後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

『宗教間の争いを防ぎ、世界を平和にするある一つの考え方』 前編

2017年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
私のこの欄ではいろいろな方にお願いをしてご寄稿を頂いています。
ブラジル在住の平峰盛敏さんにもお願いし、19歳でのブラジル移民から、ブラジルで体験なさったいろいろな興味深いお話を3回ほどご寄稿して頂きました。
さてそれはそれとして、平峰盛敏さんは「生長の家」という宗教の指導的な立場におられる方です。
私自身はカトリックの信者ですが「生長の家」は穏健で、その上、真面目に慈善事業もしている宗教組織だと尊敬しています。
以前にも日本在住の「生長の家」の幹部の方に、この欄でその教義の説明をして頂いたこともあります。ご記憶の方もいらっしゃると思います。
そこで今回は平峰盛敏さんにお願いしてブラジルにおける「生長の家」に関してご説明をして下さいとお願いいたしました。
お願いしました理由は2つです。
一つは「生長の家」の考え方が世界の平和にとって役に立つのではないかと考えたからです。宗教間の対立や争いが「生長の家」の教えで無くなると考えられるのです。楽観的過ぎるでしょうか。
二つ目はキリスト教文化圏のブラジルで日本独自の新興宗教がどのように受け入れられているか興味深いからです。
それでは平峰盛敏さんの文章を前編と後篇の二つに分けて、今日はまず前編をご紹介致します。
なお挿し絵代わりの写真は平峰さんからお送り頂いたブラジルの風景写真です。
===平峰盛敏著、ブラジルに於ける「生長の家」の布教状況(前編)=====
(1)生長の家の教えの簡単な紹介
情報テクノロジーの発展に伴って 以前は お知り合いになれない方々と、お友達に なれるように なりました。 それで、後藤和弘先生に 出会う事が 出来た事は、本当に良かったと思っています。広大な文化や豊かな 未知の世界に誘っていただきました。また、日本の現状、日本の国際関係の実情など、貴重な情報を、簡潔に伝えて下さるので、いつも愛読しております。
さて、生長の家では、人間は、皆神の子、仏の子であると教えられます。 皆神様の知恵、愛、生命の現れである。大自然も、同じ様に、神様の自己顕現であると教わります。 また、全ての宗教の神髄は、一つの創造神から出た 完全な救いの光である と、教えられます。
五官を通じて見る世界の事を、現象世界または、投影世界とよびます。神様の、陰りの無い世界のことを、実相世界と呼びます。真理、実在、理想世界、天国、極楽、倫理、平和等は実相世界に属します。病気、不幸、戦争、 悲しみ、罪等は、神様がお造りになったものではないから、実在ではない。実在でないものは持続しないから気に掛けるな。気に掛けている期間だけ、持続する心の投影であるから意識をもって否定しつつ生活するよう、教えられます。

神様が造られなかった 多種多様の不幸が、何故、人間の目前に アリアリと現れるのであるかと質問があるでしょう。答えは、それは、人間が、神と一体・自然と一体である自分の実相に気づかず人間本性の理解不足であるからです。
人間は迷い、無明、非実在、悪夢を見ているのであると、教えられます。
迷いの心で見る世界は、曲がったレンズ、曇ったレンズで撮った写真のように、実相そのものが現れないのであると教えられます。
また、現象投影以前の実相世界には、全ての時間空間が一点に 収まっていて完全円満である。 けれども、心の投影によって現れる現象世界には、あたかも大学を卒業して一人前の博士になるまで時間と云う要因が必要であるのと同様、その時その時のシーンでは、実相の完全性全部を投影していないのです。その恵みが確認出来ないと教えられます。焦らず信仰を堅持すると天国的世界が現われると教えられます。
以上が「生長の家」の教義の簡略なご紹介です。

(2)自分が入信し たきっかけや経緯
鹿児島県のある中学校通っていた頃、叔父に勧められて「生長の家」の創始者の谷口雅春先生の本を読むようになりました。
誌友会や講演会などに誘われ、父母の信仰している神道、仏教の素晴らしさ、キリスト教の素晴らしさ 及び日本の素晴らしさを知りました。 それらの教えを実践するように教えられました。要は、知恵を使って愛と感謝を表現しなさいという事です。 勉強に、仕事に最高の 真心を注ぎ込みなさいと言うことです。
高校進学前の冬休みに叔父の援助で、霧島神宮で催された中学生高校生向けの二泊三日の神性開発練成会に初めて参加し、感動に溢れました。山々が一面雪に覆われて育てて下さっている恩恵に感謝しなければいけないと云う意識がうまれました。
その時、お父さんが戦死したある中学生が号泣しました。"お母さん、赦して下さい。私は、これまで、感謝が足りませんでした。" と、叫んで号泣しました。
感受性の強い年代の少年達が、彼を囲んで泣きました。講師もその輪に入って泣かれました。 二十分後、御昼を頂いている時100 km 離れている処にいた母親の心に伝わったので、居ても立ってもおられず、喜びの発信をされたのである、と、説明されました。 それからは、人間は肉体以上の霊的存在であると云う信念が、揺るぎませんでした。強い愛念感謝の想念は、物質に頼らず空間を経て伝わるものである事を信じる様になりました。

(3)ブラジル移民後の「生長の家」の布教活動の体験
尊敬している その叔父が ブラジル移民の計画を話したので、直ぐ賛成しました。日本で、四年間生長の家の信仰を深める努力をした事が 渡航後役立ちました。今いる環境で最善を尽くせるよう 自分の内面にいらっしゃる神様に祈り続けました。
1962年にブラジルに着いて日系社会の中に生活がはじまりました。遠く離れた日本のもうひとつの島の様なものでした。その中に 沢山の生長の家家族がありました。日本で親しんだ通りの和やかな大きい組織が 機能していました。それは、大きな神様の恵みでした。毎月数回、日本語誌友会、講演会、年に数回、 慈善バザール、海岸供養 として溺死霊 の供養を海開きの頃していました。海水浴を兼ねたピックニックでした。その上、 演劇会 等に家族で参加出来る環境がありました。
そのほかにも、日本人会、県人会、日本ブラジル文化協会、総領事官等の主催になる 運動会、日本映画観賞週間、等も有り、移民の先人達の愛を感じました。
そうして私自身もこのような活動の発展を担うな立場になって行きました。それはごく自然なことに感じられました。
1963年に、生長の家の創始者の谷口雅春先生は、南北アメリカ、ヨーロッパ数国を巡る世界平和祈願の旅をされました。
ブラジルでも 主な都市で講演をされました。その時初めて遠くから私の恩師を拝む事ができました。その時は、ポルトガル通訳はありませんでした。10年後、またブラジルに見えられました。今回はポルトガル語同時通訳を使われ、ブラジル社会への伝道を推進する方針を出されました。 数日にわたる厳格な幹部講習を受けた後、試験を経て、講師の辞令を頂きました。背後で支えている日系人社会に感謝しつつ、私は出来るだけ早く非日系人のブラジル人の方々にこの御教えをお伝えしたいと大きな夢を抱いて講師としての伝道生活がスタートしました。それは1973年の頃でした。
しかし、現実は厳しいものでした。言葉や文化の壁にぶつかりました。10分間の講話の準備をするのに、10時間以上勉強する必要がありました。
外国語のポルトガル語で仏教が説く世界観を伝えることは、本当に難しい事であると痛感しました。
"色即是空!" " 物質は無い"。"物質に見えていても、物質ではない"。中々伝わりません。悪戦苦闘する年月が続きました。
三年経ってやっとポルトガル語講師としてラテンアメリカ伝道本部から認められ、ブラジル社会への伝道のやり甲斐が あると感じた地方へ移住しました。
妻と13歳から2歳の子供7人を連れて、ブラジルの南部から北東へ、約3千キロの距離を移動しました。生活の目処もない、ただただ生長の家をお伝えしたいとの夢に人生をかけて、大きな冒険をしたのです。
若さからうまれたその気概を、今、自分自身を祝福しています。その移住先の町には幸運にも本田オートバイ系の下請け会社がありました。その製作所に通訳として現地雇用されました。 苦学独学で修めたポルトガル語のお陰で、やっと安定した生活が、出来る様になりました。 文化の壁から間違いも多かったけれども、愛を込めて話すと伝わるものであると、体験しました。
(以下は後編に続きます。)





東洋と西洋の融合(5)明治維新と札幌、横浜、熊本バンドの結成

2017年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新によって西洋の宗教が日本に奔流のように流れ込みました。そして当時の学生たちはキリスト教をこぞって受け入れたのです。
札幌の農学校や熊本の洋学校などの新しい学校にはプロテスタントの宣教師が招聘されていたのです。
その結果、明治初期の学生たちはキリスト教に従うとい誓約を集団的に宣言し、各地にこの集団組織が出来ました。この集団を「バンド」と呼びます。
札幌バンド(メソジスト)と横浜バンド(長老派)と熊本バンド(会衆派)は明治初期の三大バンドと言い、その後の日本のプロテスタント系の教会やミッションスクールの発展のもとになったのです。
それはまさしく西洋と日本文化の融合の一つの例です。
そこで今日は明治維直後に出来た「バンド」について概観したいと思います。
まず内村鑑三や新渡戸稲造などを輩出した札幌バンドを見てみましょう。

札幌バンドは、日本のプロテスタントの発祥地の1つと言われています。札幌バンドの中の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾を中心とする青年の活躍は注目され、横浜バンド、熊本バンドと並んで日本のプロテスタント発祥の3基点の1つに数えられてます。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89 より抜粋)
ウィリアム・スミス・クラークの感化でキリスト教信者になり、「イエスを信ずる者の契約」に署名をした札幌農学校の学生集団は札幌バンドと呼ばれているのです。「誓約」は、キリストの告白、十字架のキリストへの感謝、その表現としての「真実基督教徒たる諸々の義務」を求めると共に、信仰の基準としての聖書を「神の人の言語を以て顕せる唯一なる直接の天啓」として信ずることも要求されていました。ことに注目されるのは、適当な機会がくれば、信仰の諮問を受けた上で受洗し、「或る福音主義の教会に加入すべきこと」を誓約しました。そして青年達は、1878年(明治11年)、メソジスト派の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けました。
1882年(明治15年)、札幌バンドのメンバーは「札幌独立基督教会」を設立してその教会員になります。しかし、その後、宣教師との関係の悪化により、メソジスト派との関係を絶つことになるのです。後に、新渡戸稲造はクエーカー派の信徒になり、内村鑑三は無教会を創始するのです。

一方、熊本バンドは、1876年(明治9年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し出来上がりました。この盟約を交わした集団を熊本バンドと言います。しかしその直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後、熊本の学生達は新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いたのです。

横浜バンドは1872年にアメリカ長老派教会のジェームス・カーティス・ヘボン夫妻と1859年11月にアメリカ・オランダ改革派教会のサミュエル・ロビンス・ブラウンを中心につくられました。日本初のプロテスタントの教会を日本基督公会といい、この集まりは横浜バンドと呼ばれるようになったのです。
そしてヘボンはヘボン式ローマ字を作り、さらに明治学院を創立したのです。

以上のような明治初期のバンドは日本各地に出来、プロテスタント教会が日本の学生社会を風靡したのです。
その様子は下記の日本各地のバンドから想像が出来ます。
築地バンド(長老派、アメリカ合衆国長老教会、日本基督一致教会、日本基督教会)
神戸バンド(会衆派)
阪神バンド(会衆派、アメリカン・ボード、日本組合基督教会)
静岡バンド(メソジスト、カナダ・メソジスト教会)
弘前バンド(メソジスト)
パーム・バンド(長老派)、スコットランド一致長老教会
松江バンド(きよめ派、日本伝道隊)
松山バンド(会衆派、同志社)
鳥取バンド(会衆派、)
ホーリネス・バンド(きよめ派、東洋宣教会、日本ホーリネス教会)

以上のような各地のバンドは日本各地にプロテスタント系のミッション・スクールを開設して日本の教育に大きな貢献をしたのです。
例えば私の郷里の仙台市には宮城学院や東北学院があります。
宮城学院は押川方義が創設したキリスト教(プロテスタント、福音主義:日本基督教団)系の学校で、1886年9月に創立されています。
アメリカ合衆国の改革派教会宣教師W.E.ホーイと押川方義をはじめとする日本人キリスト者たちによって、初めは「宮城女学校」が創立され初代校長にエリザベス・R・プールボーが就任しました。
女性の高等教育機関がほとんどなかった当時の仙台市で宮城女学校はキリスト教に基づく女子の高等教育を行う学校として注目を集めたのです。現在この宮城学院には幼稚園から大学まであり発展しています。
ミッションスクールとしてはこの他に聖公会の立教学院やカトリックの上智大学、フェリス学院、活水学院などなど数多くの学校があります。
このように明治初期に出来た各地のバンドや聖公会やカトリックは日本の教育界に大きな寄与をしてきました。
しかし洗礼を受ける人はごく少なく、日本のキリスト教信者は総人口の3%を越えることはありません。
これも西洋の文化と日本社会の融合のありかたの一つとして興味深い独特の文化的風景と静かに眺めています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

1番目の写真は札幌農学校の札幌バンドの青年たちです。

2番目の写真は札幌バンドの内村、新渡戸、広井、伊藤、大島です。

3番目の写真は日本組合基督教会の熊本バンド出身者です。

戦前の日本の朝鮮併合は正しかったという考えの問題点

2017年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は幾ら年をとっても驚くことが絶えません。次から次へと良い驚き、悪い驚きがあります。
例えば日本が戦前に朝鮮を併合したことは悪いことだったと書きますと、それに対して激しく反発する人が沢山います。
朝鮮併合は朝鮮側から日本政府に依頼してきたのです。近代化の遅れた朝鮮を併合して経済的発展をしてあげたのです。日本が併合しなければロシアが朝鮮を占領したのです。欧米諸国が植民地を持っているので日本も見習っただけです。
種々の理由で、朝鮮併合は朝鮮人にとっても幸せなことだったのです。正しい政策だったのです。
このような主張が安倍政権になり憲法改正が具体的に進みはじめると次第に盛んに言われうようになりました。流石にこのような意見は大新聞には掲載されませんが、インターネットの意見交換の場では盛んになされています。
誤解を避けるために始めに書きますが、私は憲法改正に賛成です。安倍政権にはかなり満足しています。
しかし日本と異なる言語と伝統文化を有する他民族を併合することは悪いことです。倫理的に悪いだけでなく、併合は日本の負の遺産として、将来、日本を苦しめます。
欧米が植民地政策という悪い政策をしているからといって、その悪を見習えば日本も悪いことをすることになるのです。
このように書くと、「人類の歴史は武力占領の繰り返しだったのです。ですから弱い国が併合されるのは当然なことです」というような反論がなされます。
しかし当然のことでも倫理的に悪いことが沢山あります。悪いことは必ず負の遺産として残ります。
それでは朝鮮を併合しないで、一体どうすれば良かったのしょうか?
朝鮮を独立国家として認め、日本が軍事的な支援をしてロシアに対抗する可能性も考えられます。併合しないで保護国として朝鮮固有の文化を尊重するのも可能だったかも知れません。
日本のやり方が乱暴すぎたのかも知れません。
朝鮮併合で上海に出来た朝鮮の亡命政府が現在の韓国政府に連続しているのです。韓国の憲法にそのように明記してあります。
上海にあった亡命政府の代表の一人だった李承晩が戦後の韓国の初代大統領になったのです。彼は一方的に李承晩ラインを日本海に引き日本の漁船を締め出したのです。
このような日本と韓国の間の歴史を大きな視野で考えることが将来の日韓関係にとって重要なことではないでしょうか?

慰安婦問題だけに感情的にならないで大きな視野で考えることが重要だと思う今日この頃です。

今日の挿し絵代わりの写真は、KITAHOさんの「デジカメ散歩」からお借りした花の写真です。出典は、http://kitaho321.blog25.fc2.com/ です。
写真は順々に、ゲラニューム・ジョリー・ビー、トマトの花、山椒の実、ヤマアジサイ、そして最後はオカトラノオです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 









「ある日本人のしみじみとした生涯と病気とのお付き合い」

2017年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
横山美知彦さんは終戦前後に家内が疎開した群馬県の下仁田小学校の同級生でした。
数年前に下仁田で同級会があり家内を車で送って行きました。帰りがけに初老の紳士が礼儀正しく運転席の私に挨拶し自分の文集を恥ずかしいものですがと手渡しでくれたのです。
下仁田町はコンニャクと下仁田ネギと麦しか取れない、山々に囲まれた群馬県の小さな町です。
文集には戦前、戦後の少年時代の回想が水彩画のように静かなタッチで描いてあったのです。下仁田ネギやコンニャクにまつわる面白い話や、山里ながら立派な山車が出る村祭りの様子がほのぼのと書いてあります。
私は彼にメールを送りこの欄に掲載したいので原稿を使わせて下さいとお願いしました。そして山里の生活を描いた短い文章を10編ほどこの欄に数年前から掲載してきました。
戦前、戦後は日本の何処も貧しい生活でした。特に米のとれない地方では麦粉と芋が主食でした。お米のご飯は病気になり臨終の時だけ食べると言われていたほどです。
下仁田で育った横山美知彦さんは毎日、家族の夕食のために小麦粉を練って「オキリコミ」を作っていたのです。
群馬県の高校を卒業して東京に就職するまではお米のご飯はほとんど食べていなかったのです。
高校卒で会社へ就職した横山さんは下積みながら心を仕事に寄せて熱心に働きました。
そして34年後に父母の待っている故郷の下仁田に帰ったのです。故郷を愛する彼のせつせつした文章の幾つかを読んで私は感動しました。
家族に感謝し、故郷に感謝しながら東京で働き、やがて故郷に帰り、老境を心穏やかに過ごす彼のしみじみとした人生に私は感動したのです。現在も町のために重要な役職を引き続き受けています。
今年も家内を下仁田の同級会へ送っていきました。帰りがけに横山美知彦さんはまた文集をソッと私に下さいました。
その文集の中に『闘病記』という長い作品がありました。
あまり長いので今回はその抜粋を以下にお送りいたします。
特に70歳になってから白血病ガンになり死線をさ迷いながらも周囲の人々へ感謝し、希望を失わず淡々と生きる様子が心を打ちます。
重い病気になっても平穏な気持ちを微塵も崩さない生き方に感銘を受けるのは私だけではないでしょう。
====横山美知彦著、『闘病記』=================
(1)戦争中に東京の板橋で生まれ、3歳で疫痢になる
私は、昭和12年11月、東京市板橋区板橋町八丁目で生まれた。78年前のことである。現在もあるが「氷川神社」の近所で、中山道の通りから百米ほど北に入った一軒家で長男として生を受け、三歳頃まで順調に育ったと聞いている。その後二人の妹が増え、五人家族で勤め人の父を中心の生活は、何処でもそうであった様に決して楽ではなかった。私の生まれる前年には2.26事件、その後太平洋戦争が激しくなる時節でもあった。田舎出の父には学歴もなく、これと云った技術の持ち合わせもなく単身で上京し、俄かに講習を受けての現在の都電の運転手が精一杯だった様だ。
三歳になった頃だろうか、突然体に異変があった。当時の詳しいことを知る由もないが、板橋病院で「疫痢」と診断され入院となった。
記憶はあやふやだが、裸電球の四畳半の部屋で玄関先をぼんやりと眺めていたところ突然大きな黒い塊が現れた。当時は滅多に見ることの出来ないハイヤーだったが、幼い私にはそれが何であるかの判断が出来なかった。
そのハイヤーに初めての経験で乗り、父が付き添いで入院した。母は生まれたばかりの妹が居り、家も空ける訳にも行かなかったのだろう。
入院の数日は生死をさまよい苦しい経験をした様だ。その後折にふれその時の状況について父の話を耳にした事がある。
しばらくして容体も落ち着いて自分の現在を幼いながら判断出来るまで回復して来て、部屋が二階であることも判って来た。
母が妹を連れてやって来たが、隔離病棟なので院内には入ることが出来ずに庭の芝生から手をふってくれたことが記憶に残っている。
父の寝ずの看病が功を奏したのか時を重ねた後退院することが出来た。だが体は怠く思うように動かず、柱に体を寄せじっと耐えていた。
やっと元気になりかけた頃「虫歯」で苦しむことになる。「疫痢」では泣くことはなかった様に思うが、さすがに虫歯はそうは行かず、痛さに堪えきれず母の背中で泣き喚いたことを覚えている。
そんな事でか幼稚園の時期になっても甘えもあったのか家を出ず、戦争の激しくなるのを不安な気持ちでじっと堪える日々だった様に思う。
(2)空襲の東京を離れ故郷の下仁田に引っ越す
太平洋戦争も激しくなり米軍機が東京上空に飛来することが多くなって来た18年春、父が突然東京を引き上げる決心をすることになる。
生来の臆病な性格からこのまま東京に居ても被害を被るだけと、まだそんな危険が迫っては来ないと大方の市民が考えている最中、田舎に引越すことになる。その後戦争は益々激しくなり、板橋は米軍機の空襲で殆ど焼失している。
父には目算があったのだろう、田舎での勤め先も予め手を回し、東京での経験をそのまま生かせる私鉄の運転士の職場を確保しての事だった。その私鉄は高崎と下仁田を結んでいる上信電鉄という単線の線路だった。
昭和19年春、田舎の国民小学校に入学することになる。だが引越して来てから住所変更の手続きが遅れたのか、入学式には出席したもののとうとう自分の名前を呼ばれることなく入学式は終わった。悔しくて、名前を呼ばれなかった恥ずかしさからか泣き叫んでしまったことが学校での「泣く」最初だった。
国民小学校も二年生の夏終戦を迎え新制小学校となり昭和25年春卒業した。特別体に異常はなかったが、戦後の物のない時期が成長期であった為か29kgという体重で卒業し中学生になった。同級生もみなそんな体重だったが、私は特に軽かった。
戦後三年経った正月、友人5名と高崎へ遊びに行ったことがあった。
当時の電車は、バスの外は唯一の交通機関であり、その電車に乗ることが楽しみだった。普段はなかなか利用出来なかった。また電車に乗るほどの用事もなかった。ただ頭の中では電車に乗り遠くへ行ってみたいと云う気持ちだけは心に秘めていた。
当時父親が運転手をしていた関係で家族パスを発行して貰えたことを利用して同僚を誘い高崎への旅が実現したのだ。
皆、僅かなお年玉を懐に、早朝の電車に乗った。気分は晴れ晴れとしていて上州の寒さを感じる暇はなかった。
高崎駅に降りた5人は歩き出した。・・・中略・・・
(3)群馬県立富岡高校を卒業し東京へ就職
昭和31年の春、高校を卒業し社会人となり東京の会社で働き始めた。
・・・中略・・・
(4)東京で34年間働いた後、父母の居る下仁田に戻る
平成3年6月、東京から父母の住でいる郷里の下仁田に移ることになった。高校を卒業し上京してから34年が経過していた。
田舎に戻り、高崎市内の電気設備会社を親戚から紹介され、翌日から現場の作業に従事することになった。
平成20年の退職まで電気工事の業務を中心とした、パソコンによる事務作業に従事した。この間、平成16年、父が富岡市内の病院で、94才の生涯を閉じた。そして70才を過ぎ平成20年の6月、仕事から解放された。
(5)70歳で白血病ガンになり九死に一生で生存する
それより遡るが、五月の連休明けの明け方、就寝中寝返りを打った瞬間右足がけいれんと痛みで布団から起き上がったものの、立ち上がることが出来ない状態になった。
翌日、五年ほど前に腰痛の治療で世話になった整形外科医(級友の榎本君の甥)の診断を受けた。X線で見る限り腰、足には特に異常は認められないが、暫く通院して様子を見ることになった。
痛み止めの注射を何度か打ったが、改善はおろか微熱を発する様になり、寝汗で毎夜下着を交換する始末、体温も38度以下にはならなくなっていた。
その状態を先生に話したところ、これは当院の範囲の病状ではないのでと近所の富岡市高瀬地内にある内科診療所を紹介され、その足で家内と向かう。まず血液検査を受ける。数日後先生から診断を下せないのでと総合病院を紹介され、翌朝家内と出かける。診断の結果「肺炎」を起こしているが、入院せず通院により治療することになった。
それから約一か月過ぎたが改善されずに、食欲は日毎に落ちてゆき、つらい日が続いた。
7月の終わりの先生の診断中、突然群馬大学の教授の巡回があり、ふと私のカルテを見て、ここでは駄目と「群大」「日赤」「碓氷」「黒澤」と該当医院に電話をかけて空きベットがあるか否かを確認してくれた。最後に電話した渋川市の国立病院機構西群馬病院に一床空きがあるとの回答で即入院手続きをして下さり、全てのカルテや資料をコピーして私に持たせてくれた。

翌日(7月31日)家内と朝早く病院を訪ねた。病院は伊香保温泉の手前を北側に入った所にあった。自宅からは片道50kmに位置していた。
松本守生先生(血液内科医長)を中心に看護士に病状を私が説明をした後、すぐさま入院し血液検査が始まった。
その後の8月6日先生に呼ばれ、家内、長男、妹が同席の中、応設室で言い渡された。
ガンの「急性リンパ性白血病」ですと。
私はこの病気の恐ろしさを、この時理解していなかった。長くても二週間程度で退院出来ると勝手に決めていた。だが家内は判っていた様だ。
「おとうさんそんな短い間に退院はできないよ」と云う。まだ私は信じられなかった。その時の血液検査結果は白血球(基準値=3.9~9.8が0.4)、血小板(基準値=13.1~36.2が1)LDH<肝機能>(基準値=119~229が5,210)だった。これは死と隣合わせの値だった。
翌日から抗がん剤の投与が始まった。平成20年8月8日、抗がん剤が点滴管を通して体内に送り込まれた。小一時間かかった。
最初の投与は医学用語で「寛解導入療法」と云うらしい。特別体に変化はなかった。
次いで「地固め療法」である。抗がん剤の点滴は5回に分け翌年1月まで5種類の抗がん剤が投与された。115日間は無菌室に入れられ、他の病室とは遮断された部屋から廊下にも出ることも出来ない不便な生活を強いられた。
歩く必要のない無菌室にはトイレ、飲料用水道、冷蔵庫等が備えてあるので、殆ど部屋内で自分の用事は足りる。ただ風呂に入ることが出来ず、時々看護士が湯を洗面器に入れて来て足を洗ってくれた。
だが100日以上の無菌室での生活は、体調に大きな変化が出て来た。まず体力が無くなる。60kgの体重は20kgも減少、ベットを降りて何か用事を足す為に座り込むと立ち上がれないのだ。筋肉が衰え自力でベットに上がれなくなってしまい、はって上がることがしばしばだった。
食事がまことに不味い。納豆、牛乳や生鮮ものの好きな物は殆ど駄目である。野菜類は全て熱を加えたもので、本来の味はない。
「地固め療法」が終わり、一般病棟に移って一番うれしかったこと、それは病院での一般患者への食事だった。こんな美味い物がと感動もした。そして風呂に入れたことはうれしかった。
「地固め療法」が終わった22年2月、血液検査で思いがけず「B型肝炎」と診断され再び無菌室で二週間の治療に入った。これも苦しかった。
血液型がB型の私は、抗がん剤投与と同時に「血小板」増強の為、輸血を数度実施した。それが原因か否かは不明だが、元来肝臓には自信があったのだが。
一般病棟に移り約一か月の後、退院の許可が出て久方ぶりに自宅へ帰って来た。平成22年4月、群馬の山間も桜が咲きだす頃だった。
20年9月から抗がん剤の投与を受けながら、9回に渡って骨髄検査を受ける。これは骨髄液を腰上から注射器で抜き取り菌の有無を調べるのだが、抜き取った後、2kg程度の重石を載せて30分ほど安静を保つのだ。これは興味ある経験だった。
次に「維持療法」と云う治療を一般病棟で開始、寛解導入療法、地固め療法、投与の抗がん剤と新抗がん剤を交互に投与する。
21年5月、やっと「寛解」という完治でないが病状が安定した状態を迎えた。
その後二か月毎の、一泊二日の維持療法を14回重ねて23年12月、抗がん剤の投与から解放された。
その間の治療に投与(殆どが点滴)された処方薬等は次のとおりである。
寛解導入療法 20年8月~  オンコビン、ダウノマイシン、エドキサン 
               ブレドニン、ロイナーゼ
地固め療法  21年2月~  キロサイド、ラステッド、デキサート
維持 療法   23年1月~  オンコビン、メソトレキセート、ロイケリン
               アドリアジン
B型 肝炎  22年2月~4月 バラクルード(錠剤)
院内 検査  X線、(胸部)、CT、エコー、心電図、MRI、胃カメラ
       点滴注入用ポート切除処理、大腸がん検査
その後、二か月ないし三か月毎に通院し、血液検査を受けている。28年10月の診察の結果は特に異常はなかった。白血球(5.7),血小板(14.5)、LDH(242)。
発病してから8年3か月になる。先生は「寛解」から「完治」になった旨を言葉にした。先生も、その回復ぶりには経験がないと言われた。5年生存率が15%以内と極めて低いことから意外であり、私に与えられた生への執着心の強さが現れた結果と云う認識なのだろう。
幼児の時の「疫痢」が病の何であるかが理解出来ないまま79才になった今、改めて既に故人になった両親や周囲の人達、総合病院内で不定期に来院しネックのカルテから異常部分を検証し的確な指示を与えて下さった群馬大学の教授先生、私が処方薬を勝手に中止し、叱りながらも面倒を見て下さる松本血液内科医長先生には大いに感謝している。それに傍で何かと冷静に行動をしてくれる家内、兄弟、親戚縁者、友人には、これからも世話をかける事必定でありその態度を何かで表さなければと心積りをしている。
平成28年11月24日 79才が通り過ぎた。(完)  
                        
今日の挿し絵代わりの写真は横山美知彦さんが先週撮ってくれた下仁田町の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)        







東洋と西洋の融合(4)道教と仏教の中国が共産主義になった

2017年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
東洋の盟主は歴史的には中国と言えます。その中国が西洋で生まれた共産主義を導入して1949年に共産主義国家を成立させたのです。
共産主義はドイツのカール・マルクスが考えた思想で、キリスト教をはじめ全ての宗教を否定しています。勿論、儒教も道教も仏教も粉砕します。
この西洋の思想を東洋の盟主である中国が何のためらいも無く導入し近代国家を作り、今やその経済力は世界の二番目に大きいのです。
この中国の変貌ぶりはまさしく驚異ではありませんか?
この中国の成功を後押ししたのが1917年に起きたロシア革命でした。革命に成功したロシアは強大なソ連を作り中国を支援したのです。
この中国の共産主義導入こそ驚くべき東洋と西洋の融合の一つの実例です。
1949年の共産主義中国の成立から1976年の毛沢東と周恩来の死までの間は共産主義が成功したかに見えました。
しかし中国人も共産主義が経済発展にとって良い思想でないことを次第に気づきます。
毛沢東の死後、政権を握った鄧小平は経済政策を共産主義から市場経済主義に大胆にも舵を切ったのです。経済政策についてだけカール・マルクスの共産主義を捨て、資本主義に変えたのです。
このお陰で中国は1990年頃から経済の高度成長を続け、今やそのGDPはアメリカに次いで世界中で第2位の強大な国家になったのです。
はじめは共産主義を導入し、後には資本主義を導入し、中国は世界を支配する国家の一つになったのです。
しかしここで注意すべきことは中国は政治機構だけは共産主義の負の遺産である独裁政治を残したままなのです。
1789年にバスティーユ襲撃で始まったフランス革命の自由と平等の民主主義が拒絶されたままになっているのです。
かつて共産党独裁だったソ連や東ヨーロッパ諸国もみな民主主義体制に変わってにもかかわらず、中国と北朝鮮とベトナムとカンボジアなどは独裁政治のまま残ったのです。
これが将来の世界にとって懸念されることです。
この連載では「東洋と西洋の融合」をいろいろな分野でどのように進んで来たか考えてきました。
西洋の文化にも良いものと悪いものがあるのは当然です。西洋が生んだ共産主義は悪い文化のように考えられます。
その悪い文化を導入した中国や北朝鮮が今後の世界の平和へ負の影響が無いように祈らざるを得ません。
それにしてもこの連載ではイスラム教の諸国に関しては議論の対象にしていません。世界の平和を考えるときイスラム教の諸国のことも考えるべきと思っています。

今日の挿し絵代わりの写真は先日、訪れた八ヶ岳の清泉寮前の風景写真です。
初めの2枚は清泉寮前の牧場の写真で、続いて順に富士山、八ヶ岳、そして甲斐駒岳の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









キリスト教が日本では神道や仏教の影響で排他的でなくなる

2017年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。日曜日には宗教に関する軽い記事を書くことにしています。
今日は欧米のキリスト教と日本のキリスト教はどのように違うかということを考えてみたいと思います。
まず同じ花でも植えた場所によって違ってしまうということを考えてみましょう。
日本の楚々とした花でも、西洋に移植すると派手な色の洋花になることがあります。
育つ場所の土壌と気候によって、花々は同じ種類のものでも変わるのです。樹木の場合は材質も変わります。それは自然なことです。自然現象として当然です。
明治維新以来、日本は西洋文化を輸入して来ました。しかし日本の文化的土壌はヨーロッパと違います。輸入した文化が日本に入ってくると変化するのが当然です。
宗教も例外ではありません。
佛教の場合でも、ミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムに伝わった仏教は出家を重視した戒律の厳しい上座仏教になり、中国、朝鮮、日本に伝わったものは在家でも成仏出来る柔軟な大乗仏教になりました。
同じようにキリスト教も日本に移植されると変化します。
日本古来の文化的土壌にあう部分は育ち、合わない部分は衰えます。
人間の営みも自然現象の一部と考えれば当然です。

1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父は順応主義でした。
それでは日本のキリスト教はどのように変化したのでしょうか?
いろいろな変化がありますが、とりあえず次の2つだけを取り上げてみたいと思います。
(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くために、キリスト教の排他性を弱める。
欧米のキリスト教では先祖崇拝がありません。故人の記念ととして墓はありますが「先祖代々の墓」は存在しません。先祖が子孫を守るとは信じていないのです。人を愛し、守ってくれるのは神様なのです。イエス様なのです。先祖にはそんのような力はありません。
そして日本のキリスト教には排他性が無いのです。仏教が排他的でないように排他性が無いのです。
上の二つの相違は私が1971年に洗礼を受けて以来46年間にわたってカトリックのミサへ出席し、説教を聞いた経験から得た体験的結論です。
46年間、カトリックの神父様達の説教を聞きましたが先祖崇拝を否定したり、仏教を攻撃した説教は一度も聞いたためしが無いのです。
日本の数多くのキリスト教徒は「先祖代々の墓」を大切にしています。もっとも最近は先祖代々の墓を止める人も多いようですが。
キリスト教だけが良くて仏教は悪いとは思っていません。多くのキリスト教徒は仏教も良いと思っているのです。

さて、それでは日本の仏教的文化土壌とはどのようなものでしょうか?
多くの無宗教の日本人でも幼い頃から「孫悟空」の絵本を読み、そしてテレビのアニメを見て育ちます。そうして大人になって、その話は唐時代にインドに行って仏教の経典を持ち帰ってきた玄奘三蔵法師がモデルになっていることを知ります。
玄奘三蔵法師は粗末な衣服以外身につけないで、言葉も不自由な異国を旅したのです。危害を加えられたことも無く、各地の王に大歓迎されたのです。
それは玄奘三蔵法師の人格が抜群に良かったからです。その上、玄奘三蔵法師の仏教に対する篤い信仰心が異国の人々へ感動を与えたからです。その玄奘三蔵法師の像は日本の各地のお寺にあります。日本人は玄奘三蔵法師に慣れ親しんでいるのです。無宗教の日本人も慣れ親しんでいます。
その上、日本人ならお遍路さんの同行二人という言葉を知っています。二人とは弘法大師と自分自身のことですね。
日本の仏教文化的な土壌を説明するための実例は枚挙にいとまがありません。
その中からもう一つだけ書かせて下さい。
日本人は無宗教でも京都や奈良のお寺へ観光に行きます。修学旅行でも行きます。そして知らず知らずのうちに仏教の歴史や教えになじむのです。

日本人なら諸行無常という言葉を知っています。動物を意味もなく殺してはいけないと知っています。南無阿弥陀仏という言葉を知っています。色即是空という言葉を知っています。人生は修行だという言い方も知っています。
みんな、みんなお釈迦様の教えたことです。
仏教を信じない無宗教の日本人も、このお釈迦様の教えの海の中に暮らしているのです。
そして信じない人々も困った時には、上に書いたお釈迦様の教えをフッと思い出すのです。
これこそが日本の仏教的文化土壌の実態なのです。
この土壌にキリスト教が根着くためには、その排他性を捨てなければなりません。自然なことです。

よく日本のインテリはお釈迦さまは神の啓示を受けなかったから仏教は宗教でない。ですから排斥しないのだと説明します。これはトンデモナイ間違いです。
誤解を恐れずに書けば、日本のクリスチャンは仏教も好きなのです。好きなものを排斥する筈がありません。

以上は欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違いなのです。
皆様から欧米のキリスト教と日本のキリスト教の違いについてのご意見を頂けるのをお待ちしています。
今日の挿し絵代わりの写真は先日、訪れた国宝の松本城の写真です。

今日もこれからカトリック小金井教会のミサに行って来ます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









東洋と西洋の融合(3)日本へ地質学を教えたナウマン博士へ感謝

2017年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
考えてみると明治維新以来、日本は西洋諸国から近代科学を学び、工業技術を発展させて来ました。西洋人は常に日本人に丁寧に教え、指導してきたのです。ですから私はその恩を忘れません。常に感謝しています。
しかし現在の多くの日本人はこの恩を忘れていませんか?。
そこでこの連載記事の第三回目の記事では明治8年から10年間も日本人を指導した地質学者のハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士の功績を書きたいと思います。
彼は全国の現地調査をして日本の地質地図を始めて作り、日本人へ地質学の重要性を教えてくれたのです。
そして地質調査の結果、日本には昔、象が棲んでいたことを発見しました。そして糸魚川から静岡にいたるフォッサマグマを発見し、その東西では地質が異なることを指摘したのです。
ナウマン博士が日本に象が棲んでいたことを発見したので、そのアジア象を日本ではナウマン象と呼んでいます。
それではナウマン象の話から始めます。
さて、縄文時代が始まる12000年前までは無土器の旧石器時代でした。
その旧石器時代は約40000年前から12000年前までの28000年間も続く長い期間でした。
その時代の日本には象が棲んでいて、約20000年前に絶滅しました。絶滅するまでの2万年間は人々が集団で象を狩り、食料にしていたのです。
象が日本に棲んでいたことを科学的に証明したのが前述通りナウマン博士です。
人間が象を狩りして食べていた証拠は、象の解体途中の骨の間から石器の刃物が多数見つかっていることです。
もう少し詳しくその後の調査についてご説明いたします。
長野県の野尻湖で長年、ナウマン象の化石の発掘調査が続行されてきました。その発掘を指導したのが数年前に88歳で亡くなった亀井節夫氏でした。
その発掘調査で発見された象の化石などは野尻湖の湖畔にある「野尻湖ナウマン象博物館」で展示してあります。私も野尻湖畔に一泊して丁寧に見て来ました。
野尻湖は毎年春先に水が減少し湖底が現れ、ナウマンゾウの化石が多数出てくることで有名です。毎年、この化石の発掘が行われていたのです。
野尻湖ナウマンゾウ博物館の展示は良く出来てい明快です。検索するとこの博物館の詳細が出ています。
ナウマンゾウの解体現場に残った骨と共に、解体に使った石器が多数発掘され、それらもこの博物館に展示されています。
旧石器時代の人が作った石器は日本各地から多数出土します。しかし何を食べて、どのような生活をしていたかという問題を明快に示してくれるのは珍しいことです。
写真にこの博物館を訪問した時に撮ったナウマンゾウの写真を示します。

1番目の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外にあるナウマン象です。

2番目の写真は室内に展示してある実物大のナウマン象です。一緒に写っている見物客と比較すると象の巨大さが分かります。

さて、ナウマンゾウの化石は全国から発掘され、数十万年前から北海道から九州、沖縄まで繁栄していたことが分かっています。そして2万年前以後の新し地層からは発見されません。ですから二万年前に絶滅したと言われています。
この種類の象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。野尻湖の象は4万年前から2万年前の地層から出ますが、これは日本に棲んで居た象のうちで一番新しい象の化石です。
関東地方にも当然棲んでいたと思いますが、化石が出ません。強い酸性の関東ローム層の土が動植物を溶かしてしまうので化石の出にくい土地なのです。
ナウマン博士の功績は古代象の発見だけではありません。最大の功績は日本人へ地質学を教え、その考古学や鉱山開発などでの重要性を説明してくれたことです。

3番目の写真がナウマン博士です。
彼は伊能忠敬の労作の日本全図に従って全国を歩き回り、日本の地質図を始めて作った学者です。そしてフォッサマグナなどを発見し、日本の地質学を作り始めた人です。
茨城県つくば市にある産業総合技術研究所の地質標本博物館はナウマンが設立に尽力した地質調査所が、その後発展した博物館なのです。
日本全土の土や岩石がどういう成分で出来あがっているか?どのような結晶で出来ているか?それらが何億年、何万年の間にどのように変化し動いてきたか?雨風に流されてどのように変化して来たか?
このような問題を体系的に研究する科学分野を地質学と言います。地質学を勉強すると自然に化石のことが分かるのです。動物の骨が石に変化し土壌に埋まれば化石になります。土質よっては化石にならない土壌もあります。ですから化石の出やすいところは限られるのです。

4番目の写真は数年前に、つくば市にある地質標本館で私が撮って来た写真です。この展示物に感動して何度も訪問しました。
良くご覧下さい。黒っぽい岩石の層が左上へ向かって90度折れ曲がっているのです。三陸海岸から持ってきた巨大な岩石標本です。
長い年月の間に地球の内部の動きによって表面の固い岩石も曲がってしまうのです。岩石がアメのようにグニャリと曲がったのではありません。岩石は弾力性の無い硬い結晶から出来ています。従って曲る場合には結晶と結晶の間の粒界に微細な割れ目(マイクロ・クラック)が多数出来て、次第に岩全体が曲がって行くのです。
岩が曲がる、島が海面から出て、移動する。大陸が離合集散する。壮大な自然現象を解明するためにも微細な結晶の研究が重要なのです。学問研究の醍醐味ですね。
ちょっと話題が本題からそれましたの止めます。
今日の記事では明治8年から10年間も日本に住み日本人へ地質学の重要性を教えてくれたナウマン博士をご紹介しました。教えを受けた日本人はその後日本の地質学を進歩、発展させ、つくば市に国立地質標本館を作ったのです。
これこそ「東洋と西洋の融合」の一例ではありませんか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==================
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann、1854年9月11日 - 1927年2月1日)は、ドイツの地質学者。
(ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - Wikipedia、から抜粋)
いわゆるお雇い外国人の一人で、日本における近代地質学の基礎を築くとともに、日本初の本格的な地質図を作成。またフォッサマグナを発見したことや、ナウマンゾウに名を残すことで知られる。
ザクセン王国マイセンで生まれた。
1875年(明治8年) - 1885年(明治18年)、明治政府に招聘され、日本に滞在。東京帝国大学(現:東京大学)地質学教室の初代教授に就任。地質調査所(現:独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)の設立に関わり、調査責任者として日本列島の地質調査に従事。
調査は本州、四国、九州と広範囲にわたり、距離は10,000kmに及んだと伝えられている。また、当時存在した地形図には等高線が記されておらず、海岸線の輪郭が記される伊能図を基に、地形図の作成と並行して地質調査をするという膨大な作業を成し遂げた。
ナウマンは貝塚を2、3発見し、ハインリヒ・フォン・シーボルトの貝塚研究を助けた。
1884年12月にナウマンの雇用は終了したが半年延長され、1885年(明治18年)6月、天皇に謁見して勲4等を叙勲し、7月に離日した。
ドイツに帰ってから、ナウマンは1886年にミュンスター大学で私講師(正雇いではなく講義ごとに学生から受講料を取る教師)となり、地質学や地理学を講じた。後年、ドイツ東亜博物学民俗学協会で日本の貝塚について講演している。ベルリンでの地質学会議に参加して論文『日本列島の構造と起源について(Über den Bau und die Entstehung japanischen Inseln)』を発表し、さらに同名の著書を出版してフォッサ・マグナ説を提案した[4]。
1886年3月にドレスデン東亜博物学・民俗学協会で講演した際には、日本人の無知、無能ぶりを嘲笑したため、森鴎外がそれに反駁して論戦し、新聞にも反論を投稿した。
1923年に関東大震災で東大図書館が焼け落ちたときには、自分の蔵書を寄贈した。

老境を格調高く生きるための心の持ち方

2017年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は大体70歳以上になると自分の人生の来し方をいろいろと反省することが多くなります。仕事で誇らしい業績をあげたことも思い出します。しかし年を経るに従って、それは自分の人生にとってあまり重要な意味が無いと思うようになります。
それよりも人生とは恥多いものだとしみじみ想います。功名心や金銭欲に負けて低俗な生活をしていたという反省が年と共に強くなってまいります。
せめて老境だけはこの世の欲から離れて格調高く過ごしたいと思うようになります。
そのためには心の持ち方が重要になります。
以下は私が努力している幾つかの目標です。まだ達成出来ていない目標です。
(1)自然を愛す
自然を愛すとは小さな草花を含めて自然界のすべてのものを好ましく思い、大切にすることです。特に老境になると美しい風景を長い時間眺め、その光景を日常の生活の間に何度も思い出すのです。
それは丁度恋人を美しいと思い、その顔や姿を何度も思い出すことと同じです。
例えば下の写真をご覧ください。

1番目と2番目の写真は先週訪れた安曇野にある有名な山葵園の脇にある美しい流れの光景です。

川底の藻がゆらゆら揺れていて、その左右に揺れる様子から流れる水流の早さがわかります。背後の北アルプスの高い山々の雪解け水が安曇野に湧き出しているのです。
このような自然の風景に人の手が加わると一層美しく見えることがあります。例えば下の写真のようにこの清流に人間が作った水車を置いて眺めてみましょう。

3,4,5番目の写真は安曇野の大王山葵園の傍にある黒沢監督の『夢』の撮影に使用された水車と、北アルプスの雪解け水の風景です。

水車の羽根が水流で押され水車がゆっくり回り、水車小屋の中の粉ひき用の杵がゴトン、ゴトンという低音がのどかに聞こえています。

このように自然の風景に人間の作ったものが添えられると一層美しく見えるものです。
例えば、遠方に残雪の山並みがあり近景には緑の水田が広がっている風景は本当に美しいものです。
このような風景を常日頃思い出していると、この世の欲から解放されて老境が格調高く過ごすことが出来ます。
(2)他人を恨まず、他国を憎まない心が重要
老境になると社会から離れるので仕事の上での他人との確執が無くなります。自分を酷い目に合わせた人のことも次第に忘れます。老境になると誰でも他人を憎まなくなります。
そして恩人たちへの感謝の気持ちが一層強くなってくるものです。すべてのことに感謝の気持ちが強く湧いてきます。自然に湧いてきます。仕事を止め引退すると誰でもそのような気持ちになるようです。
しかし毎日見る新聞やテレビでは他国を悪いと非難したり、憎しみをかき立てる扇動的な報道で溢れています。
例えば韓国の慰安婦像のことを何度も、何度も報道し日本人の憎しみをかき立てています。私はそんな報道にかかわりを持ちません。
それは日本の背負った負の遺産の一つに過ぎないのです。そう思えば韓国人を愛せます。
中国も南シナ海や尖閣諸島の近海で日本人を怒らせるような行動をとっています。多くの日本人は怒ります。
それも日本が満州を建国したり、中国の南部の桂林まで侵攻したお返しなのです。そう思うと中国人を愛せます。
他人を恨んでいたり、他国を非難している限り格調の高い老境を過ごすことは不可能です。
(3)レストランや泊まるホテルを選ぶ時は経営者の品格を考える
世の中の経営者には「品質を多少落としても安い方が客が増える」と信じている人が多いものです。
しかしクラシック・ホテルのように、サービスの質を重大視している旅館もあります。このようなホテルや旅館は高価なことが多いようです。
しかし品格の高い経営者は高価でなくても良質なサービスを提供するものです。
最近はインターネットの上でお客さんの評価が掲載されています。
それを注意深く見ると以下の3つの違いが分かるのです;1、安かろう悪かろう、2、間違いなく良いが高い、3、安いが品格のあるサービスを提供しているところ。
勿論、上記の3はなかなかありませんが、私はそれを探すようにしています。
(4)政治家を評価する場合はその品格も考慮に入れる
例えばオバマさんは品格があったがトランプさんは品格が無いと言えば納得する方が多いと思います。
トランプさんが大統領になりアメリカの経済が良くなり失業者も減少したと言います。アメリカ第一主義を貫きアメリカ人の面子を立てました。
ですからトランプ大統領はオバマさんより偉いと評価する人もいます。
しかしオバマさんはかつて戦争でひどい目にあったワルシャワで核兵器廃絶の格調高い演説をしてノーベル平和賞を受賞しました。広島にも来て原爆犠牲者の冥福を祈りました。
このような政治家の方を私は尊敬します。

まだまだ書きたいことが沢山ありますが、それを割愛するのも格調の高い姿勢なのかも分かりません。これで終わりにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

東洋と西洋の融合(2)現在も生きている板垣退助の自由民権運動

2017年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
1789年にバスティーユ襲撃で始まったフランス革命は西洋諸国に自由と平等の民主主義を広めるきっかけになりました。
日本でも明治維新後この西洋の思想をいち早く取り入れます。それは自由民権運動として明治時代の初期に燃え上がったのです。
この自由民権運動も西洋の政治思想と日本の政治思想の融合の一つの例です。その結果、新しい日本の政治機構が議会制になり、それは第二次世界大戦後の民主主義へと繋がったのです。
この明治初期の自由民権運動の中心にいたのが板垣退助です。
1882年(明治15年)に暗殺されそうになりながら生き延びた板垣は『板垣死すとも自由は死せず』という有名な一句を残しました。
しかしこの「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は誰が言い出したかは不明なのです。板垣自身が後に「(襲撃を受けた瞬間は)アッと思うばかりで声も出なかった」とも書いており諸説あります。多分、大阪朝日新聞の記者が書いたのかも知れません。
それはさておき、板垣 退助は天保8年(1837年)に生まれ、 大正8年(1919年)に亡くなりました。享年82歳でした。
土佐藩士の武士で明治維新に活躍し新政府の要職につきます。
そして日本の各地で起きた激しい自由民権運動の主導者として知られます。そして「庶民派の政治家」として国民から圧倒的な支持を受けたのです。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられたのです。
この明治初期の自由民権運動はやがて強権的な明治政府に抑えされ明治天皇を戴く富国強兵策の中で弱体化して行く運命でした。
しかし自由民権運動が日本の民主政治の始まりでもありますのでもう少し詳しく見てみましょう。
自由民権運動を三つの段階に分けることができるようです。
第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白から1877年(明治10年)の西南戦争ごろまで。
第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)ごろまででの運動の最盛期。(この間の明治15年に板垣が襲われたのです。)
第三段階は、条約改正問題を契機として、この条約改正に対する反対運動として、民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心と明治20年前後の運動である。
(以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95 よりの引用です。)
1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂します。板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野します。これが明治六年政変です。
下野した板垣は翌1874年(明治7年)、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成します。
政権側の専制を批判するとともに、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して、高知に立志社を設立します。
この建白書が新聞に載せられたことで、運動が広く知られるようになります。
この建白書を巡って、民選議院を設立すべきかどうかの論争が新聞紙上で交わされました。
翌1875年(明治8年)には全国的な愛国社が結成されますが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、愛国社はすぐに消滅します。
江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれるものでした。武力を用いる士族反乱の動きは1877年(明治10年)の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であったという見方が正しいようです。。
しかしその後、自由民権運動が高揚します。
1878年(明治11年)に愛国社が再興し、1880年(明治13年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出されます。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していったのです。
特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていきました。
例えば現在の東京都多摩地方や町田市でもこの頃、豪農達による自由民権運動が燃えあがったのです。その実態は町田市立の「自由民権運動展示館」に詳しく展示してあります。
この展示館を注意深く見ると、この時期の農村の自由民権運動は地主や豪農を中心にした運動であり、「豪農民権運動」というものでした。
この豪農民権が自由民権運動の主体となった背景には、1876年(明治9年)地租改正反対一揆が士族反乱と結ぶことを恐れた政府のあいまいな政策が原因とも考えられます。
その上、士族民権や豪農民権の他にも、都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加が多く見られたのです。
民権運動の盛り上がりに対し、政府は1875年(明治8年)には新聞紙条例の公布、1880年(明治13年)には集会条例など言論弾圧の法令で対抗しました。
このような社会運動の経過なかで明治天皇を中心にした帝国議会の制度が確立しやがて日清戦争や日露戦争が起きたのです。
一般に外国との戦争が起きると国民は一致団結し政府の言うことを聞くようになります。
その後の日本は戦力を増強し西洋諸国の植民地政策に習い海外領土の獲得に努力した歴史は皆様ご承知の通りです。
フランス革命の自由と平等の民主主義が日本へ導入され
日本の社会に融合するためには長年の苦しみがあったのです。
しかしそのお陰と、アメリカ占領軍の指導で、現在の日本はより完全な民主国家になったのです。
このような歴史を想う時、日本と西洋の融合は困難な道のりであったことを知ることが出来ます。

今日の挿し絵代わりの写真は先日撮ってきた信州の仁科3湖の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は北アルプス主峰連山と仁科3湖の写真です。中綱湖は小さいので写っていません。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E4%B8%89%E6%B9%96 です。

2番目の写真は木崎湖です。

3番目の写真は中綱湖です。

4番目の写真は青木湖です。

5番目の写真も青木湖です。

東洋と西洋の融合(1)ロダンと荻原碌山

2017年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
信州、安曇野に彫刻家、萩原碌山の美術館があります。
碌山は明治12年安曇郡東穂高村に生まれ30歳結核で死にました。郷里の相馬愛蔵・黒光の店である新宿中村屋で亡くなったのです。

碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入したのです。その功績を忘れるべきではありません。
今回、碌山美術館を見ながら東洋と西洋の文化の衝突と融合を考えました。
明治維新以後にいろいろな分野で起きた東西の文化の衝突と融合を考えながら客のほとんどいない静かな美術館を歩みながら考えました。『東洋と西洋の融合』という連載記事を書いてみようと考えていました。
萩原碌山はニューヨークに住みながらパリにも滞在しました。そこでロダンの彫刻を見て感動し、自分でもブロンズ像を作り始めます。
その前に彼の日本での生活を見てみましょう。
1879年(明治12年)に長野県南安曇郡東穂高村に5人兄弟の末っ子として生まれます。
少年の頃にキリスト教に接し、安曇野で断酒会に入会します。洗礼も受けたのです。
この経験が西洋へ目を向けるきっかけになったと考えられます。
明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
彼はパリで西洋文化の彫刻の魅力を身をもって理解したのです。これこそが東洋と西洋の融合の一例ではないでしょうか?
1908年(明治41年)に帰国し、新宿にて彫刻家として活動を始めます。
そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。しかし第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。
萩原碌山は30歳の若さでこの世を去りましたが、日本では生前から高く評価され、文部省主催の『文展』にも何度も彫刻を出展したのです。西洋の彫刻の魅力を紹介したのです。このお陰で日本でも数多くの西洋流の彫刻家が育って来たのです。
さてロダンと碌山の彫刻の違いは何でしょうか?
ロダンの彫刻は上野の西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館にあります。
そのロダンと碌山の違いを私個人の感じで言えばロダンは力強く自分の哲学を主張しています。西洋人の特徴の自己主張が強いのです。
しかし碌山の彫刻は内省的、繊細で東洋的な美しさを感じさせます。
例えば代表作の『女』は両手を後ろに回し縛られているように見えます。顔は天を仰ぎ悲し気です。体のフォルムは東洋の女です。何故か女の悲しみが感じられるのです。
ロダンの力強い自己主張を真似た「文覚」や「労働者」という作品もありますがロダンほど力に溢れていません。
ですから萩原碌山は彼の独創性で西洋と東洋の文化の融合を示したのです。
そんなことを考えさせる信州、安曇野の碌山美術館への旅でした。
写真で碌山美術館の様子を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は蔦の覆われた碌山美術館の様子です。

2番目の写真は明治42年の第三回文展に出展した「労働者」です。

3番目の写真は碌山美術館の内部の様子です。

4番目の写真は遺作・明治43年の第四回文展で文部省が買い上げた「女」です。

5番目の写真は萩原碌山です。

鎌倉時代の仏教改革と鎌倉五山とは?

2017年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
飛鳥時代や奈良時代に日本に入って来た仏教は天皇や貴族のための佛教であり、「護国安泰」の目的で保護されました。
従って一般民衆の救済は重要視されていません。ただ空海、すなはち弘法大師だけは天皇、貴族だけでなく民衆の救済のための行脚をしたことで有名です。
しかし鎌倉時代になると仏教は武士や民衆の魂の救済を重視するようになります。教義も非常に簡単になり、例えば南無阿弥陀佛と念仏を唱えるだけで極楽に行けるという宗派も出てきたのです。
この新しい仏教への変革を鎌倉時代の仏教改革と言います。
このような仏教改革を受けて、鎌倉のお寺は建長寺と円覚寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。天皇や貴族の保護を受けた京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。
私はもう40年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど30位のお寺には何度も行きました。ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。下に3枚の写真を示します。

1番目の写真は海蔵寺です。
(写真の出典:http://c-saito.at.webry.info/theme/b81436e5da.html)

2番目の写真は報国寺です。(写真の出典:http://matome.naver.jp/odai/2139072013871894901/2139088534565345703)

3番目の写真は光明寺です。(写真の出典:http://blog.takuzousuinari.com/?eid=674527)
この光明寺の山門だけは例外的に壮大です。浄土宗の本山の一つの「大本山」なので大きいようです。この寺以外はとにかく小さいのです。お寺の雰囲気が侘しいのです。誤解を恐れずに書けば質素過ぎます。
しかしその侘しさが何とも言えぬ魅力なのです。日本文化の底に流れる侘びと寂びが強く感じられるのです。
その魅力にとりつかれて以来、何故、鎌倉のお寺はそのような雰囲気を持っているか考えてきました。
一番大きな原因は上にも書きましたように、鎌倉の仏教は質素を美徳にした武士や庶民の為の仏教なのです。
鎌倉時代の宗教改革は主に京都で起きましたが、その当時の政治権力が鎌倉にあったので、新しい宗派の寺を鎌倉に建てたのです。
その改革によって生まれた6つの宗派を鎌倉仏教と言います。1、浄土宗 、法然(源空)、2、浄土真宗(一向宗) 親鸞、3、時宗(遊行宗) 一遍(智真)、4、法華宗(日蓮宗) 日蓮、5、臨済宗、栄西、6、曹洞宗 、道元、の6宗派です。

現在、鎌倉にあるお寺の一覧表は末尾の参考資料にありますが、その大部分はこの新しい仏教宗派のお寺なのです。
古い時代に鑑真の開いた奈良仏教の宗派や、空海の真言宗や最澄の天台宗はその教義とは関係なく、天皇や貴族によって保護されたために京都にある寺院仏閣はどうしても華美なものになっているのです。
ところが、これらの宗派のお寺も鎌倉にもあります。真言宗や天台宗のお寺も幾つかあります。
しかしそれらのお寺も質素なたたずまいです。鎌倉の武士や庶民の信仰の対称になっていたので華美な雰囲気はありません。
さて、鎌倉のお寺を訪れると「鎌倉五山」とか「京都五山」という言葉が出てきます。
当時の政治権力者が新しい禅宗の臨済宗などの寺院を格付けし、管理コントロ-ルをする制度で選ばれたお寺です。京都・南禅寺を別格上位とし、第一位の建長寺から順々に円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺(第五位)というランクがあったのです。幕府が住職を任命していたのです。
現在の政教分離の考えからあまり尊敬すべき制度ではありません。
しかし、この鎌倉五山のお寺も贅沢とはほど遠いたたずまいを見せています。
そんな鎌倉なので茶道も盛んでした。お寺の僧たちが茶道を愛したのです。現在でも抹茶を出してくれる店があちこちにあります。
鎌倉のお寺めぐりの魅力は「わびさびの世界」にあるようです。日本人の心の琴線を掻き立てるのです。勿論外国の観光客もこの「わびさびの世界」を感じ鎌倉を再訪する人も多いのです。
今日は鎌倉仏教とお寺の特徴を簡単に書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
(1)鎌倉の寺院一覧:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%AE%E5%AF%BA%E9%99%A2%E4%B8%80%E8%A6%A7
鎌倉地域
扇ガ谷 英勝寺 東光山 浄土宗 玉峯清因 英勝院 1636年(寛永13年)
鎌倉地域
扇ガ谷 海蔵寺 扇谷山 臨済宗建長寺派 心昭空外 上杉氏定 1394年(応永元年)
鎌倉地域
扇ガ谷 護国寺 (鎌倉市) 立正山 日蓮正宗   日達 1969年(昭和44年)
鎌倉地域
扇ガ谷 寿福寺 亀谷山 臨済宗建長寺派 栄西 北条政子 1200年(正治2年) 鎌倉五山第三位
鎌倉地域
扇ガ谷 浄光明寺 泉谷山 真言宗泉涌寺派 真聖国師 北条長時 1251年(建長3年) 鎌倉観音霊・・・・以下省略します。
(2)日本の仏教宗派一覧:http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
(3)鎌倉仏教:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB%8F%E6%95%99
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
浄土宗 法然(源空)
浄土真宗(一向宗) 親鸞
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
法華宗(日蓮宗) 日蓮
臨済宗 栄西
曹洞宗 道元
(4)鎌倉五山:
我が国の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けをする制度。すなわち、幕府が任命した住持(住職)を順次上位の寺に昇進させることにより、幕府の管理下に置き、コントロールしようというもの。 鎌倉幕府の五代執権、北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりで、その時々に応じて入る寺院や順位などが変動した。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれた。現在の五山の順位が決まったのは、至徳3(1386)年、室町幕府三代将軍・足利義満の時。ちなみに、五山の下には、十刹、諸山がある。
(京都・南禅寺 - 別格上位)
建長寺 - 第一位
円覚寺 - 第二位
寿福寺 - 第三位
浄智寺 - 第四位
浄妙寺 - 第五位
(5)鎌倉の寺院マップ:http://www5d.biglobe.ne.jp/~shocoma/tp/kmmp.htm
そして、https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=znOgXTlC1ISA.k2mXDagL2b0E&hl=en_US

キリスト教の異質さが日本人の信者を少なくしている

2017年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人にとってキリスト教はあまりにも異質です。日本人は古くから神道と仏教に慣れ親しんできました。しかしキリスト教の教えは神道や仏教とはあまりにも違うのです。
今日は宗教のことを書くことにしている日曜日なので、このキリスト教と日本人とのかかわりあいについて気楽に書いてみます。
日本人がキリスト教を知ったのは1549年にザビエルがカトリックのキリスト教を伝えてからはじまりました。信長、秀吉時代に急に信者が30万人と増えましたが、やがて厳しい禁教の歴史が250年間続きます。いわゆる隠れキリシタンの時代です。
しかし今回は隠れキリシタンのことは一切省略します。
今回のテーマは明治6年の禁教令の廃止以後のキリスト教と日本人のかかわりについてです。
例によって、かかわりの様子を、「風景をスケッチ」するように気楽に描いて行きます。
まず公平に見回すと日本人にはキリスト教が嫌いな人が案外多いようです。内心は嫌いでも、「いいじゃないですか。日本には宗教の自由がありますから」と穏健なことを言います。
しかし明治維新以来、西洋の文化を熱心に導入してきたわりにはキリスト教の信者の数は総人口の3%を越えたことはありません。ザビエルの伝えたカトリックにいたっては0.3%と非常に少ないのです。ミッション・スクールは非常に多いのに洗礼は殆ど受けません。
正直に書けば私はカトリックの洗礼を受けてから40年以上、毎週のように教会のミサに出ています。あまり熱心な信者ではありませんが、一応信者のはしくれに座っています。
洗礼を受けてから何年間は日本にキリスト教信者が一向に増えないことを悲しく思っていました。そして増えない理由をあれやこれやと考えました。遠藤周作の本も沢山読みました。
しかし老境にいたってみると考えが変わってしまったのです。悲しく思うのは考えが浅いのです。そして何事も正解の無い原因を考えるのは全く無駄なことに気がつきました。あるがままに受け入れて平穏な心で生きて行くことが一番大切なことに気がついたのです。
確かに日本人で洗礼を受けた人の数は少ないのです。しかし日本人は明治時代以来、キリスト教の教えの影響をいろいろな分野で深く受けているのです。キリスト教の嫌いな人でもその影響を逃れることは出来ません。
日本人ら誰でも、「汝の隣人を愛せ」という言葉を知っています。「人間はパンのみで生きては行けない」という言葉も知っています。そして聖書を読んだ人は。「全ての人間は神の前で平等で自由だ」ということを知ります。
現在、日本は人間は生まれながらにして自由で、平等だと信じています。江戸時代には皆無ではありませんが、あまり無かった考え方です。そして賢い人は欧米の民主主義は実はキリスト教を下敷きにして発達してきたことを知るのです。
その上、共産主義はキリスト教の反対の思想を整理して体系化したものなのです。ですから共産主義はキリスト教国でしか生まれなかったのです。
日本人は明治維新以来、西洋文化の導入に熱狂してきました。当然、キリスト教的な考え方が怒涛のように流れ込んだのです。
しかし今でも「耶蘇は嫌いだ!」とか「キリスト教徒は偽善的だ」と言って嫌う人がいます。
当然です。キリスト教の信者には自分の考えを他人へ押し付ける人が多いのです。困ったものです。「福音宣教」の鉄則は、まず他人を愛することです。愛せば自然に信者になります。口先だけの宣教は厳禁です。困ったものです。

今日の挿絵代わりの写真はポーランドの世界遺産である木造教会群の中から3つの教会の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はデンブノの大天使ミカエル聖堂です。

2番目の写真は聖レオナルド聖堂です。

3番目の写真は大天使ミカエル聖堂です。
===ポーランドの世界遺産の木造教会群=================
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AB%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%AE%E6%9C%A8%E9%80%A0%E8%81%96%E5%A0%82%E7%BE%A4
マウォポルスカ南部の木造聖堂群は、マウォポルスカ地方南部にあるポーランドの世界遺産である。ビナロヴァ、ブリズネ、デンブノ、ハチュフ、リプニツァ・ムロヴァナ、センコヴァなどの各村に残っている木造聖堂が登録対象である。
中世後期に起源を持つこの地方の木造聖堂の様式は、ゴシック様式の装飾や色とりどりの細部で始まったが、木造であることから、石やレンガで出来たゴシック建築とは、構造も全体像も印象も大きく異なっている。より後の時代に建設された木造聖堂には、ロココ様式やバロック様式の装飾的影響を示しているものもある。これらの聖堂の形態は、この地方での東方典礼カトリック教会や正教会の存在に深く影響されている。
いくつかの聖堂は上から見たときにギリシャ十字を形作っており、たまねぎドームを備えているが、最も興味深いのは、それらの特色が引き伸ばされた身廊や尖塔とともにローマ・カトリックの様式と組み合わさっていることである。

横山美知彦著、『利根川のなまず料理と麦とろの思い出』

2017年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
1、利根川のなまず料理
群馬県の東部地区になろうか、すぐ隣が埼玉県という所に位置する街が、館林市である。
最近は、真夏の気温が全国で一、二を争う高い場所でもある。この辺りは利根川の水量も多く、江戸の時代から、文福茶釜の「茂林寺」や川魚の獲れる処として有名だ。
その為に川魚料理をメインにした料亭が栄えた地であり、現在もその名残りの店をあちこちに見ることが出来る。
特に「うなぎ」は遠方から、これを目当てにやって来る客も多い様だ。
七、八年前になろうか、小学校時代の友人夫婦に誘われ、「うなぎ」を家内と共に御馳走になったのがきっかけで、その後何度かプライベイトで食べに行く機会があった。
「うなぎ」の他に、やはりこの利根川で獲れる「なまず」がメニューには必ず載せてあるが、何故か値段は「時価」としてある。友人に御馳走になり、その淡泊な味に魅せられていた。
帰郷していた町田市に住む二男の息子と三人で、立ち寄ったことがあった。さて一般的に時価と書いてある物は、常時提供できる物と比較して五割は高額と認識していたので、注文をためらったが、今度何時来られるか判らないので、思い切って注文してみた。「なまず」のフライは期待に違わずうまかった。
さて勘定と云うところで、一寸心配になったが、勘定書きを見て間違ってはいないか目を疑った。そこには「なまず」のフライ650円とあった。ちなみにメインに注文した「うな重」は一人前1,500円であった。
あの目の小さなとぼけた表情の「なまず」の料理がこんなに淡泊で美味い物とは、しかもその値段の安さに驚いた。
2、麦とろ苦しさと美味しさ
私が「とろろ汁」が人並みに食べられる様になったのは、20才を過ぎてからである。
父母が「とろろ」が好きで、とろろ芋が手に入ると「とろろ汁」を作り食卓を賑わしていた。戦前、東京の板橋に住んでいた頃、親子5人の他に田舎からの下宿人が、代わる代わる訪ねて来て宿にし、東京での生活の一歩にしていた。
ある晩の夕食に「とろろ汁」を母が作り、幼い私の口に「とろろ汁」を運んでくれた。生まれて初めての経験だった。だがそれが成人になるまで食べられなくなった最初でもあった。
「いも」の質があまり良くなかったのか、口の周りに「とろろの粘粘」が付いた為に即座に痒くなった。 痒さのあまりに泣き叫んだことを今でも思い出すことがある。
さらに喉を通る時の味わいとでも云うのか、普段の食べ物とは違う為、何とも気持ちの悪い戻しそうな症状になった。
それ以来、昭和18年田舎に引っ越した子供達も小学校、中学校と物心が付き始めて、戦後の物のない時期の「とろろ汁」は貴重な栄養源であって、家族は私を除いて目の色を変えて「とろろ汁」を食べていたが、私は見向きもしなかった。
高校を終えて上京した私は、都会での生活になれ始めた頃、同僚に連れられ酒場の料理を口にする様になった。品書きには必ず「とろろ」を使った料理が載っている。
都会人になったつもりの私も恐る恐る、まぐろ入りのとろろ、「やまかけ」の料理を口にして見た。ところがそれが抵抗なく喉を通り、その味の良いことを初めて経験したのだ。
それ以来、とろろを使用する料理や、自宅で家族の作る「とろろ汁」は期待の一品となり、幼かった頃の記憶のあの痒い気持ちの悪い雰囲気は無くなっていた。
「とろろ汁」には、麦飯が合う。最近麦の身体への効果が見直され、良質の押麦が手に入るようになり、何か月か前から僅かな麦を入れた「ご飯」に我が家も代わった。したがって「とろろ汁」を作れば、だまっていても「麦とろ」を食べる事が出来る。これはうれしい。60~70年以前を思い起こすと、まさに天と地が入れ変わった感がする。やや大げさとは思うが。(終り)

挿絵代わりの写真は利根川の上流、中流、下流の風景写真です。写真の出典は以下の通りです。
上流、http://www.pixpot.net/view_spots/spot/1879/onakajima-park
中流、http://www.rindo21.com/review/2010/05/-1020mm-f35-ex-dc.html
下流、http://mizbering.jp/archives/943





森友、加計学園騒動と南シナ海での日米海軍共同作戦訓練

2017年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム
最近のマスコミは森友学園騒動と加計学園騒動で大騒ぎをしています。
しかしこの大騒動のかげで日米の海軍が南シナ海で共同作戦の訓練を実施しているのです。
日本軍がいつの間にかアメリカ軍に組み込まれて作戦をする演習を、遠く離れた南シナ海で行っているのです。
次はインド洋でしょうか?中東近海で行われるのでしょうか?
共同作戦の訓練の指揮権は軍備が優位にあるアメリカ軍にあると考えるのが自然ではないでしょうか?
これは日本の軍隊は将来アメリカの指揮権の下で戦争に参加することを示しています。その可能性を示しているのです。

森友学園騒動と加計学園騒動よりも日米の海軍が南シナ海で共同作戦の訓練をしているというニュースの方が重大ではないでしょうか?
マスコミが加計学園騒動ばかり大きく報道しているので、日本の将来を決める日米の軍事練習が実に小さく報じられています。
そこで以下に南シナ海に関する2件の報道を示します。

『中国、南シナ海で実効支配下の人工島付近航行した米駆逐艦に警告』
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/05/post-7679.php
5月25日、中国は、南シナ海で同国が造成した人工島から12カイリ(約22キロ)内を米海軍の駆逐艦が航行したことを受け、同海域の外に出るよう警告したことを明らかにした。

1番目の写真は米海軍の駆逐艦「デューイ」。南シナ海で6日撮影。(2017年 ロイター/U.S. Navy/Handout via Reuters)

『海自護衛艦「いずも」「さざなみ」が米空母「R・レーガン」と共同訓練 中国を牽制』
http://www.sankei.com/politics/news/170616/plt1706160036-n1.html
海上自衛隊は16日、南シナ海で活動中のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」と護衛艦「さざなみ」が13~15日の間、米海軍の空母「ロナルド・レーガン」など艦艇数隻と陣形や通信などの共同訓練を行ったと発表した。南シナ海や東シナ海で強引な海洋進出を進める中国を牽制(けんせい)する狙いだ。

2番目の写真は手前から護衛艦「いずも」、空母「ロナルド・レーガン」、護衛艦「さざなみ」(海上自衛隊提供)
海上自衛隊と米海軍が南シナ海で共同作戦訓練を実施した。

3番目の写真は護衛艦「いずも」艦上から見た米空母「ロナルド・レーガン」(海上自衛隊提供)

2つの国の軍隊が協力して戦争を行うときは必ず指揮権がどちらにあるか決めてから行います。そうしないと無用の混戦と友軍同士の相打ちが起きます。日米の海軍の共同訓練でも指揮権をアメリカが持つでしょう。そうしないと艦艇同士の衝突事故が起きる可能性があるのです。日本のマスコミは指揮権については一切報道しません。加計学園騒動ばかり大きく報道しないで日米軍事共同訓練の指揮権も含めて、もっと詳しく報道すべきではないでしょうか?

さて加計学園を助けるように安倍総理が指示したか否かという問題です。
安倍総理は明確な指示をしていないと思います。
しかし例えば側近に、「昨日は加計学園の理事長とゴルフをしたよ。彼は昔からの友達だけど気持ちの良い男だよ」と雑談したかも知れません。
するとそれを聞いた側近は文科省に問い合わせ、加計学園の案件の現状を知ります。それを受けて側近は文科省へ、「総理の意向で・・・・」という文書を送ります。総理大臣の友人を助けるのは側近の忠誠心の証になると思っているのです。これを品性の悪い忠誠心と言います。
もしこのような話が事実なら安倍総理は無罪です。側近が品性の悪い忠誠心の持ち主だったのです。
森友学園騒動も同じような構図だったのでしょう。
安倍総理の側近は政治家です。政治家に品性の良さを求めるのは無理なのではないでしょうか?

ですからこそ森友学園騒動と加計学園騒動よりも日米の海軍が南シナ海で共同作戦の訓練をしていることの方が日本の将来に重大な影響を与えると私は主張したいのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

横山美知彦著、『鮎の塩焼き』

2017年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
小魚の食べ方は、人によってそれぞれ異なると思うが、小骨の付いたままの焼き魚は上手に食べるのに苦労する。私もその一人だ。短気が災いして我慢出来ず、まだ食べる部分があるにもかかわらず、途中であきらめてしまう。
 家内は上手い。全くの骨だけにしてしまう。これには真似の出来ない何かがある様だ。
 川魚で特に馴染みのある魚、それは鮎だ。その塩焼きは川魚の王様だと思っている。養殖の岩魚や鱒も塩焼きには趣があり美味いが、私は口にする機会が鮎ほどない。
 これら小魚の料理の方法だが、大方頭の方から串を刺し魚全体に塩をまぶし、炭火でこんがり焼く。川で自然に泳いでいる姿をイメージして途中に曲がりを入れ、尻尾の手前をやはり一寸曲げて焼く。
 一般には、焼きあがった鮎に打った串を抜き皿に移し、箸を使い骨を取りながら、「たで酢」などを漬けて食べる。当然「わた」の部分も食べるが、大方残してしまうことが多い。
 鮎は、焼き立てを食べるのが一番美味いと思うが、それを串も取らずに背の部分から、かぶりつくのは、繊細な鮎を食べるには、あまりにも能のない食べ方で雰囲気がない。
 もう随分と昔のことだが、父親が仕事の合間を利用して近所の川で鮎、うなぎ、かじかを獲っていた。だから鮎は中学時代から口にする機会があったので慣れていた。
一度焼いて数日空気に当てて乾燥したものを父親からは「風吹かす」と教わった。それを甘辛く煮つけておき、昼の弁当の「おかず」となっていた。その後可成りの年になって、違った食べ方を覚えた。
 それは、平皿の上でまず串を抜き、尻尾の部分を手でちぎり離す。次に頭の部分を手で押さえ、鮎が川で自然に泳いでいる状態の縦にして、頭の部分から骨を残して肉部分をちぎる。そして肉の部分を箸で静かに押さえて左方向にゆっくり離して行く、つまり頭を持ち骨を引き抜くのだ。
 頭と中心の骨と尻尾と真ん中の肉の部分に分けられるので、肉の部分を「たで酢」をつけて食べればよい。ただあくまで焼き立ての熱い間でないと外しにくい。
 旅先の夜の食事に出される焼き物は、焼いてから時間が経過しており、この方法で食べることは無理の様だ。折角の「鮎の塩焼き」も美味い時に食べられないのは残念なことである。
=======終り==========================
上記の文章の著者の横山美知彦さんは終戦前後に家内が疎開した群馬県の下仁田小学校の同級生でした。
この6月初旬に同級会があり家内を下仁田まで送って行った時いつものように横山さんから文集を頂きました。
上の文章はその中の一編です。
尚、下仁田小学校のまつわる話は以下の記事にあります。
『茫々70年、群馬県の山の中、下仁田小学校物語り』
(2017年06月09日掲載)
そして鮎の塩焼きに関する記事は次の記事にあります。
『利根川の鮎料理、坂東簗の店仕舞いーある地方文化の終焉ー』
(2015年06月17日 掲載。)
毎年、6月になると利根川上流の坂東簗から今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しくださいと案内状が来ます。
それが今年の手紙は店仕舞いの挨拶状でした。何十年も家族とともに楽しんできたところが無くなるのです。しばし寂寞感にとらわれます。
これはある地方文化の終焉です。簗で鮎を捕り、見晴らしの良い川岸で鮎料理を楽しむのは、その地方の食文化です。時代が変わればその文化も終焉するのです。
坂東簗の発祥は江戸時代末期です。戦争の影響で一旦閉鎖されましたが、昭和29年に利根川の別名「坂東太郎」の名を冠して再び営業を始めました。そこは関東地方では有名な鮎料理の簗でした。
鮎を食べていると夏草の茂る利根川の広い川原が見渡せて、その向こうには榛名山や伊香保の山並みが見えるのです。その風情ある情景が忘れられません。
・・・・中略・・・・・・
このように利根川で取れた鮎を川風に吹かれながら食べる風習はもう無くなってしまうのです。夏の風物詩が一つなくなり、淋しくなります。(以下省略)

今日の挿し絵代わりの写真はこの記事の写真です。


今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)