後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

貧しい家に生まれた人、桂の落ち葉を見ながら想う

2018年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
旧甲州街道は現在の裏高尾を通って小仏峠を越す山道でした。
その途中に高尾山に登る道がついている日影沢があります。その日影沢に私が四季折々何度も足を運ぶ桂の国有林があります。
約1400本の桂の木を昭和3年に林野庁が植えた見事な桂林です。現在でも林野庁が木道を整備し、一般へ公開している見事な桂の森なのです。
この季節になると落ち葉が甘い香りを漂わせているのです。その香は本当に自然な甘い香りです。カナダの原住民が昔から採っていたメープルシロップに似た香りです。もっと素朴なカルメ焼きの匂いです。
昨日はその香が日影沢に漂い、黄色い落ち葉が道に散り敷いていました。
昨日撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真は落葉した巨大な桂の林の風景です。昭和3年に植えたので90年でこれくらいの大木になります。

2番目の写真はまだ落葉しない桂の黄葉です。

3番目の写真は「高尾山国有林・林野庁」の看板の写真です。

4番目の写真は日影澤の高尾山登山道近くの橋の木道に散り敷いた黄葉した桂の葉です。甘い香りがします。

5番目の写真は日影澤の奥から木材を運び出しているトラックの写真です。まだ林業が廃れていなことに感動します。

昨日は車を日影澤に入れて少しの間、写真に示したような光景を見て貧乏な家に生まれた人の不幸を想いました。
私にはそのような友人がいたのです。
学校の給食費が払えないのでお昼時間は校庭で遊んでいました。先生が見かねて給食費は要らないから食べろと言ってくれました。しかしその子は先生の親切を拒否して絶対に給食を食べませんでした。
新聞配達をしながらやっと中学校を卒業し、働き始めました。
中学校しか出てない男は世の中でひどい扱いを受けます。歯を食いしばり工場労働者を務めあげ貯金も少し出来ました。株で儲けて1000坪以上の山林を買い山荘を建てました。もう何十年もそこに独りで住んでいます。
彼は一生独身です。
私の山小屋の近くだったので自然に親しくなりました。彼は頭脳明晰で私はコンピューターの使い方を彼から習いました。
いろいろな話を聞くと学歴の無い男のつらさがしみじみと判るのです。彼がせめて高校を卒業していればもっと幸せな人生を送ったに違いありません。
彼の偉い所は他人を頼りにしないことです。意固地なくらい他人の親切を拒否するのです。プライドも高いのです。
しかし日本の政治や社会に対して根強い恨みを持っています。金持ちを差別し信用しません。通っている病院の医者の悪口を言います。医者は金持ちなので憎んでいるのです。
山荘に独り住んで現地の人々とも交流しません。社交性が皆無なのです。
特に冬の間は何ケ月も人間に会わないのです。

貧乏な家に生まれなかった幸運な人々はとかく説教したくなります。
「もっと現地の人々と仲良くなりなさい」とか、「市役所に頼んで独り暮らしの支援をして貰いなさい」と忠告したくなります。
「もっと社会や政治に感謝の気持ちを持ちなさい」とも言いたくなります。

しかしそれは貧乏な家に生まれなかった幸運な人々の気楽過ぎる発想なのです。
貧乏な家に生まれた人の悲しみや苦しみは他人には理解出来ないのです。
静かに見守るのが良いのです。
世の中には結構な言葉があります。
貧乏に負けるな!
貧乏でも志を高く持て!
清貧な一生を送れ!
貧乏でも恩人への感謝を忘れるな!
みんな正しいのです。
しかしそんな生やさしい貧乏でないのです。
神様は何故、極貧の家に子供を生ませるのでしょうか?

昨日、日影澤の桂の森の中で解答の無い問題を考えていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


自分探しの旅、世界のこんな所に日本人!

2018年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると良いことが沢山あります。第一に仕事から解放されます。この解放感は実に良いものです。
そして仕事のための出張ではなく楽しむための旅が出来ます。
その旅に関連したテレビ番組を丁寧に見ます。すると単なる観光案内だけではなく、「人生こそ旅」という深い内容の番組もあります。
私が欠かさずよく見る番組は、世界の村で発見!!「こんな所に日本人」というものがあります。
南米の僻地やアフリカの奥地、あるいは北極圏のイヌイット人の村などに住んでいる日本人を紹介する番組です。
面白い理由が二つ以上あるのです。第一にその奥地に苦労して訪ねて行く途中の風景や人情が非常に興味深いのです。普通の観光番組では絶対に分からない僻地の風景や生活の情景が興味深いのです。
そして第二の理由はその僻地に何十年も住んでいる日本人の個性が面白いのです。皆例外なく幸せに暮らしていますが、その人生の軌跡が独特で、嗚呼、こんな人生もあるんだと感動してしまうのです。
その多くの日本人は若い頃、自分探しの旅に出た人々です。
「自分探しの旅」は後期高齢者には理解しにくいことです。後期高齢者が若い頃は日本が貧しくて、学校を出たら食べて行けるように必死で働いたものです。「自分探しの旅」などと悠長なことを考える余裕などありませんでした。
その上、現在の学校では先生方は進学相談や就職相談はしない事になっているそうです。
生徒達が民間の塾や進学教室で相談しているようです。先生方は生徒の個性を尊重し生徒の将来に干渉しません。自分でよく考えなさいと指導します。ですから生徒は進学や就職を自分で研究して決めて行かなけれいけない時代なのです。

そうするとまず「自分は何者だ?」、「自分は一生何をすれば良いのか?」などの疑問が湧いてきます。
ある若者は自分を探すために外国を周遊します。その時、自分のしたい事を発見してそこに住み着くのです。そしてその地で現地の人と結婚し、子供や孫に囲まれた幸福な老境を迎えるのです。
テレビの「こんな所に日本人」という番組の内容は大体こんなものです。
しかし毎回面白い理由があるのです。世界の奥地や僻地で日本人がしている仕事が実に変わっているのです。奇想天外な仕事で成功しているのです。
後期高齢者の私は、嗚呼、何と独創的な人生なのだろうと感動してしまうのです。今夜もこの番組がテレビ朝日のチャンネルにあります。

それにしても我々の若い頃とは「自分探しの旅」など想像も出来なかった時代でした。
最後にその昔話を書かせて下さい。簡略に書きます。
それは戦後の貧しさが漂っていた頃の仙台の思い出です。主な道路の中央しか舗装されていず、風の日は砂ぼこりが舞っていました。
私はその砂埃りの道を自転車で高校に通っていました。その高校は旧制の中学校がそのまま高校になった学校です。旧制中学のドイツ語や漢文の先生が熱心に教えていました。
特に漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。
何度も青雲の志を抱いて郷関をいづるという文を教えていたのです。
そして君達は故郷の仙台を出て、広い世の中で日本の復興に努めなければいけない。そして常に高い志を持って立身出世しなさいと教えたのです。若い私はその教えを文字どうり信じ、人生の道しるべにしました。
この「青雲の志」は唐時代の張九齢の次の漢詩の中に出てきます。
照鏡見白髪
宿昔青雲志
蹉タ白髪年
誰知明鏡裏
形影自相憐

鏡に照らして白髪を見る
宿昔 青雲の志
蹉タたり 白髪の年
誰か知らん 明鏡の裏(うち)
形影 自ずから相憐れまんとは

この教えに従って私は仙台を飛び出してアメリカに留学しました。それからいろいろな外国に研究のために旅をしました。
そして年老いて自分の人生を振り返ると上の漢詩の蹉タ白髪年 誰知明鏡裏 形影自相憐という部分が身に沁みるのです。
この意味は以下のようなものです
「何度も挫折を繰り返しているうちに、頭に白いものが目立つ歳になってしまった。いったい誰が考えただろう。鏡に映った姿を見ながら自然に憐れみの情がわいてくる、こんなことになろうとは。」

青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ行ったのは1960年の夏のことでした。
当時、外貨の無い日本では外国への自由な旅行は禁止されていました。留学と業務出張だけが許可されていたのです。
私は故郷、仙台の友人や親類の見送りを受け、羽田を飛び立ちました。主翼に4個のプロペラが勢いよく回っているノース・ウエスト機でした。
オハイオのコロンバス空港に着くとボランティアのアメリカ人の学生さんが古い車で迎えに来ていました。
大学では指導教官のセント・ピール先生が歓迎してくれて、いきなり9月の学期から博士コースの講義を3課目聴きなさいと言います。英語に自信の無かった私は困惑しました。
教室で机を並べていたアメリカ人とも親しくなり一生付き合った人も出来ました。

以上のように昔は「自分探しの旅」など想像も出来ない時代だったのです。
それに相当するのが「青雲の志を抱いて郷関を出る旅」だったのです。しかし両者の内容の余りにも大きな違いに愕然とします。これも時代の流れです。

今日の挿し絵代わりの写真はこの記事の構成を考えながら見た小金井公園の秋の夕方の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










ハロウィンはキリスト教以前のケルト民族の祭

2018年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

1番目の写真は渋谷ハロウィンの光景です。
写真の出典は、https://murauchi.muragon.com/entry/523.html です。
渋谷ハロウィンの今年の日程は10月26日(金)、27日(土)、28日(日)、29日(月)、30日(火)、31日(水)です。時間は18時から22時までで、その間は渋谷スクランブル交差点、SIBUYA109横の文化通りと道玄坂が歩行者天国となります。
(https://communediary.com/2615.html#2018 )
渋谷ハロウィンを簡単に言えば悪魔や幽霊の仮装をした若者やコスプレの男女が渋谷スクランブル交差点で仮装大会をしているのです。その仮装は近くのハロウィングッズ店で貸し出し、着替えも店内でします。
そして家庭ではカボチャをくり貫いたランタンなどを飾りパーティをして楽しみます。

2番目の写真は家庭での飾り物です。この写真の出典は、https://11mono.net/636.html です。
さて日本全国のハロウィン祭の一覧表は次のURLに紹介してあります。
https://www.walkerplus.com/search/halloween/ar0419/

3番目の写真は白い恋人パークハロウィンです。
期間は2018年10月13日(土)~31日(水)で、北海道の白い恋人パークがハロウィン気分に包まれるそうです。入場無料です。

4番目の写真は北海道のじゃがいもハロウィンです。北海道 星野リゾート トマム で10月1日(月)~31日(水)に開催されています。

5番目の写真は山梨県、北杜市の「ハイジの村のハロウィンと収穫祭」です。9月1日(土)~11月3日(土)に開催されています。
カボチャが飾られた園内では「ジャック・オ・ランタンづくり」や「ハロウィンジェルキャンドルづくり」など楽しいイベント盛り沢山あるそうです。
日本の家庭では秋になるとハロウィン・パーティを開いて楽しみます。

結論を言えば日本のハロウィンとはカボチャの提灯を飾り仮装してワイワイ騒ぐ楽しい祭の一つなのです。
白い恋人は何故ハロウィンと関係あるかという野暮な詮索をしてはいけません。
ドイツ文化圏のハイジの村はアメリカ流のハロウィンはしない筈だと議論してはいけません。
アメリカでは仮装した子供たちが「Trick or Treat(いたずらか、お菓子をくれるか?)」と門口で言いながらキャンディを貰いに来ます。その日は10月31日と決まっています。昔、アメリカの住んでいた頃、10月31日に家内は沢山キャンディを用意していて訪問した子供達が「Trick or Treat」と言うと一人一人にキャンディを上げていました。それが楽しい思い出になったと今でも話しています。

それにしてもハロウィンの歴史を纏めておきましょう。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ハロウィン からの抜粋でう。
ハロウィン、 Halloweenとは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人の祭のことです。
もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す原始宗教的な意味合いのある行事でした。
現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、原始宗教的な意味合いはほとんどなくなっています。
カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがアメリカなどにあります。
キリスト教がヨーロッパに普及する前の原始宗教の祭なので非常に興味深い一面を持っています。
カトリック教会ではハロウィンについて「オカルト」であると考え無視しています。
カトリック教会の教会暦にある祭ではないのです。

仮装の意味も纏めておきます。
アメリカでハロウィンで仮装されるものには基本的には「恐ろしい」と思われているものが選ばれる傾向があり、たとえば幽霊・魔女・コウモリ・悪魔・黒猫・バンシー・ゾンビなどの民間で伝承されるものや、吸血鬼や狼男・フランケンシュタインのような欧米の怪談や恐怖小説に登場する怪物が含まれています。
この恐しい仮装はハロウィンには恐しい仮装で悪魔を追い払う目的もあったからです。
しかし20世紀後半になるとアメリカでは、お姫様・海賊などといった人物をディズニー的でアメリカ流にアレンジして楽しい仮装も加わりました。
スパイダーマンやバットマンなど漫画・映画のキャラクターの仮装も行われるようになり仮装を楽しむようになってきたのです。
日本での仮装はアメリカの真似に日本独自のコスプレが加わったものになっています。
要するに仮装は何でも良いのです。
ハロウィンが盛んになったのは最近のことなので高齢者には理解困難はものです。
しかし日本全国のハロウィン祭の一覧表を見ると時代の変化の速さに驚くのは私だけではないでしょう。
次のURLを是非ご覧になって下さい。
https://www.walkerplus.com/search/halloween/ar0419/

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

宗教のことをネットに書く私は馬鹿でしょうか

2018年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
佛教には不立文字という言葉があります。
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めに当たる言葉です。
「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味だそうです。禅の根本を示すものとして知られるようです。
ですからインターネットの上に私の浅はかな仏教の話やキリスト教の話を書いている私は馬鹿なのでしょうか?
そのように迷いつつ時々、仏教の話やキリスト教の話を書いています。
以前に「佛教を簡単に理解する方法」という記事を書きました。そうしたらある方から大変分かり易かったというコメントを頂ました。
そこで今日はキリスト教を簡単至極に説明したいと思います。
分かり易く説明するために皆さまよくご存知のお釈迦さまの教えと比較しながら話を進めて行きたいと思います。
さて、ユダヤ民族だけの民族宗教として旧約聖書が紀元前 900年頃に出来ました。それから、長い年代にわたって改正が続きましたが、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚されていた時代に大部分が完成し、編集されたそうです。
この旧約聖書は長い間、ユダヤ教の基本でしたが2000年前にイエス・キリストが改正をして世界の全ての民族に通用するキリスト教を作ってしまったのです。ユダヤの民族宗教が全ての民族に普遍的に通用する世界宗教になったのです。
この宗教の特徴は『神はヤハウエ神だけである。偶像崇拝は行わないこと』ということにあります。
仏教も全ての民族に普遍的に通用する世界宗教です。
その仏教と比較しますとキリスト教では唯一の神が存在しますが、仏教では神の存在を認めていません。
お釈迦さま自身はあくまでも人間であって死んだら空(クウ)になるだけです。ですからお墓を作るな、仏像を作るなと言って入滅したのです。
人間はお釈迦さまの教えた「色即是空、空即是色」を理解し、固く信じることによって悟りの境地に入り恐れも悲しみもない幸福な状態になれると教えたのです。
「色即是空、空即是色」とはこの世のことはすべて空しいという意味です。空しいからこの世なのですという意味です。ですから恐れも悲しみも空なのです。
一方、キリスト教では「この世のことに執着しないで天の神様やイエス様のことを愛せ」と教えます。
佛教もキリスト教も、この世の全てのことに執着するなと教えている点は全く同じなのです。
どうすれば此の世に執着しないことが実行出来るかという方法が全く違うのです。
佛教では修行をつんで悟りの境地に入るのです。神の助けもイエスさまの助けもありません。
一方、キリスト教では「神やイエスさまを愛せ」、そうすれば「神やイエスさまが貴方を愛します」と教えます。そして此の世に執着しないようになれるのです。
繰り返しますと、人間が神の愛、イエスさまの愛を信じ、確信出来れば、この世のことには執着しなくなります。いろいろな悪い欲望が消えるので心が平和になります。幸福になれます。
仏教とキリスト教の違いは仏教では神がありませんが、キリスト教では神が中心になっています。

ここで一休みしてユダヤ民族だけのためにあったユダヤ教が全ての民族へも普遍的に通用するようにしたのがイエスさまでした。
その改革の重要な部分を考えて見ましょう。
それはは「神は全ての人を、異民族も平等に愛す」と言い出したのです。異教徒のサマリア人も愛したのです。取税人も愛したのです。
イエスさまは弟子たちに全ての言語が話せるようにして外国へ派遣したのです。
これは神は人種、職業、金持ち、貧しい人を問わず全ての人を愛しているという、当時としては衝撃的な教えでした。
これはユダヤ教徒だったイエスさまの大きな宗教改革だったのです。
一方、お釈迦さまの教えは始めから、人種、職業、金持ち、貧しい人などを問わず普遍的な重要な教えだったのです。
ですからこそ仏教もキリスト教も世界宗教として現在も多くの人々に信じられているのです。

ところで日本の仏教とキリスト教の大きな違いは信者の参加する宗教的な儀式の違いにもあります。
日本の佛教では信者が毎週お寺に集まってお釈迦様にお祈りするという儀式はありません。たまにお葬式や法事の時に僧侶が読むお経の声を聞くだけです。
しかし一方キリスト教では毎週一回教会に集まり、神やイエスさまにお祈りをささげます。そして驚くべきことにイエスさまの肉体の一片に模したパン片をたべる宗派もあるのです。カトリックがその宗派です。
この宗教的儀式はミサと言いす。そしてその儀式の概略は以下のようになっているのです。

まず簡単に言えばミサは次の4部分から成り立っています。
1、開  祭
2、ことばの典礼(旧約聖書、新約聖書の朗読)
3、感謝の典礼
4、交わりの儀と閉祭。
この4つの部分で一番重要なのが、4、交わりの儀なのです。
この時、信者一人一人が神父の前に行って、イエスさまの肉体の一片に模したパン片(聖体)を拝領します。
これは仏教には無い行為です。お寺に行って、仏教徒はお釈迦様の肉体の一片に模したパン片(聖体)を食べません。
一般的に日本の仏教は多神教的なのでお釈迦さまだけをことさら大切にしません。
一方、キリスト教では神がこの世に派遣したイエスさまを非常に大切にします。
これも仏教とキリスト教の大きな相違です。
このような大きな相違はありますが、仏教もキリスト教もどんな国々の人にも普遍的に通用するという性格が全く同じなのです。

如何でしょうか?キリスト教の内容がご理解頂けたでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は神代植物公園で撮ってきた菊の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





人間の悲嘆の山並みがつづく

2018年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
多摩の横山に多摩尾根幹線道路があります。見晴らしの良いドライブウエイです。爽快な気分になるのでよく行きます。その付近に桜が丘公園があり、そこに満蒙開拓団の殉難の碑が並んでいる一画があります。
その横を通って多摩尾根幹線道路へ入ります。
そこを通る度に殉難者の霊気を感じます。悲しい気持ちが湧いてきます。
そして「はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」という「荒野の40年」の中の文章を思い出します。この文章に関する記事は2018年09月14日 に掲載してあります。

今日は都立桜が丘公園の入り口にある蒙開拓団の犠牲者の慰霊碑をご紹介いたします。
その一画の一番奥には「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔があります。その慰霊塔を囲むように全国の都道府県から満蒙へ渡った開拓団の名前を彫った慰霊碑が多数並んでいます。

1番目の写真は開拓団の名前を彫った慰霊碑のほんの一部の写真です。以前に自分で撮った写真です。

2番目の写真は「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔の左手にづらりと並んだ開拓団の名前を彫った慰霊碑の写真です。この写真には写っていませんが、右側にも同じように開拓団の名前を彫った慰霊碑がづらりと並んでいます。

3番目の写真は見上げた空の写真です。満蒙開拓団の悲劇を悼むかのように暗い木立の上に白い雲が流れていました。

満蒙開拓団とは、1931年に起きた満州事変から1945年の敗戦まで、旧満州国や内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者約27万人の開拓団のことです。
満蒙開拓団は加藤完治らが考えた移民政策でした。武装した移民による満州国境維持を目的にしていました。従って対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により推進されたのです。
戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増え、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集されます。
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡しました。
ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人でした。
この開拓移民は文字通り、難民となり逃避行に向かい、その過程で約8万人が死亡したのです。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれていますが、その死者20万人の4割が拓団員だったのです。

私はこの悲劇を忘れないために毎年、この満蒙開拓団の慰霊碑をお参りしています。
そして戦争の悲劇を忘れないように心に刻んでいます。
そして「荒野の40年」の中の文章を思い出します。
・・・今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲みの念とともに思い浮かべているのであります・・・
そして私は次のように思うのです。
「戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべます。
日本との戦いに苦しんだすべての民族、なかんずく中国と東南アジアの諸国の犠牲者を思い浮かべます。
日本人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で犠牲になった310万人の戦没者を哀しみのうちに思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」

かつて中国大陸やアジア諸国に武力侵攻した日本軍から逃げるために実に多数の人が難民になりました。そして多数の戦没者がでたのです。中国だけでも2000万人以上と言われています。
満蒙開拓団の慰霊碑を見た昨日も心に思い浮かべました。

なお満蒙開拓団の悲劇を忘れないようにする記念館もあります。満蒙開拓平和記念館です。長野県下伊那郡阿智村駒場にあります。

昨日、満蒙開拓団の慰霊碑に参りながら考えたことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

江戸時代以前の関東には城主不明で謎の城跡が沢山ある

2018年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
平安時代末期、鎌倉時代と歴史が流れ、やがて室町時代の「応仁の乱」に至ると関東地方は群雄割拠の戦国時代になります。「応仁の乱」は室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの11年間にわたって継続した内乱でした。
そのころは各地に城が沢山作られましたが、江戸時代以前の城については文献が少なくてよく分かっていません。
僅かに残っている文献から江戸という名前は現在の東京に最初に根拠地を置いた武家、江戸重継に由来しているようです。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の江戸城の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたと考えられています。
その後の15世紀の関東の戦乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が「応仁の乱」の10年前の1457年(長禄元年)に江戸城を築城しました。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめと書いてあるそうです。
ですから太田道灌が1457年に築いた江戸城が現在の東京の発展の出発と考えることも出来ます。
1600年に徳川家康が江戸に幕府を置いてから260年余の江戸時代が始まりました。

現在の東京の江戸時代の歴史はかなり詳しく知られていますが、それ以前の歴史はあまり明確には判っていません。
その理由は現在の東京都の23区内にあった城や館の大部分は江戸時代に消えてしまったからです。
しかし、郊外の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多く往時の様子が偲ばれます。
私は引退後にこれらの城跡をかなり丁寧に見てまわりました。車で行って、あまり人のいない城跡を歩き回って観察し考えたのです。
八王子城、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡、石神井城、高幡城などの跡地へは何度も行きました。

1番目の写真は八王子城の見取り図です。八王子市の西の山の中にあります。以下の写真も全て、http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/hatioujisi.htm から転載させて頂きました。

2番目の写真は当時の鍋や食器が多数発掘された主殿跡の広場です。

3番目の写真は主殿跡の石垣です。
八王子城は北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。
氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐の武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移したのです。
この城址には3回ほど城址に登りました。広く大きな城跡で当時の地形が残っていました。
城跡には当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されています。発掘調査も行き届き、説明板も丁寧に明快に書いてあります。
この八王子城は1590年に落城しました。文献が残っていて次のようなことが分かっています。
小田原征伐の一環として1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められます。
城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠りました。
激戦となり1000人以上の死傷者を出し、その日のうちに城は陥落した。
氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられています。
この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹します。
関東地方に新しい江戸時代が始まる最後の激戦でした。新領主となった徳川家康はその後八王子城を廃城とします。
この八王子城の城主の氏昭がこの城の以前にいた城が滝山城です。

4番目の写真は八王子市の東の郊外にある滝山城の見取り図です。私はこの城跡にも何度か登り観察しました。

5番目の写真は滝山城から見た多摩川の遠景です。

6番目の写真は敵が攻め込んで来たら引いて倒してしまう曳き橋です。
滝山城跡には壮大な規模の城跡がそのまま残っています。

八王子と滝山城は北条氏昭が小田原城からやって来て関東地方の西部を統治していたときに住んでいました。武田信玄に何度か侵入されましたがその都度撃退しています。
八王子城と滝山城は小田原の北条一族が関東一円を支配していた時代の数多くあった北条一族の城の一部だったのです。
このように城主が分かっている場合もありあすが、誰が作ったかさっぱり判っていない城跡もあちこちにあるのです。

7番目の写真は八王子市の南のはずれにある片倉城の見取り図です。
不思議なのは片倉城の主が分かっていないことです。鎌倉時代よりも前の山城と推定されていますが、誰が作ったか不明です。謎の城跡なので、ロマンを感じ何度も登りました。
 
8番目の写真は頂上にある本丸跡の広場です。

9番目の写真は城跡にある住吉神社でです。
この片倉城のように誰が作ったかが分からない城跡が多摩地方には沢山あるのです。
例えば深大寺城も誰が作ったか確定されていません。
築城した人が判っていない城跡が意外に多いのです。
高幡不動の裏山に登ると頂上に土塁が残っていて、素人目にもある時代に城があったことが分かります。
裏山を下りて高幡不動の和尚さんに尋ねました。しかし文献が無いから知らないの一点張りでした。ただ発掘調査で、鎌倉時代よりも古いと推定されていると言っていました。

学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。地方の歴史はあまり教えません。
自分で少し地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多いことに驚きます。
歴史の闇に消えてしまった事実が沢山あるのです。失われてしまったものに対する好奇心が湧きあがって来ます。
さらに書けば東京には江戸城の他に、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどもあるのです。これらの城や館は天正18年の秀吉勢の小田原城攻撃によって降伏します。
そうするとすぐに関東一円の北条一族の城や館が秀吉勢に揃って降伏してしまったのです。
そして江戸に入った徳川家康は消滅した数多くの城や館を再び利用することはありませんでした。
直轄領として代官を派遣する場合に川越城や土浦城や行田城は代官の館として利用しただけで、その他の数多くの戦国時代の城は意図的に歴史の闇に葬ったのです。文献も消えてしまいます。

これらの数多くの城や館にはそれぞれ主がいて、家族がいて、武士集団が住んでいたのです。それが江戸時代になると消えてしまったのです。歴史の闇に消えてしまったのです。何かはかないです。無常です。
それにしても城の数の多いのに驚かされます。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像され感慨深いのです。
現在私が住んでいる東京の多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多ようです。
しかし城跡を発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土し最近、色々なことが分かって来ました。それらの情報は現地の歴史資料館に行くと分かります。

今日は現在の東京に残っている江戸時代以前の城跡について少しご紹介いたしました。
さて皆様かの住んでいらっしゃる土地にも江戸時代以前の城跡や館跡がたくさんあると思います。それをお教え頂けたら嬉しく存じます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

見晴らしの良いドライブウエイの風景写真

2018年10月25日 | 写真
どういう訳か私は若い頃から車の運転が好きでした。車の加速や減速の時に感じる感覚的刺激が好きなのです。加速、減速の時のエンジンの音がたまらいのです。そして左右に揺れる時の感覚が好きなのです。
この感じはヨットの帆走の時も同じように感じました。波に揺られながらセイルが風を掴み、グイと前方に引っ張っていくときの快感がたまらいのです。そして舷側を打つ波の音が好きなのです。
ヨットの方は体力が必要なので75歳できっぱり止めました。車のドライブは安全に気を使いながら現在でも楽しんでいます。
何時も同乗している妻が私の運転は安全で安心だと評価しています。
毎日、ドライブに出ます。今日は一人です。行った所は何時もよく行くコースです。
多摩川を渡り、JR南武線の稲城駅近辺から川崎街道に入ります。そして都立桜ガ丘公園の入り口交差点で左折しました。今日は公園内をあちこちゆっくり走りました。
桜ガ丘公園の横の抜け道を通って「多摩尾根幹線道」に出て帰って来ました。
「多摩尾根幹線道」の沿道には広大なゴルフ場があって見晴らしが良い尾根の上の自動車道です。遠方にはるかに新宿の高層ビル群が見えます。
今日撮って来た写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は都立桜ガ丘公園から見た多摩市の町並です。遠方の山並みは丹沢山系です。

2番目の写真は桜ガ丘公園の無料駐車場です。何時行っても空いています。

3番目の写真は「多摩尾根幹線道」の沿道にある広大なゴルフ場です。

4番目の写真も「多摩尾根幹線道」の沿道にあるゴルフ場です。

5番目の写真はJR南武線の稲城駅近辺にある崖です。崖の上の樹木が魅力的なのでよく来る場所です。
崖の上の樹木と崖の関東ローム層の重なりを飽きずに眺めています。

昔のお寺と檀家との関係と現在の寺院仏教の衰退

2018年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。叔父は同じ祖父の後の住職でした。
父も大学の定年後、島根県の曹洞宗の宗安寺の住職になりました。弟も大学定年後、宗安寺の住職になりました。そんな関係で私は戦前の田舎のお寺と檀家の関係を少し憶えています。
遠い昔の記憶のうえ、兵庫県のある山里の正林寺と檀家の関係なので日本全国で同じようだとは思いません。
しかし戦前の農村におけるお寺と檀家の関係が少しだけお分かり頂けると思います。
正林寺は白壁の塀に囲まれ高台にありました。見上げると石段の上に質素な山門がありました。後ろに緑の山があり遠方から見るとそれは美しい小さなお寺でした。
住職の祖父と祖母に3人の兄弟がいました。長男と三男が都会の大学を出ましたが、次男の叔父は祖父のあとの住職になったのです。
最近、老境に至って考えることは、あの貧乏なお寺の息子2人が帝国大学を卒業出来たお金は何処から出たのだろうと不思議に思っていることです。
田舎のお寺には少しばかりの田畑が寺領として付随しています。住職一家の一年間の最小限の食料を作るためにあるのです。祖父のお寺には3、4枚の田圃の寺領がありました。下の集落の周囲にも稲田が広がっています。
寺領の田圃の田植えや稲刈りは檀家の人がしてくれます。収穫した米は寺の倉の中にいれ一年間たべます。
野菜は檀家の人がいつも持ってきてくれます。味噌、醤油も檀家の人が届けてくれます。
この正林寺には墓地がありません。集落のあちこちに小さな墓地があり土葬していたのです。
檀家の人が死ぬと住職が戒名をつけます。その戒名を書いた位牌を二つ作ります。一つは自宅の仏壇に祀り、もう一つは正林寺の本堂の須弥壇のお釈迦様の像の後ろの段の上にならべます。そうして住職は毎朝、釈迦如来像と多くの位牌へお経を詠んで死者の冥福を祈ります。
故人の法事は本堂に親類縁者を招き入れて長いお経を詠みます。
お彼岸やお盆には住職は袈裟を着て集落の一軒一軒を回って短いお経を詠みます。私も子供用の袈裟を着て一緒に檀家まわりをしました。お経もあげました。
お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年ありました。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。
このようにお寺の住職は檀家の集落の故人の世話をするのです。その恩返しに檀家の人々は住職一家が生きて行けるように食料を供給するのです。この人関係は慈悲深いお釈迦さまによって見守られているのです。
昔のお寺と檀家の関係は温かいものでした。帰省した私共に対しても檀家の人々は実に温かく接してくれたのです。
しかし戦前の農村は貧しかったのです。お寺も現金収入が無くて貧しかったのです。
祖父の後に住職になった叔父が言っていました。神社仏閣には現金収入が無いので必ずお賽銭を入れなさい。10円でも20円でも入れなさい。この叔父が死んでからもう何十年にもなりますが、私は現在でも神社仏閣に行けば必ず少額のお賽銭を入れます。
こんな貧乏寺なのに長男と三男が都会の大学を卒業出来たのは不思議です。必ずや檀家の精神的な支援があったのでしょう。その恩返しのつもりか父は大学定年後、私財を使って島根県の田舎の曹洞宗の宗安寺の本堂を再建し、住職になりました。現在は私の弟がそこの住職をしています。

戦前の農村におけるお寺と檀家の関係は濃密で温かい関係だったのです。
それなのに何時の間にかお寺と檀家の関係が疎遠になり、良い寺院仏教が消滅しそうな雲行きです。
とくに経済の高度成長の頃から都会に出て来た人が都会の集合墓地に墓を作るようになってからお寺と関係が無くなったのです。これも時代の流れです。
現在は寺院仏教は悪いという人が多いようです、
私はカトリックの信者ですが、戦前のお寺と檀家の親密な関係を懐かしく思って居ます。貧乏な檀家と貧乏な寺でしたが、その関係は心温まるものだったのです。

この写真は正林寺の鐘楼を見上げた光景の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

私は馬鹿でした!

2018年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
10月20日に、「日本人は欧米人と共通の価値観を持っていない」という記事を掲載しました。
その冒頭部分は次のような物でした。
昨日、「サウジ記者惨殺で大騒ぎ、日本にとっては対岸の火事」という記事を掲載しました。
私が主張したかったことは、この事件を対岸の火事のように冷ややかに見ている日本人には問題があるという主張でした。
日本人は欧米人と共通の価値観を持っていないということです。人間の平等とか自由に関して共通の価値観を持っていないということです。
日本人が欧米人の感じ方を深く理解していないのが悲しいのです。
しかし多くの日本人はそれが当然だと考えています。そんな欧米人の感情は放っておけと感じているのです。日本人には関係ないと思っているのです。・・・・

この記事の評判は非常に悪かったのです。日本人は各人それぞれの価値観を持っているのが当たり前です。何も欧米人と同じ価値観なんて持つ必要などありませんという反対意見を沢山貰ったのです。そして私の主張は現実を理解していない机上の空論だと非難されました。
下書きを読んだ妻がまず口をとがらせて言いました。あなたとは価値観がいろいろ違います。それでも平和に暮らしているのだから良いではありませんかと。この意見と皆様から頂いた批判を虚心坦懐に考えれば私が間違っていることに気がつきました。
私は馬鹿だったのです。

今日は何故、馬鹿な間違いを書いてしまったか理由を書きます。
理由は二つあります。一つは自分の職業病のせいです。もう一つの理由はキリスト教の信者なので仏教徒や無宗教の人の価値観を考慮に入れなかったせいです。
以下にその説明をさせてください。

(1)人類共通に価値のある研究成果を上げなければ駄目な研究者だというお題目を唱える職業についていたので間違いました。
私は工学部で工業の基礎研究をしていました。分野は金属精錬で、その技術の進歩に役に立つ物理化学の実験的研究でした。
いつも目標にして心がけいたことは世界に通用する研究をすることでした。良い研究とは国境に関係無く金属精錬の工業に少しでも役に立つ研究です。
私が努力したことは研究成果が世界中に普遍的に通用する成果を少しでも上げることでした。
このように工業の基礎研究においては世界共通の価値を常に考えます。
このことはあらゆる分野の工業の基礎研研究で要求される必須条件なのです。
このように科学や工学の研究の分野では「共通の価値感」が間違いなく存在しているのです。
この状態を浅はかにも政治的な価値観や宗教的な価値観まで同じだと考えたのです。
人間の平等や人権に関する考え方は国々によって違います。個人、個人によって違います。
それなのに日本人は欧米人と人権などに関しても共通の価値感を持つべきだと主張したのです。
それは工学の研究者としての職業病のような愚かな主張でした。

(2)人間は神の前で完全に平等だというキリスト教を信じていたので無宗教の人々の価値観に言及しなかった間違いもありました。
人権は一人一人へ神が与えたものだから重要視し、それが世界の共通の価値観にすべきという主張は他の宗教への配慮が無いのです。これこそが前の記事の欠陥でした。
お釈迦さまは人間は平等だとは教えませんでした。第一、この世の現実を見れば人間は不平等なのに気が付きます。貧しい家に生まれた人は出生から不平等なのです。
不平等だと不平を言い続けているの周囲から疎外され不幸になります。
無宗教の人も人権は大切だと思いますが、自分の人権だけを守ろうとすると協調性が無いと言われます。
日本では和を以って貴しとなすという言葉が優先します。
このように人権や人間の平等が重要だという考え方はキリスト教から生まれた思想です。
ですから無宗教の人の多い日本やアジアの仏教国や中東のイスラム教の国々でもキリスト教から生まれた思想が通用すると考えたら大間違いです。

皆様から真摯なコメントを沢山頂いたおかげで自分の間違いが分かりました。
特に中村 裕一 さん、Motoko Boutdumonde さん、石山 望 さんへ感謝します。

それにしても日本のマスコミには問題があります。末尾にMotoko Boutdumonde さんと石山 望 さんのご意見をつけましたのでご覧ください。

今日の挿し絵代わりの写真は3つの都立公園の秋の風景写真です。1、2、3番目の写真は小金井公園で、4、5番目の写真は武蔵野公園で、6,7番目の写真は野川公園です。昨日撮りました。

それはそれと、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)


===日本のマスコミの欠陥===================
Motoko Boutdumonde
おっしゃることは良く分かりますし、この風潮を嘆いておいでになることも良く理解しております。ただ、また生意気なのですが、私の思ったことを述べさせてくださいませ。
この事件に関し試しにグーグルで日本語で「サウジアラビア カショギ」で検索したところ、ほとんどがついこの数日の記事で、カショギ氏が蒸発してから大分経ったものしか見つかりませんでした。ということは日本人が欧米人と共通の価値観を持っていないと言うよりはメディアが取り上げないことに問題を感じています。例外は朝日新聞とAFPBBです。この2社は早速5日に報道していました。
日本のメディアが騒げば自ずと日本の方もこういった事件に注目するのではないでしょうか。
いつも私が感じることは、日本のメディアの意識の低さです。もちろん全てのメディアがそうであるとは申しません。普通一般のニュースとならなければ「知らない」訳ですから。日本のテレビとか観ても、全局が例えば芸能人のスキャンダルを追ったり、くだらない事を大げさに報道して、肝心なことに視聴者の眼を向かせないように思えます。それでなければ視聴率が落ちるのかも知れませんが、新聞などを見ても特に海外のニュースに割かれている面積はひどく少ないような気がするのです。メディアがこれではどうやって日本人の価値観が、世界情勢に関するニュースを提供されている欧米人のものと共通になれるのでしょうか。

石山 望
人間は、自分に固有の価値観を持てばいいとは、思います(しかし、その価値観は、客観的に見て「妥当」でなければなりませんけれど。荒唐無稽、無茶苦茶ではない)。
しかしながら、異国で起っている事は、自分には関係がない、または何の影響も感じないからと言って、無関心でおられるものでしょうか。
私は、30歳まで日本にいましたが、その間、日本の本当のところ、ましてや異国のことは、正直に言って、何も知りませんでした。
日本を出たのにはいろんな理由がありますが、そのうちの一つが、この世界を見たいということでした。もともと日本には住めなかった人間でしたので、それで、良かったのです。気持ちはすっきりしました。
幸い、私の住んでいる英国では、直接自分たちには関係がなかっても、世界の隅々のことまで、逐一知らせてくれます。これはありがたいです。
そうすると、物事を「俯瞰的に」見ることができます。自分のおかれている立場を知ることができます。
さりながら、私、日本も日本人も好きですので、毎年一回帰ります。
そんなに不満を抱くのでないのであれば、自分の生れ育った国で、一生を終えるというのが、最高の幸せなんですよ。私はそう思います。













秋の歓喜、美しい空と紅葉、黄葉の風景

2018年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

秋は歓喜の季節です。澄んだ高い空に白い雲が美しい模様を描いてくれます。
空気も程よく乾燥して爽やかな風が頬を撫でて行きます。
蒸し暑くて耐えられなかった長い夏を辛抱した後で、このような爽快な日々が来るのです。歓喜です。
その上樹々の葉が黄色や赤く変わって野山を飾ります。
昔は紅葉した庭の落ち葉を集めて落ち葉焚きをしたものです。そのかぐわしい煙の匂いが懐かしいです。
今日は去年の11月に撮った秋の空と紅葉の写真をお送りします。ここ東京近辺では10月中はまだ紅葉になっていません。紅葉が待遠しい風景です。

1番目の写真はでは相模湖の上の秋空です。薄く筆で白く描いたような秋独特の雲が広がっています。

2番目の写真も相模湖の上の秋空です。秋独特の白い雲が山の上に踊っています。
秋独特の雲と言えば鯖雲や鰯雲や羊雲ですが、すぐに消えてしまうので肉眼でしか楽しめません。写真をお送り出来ないのが残念です。

3番目の写真は山梨県の甲斐駒岳の山麓の秋の色です。

4番目の写真も同じです。褐色に近い秋の色も美しいものです。

5番目の写真はの私の山の小屋に登って行く道の風景です。黄葉した樹々が道を明るくしています。

6番目の写真は小屋の周囲の林の中に流れる紅葉を焚いた煙の写真です。昔は焚火をしていましたが焚火禁止になったので、落ち葉を少量室内の薪ストーブで焚きます。煙の香りを楽しむためです。

7番目の写真は山小屋の帰りに寄った昇仙峡の上のダム湖の黄葉の風景です。水面に黄葉が映っていて美しい風景です。

さて紅葉を焚き、その煙の香りを嗅ぐと必ず想う漢詩があります。
白居易が昔遊んだ仙遊寺の林で紅葉を焚いて酒を温めたことを回想する漢詩のことです。
年老いた自分は遠方の仙遊寺の林へ行く事はもう無い。しかしそこへ帰って行く君が羨ましい。そんな内容の詩です。この句は平家物語にも出て来て日本でもよく知られています。
山林の中の小屋の周りに散り敷いた紅葉を掃除して、薪ストーブで少々焚く度に、思い出す漢詩です。
毎年晩秋になると小屋の周りの落ち葉を掃き集め綺麗にします。
林間に流れる煙の香りを楽しみながら、行く秋を惜しみます。
季節の移ろいは早く、あんなに猛暑だった夏も嘘のようです。間もなく白い雪が一面に覆います。

寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易

曽於太白峰前住
数到仙遊寺裏来
黒水澄時潭底出
白雲破処洞門開
林間煖酒焼紅葉
石上題詩掃緑苔
惆悵旧遊復無到
菊花時節羨君廻

<通釈>
その昔、私が太白峰の麓に住んでいた頃はよく仙遊寺へ出かけたものだ。
水が澄む秋の季節には、川淵の底まで透けて見え、白雲が切れた辺りに
仙遊寺の山門があった。また仙遊寺の林間では散り落ちた紅葉を焚いて
酒を煖めたり、緑苔を払った石の上に詩を書いたりしたものだ。
ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。
菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。

<語句の解説>
・王十八・・・・排行(兄弟・従兄弟の順の十八番目)、の意。
・寄題・・・・・その場所から離れている地で詠ずる、の意。
・太白峰・・・・都長安の県城南方20kmにある秦嶺山脈の主峰のひとつ。
海抜3767m、李白の「太白峰に登る」で有名。
・仙遊寺・・・・唐の都、長安の郊外にあった寺。
・黒水・・・・・秋の川の水、の意。
・曾遊の地・・・以前に遊んだ土地。
・潭・・・・・・川の淵、の意。
・惆悵・・・・・恨み嘆く、の意。
以上の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/200812110000/

さて皆様はこの素晴らしい秋の季節をどのように楽しんでいらっしゃるでしょうか?

それはそれと、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)


今日のカトリック小金井教会のミサの様子

2018年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はイエズス会の竹内修一神父さまが司式して下さいました。主任司祭の加藤神父さまが補佐役をなさって下さいました。
カトリック小金井教会では毎日ミサがありますが、日曜日は午前10時から約1時間の主日のミサがあります。毎回、150人から180人の参加者がいます。
洗礼を受けていない人々も沢山参加していますし、見学だけの人もいます。教会では誰でも歓迎しています。
カトリック教会の全世界のミサの式次第は同じです。その日読む聖書の個所も同じです。
ここに今日のカトリック小金井教会のミサの様子を示す目的は、忙しくて教会に行けなかった方々のお役にたてるためです。ミサに行きたくても高齢のため行けない方々のためです。
そしてキリスト教に関係の無い方々にも少しキリスト教を知って頂きたいのです。
それでは撮って来た写真に従って今日のカトリック小金井教会のミサの様子をご報告いたします。

1番目の写真は主任司祭の加藤神父さまが福音書を朗読している場面です。今日の朗読はマルコによる福音の10章の35から45まででした。尚、ミサの式次第は、http://ubecat.jp/missa/ に出ていますので、ご覧ください。

2番目の写真はイエズス会の竹内修一神父さまが説教している場面です。
竹内修一神父さまは上智大学キリスト教文化研究所所長だけあって知的で明快な説教をします。静かに話されるので押し付けがましくないのです。

3番目の写真は竹内神父さまが、「みなさん、このささげものを、全能の神である父が受け入れてくださるように祈りましょう」と言いながら祈っている場面です。

4番目の写真は竹内神父さまがパンと葡萄酒を本物のイエス様の肉と血に聖変化するように祈っている場面です。
「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものを尊いものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御体と御血になりますように。」

5番目の写真は聖変化したパンを「イエスの体」と言いながら信者一人一人に手渡している場面です。

実際の式次第はもっと複雑ですが、主要な部分だけを簡略に説明すると以上のようになります。

カトリック教会に登録している信者は全国で44万人ほどいます。
詳しくは、https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2018/07/statistics2017.pdf に掲載されています。

しかし教会のミサは卒業したと言ってミサへ出てこない方もいます。
どうでしょうか、同窓会のようにミサに時々ご出席になられるのも良いと思います。
今日はそんなことを考えました。失礼します。

秋の青空に誘われて奥多摩湖まで行ってしまいました

2018年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は秋の青空が広がっていました。
つい青空に誘われて奥多摩にドライブに行きました。
樹々はまだ紅葉していませんがカッパー色になって秋の山々の美しい風景です。
鳩ノ巣くらいで帰って来るつもりでしたが、秋の色の山々にうながされて奥多摩湖まで行ってしまいました。

ずっと晴れていましたが奥多摩湖の上だけは暗い雲が覆っています。奥多摩湖だけ晩秋の風景になっていました。
そんな奥多摩湖の写真5枚のと続いて2枚の御岳駅の近くの多摩川の風景写真をお送りいたします。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)















===参考資料=========================
奥多摩湖とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/奥多摩湖

1957年(昭和32年)多摩川を小河内ダム(おごうちダム)によって堰き止めて造られた。竣工当時、水道専用貯水池としては世界最大規模の貯水池であった。現在も水道専用貯水池としては日本最大級を誇る。現在、東京都の水源は利根川水系を主としているが、渇水時の水瓶として極めて重要な役割を担っている。また、東京都交通局の発電施設(多摩川第一発電所)も併設されており、発電された電気は東京電力へ売却され、奥多摩町・青梅市などの多摩地区に電力を供給している。
湖畔には様々な見どころ・観光施設があり、首都圏のオアシスとしても親しまれている。

ダム建設にあたり、旧:小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が移転を余儀なくされた。中でも旧:小河内村は、その大部分が水没した。移住先の一つに山梨県北巨摩郡高根町(現:北杜市)近辺があり、彼らはその後小海線清里駅(清里高原)周辺に再移住し、清里高原における農業や畜産、観光業の発展に大きく寄与した。
工事殉難者慰霊碑
建設中に東京都職員や建設会社社員、下請作業員ら87名が殉職し、現在では湖畔に慰霊碑が建てられている。

日本人は欧米人と共通の価値観を持っていない

2018年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「サウジ記者惨殺で大騒ぎ、日本にとっては対岸の火事」という記事を掲載しました。
私が主張したかったことは、この事件を対岸の火事のように冷ややかに見ている日本人には問題があるという主張でした。
日本人は欧米人と共通の価値観を持っていないということです。幾つかの分野で共通の価値観を持っていないということです。
日本人が欧米人の感じ方を深く理解していないのが悲しいのです。
しかし多くの日本人はそれが当然だと考えています。そんな欧米人の感情は放っておけと感じているのです。日本人には関係ないと思っているのです。
こういう態度には良いこともあります。今回のような中東問題に立ち入らない日本をイスラム教の諸国は尊敬し友好的になります。中東の国々は大体において親日的なのはこれも一つの理由になっています。

しかし明治維新以来の日本と欧米諸国の関係を考えると、日本はもう少し欧米人の感じ方や考え方を理解すべきではないでしょうか?
何時も理路整然としたコメントを下さる中村 裕一さんが私の感じ方に反対して次のようなコメントを投稿してきました。
・・・ムハンマド皇太子のカショギ氏殺害の関与が立証された訳でもなく、関与が既定の事実であることを前提に所論を展開しない方が宜しいでしょう。金正男氏暗殺に関わる北鮮首脳の関与に関して、その後国際世論はどうなったでしょうか。南北朝鮮宥和に大拍手でしょうか。北鮮は国民の言論の自由を奪っていないのでしょうか。北鮮は厳しく糾弾されないのでしょうか。一国の政治家ならずとも、我々は無意識にダブルスタンダードで国際事象をみているのです。・・・

コメントの内容は何時ものように正論です。しかし何故欧米人がサウジの反体制記者の殺戮を大騒ぎしているのか理解が行き届いていないようです。欧米人の感情が理解されていないのです。
極論すれば欧米人と共通の価値観を持っていないコメントです。
勿論これは言い過ぎです。中村 裕一さんはいつも人類全てに共通する価値観を追求しています。
それでイスラム教の人々を支援したくてこのようなコメントをくれたのです。しかし今回のカショギ記者の殺害に限定すれば上記のコメントはいささか的外れす。

このコメントにすぐに反応してフランス在住の元日本人女性のMotoko Boutdumondeさんから以下のようなコメントを頂きました。
・・・ 確かに殺害は立証されていません。トルコが詳しい情報を得ているらしいのですが、それを公表するとトルコにあるサウジアラビア大使館をスパイしていることを認めることになります。それをエルドアン大統領がどうするかにかかっています。
もっとも19世紀初頭からトルコ(オスマン帝国でしたが)とサウジアラビアは宿敵になっていますので、トルコの言い分が絶対に正しいと言い切ることは出来ません。
しかし他の国々(欧米諸国)がカショギ氏のサウジアラビア大使館での殺害という大事件を何の証拠もなしに鵜呑みにするとは考えられないのです。

この事件は非常に大きな問題だと思います。こちらフランスではテレビのニュースなどで大きく取り上げられています。
ムハンマド皇太子は昨年からスイスラム強硬派の粛清とか、女性が車を運転したり一人で催し物や映画に行かれるようにしたのです。
それでフランス人はこれからはサウジアラビアも自由な国になると明るい気持ちになりました。
それが今度の事件で全くの期待はずれだったことが分かったのです。
最近ではムハンマド皇太子が女性解放運動のリーダーの女性たちを投獄したり、罰したりしています。
また、カタール国との間に運河を掘って孤立させようとしています。
レバノンの首相を誘拐して強制的に辞任させもしました。挙げ句の果てには、今回カショギ氏を殺害したのです。
フランス人はムハンマド皇太子に120%騙されていた感じを受けております。
現在の皇太子ではなく別の王子が皇太子になるのではというような説もあります。・・・

尚今朝の新聞ではカショギ記者殺害の15人の実行部隊はサウジからトルコへ自家用機で乗り付け、サウジの大使館内で数分間で殺したことを明らかにしています。
その15人の実行犯のリーダーと他4人はムハンマド皇太子の側近の護衛官とも明らかになっているのです。
ムハンマド皇太子が関与していなかったという言い訳は正しいでしょうか?

以上は日本人が欧米人と共通の価値観を持っていない実例の一つに過ぎません。
共通の価値観とは感情の問題も含めるべきです。
日本人が欧米人に反発するのはある程度自然な感情ですが、彼等の感情も理解するように努力すべきと私が考えています。

今日の挿し絵代わりの写真は野川公園に毎年10月に咲くサクラの花と三鷹市の花と緑の広場の花々の写真です。昨日撮りました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










今日は晩秋のコスモスの花の写真を撮りに行った

2018年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は朝から暗い雲が覆い寒い日です。最高気温も18度と低く如何にも晩秋のようです。
曇り日の晩秋のコスモスの花も淋しそうで風情があるものです。
午後から三鷹市の花と緑の広場に行きました。色とりどりのコスモスが一面に咲いています。
そんな写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









サウジ記者惨殺で大騒ぎ、日本にとっては対岸の火事

2018年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
サウジアラビアの反体制ジャーナリストのカショギ氏がムハンマド皇太子関係者に惨殺された事件でアメリカとヨーロッパは大騒ぎをしています。その理由は次の3つと考えられます。

(1)昨年、ムハンマドが皇太子になった後、カショギ記者はアメリカへ亡命し、ワシントン・ポスト紙の記者になりました。その記者はまだアメリカ国籍にはなっていませんが、アメリカ人は自分達を頼って来た記者を惨殺されたので感情的に怒って大騒ぎをしています。惨殺現場はトルコにあるサウジの大使館内だったのです。

(2)トランプ大統領はこの事件に関して、アメリカ軍の基地のある親米国家のサウジアラビア王国を援護する発言をしています。これに対してトランプ大統領に敵対するアメリカのマスコミはここぞとばかりトランプ大統領を攻撃する報道を繰り広げませ。反トランプ派が大騒ぎしています。

(3)親米国家、サウジアラビア王国はアメリカの敵のイランに厳しい政策を実行して来ました。またアメリカが支援しているイスラエルを助けるような外交路線をとって来ました。
この理由でサウジアラビア王国問題はアメリカの中東での立場を左右する重大問題なのです。いろいろな意見がマスコミに出て来るのは当然です。

対岸の火事として欧米の報道ぶりを見ていると、いささか感情的になり過ぎているような感じがします。
ムハンマド皇太子を攻撃するカショギ記者をうるさいから殺してしまったという単純な事件です。
勿論、絶対にあってはいけない事件です。この事件のせいでムハンマド皇太子の国際的な信用は酷く下落しました。ムハンマド皇太子は世界中からサウジへ投資を呼び込み、サウジを先端工業国にしようとしていました。
その政策が挫折してしまったのです。その為の10月下旬の予定されていた投資のための国際会議の出席者がいなくなったのです。
日本からは孫正義さんが出席し、2兆円ほどの投資をすると言われていましたが、孫正義さんは欠席すると発表しました。

さて中東では常に血なまぐさい事件が次々と起こります。日本人記者の後藤健二さんもイスラム国によって殺されました。そのイスラム国もアメリカとクルド族によって滅ぼされました。このように中東では何が起きるか誰も分からいのです。
そこでもう一度、中東の地図を見てみましょう。見る時、親米国家とプーチンのロシアと友好関係にある国と色分けして地図を見ると分かり易いのです。

この地図の出典は、http://www.i-ise.com/jp/column/salon/201501.html です。 
この地図で広大な領土のあるのは親ロのイランと親米のサウジアラビア王国です。
その間にアメリカが必死で石油の利権を守っている湾岸の親米の4国が挟まっています。クエイト、バーレン、カタールとアラブ首長国連合(UAE)です。
そして地中海よりに現在もロシアの軍事基地がある戦乱の続いているシリアがあります。
その南隣が親米のレバノンとヨルダン王国です。
そしてその西の地中海に面して紛争の絶えない親米のイスラエルと親ロのパレスチナ自治区があります。

このように中東はアメリカとロシアの代理戦争を行っている上にシーア派とスンニ派というイスラム教の宗派の勢力争いも重なって事情を一層複雑にしています。
この事情を踏まえて今回の事件を振り返ってみましょう。
そうすると今回の事件はムハンマド皇太子の激情が起こした個人的な犯罪という性格が強いようです。
ムハンマド皇太子は常に白黒のはっきりした政策を好んでいました。
彼の外交では、アメリカの宿敵イランの最高指導者ハメネイ師を「新たなヒトラーだ」と批判してアメリカを喜ばせましたが中東では物議を醸していました。
また昨年のカタールとの断交や2015年のイエメン軍事侵攻も、皇太子の意向が反映された政策だといわれています。
ムハンマド皇太子が直接、殺害を指示したと疑い、その詳細を伝える報道も相次いでいるのです。
ムハンマド皇太子は国内改革の象徴的存在である半面、敵対する国や人物を容赦なく打ちのめしてきた皇太子の激しい気性が今回の事件の原因なのです。
この皇太子の欧米の評価は厳しくなりました。
 「崖っぷちに追い込まれる皇太子」(米誌ニューヨーカー)、「輝き失う皇太子」(英紙フィナンシャル・タイムズ)。海外の有力メディアではこうした見出しで連日、多くの報道がなされているのです。

このような騒ぎに対して日本人はどのような態度を示すべきでしょうか?
私は次のことを言うだけで、それ以上のことは沈黙を守ったほうが良いと思います。
「カショギ記者を惨殺し、言論の自由を奪ったムハンマド皇太子は厳しく糾弾されるべきである」
さて皆様は今回の事件に対してどのようなご意見をお持ちでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)