後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

洗礼を受けて良かったこと(2)孤独に死せる人々の冥福を祈れるようになった

2017年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
洗礼を受けたおかげで私は孤独に旅立った人々の冥福を祈れるようになりました。何故か理由は分かりませんが、それは良いことの一つではないかと思っています。
説明の難しい問題なので昨日、小平墓地と多摩墓地で撮ってきた写真を示します。

1番目の写真は都立小平墓地にある児童養護施設で幼くして此の世を去った子供たちの慰霊碑です。

2番目の写真は子供たちの慰霊碑は昭和26年3月に東京都が建てたと書いてある石碑です。
そして慰霊碑の右隣には祀られている子供達の名前を彫った石板があります。

3番目の写真は都立多摩墓地にある都内の無縁仏の合葬墓です。

4番目の写真は都立の「養育院」で亡くなった身寄りの無い人の墓です。

5番目の写真は「養育院」の説明板です。養育院は窮民救済を目的とした施設で、江戸時代の基金である七分積金を引き継いだ東京都の組織です。

私は静かで緑豊かな多摩墓地や小平墓地をよく散歩します。
その折には子供たちの慰霊碑や「養育院」の身寄りの無い人の墓で幸薄く亡くなった人々の冥福を祈ります。
神さま・お釈迦様は亡くなった子供一人一人を平等に愛しています。
多摩墓地の身寄りの無い人の墓には「倶会一処」と書いてあります。
倶会一処 とは、浄土教の往生の利益の一つです。 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味です。良い言葉ですね。

そんなことを考え亡くなった子供たちや身寄りの無い人たちのあの世での幸せを祈るのです。
洗礼を受ける前はそんな心境にはなれませんでした。しかし現在は洗礼を受けて良かったと思うのです。小平墓地で。多摩墓地で。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================
(1)東京都の児童養護施設;http://児童養護施設の入所理由.com/category6/entry61.html

東京都には児童養護施設が63ケ所あります。
その2例だけ示します。

東京サレジオ学園
所在地:187-0021 東京都小平市上水南町4-7-1
TEL:042-321-0412 FAX:
HP:http://www.salesio.or.jp/
創立年月日:1946年4月
入所定員:106名

生長の家神の国寮
所在地:186-0003 東京都国立市富士見台2-39-1
TEL:042-572-8770 FAX:042-573-9205
HP:http://www.kamino92.or.jp/outline.htm
創立年月日:1945年11月
入所定員:52名

(2)東京都養育院について;http://www.tmghig.jp/hospital/about/sub03.html
健康長寿医療センターの歴史は、1872年(明治5年)10月15日の養育院創立までさかのぼる。養育院は、ホームレスや病者、孤児などの窮民救済を目的とした、病院、乳児院、孤児院、養老院などの機能を併せ持った施設で、江戸時代の基金である七分積金を引き継いだ営繕会議所の事業として行われた。
養育院は当初、本郷加賀藩邸跡(現在の東京大学)の空長屋に設置された。その後、上野(現在の東京芸術大学の校地)、神田、本所、大塚と移転を繰り返し、関東大震災後に現在の健康長寿医療センターのある板橋に移転した。
養育院は、明治22年に当時の東京府に移管され、昭和47年には、養育院の附属機関として東京都養育院附属病院が設立された。その後、同病院は、昭和61年東京都老人医療センターに改名された。
平成11年12月、東京都養育院条例が廃止され、養育院の名称が消滅し、老人医療センターは、東京都(知事部局)高齢者施策推進室の所管となった。「東京都健康長寿医療センター」が現在の名前です。

養育院のその後;http://blog.goo.ne.jp/kenmatsu_fs/e/97fdc476ed909c7f3ddf10432aef33c3
明治以来、近代資本主義の進展の中でその推進役として中心的な存在であった渋沢栄一翁が中心になって運営してきた施設で、途中から公立の施設になっていた。弱者、貧者を公が救うことは甘やかしに過ぎないという声がその当時から寄せられたと言うが、渋沢翁は敢然とこれに対抗し、この施設を守り続けてきた。だが、その渋沢翁も既に亡く、戦後には地元板橋区からも追い立てられ掛けたりしながら、関係者の方々の熱意により養育院は維持され続けてきたのだが、石原都知事の時代に廃止されることが都議会で決められてしまった。
その跡地には、東京都健康長寿医療センターという施設が出来ている。そして、正に最後まで養育院があったその場所に、このセンターの新館の建設工事が行われて、2013年6月1日に新センターがオープンした。その中に、養育院と渋沢栄一の業績を記念したコーナーが造られているというので、見に行ってみた。

新刊紹介、永田和宏著、「人はどのように鉄を作ってきたか 」

2017年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
先週、永田和宏さんから新刊書の「人はどのように鉄を作ってきたかー 4000年の歴史と製鉄の原理 」という本が送られて来ました。
5月20日に講談社から出版された本です。
世界中の各地の製鉄方法の発展の歴史が明快に書いてある名著です。英語に訳せば外国でも売れると思います。外国では学術書として出したほうが良いと思いました。
皆様は日本刀が世界一切れる刀と思っていらっしゃいませんか?
その日本刀を作る鉄の製錬法が重要なのです。その製錬法も書いてある本です。

Amazon Book の内容紹介を以下に示します。
・・・人類が鉄を作り始めて4000年。「鉄」ほど人類の社会と文明に影響を与えた物質はない。温度計もない時代に、どのように鉄を作ったのだろうか?
「鉄鉱石を炉に入れ加熱すれば、鉄は自然にできてくる」というわけではない。鉄鉱石から鉄を作るには、厳密に温度を管理し、含まれる炭素の量をコントロールし、リンやイオウなどの不純物が混ざらないようにしなければならない。温度計すらない時代から、鉄を作ってきた人々は、それらをどのように知り、何を目安に鉄を作ってきたのだろうか。
アナトリアの最古の製鉄から現代の製鉄法、さらに日本固有の「たたら製鉄」の技術を解説しながら、鉄づくりの秘密に迫る。
そして著者の永田 和宏さんを以下のように紹介しています。
1946年、岐阜県益田郡金山町に生まれる。東京工業大学工学部金属工学科卒業、同大学院理工学研究科博士課程修了、工学博士。ベネズエラ国立科学研究所主任研究員、東京工業大学技官、助手、助教授経て、同大学教授。その後、東京芸術大学教授を経て、現在、京都造形芸術大学客員教授。鉄冶金学の研究からたたら製鉄および古代製鉄の技術を研究し、永田式たたらを考案、子供たちや一般の方々と楽しんでいる。「たたらを現代に」を掲げ、電子レンジ製鉄を発明。・・・

この本は1080円で、購入は、https://www.amazon.co.jp/dp/4065020174?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div からネット購入が出来ます。
さてこの本に出て来る「たたら製鉄法」とはどのようなものでしょうか?
たたら製鉄とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称です。 砂鉄や鉄鉱石を木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴となっています。4世紀ごろ朝鮮から伝わった製鉄法です。
以下に、たたら製鉄法の写真を示します。

1番目の写真は、たたら製鉄炉の構造です。出典は、http://www.wakou-museum.gr.jp/iron-01/ です。

2番目の写真は、現在の行われているたたら製鉄の火入れの写真です。出典は、http://www.sankei.com/photo/daily/news/170118/dly1701180009-n1.html です。

3番目の写真は萩市にある「たたら製鉄遺跡」の写真です。
出典は、http://www.japansmeijiindustrialrevolution.com/site/hagi/component03.html です。
このような製鉄法で古墳時代から鎌倉、江戸時代と鉄製の大工道具や農具の鍬や鎌をえいえいと作って来たのです。
そして現在でも日本刀の銘刀を作る場合は2番目の写真のように、たたら製鉄を用いられているのいです。日本の文化遺産ですね。

今回ご紹介した本には日本の「たたら製鉄」も含めて、世界の各地の昔の製鉄法とその発展の歴史が分かり易く書いてあるのです。
日本刀の銘刀にご興味のある方々へもお薦めしたい内容の本です。(終り)

洗礼を受けて良かったこと(1)仏教が理解出来たこと

2017年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今から46年前の1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けました。
洗礼を受けても自分の悪い性格は一向に良くなりません。洗礼の効果はゼロです。
しかし洗礼を受けたお陰で良かったことが幾つかあります。
今日からその幾つかの良かったことを「洗礼を受けて良かったこと」という連載記事にして気軽にご紹介いたします。
第一回は「仏教が理解出来たこと」です。勿論、仏教は奥深く、そしていろいろな宗派がありますから、その概略を少し理解出来たと言うべきです。少しでも理解出来たので大変親しみを感じるようにまりました。

キリスト教ではイエス様の教えを書いた新約聖書の中の福音書を非常に大切にしています。それから後の世のいろいろな優れた人の教えや儀礼や習慣も大切にしています。
宗教というものは教祖様の教えと、後の世のいろいろな優れた人の教えから成り立っているのが普通です。
佛教も例外ではありません。お釈迦様の教えと、後の世の人々の教えから成り立っています。
まずこの2者を区別して、整理すると理解しやすいのです。
お釈迦様の教えは般若心経に過不足なく、そして明快に書いてあります。お釈迦様が弟子のシャーリプトラへ教えた内容が書いてあります。
この世にある全てのものは空(くう)なのですよ。空なるものが物質の本質なのですよと何度も教えています。それを信じるとこの世の苦しみや悲しみは消えて無くなりますよと教えています。人間が苦しみや悲しみから解放されて幸福に生きるための考え方を教えているのです。
この宇宙にある全てのものは空(くう)だという宇宙観は西洋には無い卓越した哲学です。
お釈迦様の教えはこれだけです。一切のものが空なのですからお釈迦さんは死んだら遺骨は野に捨てなさい、お墓も作ってはいけませんと遺言しました。仏像も作ってはいけませんと明言しました。
ですからお釈迦様の死後400年以上は仏像の一切無い宗教だったのです。
現在、日本にある華麗なお寺も仏像もお釈迦様の言ったことに従わないで後の世の人々が作ったものなのです。
だからと言って、それらは悪いと言っているのではありません。宗教というものは永い間存続し継承されるためには、付随的なものや追加された教えも非常に重要なのです。
例えばイエス様は、現在のローマ法王と世界中のカトリック教会の組織を作りなさいと言いませんでした。あるいはマリア像を作り祈りなさいと言いませんでした。しかしキリスト教を長く継承するためには重要なのです。少なくともそのように信じている人々をカトリック教徒と呼ぶのです。
佛教でもお釈迦さまの教えを理解し、長く継承するためには座禅が重要だという考えがあります。その考えにもとづいた宗派が曹洞宗や臨済宗や黄檗宗などの禅宗の宗派なのです。
このように仏教を理解すると、一番大切なことはお釈迦様の教えだということが納得できます。
それぞれの宗派の教えが、お釈迦様の教え以上に重要だということは絶対に無いのです。主客転倒はいけません。
例えば、曹洞宗は、福井の永平寺を開山した道元禅師さまが中国から持って来た考えです。そして横浜の鶴見の総持寺を開山した瑩山禅師さまが広められた宗派です。
現在、永平寺・総持寺の両大本山をはじめとして、約一万五千の寺、僧侶二万人、一千万檀信徒を有しているそうです。
この宗派では道元禅師さまや瑩山禅師さまの像がよく祀られています。そして 多くの人々はお釈迦様のことを忘れて道元禅師さまや瑩山禅師さまの像だけに祈っています。これは間違っていますね。
そんなことが洗礼を受けると理解出来るのです。

どんな宗教でもお釈迦様やイエス様のような教祖さまの教えと、後の世の人々の教えから成り立っています。
ですから教祖さまの教えを忘れてはいけないと私は信じています。そのように信じると仏教も分かり易くなると思います。

今日の挿し絵代わりの写真は京都の三十三間堂の写真です。昔の日本人の仏教へ対する熱い情熱を感じますね。いかがでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)






新聞を読まなくなったアメリカ人や日本の若者たち

2017年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカの多くの人が新聞を読まなくなったそうです。日本でも若者は新聞を読まないでニュースはテレビやネットで見ます。
この社会的傾向は、アメリカの大新聞の予想に反してトランプさんが大統領になったのも原因と言われています。
しかし高齢者層の日本人は相変わらず宅配された新聞を大切にして丁寧に読みます。ネットの情報はウソのニュース、すなわちフェイクニュースが多いので大新聞を信じて読みます。
しかしトランプ大統領は新聞はフェイクニュースばかり書くと非難します。非難しながら自分もフェイクニュースをネットに書き散らしています。
正しい政治的意見や素晴らしい文化的な記事を掲載してきた大新聞の栄光と権威は風前の灯火です。
そしてアメリカではフェイクニュースの見分け方を教える学校も現れたのです。その教育を『ニュース・リテラシー教育』と言うそうです。
そのことは人々の得る情報源が新聞からインターネットに変わりつつあることを示しています。
新聞社の広告収入が減り、経営が困難になってきます。
私も、「今日のニュース」や「Goegleニュース」や「ライブドア・ニュース」を検索してニュース情報を見てみました。
そうしたら新聞よりもネット情報の方が以下の諸点で魅力的に感じたのです。
(1)新聞の紙面の編集と割り付けは大会社主義で肩苦しいです。一方ネット情報は情報が分類されていて見出しの中から自分の好みで選び出せるのです。すなはち、新聞は新聞社が選んだん情報を押し付けているのです。ネットの方は自分で自由に編集して情報を読み取ることが出来るのです。こちらの方に個人の尊厳があると感じます。
(2)インターネットの情報提供は週刊誌のように面白い項目が並んでいます。
新聞は紙面のスペースの限りがありますから下らない興味本位の情報を掲載することが出来ません。一方、ネットの方は小さな写真1枚と見出し項目だけを掲載しています。読者が見出し項目をクリックすると、詳細な記事と数枚の写真が出て来るのです。そして、その記事の背景になっている情報や関連情報の見出し項目が並んでいるのです。それらをクリックすると関連の深く広い情報が得られるのです。
このようにネットには誌面のスペースの制約がないのです。
(3)ネットでは写真週刊誌のように面白い写真を多用したものもあります。動画もあります。
見ていると新聞より楽しいのです。
(4)Face BookのようなSNSでは他人のページをそのまま転載出来る機能がついています。ですから面白い写真や感動的な短い記事は一瞬にして世界中に広がるのです。
広がるためには誰が見ても非常に面白いことが絶対条件です。ここにウソのフェイクニュースが生れる原因があるのです。
ネットの世界ではウソでも面白ければ良いのです。ウソが大歓迎される文化なのです。
しかしウソはいけません。
ですからこそアメリカではフェイクニュースの見分け方を教える学校も現れたのです。『ニュース・リテラシー教育』ですね。

このようにくだくだ書くと若者に嫌われますのでお終いにします。
多くの読者は独りよがりの文章より写真を歓迎します。ですから黙って花の写真をお送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真はトロロアオイの花です。

2番目の写真は蓮です。

3番目の写真はチョウセン朝顔です。

4番目の写真は綿の花です。

5番目の写真はキキョウの花です。

6番目の写真は白いキキョウの花です。

7番目の写真はヘビウリの花です。

ネムの花と西施という美人のはなし

2017年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
数日前に甲斐駒岳の麓を車で走っていたとき妻が「車を止めて!」と言います。
炎天下に飛び出して雑木林の中に駆け込みしきりに写真を撮っています。
ネムの花が溢れるようにに咲いている大木を見つけたと言うのです。妻は昔から朱鷺色の絹糸の房のようなネムの花が好きなのです。
そのネムの花の写真をお送りします。









このネムノキの花は古来から日本にあり、万葉集にも唱があります。
「昼は咲き 夜は恋ひ寝(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 
     戯奴(わけ)さへに見よ」    8/1461 紀郎女(きのいらつめ)

そして芭蕉も一茶もネムの花(ねぶの花)の俳句を作っています。

象潟や雨に西施がねぶの花     松尾芭蕉

雨の日やまだきにくれてねむの花   与謝蕪村

もう一句もどうぞご覧下さい。

そのすがた人にうつすやねぶの花     加賀千代女

中国には昔から2種類の美人がいました。楊貴妃と西施です。
楊貴妃は自分が美人だと思っています。自分が美人ということを知っているから、つい出しゃばりになります。積極的に明るい女です。
一方、西施は自分が美人ということに自信がありません。何時も控え目で、うつむき加減で、悲し気な雰囲気です。

この違いが分からないと『故郷』という小説の中にある「豆腐屋の西施」へ対する魯迅の落胆の深さが理解できません。
若い時に控えめな美しい豆腐屋の楊二嫂が、50歳くらいになり痩せこけた猛々しい女になっていたのです。
『故郷』、魯迅 (井上紅梅訳)から抜粋します。

・・・「これはすじ向うの楊二嫂だよ。そら豆腐屋さんの」
 おおそう言われると想い出した。わたしの子供の時分、すじ向うの豆腐屋の奥に一日坐り込んでいたのがたしか楊二嫂とか言った。彼女は近処で評判の「豆腐西施」で白粉をコテコテ塗っていたが、頬骨もこんなに高くはなく、唇もこんなに薄くはなく、それにまたいつも坐っていたので、こんな分廻のような姿勢を見るのはわたしも初めてで、その時分彼女があるためにこの豆腐屋の商売が繁盛するという噂をきいていたが、それも年齢の関係で、わたしは未かつて感化を受けたことがないからまるきり覚えていない。・・・

もう詰まらない話はやめます.
しかし最近テレビで見る美人たちに若い時の豆腐屋西施のような楚々とした控え目の美人が居なくなったのは時代なのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
魯迅の『故郷』は悲しい物語りです。

豆腐屋の美人の西施のことは本筋とはあまり関係の無い効果音楽のようなものです。
小説の『故郷』は、魯迅が、20年ぶりにふるさとを訪れるところから始まります。物語の舞台となるのは中国東南部の町、紹興という町です。北京から離れた紹興酒の産地です。
都会で出世したエリートである魯迅は、母が住む実家を売り払うためにふるさとに帰って来たのです。20年ぶりに目にした町はさびれ、人々の暮らしも貧しいままでした。甘い思い出の中のふるさととはかけ離れたその姿に、魯迅は愕然とします。

母は魯迅の子ども時代の親友だった閏土の苦しい暮らし向きを話して聞かせ、近く訪ねてくるはずだと知らせるのです。その知らせを聞いた魯迅の胸には、一気に昔の記憶がよみがえります。
閏土とともに遊んだ少年時代の楽しい思い出が次から次へと蘇ってきたのです。
そしていよいよ、その閏土が自分の目の前に現れるのです。
魯迅は、子ども時代と同じような気持ちで閏土に接しようとすます。
しかし魯迅の昔の家は地主で、閏土は小作人の子でした。
閏土が最初に発した言葉は、「旦那さま」という言葉です。
閏土の顔には懐かしさと悲しさが溢れます。魯迅と閏土の間には冷たい悲しい壁が立ちはだかってしまっていたのです。
何も差別を感じないで閏土とともに遊んだ少年時代の楽しい思い出が無残にも消え去るのでした。
魯迅の『故郷』はそのような悲しい物語りなのです。

「甲斐駒山麓の山里の花の写真をお楽しみ下さい」

2017年07月27日 | 写真
北杜市の武川にある小屋に先週行きました。小屋に行くと必ず花の写真を撮らせてもらう別荘があります。奥様が花の栽培が好きで別荘の前の畑一面にいろいろな花々を植えています。
甲斐駒岳を背景に花々の咲いている風景がなんとも言えず素晴らしのです。花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









高原に木曽馬が数百頭も放牧されていた時代

2017年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の高原には「牧」とい字を組み込んだ地名があちこちにあります。例えば甲州街道の韮崎を西に行くと北杜市に入り『牧原交差点』という標識がついた大きな交差点があります。土地の人に聞くと、そこに昔、牧原があったそうです。
しかし馬など一頭も見当たりません。現在は見事な水田が広がるだけで、馬が放牧されていたとは想像も出来ません。
馬を放牧していた牧場があって、馬を大和朝廷に献上していたという伝説があるだけです。私はそのような伝説は信じないことにしています。大和朝廷とのつながりを誇示するために後の世の人々が文献を作った可能性があると思っていました。
しかし先週、開田高原に行って、江戸時代から明治、大正と数百頭の木曽馬を放牧し、毎年、馬市に出していた山下家の住居を訪問し、その管理人の加村金正さんの話を聞いて全国の『牧原伝承』を信じるようになったのです。
木曽馬の最古の記録は安閑天皇の530年代に木曽の霧ケ原に牧場が作られてと書いてあるそうです。そして律令制が出来、現在の中山道を東山道として整備された頃に本格的な木曽馬の飼育が始まったようです。
江戸時代になると信頼できる文献も多くなります。それによると山下家の先祖が飛騨の国の主の金森頼直の馬奉行に仕えていたのです。そして金森頼直の馬奉行の信頼を得、元禄5年に飛騨の国の主の家にあった馬医書を貰い受けます。この馬医書は現在も保存されているそうです。
ここで重要なのは山下家が江戸幕府から馬飼育に関する正式の認可を受けたことです。この権威で山下家は数百頭、一説には300頭の木曽馬を毎年馬市へ出していたのです。
それでは300頭もの馬をどのように飼育していたのでしょうか?
管理人の加村金正さんの話では、山下家は毎年、何頭かの子馬を数十人の小作農家へ貸し与え、一年間の飼育を委託していたのです。
小作農家では家の中に馬房を作り、昼間は放牧場で草を食べさせて飼育したそうです。農作業に馬を使うのは自由でした。
そして馬市へ出して売るのです。小作人は売上金のうち脚一本分(25%)を貰い、山下家が脚三本分(75%)も取ったのです。
現金収入の少ない小作人にとっては25%でも有難い収入だったのです。
開田高原の冬は零下20度にもなるそうです。馬房の前に竃(かまど)を作り、毎日、氷を解かして馬に水を飲ませていたそうです。
それにしても小作人が25%しか取れない搾取ぶりには驚きを禁じ得ません。

それはさておき木曽の開田高原には3つの大きな馬持豪家があったそうです。もし各豪家がそれぞれ300頭の木曽馬を持っていたら開田高原には900頭の木曽馬が放牧されていたのです。そのような風景をご想像してみて下さい。

全国の牧原の風景も似たようなものだったのでしょう。馬の需要の多さに驚きます。
馬が、現在の車のように日本全国に溢れていたのでしょう。
その馬の飼育には小作人の搾取があったのです。搾取が良いのか悪いのかは分かりません。ただそんな時代があったことを忘れないようにしたいと思います。

写真は長野県宝・重要文化財になっている山下家の様子です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)













東山魁夷の「馬車よ、ゆっくり走れ」と旧懐の情

2017年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
これは普通のことでしょうか。年を取ると昔のことがむしょうに懐かしくなるものです。自分が生れた仙台の向山や、少年の頃遊んだ八木山や霊屋下の情景を思い出し胸がかきむしられます。これを旧懐の情と言うのでしょうか?
旧懐の情は不思議なもので若い頃留学したドイツの暗い寒い冬のことが人生の折々に思い出されます。そしてドイツの中世の「遍歴徒弟の文化」を想像します。留学は遍歴しながら学問を身につける旅なのです。ドイツ語でシュティデーエン・ライゼと言いますが、その言葉はロマンと修行の厳しさ、そして暗い冬の寒さを連想させます。
ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持っています。45年前に留学したドイツにはそのような雰囲気が残っていたのです。当時、住んでいたたシュツットガルトやローテンブルグやクラウルシュタールの名前を思い出しただけで旧懐の情で胸が熱くなるのです。
そしてドイツの思い出を熱く書き上げた東山魁夷の「馬車よ、ゆっくり走れ]という本を思い出します。
東山魁夷は1933年から2年間ベルリン大学留学します。それは彼の遍歴徒弟の旅でした。第二次大戦前のドイツの良い時代でした。
そして画家として有名になった1969年に3ヶ月半、夫人を伴って西ドイツを北から南へ、そしてオーストリアへと旅行したのです。
昔の下宿した街や路地を馬車をゆっくり走らせてめぐります。35年も前の昔の思い出が心に溢れ、馬車をゆっくり、ゆっくり走らせます。
ベルリンの冬の暗さや静かな思考がよみがえってきます。そして修行の苦しさも描かれています。
その東山魁夷は非常に優れた日本画を残しました。1908年(明治41年)に生まれ1999年(平成11年)に旅立ました。
1番目の写真に彼の作品の「年暮る」(1968年 紙本・彩色 山種美術館)をお送りします。

この作品は寒い京都の町に雪が降り、年が暮れていく情景を描いたものです。
私はこの作品が大好きです。東山魁夷が遍歴の旅で逗留したベルリンの冬を思い出しながら描いた風景画のように思えるのです。
お寺の本堂を囲むように密集した家々の屋根に雪片が降る美しい光景です。私にはこの絵の下敷きにドイツの冬の思い出があると想像しています。
ドイツの思い出は町の名前を見ただけでよみがえって来ます。
そこで2番目の写真にドイツの地図をしめします。

このドイツの地図の出典は、http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/infomation/q036_map_germany2.htm です。
ハンブルグ、リューベック、ブレーメン、アーヘン、ハイデルベルヒ、トリアー、ゴスラー、ローテンブルグ、ニュルンブルグ、ミュンヘン、シュツットガルト、チュービンゲン、バーデンバーデンなどと町の名前を書いていると懐かしさで胸が一杯になります。
懐かしさは個人的なものです。例えば3番目の写真はローテンブルグの城壁の後ろ側の写真です。

この写真の出典は、http://mogloguk.blogspot.jp/2016/04/blog-post_21.html です。
私は1969年の夏から秋にローテンブルグに滞在しました。午後はこの写真のような城壁に登り壁の上を散歩しながら城壁の外の麦畑を眺め、内側の赤屋根の街を見下ろして物思いに耽っていました。
その思い出のローテンブルグの風景写真を4枚お送りします。
写真の出典は3番目の写真と同じです。








東山魁夷の「馬車よ、ゆっくり走れ]にはこのローテンブルグについて次のように書かれています。
・・・・これから、いよいよ、こんどのドイツ旅行の、私にとって中核ともいうべき、三つの古い町を次々に訪れることになる。しかし、それらは皇帝の都でも、司教の町でもなく、中世のありふれた自由都市が、そのままの姿で残った小さな町である。そして、私の心を最も強く引き付ける、ありふれた市民の町である。・・・・ローテンブルグ、追憶の古都、霧が晴れた。
木々の生い繁る緑の丘の上に、城壁に囲まれた古い町の姿が現れる。城門の櫓や、教会の尖塔をいくつも聳え立たせ、傾斜の急な赤い瓦の破風屋根を並べた中世そのものの町が見える。
ローテンブルグ、私にとって故郷ともいうべき響きを持つこの名。・・・

このように私の個人的な思い出を書いているとキリがありません。今日はここで終わりにします。お読み頂きまして有難うございました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

時が止まったような奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿の風景

2017年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
時が止まったような村や町の風景を見るといろいろなことを思い浮かべます。人々が活き活きと生き、そしてどんどん死んで行きます。
しかし古い農家とその周囲の風景は変わりません。古い宿場町の家並みの風景はシーンとして静かに時を刻んでいるだけです。
今回の奈良井宿への旅で、その家並みの中を歩きながら人の生き死にの儚さを考えていました。
写真をお送りします。

1番目と2番目の写真は今回撮った中山道の奈良井の宿です。江戸時代の宿場町がそのまま保存してあります。



3番目と4番目の写真は中山道の奈良井宿から南に行った場所にある妻籠の宿場町の風景です。数年前に3度ほど行きました。

3番目と4番目の写真の出典は、「自分を探す旅 見つめ直す旅 」というブログです。素晴らしい旅行記のブログです。

5番目と6番目の写真は中山道をさらに南に行った所にある馬籠の宿場町です。馬籠の宿場町へも3度ほど行きました。

5番目と6番目の写真の出典は、http://www.livedo.net/tabi/276.html です。

7番目の写真は庄屋をしていた馬籠の島崎藤村の生家です。

以上のような奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿は全て険しい山の谷に沿った危険な道でした。ここには11の宿場町がつらなっていました。
木曽福島の厳重な関所の先の峠までは木曽川に沿い、分水嶺の奈良井の峠を越すと日本海へ注ぐ川に沿っています。
その中山道の険しさは島崎藤村の「夜明け前」の序文に描かれていますので、下にご紹介します。
出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html です。
・・・島崎藤村の「夜明け前」の序文・・・
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降くだって来た。道の狭いところには、木を伐きって並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷けいこくの最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。
 東山道とも言い、木曾街道六十九次とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否でも応でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
馬籠まごめは木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。・・・

この中山道は現在、国道19号線として立派な舗装の自動車道路になっています。車で走りながらこの島崎藤村が描いた昔の中山道を思い浮かべていました。昔の道らしい細い道路が所々で19号線から分かれて山の斜面に入っています。
昔の中山道は現在は奈良井、妻籠、馬籠の宿場町の真ん中に残っているだけなのです。嗚呼、時はどんどん流れ行きますが、そこだけは時が止まっているのです。此処で生活し、古い建物を維持している人々のご苦労は如何ばかりかと感じ入りながらの旅でした。
新幹線が走り高速自動車道路が出来ても奈良井、妻籠、馬籠の宿は頓着しません。人間は何故そんなにいそぐのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
島崎藤村の「夜明け前」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%98%8E%E3%81%91%E5%89%8Dから引用します。

日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている(篠田一士は自著『二十世紀の十大小説』の中で、日本語で書かれた作品として唯一これを選んでいる)。米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。
『中央公論』誌上に、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月、新潮社から刊行された。 1934年11月10日 村山知義脚色、久保栄演出「夜明け前」(三幕十場)が新協劇団により築地小劇場で初演される。
1953年に「夜明け前」として、新藤兼人脚色、吉村公三郎監督により映画化されている。

あらすじ:
中仙道木曾馬籠宿で17代続いた本陣・庄屋の当主、青山半蔵は、平田派の国学を学び王政復古に陶酔し、山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。下層の人々への同情心が強い半蔵は新しい時代の到来を待っており、明治維新に希望を持つが、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と、政府による人々への更なる圧迫など半蔵の希望とは違う物で、更に山林の国有化により一切の伐採が禁じられるという仕打ちであった。半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。また嫁入り前の娘、お粂が自殺未遂を起こすなど、家運にも暗い影が差してきていた。村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は意を決して上京し、自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕する。しかし同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動になる。その後、飛騨にある神社の宮司になるが数年で帰郷。半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で四十歳ほどで隠居して、読書をしつつ地元の子供たちに読み書きを教える生活を送ることになったが、次第に酒浸りの生活になっていく。維新後、青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚たちはこの責任は半蔵にあると、半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させ親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。温厚な半蔵もこれには激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけるのだった。そして半蔵は国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満や、期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男、和助(作者島崎藤村自身がモデル)が期待に反し英学校への進学を希望したことなどへの落胆から、精神を蝕まれ、自分を襲おうとしている『敵』がいると口走るなど奇行に走っていく。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁されてしまう。当初は静かに読書に励んでいたが、次第に獄中で衰弱していき、最後には自らの排泄物を見境なく人に投げつける廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死してしまった。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬したのだった。(終り)


「カトリック小金井教会の今朝のミサ風景」

2017年07月23日 | 写真
今日の司式はイエズス会の山中大樹神父さまがなさって下さいました。山中神父様の説教は、神様が私達一人一人を強く愛しているという話でした。いろいろな例えを使って神様が私達一人一人を強く愛しているということを懇切丁寧に話して下さいました。

今朝のミサの風景の写真をお送りします。









宗教と宗派の違いが中東の戦乱を一層複雑にする

2017年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
中東のイスラエルとパレスチナ自治政府ではユダヤ教徒とイスラム教徒が対立し、抗争を続けています。一方同じイスラム教徒でもシーア派のイランがスンニ派のサウジアラビア王国と激しく対立しています。
そして6月5日にはスンニ派の国々のサウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、エジプト、そしてバーレーンの中東4カ国が、同じスンニ派のカタールとの国交を断絶すると発表しましたた。これはサウジなどの4カ国が、カタールが過激派やイラン寄りグループとつながりがあると主張して断交したのです。
これには流石のアメリカも驚いてしまいました。カタールには米軍の強力な軍事基地があり、一方親米国のサウジにも大規模な米軍基地があるからです。
このようにスンニ派とシーア派が中東では複雑に抗争を激化し、中東の戦乱を一層混迷を深くする原因になっているのです。

それではイランのシーア派と、その他の大部分のイスラム教国のスンニ派とはどのように違うのでしょうか?

預言者ムハンマドは632年に亡くなりました。その亡き後のイスラーム国家の指導者すなはち最高権威者であるカリフはムハンマドの子孫であるべきだと主張する派がシーア派です。一方、子孫の中からではなく、話し合いによって皆から選ばれたものがカリフとなるべきと主張する派がスンニ派なのです。
そこでシーア派とスンニ派の分布を示す図面を以下に示します。

1番目の写真は中東地域におけるイスラム教スンニ派とシーア派を示した地図です。イランがシーア派です。その他は全てスンニ派です、イラクは両派が混じっています。シリアは70%がシーア派です。
この図の出典は、https://syukatsulabo.jp/article/1493 です。

ここでもう一度、中東の地図を見てみましょう。

2番目の写真は中東の国々を示す地図です。
この地図の出典は、http://www.i-ise.com/jp/column/salon/201501.html です。 
この地図で広大な領土のあるのはイランとサウジアラビア王国です。その間にアメリカが必死で石油の利権を守っている湾岸の4国が挟まっています。クエイトとバーレンとカタールとアラブ首長国連合(UAE)です。
そして地中海よりに現在も戦乱の続いているシリアがあります。その南隣がレバノンとヨルダン王国です。そしてその西の地中海に面して紛争の絶えないイスラエルとパレスナ自治区があります。
この地図と1番目の写真を見比べるとこの中東におけるスンニ派とシーア派の分布が概略分かります。
それでは世界のイスラム国のスンニ派とシーア派の分布はどのようになっているのでしょうか?

3番目の写真は広範囲な地域のスンニ派を青で示した地図です。イランがシーア派でイラクが混在した地域です。世界のイスラム教は90%がスンニ派です。この写真の出典は、https://waitbutwhy.com/2014/09/muhammad-isis-iraqs-full-story.html です。

これらの図にあるようにスンニ派とシーア派が単純に対立し抗争を続けているのなら理解し易いのですが、事実はもっと複雑なのです。
例えば今回のカタールとの断交の原因を、http://jp.wsj.com/articles/SB10372492675706814214504583189914160888692 から抜粋してみます。
=====抜粋文です==============================
サウジなどの 4カ国はカタールと中東地域の政策について意見が衝突していたのです。
カタールはパレスチナ自治区を実効支配するハマスやエジプトのムスリム同胞団など、イスラム原理主義組織のメンバーを支援しています。
またシリアなどの過激派組織との関係も一部で維持しています。
サウジ、UAE、エジプト、そしてバーレーンはこのカタールの態度を不愉快に思いカタールと衝突したのです。
両サイドは中東地域でのサウジとイランへの対応でも対立しています。サウジはイランとの対立姿勢を強めており、友好国も後に続くことを期待しています。しかしカタールは外交を通じた問題解決を支持し、対立や戦争には反対なのです。
このようにカタールは同じスンニ派のサウジなどの4ケ国と対立して断交にまでなってしまったのです。
今回の外交関係の断絶で、空路と陸路の全ての交通を遮断したのです。小さな半島国であるカタールの首都ドーハでは、住民がパニックに陥り、スーパーで商品を買い占め銀行から預金を引き出すなどしているそうです。
そればかりではありません。
 今回の国交断絶は、湾岸地域内の対立を振り返っても、過去数十年で最も緊迫した状況だと言われています。
米政府が「イスラム国(IS)」の一掃と過激派組織への対策を強化しようとする中、米国と緊密な同盟国同士が衝突しているのです。
米国が主導するイスラム国(IS)への空爆も、カタールの米軍基地内に司令センターが置かれているのです。
アメリカにとっても実に困った事態なのです。
===抜粋の終り==================================
このように中東地域では単純にスンニ派がシーア派と抗争すると理解したら大きな間違いになるのです。
中東地域の戦乱はイスラエルとパレスチナ自治区を実効支配するハマスとの抗争と必ずのように関連があり、さらにエジプトのムスリム同胞団との関係も問題になるのです。

その上、スンニ派とシーア派の入り組んだ抗争の他に、キリスト教の一派のエジプトのコプト教とスンニ派との対立があります。
そして欧米ののキリスト教も中東地域に散在しているのです。この欧米流のキリスト教はイスラム教徒と対立します。
従って中東地域の戦乱は異なる宗教勢力や違う宗派勢力は複雑に絡み合って混迷を深める一方なのです。

以上を整理します。
中東地域の宗教勢力は以下の通りです。
1、イスラム教スンニ派(サウジ、ヨルダン、エジプト、アラブ首長国連合、クエート、バーレーン等)
2、イスラム教シーア派(イランとシリアとイラクの一部)
3、ユダヤ教(イスラエル国)
4、キリスト教コプト派(エジプトやエチオピア)
5、各地に散在するキリスト教など

これらの宗教と宗派が対立と抗争の原因になっているのです。
その抗争は単純に宗教的な対立ではなく各国の利害の抗争と結びついたものなのです。そしてアメリカとロシアの石油権の利害と覇権主義が重なり中東の戦乱は支離滅裂の様相を呈しているのです。
この混戦状態は1618年から1648年にかけてヨーロッパで起きた混戦の『30年戦争』と非常によく似ていると言われています。

ここで問題提起ですが、「どのようにしたら中東の戦乱を止めることが出来るのでしょうか?」

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
30年戦争とは;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

三十年戦争は、ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる。当初は神聖ローマ帝国内で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントとカトリックの戦争が、ドイツ以外のデンマーク、スウェーデン、フランス、スペインなどヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。戦争はカトリックの国であるフランス王国がプロテスタント側につくなど、次第に宗教とは関係のない争いに突き進んだ。統一的な様相としては、フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった。宗教とは関係の無い領土欲、物欲、覇権欲にかられた汚い混戦であり、ヨーロッパの暗黒の時代であった。以下省略。

アメリカの中東政策の基本と中東各地の米軍基地

2017年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカの過去の中東政策の基本は次の2つであると日本国際問題研究所の中東専門家の小野沢 徹氏による詳細な研究によって明らかにされています。
この論文は、http://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/H25_Middle_East_as_Global_Strategic_Challenge/00-frontpage_intro_member_index.pdf に公開されています。
それによると米国の中東地域における基幹的政策は、
①中東からの安定的な石油供給の確保、
②敵対的な国家あるいは勢力による中東地域とくにペルシャ湾岸地域の支配の防止、と定義されており、あす。
ここで言うペルシャ湾岸地域にはクエート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連合(略称UAE)などの国家が存在しています。
従ってアメリカは長年かけてこれらの湾岸諸国の安定に多額の投資をし友好国にしています。
その一方、サウジアラビア王国とヨルダン王国とも友好関係を維持しています。
そしてアフガニスタン戦争とイラク戦争に勝ったアメリカはこの2国に親米政権を作りました。

従ってアメリカはサウジアラビア王国、ヨルダン王国、カタールなどの湾岸国、そしてトルコやオマーンなどに米軍基地を持っています。
例えば、『Googleマップで見られる世界中の軍事スポットを紹介するページ』から米軍基地の幾つかをご紹介致します。
以下は、http://m3i.nobody.jp/military/satellite/otherafmenu.html からの抜粋です。
基地の衛星写真を拡大して、それぞれの基地の実態を是非ご覧下さい。

その前にもう一度、以下の1番目の写真の中東の地図をご覧下さい。そして以下の米軍基地の大体の位置をご想像下さい。


中東の米軍基地;
(1)キング・ハリド軍事都市;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%89%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E9%83%BD%E5%B8%82 に詳細があります。
1970年代から1980年代にかけて、アメリカ陸軍工兵隊(USACE)の中東師団により、アメリカ軍とサウジ軍の複数の旅団の将兵の駐留のために設計、施工された巨大な軍事都市です。。
最大6万5千人が居住可能で、これに各種訓練施設、修理補給施設、病院、ショッピングモール、娯楽施設、空軍基地、防空システムが一体となり、全ての施設を含めると30km四方にもなる巨大軍事都市となっているのです。
基地は前サウジ王ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズにちなんだ現在の呼び名になっています。
2番目の写真にこの軍事都市の上空からの写真を示します。


(2)アル・ダフラ基地
UAEの首都アブダビ郊外にある基地です。米空軍が駐留しています。

(3)スムライト基地
オマーンの基地ですが、米空軍や英空軍も利用しています。

(4)アル・ウディード基地
米空軍が駐留するカタールの基地です。C-17輸送機やKC-135給油機などの大型機が多数見えます。

(5)アフマド・アル・ジャービル基地
アメリカとその同盟国も使用するクウェートの基地です。

(7)アリ・アル・サーレム基地
イラク復興支援の際に航空自衛隊が拠点としたクウェートの基地です。
水色に塗装された空自のC-130輸送機が写っています。

(8)ヨルダンの南部ジャフルにあるプリンス・ファイサル空軍基地

(9)その他、シリア領土内のシリア国境にある米国とヨルダン軍によって使用されている基地もあるようです。

中東攻撃用のヨーロッパの米軍基地;
(10)アビアノ空軍基地
アメリカ第16航空軍司令部が置かれているイタリアの基地です。

(11)インジルリキ空軍基地
米・英軍も利用するトルコの基地などなどです。

以上のようにアメリカ軍はシリアを除く中東全域に軍事基地を持っています。
しかし強力な地上軍を数万人以上派遣しない限り空軍と海軍では中東全域の平和は維持されないのです。戦乱の原因はイスラム国だけではないのです。
ここで問題を提起します。
「中東の果てしない戦争の原因は幾つあるのでしょうか?スンニ派とシーア派の抗争も戦争の原因の一つになっていますが、他の原因とどのように関係しているでしょうか?」

皆様のご意見を大歓迎します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本に生まれた幸せ、共産主義中国に生まれた人々の幸せ

2017年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の多くはこの山紫水明の日本に生まれたことを幸せに思います。四季折々、鳥が美しい声で鳴き、花々がはなやかに咲くこの国に生まれた幸運に感謝します。自由と平等の行きわたった民主国家に生まれたことをしみじみ幸福だと感じます。
そのように感じることは大変良いことです。そのような人々は尊敬すべき心の持ち方の人です。
ところが一方それでは、共産党の独裁の国、中国の人々は不幸なのでしょうか?
最近のことですが、民主化運動に命を捧げた劉暁波氏の死を見た多くの日本人は中国人は可哀相だと言います。中国人は不幸だと見下します。そして共産党独裁は悪だと非難します。
そして日本人は中国人より幸福だと言います。中国人は不幸だと断定します。

今日の私の主張はこのような考え方は根本的に間違っているという主張です。
現在の中国人は幸福感をしみじみ味わっている筈です。勿論、劉暁波氏のような少数の英雄的な人々は別にして大多数の中国人は現在ほど幸せな時代はないと深く感謝しながら幸せに暮らしているのです。
過去の塗炭の苦しみの歴史からやっと抜けだしてアメリカと肩を並べる勢いになったのです。餓死する恐れが無くなり綺麗な家に住み、美味しいものを食べられるようになったのです。こんな良い時代になったことを中国人は共産党政府に感謝します。それは人間として自然ではないでしょうか?当然ではないでしょうか?

それでは中国の過去の塗炭の苦しみの歴史とはどのようなものだったのでしょうか?
その歴史を劉暁波氏と中国の知識人ら303人の連名で発表した「08憲章」の前文に明快に書いてあります。( http://www.a-daichi.com/freetibet/charter08/ )

以下に私が分かり易く書き換えた抜粋を示します。
19世紀中期の歴史の激変によって、中国の封建的な伝統的専制制度の腐敗が明るみに出されたのです。
中華大地における"数千年来類を見ない大変局"の序幕が開かれたのです。
西洋化運動においてはまず物質面の改善が追求された。
しかし、日清戦争の敗北でまたしても清国の体制の古さが明るみになったのです。
数々の改革で制度面での革新にまで手が伸びましたが、頑迷な保守派の残酷なまでの鎮圧に遭い西洋化の改革は失敗に終わったのです。
しかし清朝を倒した辛亥革命では、2000年以上に及んだ皇帝独裁制度を表面上は葬り去り、アジアではじめての共和国が孫文たちにより建国されたのです。
しかし、当時の内憂外患と苦しい歴史的条件から共和政体は一時的なものに終わり、専制主義が捲土重来したのです。
西洋文化の物質面での模倣と、西洋流の制度革新の失敗により、国民は中国文化の病根を深く反省し、"科学と民主"を御旗とする"五四"新文化運動が起こったのです。
しかし中国国内における軍閥同士の内戦の頻発と外敵、特に日本の侵入のため中国政治の民主化は中断してしまったのです。
しかし抗日戦争に勝利した中国は再度、憲政への道を開きましたがそれは再び内戦によって挫折してしまったのです。内戦とは国民党軍と共産党軍の熾烈な戦いでした。
この国共内戦の結果、共産党軍が勝利すると、中国は共産主義の全体主義のどん底へと陥っていったのです。
1949年に天安門広場ではなやかに建国された"新中国"は、名前こそ"人民共和国"ですが、その実態は"党の天下"であったのです。
共産党の政権政党は政治・経済・社会の全ての資源を壟断したのです。
続いて、1、反右派闘争、2、大躍進、3、文化大革命、4、天安門事件などによって人々は塗炭の苦しみを味わったです。
宗教活動や人権権運動の弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千数万の命が奪われ、国民も国家も無残な状態になったのです。
そして鄧小平の時代になりました。"改革開放"により、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的な全体主義からやっと抜け出し、民間の富が増大し、民衆の生活水準は大幅に改善されたのです。・・・以下省略します。

以上のような暗い苦難の長いトンネルを抜けて、現在の中国人は内戦で殺される恐れも、餓死する恐れも無くなったのです。こんなにも人民が幸せな時代は中国5000年の歴史に存在していなかったのです。
ですからこそ私は大多数の中国人は幸福だと考えているのです。
その幸福は外国人である日本人の理解を越えています。
しかし日本人が昭和の戦争の時代や敗戦後の飢餓の時代を思い返せば、現在の中国人の幸福感が想像出来るはずです。

今日の結論は、世界中どこの国の人も、その幸福さや不幸さを評価する客観的な尺度は絶対に存在しないということです。どこの国の幸福さの度合いにも上下、優劣がないのです。北朝鮮の人々も絶対君主制のサウジアラビア王国の人々も皆それぞれに幸せなのです。
他国を不幸な国だと非難するのは貧しい心です。
それと自由と平等の重要さはまったく別な問題なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は先日、奥多摩町の海沢で撮ったノウゼンカズラの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





山百合の花の写真を撮りに奥多摩までドライブしてきました

2017年07月18日 | 写真
奥多摩には山百合が咲く季節です。
昨日はその花を求めて奥多摩町の海沢の集落まで分け入りました。そしたら山道の石垣の上に何年も生育したような山百合の束状の花があったのです。集落の人々が大切にしていたのでしょう。
その山百合の写真をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。









絶対君主制国サウジアラビア王国に何故米軍基地があるか?

2017年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
中東地域における戦乱と欧米国でのテロ事件ほど複雑で理解し難いものはありません。
そこで今日からこの複雑な国際問題を少しでも整理して分かり易くしようと思います。
まず3つほどの記事を次のように書いてみようと考えました。
(1)サウジアラビア王国とはどのような国だろうか?
(2)サウジアラビア王国を含めて米軍基地のある国々は?
(3)アメリカとロシアの介入が混戦の原因か?
自分は中東問題の専門家でもなく、まったくの素人です。しかし素人としての素朴で明快な問題提起を続けて行くとある程度この複雑な国際問題が理解しやすくなると信じています。
それではまず中東の地図を覧下さい。

この地図の出典は、http://www.i-ise.com/jp/column/salon/201501.html です。
この地図で親米の国々はアラビア湾に沿った湾岸諸国のクエート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連合です。それにヨルダンとイラクは親米国です。そしてアラビア半島の大きな部分を有するサウジアラビア王国も強い親米国なのです。
一方、ロシアと仲の良い国はシリアです。ロシアの空軍基地や海軍基地があります。

さてこれらの中東の国々の多くは絶対君主制をとっています。分かり易く言えばそれらの国はそれぞれの王様の所有物なのです。法律は無く王様とその一族が直接統治しているのです。
その絶対君主制の国は以下の通りです。
アラブ首長国連邦
アブダビ(首長)
ドバイ(首長)
オマーン国(国王)
カタール国(首長)
クウェート国(首長)
サウジアラビア王国(国王)
バーレーン王国(国王)
中東にはヨルダン王国のように形式的には立憲君主国のように装うっている国もありますが、実態は政教分離されていなくて欧米の立憲君主国とは非常に違います。

それでは原油埋蔵量が世界一で米軍基地のあるサウジアラビアの政治機構をもう少し詳しく見てみましょう。以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2 からの抜粋です。
首都はリヤドでサウード家を国王に戴く絶対君主制国家です。アラビア語による国名は「サウード家によるアラビアの王国」を意味しています。サウード家一族があの広大な国を領有しているのです。
ですからサウード家による絶対君主制となります。従って国家の統治は厳格なイスラム教義に従ってなされています。
ですから以前は憲法をもたなかった政教一致の政治でした。
要職は王族が独占しており、ギネス世界記録には王族の数が世界最大と記載されているそうです。
サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代まで誕生しているそうです。
建国以来、長年にわたっ憲法がありませんでしたが、1993年3月1日に公布された統治基本法が憲法の役割を果たすと主張しています。
同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家らしい体裁が整えらました。
政府は統治基本法が憲法であると主張していますが、その第1条に「憲法はクルアーンとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが『憲法』なのです。そして同じイスラム教でも、シーア派を敵視しています。
それでは行政や立法はどのようになっているでしょうか?

従来は内閣も議会も存在せず、勅令が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンに則って施行されてきました。
しかし、統治基本法公布によって選挙が行われ、内閣に相当する閣僚評議会や国会に相当する諮問評議会、そして地方議会も設置されたのです。ただし首相格の閣僚評議会議長は国王の兼任です。

国内は13の州に分割されています。各州には勅任の知事(アミール)が就任しますが、サウード家出身者以外は認められないのです。
さて税制を見てみましょう。
税金のない国と言われることもありますが、実際には統治基本法にザカート税(喜捨の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在します。徴税担当は「所得税およびザカート税省」が当たります。
油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去があるそうです。この税金に対する考え方が分かり難いですね。
司法についてですが、サウジアラビアでは宗教が法律となりクルアーランに基づくイスラム法(シャリーア)により裁判が行われています。ですから近代国家のような刑法も民法もありません。

結論を言えば、国名の通り、「サウード家によるアラビアの王国」で、その統治は国内を13の州に分割し、各州には勅任のサウード家出身者が知事として就任し統治しています。当然のことながら民主主義は一顧だにされないし、欧米流の人権など存在する筈もありません。

このように全ての価値感がまったく異なる国にアメリカ合衆国は何故、軍事基地を持っているのでしょうか?
これは問題提起ですから回答は皆様それぞれでお考えください。
そして中東への米軍の介入が無かったら世界の将来の歴史はどのようになるでしょうか?
こんなことを考えると中東の複雑な戦争や国際関係が少しでも分ってくるのではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)