後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

毎日、雨なので花の写真をお送りいたします

2015年08月31日 | 写真
数年間、ネット上でお付きあいをしている、ちひろさんのブログ、「ちひろのデジブラ」を訪問してみました。琵琶湖のほとりにお住まいで、ご自分で車を走らせて、四季折々、花々の写真を撮り、ブログ掲載している方です。
相変わらず毎日のように琵琶湖のほとりの花々の写真を掲載していらっしゃいます。
そこで今日は雨で濡れる夏の名残の朝顔の写真をお送りいたします。お楽しみいただければ嬉しく思います。出典は、http://blog.goo.ne.jp/yumenohanamiti8739です。





舟越保武とその父への想い・・・舟越保武の彫刻の世界への補足

2015年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
舟越保武はどのようないきさつでカトリック信者になったのでしょうか?もしご興味があったらお読みください。
硯水亭歳時記(http://blog.goo.ne.jp/sakura-sakura_1966/e/1f20a3ae300758b1d8b6d02a8ac4ad22)に掲載してある「舟越保武・桂親子の「祈り」」という記事の終りの方にこんなことが書きてあります。
 「父は熱心なカトリック信者であった。わたくしは子どものころから毎日曜日、かならず教会のミサに連れてゆかれた。それが嫌でならなかった。何ということなしに、子ども心に反抗していたのであろうか。・・・ついに父の生前には洗礼を受けなかった。わたくしの妙にひねくれた意地っ張りがそうさせたのか、ときどき駄々をこねて父に反抗した。
 わたくしは18歳の春に、右脛骨の骨髄炎にかかった。・・・わたくしが発病したとき、父もからだ が悪く床についていたのだが、足の病気の腫れを治すにはハコベの葉の汁が卓効があると聞いて、父は夕方人力車にのって雪の降る中をでかけた。暗くなってから、ほんの少しばかりのハコベを持って帰ってきた。雪が深くて少ししか採れなかった、と淋しそうなようすであった。手術後の、かなり恢復したころ、医師の指示で、父は毎日、わたくしの醜く変形した脛の傷をクレゾール液で洗った。メスの痕の無惨な傷口を、いたいたしそうに洗ってくれた。18歳の若いからだの、美しかるべきわが子の足の、ぞっとするほど醜怪に変形したその傷口を洗うときの、父の心はどんなに苦しかったことか。  
 ある日、父はわたくしの傷を洗うとき、小さな硝子の瓶に入った透明な水を数滴、傷にかけた。「これは教会からいただいてきた尊い聖水だ。これで傷は早く治るのだ」といった。
 いつもよりいっそう緊張した父の態度に、わたくしはたまらないほどの父の愛を直感したように思うのだが、突然「やめろ、傷口が悪くなる」ときちがいのようにわめいた。傷口の中、1センチほどのところに骨があるのだ。バイキンが入る、と言って怒鳴り散らした。自分はなぜこのときこんなに激昂したのであろうか。父はすぐクレゾール液でわたくしの傷口を洗い直して、聖水を流し去ってしまった。
 わたくしは今でも、そのときの父の心が見える。信仰と、わが子への肉親の愛、この板ばさみになった父の苦痛が、わたくしの足にじかに伝わってくるようであった。
 父はどんなに苦しんだであろうか。石のように堅く守りつづけてきた永年の信仰が、自分の子をいたわる気持ちからたとえ瞬時でもぐらついてしまったことについて、取り返しのつかないこの一事が父の心をずたずたにしてしまったのではなかったか。父のその心がつたわってか、わたくしも胸を掻きむしるような思いがあった。
 わたくしはひと言も父に詫びなかった。父は黙って自分の部屋に引っ込んだ。父はその夜、眠れなかったではないか。眠らずに自分の不信を責めつづけたのではなかったろうか。
 父はその年の暮れ近く癌で死んだ。父の死顔の、冷たい額の髭をを剃りながら、わたくしは聖水を足の傷にかけてくれたときの父を想っていた。そのときも涙が流れてしょうがなかった。
 四年がかりの制作(註:長崎26殉教者像の制作)の間に、なんべんも同じ夢を見た。黒いガウンを着た父が、声もなく涙を流しながら、わたくしの頭を撫でているのだ。目が覚めると、わたくしはぐっしょりと汗をかいていた。制作でひどく疲れているときに、よくこの夢を見た。
 わたくしは、夜ふけのアトリエの真ん中に立って、フランシスコ・キチの像を見上げながら、雲の上で父とむかって立ているような気持ちであった。」・・・(舟越保武「断腸記」より)
 そして89歳、舟越保武はついに帰天(カトリックでは亡くなることをいう)してしまうのだが、その日2月5日というのは、1597年(慶長元年12月19日) のことで、豊臣秀吉の命により、長崎でカトリック信徒二十六名が処刑された、その同じ日であったとは。
以上は硯水亭歳時記からの抜粋を転載したものです。原著者へ深い感謝の意を表します。(終り)

舟越保武の彫刻の世界・・・聖なる美しさと深い精神性

2015年08月31日 | 写真
昨日、東京都練馬区立美術館で9月6日まで開催中の「舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに」を家内と一緒に見てきました。
非常に感動しました。信仰を持っている人間の表情や姿が、ブロンズや大理石や砂岩の彫刻として活き活きとして表現してあるのです。
1950年、38歳の時、舟越保武は幼い長男を亡くし、その直後、洗礼を受けカトリックの信者になります。
したがって彼のその後の彫刻作品はカトリック信仰やキリシタンの受難を題材にしたものが多くなります。信仰や修行の結果、人間の顔や姿がどのようになるか彫刻で表現してあるのです。
冷たいブロンズや石でできた顔に暖かい血が流れ優しさに満ち溢れています。そして聖なる精神が燃え上がっているのです。
宗教というものに関心がある方々がご覧になると必ずや感動すると信じています。
しかし宗教と芸術は別です。安易に宗教的な題材をとった芸術作品ほどつまらないものはありません。
でも舟越保武の彫刻は「安易」とはかけ離れた精神に裏打ちされているのです。ですから彼の彫刻から宗教性を取り去っても、その芸術的な美しさは強く人々の胸を打ちます。優れた芸術作品なのです。
舟越保武の彫刻で一番有名なのは長崎にある26人の聖人像でしょう。私はカトリックなのでこの26聖人像に関して書き出したらキリがありません。しかしそれは止めます。しかし、一つだけ書かせてください。
この26人は長崎の刑場で並んで処刑されました。そして彼らはこの世から天国に昇ったのです。その昇り始める瞬間の26人の表情と足を描いているのです。足が地面を離れ宙に浮いています。足が垂れて、下がっています。表情は26人ぞれぞれ違います。処刑した人が何も分からずにしたことと信じ、悲しそうに許している表情です。
しかし昨日見たデッサンでは足が地についていました。
さて宗教抜きの話にします。聖クララの顔と普通の少女の顔だけの彫刻を比べてみます。信仰に確信を持っている表情と、これからの人生に不安を感じている少女の顔がそれぞれに分かりやすく表現してあるのです。冷たい石の彫刻が生きている人間の顔になっています。
釧路市の幣舞橋に飾ってある「道東の四季-春-」という女人像も冬の寒さが厳しい北海道にやっと春が来た喜びが表現してあります。
そして金色の「たつこ姫」の像もあります。私も何度も秋田県の田沢湖に行きました。神秘的な湖の上にこの金色の像が立っています。
舟越保武の彫刻とは知らなかったのでその金色の像を見るたびに目をそむけてしまいました。まがまがしい金ぴかの像を真面目に見る気持ちにならなかったのです。観光客向けの醜悪なものが置いてあると思っていたのです。それは私の偏見でした。芸術的な像は黒いブロンズであるべきという思い込みでした。金ぴかの像など芸術作品ではないという偏見でした。恥ずかしいです。
添付の写真では以上で感想を書いた作品を順に示しました。
それはさておき今回の練馬区美術館では舟越保武の彫刻の「原の城」、「病醜のダミアン」、」、「聖セシリア」、「聖マリア・マグダレナ」、「ペトロ岐部神父の立像」など主な作品がほとんどすべて展示してあります。舟越保武の彫刻の世界の全てが展示されているのです。多くは彼の出身地の岩手県の県立美術館の収蔵品です。
岩手県は石川啄木や宮沢賢治を生んだ土地です。昨日の展示品にも啄木の彫刻がありました。
この展示会は今週の6日(日曜日)まで開催中です。今日は月曜日で休館ですが、明日以降、6日まで是非お出掛けになっては如何でしょうか。池袋駅から武池袋線に乗ってすぐの中村橋を下車すると美術館は北口の前にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)














===彫刻家、舟越保武の紹介========
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9F%E8%B6%8A%E4%BF%9D%E6%AD%A6より抜粋です。
舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身で画家の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。
生涯
1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中(同期に松本俊介)に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す。
1939年 東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友情を培うことになり、二人は戦後の日本彫刻界を牽引していく。卒業後、独学で石彫をはじめ、数々の作品を発表して注目される。1950年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、自らも洗礼を受けてカトリックに帰依、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。
1967年から1980年の間、東京芸術大学教授を務める。その後、多摩美術大学教授を務めた。1986年、東京芸術大学名誉教授に。1987年、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始。死の直前まで左手で創作を続けた。2002年2月5日、多臓器不全で死去。89歳だった。
主な作品と受賞歴
1962年 「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞。
1972年 島原の乱に着想を得た「原の城」で中原悌二郎賞
1973年 「原の城」でパウロ6世より大聖グレゴリオ騎士団長勲章受章。
1975年 「病醜のダミアン」(ダミアン神父をモデルにした作品。)
1977年 「道東の四季-春-」(釧路市の幣舞橋)で長谷川仁記念賞。
1978年 芸術選奨文部大臣賞
1983年 エッセイ『巨岩と花びら』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
1984年 勲四等旭日小綬章受章
1999年 文化功労者顕彰。
2002年 叙・従四位、賜・銀杯一組
ほかにも「聖クララ」、「聖セシリア」、「聖マリア・マグダレナ」、「たつ子像」(田沢湖畔に設置)、「ペトロ岐部神父の立像」などがある。
=====舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに」========
東京都練馬区立美術館
開催日:2015/7/12 (日) ~ 2015/9/6 (日) 、月曜日は休館日ですからご注意下さい。
開館30周年記念「舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに」

南極の火山口の中の海に静かに休んでいるヨットの写真です

2015年08月30日 | 写真
南極の火山島、デセプション島の内部。外洋のうねりから完全に守られ、湖のように静かな水面が続く。陸地は火山弾、火山礫、万年雪に覆われていた。降水日数は一年の8割ほどもあり、晴天はまれという。年平均気温マイナス3度前後。
写真の出典は、片岡佳哉さんのHP、URLはhttp://aomi-sailing.com/です。

コンピューターが無くなって感じた喪失感、そして得た貴重なもの

2015年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
古いコンピューターから新しいコンピューターへ全ての情報を引っ越しするためにコンピューターをPC Depot という店に3日間出しました。
コンピューターの置いてあった机の上はガランとした空間があり、家の中からコンピューターが無い生活が始まりました。
テレビや電話がありますが、とたんに原始生活に戻ったようです。
そして何か大きなものを失ったような喪失感に襲われました。
ブログや趣味人倶楽部やFace BookやBYOOLというSNSを通しておつきあいのあった全ての方々とのご縁が切れてしまったのです。
感動的な出会いがありました。心温まるコメントも沢山頂きました。
それは私にとってかけがえの無い大切なものでした。親しくなった方々ともう連絡のしようもありません。暗い気持ちになりました。
時々、自然にコンピューターの置いてあった机のそばに行きます。そこには明るく窓の光が射し込む空間があるばかりです。
そのうち昔の江戸時代の人々はコンピューターもテレビも電話も無くても幸せに暮らしていたことに気がつきました。
もっと昔に遡ればお釈迦さまやイエスさまが生きていたころは現在のように便利は電化製品など一切無かったのです。
それにもかかわらず2000年以上もすたれない永遠の言葉の数々を残してくれたのです。
そんなことを考えたら気分が明るくなりました。
コンピューターが家の中から消えてしまって得た貴重なものは人間の幸せは便利なものが有っても無くても心の持ち方しだいだということに確信が持てたことです。
そして今までコンピューターの前に座っていた時間が自由に使えるようになりました。読書が出来るようになりました。
そこでいろいろな本を読みましたが一番感動した本は片岡佳哉著、「ブルーウオーター・ストリー」でした。ブルーウオーター24という全長7.メートルとおい小さなヨットで南極大陸まで単独帆走したときの記録です。氷山の流れる南極の海は低気圧が続々とやって来て海は大荒れの毎日です。世界のどの海域にも見られない強風が吹き氷山を押し流します。
わずかに風のおさまった沖に出て氷山を縫うようにして進んで行きます。青く光る南極の島々はこの世のものと思えない絶景を見せています。しかしまた嵐が襲って来ます。
何度も逃げ帰りたいと思います。気持ちが折れ、荒れた海の恐怖が勇気を砕きます。
南米の南端から危険な海として有名なドレーク海峡を1ケ月もかけてやっと遥々南極大陸に辿り着いたのです。しかし南極は秋も終わり海は氷り始めています。無事生還は無理と思いイギリス基地へ冬の間だけ働くことをお願いします。鄭重に断られます。もう一度勇気を奮い起して帰路につき、命からがらアメリカ基地まで戻ります。イギリス基地から連絡のあったアメリカ基地の人々が大歓迎してくれます。そこで勇気づけられ南米ままで帰ります。そこからは喜望峰を回りインド洋を横断しオーストラリアまで行きます。地球を一周して日本に帰って来たのです。
私もヨットを25年間趣味にしていました。穏やかな海や湖でのんびりしたセイリングを楽しんできました。しかし片岡佳哉さんの本を読み恥ずかしくなりました。私のヨットの趣味は井之頭公園の池でボートを漕いで遊ぶように安全で気軽なセイリングだったのです。
読後に片岡佳哉さんのHPを見つけました。URLはhttp://aomi-sailing.com/です。以下にこmのHPからお借りした写真と文章の一部をご紹介いたします。お楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

・・・・・ メルキョー群島に着いて7日目。早朝5時の船室に、2個の目覚まし時計が鳴り渡った。辺りはまだ薄暗い。
窓の外では風がうなり、<青海>は湾に打ち込む波に揺れている。今日こそは出発と思ったが、遮る物のない湾の外では、強風が吹き荒れているに違いない。
「どうしよう?」
澄んだ桃色に輝く南極の朝空を見上げながら、迷っていた。
とりあえずエンジンの暖機運転を始めると、灯油バーナーで熱い紅茶を沸かし、山盛りの砂糖を入れて飲みながら、しばらく待機を続けていた。
が、風は少しも弱まりそうにない。やがて時計は午前9時を指した。もはや日没前に目的地に着くのは無理だった。
それにしても、南極の夏はもう終わったのか。一体いつまで待てば好天になるのか。このまま悪天候が続き、冬になってしまうのか。<青海>は動けないまま、氷に閉じ込められてしまうのか。
来年の春までの食糧はない。近くのアルゼンチン基地の廃嘘にも、食べられそうなものはなかった。どうすればよいのか。湾に打ち込む波に揺れる船室で悩んでいた。
その揺れ方が、急に変化した。驚いて窓の外を見ると、目前に岸が迫り、岩々に白波が砕けている。錨が滑ったのだ。このままでは衝突してしまう。ただちに岸を離れなくてはならない。
急いで防寒服と長靴を身につけると、ハッチを開き、うなりを上げる風の中に歩み出た。周囲の海面には、強風で一面に白波が立っている。
厚いゴム手袋をはめると、直径16ミリのナイロンロープに全身の力を込めて、船尾から打った2個の錨をデッキに引き上げる。が、船首から陸に張った長さ60mのロープを回収するためには、岸までボートを漕がなくてはならない。錨が滑るほど強い風の中、それは無理な作業に違いなかった。
どうすることも出来ず、船首から外したロープの端を海面に捨てると、その場を急いで離れることにした。
見上げる灰色空には、ときおり雲の切れ間が開き、太陽の光が差すこともあった。が、それもつかの間、再び雪混じりの風が吹きつけてくる。南極はもう冬に向かっているのだ。
メルキョー諸島の中を行ったり来たり、島々の間の細い水路に入ったり出たりしながら、より安全な停泊場所を探し回った。測深器で海底の地形を確かめ、凹凸の少ない場所に錨を打ってみる。
だが、エンジンの回転を上げ、船体で錨のロープを強く引いて確認すると、錨は海底を滑ってしまうのだ。
海面から垂直に切り立つ青い氷壁は、今にも崩れそうで怖く、近づく気にはなれなかった。白いドーム状の斜面に近づいて、再び錨を下ろしてみる。が、だめだ。エンジンで強く引くと、やはり滑ってしまうのだ。
それから何時間、停泊場所を求めて吹雪の中をさまよい歩き、錨の上げ下げを繰り返したことだろう。停泊できずに夜の闇が訪れれば、島々に囲まれた狭い海面で、必ず座礁するだろう。そして<青海>は身動きできないまま、南極に冬が訪れる。
どうしようもなく絶望を感じていると、近くの岩に巻きついた太いワイヤーが目に留まった。直径5センチ以上もあり、真っ赤に錆びている。数十年も昔、捕鯨船が残したものだろう。日没が迫る今、これを使う以外に助かる手段はない。
利かない錨を臨時に下ろして<青海>を泊めると、幸いにも弱まり始めた風の中、ゴムボートを漕いで岩に上がった。持参した細いワイヤーとシャックルを使い、船首から運んだロープの端を岩に巻かれた太いワイヤーに固定する。船尾からは、隣島の岩までロープを張っておく。これで、<青海>が流される不安はない。
1時間ほどで係留作業を終えたとき、寒さと疲労で精根尽き果て、虚脱状態の自分を感じていた。時計を見ると、すでに夕方5時だった。停泊場所を求め、強風と吹雪の中、島々の間を朝から7時間も迷い歩いたことになる。
日が沈むと、潮流に運ばれた無数の小さな氷片が、船体にゴチゴチと音を立ててぶつかった。夕食後、疲れて眠り、夜半にふと目覚めてハッチを開けると、すでに風は収まり、凍てつく空一面に大粒の星々が強くまたたいた。
「よし、明日こそは出発できそうだ!」






新しいコンピューターが家につきました。

2015年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
新しいコンピュータでまた記事を掲載出来るようになりました。
どうぞまた以前と変わらずよろしくお願い申しあげます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「コンピューターの入れ替えのため2,3日間、投稿をお休み致します」

2015年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
いつもお読み頂きまして有難うございます。
古いコンピューターの性能が悪くなったので入れ替えを致します


何時もお世話になりまして有難うございます。


敬具、             後藤和弘

日本一、秋サケの遡る川をご紹介いたします

2015年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
その川は北海道の東海岸にある標津川です。毎年30万匹の鮭や鱒が遡上することで有名です。中標津町という町に流れているあまり大きくない平凡な川です。
しかしサケやマスの遡上する量は日本一と言われています。
下にその標津川の河口の写真を示します。写真の上の方にはるかに太平洋が写っています。
この写真は2012年9月に撮りました。

上の写真は「サーモン科学館」の高い塔の頂上から撮ったものです。
標津町は鮭漁からの収入で立派な「サーモン科学館」を作りました。
そこには遡上する鮭や鱒を観光客へそのまま見せる魚道があります。標津川から魚道を「サーモン科学館」の中へ導き、そしてその側面をガラスにした施設です。下にその魚道の側面の写真を示します。

お客はその日に海から標津川へ遡上してした鮭や鱒をガラスの向こうに見ることが出来るのです。いろいろな種類の鮭や鱒が大小混じって遡ってくるのです。前日の雨で魚道を流れ下る水が濁っていました。大きな鮭や鱒が勢い良く登ってくる姿には感動しました。
魚道は標津川に直接つながっていて、サーモン科学館の館内へ導き入れてあるのです。河口からその日に遡って来た鮭や鱒がその魚道を通って下の写真のように館内で見ることが出来ます。

よく見ると樺太マスや青サケや鼻曲がり鮭などいろいろな種類の魚が混じっているようです
館内には巨大な水槽があり、鮭や鱒、そしてイトウやチョウザメなどを飼って、展示しています。
下は北海道の湿原にいるマボロシの魚のイトウです。2メートルにもなるそうです。

なおサーモン科学館の庭は広い公園になっていて池には白鳥も遊んでいます。
そして館内には取れたての鮭を売っていて、全国へ発送してくれます。
また館内には立派な和食処があり海鮮を中心にした食事も出来ます。
東北海道に行ったら是非寄るべきスポットとしてお薦めの場所です。
詳しい情報は下のHPに出ています。
~人・サケ・自然の共存を目指した「標津サーモンパーク」~(http://www.shibetsutown.jp/town/machi-3.htmlより)
サケの全てがわかる「サーモン科学館」は平成3年9月にオープンされました。
標津川から人工魚道によりサケを館内に誘導し、上からではなく横から遡上の様子を観察できるほか、ビデオやスライド、模型などによりサケに関するすべてを展示しています。また、ふ化実習室や学習室も充実しており、サケ学習を行うこともできます。
下はこのサーモン科学館の全景です。2012年9月に撮った写真です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「趣味としての地方の歴史・・・郷土史の面白さ」

2015年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
若い人でも歴史が好きで趣味にしている人も多いようです。
そして老境にいたると自分の住んでいる町や村の歴史に強い興味を持つ人が増えて来ます。
いわゆる郷土史をあれやこれやと調べて自分の解釈も加えて一つの郷土史を作り上げます。
その過程が大変面白いのです。ですから一つの趣味となって何年も続きます。
私が郷土史を趣味にしてからもう20年以上になっています。
そこで今日は郷土史を趣味にするための注意点や幾つかのルールを書いてみたいと思います。
皆様ご存知のようにスポーツには毎日の訓練が重要です。
まず郷土史を趣味にするためには「歴史的思考訓練」が一番重要になります。
そうすれば郷土史趣味の世界が急に広がり老境の生活が一段と楽しくなるのです。
それでは歴史的訓練法とはどういうものでしょうか?
訓練方法の第一歩は歴史的なことが書いてある本を多数読むことから始めます。
そのとき重要な事が一つあります。
ただ漫然と興味本位に読み飛ばすのではなく、自分自身で問題や疑問を持って読むのです。
ここに書いてある歴史は真実か?何故こんな事が起きたのか?歴史は書く人の立場によって逆の書き方がなるのではないか?事実を美化しすぎていないか?他の文書にも同じことが書いてあるか?
こんな問題意識を持って本を読むことが歴史的思考訓練なのです。
問題意識を持って読めば、自然に自分の歴史解釈が生まれて来ます。
そうすればそれが正しいか否かを調べはじめます。そこまで進めばそれは立派な、そして愉快な趣味へとなります。暇な老境が急に楽しくなるのです。
実例として、ささやかな私の歴史趣味をご紹介します。
何年も前に埼玉県の秩父へドライブへ行ったことがあります。道に迷って日高市の郊外をウロウロしていたら一番目の写真のような異国的な魔除けの2本の門柱を偶然見つけました。
歴史的思考訓練のお陰で、ピンと来ました。ウン、これは昔、この地方が朝鮮と交流があった証拠と感じたのです。
日をあらためて再度、調査の為に訪問しました。
そうしたら朝鮮半島の高句麗が新羅と唐によって滅ぼされたとき日本へ亡命してきた王族と家来たちが埼玉県西部に住みついた事が分かったのです。
勝手に住みつく訳には行きませんから当時の天皇から「高麗王」という称号を貰って武蔵国の領地を分譲してもらい移住したのです。
再度、現地調査に行ったら二番目の写真のように、その「高麗王」の廟所が現在でも存在していたのです。これには吃驚してしまいました。
この「高麗王」の廟所の歴史的いきさつは三番目の写真にある看板に書いてあります。
実は郷土史で重要なことは現地の看板や説明板を丁寧に探し歩くことです。それらには本には書いていない驚くべき歴史が書いてあるのです。
そして現地の人に聞くことも重要です。この看板の上には聖天院という仏教のお寺がありました。丁度草取りをしていた住職と奥さんから少しだけ話を聞き古い朝鮮人の子孫が神主をしている神社も訪ねなさいと教わりました。
行ってみるとその神社の神主は代々、現在に至るまで朝鮮から移住してきた高麗王の子孫だったのです。
これが歴史趣味の実例です。しかし、この趣味の面白さはその先にあります。自分で見つけた看板の説明は本当に正しいのでしょうか?
そして自分でいろいろな仮説を立てて楽しむ事にあります。
当時の天皇から立派な称号や領地を貰うために何をしたのでしょうか?持参した金銀や宝石を出したのでしょうか?
それだけでは充分ではない筈です。もっと重要なおみやげは「先進的な農業技術」や「金属の精錬技術」の提供だったと想像しています。
高麗王の家来の中に優れた農業や工業の技術者が居たと推定することは無理の無い合理的なことです。
この仮説を調べて行くと大和朝廷が朝鮮からいろいろな先進技術を学んだ様子が分かってくるのです。
上に書いたことは少し精密さに欠けますが、歴史的ものの見方の一つの例です。素人の郷土史なのでお許し下さい。
ご興味を持って頂ければ嬉しく思います。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「デパートの婦人服のファッションはもう秋の色です」

2015年08月24日 | 写真
今日は家内が久しぶり服を買うと言うので立川市の高島屋に行きました。
婦人服売り場には待っている男性の座る椅子が必ず用意してあります。
過去何年間、もう何度もその椅子に座って流行の婦人服を眺めています。
すると並んでいる服が季節より早目に色彩を変えて行くことに気がつきました。
まだ八月なのにもう既に秋の色です。毛皮の襟飾りもあります。晩秋の雰囲気です。
それにしてもデパートの婦人服は色彩が上品で控え目です。和の世界です。何か寂しげな感じの色合いです。
このような色彩ならお茶席にも来て行けますし、法事にも行けます。
見ていると心が静かになり落ち着きます。心地良い色合いなのです。
若い頃、訪ねて行ったオハイオ、コロンバス市のラザラスというデパートを思い出します。原色の派手な婦人服が並んでいて吃驚したことを思い出しました。
そんことをな考えながら写真を撮って来ました。









「ロシアとの友好促進のために!・・北方四島に関するある考え方」

2015年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
以下は日本人が北方領土について感情的にならないでロシアとの友好促進を進めるように祈りつつ書きました。心の平静にお役に立てば幸いす。

誤解を恐れずに書けば国際関係には人間の憎しみと欲望が大きく作用する場合があります。
冷戦時代はアメリカは日本がソ連を憎めばいろいろな面で良かったのです。
例えば北方四島の返還運動で日本人がソ連を憎むことはアメリカにとって良かったのです。ソ連崩壊後もロシアはアメリカの敵対勢力になりました。同じ構図です。
日本がロシアと関係が悪くなるほど安保条約がより強化されるのです。
ですから北方四島返還運動はアメリカの利益になるのです。
日本政府はアメリカの利益になるので北方四島返還運動を止めるわけにいかないという解釈も出来ます。なにせアメリカはクレミア半島の武力領有が原因でロシアに制裁政策をとっているのですから。
その北方領土について対岸の標津町に住んでいたある友人からの手紙をご紹介します。
・・・・以前、北海道の標津町に住んでいました。多くの友人もできました。
特に漁業関係者とも胸襟を開いて話しました。
敗戦後、国後島が占領され、島民は追われました。(後藤による注記:1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意され1948年までにほぼ全員の日本人が帰国したのです。)
それはそれとして、国後の原住民となると、アイヌであり、それまでに和人が滅ぼしたり、混血して、純粋な原住民はいなかったそうです。
ソ連に追われて、標津町の漁民になりました。成功した人もあり、釧路や札幌へ流れた人もいたそうです。
月日が経てば、子供たちは進学し、内地へも行ってしまいます。残って父の漁業を継ぐ者もいます。
元々この地は内地からの入植者で開けた土地です。国後からの移住者が増えただけです。戦前から結婚などで標津町と国後は交流もありました。ですからスムーズに移住生活が出来ました。
しばらくすると内地から「北方領土返還」の声が聞こえてきました。
標津町にも同調する者はいます。しかし、元国後島民の関心は「漁業権」だけなのです。あの海でもう一度漁がしたい!!。あの豊かな魚、昆布を獲りたい。浜に番屋ぐらいは建てたい。それが本音です。
彼らの歳はあと何年もありません。子供たちは日本の生活に慣れて、不便な島へ戻る(移住する)事は誰も望んでいません。勉強のできる子供を札幌の学校へやりたい、それなんです。
墓参で島へ行った人は島の様子を話します。別海町のほうが好い、これが結論です。
しかし、表立っては言いません。90歳の爺さんは夢のような海の幸を語りますが、設備の整った標津町の病院へ通っています。
まあ、北方領土返還運動も飯の種ですから、その筋の人にとっては命よりも大切でしょう。市町村も国から対策費が出ていますから、建物も立てられるし、いいんじゃない、と思っています。
こんな面白い噂話が有ります。噂話ですから真偽はわかりません。
日本から墓参団が船で国後へ行きました。船の先には行先の国の国旗を掲揚するそうです。当然日の丸をつけて入港しました。するとソ連の役人が日の丸を降ろせと指示したそうです。船長は降ろそうとすると、乗っていた厚生省の係官が、絶対ダメと言い張ったそうです。国後島は日本だからです。
入港し上陸しなければ墓参は出来ません。
すると復帰運動をしている活動家が日の丸を降ろし、赤い旗を掲揚したそうです。勝手にした事ですから日本の顔も立ち、ソ連も顔が立ち、皆ハッピーだったそうです。
噂話ですから笑い流して下さい。(終わり)
ここで私は原発のことを思い出しました。原発は日米原子力協定の故に止められないという噂があります。原発のある市町村も国から対策費が出ていますから何か似た構図です。
以下に国後島がアメリカ占領軍とソ連の話し合いでロシア領になったいきさつを示します。
===アメリカ占領軍とソ連の話し合いでロシア領になった!===
1945年日本のポツダム宣言受諾通知後、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄し千島列島に侵攻を開始、太平洋戦争の降伏文書調印(1945年9月2日)の前日9月1日にソ連軍が同島に上陸、占領しました。
ポツダム宣言第7条に従って日本の諸地点は連合国に占領されましたが、国後島を含む千島列島は、一般命令第1号によって、ソ連占領地となったのです。
1946年1月29日、GHQからSCAPIN-677が命令され、日本は国後島を含む千島列島の施政権を停止されると、直後の2月2日、ソ連はこれら地域を自国領土に行政編入しました。
同年3月には、島内の通貨が日本円からソ連のルーブルに変更されます。
1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1948年までにほぼ全員の日本人が帰国したのです。
戦後のソ連は、ユジノクリリスクという新たな町を、日本時代の古釜布を望むほぼ無人であった高台に建設します。(以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BE%8C%E5%B3%B6 からの抜粋です。)
以上のように1946年にアメリカ占領軍とソ連側との交渉によって日本人全員が国後島を離れたのです。千島列島の領有権の移動はポツダム宣言に含まれていたという話もあります。(終わり)

心の平静にお役に立てば幸いす。
下に国後島の風景写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





横山美知彦著、「不思議なこと」

2015年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
 終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在の下仁田町は昔の日本そのままのようなたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。
写真は下仁田町です。
====横山美知彦著、「不思議なこと」=======
あれは、「少年倶楽部」だったか、「太陽少年」だったか、記憶が定かでないが、子供にとってどちらも人気の雑誌で、毎月発売の日が待ち遠しく、わくわくとした時期があった。
何かの用事を済ませて自宅に帰る途中など、よく書店で時に立ち読みをしたがその本がほしくてたまらないのだが、それを買う小使いはなく、表紙を恨めしそうにながめながら書店を離れることが多かった。
その日は、両方の新刊の発売日だった。店に入ることはせず通りすぎようとした時、同級生のK君が店から出て来た。
大事そうに雑誌の入った袋を抱えていた。「本買ったんだ!いいなあ」と半ば独り言を云ったが、K君「よかったら先に見ていいよ」と袋を差し出した。
私は一瞬躊躇した。今買ったばかりの真新しい雑誌である。私が買ったものならそんなことは絶対にしない。それを自宅に持って行く前に友人に見せるとは、その意外性に頭が混乱した。「先に見ていいのか?」と云うと「いいよ!」と言葉が帰って来た。雑誌には楽しい付録もついているのだ。
K君は何となく気まずそうな顔に懇願の色が見えたので、後先を考えずに私とて見たいので借りることにした。
さて、家人に何と説明したらと迷ったが、正直に話すことが筋と決め事情を説明した。家人は「へええ、そうなん?」とやや不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
私は本を汚さぬように丁寧に見て、翌日「本と付録」をK君にお返しした。
それから、時々そのことを思い出すのだが、K君のその時の事情が今も判らない。中学卒業後、同窓会で顔を合わすが、確かめたことは一度もない。       
書店は60年以上経った現在も雰囲気は以前のままだが、子供の少なくなった町を静かに見守っていて、私は時々店内に立ち読みに入ることがある。(平成26年6月12日記)

遥か憧れの五島列島の風景写真

2015年08月22日 | 写真
長崎から船で2時間、はるか遠い海に浮かぶ五島列島は私にとって憧れの島でした。
長崎までは行く人も多いのですが五島列島まで足を延ばす人は非常に少ないのです。
そこは日本のカトリックの聖地なのです。
1649年にザビエルが初めて日本へカトリックを伝えてから現在までの366年間カトリックの信者が住んでいるのです。
江戸時代の禁教の時代に神父が一人もいなくなります。しかし250年間も農民や漁師がひそかに信仰を守り続けていた島なのです。
それは奇跡です。日本人の精神力の強さの証明です。
五島列島はこの奇跡のような歴史の故に日本のカトリック信者の憧れの島です。
この島はそれだけの理由で多くの人々が憧れているのではありません。
海が入り組んでいて多様な美しい景観を見せているのです。緑豊かな岬が港を囲み中国大陸との交通の要所でもあったのです。
奈良時代、平安時代の遣唐使の船が何隻も五島列島の港から出発したのです。
後に弘法大師と呼ばれた空海も五島列島から出発し、2年後に五島列島に帰って来たのです。
その港の附近には遣唐使関連の展示館もあります。
その歴史も関係して五島列島には数多くのお寺もあります。
しかもお寺は隠れキリシタンに同情し、ひそかに助けていたという伝承もあります。
このような宗教的な歴史を抜きにしても五島列島の風景は非常に美しく魅力的です。
そこで今日は気楽にそのような風景を私のアルバムから取り出してご紹介したいと思います。
写真は今年の4月に撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











「若い時のアメリカ留学で私の受けた影響(2)終生変わらぬ愛国心を持ってしまった」

2015年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。
その時アメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。それは私が日本人だったから受けた好意と支援だったのです。
当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいなかったのです。いや尊敬すらしていまいた。
理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです
その結果、私はアメリカに留学した影響で終生変わらない愛国心を持つようになったのです。
日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。その上、アジア人として生まれた幸運にも感謝しました。したがって隣国の韓国や中国も大切に思い愛しています。
最近、中国や韓国の悪口を言うのが愛国心と思っている人々もいるようですが、私の愛国心はそのように偏狂ではない大らかなしかし熱烈な情念なのです。
そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じって国を作っているアメリカ合衆国に住んでみて、その中で体験した強烈な人種差別の影響を受けたことにあります。
1960年に留学したアメリカでは強烈な黒人差別をしていました。
オハイオ州の州都、コロンバスに留学した大学がありました。その町でも白人と黒人の住む地域がはっきり別れています。バスに乗ると前半分が白人席で後半分が黒人席と決まっていました。間に仕切りがあります。はじめてバスに乗った時、何の気なしに後半分の席に座りました。とたんに近くの白人男性が寄って来て、私の腕をつかみ、前半分の一番後ろの席に座らせました。黒人差別のルールを破ってはいけないのです。
コロンバスでは映画館もレストランも黒人用は別でした。
留学した大学は白人しかいません。親しくなった白人の同級生が黒人との付き合い方を真剣に教えてくれました。黒人と個人的に親しくなってはいけない。一緒に並んで道路を歩いてはいけない。毎日家々にゴミ集めに来る黒人には絶対にサンキューと言ったり話しかけてはいけない。黒人地域はアパートが安いからと住み込んではいけない。こんな調子でした。
この状態は公民権運動をしていたキング牧師の成果が出る前のアメリカの黒人差別の実態でした。キング牧師は「いつか必ずこんな日が来る。白人と黒人が仲良く一つの食卓で楽しく食事を共にする日が必ずやって来る!」と悲しげに叫んでいたのす。私はその声を忘れません。
しかし私が留学した1960年から1962年のアメリカは人種差別の強い時代でした。
アメリカでの階級を大雑把にいうと上から順に(1)ヨーロッパ系白人、(2)中南米から来た白人、(3)アジア人、そして(4)アフリカ系の黒人と厳然と別れていたのです。そして(1)、(2)、(3)はまとめて白人と同じような扱いを受けていたのです。
日本人の私ははからずも白人並みの生活が出来たのです。黒人のように差別され蔑視されなかったのです。
ですから当然、私は日本人に生まれた幸運を感謝しました。アジア人に生まれた運命に感謝しました。従って日本を大切に思うようになりました。日本人を誇りに思うようになりました。そしてアジア人に親しみおぼえるをようになりました。
最後に、冒頭に書いた「それは私が日本人だったから受けた好意と支援だったのです」という理由を書きます。
その理由は当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいないのです。いや尊敬すらしていまいた。
理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです。油断していたら真珠湾まで攻め込んで来たのです。アメリカが本気で戦って3年8ケ月の後やっと勝つことの出来た強敵だったのです。憎らしくはありますが日本人の力を尊敬せざるを得なかったのです。
同級生は特攻機のことにを敬意を感じているようでした。
太平洋戦争の功罪は議論すればキリがありません。
しかしその戦争のお蔭でアメリカ人は私の留学を支援してくれたのかも知れません。
このことはまた別の記事で書いてみたいと思います。
今日の写真はアメリカの風景写真です。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









「民間船の航海士、機関士、船長は帆船日本丸と海王丸で航海訓練をする」

2015年08月20日 | 写真
日本国有の帆船日本丸、海王丸、その他の帆船は航海士、機関士、船長などの養成課程で航海訓練に用いられています。帆船の方が風の力や波の強暴さが実感的に理解出来るからです。
その帆船は独立行政法人 航海訓練所で国費を用いて管理、運航されています。
初代の日本丸は鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」の遭難を契機として、1930年にイギリスから購入され神戸造船所で建造されました。
この初代日本丸は1984年の 引退までの54年余りにわたって、実習訓練を行って来ました。大戦中は帆げたをはずし海軍の支援艦や終戦時の引揚船として働きました。
そして帆船として復元された昭和27年(1952年)4月1日以降からは162次の航海を行い、6,509名の実習生を育て、約127万kmの航海を完遂しました。
役目を終えた初代日本丸は現在、横浜に昔のままの装備と姿で係留され一般公開されています。
そして二代目の日本丸は1984年に建造されました。同時に同じ姉妹船の海王丸も進水します。二代目の日本丸の帆走性能は初代日本丸をはるかにしのぎ、世界でも有数の高速帆船として海外の帆船の仲間入りをしました。
1984年の最も帆走速力の出した帆船に贈られるボストン・ティーポットを受賞しました。
現在この2隻の帆走練習船は外洋訓練航海の他に日本周航の訓練も行い各地の港に美しい姿を現しています。そして時々一般人へ船内を公開しています。


一番目の写真は2009年に神戸港で撮った二代目の日本丸と海王丸です。
二番目と三番目の写真はこの夏に七尾湾に姿を現した二代目の日本丸です。
四番目と五番目の写真は2008年4月に私自身撮った写真ですが初代日本丸です。横浜に係留されている船に乗船し元船長の大西さんから詳細な説明を聞きました。