後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「自由に花の摘める花畑に行きました」

2018年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
三鷹市花と緑の広場では一年に数回自由に花が摘めます。今日はマリーゴールドとキバナコスモスとジニアが自由に摘んでよい日です。
先程、家内と一緒に行って来ました。1番目の写真が今日採った花です。
ついでにコスモスの花の写真も撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。











ローテンブルグのカトリック教会でのある重要な発見

2018年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは随分と昔のことです。1969年の晩夏から晩秋にかけて3ケ月間、ローテンブルグに逗留していました。ゲーテインスティテュートという学校でドイツ語の講習を毎日受けていたのです。
その折、毎週の日曜日に通っていたのがカトリック聖ヤコブ教会でした。
その外観と内部の写真を示します。

この3枚の写真の出典は、https://plaza.rakuten.co.jp/laurier/diary/201001100001/、 です。



ミサはドイツ語ですが日本のカトリック教会のミサと同じ内容なので大体の意味が分かったのです。
そのミサのはじめに「あわれみの賛歌」を会衆が歌います。
その意味を一言で説明します。
自分は神様の教えに従うつもりでしたが、意志が弱くて度々悪いことをしてしまいました。神様そしてキリスト様そんな弱い私を憐れんでください。憐れんで、そしてどうかお許し下さい。
このように、自分の弱さを憐れんで下さいという願いなのです。私も同感です。
私の好きな歌の一つです。
歌詞は次のようなものです。

あわれみの賛歌(キリエ):典礼聖歌203「あわれみの賛歌」
          主よ、あわれみたまえ 主よ、あわれみたまえ
           キリスト、あわれみたまえ キリスト、あわれみたまえ
            主よ、あわれみたまえ 主よ、あわれみたまえ
この歌を3回繰り返します。

ローテンブルグの聖ヤコブ教会でこの歌を唄っているドイツ人達の様子を見てある重要な発見をしたのです。
常日頃傲慢そうにしているドイツ人が例外なく頭を垂れれ、文字通り「青菜に塩」という様子なのです。彼等は毎日よっぽど悪いことをしているに違いありません。
第二次世界大戦でアメリカ人に徹底的に負けた日本人として、私は欧米人に少し恐怖感を持っていました。
そしてアメリカに留学し、その理想的な社会に圧倒されました。そんな個人的な経験から私は欧米人を恐れ敬っていたのです。別世界の人間として越えがたい距離感を持ち続けていました。
しかし聖ヤコブ教会でのドイツ人達を見てこの「越えがたい距離感」が一挙に消えてしまったのです。それは私個人にとっては大発見です。
この発見以来、私はドイツ人に同じ人間としての親近感が持てるようになったのです。そして欧米人の全てに親近感を持ったのです。
この親近感はカトリックの多いフィリピンや、はるか遠方の南米諸国にも強く感じます。
これが初めて行ったドイツの聖ヤコブ教会の忘れられない個人的な大発見でした。

ついでに「あわれみの賛歌」に続けて唄う「栄光の賛歌」の歌詞を示しておきます。

 栄光の賛歌(グロリア): 四旬節と待降節は歌いません。
  典礼聖歌204「栄光の賛歌」
    天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ
    われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、
    主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。
    神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
    主なる御ひとり子、イエズス・キリストよ。
    神なる主、神の小羊、父のみ子よ。
    世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。
    世の罪を除きたもう主よ、われらの願いを聞き入れたまえ。
    父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ。
    主のみ聖なり、主のみ王なり、主のみいと高し、イエズス・キリストよ。
    聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。
            アーメン。
今年の初秋は雨天が続き、台風も次々やってきます。皆様如何お過ごしでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


美しい稲田の風景とお米にまつわる話

2018年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
稲田は四季折々美しい風景を見せてくれます。春、田植え前に一面に水をはった田圃もすがすがしい光景です。
田植えが終わったばかりの小さな稲は可愛いものです。梅雨が音も無く青い稲に降り注ぎ、やがて夏が来ます。
田圃には稲の香りがあふれ、稲が勢いよく成長しています。
そして秋になると穂先が垂れ、黄色い稲田が広がります。刈り取った後の切株や穭稲の淋し気な冬の風景にも心惹かれます。
こんな四季の稲田の風景は人間が作った自然な風景です。それが好きな私共はよく稲田を眺めにいきます。
昨日も都内で珍しい本格的な稲作農家の田圃を眺めに行きました。車で1時間30分もかかる町田市の小山台という所です。昨日撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真は町田市の本格的な稲作農家の田圃の様子です。

2番目の写真は稲田の中に入って行って撮った写真です。

3番目の写真は米が実って穂先が垂れている光景の写真です。まだ黄金色にはなっていませんが。

4番目の写真は昔から大切にして来たような大きな柿の木に、百匁柿がたわわに実っている光景です。この地域は本当の農村だったことが偲ばれます。

5番目の写真は田圃の向こうに繁っている雑木林の風景です。昔は人々が薪を取ったり、落ち葉を集めて堆肥を作ったりし、生活には欠かせない雑木林だったのです。現在はあまり使わないので自然林になっています。
手入れしない自然林も美しいものです。
写真は何時ものように家内が走り回って撮りました。
こうして昨日ものんびりと秋の日の午後を楽しみました。

写真を撮りながら不思議に思います。一体、東京都の米の生産量はどのくらいなのでしょう?
帰宅してから調べたら2017年の東京都内では米が583トンも収穫されているのです。
こんなに多量に都内でお米が採れているのには吃驚します。
しかし都道府県別の米の生産量を見ると東京都は最も少ないのです。
全国でとれる米の生産量の合計は 7,824,000 トンです。
トップは新潟で、北海道、秋田と続きます。コシヒカリ・ひとめぼれ・あきたこまちなど有名ブランドのある県は生産量も多いようです。
それでは、米の収穫量のランキングを見ていきましょう。
(https://yattoke.com/2018/04/24/rice-production/ )
このデータは2017年の米の収穫量に基づいています。
1、新潟、611,700トン
2、北海道、581,800
3、秋田、498,800
4、山形、385,700
5、茨城、358,900
6、宮城、354,700
7、福島、351,400
8、千葉、299,700
9、栃木、294,200
10、岩手、265,400
11、青森、258,700
12、富山、205,300
13、長野、203,200
14、兵庫、183,400
15、福岡、181,700
16、熊本、175,500

・・・中略・・・
41、奈良、44,900
42、和歌山、33,300
43、山梨、27,200
44、大阪、26,100
45、神奈川、15,700
46、沖縄、2,190
47、東京、583
(出典:農林水産省 2017年統計)
以上のランキングを見て驚くことは北海道が2番目に多量の米を作っていることです。
昔は北海道は寒すぎて米が採れないと言われていました。品種改良で寒さに強い稲が出来たのです。
もう一つ注目すべきは東北地方のお米の生産量が目立って多いことです。
私共高齢者は昔学校でお米は暖かい九州や四国で沢山取れますと教わりました。
それが何時の間にか逆転してしまったのです。これも時代の流れです。

ところで美味しい米の品種は何でしょうか?
コシヒカリやあきたこまちは皆様もご存知と思います。
しかしそれら以外にも様々な米の品種があります。

そこで有名な米の品種とその生産都道府県を紹介します。
品種ごとの味わいが違うのです。
1、コシヒカリ
コシヒカリは日本で最も有名な米の品種です。特に新潟県魚沼産のコシヒカリはブランド米として有名です。
しかし、コシヒカリ自体は新潟県のみならず全国各地で生産されています。
甘みが強く、余韻が長いのが特徴の米です。
2、あきたこまち
あきたこまちはその名のとおり秋田県で作られる米です。モチモチとした食感と粘り気の強い米です。この柔らかさと粘り気が美味しいのが特徴です。柔らかめの米が好きという人に良い米です。
3、ササニシキ
ササニシキは宮城県が誇る米です。一昔前は米といえばコシヒカリかササニシキといわれるほど有名でしたが、昨今は知名度が低くなってきている感があります。
しかし、独特のさらりとした味わいは素晴らしく、固めでさっぱりした味わいの米を求める人に好まれるそうです。
4、ヒノヒカリ
大分県で最も多く栽培されているヒノヒカリは、コシヒカリと黄金晴を親に持つ非常にバランスに優れた米である。コシヒカリよりも安価ながらも、味わいの系統が似ていることから普段使いの米として強い人気がある。炊く際は少し水を多めに入れるのがコツだ。
5、つや姫
つや姫は昨今注目されている山形県の米です。その強い甘みと、旨味・コクの豊かさは時にコシヒカリを凌ぐと言われています。
東北の米の美味さを知るためには欠かすことのできない品種です。
6、ゆめぴりか
一昔前、北海道の米は不味いと言われていました。しかし、その常識を決定的に覆したのが、このゆめぴりかです。

しかし美味しい米の評価はいろいろ分かれます。もう一つのランキングを示しましょう。
本当に美味しいお米「厳選10種」、https://food-drink.pintoru.com/rice/
1、北海道産「ゆめぴりか」
2、山形県産「つや姫」
3、新潟県魚沼産「コシヒカリ」
4、秋田県南産「あきたこまち」
5、岩手県南産「ひとめぼれ」
6、山形県産「はえぬき」
7、熊本県城北産「ヒノヒカリ」
8、北海道産「ななつぼし」
10福岡県産「元気つくし」

さてこれだけ多数の品種が並んでいると選ぶのに苦労します。
スーパーに行くと毎回選ぶのに苦労するのは私だけではないでしょう。
高い米を買えば美味しいという原則はあります。しかし原則には必ず例外があります。

それと安い米でもサラダ油を少し加えて炊くと美味しいご飯になります。酒やもち米を加えると粘り気のあるご飯になります。
皆様はお米に対してこだわりをお持ちでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

郷土史の面白さ、現地調査の面白さ

2018年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると不思議に郷土史に強い興味を感じる人が多くなります。
学校で教える日本史は大和朝廷や平城、平安時代の天皇や貴族のことばかりです。鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府の政権交代の歴史が主です。地方の歴史はあまり教えません。
そして地方、地方の生活の実態の歴史は中央政権の歴史とはあまり関係の無いことがあるのです。
それは地方特有の環境に密接に関係する歴史です。
老境に至ると中央政権の歴史と地方の歴史の違いが鮮明に見えて来るのです。
地方の歴史、郷土史は学校で習わない面白い歴史なのです。
仕事を止めた高齢者にとっては地方の歴史をしらべる暇がたっぷりあります。その上、何度も現地に足を運ぶことは旅の楽しさにもなります。
現地の地形や川や海の配置を実際に見ると、その地方の歴史がまた一段と明らかになるのです。

そこで今日は最近、まず書面で調べ、何度か現地調査した立川市の鎌倉、室町時代の地方史をご紹介したいと思います。
立川市は東京駅から電車で約60分の西方にあります。戦前は陸軍の立川飛行場があり戦後はそれが米軍の立川基地になりました。その基地の拡大に反対した「砂川闘争」は規模と期間が長かったので記憶にある方も多いと思います。
その後、立川基地は返還され、現在は広大な昭和記念公園になっています。

さて立川という地名は明治維新の後につけられた名前です。それまでは南半分は柴崎村と呼び、北半分は砂川村と呼んでいました。
それでは、立川という地名はどういう経緯で出来たのでしょうか?

調べたらすぐに分かりました。
鎌倉時代から1590年の豊臣秀吉の関東平定までの約370年間、この地方は豪族の立川氏に支配されていたのです。立川氏は立河氏とも書かれていました。
ぞれでは立川氏の館は何処にあったのでしょうか?
早速、調べたら現在の立川市柴崎町4丁目の普済寺と同じ敷地にあったのです。立川氏が秀吉によって滅ぼされる直前に普済寺が立川氏の館の敷地の中に移築されたのです。
近年行われた発掘調査の結果、この普済寺の土地には西暦1400年代前半から1500年代前半にかけて、居館があったことが判明したのです。
一方西暦1252年には立川氏の氏神として八幡神社(柴崎町1丁目)が建てられたことも文書に残っています。すなわち立川氏(立河氏)は鎌倉時代の初期から地方豪族として現在の立川市一帯を統治していたのです。
そこで昨日、この普済寺のある現地に行ってみました。
そこは多摩川の支流の根川の北岸の高台の広い場所でした。
南側は根川とその向こうの多摩川が敵の侵入を防いでいます。高台なので西に丹沢の山並みから北の奥多摩の山稜が見渡せます。
成程、豪族の館を建てるにはふさわしい場所です。その場所に関東では珍しい規模の臨済宗の普済寺が建っています。
それでは昨日、撮って来た写真を示します。

1番目の写真は長い参道の奥にあった本堂の前の楼門です。写真の右下に国宝の六面石幢がありますと書いてます。

2番目の写真は本堂ですが木の枝が邪魔になっていて写りませんでした。

3番目の写真は堂々とした庫裏の写真です。

4番目の写真は本堂の裏にある日本庭園の池です。

5番目の写真は国宝の六面石幢です。緑泥片岩製の石幢で、延文6年(1361年)に作られました。
普済寺境内のコンクリート製の覆堂内に保存されてます。石幢は六角形で上部には笠石を乗せ、高さは204.5センチもあります。
普済寺の近くにある立川市歴史民俗資料館にはこの石幢の原寸大のレプリカが展示されているで、それも見て来ました。

6番目の写真は立川市歴史民俗資料館の石幢の原寸大のレプリカです。

7番目の写真は普済寺の近くにあった江戸時代の農家の納屋です。

さて普済寺は現在は臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は聖観音菩薩です。
この寺は、文和年間(1352年 - 1356年)地頭だった立河宗恒の開基です。
このお寺は、寺伝によると開創は文和二年(1335)と伝えられており、臨済宗建長寺派に属して、大本山巨福山建長興国禅寺の別格地として多摩一円に末寺十八ケ寺を有する同派屈指の名刹です。
開山当時の場所は明らかではありませんが、永禄六年(1563)、立川氏の居住地に移されたと伝えられています。
普濟寺の境内には土塁の一部が今でも残っており、特に本堂前のものは雄大で一端に数百年を経たと思われる大銀杏があり、壊れを防ぐために石垣で補強をしてあります。

以上の調査で分かったことを箇条書きにします。
(1)鎌倉時代も室町時代も現在の立川市一帯の農民を直接支配していたのは豪族の立川氏であった。
(2)立川氏は鎌倉幕府に忠誠を誓いその隷下にあった。
(3)室町時代の後半に北条氏昭が八王子城に君臨すると北条氏昭の配下になり、秀吉の関東平定で1590年に北条氏昭と共に滅んだ。
(5)立川氏の館の跡地に現在は国宝を持っている臨済宗の普済寺が建っている。

さて皆様の住んでいる町や市の名前の歴史をご存知でしょうか?
それを調べ、関連の場所を訪ねるといろいろ面白い発見があります。郷土史は老境の楽しい趣味ではないでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

貴乃花親方の辞任と日本の伝統文化

2018年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日からマスコミは貴乃花親方の相撲協会からの辞任の速報を流し大騒ぎをしています。
大相撲は毎場所テレビで見ているのでこの辞任劇にはショックを受けました。
この辞任の原因は昨年10月に横綱日馬富士が貴ノ岩を殴って怪我をさせた傷害事件に端を発しています。
貴ノ岩の親方の貴乃花が怒って相撲協会の権力機構である理事会と抗争をしました。その結果、理事会の一員でもあった貴乃花親方は理事を馘になります。
その後、いろいろな紆余曲折がありましたが、それは省略します。
そして昨日、記者会見をして日本相撲協会に退職届を提出したことを発表したのです。
その上日本相撲協会の運営に疑義があるとして内閣府に提出し、その後取り下げた告発状をむしかえし、内容が事実無根であったことを認めるよう協会から強要されたと貴乃花親方は主張したのです。ですから相撲協会に退職届を提出したと言うのです。放り出された弟子の力士は他の親方に頼んだと言うのです。
 
この事件に関して、身近にいる相撲ファンに意見を聞いてみました。
3人ほどに聞きましたが、以前から貴乃花の言動に疑問を感じていたので今回の事も貴乃花に問題があるようだという感想を言っていました。
はっきり書けば貴乃花は相撲全体のことを考えていないのです。相撲ファンの心を大切にしていないのです。
日本相撲協会と自分の対立の感情的な部分を重視しすぎて弟子たちへの迷惑を考えていないようです。

それはさておき、私は昨年、日馬富士が貴ノ岩を殴って怪我をさせた時から、これは相撲が日本の伝統文化の故に起きた事件だと考えていました。
相撲界では力士同士が仲良くし、勝負の勝ち負けも義理人情や金銭で決めるという古い体質があったのです。貴乃花親方をそれを理解せず、大相撲を西洋のスポーツにしようとしたのです。そして自分の弟子達に他の親方やその弟子と一切交際してはいけないと指導したのです。
これに怒ったのがモンゴル出身の日馬富士でした。そして貴ノ岩へ鉄拳制裁を下したのです。
大相撲は西洋のスポーツではありません。日本の伝統文化の神事の一部でもあるのです。
神社の祭の見世物興行という性質も伝統的に混じっているのです。江戸時代からの伝統を持っているのです。
この西洋のスポーツとの違いを理解出来るのはモンゴル出身の力士達です。
栃ノ心、魁聖や把瑠都、琴欧州などの西洋人も理解したのです。彼等の柔軟な理解力が彼等を助けたのです。
大相撲で成功する外国人は強く、そして日本の伝統文化への理解力が必須条件なのです。
外国人力士達の流暢で完璧な日本語を聞く度に私は感動します。彼等の日本文化の理解の深さに感動します。

昨日の貴乃花親方の辞任劇をテレビで見た感想を書いてみました。
七十年以上相撲を見ている家内は、全く今回の騒動に関心を示さないので吃驚しました。勝負だけに興味を持っているようです。

今日の挿し絵代わりの写真は秋の花、カクトラノオ、オミナエシ、セージの3種です。
先日三鷹の公園で撮ったものです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







「中秋の名月へ供えるススキを採りに行く」

2018年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ススキを自由に採ってよいような広い草原はなかなか見つかりません。いろいろ考えた末に多摩川の向こうの稲城市の崖の下の草原を思いつきました。
早速、午後から行きました。
家内がススキを植木鋏で採っている間、私は草原や崖上の雑木林の風景写真を撮っていました。

今夜はススキとダンゴを縁側の机の上に供えようと思います。
晴れれば中秋の名月が拝めるはずです。
撮って来た写真をお送り致します。










旧懐の情に駆られて大島、波浮の港へ旅す

2018年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐの少年の頃、「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、波浮の港は夕焼け小焼け、、、」という歌がラジヲから流れていました。歌の意味は、出稼ぎに行く島の娘が波浮からの船の艫綱を泣いて解く、、、船出する人と見送りに来た人が別れを悲しんでいます。鵜の鳥は日暮れに帰るがその人は帰らない、、、。
そんな悲しい歌なので忘れられません。12年前に仕事を一切止めて、彼方此方へ旅をすることにしました。 そうだ!大島の波浮の港へ独り旅をしてみようと思い立ちます。
少年の頃から長い長い間、歌だけで知っていた波浮の港へ行く事にしました。それは旧懐の情に駆られた旅でした。
12年前の、まだ寒い3月5日の朝、竹橋桟橋から船に乗ると、高速船なので昼前に大島に着きます。観光客で騒がしい岡田港の交通案内所で波浮の港へ行って一泊したいと相談します。対応してくれた若い女が。「あそこは観光客は行きませんが。何をしに行くのですか?」と聞きます。
少年の頃の感傷で行きますとも言えず赤面してしまいました。それでも国民宿舎のような宿をとってくれました。
バスで行きました。宿に着くと高台にあり、火口湖のように丸い波浮港が見下ろせます。

1番目の写真は高台から見下ろした波浮の港の風景です。
写真は、http://blog.livedoor.jp/zuifuuino/archives/52120612.html からお借りしました。
宿からの景色が良いのですが、憧れの波浮の港までは遠すぎます。
港へ降りて行って地魚の寿司を食べようと思いましたがタクシーがありません。
思案していましたら、宿の人が電話をすると寿司屋さんが迎えに来てくれるよと言います。
60歳くらいの元気なオバサンが軽自動車を運転して迎えに来ました。
気さくでいろいろ話してくれるのですが乱暴な運転なので怖いのです。曲がりくねった急な坂道を降りて行き、そこ一軒だけの店に着きます。

2番目の写真は波浮の港の町並で、このような場所に寿司屋がありました。
この写真は、http://www.asahi.com/travel/bicycle/TKY201204060190.html からお借りしました。
席について好奇心から地魚の島寿司を頼みました。
ご存知ですか?「島寿司」を?あれはいけません。
活きの良い地魚の握りの上に、どういう訳か甘ったるい醤油が塗ってあるのです。ワサビでなくカラシです。
甘い魚の寿司です。
泣きたくなりましたが、ビールの酔いのお陰で元気になり、店の中を観察することにしました。2組の客が居て日本酒や焼酎を飲んでいます。
客の一組が、寿司を握っている60過ぎの主人や手伝っている息子やその嫁と雑談をしています。寿司屋の一家は明るく、地元の人々に好かれているようです。

見ると店の壁に古い写真が沢山飾ってあります。波浮の港に木造漁船がビッシリと並んでいる写真です。港の通りには漁師が溢れ、居酒屋が軒を連ねています。
主人に聞くと昔は漁船の船足が遅く、この港が太平洋での漁の中継基地として賑わったそうです。今は船が高速化して、取れた魚を冷凍し、積んだまま築地の魚河岸へ直行するのです。
だれも波浮の港へ寄らなくなり、すっかりさびれました。と主人が淋しそうに言います。
そして島では火山灰が土地を覆っていて米が取れなく、昔から貧しい所だったと説明してくれます。気分を引き立てるため地魚の刺身と「亀の爪」という一品を注文しました。
亀の爪のように見える小さな一枚貝が、磯の岩にしがみついているそうです。不味い貝です。普通には食べるものではない代物です。救荒食とはこんなものかも知れないと考え込んでしまいました。
少年の頃聞いた歌で、下田や熱海へ出稼ぎに行く島の娘の悲しい歌が実感として体で感じられるのです。
主人へ不味いとも言えず。「結構なお味ですね」と言います。ニコリとして、主人が、「そうでしょう!昔は毎日のように食べたものです」と答えます。
酔い醒ましに、暗い港通を散歩すると、店も居酒屋も無く真っ暗な通りなのです。淋しげな波音だけが響いていて、通りが尽きた浜辺に「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、」の野口雨情の記念碑が立っています。
まだ3月の始めで、寒い夜風が吹く抜けて行きます。
もとの店へ戻り、もう一杯飲み暖まってから帰ることにしました。帰りは赤ん坊を連れた嫁が、軽乗用車で高台の宿まで送ってくれました。助手席に赤ん坊を乗せているので丁寧な運転です。道々、乳飲子の自慢話を聞かせてくれたのでこちらも明るい気分になりました。

3番目の写真は大島の南端にある波浮の港近辺の地図です。
私の行ったのが3月のせいで観光客が居ませんでした。しかし、夏には釣り客やダイビング客で賑わうそうです。皆様、是非波浮の港へ泊まりに行って下さい。港通りのお寿司屋さんへも行って下さい。島寿司でなく普通の握りにしたほうが無難です。
それから大島ではレンタカーがお薦めです。波浮の港へはバスしかありません。
レンタカーですと大島の海岸沿いを一周出来ます。三原山の火口近くまで車で登れます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人) 

===参考資料====================
(1)昭和の流行歌、「波浮の港」について、
https://ja.wikipedia.org/wiki/波浮の港
この流行歌はまだ大正時代だった1923年に野口雨情が発表した詞に、中山晋平が作曲した歌曲でした。
レコードは1928年5月に佐藤千夜子が日本ビクターから、その2ヶ月後の7月には藤原義江が同じくビクターから高額な赤盤レコードとして発売されます。
昭和初期の伊豆大島は、観光とは無縁の離島で、島の南東部にある波浮港村は、島の中心部の新島村からも三原山を挟んで反対側にあるわびしい漁村でした。
当時は東京からの船便もなく、雨情は現地には全く行かず、地図さえも確かめずに詩を書いたそうです。

歌詞
磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら

船もせかれりゃ 出船の仕度
島の娘たちゃ 御神火暮らし
なじょな心で ヤレホンニサ いるのやら

島で暮らすにゃ 乏しゅうてならぬ
伊豆の伊東とは 郵便だより
下田港は ヤレホンニサ 風だより

風は潮風 御神火おろし
島の娘たちゃ 出船の時にゃ
船のとも綱 ヤレホンニサ 泣いて解く

磯の鵜の鳥ゃ 沖から磯へ
泣いて送らにゃ 出船もにぶる
明日も日和で ヤレホンニサ なぎるやら

(2)波浮の港の歌、
佐藤千夜子
https://www.youtube.com/watch?v=jL0-Va80y8A

藤原義江
https://www.youtube.com/watch?v=pF455p_Ocl8

カトリックのミサで重要な歌、あわれみの賛歌、栄光の賛歌

2018年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
ミサの冒頭で歌われる「あわれみの賛歌」の動画を2種類お送り致します。

「ミサ曲Ⅰ」 あわれみの賛歌 by ブルーベリー 音楽/動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25624762

ミサ曲2「あわれみの賛歌」 by sirafu VOCALOID/動画 ...
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20547357

キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)
主よ 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え
キリスト 哀れみ給え
キリスト 哀れみ給え
キリスト 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え
主よ 哀れみ給え

そして「栄光の賛歌」もどうぞお聞き下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=J2UJv2j_iKQ


花の写真、老境の精神の安定、達観の境地

2018年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関することを書く日です。
しかし今日は宗教から少し離れて、「老境の精神の安定」に関して短いものを書いてみたいと思います。
老境の精神の安定はいろいろなことから簡単に得られます。
例えば花の写真をジーっと見ているだけでも得られます。
そこで先日撮って来た鶏頭の花の写真3枚とその周りに咲いていた秋の花々の写真2枚をお送りいたします。









長い人生では楽しいことも苦しいこともありました。
しかし老境になると私は苦しかったことを忘れることにしました。悲しかったことも忘却の彼方に捨て去るのです。
そして今までかかわった全ての人に感謝するのです。
他人を憎んだ非難しません。韓国人や中国人を非難する人の群れにも入りません。
衣食住のすべてに満足するのです。老境になると収入は無くなります。心配です。
しかし戦中、戦後の食べ物も無かった時代を思い出すと現在の生活に感謝の気持ちが強く湧いてきます。
憂いや心配がまったく無いのです。
こうして老境の精神が安定します。こんな状態を「達観の境地」と言うのでしょうか?


しかしここからが今日の主張です。
達観の境地になるのは一日のうち10分間だけで良いのです。あとの23時間と50分はそれまでの人生と同じように迷い憂いに満ちていて良いのです。
しかし達観の境地が10分だけでもあれば、他の時間の迷い、憂い、心配の質が変わって来るのです。
憂い、迷いながらもそれらは時間が来れば消えてしまう予感がするのです。
これこそが老境の精神の安定なのです。老境の幸せなのです。
達観の境地に四六時中浸っている「必要」はありません。毎日10分間、できれば毎日2回、合計20分間だけ達観の境地に入れれば良いのです。
これが私の老境の生き方です。
皆様のご意見を頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

高齢者の方々は『戦艦ポチョムキン』という映画を憶えていますか?

2018年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の9月11日に白崎謙太郎著、「往年の名画、『カサブランカ』と『秋のソナタ』について」という記事を掲載しました。この記事の著者の白崎さんが『戦艦ポチョムキン』という映画の全編が字幕つきでネットで見えますと教えてくれました。
1960年代の終り頃映画館で見た記憶はありましたが、昨日もう一度コンピューターで叮嚀に鑑賞しました。
非常に驚いたことにこの無声映画は非常に質の高い芸術作品なのです。その上、現在でも使われている映画製作の斬新な技術がいろいろ駆使されているのです。
舞台は霧の深い黒海のオデッサの港です。戦艦の「ポチョムキン号」の水兵たちが反乱を起こし士官を海に落とし戦艦を乗っとる話から始まります。
従順な水兵たちがウジの湧いた肉を使ったスープを嫌がって食事を拒否します。船医がウジは害虫でないので無害だと説得するシーンが印象的です。この辺の描き方が実に丁寧なので水兵の反乱に拍手を送りたくなります。
場面は変わって戦艦ポチョムキンの水兵の反乱を知ったオデッサの市民が水兵に同情し、大規模なデモを始めます。

1番目の写真がそのデモの場面の撮影に使われたオデッサの街から黒海へ下る大階段です。
ここで行われたデモに対してロシア皇帝の軍隊が隊列を組んで階段を下りながらデモの参加者を上から撃って行くのです。デモの参加者はバタバタと倒れます。

2番目の写真は若い母親が撃たれ即死したために乳母車に乗った赤ん坊だけが階段をガタガタ下って行く場面です。ロシア皇帝の軍隊の残酷さを象徴的に描き出した印象深い場面です。

3番目の写真はオデッサの階段の虐殺後の光景です。
1905年に初めてロシアの共産主義革命が起き、各地で合計280万人以上の労働者が蜂起します。
「ポチョムキン号」の水兵たちもこの労働者に刺激を受け士官を海に落とし戦艦を乗っ取ったのです。
ここまでは事実です。
しかしオデッサの階段での虐殺は無かったのです。まったくのフィクションです。
しかしながらこの6分間の虐殺の場面でこの映画が全世界の人々の心を打ったのです。
さて最後はどうなるでしょうか?
是非、ご自分で、https://www.youtube.com/watch?v=_Glv_rlsdxU にあるこの無声映画をご覧下さい。
無声映画でもこんなに感動的な映画があることに驚かれると思います。
このように「戦艦ポチョムキン」は素晴らしい映画芸術ですが、一方でロシアの共産主義革命を正当化する宣伝映画としても優れたものでした。
感情的な人が見たら、ロシアで共産革命が起るのは当然だ、悪いのはニコライ皇帝とその一派だと拍手を送りたくまります。映画の場面にロシア正教の神父が十字架をかざして反乱水兵へ立ち向かう場面があります。水兵は鬚の神父を殴り倒し十字架を軍靴で踏みにじります。これもフィクションですが、キリスト教は間違いで共産主義が正しいという印象を与えます。
このような内容なので資本主義の多くの国々で上映禁止になりました。

共産主義はマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を書いた1847年に始まりました。
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督は、ロシア第一革命20周年記念委員会より、記念映画の製作を依頼されたのです。主要な役以外は艦隊の水兵やオデッサ市民などは素人でした。またオールロケで撮影され、記録映画のような手法がとられていますが共産主義の宣伝映画なのです。
こんな事情だったので日本では検閲で輸入禁止となり、終戦まで政府により上映禁止措置が取られていました。初めて日本の観客が目にしたのは1967年に映画館で一般公開された後のことでした。

共産化したソ連の大規模な飢饉や収容所列島と言われ弾圧の悲劇は皆様ご存知の通りです。
恐ろしいのは共産主義なのでしょうか? それを自分の権力のために利用する人間なのでしょうか?
『戦艦ポチョムキン』という映画は無声映画ながらいろいろなことを考えさせます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

孤独でも幸せな老人、孤独で不幸な老人

2018年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
最近の日本では高齢化がどんどん進み独り暮らしの老人が次第に増えて来ました。
このような老人は一見孤独で淋しいように見えます。そして誰にも看取られずに死んでしまう孤独死も起きます。
今日は老人の孤独の問題を考えてみようと思います。単なる問題提起であり、正解ではありません。
まず一人暮らしてるからといって不幸とは限りません。独り暮らしだから孤独で悲しいとは限りません。
孤独な老人を助けようといろいろ干渉して嫌われることもあります。この問題は簡単ではありません。

そこで議論をなるべく客観的に進める為に一人暮らし老人のいろいろな事情を分類してみます。

(1)これといった原因も無いのに、生涯独身だったので、自然に一人暮らしの老人になっている人々。
(2)長い間幸せな結婚生活をしていたが夫婦のどちらかが亡くなり、その上、子供がいなかったので一人暮らしになった人々。
(3)別居している子供や孫もいるが、幸せだった夫婦の一方が亡くなってしまい一人暮らしになった老人。
(4)何度か結婚と離婚をした経験があり、子供もいるが、終いには一人暮らしになってしまった人々。
(5)同性婚をしていて一方が亡くなって一人暮らしをしている人々。この場合は子供はいません。
(6)種々の障害が原因で結婚が出来なくて一人暮らしをしている人々。
(7)その他、いろいろな事情で独り暮らしをしている老人。
上記のように一人暮らしの老人にはいろいろ違った事情があるのです。
ですから一人暮らしの老人を助けようと安易に近づくのは必ずしも良いとは限りません。
人によって孤独が好きで他人に干渉されることを嫌う人々もいます。

それでは孤独でも幸せな老人、孤独で不幸な老人は上記のどれでしょうか?
(1)の人々は孤独に慣れていますから問題がありません。孤独でも幸せな老人です。
(2)の人々は一番悲しい老境を送っているのではないでしょうか?孤独で不幸な老人です。 
(3)の人々は子供や孫がいるので一人暮らしでも悲しくありません。何処かで子供や孫が元気に育っていると考えると孤独を感じないのではないでしょうか?孤独でも幸せな老人です。
(4)の人々は何度か離婚の経験があるので人生の悲しみに対する耐性が出来ているので、あまり心配しなくても良いのではないでしょうか?孤独でも幸せな老人です。
(5)の人々は悲しみに沈んでいると考えられます。孤独で不幸な老人です。 
(6)の人々には深く同情せざるを得ません。孤独で不幸な老人です。 
(7)その他、いろいろな事情で独り暮らしをしている老人については個々の事情によって異なります。。

以上のように簡略に書くと、皆様は孤独感はそんな簡単な問題でないととおっしゃると思います。
孤独で、不幸と思い込んでいる人々に対して、他人がその悩みを解消することも出来ないのです。

しかし、孤独で不幸な老人を助ける方法は一つあります。それは日常の暮らしで困っていることを具体的に支援することです。
車の運転が出来ずに買い物や病院通いが出来ない一人暮らしの老人は車で送迎してあげることです。体が動かず、庭が雑草だらけになっていたら雑草刈りをしてあげるのです。一人暮らしの老人の生活を少しでも楽になるように助けるのが良いと思います。
しかしそれもうるさがられないようい控え目にするほうが良いようです。

一人暮らしをしている老人には全く社交性が無く、偏屈な人もいます。
そのせいで一人暮らしの老人になっている人もいます。こういう場合は要注意です。どんなに善意で支援して上げても感情的に拒絶され、挫折させられることがあります。私はそのような善意の人を知っています。しかしその人を心から尊敬しています。

人間は非常に複雑です。孤独を愛しながら、他人の支援や愛を期待するものなのです。矛盾しているのです。
ですから孤独な老人を助けることは至難の技なのです。

これを書いてしまえば鼻白む方々も多いと思いますが、まあ書かせて下さい。
キリスト教では神様やイエス様が人を愛していますと教えています。
私も神様やイエス様を愛しています。ですから全く孤独になっても信仰の篤い人には孤独の悲しみが無い筈です。しかし人間は弱いものです。イエス様の愛に、四六時中確信が持てないのです。
今日の記事は家内が私より先に旅立ってしまった場合の心の準備として書いたのかも知れません。困ったものです。
さて皆様は孤独を感じ不幸を感じるときがあるでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は心が豊かになるような広い明るい風景写真です。昨年9月15日に甲斐駒岳、八ヶ岳、白樺湖、車山、霧ヶ峰などで撮った風景写真です。









今日は秋のお彼岸の墓参りに行きました。

2018年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、春と秋のお彼岸には家内の家の墓参りに行きます。お寺は日野市にあります。江戸初期に出来た大昌寺という浄土宗のお寺です。
私の父母の墓は仙台にあるのでめったに墓参りには行けません。住職の弟が供養しています。
祖父も叔父も父も曹洞宗のお寺の住職でした。私は時々、府中市にある曹洞宗の高安寺の道元さまへお参りに行きます。祖父や叔父や父の墓参りのつもりで室町時代からの高安寺に参るのです。
今日は家内の実家の墓参りに行きました。森閑とした墓地のなかで家人が持参して来た庭の花を一心に供えています。生け花の色の組み合わせと、全体の形のバランスをいろいろ考えています。昨日、義妹の供えた花々との調和をとっています。
私は線香の束に火を着けています。静かな時間がゆっくりと流れています。
そんな折には「80歳以上の人生は天から貰ったケーキ」という想いがこみあげて来ます。私はすでに82歳です。何故か感謝の気持ちが湧いて来ます。
ボーナスを与えてくれた天の神様への感謝です。そして自分が82歳まで生きる間に支えになってくれた全ての人々への感謝です。
私の中学校時代の友人に大川君というのがいました。彼は60歳代から「俺はせめて80まで生きるから、後藤も生きろよ!」としきりに言ってました。この「せめて80まで、、、」を呪文のようにして、すでに82歳まで来ました。そんな愚にもつかないことを考えながらお墓参りをしました。
墓地には毎年、彼岸花が沢山咲いています。例年のように彼岸花の写真を撮りました。
彼岸花が終わると季節は中秋の名月、山々の紅葉と流れ行きます。秋は涼しくて好きな季節です。
皆様もご気分よく秋を楽しまれるように祈っています。
写真に先程撮ってきた彼岸花やお墓の写真をお送りします。









北朝鮮で大歓迎を受ける韓国の文在寅大統領

2018年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
平壌入りした韓国の文在寅大統領が空港からの沿道で朝鮮の民族衣装を着た人々に大歓迎されている様子をテレビで見ました。文在寅大統領が感激して沿道の人々に歩み寄り握手をしながら何か言っています。北朝鮮の一般人と韓国の大統領が握手をして直接言葉を交わしているのです。それは本当に平和な光景です。
戦後すぐの凄惨な朝鮮戦争を知っている老人の私の目頭が熱くなりました。
朝鮮戦争は、アメリカ軍・国連軍と北朝鮮軍・中国共産党軍との大戦争だったのです。
その停戦後も厳しい冷戦体制になり韓国と北朝鮮は小規模な軍事衝突を度々起こして来たのです。
そして昨年、北朝鮮はアメリカへ届く大陸間弾道ミサイルを太平洋へ打ち込みました。核兵器も配備した北朝鮮は今にもアメリカを攻撃するような姿勢を見せていました。
この北朝鮮に対抗してトランプ大統領は日本海へ航空母艦打撃群を3つも同時に派遣して北朝鮮を脅迫したのです。あわや戦争勃発かと思う瞬間に北の金正恩委員長が折れたのです。
その結果、この春の南北会談、中朝会談があり6月の米朝会談が開かれたのです。そして北朝鮮が非核化を約束したのです。昨年から今年は激動の朝鮮半島だったのです。
これこそ隣国の日本も重要視しなければいけない歴史の転換点なのです。
この一連の動きの中でかねて北朝鮮から招待されていた韓国の文在寅大統領が昨日の午後に平壌に入ってのです。
韓国と北朝鮮はともに同じ朝鮮民族として協力しあいながら平和と繁栄の道を歩みはじめたのです。
戦後すぐの凄惨な朝鮮戦争を知っている老人の私にとっては感激せざるを得ません。
北朝鮮の非核化は一向に進展せず、米朝関係は厳しいのです。その中で韓国と北朝鮮の関係は雪解けなのです。
これは日本にとって難しい情勢です。
日本はこの激動の朝鮮半島の目まぐるしい変化に注意深く見守るべきではないでしょうか?
そこで客観的に報道するBBCニュースを以下に転載いたします。

「韓国の文大統領、平壌入り 金委員長、空港で出迎え」
2018年09月18日, https://www.bbc.com/japanese/45556633

韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領と金正淑(キム・ジョンスク)夫人が18日午前10時前、専用機で平壌国際空港に到着した。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長と李雪主(リ・ソルジュ)夫人が出迎えた。両首脳は握手し合い、抱き合ってあいさつした。韓国大統領が平壌を訪れるの11年ぶり。
両首脳は3日間の日程で、進展の遅れている北朝鮮の非核化などについて協議する見通し。朝鮮半島の「非核化実現のため実務的な方法」を話し合うとされているが、具体的な内容は明らかになっていない。
韓国の主な目的は2つある――。
南北朝鮮の協力と和解の推進
非核化交渉で米朝の仲介役を果たす
文大統領と金委員長が4月に初めて会談した時点では、両首脳が対面しているというだけで大きな前進だった。今回の文大統領は、非核化に向けた具体的な対応の言質を北朝鮮から得るため、北朝鮮を説得し、中身のある成果を確保する必要があると、BBCのローラ・ビッカー・ソウル特派員は指摘している。
さもなければ、今年になって繰り返された南北首脳会談や、歴史的とうたわれた米朝首脳会談はいずれも、華やかな写真撮影の機会に過ぎなかったと位置づけられる恐れがあり、ドナルド・トランプ米大統領の忍耐力が試されるかもしれないと、ビッカー記者は言う。

1番目の写真は南北朝鮮首脳と両夫人が平壌国際空港で温かい挨拶をかわしている様子です。(18日午前) Reuters

2番目の写真はオープンカーで平壌市内へ向かう韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長です。

3番目の写真は平壌の沿道に歓迎陣の人々です。

4番目の写真は同行した韓国の経済界の人々です。サムスングループの実質経営トップの李在鎔(イ・ジェヨン)氏など多くの韓国財界人が文大統領に同行しています。

4月の南北首脳会談では、「核のない朝鮮半島」や平和体制の実現で合意したが、具体策は米朝首脳会談にゆだねられた。今月14日には、北朝鮮・開城工業団地内に南北連絡事務所を開所し、両国が常時、連絡を取り合えるようにした。
今回の首脳会談を機に、両国は協力関係の拡大を目指す見通し。文大統領にはサムスン・グループやLG、ヒュンダイなど韓国財界のトップが多数同行しており、経済関係の発展を協議する。軍事境界線の警備体制緩和も主要テーマになるとみられる。
 南北首脳による会談は今年に入って3回目。4月27日の会談は、南北の軍事境界線をまたぐ板門店の韓国側施設で、5月26日の2回目の会談は板門店の北朝鮮側の施設であった。2人が平壌で会うのは初めてだ。
 韓国大統領の平壌訪問は、2000年6月の金大中(キムデジュン)大統領、07年10月の盧武鉉(ノムヒョン)大統領以来。朝鮮中央通信は18日朝、文氏の訪問を事前に報じ、「新しい歴史を開いていく北南関係の発展を、さらに加速させる重大な契機となる」と伝えた。

さて今回の南北会談で非核化の進展は期待できるのでしょうか?米朝関係は緊迫する方向になるのでしょうか?
日本にとっても重要な会談なので注意深く見守りたいと思います。
大相撲の稀勢の里横綱にばかりをハラハラ見ていないで外国ニュースにも関心をもつことが大切と思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



箱根彫刻の森美術館と美ケ原高原美術館の彫刻作品

2018年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は2つの雄大な彫刻の野外展示美術館をご紹介いたします。
箱根、強羅の箱根彫刻の森美術館と長野県の高原にある美ケ原高原美術館の2つです。
箱根の方には近代の有名な彫刻家の大作が120点も広い園内に野外展示してあります。
オーギュスト・ロダン、ヘンリー・ムーアをはじめ、ブールデル、ザッキン、岡本太郎、流政之、佐藤忠良などの有名彫刻家の作品が展示してあります。大きなピカソ館もあり、彼の造形作品が展示されています。
一方、美ケ原高原美術館の方は世界で活躍している新進気鋭の造形芸術家の大きな作品が350点も展示してあるのです。
これは私見ですが,私は彫刻にとっては展示してある場所の景観も非常に重要だと考えています。彫刻が与えてくれる興奮と背景の景観の調和も重要だと考えているのです。
そのようなに考えると箱根の彫刻の森と長野県美ケ原高原美術館は実にすばらしい展示方法をとっています。周りの自然の景観を巧みに生かして世界中の力作を集め、展示しています。
周囲の新鮮な空気や、高原のさわやかな風が個々の彫刻の造形美を一層引き立てています。野外美術館の素晴らしさです。
それではこの両方の野外展示の光景を写真で示します。始めの3枚が箱根彫刻の森美術館で。後の4枚が美ケ原高原美術館です。いずれも2008年に撮った写真です。













箱根の彫刻の森と美ケ森高原美術館とを比較してみます。
誤解を恐れずに書けば箱根の展示はあまりにも大人しい美しさです。あまりにもオーソドックな作品が多いのです。景観の生かし方も和風の美意識を感じさせます。日本人の調和の感覚に合わせ過ぎているような印象です。要するにオーソドックスな印象が強いのです。
一方、美ケ原の方は彫刻自体が挑戦的な作品が多いのです。その上周囲の景観との組み合わせの仕方が斬新で、独創的なのです。展示方法の独創性も楽しむことが出来るのです。作品がオーソドックスでないだけでなく、展示方法も新鮮な感じを与えています。
両方を比較すると芸術世界でよく出て来るアカデミズムという言葉の意味が少し理解出来たような気分になりました。箱根の方がアカデミズムを重視した展示で、美ケ原の方はアカデミズムへ対して挑戦しているのです。
素人の感想ですから間違っていると思います。

美ケ森高原美術館は交通が不便な場所にあるので、もう少し説明を加えておきます。
この美術館は、はるかに遠い天空の上の美術館です。標高は2004mです。
この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのはは霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の彫刻家の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな造形芸術作品です。
箱根の強羅にある彫刻の森の姉妹美術館です。でも感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。
交通案内、会館時間などは、http://www.utsukushi-oam.jp に有ります。

お終いに申し上げたいことは是非、両方の野外美術館をご覧下さいということです。
両方を見るとそれぞれの良さが深く味わえられるのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)