後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」、その(4)

2015年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
「ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」、その(4)その内容と日本人の考え方との決定的な相違」
ドイツの元大統領のヴァイツゼッカー 氏の演説の内容を少し深く考えています。
日本人の第二次世界大戦へ対する考え方と非常に違う内容なのです。誤解を恐れずに2つの相違点を書きますと以下の二つになります。
(1)第二次世界大戦を振り返って考える場合、ヴァイツゼッカー氏はヨーロッパのことしか視野に入れていません。アジアで起きた大規模な暴力支配と殺戮は完全に無視されています。
日本人が第二次世界大戦を歴史的に考える時は必ずヨーロッパ戦線とアジアでの戦争を関連づけて考えます。この点が非常に大きな相違です。
(2)日本人が第二次世界大戦を考える場合には米軍による原爆投下と全国の都市の空襲のことを考えます。そしてグアム島やサイパン島、そして硫黄島の玉砕のことを考えます。すなわち日本人が被害にあって酷い体験をしたことを考えます。
一方、ヴァイツゼッカー氏はドイツが行った人道に反する数々の残虐行為を具体的に書きあげて被害者へ同情し、心を寄せています。しかるに日本人はあからさまに日本軍の残虐行為を書いたり発表したりはしません。
勿論、良識ある日本人は日本軍の残虐行為を調べ上げいろいろな本も沢山出版されています。しかし日本の首相や政治家がこのような発言をすることは皆無です。この点がドイツと日本の政治家の考え方の決定的な相違です。
この2つの相違点はドイツ民族の文化と日本民族の文化の相違です。どんな民族の文化にも優劣はありませんから私はドイツも日本も同じレベルの文化だと考えています。しかしレベルが同じでも内容が非常に違うのがいろいろな民族の文化の本質なのです。
上記の(1)の相違点は何故起きたのでしょうか?本来、ヨーロッパ人はヨーロッパだけが世界の全てだと思いこんでいる傾向があります。特にアジアに植民地を持っていなかったドイツ人にとってはアジアは意識の外にあるのです。「荒野の40年」ではアジアの殺戮については一切言及されていません。完全無視です。この狭量さを日本人は笑えないと思います。我々日本人は外国人を無視したり差別する傾向があるのです。島国根性といえばそれも一つの要素ですが、他にも江戸時代250年の厳しい鎖国制度が心の底に影を落としているのかも知れません。もっといろいろな原因がありそうです。
(2)についてはその背景をもっと考えなければいけないと感じています。しかしその背景の違いは一方はキリスト教が重要な要素になっていて、一方は大乗仏教がバックボーンになっていることも考えるべき要素と思います。
その前にドイツ人と日本人の道徳レベルの高低について誤解のないように明記すべきことがあります。ドイツ人の多くは。「荒野の40年」に同感しているわけではないと考えるのが自然です。それを朝日新聞のシンパはドイツ人の反省の方が日本人の反省より真摯だと言わんばかりの論陣をはります。道徳とは個人の問題であり民族全体のものではありません。
日本にも戦争反対を貫き通して刑務所に入れられた仏教僧がいたのです。
このドイツと日本の民族文化の相違はいずれ続編で書いて見たいと思っています。
(1)と(2)をご理解頂く為に、ヴァイツゼッカー氏の『荒れ野の40年』の冒頭部分だけをもう一度掲載いたします。
・・・5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実に、かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。 (ソ連では 1611万5千人がポーランドでは 555万人が犠牲になりました・・・後藤による注
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で、捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。・・・・・以下省略
今日の挿絵写真はケルンの大聖堂です。出典は、http://bjhimatsubushi.blog29.fc2.com/blog-entry-89.htmlです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)