上高くなったことが分かっています。
この結果、東日本は、ブナを中心とする冷温帯落葉樹林は後退し、代わってコナラ、クリを中心とする暖温帯落葉樹林が広がり、西日本はカシ、シイの常緑照葉樹林となりました。
この結果、木の実の生産性が高くなります。

こうした温暖化により東日本を中心に日本の人口は急増したと考えられています。
また氷河が溶けて海面が上昇し、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込み、奥東京湾などを形成したのもこの高温期のことです。これをいわゆる縄文海進と言います。
紀元前2300年のころ、日本には26万人が住んでいたと言われています。原始時代としては高度な狩猟採集経済を営み、自然の食料を最大限に利用していたと考えられています。
 住居跡などから割り出してみると、日本の人口密度は狩猟採集社会としては、世界一高かったとも言われています。
ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少するのです。それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少だったのです。
 原因は、気候変動で気温が下がり、食料供給量が激減したことです。
クリ、クルミ、ナラ、トチの実などの貴重な食料であった堅い木の実類が気温低下の影響を受けて激減してしまったのです。そして食料の供給量に合わせるように、人口はみるみる減っていったと考えられています。
またこの時代は、ほかに火山の噴火などの自然災害が多く、大きく人口を減らしたことも考えられます。
最大でも26万人の人口といえば、これが日本列島全土を使って生活していたと考えると、かなりの余裕の人口密度と考えがちです。
しかし次の様な学説を重要視すべきと思います。
 「当時の採集や狩猟や漁業の技術水準から見ると、すべての技術をフルに動員して増やせるところまで増やしたギリギリの人口だったのです。そんなときに、気候変動がやってきた。これが急激な減少の大きな原因となった」
 パンパンに膨らませた風船が一瞬で割れるように、大きく人口は減り、人口曲線は26万人というピークを描き縄文晩期には8万人まで減少してしまったのです。

さてこのような縄文時代の人々の生活の実態はどうだったのでしょうっか?
インターネットの上で縄文時代の生活の様子をいろいろ調べてきました。
資料は幾つもありますが、玉川学園の多賀 譲治先生の描いた、ゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが2つの点で圧倒的に優れていました。(そのURLは、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/index.html です。)

二つの点の一つは、多賀先生のHPは神奈川県にある羽根尾遺跡から出土した多数の土器、食料にした魚やイルカ、そして鹿や猪の骨から当時の生活の様子を学問的に推定している点です。
多賀先生の研究の誠実な様子は、縄文時代のタイムカプセル・羽根尾遺跡、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/haneo/ をご覧頂くと納得がいきます。
もう一つはHPにある絵画が楽しげに描いてあります。何故楽しげかというと描いている人が縄文人を尊敬しているからです。
この2つの原因でゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが傑出しています。
このHPでは縄文人の生活を、(1)海浜に近い場所に住んでいる場合、と (2)八ヶ岳山麓のように海から遠い内陸部に住んでいる場合の2つに分類して縄文人の暮らし方を説明しています。
この2つの場所の食べ物の違いは海の魚貝類とイルカやクジラが有るか無いかの違いだけです。
以下に内陸部の八ヶ岳山麓の縄文人の暮らしぶりを示す絵画をご紹介します。

2番目の写真は縄文人達が集団で土器を多量生産している様子です。
八ヶ岳山麓では非常に多数の土器が出てきます。その数は自分たちで使う数以上の多量な土器なのです。
土器の生産を仕事にしていた人々がこの2番目の写真のように多量の土器を生産していたに違いありません。土器を焼く燃料の樹木が山麓には豊富だったのです。

3番目の写真は縄文人がイノシシを仕留めている様子です。
現在でも八ヶ岳山麓には猪は多すぎるくらい棲んでいます。
冬山で追い詰めて、弓矢や槍で仕留めた猪はその場で解体し、肉と内臓と毛皮を背負って帰りました。毛皮は後でゆっくりなめして、敷物にしたり服に仕立てます。

4番目の写真は生活用具の木工品に漆を塗っている場面です。漆塗りは全国の縄文遺跡から出土します。漆の成分が付着した生活用具が出てくるのです。
八ヶ岳山麓には現在も漆の木が沢山茂っています。漆にする樹脂が簡単に採れたはずです。

5番目の写真は秋の終わりごろ冬越しの食料を加工、貯蔵している様子です。
絵の後の方に吊るしてある大きな魚は河川を登ってきた鮭のようです。塩漬けにして乾しています。手前の人々は何やら木の実のようなものの皮を剥いでいるようです。

6番目の写真は縄文人の男性の冬の服装を示しています。
肌着としては麻や柔らかい植物の繊維で織った着物を身につけます。その上に鹿や猪のよくなめした毛皮の外套を着ます。
足には毛皮製の靴を履いています。
手に持っているのは野獣を獲る棍棒か槍のように見えます。この姿で山野を走り回って鹿や猪を獲っていたのでしょう。
鹿や猪は一度落とし穴に落としてから仕留めていた場合もあったようです。
さて内陸部の縄文人の食物の一覧表をここで示しておきます。出典は、多賀 譲治先生のHPです。
「穀類・豆類」 アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・えごま・緑豆
「野菜類」 ごぼう・のびる・アブラナ・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・みょうが・しょうが・うど・たら・ふき
「果実類」くり・やまぶどう・きいちご・あけび・さるなし・またたび
「魚貝類」鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな・沢ガニ・川ガニ,などの魚類・甲殻類 、しじみ・たにし,などの貝類
「肉類」 いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・すずめ・つぐみ,などの獣や野鳥
「調味料・他」 醤(ひしお)・塩・甘草(かんぞう)・酢・魚醤(ぎょしょう)・酒・山椒・わさび

それにしても意外に豊かな食生活をしていたものです。しかし海や川の漁業も山の狩猟も厳しい作業でした。
深い森に分け入って木の実や食用植物を採集することは危険な仕事でした。
現在のようにスーパーに行けば何でも売っている時代ではありませんでした。
一家の主人の漁猟の上手さや野獣の狩猟の腕に家族の食生活がかかっていたのです。生活の厳しさが想像出来ます。
従って縄文時代の人口が頭打ちだったのです。それが弥生時代になって稲作が始まると一挙に59万人と急増したのです。
このように縄文時代や弥生時代は食料の生産性で人口が決まっていたのです。この状態は明治維新まで続いたのです。

現在の日本の人口は国内の食料の生産性とは関係がありません。それを幸せと感じるか危険と感じるかは人それぞれです。それにしても縄文時代を知るといろいろなことが考えられます。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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共産党独裁の中国の人との付き合いで注意すべき事

2018年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
中華人民共和国は1949年の建国以来、現在まで共産党の独裁国家です。怖い国です。
この怖い国へ私は1981年に初めて行きました。
下手なことを喋ると即逮捕され日本へ帰って来られないと言う人もいた時代でした。
私は緊張して北京空港に降りました。
この訪問にいたる経緯です。
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、彼が私を北京へ招待してくれたのです。
周氏は共産軍とともに天津市を占領し、天津市の行政に参加した人でした。彼は正真正銘の共産党員でした。
親しくなって一緒にビールを飲んだ時こんな話をしてくれました。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になるというような事を言います。
私は酔った勢いで共産主義の間違いを鋭く批判しました。彼は笑いながら黙って聞いていました。そしてついでに西洋の植民地主義の残酷さも批判しました。彼は笑いながら黙って聞いていました。
周さんはたった一つだけ言います。貴方は外国人だから共産主義の悪口をいくら言っても良いです。発言は自由です。
そんな会話の数日後、彼は私を大学の地下室へ連れて行ったのです。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。

ここで何が起きていたのでしょうか?
ちょっとだけ説明させて下さい。
1976年4月5日に第一次天安門事件が起きたのです。
北京市の天安門広場で、1月6日に死んだ周恩来追悼の為に大規模なデモがありました。
それを北京市当局が武力を使って鎮圧したのです。日本で有名なのは1989年の天安門事件ですが、それは中国では第二次天安門事件と呼ばれています。

さて第一次天安門事件はまだ存命中だった毛沢東一派によって鎮圧されましたが一般の人々はその後、何年間も周恩来追悼の為の行事を秘かに行っていたのです。
1981年に私が連れて行かれた大学の地下の部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていたのは秘密の追悼行事だったのです。

私は確信しました。中国人は人情が篤く中央政府が何と命令しようと人間らしさを失わなない人々だと確信したのです。彼等が心の中で感謝している政治家は劉 少奇、周恩来、胡耀邦などです。大衆の生活を少しでも良くしようとして失脚した政治家です。
このような事が分かった私は共産党独裁の中国は怖くなくなりました。
さて表題の・・・中国の人との付き合いで注意すべき事についてです。
それは満州国の建国について弁護しないことです。
宴席などで満州国の建国は中國人にとっても良かったと演説する日本人がいます。
満州の工業が近代化して重工業が発達したのは満州のお陰だと言うのです。
宴席につらなる中国人はにこにこして聞いています。
宴会の後で周栄章教授が私に耳打ちしました。「満州のことは言うな。中国人は他国に支配されるより飢え死にした方が幸せなのです」

日本人が言わなくても中国人が言ってくれるのです。
中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。
さて大変親しく付き合ってくれた周栄章教授は2004年に亡くなりました。
共産党独裁の中国の人との付き合いで注意すべき事は満州建国だけでなく日本の中国侵略を正当化する意見は言わない方が良いのです。なにせ2000万人以上の中国人が犠牲になったのです。日本人には語る言葉が無い筈です。

今日も挿し絵代わりの写真は昨年の11月に甲府の昇仙峡で撮ってきた紅葉の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
四五天安門事件(第一次天安門事件)
https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/
1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。1989年6月4日に起きた六四天安門事件(第二次天安門事件)と区別するため、第一次天安門事件ともいう。

事件発生後、四人組のひとり姚文元は『人民日報』に「反革命政治事件」として民衆の反乱とごまかして報道したが、かえって国民の怒りを買い、4月12日には人民日報本社に、「ある現場労働者民兵」の名で、編集長を「ゲッベルス」と揶揄し「驚愕すべきことだ!党の機関紙は堕落した!ファシズムのメガホンになり下がった」と書いた抗議文が送りつけられてきた。一方、四人組の江青は事件の報告を受けたのち興奮して、ピーナツと焼き豚とで祝杯をあげ、「わたしはいつでも棍棒で、反対する奴ばらをぶちのめしてやるわ。」と高言し周囲の顰蹙を買った。
事件後、鄧小平が責任を問われ全ての党職務を解かれ失脚。四人組が事実を曲げて毛沢東に報告したために、毛沢東は本当に反革命が起こったと勘違いし、その後の弾圧に結びついた。だが、四人組を批判する北京の人々の動きは中国全土に広がり、毛がこの年9月に亡くなったこともあって四人組は失脚することとなる。








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日本の2万年前の無土器、旧石器時代の人々の生活

2018年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
気候温暖で自然豊かなこの日本に人間が住み着き始めたのは何時の頃からでしょうか?
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは2万年、3万年前からです。それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。
そうして時代区分は以下のようなものが一般的です。
旧石器時代;  約4万年前ー 紀元前14000年頃 (16000年前)
縄文時代;   前14000年頃 – 前3世紀頃
弥生時代;   前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代;   3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代;   592年 – 710年
奈良時代;    710年 – 794年
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約14000年間(正確には13700年間)も続いていたことになります。
その後の歴史はたかだか2000年しかありません。
旧石器時代と、縄文時代と呼ばれる新石器時代の合計約38000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かり頂だけると思います。

ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。
人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や食用の植物は煮ることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。
日本の旧石器時代に関する従来の学説では人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたと言われています。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。
関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い、旧石器時代の人々の生活の実態が少し分かりました。
そこで以下にその概略を示します。
相模原市では考古学的な遺跡が多く発掘されており、特に相模川の岸の、田名向原、塩田、谷原、東原などの地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。
そして相模原市の遺跡からは20000年前の旧石器時代の住居跡が発見されたのです。

この旧石器時代の住居跡の発見を何故、特別な大発見というのでしょうか?
戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。
それが終戦直後の群馬県みどり市の岩宿遺跡の発見で、数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。
それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。

それが平成になってから事情が急変したのです。
各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。
その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。
現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧石器時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
しかし住居跡が見つかっていないので旧石器時代には人々は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていたのです。
しかしこの学説は間違っていたのです。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。
考古学を趣味としている私は何度もこの20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て感動していました。
行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。下の写真がその相模川です。

1番目の写真は田名向原展示館の西側を流れる相模川です。
この田名向原展示館の付近は相模川中流で、考古学的史跡が3層、4層と住居跡や古墳が集中して存在しています。

2番目の写真は2万年前の石器時代の住居跡を復元したものfです。
この写真では、平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡を明示しています。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

3番目の写真は旧跡時代の住居跡の上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
その詳細は末尾の参考資料にあります。ご興味のある方はご覧下さい。
それでは石器時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?
田名向原の展示館にある絵画で人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子などを示します。

4番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。

5番目の写真は旧石器時代の男性が石器の穂先をつけた槍を構えている様子を示しています。

6番目の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。

7番目の写真は2人の男が獣の皮をなめしている様子を示しています。後ろの竪穴住居の屋根はなめした獣の皮で葺いてあります。

8番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。
こうしてこれらの写真を見るとこの地域の約2万年前の生活の実態が少しだけ分かります。
このような生活のスタイルは、縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても地方の庶民に限って考えれば、ほとんど変わらなかったというのが真実に近いと私は想像しています。
一方、支配階級の生活は時代が進むと大きく変わっていったと思います。
円形の掘っ立て小屋に住み、土器で料理を作り、木製の農具を使い、石器も相変わらず使っていたに違いありません。青銅器や鉄の道具は高価過ぎて支配階級しか使えなかったのです。
農民の生活を考えると時代が変わってもあまり大きな変化が無いと理解するのが自然ではないでしょうか?
石器は安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。弥生時代や古墳時代になっても鉄器は高価だったので農民は平らな石に木の柄を着けた鍬も使っていたと私個人は想像しています。
歴史は豪族や朝廷や権力者の様子を伝え、それを学校で教えますが、一般の人々を想像すると興味がつきません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:関連記事の紹介============
(1)関連記事の一覧;
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

(2)はさみやま遺跡;
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。
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山の別荘の庭でのクリスマスリース作りへのご招待

2018年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県、北杜市の甲斐駒の麓にある別荘の持ち主が庭でのクリスマスリース作りへのご招待しています。
お子様連れや、どなたでもお気軽にいらっしゃって下さい。勿論無料です。材料は用意してあります。

この別荘の庭は「陽賜里工房ガーデン」と称していまして毎年、春と秋にオープンガーデンが開催されています。

リース作りの指導は原田聖也さんと彼の母上です。


日時:11月23日(金)午後1時30分から3時30分までの間です。

ところ:山梨県北杜市武川町山高 3567-556の陽賜里(ひだまり)工房ガーデンです。

    焼き芋も用意してあります。

連絡先:原田聖也さん、携帯電話:090-4170-0370 E-Mail: t-taraku@t-net.ne.jp

尚この賜里工房ガーデンは開けた明るい別荘地にありますが、その近所にある私の小屋は深い森の中にあります。その森の去年の黄葉の写真を3枚添付します。




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何も考えずに淡々と生きると幸せになれる

2018年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は自分の不幸の原因を考えて、その原因を取り除けば、幸せになれると考えます。しかしこの考えは決定的に間違っています。
自分で発見した原因は多くの場合、いや全ての場合、その原因を取り除くことが出来ないのです。その事実に気がついてますます不幸になるのです。
例えば仲の悪い夫婦がいたとします。夫婦仲の悪くなった原因をあれこれ深く考えます。すると相手の性格が悪いのが原因だと気がつきます。その悪い性格を直してやろうと自分が手を尽くします。土台、人間の性格など簡単には変わりません。自分の努力で相手を傷つけ、ますます夫婦仲が悪くなります。しかし離婚する勇気もありません。このような夫婦が世の中には多いものです。
この地獄のような状態を避ける方法は2つだけあります。
一つは結婚しないで一生独身でいることです。
もう一つは不幸の原因を絶対に考えないことです。自分が幸福なのか不幸なのかも考えてはいけません。
そんな暇があったらここに示した昨日撮って来た檜原村の秋の風景写真でも見て、淡々と生きて行くほうが良いのです。秋の山里で写真を撮っていると、人生の流れる日々を無欲に生きている気分にります。
自分が見て、写真に撮っておきたい風景に会ったら撮るだけです。無欲なのです。ようするに淡々として生きているのです。

流れゆく日々を淡々と生きる。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きるのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










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八千穂高原の日本一の白樺林の紅葉と旅の思い出

2018年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
東京から軽井沢や小諸の懐古園を車で訪れる時は関越高速と信越高速を使うと便利です。
何度も行きましたが、帰路は八ヶ岳の東の国道141号線を走り清春を経て須玉から中央高速に乗ります。
雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。
何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。

その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。その北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。
西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。そのことも私の心をシラカバに向けたのかもしれません。
その八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっているのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ました。高原に行けばそんなに珍しいものではありません。
しかし八千穂高原の群落はその広さと樹木の数で感動します。案内書によるとに八千穂高原には、約200haの高原に50万本の白樺林が群生しているそうです。
数が多いだけでなく白い幹がなんとも優美な雰囲気をかもし出しているのです。
その上、駒出池や八千穂レイクがありその周囲にも白樺があるのです。
それは白樺が作り出す不思議な別世界です。

そんなことを思い出しました。紅葉の頃はさぞ美しいと思い白樺の紅葉の風景写真を検索して、いろいろ比較して一番美しいHPを選びました。それは「秋の白樺林」、http://widewallpapers.xii.jp/archives/1028 です。その中から5枚の写真をお借りしお送りします。









白樺林を見ると何となく白樺派の高村光太郎の「智恵子抄」にある二つ詩の冒頭の部分を思い出します。
結婚したばかりの頃に、妻がこの詩を私に教えてくれたのです。
「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と、もう一つの詩は「あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川」です。
それはさておき、清春白樺美術館には智恵子の描いた油彩画が一枚だけ展示してあったことも思い出しました。「樟」を描いた青緑の絵です。彼女が精神を病んで、病院で作った花々の切り絵も数多く展示してありました。
白樺林を見ると高村光太郎と智恵子のことをあれこれ想います。
光太郎の晩年は戦争遂行に協力したことを恥じ岩手県の山間に身を引きます。そして、そして7年間もの懺悔の謹慎生活に入ったのです。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去ったのです。享年73歳。
白樺林を見ると私はそんなことを想うのです。

人の想いはそれぞれです。皆様は白樺林の風景がお好きでしょうか? 何を想いますか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====
日本一美しい白樺群生地:http://yachiho-kogen.jp/sightseeing/shirakaba/index.php
八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。

清春白樺美術館:http://www.kiyoharu-art.com/museum/index.htm
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。

白樺派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。

高村光太郎:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
愛妻の智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。
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万葉集時代の多摩の横山の黄葉と出征する防人の悲しみ

2018年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
現在、我々が日常的に使っている武蔵野という地名が初めて記載されたのは万葉集です。第14巻「東歌」に出て来ます。
そして武蔵野から相模に行く道として「多摩の横山の道」が書かれています。現在の多摩市の南部の尾根筋を東西に走る古い道です。
それでは多摩の横山という名前が出て来る万葉集の歌をご紹介します。

「赤駒を山野(やまの)のはかしとりかにて 多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らむ」
万葉集 巻20 4417――― 宇遅部黒女

山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。
巻20には数多くの防人にちなんだ歌がありますが、上の歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻が作った歌です。
武蔵の防人は、まず現在の府中市にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かったのです。その道筋は現在の多摩市の南部に連なる尾根の上の見晴らしの良い道です。
現在、この尾根道は遊歩道として10Kmも整備されています。この遊歩道を歩いて見ると、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見えます。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々が見渡せます。
この道は雑木林の中にあります。
「多摩の横山の道」に平行して現在は「多摩尾根幹線自動車道路」が東西に出来ています。
昨日はこの自動車道路から見える多摩の横山の黄葉の写真を撮って来ました。









「多摩尾根幹線自動車道路」は調布市の甲州街道から西にある町田市の町田街道をつなぐ約17Kmの立派な自動車道路ですが、多摩の横山道に平行している部分が稲城市の光陽台から八王子市の南大沢までの10Kmです。
昨日はこの10Kmを往復して多摩の横山の黄葉の風景写真を撮って来ました。
ここで疑問を感じます。1200年以上も前の武蔵野の雑木林の樹種は現在と同じだったのでしょうか?
いろいろ調べたら奈良時代から中世までの武蔵野の平野や丘陵には「クヌギ」「ナラ」「ソロ」「シデ」「アカマツ」などの混淆林が広がっていたそうです。
人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林でした。やがて焼畑農業が始まり、その跡地が草原や落葉広葉樹の二次林となり、“牧(まき)”と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたといわれています。

現在の武蔵野の雑木林にはクヌギ、コナラ、シデなどに加えてケヤキ、エゴノキ、サクラなどの樹種が加わり多様になりましたが広葉の照葉樹林であるという事では現在も昔も同じだったのです。
従って秋の黄葉の風景は同じです。
もしこの黄葉の綺麗な秋に防人達がこの多摩の横山を歩いて行ったとしたらどんな気持ちで眺めていたのでしょうか?
防人として出征すれば二度と故郷に帰れぬ人も多いのです。悲しい気持ちで黄葉の風景を眺めたに違いありません。それを見送る妻も悲しかったのです。
「多摩尾根幹線自動車道路」は景色が良いのでよくドライブに行くところです。行けば「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」の歌を思い出します。

兵士として出征する悲しみは古今東西変わらない深い悲しみなのです。

多摩の横山のルートマップは、https://www.ur-net.go.jp/syutoken/nt/yokoyama.html に御座います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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東京の高尾山の紅葉と神仏習合が理解出来る薬王院

2018年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は東京の高尾山の紅葉をご紹介します。そしてその後で神仏習合が明快に分かる高尾山薬王院の説明をしたいと思います。高尾山、城山、小仏峠、景信山、陣馬山の尾根歩きのハイキングもご案内したいと存じます。
高尾山は、東京の西の郊外にある山です。標高は599mあります。
山頂付近に神仏混淆の薬王院というお寺があり、お寺の本堂の背後に飯綱権現神社があります。古くから修験道の聖地でした。
11月の中旬になるとイロハカエデ、ブナ、オオモミジの木々が美しく色づき山全体が紅葉になり素晴らしい所です。
ミシュランの3つ星に認定されたこともあり、海外からの観光客も多く訪れます。
それでは早速、昨年11月16日に自分で撮って来た写真と、https://yamahack.com/1945 からお借りした写真をまじえて高尾山の紅葉の風景写真を7枚お送り致します。

1番目の写真は高尾山に上げるケーブルカーの出発駅周辺の紅葉です。
7枚の写真のうち2番目、3番目、と7番目の写真は自分で撮りました。残りはお借りした写真です。

2番目の写真はケーブルカーの出発駅の右手にある高尾山登山道の入り口周辺の紅葉です。

3番目の写真はケーブルの線路下から見上げた高尾山の南面の紅葉です。

4番目の写真はケーブルの山頂駅から少し登った所にある展望台から見下ろした八王子の街の風景です。

5番目の写真は山頂の薬王院の周囲の紅葉です。

6番目の写真は薬王院を通過して高尾山の最高部へ行く登山道の回りの紅葉です。

7番目の写真も同じく高尾山の最高部へ行く登山道の回りの紅葉です。
高尾山は都心から電車で約1時間と便利な位置にある自然の宝庫です。1967(昭和42)年に明治の森高尾国定公園に指定されました。
山内には、約1200種の植物、約100種の野鳥、約5000種の昆虫が生息していると言われています。

さてこの高尾山には神仏習合が明快に理解出来る薬王院があります。
正式には真言宗智山派のお寺ですが、本堂のご本尊様が神道の飯綱権現という神様なのです。
この本堂のすぐ上に立派な飯綱権現神社の本社が建っているのいです。
この本堂のご本尊様と飯綱権現神社の本社の両方に真言宗のお経をあげているのが僧侶なのです。
この神道の飯綱権現の本部は長野県の飯綱山を神様と信仰する飯綱権現神社なのです。
さてそれでは高尾山薬王院はお寺なのでしょうか?それとも神社なのでしょうか?
皆様はどちらだと思いますか?
例えばアメリカ人と日本人の間の子供はアメリカ人でしょうか?日本人でしょうか?
答はどちらとも言えません。
このように高尾山薬王院はどちらとも言えません。
むしろこれを日本独自の一つの宗教と言ったほうが明快に理解出来るのではないでしょうか?
これが神仏習合の実態なのです。このような神仏習合のお寺や神社は日本各地に沢山あります。有名な豊川稲荷もその例です。宗教に興味のある人にとっては高尾山薬王院は面白い存在なのです。
最後に高尾山の後ろに続くハイキングコースについてご紹介します。
高尾山の最高地点を過ぎて西の方にハイキングコースを行くと、尾根ずたいに城山、小仏峠、景信山、陣馬山へと楽しい山道があります。
小仏峠は旧甲州街道の峠で、それを東に3Km位下るとバス停がありJR高尾駅に出ます。
西に下ると10Km位歩くと相模湖駅に行けます。遠方すぎますので東に下る旧甲州街道がお薦めです。
このハイキングコースは紅葉の時期も良いですが、新緑の頃もウグイスが鳴いていて良いものです。高尾山は四季折々楽しい素晴らしい山です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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日本の紅葉の名所一覧と定山渓の思い出

2018年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の秋は美しい季節です。
山々が見事な紅葉や黄葉に彩られ息をのむような風景になります。
その紅葉は北海道から始まって次第に南に下ってきます。
北海道では富良野の丘の白樺が黄葉し雄大な眺めになります。そして山々にはカエデ、ヤマブドウ、ナナカマド、山サクラ等の紅葉が楽しめます。
北海道から紅葉前線が南に移動してくると本州、四国、九州のケヤキ、コナラ、クヌギ、カツラ、エゴノキ、カエデなどの里山の雑木林も紅葉や黄葉し華やかな風景になります。
日本の秋は本当に素晴らしい季節です。

そこで今日は日本全国の紅葉の名所をご紹介いたします。
それは「人気紅葉名所ランキング(全国)」というHPにあります。
URLは、https://koyo.walkerplus.com/ranking/ です。
これには全国各地エリア別の人気紅葉スポットをアクセス数順に10位までランキングした情報が掲載されています。
その上、全国約700ヶ所の紅葉情報が掲載されているのです。

この資料により北海道と関東地方だけを例として下に示します。他の地域は長くなるので割愛しました。
北海道では、
1、定山渓(定山渓温泉)、北海道/札幌市南区
2、円山公園、北海道/札幌市中央区
3、定山渓(豊平峡ダム) 北海道/札幌市南区
4、層雲峡(流星・銀河の滝)北海道/上川郡上川町
5、大沼(大沼公園、月見橋、大沼湖畔)北海道/亀田郡七飯町
6、滝の上公園北海道/夕張郡由仁町
7、大雪山(黒岳)北海道/上川郡上川町
8、阿寒 北海道/釧路市
9、北海道大学苫小牧研究林 北海道/苫小牧市
10、支笏湖(支笏湖温泉)北海道/千歳市

関東地方では、
1、長瀞:埼玉県/秩父郡長瀞町
2、明治神宮外苑:東京都/新宿区
3、高尾山 :東京都/八王子市
4、国営昭和記念公園 東京都/昭島市
5、六義園 、東京都/文京区
6、大山寺・大山阿夫利神社下社 、神奈川県/伊勢原市
7、養老渓谷、千葉県/市原市
8、袋田の滝、茨城県/久慈郡大子町
9、花貫渓谷、茨城県/高萩市
10、中津峡、埼玉県/秩父市
 他の地方にも沢山ありますが、今回は長くなりますので割愛いたします。

そして全国のランキングは次のようになります。
1、香嵐渓 、愛知県/豊田市
2、長瀞 、埼玉県/秩父郡長瀞町
3、明治神宮外苑 、東京都/新宿区
4、メタセコイア並木、滋賀県/高島市
5、高尾山 、東京都/八王子市
6、国営昭和記念公園 、東京都/昭島市
7、永観堂 禅林寺、京都府/京都市左京区
8、六義園 、東京都/文京区
9、鶏足寺(旧飯福寺)、滋賀県/長浜市
10、岩屋堂公園 、愛知県/瀬戸市
この表のランキングの上位の場所は交通の便が良く観光バスも多数行く所になりますので皆様の近所の紅葉の名所は必ずしも出て来ません。例えば私の好きな奥多摩の紅葉は出ていません。

それはさておき、北海道の1位は札幌の郊外にある定山渓(定山渓温泉)です。
ここへは2004年の春の新緑の頃に家族旅行で初めて行きました。
大都会の札幌から少しだけ離れた温泉地ですが、山奥の温泉地で谷地のあちこちから湯気を上げて温泉が湧き出しています。
その近辺の峡谷の紅葉が綺麗だと聞いたので秋にも2度ほど行きました。
温泉街から温泉が湧き出している峡谷まで遊歩道があります。
ゆっくり登って行くと山々のカエデ、ヤマブドウ、ナナカマドなどが真っ赤に色ずいています。
温泉が湧き出している裸の岩肌の回りを紅葉が飾っています。立ち上る湯気が紅葉を一層美しくしています。
定山渓温泉は紅葉の頃が一番美しいのです。
例年、10月中旬が見頃で、定山渓の紅葉ビュースポットをめぐるバスも運行されています。
この温泉は東京からのお客も多いので旅館やホテルも良いです。料理も洗練されています。
定山渓の紅葉の写真を、https://koyo.walkerplus.com/ranking/ からお借りしてお送りします。
北海道に10月に行ったら是非、定山渓温泉にお泊り下さい。札幌から短時間で行けます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









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経済制裁で激怒のイランとアメリカの立場を分かり易く書く

2018年11月06日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ米政権はイランの核合意離脱を受けて、イランへの経済制裁を再開しました。
その前日の11月4日には、イラン人達が激怒して1979年11月に起きた在イラン米大使館人質事件を記念したデモで経済制裁を厳しく非難しアメリカへ反発したのです。

分かり難いニュースですが、簡単に言うとイランが核兵器開発を再開するというのでアメリカが怒って経済制裁を再び始めたのです。
これだけを見ると何が何んだか一向に判然としないニュースです。
これを理解するためには親米のパーレビ国王の追放とホメイニ師のイラン革命とそれに続くアメリカ大使館の占拠と大使館員の人質事件などの歴史を考える必要があります。

1941年から1979年までのパーレビ国王時代のイランはアメリカを手本にして近代化を進めた非常に親米的な国だったのです。
それが1979年のホメイニ師のイラン革命後は手のひらを返したようにアメリカの敵国になったのです。
1979年以来いろいろな抗争がありましたが、今回の経済制裁の再開もその一つに過ぎないのです。

今日は錯綜するアメリカとイランの敵対関係の歴史を写真に従って説明したいと思います。
まずパーレビ国王の写真です。

1番目の写真はパーレビ国王です。
彼の名前はモハンマド・レザー・シャーと言い、在位は1941年9月16日 - 1979年2月11日でした。
出生は1919年で死去は1980年(60歳没)でした。
パーレビ国王はイランを近代化した実に傑出した国王でした。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/モハンマド・レザー・パフラヴィー からの抜粋です。
父である先代の皇帝レザー・シャーの退位により即位し、イランの近代化を進めたが、あまりのも急進的だったためにイラン革命により失脚したのです。

1960年代より、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる開発独裁体制を確立します。
日本の飛躍的な経済成長に注目して1963年からは石油の輸出により獲得した外国資本とアメリカ合衆国による経済援助を元手に近代化革命に着手しました
土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を実行してイランの近代化を進めました。
一方、親欧米路線のもと欧米諸国の外国資本の導入に努めたのです。
また自らも英語やフランス語を駆使して親欧米外交を進めるなど、政策の先頭に立っていました。

2番目の写真は1971年、訪米時のパーレビ国王とニクソン米大統領及びニクソン夫人の写真です。
パーレビ国王の政策を支持した欧米諸国、とりわけアメリカ合衆国は革命直前の1970年代に深い関係を続け、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭のグラマンF-14戦闘機をイラン空軍に納入したほか、同じく最新鋭のボーイング747旅客機をイラン航空に販売するなど、イランを事実上の最恵国として扱っていたのです。
それは現在のイラン空軍の威力の基礎になっているのです。

ニクソン大統領を会見した後の1979年にはイラン革命が起きパーレビ国王は国外へ亡命します。
1979年1月16日に皇帝専用機のボーイング727を自ら操縦し、最初の妻の出身地でもあるエジプトに皇后や側近とともに亡命し、モロッコ、バハマ、メキシコ、アメリカへと転々としたのです。
するとホメイニ師は2月1日に15年ぶりの帰国を果たし、直ちにイスラム革命評議会を組織しバーザルガーンを首相に任命しました。
そして1879年11月にイランにあるアメリカ大使館の占拠と人質事件が起きたのです。

3番目の写真は大使館前で星条旗を逆さに広げる学生グループの写真です。
大使館の敷地には次々に学生たちが侵入してきたが、大使館の警備にあたっていたアメリカ海兵隊員も、事態の悪化を恐れてこれに対して制止、発砲することをしなかったのです。
学生たちは間もなく大使館の建物内に侵入しこれを占拠し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しをアメリカへ要求したのです。
アメリカはこれを拒否し、52人を人質を救出する特殊部隊を送ります。
しかしこの人質救出作戦は失敗に終わりました。

4番目の写真は人質救出作戦のイーグルクロー作戦中に事故を起こした輸送機の残骸です。
アメリカ政府はイラン政府を懐柔するために、パーレビ国王を12月5日にアメリカから出国させてパナマへ送ることで事態の打開を図ったのです。

その後、イランは仲介国と人質の返還でアメリカと合意し、レーガンが新大統領に就任し、カーターが大統領の座から退任する1981年1月20日に人質が444日ぶりに解放されました。

5番目の写真はアメリカ軍のボーイングVC-137輸送機で444日ぶりに帰国した人質の写真です。
このアメリカ大使館の占拠と人質事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪くしたのです。面子を潰されたアメリカは長い間イランを恨み続けることになるのです。
今度の経済制裁の発動はこの延長にある一つの出来事なのです。
イランの核兵器開発再開は一つの口実ではありますが根が深いのです。

今回のアメリカの経済制裁の発動で喜ぶのはイランと敵対関係にあるイスラエル、サウジアラビアと湾岸諸国です。イランを引き込もうとしているロシアと中国です。
国際関係は複雑です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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