今年はトランプ氏がアメリカの大統領に就任し、新しい政策を次々に実行し世の中が変わる年になりそうです。
その影響もあり、世界中の国の国境が高くなり、各国にナショナリズムが広がりそうです。世界が変わる潮流の潮目を見るようなことになりそうです。
何故か心が落ち着きません。こんな時は縄文時代のことを考えることにしています。はるか悠久の縄文時代のことを考えると現在の世の中の変化が取るに足りない些細なことのように思えます。こころが平穏になります。
そこで今日は絶海の孤島の八丈島の縄文時代をご紹介したいと思います。
八丈島からは、6000年前の縄文土器や石器が多数発見されているのです。それらの貴重な資料は八丈島歴史民俗資料館に展示してあります。驚いたことに縄文時代の人々は丸木舟で伊豆半島から黒潮を横切って漕ぎ渡ったのです。現在の日本人の体力からは考えられない事です。
私は2009年1月29日に歴史民俗資料館を訪問しました。そこで地域歴史専門家の細谷昇司氏と知り合い、その後も数年にわたり島の歴史をいろいろ教えて頂きました。
資料館を訪問した時、彼の説明を聞きながら各室を詳しく順々に見て行きました。
そうしたら、ある部屋に、約6000年前の縄文時代に島のあちこちに住んでいた人々の遺骨や石器・土器が多数展示してあったのです。
石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を丸木舟に積んで太平洋を渡って本州から来たのです。
下の1番目から3番目の3枚の写真に歴史民俗資料館に展示してある土器と石器の写真を示します。



そして下の4番目の写真は八丈島歴史民俗資料館の様子です。これらの写真は2009年1月29日に撮りました。

八丈島は東京から約300キロメートル南の太平洋上に浮かぶ孤島で、また黒潮本流の外側に位置する亜熱帯の島です。
現在から6000年も前の縄文人が丸木舟で海を渡るのは危険な冒険です。古代人の体力と勇気に感動します。
そこで東京に帰ってから八丈島の考古学的研究をいろいろ調べてみました。
そうしたら国学院大学の小田静夫先生の「八丈島の先史文化」という題目の研究論文を見つけました。以下はこの研究論文の抜粋です。
全文は、http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm に出ています。
まず考古学の調査の経緯以下にを示します。
(1)1962年(昭和37) 夏、地元中学生が一点の「大形磨製石斧」を採集(八丈島誌1973, 1993)。
(2)1964年(昭和39) 1月、地元都立八丈高等学校による試掘調査(八丈島誌1973,1993)。
同じく3月、明治大学考古学研究室による八丈島最初の正式発掘調査(杉原・戸沢1967)
(3)1973年(昭和48) 3月、湯浜遺跡緊急発掘調査団の発掘調査
(永峯・小田ほか編1976)。
(4)1978年(昭和58) 2月~ 3月、八丈町湯浜遺跡範囲確認調査団の発掘調査(永峯ほか1984)。
以上のような発掘によって判明したことを整理してまとめると以下のようになります。
現在までに4ヵ所(湯浜・倉輪・八重根・火の潟遺跡)の考古学遺跡が発掘調査され、その成果から八丈島の有史以前の歴史が判明したのです。
その成果によると、この南海の孤島には「八丈島先史時代」と呼称できるほどの特徴的な島嶼文化が形成されていたのです。
1 八丈島先史時代第一期
湯浜遺跡(7,000~5,000年前)で代表されます。厚手無文土器と特徴的な撥形の小型打製石器類と刃部磨製石斧、磨石、石皿などが出て来ました。現在までのところ、その故郷は特定されていないが、本土の縄文時代早期の様相も否定できないそうです。
2 八丈島先史時代第二期
倉輪遺跡(5,500~5,000年前)で代表されます。本土の縄文土器と石鏃、磨製・打製石斧、砥石、各種装身具、骨角器など豊富な遺物が出て来ました。その故郷は土器型式から、南関東地方と近畿・中部地方北半分の縄文人の渡島文化と推定されます。
3 八丈島先史時代第三期
供養橋、孫兵衛遺跡(年代不詳)で代表されます。円筒片刃石斧に特徴があり、その形態から琉球列島(黒潮の道)や、マリアナ地域(太平洋の道)からの渡島文化の可能性が高いと言れています。
4 八丈島先史時代第四期
八重根遺跡(1,700~1,200年前)で代表されます。最下層文化に厚手無文平底の鉢形土器と本土の弥生土器、土師器が伴い、若干の石器、紡錘車が存在する。その故郷は、伊豆地方や神奈川県南部の弥生・古墳時代人の渡島文化なのです。
以上は、国學院大學考古学資料館紀要 第21輯(「加藤有次博士追悼」特集号)2005.3.31 所収(pp.55-84)「八丈島の先史文化」からの抜粋です。詳細は、http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm に出ています。
ところで八丈島歴史民俗資料館には縄文時代の土器や石器だけでなく島の歴史が分かるいろいろな資料が展示してあります。
さて、八丈島に丸木舟で渡るには伊豆半島から最短距離の下田附近から大島へまず渡ると想像出来ます。その間は40Km位です。そしてそこから目に見える利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と順々に島づたいに丸木舟を漕いで行ったと考えられます。
そのように人力で漕ぎ渡る実験をした人がいます。実験は海用のカヌーでしました。そうしたら島づたいに渡ることに成功したのです。
ですから縄文人が丸木舟で本州から渡ることは可能だと想像できます。
そんなことを考えて今日も平穏な一日が過ぎて行くようです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
その影響もあり、世界中の国の国境が高くなり、各国にナショナリズムが広がりそうです。世界が変わる潮流の潮目を見るようなことになりそうです。
何故か心が落ち着きません。こんな時は縄文時代のことを考えることにしています。はるか悠久の縄文時代のことを考えると現在の世の中の変化が取るに足りない些細なことのように思えます。こころが平穏になります。
そこで今日は絶海の孤島の八丈島の縄文時代をご紹介したいと思います。
八丈島からは、6000年前の縄文土器や石器が多数発見されているのです。それらの貴重な資料は八丈島歴史民俗資料館に展示してあります。驚いたことに縄文時代の人々は丸木舟で伊豆半島から黒潮を横切って漕ぎ渡ったのです。現在の日本人の体力からは考えられない事です。
私は2009年1月29日に歴史民俗資料館を訪問しました。そこで地域歴史専門家の細谷昇司氏と知り合い、その後も数年にわたり島の歴史をいろいろ教えて頂きました。
資料館を訪問した時、彼の説明を聞きながら各室を詳しく順々に見て行きました。
そうしたら、ある部屋に、約6000年前の縄文時代に島のあちこちに住んでいた人々の遺骨や石器・土器が多数展示してあったのです。
石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を丸木舟に積んで太平洋を渡って本州から来たのです。
下の1番目から3番目の3枚の写真に歴史民俗資料館に展示してある土器と石器の写真を示します。



そして下の4番目の写真は八丈島歴史民俗資料館の様子です。これらの写真は2009年1月29日に撮りました。

八丈島は東京から約300キロメートル南の太平洋上に浮かぶ孤島で、また黒潮本流の外側に位置する亜熱帯の島です。
現在から6000年も前の縄文人が丸木舟で海を渡るのは危険な冒険です。古代人の体力と勇気に感動します。
そこで東京に帰ってから八丈島の考古学的研究をいろいろ調べてみました。
そうしたら国学院大学の小田静夫先生の「八丈島の先史文化」という題目の研究論文を見つけました。以下はこの研究論文の抜粋です。
全文は、http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm に出ています。
まず考古学の調査の経緯以下にを示します。
(1)1962年(昭和37) 夏、地元中学生が一点の「大形磨製石斧」を採集(八丈島誌1973, 1993)。
(2)1964年(昭和39) 1月、地元都立八丈高等学校による試掘調査(八丈島誌1973,1993)。
同じく3月、明治大学考古学研究室による八丈島最初の正式発掘調査(杉原・戸沢1967)
(3)1973年(昭和48) 3月、湯浜遺跡緊急発掘調査団の発掘調査
(永峯・小田ほか編1976)。
(4)1978年(昭和58) 2月~ 3月、八丈町湯浜遺跡範囲確認調査団の発掘調査(永峯ほか1984)。
以上のような発掘によって判明したことを整理してまとめると以下のようになります。
現在までに4ヵ所(湯浜・倉輪・八重根・火の潟遺跡)の考古学遺跡が発掘調査され、その成果から八丈島の有史以前の歴史が判明したのです。
その成果によると、この南海の孤島には「八丈島先史時代」と呼称できるほどの特徴的な島嶼文化が形成されていたのです。
1 八丈島先史時代第一期
湯浜遺跡(7,000~5,000年前)で代表されます。厚手無文土器と特徴的な撥形の小型打製石器類と刃部磨製石斧、磨石、石皿などが出て来ました。現在までのところ、その故郷は特定されていないが、本土の縄文時代早期の様相も否定できないそうです。
2 八丈島先史時代第二期
倉輪遺跡(5,500~5,000年前)で代表されます。本土の縄文土器と石鏃、磨製・打製石斧、砥石、各種装身具、骨角器など豊富な遺物が出て来ました。その故郷は土器型式から、南関東地方と近畿・中部地方北半分の縄文人の渡島文化と推定されます。
3 八丈島先史時代第三期
供養橋、孫兵衛遺跡(年代不詳)で代表されます。円筒片刃石斧に特徴があり、その形態から琉球列島(黒潮の道)や、マリアナ地域(太平洋の道)からの渡島文化の可能性が高いと言れています。
4 八丈島先史時代第四期
八重根遺跡(1,700~1,200年前)で代表されます。最下層文化に厚手無文平底の鉢形土器と本土の弥生土器、土師器が伴い、若干の石器、紡錘車が存在する。その故郷は、伊豆地方や神奈川県南部の弥生・古墳時代人の渡島文化なのです。
以上は、国學院大學考古学資料館紀要 第21輯(「加藤有次博士追悼」特集号)2005.3.31 所収(pp.55-84)「八丈島の先史文化」からの抜粋です。詳細は、http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm に出ています。
ところで八丈島歴史民俗資料館には縄文時代の土器や石器だけでなく島の歴史が分かるいろいろな資料が展示してあります。
さて、八丈島に丸木舟で渡るには伊豆半島から最短距離の下田附近から大島へまず渡ると想像出来ます。その間は40Km位です。そしてそこから目に見える利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と順々に島づたいに丸木舟を漕いで行ったと考えられます。
そのように人力で漕ぎ渡る実験をした人がいます。実験は海用のカヌーでしました。そうしたら島づたいに渡ることに成功したのです。
ですから縄文人が丸木舟で本州から渡ることは可能だと想像できます。
そんなことを考えて今日も平穏な一日が過ぎて行くようです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)