後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

遥かなハイラル、藤田藤一参事官の献身と悲劇(2)ソ連軍戦車へ飛び込んだ藤田藤一

2015年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム
私は戦後の新制中学校や新制の高等学校で教育を受けました。そこでは満州の関東軍が侵攻して来たソ連軍に抵抗しないで民間人を置き去りにして逃げたと教わりました。
戦後は軍国主義を徹底的に排除するアメリカの占領政策に従って旧日本軍の悪行をさんざん教わったのです。しかしそれは正しい歴史教育ではありませんでした。
民間人を置き去りにして逃げた関東軍もいましたが、勇敢に戦って民間人を守った関東軍もいたのです。戦争というものの歴史とはそのように複雑なのが一般なのです。
藤田藤一参事官は関東軍の少尉として一隊を率いてソ連の戦車隊へ突っ込んで民間人を助けたのです。その事実が公表されたのは藤田少尉の死後、25年が経過してからです。その公表は藤田の卒業した関西大学の昭和45年度の校友会誌だったのです。
藤田の家族は日本に帰国していて藤田の無事生還を信じつつ25年間の辛酸をなめていたのです。その校友会誌を手にした妻や娘の気持ちは想像にあまりあります。私には言葉もありません。
今日は満州国の運命に翻弄された市井の人々の個人の歴史です。
さて、ハイラルを取り囲む、5つの堅固な防衛陣地は、8月9日から119師団の主力が興安嶺に後退したあと、編成された独立混成第八十旅団ほか、国境守備隊などいくつかの部隊がソ連軍を迎え撃ちました。挺身隊(夜間切り込み隊)をつくって応戦しましたが、結局10日後の8月18日に主陣地であった河南台要塞が白旗を揚げたのです。
そんな状況で藤田藤一少尉の一隊はどうしていたでしょうか?
草原の中のアムグロンという町の役所の日本人職員が数台のトラックに民間人を乗せ逃げる途中で藤田少尉の一隊と会ったのです。以下は関西大学の校友会誌の記事の抜粋です。
・・・突然に、草原の中でソ連の戦車隊と鉢合わせになりました。あわや一触即発。これでわれわれも全滅かと思ったとき、近くの塹壕から日本軍が数十人あらわれ、
「お前たちは、迂回して、ハイラルに行きなさい。戦車隊はわれわれが引き受けた」
と小隊長が大声で叫んだのです。その人が藤田少尉だったのです。見渡すばかりの草原のなかで、トラックは急遽カーブを切り、大きく遠回りをしてハイラルに向って逃げ始めました。そのとき最後尾にいた人々は、藤田小隊が、それぞれ爆弾を抱えて戦車隊に突撃するのをはっきり見たそうです。何台かの戦車が炎に包まれたのです。助かった人々は後に語っています。
「藤田少尉とその部下の方たちのおかげで、われわれは命拾いをしたのです。彼らは本当に私たちの命の恩人です。まさに捨て石となってわれわれを救ってくれた」 ・・・・
戦後25年たった昭和45年10月15日号の関西大学の校友会誌「関大」で崎谷が書いた「藤田藤一君を思う――満ソ国境ハイラルの激戦に散る」という記事の抜粋でした。
その記事は遺族の藤田藤一妻・藤田美代子に送られたのです。(以上、http://blog.goo.ne.jp/takasin718/e/285895cc09bfdc06d7d3a23e4039b9ae より)
日本の軍国主義は悪いと一言で切って捨てるのは易しいことです。しかし以上のような個人の献身と悲劇を具体的に知ることも非常に重要と信じています。そういう個人の悲劇が我々の魂へ働きかけ平和の重要性が強く、強く認識できるのです。
今日の挿絵の写真はハイラルで戦死した藤田少尉とその部下の兵士たちへ捧げる白い梅の花の一枚の写真です。

藤田少尉とその部下の兵士たちのご冥福をお祈りいたします。
そして戦争の犠牲になったソ連兵たちの冥福もお祈りします。合掌。