後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「コロナの影響(1)疲弊するレストラン、寿司屋などの飲食店」

2020年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
新型コロナウイルスの世界的な流行でマスコミは連日関連のニュースで溢れています。
私がよく行く多摩湖への途中にある東村山市出身の志村けんさんがウイルスに感染し一週間で急死してしまいました。まだ70歳です。残念です。
コロナウイルスについていろいろ考えていましたがこれを機会に、「コロナの影響」と題する連載記事を書き始めることにしました。
コロナウイルスの流行の広義の文化的な影響を連載風に書いていきたいと思っています。いろいろな分野のコロナの影響を書いて行きます。

今日は外食産業という分野を取り上げてみます。
我が家では質素な寿司店やレストランへよく行ってました。スーパーからコロッケやトンカツを買ってました。そういうことを一切しなくなったのです。
米、野菜、魚類、肉類などの生の食材だけを買って来て全て自宅で料理して暮らしています。
肉類を除けば江戸時代に還ったような食文化に変わったのです。
我が家は少し極端ですが多くの人々も外食は避けているのです。
このため外食産業は衰退しています。
この様子をYahooニュースは次のように報じています。詳細な分析にもとづいた立派な内容ですが長い報道なので抜粋だけを示します。

「新型コロナウイルスの猛威」、https://news.yahoo.co.jp/byline/toryu/20200308-00166546/
連日、新型コロナウイルスの動向が報道されており、多くの人が不安をもち、関心を寄せているといって間違いないでしょう。
様々な業態で損害がでていますが、飲食店にも甚大な被害がでています。
少し前にYahoo!ニュースでもトピックスに取り上げられたことから、飲食店が置かれている状況が多くの人の知るところとなりました。
関連記事には「飲食店に大打撃 窮状と対策」と「新型肺炎で飲食店のキャンセル急増!」と「知られざる「窮状と対策」事情」などがあります。
記事ではしゃぶしゃぶで有名な日本料理店とミシュランガイド1つ星の鉄板焼店を取材しており、中国人客が激減しているので経営が窮地に陥っていると報じています。
確かに、鉄板焼をはじめとして黒毛和牛を提供するレストランに話を聞くと、神戸ビーフなどブランドの黒毛和牛をオーダーするのは中国人の方が圧倒的に多いです。
中国人客に加えて、日本人客も少なくなっているので大きな打撃となるのは想像にかたくありません。
では、飲食店全体では、どのようになっているのでしょうか。
オーナーシェフや料理人、広報、レストラン好きや食通の方から色々な話を聞きました。また、そのような方たちによるSNSの投稿も確認しています。
そして以下の項目順に損害の様子を記述します。
歓送迎会のキャンセル
団体客のキャンセル
ブッフェの窮状
ファインダイニング(高級レストラン)の窮状
大衆的な飲食店の窮状
従業員の窮状
年度末行事のキャンセル
メディアの対応
新型コロナウイルスが飲食店に与える影響について憂慮しているので、以上の観点から、飲食店が置かれた状況を説明したいと思います。 ・・・

ここで記事の内容を省略して従業員の窮状の部分だけを引用します。
・・・従業員の窮状;
飲食店の従業員にはどのような影響があるのでしょうか。
客が少ないことから、シフトに多くの変更が生じています。月給制であれば出勤日数が減ってもまだよいかもしれませんが、そうでなければ休んでいる分だけ収入が少なくなるので、非常に深刻です。
働くことができたとしても、新型コロナウイルスへの対策で衛生面への対策が増えており、通常よりもずっと業務が増えています。業務の負荷が増しているだけではなく、不特定多数の客に対応することから心理的な不安も少なくありません。
ホテルであれば、宴会がほとんどキャンセルされているので、宴会部のスタッフが一時的に料飲部へ移っていることもあり、慣れない部門で業務を遂行することとなります。
飲食店の従業員は、収入低下や業務の変更や増加、心理的な不安、さらには先行きが全くみえないことから、大きなストレスを宿しているのです。・・・

そして結びの言葉を引用します。
・・・飲食店が疲弊している;
東京は世界で最も多くミシュランガイドで星を獲得している都市であり、ありとあらゆる世界の料理があり、10万以上を誇る飲食店が存在しています。
新型コロナウイルスに対策するのは十分に理解できますが、その一方で、日本が世界に誇る飲食店が疲弊したり、潰れたりしていくのを、座視するのは忍びなりません。
ほとんどの飲食店は、新型コロナウイルスが感染しやすい要件を満たしていないほど、本当に客が少なく、なおかつ、最善の対策を施していることだけは、多くの方に知っていただきたいです。・・・(終り)

今日は疲弊する寿司店、レストランなどの飲食店の実態にせまりました。これは外食産業が衰退して家庭での料理が盛んになることを意味します。日本の食文化が変わるのです。

最後になりましたが志村けんさんのご冥福を祈ります。笑いのなかに哀感のある志村けんさんの表情を忘れません。

今日の挿し絵代わりの写真は寿司の写真です。インターネットからお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「今日の日記、雪ダルマ、桜、鮮魚の写真を撮りに行く」

2020年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は今年はじめての雪がふりました。近所の小金井公園の満開の桜花の下は一面の雪に違いありません。そして朝早くから子供達が雪ダルマを作っている筈です。
午前中に雪ダルマと桜花の写真を撮りに行きました。その足で角上魚類店に行って鮮魚の写真を撮りました。鮮魚もいろいろ買いました。
今日は曇り日ですが小金井公園の雪は溶けてしまいあちこちに地面が見えています。でも子供達が作った雪ダルマは残っていました。家内が撮った写真です。









「今日の日記、雪を見ながら家に蟄居しています」

2020年03月29日 | 日記
昨夜からの雨が午前8時ころ突然雪に変わりました。大きな雪片が次々と空から舞い降りて来ます。
すぐに庭が一面雪に覆われてしまいました。この冬初めての雪です。桜が満開になった後の雪とは驚きました。
コロナのお陰で教会のミサも当分ありません。
今日は雪を見ながら抹茶を立てて、家に蟄居することにしました。このようにのんびりした日曜日も良いものです。
雪の庭の風景写真です。





「アメリカの輝き(5)世界一の科学技術を創造」

2020年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカの科学と技術の独創性は世界一です。そして基礎科学の研究においてもその実用的な価値が重要視されています。
日本の基礎研究では実用的貢献が無視される傾向が強いのです。机上の空論が多いのです。日本には学問というものは実用の役に立たないという考え方があるのです。
これはアメリカの大学で4年間研究生活をした私の体験です。

それはさておきアメリカのノーベル賞の受賞者の数を見てみましょう。

1番目の写真は2019年までの各国のノーベル賞の受賞者の数です。
第1位はアメリカでダントツの275人です。
続いてイギリス、ドイツ、フランスの受賞者が多いのです。日本は6位の28人ですが多くはアメリカでの研究経験者です。
アメリカの科学の特徴は実用性を重視し工業技術に直結していることです。
その良い一例が月へ6回も人間が着陸したアポロ計画です。
アポロ計画は、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画でした。
1961年から1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功したのです。
特に月面着陸は人類が初めて有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業でした。これは宇宙開発史において画期的な出来事であっただけではなく、人類史における科学技術の偉大な業績です。
それでは、「https://ja.wikipedia.org/wiki/アポロ計画」から写真をお借りしてアポロ計画を振り返ってみましょう。

2番目の写真は1961年5月25日の上下院合同議会で、月着陸計画の決定を発表するケネディ大統領です。
ケネディ大統領は言いました。
「私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国民が取り組むべきと確信しています。この期間のこの宇宙プロジェクト以上に、より強い印象を人類に残すものは存在せず、長きにわたる宇宙探査史においてより重要となるものも存在しないことでしょう。そして、このプロジェクト以上に完遂に困難を伴い費用を要するものもないでしょう。」

3番目の写真はアポロ11号で、月面に立てた星条旗のかたわらに立つバズ・オルドリン飛行士です。
人類は地球の歴史上初めて地球以外の天体の上に降り立ち、船長ニール・アームストロングは有名な以下の言葉を残したのです。
「 これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。」
アポロ11号による人類初の月面着陸は全世界人口の5億人を超える人々がテレビ中継を通じて見守ったのです。
日本でNHK総合テレビが1969年7月16日21:45から75分間放送した報道特別番組「アポロ11号発射」は43.8%のの視聴率でした。

4番目の写真は1972年12月13日、アポロ計画における最後の月面活動を行うハリソン・シュミット飛行士です。
最後の17号は1972年12月7日に発射され12月19日に無事地球に帰還しました。船長ユージン・サーナンは最後に月を離れた人間になったのです。

5番目の写真は17号で撮影された「ザ・ブルー・マーブル」と呼ばれる地球の全景写真です。上部にアフリカ大陸北部とアラビア半島がはっきりと写っています。「我々は月を探査しに行ったのだが、実際には地球を発見することになった」と宇宙飛行士ユージン・サーナンが語っていました。
多くの飛行士が遠く離れた宇宙空間から地球を見るという経験から深い影響を受けたと語っています。月へ行った飛行士は皆、「地球が壊れやすい小さな惑星にすぎない」と語っています。

さてアポロ計画は米ソ連戦の産物の一つでもあったのです。
アメリカの探査機より以前にソビエトの無人惑星探査機が月に達していたのです。それを追い越そうとアメリカは国の威信をかけて遂行した大きな国家プロジェクトだったのです。
1991年にソ連が崩壊しアメリカが冷戦の勝利した原因の一つはアメリカのアポロ計画の成功です。
ソ連が崩壊した現在はアメリカは再び月へ行こうとはしません。
世界の覇権を握ろうとしている中国だけが月面着陸を計画しています。しかしアポロ計画の成功した後では二番煎じなので興味が湧きません。
それにしても1969年7月のアポロ11号で月面に立てた星条旗はアメリカの偉大さの象徴でした。アメリカの輝きでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「国際基督教大学の桜並木は満開でした」

2020年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年桜見物に行く三鷹の国際基督教大学へ先程行きました。コロナウイルスのせいで花見は禁止でした。守衛さんに頼んだら撮影禁止ですが桜並木を車で走りながら見物して良いと言ってくれました。
見事に満開です。撮影禁止なので以前に撮った写真をお送りいたします。









国際基督教大学は東京都三鷹市大沢三丁目10番2号 にあります。
交通の便は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6 にあります。
この大学はゼロ戦を大量生産していた中島飛行機の跡地にあり、開学当時の大学の本館は中島飛行機の本社ビルでした。
5番目の写真は中島飛行機の本社ビルで、国際基督教大学が本館として使っていた建物です。写真の出典は交通の便の出典と同じです。
1番目から4番目の写真にある桜並木は中島飛行機本社ビルからの並木ではなかと想像できます。
高齢者にとっては感慨深い建物です。

「桜花の下に菜の花が咲いている風景」

2020年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、小金井公園で撮った写真です。









桜の花を見ると悲しくなります。戦前生れの私は桜の花のように潔く散って行った特攻隊の若者たちを思うのです。
太平洋で散華した将兵のことを思い出すのです。当時は「桜のように散れ」という言葉が溢れていたのです。

ですから淋しい桜の下に明るい菜の花が一面に咲いているとホッとするのです。希望に満ちた風景です。
菜の花を見ると小学校の遠足で見た菜の花畑を思い出します。花の上に蝶々も飛んでいました。それはうららかな春風の吹く菜の花畑でした。

何年も以前に伊豆の河津に桜を見に行ったらピンクの河津桜の下に菜の花が一面に咲いていたのです。感動しました。
桜の花を見ると人はいろいろなことを思い出します。
昨日は小金井公園で歩行器の椅子に座って想いにふけっていました。足が丈夫な家内が遠方の菜の花畑と桜を組み合わせた写真を撮りに行きました。
公園には沢山の人が楽しそうに桜を眺めていました。楽しそうにしている人々を眺めるのも良いものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の都立小金井公園の桜の写真です」

2020年03月25日 | 日記
今日は快晴です。まだ満開ではありませんが桜の花の写真を撮りに行きました。平日なのに多くの人々が楽しそうに桜の花を眺めていました。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









「都立小金井公園とは?」
面積約80haの広大な敷地は都立公園の中でも最大規模で、日比谷公園の4.8倍、上野公園の1.4倍に相当します。
公園西側には南北に小金井街道が、南側には東西に五日市街道が通っています。
また、五日市街道に沿って玉川上水が流れています。公園の北側には隣接してゴルフ場小金井カントリー倶楽部が広がっています。
戦前の東京緑地計画を元に紀元二千六百年記念事業として計画された「小金井大緑地」が原形で、1954年(昭和29年)1月に「小金井公園」として開園したのです。
基本テーマは「花と緑のひろびろ空間」で、園内には雑木林と芝生が広がり、1,800本の桜が植えられた花見の名所としても人気があり、日本さくら名所100選に選定されています。正月時期には凧揚げの名所ともなる。また、公園内の「いこいの広場」では定期的にフリーマーケットも開催されている。
また広大な「江戸東京たてもの園」があり、昔の東京の商店や住宅が再現され展示されています。
沿革は次の通りです。
1940年(昭和15年) - 紀元2600年記念事業の小金井大緑地として計画、翌1941年12月までに用地90haを収得。
1941年(昭和16年) - 光華殿(現・江戸東京たてもの園ビジターセンター)移築。敷地9万坪(約30ha)と併せて文部省教学局に貸付、国民練成所を設置。
1946年(昭和21年) -10月 文部省貸付地が宮内庁に移管、東宮仮寓所、学習院中等科を設置。
交通の便はJR武蔵小金井駅北口からバスが便利です。

「生前に売れたゴッホのたった一枚の絵」

2020年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
「赤い葡萄畑」は1888年11月にゴッホによって描かれた絵画で、生前に売れたたった一枚の絵 でした。フランス・アルルの葡萄畑で夕方に人々が農作業をする様子を描いた作品です。 この作品は、ゴッホが死去する5ヶ月前の1890年2月にベルギーのブリュッセルで行われた展覧会「20人会展」に出品され、ゴッホのアルル時代の友人でもあったベルギーの詩人のウジェーヌ・ボックの姉で女流画家のアンナ・ボックによって400フランで購入されました。結果的に、この作品はゴッホの生前に売れた唯一の作品となったのです。 現在はモスクワのプーシキン美術館蔵です。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/赤い葡萄畑)

「アメリカの輝き(4)世界の覇権は握るが他国の主権を尊重」

2020年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカのことを良く書いたり褒めると、悪口をコメントして投稿してくれる人がかならずいます。多くの日本人はアメリカが嫌いなようです。先の戦争で原爆を落とし、全国の都市を焦土に化し、沖縄戦など太平洋の島々で多数の日本人を殺したからでしょうか。
しかしこの「アメリカの輝き」と題する連載記事では客観的な視点でアメリカの良い面を書いています。悪い面は別の連載記事でいずれ書きたいと思っています。
それはさておき、アメリカは今や世界の超大国として君臨しています。
航空空母艦を10隻以上も保有し軍事力では中国、ロシアを圧倒しています。
世界中に軍事基地を保有しています。こんな超大国は人類史の中で初めてのことです。かつてのローマ帝国やジンギスカンのモンゴル帝国よりもはるかに強大です。
アメリカは軍事的に全世界を占領しようとすれば可能な勢いです。
戦後75年間にわたって日本はこのアメリカを手本にして来ました。アメリカの民主主義を理想として導入してきたのです。アメリカは日本にとって理想社会でした。
日本が受け入れた便利なアメリカ文明の例を書きます。
コンビニが全国の津々浦々にあります。その数、7万店舗以上になると言います。スーパーもマックやケンタやスタバのようなファストフードの店もきめ細かく普及しています。郊外の大型量販店もアメリカ発祥です。
この狭い日本の国内旅行に飛行機を使うのもアメリカの風習です。その上、その旅客機はほとんど全てがアメリカ製なのです。 こうしてキーボードを叩いているパーソナル・コンピューターもアメリカ発祥のアメリカ文明の産物です。アメリカ文明が押し寄せて来て日本を飲み込んでいるのです。
以上が覇権国、アメリカの影響の実態なのです。
今後20年間の世界の覇権はアメリカが確実に握ると言われています。中国は第二の覇権国と言われていますが、共産党独裁という国内問題を抱えその軍事力と経済力が本当にアメリカを追い抜くのは疑問視されています。

一つの国だけが超大国として世界に君臨することは人類の不幸です。しかしその君臨している国が民主主義のアメリカだった事実は不幸中の幸いです。
アメリかの政治や社会が自由と平等を基盤にしている民主主義にもとずいているのです。
従って多数の国々から成り立っている国際社会でもアメリカ人はそれぞれの国の主権を尊重し、国際社会もアメリカ国内と同様に平等の原則を守ろうとします。
しかしアメリカ人は外国の主権を尊重し平等の原則を守るのはアメリカの友好国や同盟国に限るのです。
アメリカに敵対する国へは経済制裁をあたえ軍事的に脅迫します。
アメリカを罵倒すればイラクのように占領し大統領を処刑してしまいます。
この様に、一つの国だけが超大国として世界に君臨することは人類の不幸なのです。
しかし不幸中の幸いだったことはアメリカが多くの国々を軍事的に占領し残酷な専制統治をしなかったことです。
アメリカの友好国や同盟国に限ってはそれぞれの国の主権を尊重し平等の原則を守ろうとしています。
これが人間の限界ではないでしょうか?困ったものです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮った桜の写真です。桜木が伸び伸びとして青空に向けて育っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)












「スミレの花、源平桃、黄梅の花の写真をお送りします」

2020年03月23日 | 写真
この前の記事、「あなたはご存知ですか?実に奇妙な庚申塚信仰のことを」は込み入った内容でした。
お読みになってお疲れになったことと存じますので、スミレの花、源平桃、黄梅の花の写真をお送りします。
昨日撮った写真です。









「あなたはご存知ですか?実に奇妙な庚申塚信仰のことを」

2020年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム
世の中には知らなくても良いものが沢山あります。しかし好奇心で調べると意外に日本文化の深層が分かることがあります。そんなものの一つに庚申塔への信仰があります。今日はこの実に奇妙な庚申塚信仰のことを書いてみたいと思います。
農村の道を歩いていると道端に石碑が立っていて花が供えてある光景があります。
旅人の安全を守る神様のようです。馬頭観音や道祖神なのだろうと気軽に見過ごしていました。
しかし少し詳しく調べてみると、道端の石碑には庚申塚とか庚申塔と呼ばれる石碑が多いことが分かりました。
旅人の安全を守る馬頭観音や道祖神と違って、この庚申塚は本来旅とは全く関係の無いものです。

この甲信信仰は実に奇妙です。調べてみると、中国の道教の庚申信仰が日本に伝承されたものでした。
その信仰とは人の体内に住む三匹の虫にまつわる俗信です。馬頭観音や道祖神とは全く違うのです。
しかもこの俗信の内容が時代とともに、どんどん変化して行ったのです。
いろいろと検索して詳しく調べてみましたところ、庚申信仰の時代による変化を精緻に学問的に研究した記述がありました。
それは、戸原のトップページ:http://www.y-tohara.com/ でした。
大変優れた記述ななので、以下にその一部を転載させて戴きました。

=======庚申信仰の時代による変遷==========-
庚申信仰とは:
今、“庚申(コウシン)信仰”とか“庚申さん”といっても知る人は少ないであろう。“庚申”とは干支(エト)でいう“カノエサル”で、昔、年や日などを干支で記していたとき、60年(日)の周期で巡ってきた。庚申日は年に6回(年によっては7回、この年を「七庚申年」と呼ぶ)巡ってくるが、その庚申の夜、人々は身を慎み徹夜して過ごしたという。
Ⅰ、庚申信仰とは
 庚申信仰とは、教祖もなければ経典・教義らしきものもない信仰で、今の我々からすると何とも得体の知れない俗信である。もともと中国の民間道教の一つで、その源淵は東晋時代の古書『抱朴子』(ホウボクシ、葛洪著・283~363)に記されている『三尸(サンシ)説』によるという。

※三尸説
 『三尸』とは人の体内に住む三匹の虫で、それぞれ頭部・腹部・脚部に潜むとされる。抱朴子には、『人の体内に潜む三尸は形はないが、実は鬼神や霊魂の類である。人が死ぬと、三尸は体外に出て好き勝手なことができるので、常に人の早死を望み、庚申の夜、眠っている人の体から抜け出して天にあがり、人間の罪過を事細かく天帝に告げる』とある。天帝(司令神ともいう)は、庚申の日には門戸を開いて多くの鬼神たちから人々の善悪の業を聞き、その功徳や罪過の程度に従って賞罰を科すが、その最たるものが寿命の伸縮である。
 人間は誰しも過ちはあることで、それを60日ごとに天帝に報告されて寿命が短くなるのは困るわけで、そのために庚申の夜、三尸の虫が体内から抜け出られないように徹夜して過ごすことが必要、と説くのが庚申信仰の骨子で、特定の神仏に祈るものではなく、ただ寝ないで過ごすという特異な宗教行為で、これを『守庚申』といった。

※庚申の御遊
 この三尸説あるいは守庚申がわが国へ伝来したのは飛鳥時代とも奈良時代ともいうが、はっきりしない。しかし平安時代、宮中で天皇を中心とした守庚申がおこなわれていたのは確かで、これを『庚申の御遊』と呼んだ。「続日本後記」(869編纂)仁明天皇・承和元年(834)七月庚申の条に『中旬はじめの庚申の日だから、天皇出御のもと侍臣に酒を賜り、御前で囲碁をして遊んだ』とあることや、慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」承和5年11月26日(庚申日に当たる)の条に、『(中国揚州の地で)廿六日の夜、人々は皆睡らない。これはわが国正月の庚申の夜と同じである』とあること、その後の史書あるいは公卿の日記などからみて、9世紀末から10世紀のころ庚申の御遊は半ば恒例化していたという。
 宮中でおこなわれていた庚申御遊がどんなものだったかははっきりしないが、清少納言の「枕草子」(1000年頃)に、『(中宮さまが)「庚申御遊をなさいます」というので、内の大臣殿がいろいろお世話なされた。夜が更けてきた頃、題を出して女房どもにも和歌を詠ませることになった。みんなが緊張し、良き歌を詠もうと苦吟いていたが・・・』(94段)とあるように、人々は管弦を奏したり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、時には酒なども出して夜を過ごしたようで、睡らずに三尸の虫を体内に閉じこめるという庚申本来の趣旨からは外れた遊興的なものだったらしい。

※庚申待(コウシンマチ)
 この庚申の御遊という形で、一夜を睡らずに過ごして長寿を願う守庚申の風習は、鎌倉・室町時代になると上層武士階級へと拡がり、「吾妻鏡」にも守庚申の記事が散見され、また.続く室町将軍家あるいは織田信長が庚申待と称して酒宴乱舞の宴をもったとの記録もあり、これを『庚申待』といった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのであろう。

 この庚申待が一般庶民に広まったのがいつ頃かは不明だが、古書「庚申之本地」(1527、室町末頃)に『貴賤上下ともに庚申を守れば七福が生ずる。貧人はその分にしたがって供物せよ』とあること、関東地方にその頃の庚申塔が残っていることなどからみて、室町末期(16世紀前半)には一般に広まっていたらしい。

 ただ一般庶民の庚申待には、宮廷貴族のそれとは異なり礼拝対象となる神仏が登場してくる。はじめの頃は阿弥陀仏や薬師如来・文殊菩薩などの諸仏だったが、江戸時代にはいると、それらの庶民信仰を主導した密教僧や修験行者の影響を受けて、仏教系では青面金剛が単独の主尊となり、神道系では猿田彦命へと収斂していったという。

 いずれにしろ、そこでおこなわれる庚申待は、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ現世利益を得ようとするもので、三尸説など影も形もないものに変貌している。換言すれば、庶民の庚申待とは、古くから続いているカミ祀り(カミ祀りは夜おこなうのが本来の姿)・先祖祀りが庚申尊という珍しい神仏の祀りに変化したものといえる。

 庚申講の人々は、入浴するなどして身を浄め、庚申尊の前で般若心経や真言陀羅尼あるいは念仏を唱えるといった“おつとめ”をおこない、その合間に酒を飲んだり世間話をしたりして夜を過ごした(「長話は庚申の夜に」ともいったらしい)が、完全に徹夜するのではなく、鶏が鳴くのを聞いて祀りを終え寝にはいったともいう。古くから鶏が鳴くと夜のあいだ跳梁していた悪霊・邪鬼どもが退散するといわれ、すべての禍は去っていくといわれていた。これが今、庚申尊掛軸や庚申塔に鶏が記されていることの由縁でもある。

※庚申の神仏
 今、庚申信仰で礼拝対象となっているものは、仏教系では『青面金剛』、神道系では『猿田彦』というのが大方である。
◎青面金剛(ショウメンコンゴウ) 
 庚申尊としての青面金剛は、室町末期頃に諸仏の一尊として現れ、江戸時代に入って主尊として崇拝されるようになったが、庚申と青面金剛との関係はよくわからない。

1番目の写真は『青面金剛』です。
 青面金剛とは仏・菩薩ではなく、ましてや神でもない。仏教(密教)パルテノンの天部に属する夜叉(ヤシャ)の類である。夜叉とは、ヒンドゥー教にいう荒々しく怖ろしい鬼神だが、仏教に入って帝釈天の使者で毘沙門天の眷属となり北方を護るとされる護法善神で、中国で民間道教と習合して庚申尊となったという(仏教辞典)。
 また雑密経典・「陀羅尼集経」によれば、“大青面金剛呪”という真言陀羅尼を唱えて青面金剛に祈れば、諸病たちまち治癒するという。特に江戸時代に死病として恐れられた労咳(ロウガイ、今の肺結核)は“伝尸(デンシ)病”とよばれ、これの予防・治癒には体内に潜む三尸九虫を駆除する要があり、それには青面金剛に祈ることが肝要とされていたという。この伝尸・デンシが字形・音ともに三尸・サンシに似通っていること、病気治癒に験があるとされたことなどから庚申と混同され、青面金剛が持ちこまれたのかもしれない。

庚申信仰ーーー青面金剛童子像
 陀羅尼集経に記す青面金剛は、一身四手(下手に三股叉と棒、上手に法輪と羂索を持つ)、身は青色、眼は三眼で牙をむき、髑髏を頂く逆立った頭髪や両腕には大蛇がまといつき、足許に邪鬼を踏まえるという恐ろしい姿で、その左右に童子二人を従えるという(中央に青色の主尊、左右に赤色2躰・黄色2躰の五夜叉一組が普通)。

 これに対して庚申尊としての青面金剛はほとんどが主尊の一躰のみで、身は青色と経典に準じるが三面六手と腕が多くなり(一面もある)、中段の2手には弓と矢を持つのが普通で、二童子とともに三猿・鶏などを従えるという違いがある。他に二手・四手・八手などがあるというが、いずれもその忿怒相を以て邪霊を威嚇調伏し、教えに従わない衆生を教化するとされる。ただ庚申尊掛軸での青面金剛が、前に4夜叉を描いているところは経典に忠実といえる。

◎猿田彦
 仏教にいう青面金剛に対して、神道の側から「庚申の夜に祀るべき祭神は猿田彦大神である」と説いたのは、江戸前期の儒者・神道家である山崎闇斎(1618~82)で、その流れを汲む神道家によって広まったという。
 サルタヒコとは記紀神話で天孫ニニギ尊の降臨に際して道案内者として現れた国つ神で、簡単にいえば“赤い顔をした鼻高の天狗”である。そのサルタヒコを庚申尊とするわけは、猿田彦の“猿”が庚申の“申”に通じることもあるが、サルタヒコが降臨するニニギの道の露払いをしたことかせ、禍を払う力があると考えられたためとも、別名・大田神と呼ばれるサルタヒコが田の神・豊饒の神とみなされ、豊作豊饒の願いを叶えてくれる神と考えられたためともいう。ここには、山の神が春になると里に下りてきて田の神となって豊饒を見守り、豊かな収穫を見届けて山に帰っていくという、わが国古来からの山の神・田の神交代信仰がうかがわれ、庚申尊が豊饒を司ると見られていたことを示唆している。

※庚申塔
 今、庚申信仰が残っているかどうかはわからないが、かつて庚申待がおこなわれていたことを証するものに『庚申塔』と呼ばれる一群の石碑・板碑がある。 “庚申”・“庚申待”・“庚申供養”などと刻んだ文字碑、あるいは青面金剛を彫りこんだ石碑で、信州から北の東日本に多いというが、関西でも、注意すれば古い集落の片隅などで時折見かけることがある。
 庚申塔とは、庚申縁起に『一座と申すは三年に十八度なり。両三年目には供養致すべし。供養とは道の辺に塚をつき四方正面の卒塔婆を立てて供物をととのえ、云々』とあるように、3年18度の庚申待を続けた記念として立てたもの、庚申年を記念したもの、特に庚申のご縁年として祝われた七庚申年を記念したもの、庚申講内に目出度いことが起こったのを記念して立てたものなど種々あるという。
 しかし、いずれにしろ庚申講あるいは庚申年を記念して石碑を立てることと、守庚申本来の三尸説とは何の関わりもない。庚申塔とは、縁起に“供養のために卒塔婆を立てよ”というように一種の供養塔ということもできる。その例証として、仏教で三十三回忌を迎えてホトケがカミになったことを祝って立てる“梢付塔婆”(ウレツキトウバ)と同じように、七庚申年を記念して枝先の梢が残る生木を立てる風習もあったという。庚申待が、三尸の虫を云々するというより、先祖の霊を祀る古来からの祭祀習慣の延長上に位置づけられていたことを示唆しているといえる。
 今、残っている最古の庚申塔は、文明3年(1471、埼玉県川口市)の庚申待板碑で、ついで文明15年(1483、東京都足立区)、長享2年(1488、東京都練馬区)が続くという。いずれも室町時代のもので、室町期には庚申信仰が一般に広まっていたことを示す遺構である。
 
庚申信仰ーーー庚申塔

2番目の写真は熊野・那智の庚申塔(左は青面金剛)です。 

3番目の写真は伊豆・修善寺の庚申塔です。   
Ⅱ、庚申信仰の現状
 庚申信仰は、いろんな変遷を経ながらも庶民の宗教生活になかに根を下ろしていたようだが、大正以降急速に衰えたという。資料によっては昭和30年代頃の農村部には残っていたともいうが、平成の代になった今、昔ながらの庚申信仰はなくなったといっていいだろう。例えば、江戸時代に日本三大庚申とその殷賑さをうたわれた大阪・四天王寺の庚申堂、京都・八坂の庚申堂、東京・入谷の庚申堂についても、大阪・京都の2社は庚申日ともなればそれなりの参詣人を集めてはいるが、東京・入谷のそれは廃絶している。
 庚申信仰を支えたのは同信心の者が集まってつくる“庚申講”だったといえるが、人々の社会的関係と宗教意識が大きく変わってしまった今、都会はもとより地方にあっても宗教を絆とした集まりがもたれることはなくなっている。今、四天王寺や八坂にお詣りする人々も老齢の方が多く、時が経つほど寂れていく可能性がある。
 四天王寺庚申堂・八坂庚申堂など、大阪近傍の庚申堂については、戸原のトップページ:http://www.y-tohara.com/  に紹介してあります。
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以上が中国の道教に由来する庚申信仰が飛鳥、奈良時代に日本に入って来てどのように変化して行ったかの説明です。
信仰の内容が時代とともにどんどん変わって行く様子が興味深いです。そして現在はこの俗信が忘れ去られていくようです。
考えてみると人々の信仰や思想の内容が時代と共に変わるのは仕方がないのです。
そしてある時代に隆盛をきわめた宗教や思想も歴史の闇に呑み込まれて消滅するのです。何か無常を感じます。この世のことはすべて無常なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

「今日の国立市の桜並木大通りの開花状況」

2020年03月22日 | 日記
今日は曇りで写真が鮮明に撮れません。しかし国立駅から南へ伸びている桜並木の大通りの開花状況が気がかりです。
午後から行って見たら3分咲きでした。
2、3日後頃満開になったら又写真を撮りに行くつもりです。
取り敢えず今日の写真をお送り致します。









1番目の写真の正面に見える三角屋根は国立駅です。14年ぶりに復活しました。
歩道橋の上に大勢の人が立ち、三角屋根を懐かしいねなどと言いながら写真を撮っていました。