後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「会津若松城の美しい姿」

2023年08月31日 | インポート
会津若松城は蒲生氏郷や上杉景勝などが城主をつとめた城です。1643年(寛永20年)に保科正之が入封して以降は明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城として用いられ、幕末の戊辰戦争の際には会津戦争の舞台となりました。
現在の天守は1965年(昭和40年)に外観復元されたものですが、さらに2011年(平成23年)に黒瓦を当時と同じ赤瓦に復元しました。



「石神井城と渋谷城と桧原城の城址の写真とその他多数の城址」

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
石神井公園は練馬区石神井台にあります。二つの池を中心とした公園で武蔵野の自然がよく残されています。二つの池とは木々に囲まれた石神井池と三宝寺池とです。三宝寺池の隣に石神井城跡とその遺跡があります。撮って来た写真をお送りいたします。
1番目の写真は石神井公園の三宝寺池です。隣に石神井城跡とその遺跡があります。

2番目の写真は石神井城跡を示す石碑とその遺跡の説明板です。
石神井城は1400年ごろ豊島氏によって築城されました。しかしその命は短く、1477年に太田道灌によって攻められ城主の豊島泰経は敗走し、石神井城は廃城になってしまったのです。たった77年の間でした。
3番目の写真は渋谷城のあった場所にある金王八幡宮です。

4番目の写真は金王八幡宮に残る渋谷城の礎石です。渋谷城の石が1点だけ保存され展示されています。
渋谷城には平安時代末期から渋谷氏が住んでいました。城には渋谷川を水源に水堀をめぐらされていたのです。平安時代に渋谷金王丸がこの城の城主になりました。
しかし室町時代になり大永4年(1524年)に北条氏綱が関東南部を占領し、渋谷城は後北条氏の一隊によって焼かれ渋谷氏は滅んだのです。
現在、渋谷城のあった場所には金王八幡宮があります。遺構は残っていませんが、境内には城の石が1点だけ保存され展示されています。 
しかしその後の渋谷氏一族の動向については分かっていません。1524年に江戸城が後北条氏に奪われた時に渋谷氏一族は城を捨て滅んだのは確かな事です。

5番目の写真は檜原城があった山です。本丸は左の山の頂上ぬありました。
東京都西多摩郡檜原村にあった山城でした。標高449mの山上に築かれていました。平山氏の居城ですが築城時期は不明です。城の下を当時、武蔵と甲斐を結ぶ唯一の街道が通っており、この街道を押さえる城でもあったのです。
平山氏は、戦国時代後期には北条氏に臣従した。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、北国軍の前田利家・上杉景勝らが攻め寄せ、八王子城が落城した際に、檜原城主・平山氏重(平山長寿)や残党らと、檜原城にて籠城しましたが落城しました。
その他東京にあった数多くの城については下記の記事をご
ご参照下さい。
「東京にあった数多くの城(1)世田谷城と八王子城」2020/10/28
「東京にあった数多くの城(2)渋谷城と片倉城」2020/10/30 
 「東京にあった数多くの城(3)品川氏館と高月城」2020/10/31
「東京にあった数多くの城(4)立川市のもとになった立川氏館と小山田城」
2020/11/03

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

「自分で歩き回る地方史探訪、八王子城、滝山城、片倉城の歴史」

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の西の郊外は多摩地方と言います。私が住んでいる小金井市はそのほぼ中央にあります。趣味は自分で多摩地方を歩き回って各地の地方史を探訪することです。教科書に載っていない地方史です。20年くらい続けました。
例えば多摩地方にあったいろいろなお城の址地に行って写真を撮りその歴史を調べるのです。
八王子城、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡、石神井城、高幡城などの跡地へは何度も行きました。
今日は城主の名前が不明のままの八王子城、滝山城、片倉城の跡地の写真を示し、それぞれの歴史をご紹介したいと思います。
さて平安時代末期、鎌倉時代と歴史が流れ、やがて室町時代の「応仁の乱」に至ると関東地方は群雄割拠の戦国時代になります。
そのころ各地に城が沢山作られました。しかし江戸時代以前の城については文献が少なくて詳細が分かっていません。
僅かに残っている文献から江戸という名前は現在の東京に最初に根拠地を置いた武家、江戸重継に由来しているようです。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の江戸城の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたと考えられています。
その後の15世紀の関東の戦乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城しました。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめと書いてあるそうです。
ですから太田道灌が1457年に築いた江戸城が現在の東京の発展の出発と考えることも出来ます。
1600年に徳川家康が江戸に幕府を置いてから260年余の江戸時代が始まりました。
現在の東京の江戸時代の歴史はかなり詳しく知られていますが、それ以前の歴史はあまり明確には判っていないのです。
その理由は現在の東京都内にあった城や館の大部分は江戸時代に消えてしまって記念碑や説明板だけが残っているに過ぎません。
しかし郊外の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多くあります。往時の様子が偲ばれます。
私は引退後にこれらの城跡をかなり丁寧に見てまわりました。車で行って、あまり人のいない城跡の写真を撮りました。八王子城から説明を始めます。
1番目の写真は八王子城の見取り図です。
http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/hatioujisi.htmから転載させて頂きました。
 
2番目の写真は八王子城の主殿跡の広場です。当時の鍋や食器が多数発掘されました。以下の全ての写真は同行した家内が撮ったものです。

3番目の写真は八王子城の主殿跡に入る門のあった場所の石組です。
この八王子城の城跡には当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されています。発掘調査も行き届き、説明板も丁寧に明快に書いてあります。
次は滝山城です。

4番目の写真は滝山城から見た多摩川の遠景です。

5番目の写真は滝山城の入り口にある曳き橋です。敵が攻め込んで来たら引いて倒してしまう曳き橋です。滝山城跡には壮大な規模の城跡がそのまま残っています。
八王子と滝山城の城主は北条氏昭でした。小田原城からやって来て関東地方の西部を統治していたときに住んでいました。武田信玄に何度か侵入されましたがその都度撃退しています。
八王子城と滝山城は小田原の北条一族が関東一円を支配していた時代の数多くあった北条一族の城の一部だったのです。
このように城主が分かったいる場合もありあすが、誰が作ったかさっぱり判っていない城跡もあちこちにあるのです。一例は片倉城です。
鎌倉時代よりも前の山城と推定されていますが、誰が作ったか不明です。

6番目の写真は片倉城の跡地です。本丸跡の広場です。
7番目の写真は片倉城の本丸跡にある住吉神社です。
片倉城のように誰が作ったかが分からない城跡が多摩地方には沢山あるのです。深大寺城も誰が作ったか確定されていません。築城した人が判っていない城跡が意外に多いのです。
高幡不動の裏山に登ると頂上に土塁が残っていて、素人目にもある時代に城があったことが分かります。その裏山を下りて高幡不動の和尚さんの一人に尋ねました。しかし文献が無いから知らないの一点張りでした。ただ発掘調査で、鎌倉時代よりも古いと推定されていると言っていました。
学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。地方の歴史は解っていないので教えられません。地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多いことに驚きます。歴史の闇に消えてしまった事実が沢山あるのです。

さらに書けば東京には江戸城の他に、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどもあるのです。
これらの城や館は天正18年の秀吉勢の小田原城攻撃によって一斉に降伏します。関東一円の北条一族の城や館が揃って秀吉勢に降伏してしまったのです。
その後、江戸に入った徳川家康は消滅した数多くの城や館を再び利用することはありませんでした。
直轄領として代官を派遣する場合に、川越城や土浦城や行田城は代官の館として利用しただけで、その他の数多くの戦国時代の城は意図的に歴史の闇に葬ったのです。文献も消えてしまったのです。
これらの数多くの城や館にはそれぞれ主がいて、家族がいて、武士集団が住んでいたのです。それが江戸時代になると消えてしまったのです。歴史の闇に消えてしまったのです。
それにしても城の数の多いのに驚かされます。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像されます。
現在私が住んでいる東京の多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多いのです。しかし城跡は発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土します。現地の歴史資料館に行くと展示してあります。それにもかかわらず多摩地域の詳しい歴史はよく判らないままです。

今日は現在の東京に残っている江戸時代以前の城跡についてご紹介いたしました。皆様かの住んでいらっしゃる土地にも江戸時代以前の城跡や館跡がたくさんあると思います。その詳しい歴史は解っているでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「現在、北朝鮮では木炭トラックを使用中」

2023年08月30日 | 写真
現在、北朝鮮では木炭トラックを使用中なのです。
写真の出典は、https://www.jiji.com/jc/d4?p=nkr456-SGR_1043&d=d4_dd などです。

1番目の写真は元山から平壌に移動中に見かけた白煙を上げる木炭車です。(2013年06月23日)

2番目の写真は地方都市でよく見かける木炭車です。(咸鏡北道)(2013年09月21日)

3番目の写真も地方都市でよく見かける木炭車です。 
4番目の写真もよく見かける木炭車です。

「広々とした夢の島公園と港の見えるレストラン」

2023年08月30日 | 写真
夢の島公園の中央には陸上競技用のトラックがあり、その端の海側にはユーカリの大木の見事な林があります。この公園は実に広々としています。広大な駐車場も北と南にあります。明治道路に面した正門から入ると広い芝生に覆われた運動場や子供の遊ぶ広場があります。その向こうの海岸沿いにバーベキュー広場があり、第五福竜丸展示館があり、巨大な熱帯植物用の温室があり、スポーツ会館がありで、何でも揃っています。そして荒川へ出る海側にはヨットとモーターボートの係留用の港があります。マリーナの2階には港を見降ろして食事が楽しめるレストランがあります。そのような風景写真をお送り致します。

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「爽快な秋晴れ!海が見たくなったら夢の島公園へ!」

2023年08月30日 | 写真

爽快な秋晴れが続きます。そんな日には急に海が見たくなります。以前もそうでした。私の家から新宿まで電車で30分。「りんかい線」へ乗り換えて、終点の新木場まで30分。広大な「夢の島公園」に着きます。

「夢の島公園」には東京湾で唯一の本格的マリーナがあります。その写真をお送り致します。秋空の下に輝くヨットの写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。028 032034 045


「嗚呼、懐かしい木炭自動車の姿」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
戦中、戦後、日本ではガソリンが無くなり、木炭自動車が走っていました。
バスは後ろに大きな窯を背負って、坂道に来ると乗客が降りて押しています。私も一家で海水浴へ行く時のバスは決まって木炭バスでした。坂にくると父が他の乗客とともにバスの後を押していました。あれ以来、70余年、すっかり忘れていました。ところが最近、日常的に木炭自動車を使っていた老境の人に会いました。その方は昭和19年まで木炭自動車を運転していたそうです。
木炭自動車とは木炭を縦形の大きな窯で燃やして、一酸化炭素ガスを発生させて、それをエンジンへ適量の空気と共に供給し、爆発させ、シリンダーを上下させ、車を動かすそうです。
ガソリン車へ木炭窯を取り付け、少しの改造で出来るそうです。実際に使っていた方の話では、一番大変な仕事は3時間毎に灰や燃えカスを取り出して、炭が燃え上がるようにする作業だそうです。出発する時も、30分前から炭を燃やさないとエンジンが回らないので毎日の仕事が大変だったそうです。それに遠方へ行く時は木炭を多量に積んで行かなばなりません。
そんな苦労をしても自動車は多くの人間を乗せて遠方まで行けるので重宝したそうです。
現在は完全に消えてしまったのかと調べて見たら、広島に木炭自動車の博物館がありました。木炭自動車館です。
( 木炭自動車とレトロ車館、ttp://www.mokutancar.com/html/process.html )
その他少数の人が趣味的に動かしているようです。
木炭自動車館のHPから木炭自動車の写真を示します。
1番目の写真は戦中、戦後に日本で一般的に使われていた木炭バスです。
2番目の写真は第二次大戦中のドイツで使われていた木炭乗用車の写真です。日本でも走り回っていました。
3番目の写真は戦争中に日本で使われていた木炭トラックです。

4番目の写真は最近の木炭乗用車の写真です。少しの人が趣味的に使っているようです。
さて木炭自動車館ができた経緯です。
昭和初期は、ガソリンを買うのが難しい時代でした。
支那事変半ばより、ガソリンが統制と配給の時代になり、木炭自動車が増えました。大東亜戦争に突入し、経済封鎖のためガソリンがますます入手困難になります。そんな事情で木炭自動車が普及したのです。
そして2009年03月に広島市に木炭自動車館が出来たのです。
 (http://www.mokutancar.com/html/process.html )
木炭自動車は、日本では昭和12~13年から20年頃までに使用されていました。現在の趣味的な木炭車は昔の設計を少し改良して全てステンレスで製作したものです。4番目の写真です。(http://www.mokutancar.com/html/whatmokutancar.html )

今日は懐かしい木炭自動車をご紹介いたしました。昭和12~13年から20年頃までに使用されていた自動車でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

「厳しい残暑!小さい秋が待ち遠しい!」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はもう8月の29日です。秋の涼しい日を思い浮かべますが、朝から太陽がギラギラ照って今日も残暑が厳しくなりました。
せめて気分だけでも涼しい秋の日を想うように願い、「小さい秋」という言葉について書いてみたいと思います。
「小さい秋」とは台風が幾つか過ぎてから来る秋のことのようです。そして「小さい秋」は落ち葉の下や森の中に隠れているのです。そっと吹く風や紅葉した木の葉にも。
秋が来るとと毎年、「小さい秋見つけた」という歌がラジオやテレビから流れて来ます。そして昔は路地に子供達の「小さい秋見つけた」の歌声がしました。そうして気分爽快な季節になったことに幸せを感じます。
皆様もこの歌をご存知と思いまが、次の動画にこの歌があります。

『小さい秋見つけた』、【作詞】サトウハチロー、【作曲】中田喜直
1.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   目かくし鬼さん 手のなる方へ
   すましたお耳に かすかにしみた
   呼んでる口笛 もずの声
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

2.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   お部屋は北向き くもりのガラス
   うつろな目の色 とかしたミルク
   わずかなすきから 秋の風
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

3.誰かが秋をみつけた 小さい秋をみつけた
   昔子供の頃に見た色あせた風見鶏は
  とさかにハゼの葉が引っかかっていたのを覚えている
  ハゼの葉は赤くて夕日のような色をしていた
   私は小さい秋をみつけた
   小さい秋 小さい秋
   小さい秋 見つけた

この歌は1955年にNHKの特別番組『秋の祭典』の楽曲の1つとして中田喜直が作曲しました。1962年にキングレコードから発売されました。

小さい秋とは何を意味するのかは分かりません。
詩人のサトウハチローの心象にある秋のイメージなのでしょう。
私の小さな秋のイメージに浮かぶ写真を2枚示します。
秋の栗や柿の写真の出典は、https://colocal.jp/topics/lifestyle/shodoshima/20150928_54427.html です。

この詩はサトウハチローが木の紅葉する情景を見たのが作詞のきっかけとなったそうです。
自宅の文京区弥生の庭に写真に示したような「はぜの木」が植えられており、この木の紅葉する情景を見たのです。
このハゼの実の写真の出典は、https://iyashi.midb.jp/detail/4103?id=4103 です。
少し説明が理屈っぽくなりましたが、「小さい秋」は秋の気配を感じるものなら何でも良いのです。
道端にあるススキの穂でも野原に何気なく咲いている野菊や萩の花でも良いのです。あるいは自宅の庭の片隅に隠れるように咲いている彼岸花でも良いのです。

今日は「小さい秋」を想い浮かべながら涼しい日々が来るのを願いたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「豪華なホテルの写真を見ても戦後の食料難の時代を忘れないようにしよう!」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
前の記事、「思い出のホテル(最終回)箱根の宮ノ下のクラシックホテル、富士屋ホテル」 の写真を見ても戦後の食料難の時代を忘れないようにしよう!と自分を戒めています。
戦後はひどい食料難の時代でした。餓死する人も絶えませんでした。飢餓の時代だったのです。
その飢餓の時代には不味いカラス以外は野鳥も捕って食べました。鴨や雉や山鳥は勿論、罰当たりの人は神社の鳩まで捕って食べました。鳩はフランス料理で使われるくらい美味しいそうです。
美しい白鷺が全国で見られるようになったのは食料難の時代が過ぎてからです。
私もシジュウカラやメジロやスズメを焼き鳥にして食べた強烈な経験があるのです。それは実に美味しいものでした。特にスズメは美味しかったのです。

豊かで綺麗なホテルの写真を見るたびに戦後の食料難の時代を思い出します。
===参考資料==========================
「1000万人が餓死するといわれた終戦直後の日本」
https://president.jp/articles/-/60700?page=2

終戦直後の食料難である。このとき、供給面では、米は大凶作だといわれた。東京・深川の農林省の倉庫には、東京都民の3日分の米しかなかった。多くの人が海外から引き揚げてくるので、需要は増加する。輸入はゼロである。戦前は、朝鮮や台湾という植民地からの米輸入があったが、それもなくなった。巷間では1000万人が餓死するといわれた。
米、麦、イモなど多くの食料は政府の管理下に置かれ、国民は配給通帳と引き換えに配給公団から食料を買った。配給制度である。ただし、このときは、アメリカからの穀物援助で糊口ここうをしのいだ。また、1945年は、農林省の統計が予測したほどの不作ではなかった。
写真は1946年2月に新橋にあったヤミ市です。ヤミ市を仕切っていた関東松田組の名前が見えます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E5%B8%82 )



「思い出のホテル(最終回)箱根の宮ノ下のクラシックホテル、富士屋ホテル」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
自分が泊ったホテルのことを書いていたらキリが無いので今回で終了します。
さてクラシックホテルとは横浜のホテルニューグランド、日光金谷ホテル、箱根の宮ノ下の富士屋ホテル、軽井沢の万平ホテル、奈良の奈良ホテル、それに上高地の帝国ホテルなどのように創業が明治期で、昔のヨーロッパのホテル文化を背負ったホテルのことを言います。
これらのホテルには、奈良ホテル以外は全て泊まったことがありますので、その素晴らしい魅力について書いてみます。
箱根、宮ノ下の富士屋ホテルをご紹介いたします。2016年04月22日 に泊りました。まずその時の写真を示します。
1番目の写真は明治18年創業の箱根の宮ノ下の富士屋ホテル・花御殿です。戦前の長い間、外人専用のホテルとして営業していたので建物は外人好みのいささか悪趣味なデザインと色彩になっています。チャップリンやヘレンケラーやマッカーサー夫妻やヨーロッパの王族たちが泊まった時の彼等のサインが写真とともに廊下に展示してあります。アメリカ占領軍の接収解除後は一般の日本人に開放されました。
2番目の写真は泊まった部屋からの眺めです。新緑は良いのですが富士山も芦ノ湖も見えない宮ノ下に建っています。
3番目の写真は泊まった部屋の室内の様子です。天井がやたらに高くスチーム暖房の古いヨーロッパのホテルの部屋のようです。デスクの引き出しに聖書と仏教解説本が入れてあります。大きなテレビが違和感を与えています。家具は古い木造で使い勝手は良くありません。バスルームとクローゼットがやたら大きいのでびっくりしました。
4番目の写真は重厚なソファーが並んだロビーの外の庭園です。裏山がせまっていて広い庭は作れません。それでも新緑が池に写っています。大きな鯉も悠然と泳いでいます。

さてこの冨士屋ホテルや金谷ホテルや万平ホテルなどのクラシックホテルの欠点は料金が高いことです。
例えばクラシックホテルの一泊二食つきの料金は普通の旅館の2倍から3倍するのです。しかし客の少ない季節や平日は普通の旅館くらいになります。その割引料金の日は沢山あってネットで検索すると出てきます。そしていろいろな旅行会社が安い宿泊のセットを売り出しています。
クラシックホテルのもう一つの欠点は全ての施設が老朽化しているのです。老朽化はしていますが保守や整備は完全に行っていますので冷暖房も機能していますし熱いお湯もちゃんと出ます。掃除も完璧です。
しかし家具調度が古色蒼然としているので決して明るい気分にはなりません。
このように欠点のあるクラシックホテルに何故多くの人が泊まりに行くのでしょうか?
その限りない魅力とは何でしょうか?懐旧の情をそそるからでしょうか。食事の美味しさでしょうか。
しかしクラシックホテルの最大の魅力は従業員のサービスの質の高さにあるのです。箱根、宮ノ下の富士屋ホテルそのサービスの素晴らしさは感動的です。この魅力は書いて説明するのが難しいものです。
夕食の時のウェイターのサービスぶりをご説明いたします。まずウェイターの立ち居振り舞いが静かで過不足が無いのです。料理の説明が押し付けがましくないのです。食べ終わった皿を持って行くタイミングが絶妙です。

5番目の写真はウェイターのサービスの質が高い富士屋ホテルのダイニングです。
クラシックホテルの夕食のサービスには何時も感心します。このサービスの良さは朝食のウェイトレスも同様です。そして全てのスタッフ、掃除人も丁寧な挨拶をしてくれるのです。人みな優しい気持ちになれるのがこのホテルの魅力なのでしょう。
そして最後に強調したいことはクラシックホテルがヨーロッパ文化の良い点を2つ持っていることです。
その一つは古い昔の伝統的な建物や家具を大切にしていることです。
もう一つの最大の魅力はどんなお客でも差別しないで人間として平等に接してくれることです。これは一般の日本旅館と違います。
私は貧乏な学生時代に旅館で嫌な思いをした経験があるのです。お金持ちで馴染みのあるお客だけに親切にし貧乏な学生には冷たいのです。
そこで漱石の「坊ちゃん」のようにお金を仲居さんに渡したりしました。
日本のクラシックホテルではチップを渡さなくても差別しません。その上、お客と従業員が平等な人間として優しく接してくれるのです。
これこそがクラシックホテルの最大の魅力なのです。このサービスの質を落とさないようにするために、従業員を良質な人間にする教育にお金がかかるのです。ですから宿泊料金が日本旅館より上になっているのでしょう私は理解しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「思い出のホテル(12)ザ・ウインザーホテル洞爺の華麗さと有為転変」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
長い人生で数多くのホテルに泊りました。仕事の出張で泊まったホテルは特別な印象はありませんが観光旅行で泊まったホテルには印象深いものがあります。それらのホテルの一例は北海道のザ・ウインザーホテル洞爺です。ご紹介したいと思います。
このホテルは洞爺湖を見下ろす山の上に建っています。周囲の風景が良く、その上内装が華麗で美しいホテルです。2014年12月10日に泊りました。
ウインザーホテル洞爺は絨毯が厚く、その模様が落ち着いた美しい柄で感動的でした。その上ホテル内の壁紙や装飾が実に華やかです。ケバケバしくない品の良い華やかさです。
そこでホテルの外観と内装の写真をお送りします。華麗な内装の美しさもお楽しみ下さい。外観の写真以外は家内が撮った写真です。






最後の写真は私どもが食べた朝食です。窓の下に洞爺湖が広がっています。
さてウインザーホテル洞爺の内装は華麗です。しかしそのかげには経営の破たんによる有為転変があったのです。
そんな苦難の歴史があったような気配を感じさせない従業員の態度には別の意味で非常に感動しています
それでは、http://biz-journal.jp/2014/05/post_4766_2.html  よりの抜粋を以下にお送り致します。
このホテルには有為転変の歴史があり、経営が破綻した北海道拓殖銀行の乱脈融資により生まれたと「バブルの殿堂」としても知られていました。
不動産会社カブトデコムの子会社エイペックスが700億円を投じて1993年6月に開業した会員制の高級ホテルのエイペックス洞爺が前身でした。
イタリア産の大理石張りのロビーなど贅を尽くした建物は、バブルならではの産物でした。
 しかしバブルは崩壊し、同ホテルのオープンを境にして、巨額融資した拓銀とカブトデコムの関係が悪化します。
カブトデコムの創業者・佐藤茂氏の手形訴訟事件や拓銀幹部の背任問題などの不祥事が続出したのです。そして97年11月、バブル崩壊で多額の不良債権を抱えた拓銀が破綻しました。エイペックスも98年3月に自己破産を申請しました。負債総額は949億円に上ったのです。
そんな中、同ホテルに救済の手を差し伸べたのがセコムだった。2000年、セコムグループのセコム損害保険の子会社、十勝アーバンプロパティーズがホテルの土地・建物を60億円で購入し、施設を改装してザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパと名前を変え、2002年6月に営業を再開したのです。
2014年4月2日、セコムは土地・建物と、保有株式を全て売却すると発表します。同日、売却先の明治海運と基本合意書を締結しました。
2014年3月24日、新会社の株式会社ザ・ウインザー・ホテルズインターナショナル(北海道洞爺湖町、代表取締役社長 丹生雅之 明治海運取締役)を設立しました。不動産及び新会社の株式が明治海運に譲渡され、同年7月1日より明治海運グループとなったのです。

以上いろいろ煩雑な経過をご紹介したのは日本のバブル経済の崩壊の混乱と悲劇を忘れないようにと祈るからです。ウインザーホテル洞爺は一つの例に過ぎません。日本中で同じような悲劇が起きたのです。
ウインザーホテル洞爺の楽しい思い出とともに私は日本のバブル崩壊の悲しみを忘れません。華麗な観光ホテルのほとんどは一方で苦難の道を歩んだのです。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

「土間にむしろを敷いて寝ていた秘境、秋山郷の悲惨な生活」

2023年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
秘境とは人の住んでる山奥の秘密の集落のことです。豊かな自然に包まれ秋には紅葉が山々を美しく飾ります。しかし常に飢饉がある山奥です。人々は掘っ立て小屋の土間にむしろを敷いて寝ています。昔の秋山郷ではそんな人々の生活が長年続いていたのです。写真を見ると生活の悲惨さがよく分ります。

1番目の写真は昔の秋山郷の家を復元した家です。
「日本民家集落博物館 信濃秋山郷の民家」、https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/f225c4feb4ff54ee1f1d676bcdceb5ff から転載しました。家にはガラス窓が無く藁壁で覆われています
2番目の写真は屋内の部屋です。土間に筵を敷いて寝ています。囲炉裏を囲んだ掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしていました。
3番目の写真も屋内の部屋です。土間に筵を敷いて生活しています。床が無く地面と同じ高さです。囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。
こんなだった秋山郷も現在は観光客が多く行くようになりました。
特に「日本の秘境100選」というものに選ばれてからは観光客が増えました。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の秘境100選 をご覧下さい。
そして秋山郷へ観光用の小型バスが通れる道路が開通しました。
私どもも2012年の10月28日にこの秘境を小型バスで訪ねました。
秋の秋山郷の山々は美しく華やかな紅葉に彩られていました。その間の曲がりくねった道を小型バスがゆっくり走ります。バスの上から撮った秋山郷の紅葉の写真をお送りします。
4番目の写真は秋山郷を覆う山々の紅葉です。
5番目の写真は蛇淵の滝です。
6番目の写真は秋山郷の曲がりくねった道を行く小型バスです。
写真のような風景を眺めながら私は鈴木牧之の『秋山記行』や『北越雪譜』を考えていました。
「北越雪譜」にはこの秘境で飢饉が何度も起きたことが克明に書いてあったのです。ですから美しい紅葉を見ても悲しい気分になります。
悲劇が繰り返し起きた秋山郷の紅葉は悲しみの色です。飢饉で亡くなった人々の鎮魂のための紅葉に見えたのです。
日本は山国と言いますが、こんな山奥に何故人間が住むのでしょうか?
飢饉で部落全部が死に絶えたという歴史を繰り返しても、山奥に連綿と人が住むのは何故でしょうか?
秘境の秋山郷はあまりにも山深いのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。
それが江戸時代に鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告したのです。
食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。
魚沼郡塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。
そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。しかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。
カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。

現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。
紅葉の山並みが幾重にも折り重なり、深い谷が小型バスを飲み込みそうで怖い道行きでした。
秋山郷は現在13の山間集落の総称です。新潟県の8つの集落と長野県の5つの集落があります。すべて深い深い山奥にあり現在でも交通が不便で都会とは隔絶した文化を有している所です。
この秋山郷のような秘境が日本には100も散在しているのです。
秘境は美しい所ですが悲しい歴史を背負った場所なのです。悲しい歴史があるから自然の美しさが一層深いものになるのでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日のカトリック松原教会とカトリック関口教会の年間第21主日のミサの動画配信」

2023年08月27日 | 日記
カトリック松原教会の年間第21主日のミサの動画配信は、

カトリック関口教会の年間第21主日のミサの動画配信は、

広島のカトリック幟町教会の年間第21主日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=COomHXcJiKo です。

添付の写真は、東京の世田谷区のカトリック松原教会の写真です。

東京都世田谷区にあるカトリック松原教会は、1953年に淳心会が現在と同じ場所に上京する会員の宿泊地と布教の拠点として旧家を購入、修道院に造り変えたチャペルへ通う近隣の信徒の集会所として誕生しました。世田谷小教区の巡回教会の形がとられていましたが、1965年に聖堂(聖堂名: 聖母の汚れなきみ心)、教会施設と司祭住宅と同時に隣のオリエンス研究所が新築され、それに伴い、東京大司教区によってカトリック松原小教区として正式に設立されました。当初はわずかな人数から始まりましたが、現在では1270人を超える信徒が集う教会となっています。



「ホテルの思い出(9)志賀高原の熊の湯ホテルと高原の紅熊」

2023年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
長野県の志賀高原に初めて行ったのは1962年の冬にスキーに行った時でした。スキーコースが上級向けや中級用や初心者用と沢山あって規模雄大なことに驚きました。そしてその後、家内と一緒に何度か行きました。春、夏、秋と何時行っても自然豊かな山々と澄んだ水を湛える天然の池が美しい所なのです。
志賀高原で熊の湯温泉の熊の湯ホテルに泊ったことがありました。
熊の湯温泉は、昔小熊が傷をいやしているところ発見した為、熊の湯温泉と名づけられました。
ホテルの裏には日本最大のスキー場があり、ホテルを出て1分というスキーヤーには好条件の場所です。
熊の湯ホテルは大正年間創業と歴史ある温泉で、湯小屋などは昔の湯治場を思わせる雰囲気です。 元々熊の湯温泉と呼ばれるところは熊の湯ホテルのみでした。 写真を示します。

1番目の写真は現在の熊の湯ホテルです。私が泊まったころは質素なスキー客用の宿でした。

2番目の写真は熊の湯ホテルの湯です。濁った本物の温泉でした。

3番目の写真は熊の湯ホテルの現在の客室です。昔はこんなに綺麗ではありませんでした。
志賀高原ではスキー用のリフトが夏でも動いているので汗をかかずに山々の頂上に上がれます。
頂上からは北信濃の戸隠山や飯綱山や黒姫山が見えます。はるか遠方には北アルプスの山稜が白く輝いています。
ある時は熊の湯ホテルに3連泊して志賀高原に散在している数多くの美しい池を巡り歩いたこともありました。
志賀高原から東京への帰り道は長野県と群馬県の県境の渋峠を越え草津に出る志賀草津高原ルートで帰ります。風景が良く、途中に活火山の白根山があり中腹まで登ったこともありました。
志賀高原は思い出が沢山ある懐かしい曾遊の地です。そんなことを思い出しながら紅葉の写真をお送り致します。
4番目の写真は志賀高原の入口に位置する最初の池、一沼(山ノ内町)です。
写真の出典は、https://shinshu-style.com/nagano-region/town-yamanouchi/ichinuma/ です。
5番目の写真も一沼です。
一沼の周りにはヤマウルシやナナカマドがたくさんあり早い時期から色づき始めます。写真の出典は、https://shinshu-style.com/nagano-region/town-yamanouchi/ichinuma/ です。
6番目の写真は渋峠の紅葉です。国道の中で一番標高が高い場所で標高2171mです。長野県・群馬県の県境を越え、尾根筋を走る国道292号・志賀草津高原ルートです。
写真の出典は、
https://shinshu-style.com/nagano-region/town-yamanouchi/autumnleaves-shiga/ です。
7番目の写真は志賀高原の木戸池の紅葉です。
写真の出典は、
https://shinshu-style.com/nagano-region/town-yamanouchi/autumnleaves-shiga/ です。
8番目の写真は志賀高原の丸
紅葉です。
写真の出典は、

今日は「ホテルの思い出」の(9)として志賀高原の熊の湯ホテルをご紹介しました。そして高原の湖と周囲の紅熊風景をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人) 

「ホテルの思い出(8)横浜のホテル ニューグランドと中華街」

2023年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ホテル ニューグランドは横浜市の山下町にあり昭和2年に開業しました。
開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や喜劇王チャーリー・チャップリン米国の野球選手ベーブ・ルースなどが泊まりました。ダグラス・マッカーサーは1937年に新婚旅行の帰路と1945年の終戦後に滞在しました。終戦後の7年間は占領軍将校宿舎として接収されたのです。
また山口湖の富士ニューグランドホテルは横浜のホテル・ニューグランドの支店です。
私が元気の良い若い頃、中年と初老の頃までは何度も横浜へ遊びに行ったものです。異国情緒が溢れ、それに心惹かれて通ったのです。
写真をお送りしたいと思います。
1番目の写真は横浜のホテル ニューグランドの旧館です。泊まったことがありました。
2番目の写真は横浜のホテル ニューグランドの旧館と新館です。新館の後ろの中華街があります。

3番目の写真は客間です。泊った部屋のようです。窓の下は山下公園でその向こうが青い港で氷川丸が係留されていました。氷川丸も旅客機の普及で1960年に就航を止め山下公園に係留され公開されています。

4番目の写真は山下公園に係留され公開されている氷川丸です。入場料を払うと船内が見物出来ます。チャップリンの泊まった一等船室も見られます。この写真以下の全ての写真は家内が撮った写真です。
5番目の写真は昭和の雰囲気ただようニューグランドホテルです。
横浜は江戸末期に開港した港町です。現在、カトリック教会やミッションスクールのフェリス学院のある山の上には欧米人が住みました。外人墓地のある丘の上です。
山の下の町には中国人が住み、現在の中華街になったのです。
旅客機が普及する1960年頃までは、横浜こそが文字通り外国文化の窓だったのです。
6番目の写真は中華街の出入り口にある豪華な門です。この門の中に入るとそこは昔の中国の世界です。道教の関羽廟もあります。中国人が長い線香に火をつけて、膝まづいて三拝しています。
7番目の写真は中華街の風景です。何度か中華料理を食べに店にはいりましが中国人の応対が古い中国を感じさせます。
この中華街を訪問すると、ああ古い中国文化はこのようなものだったと感じるのです。高層ビルの立ち並んでいる現在の中国の町とは非常に違います。
8番目の写真はそして昔懐かしい崎陽軒です。真空パックをした現代風の崎陽軒のシウマイは全国で売っています。しかし真空パックをしていない作りたての素朴なシウマイは限られた店でしか売っていません。
シウマイの箱の中には小さな白い陶器の入れ物に入った醤油とカラシがついています。この白い陶器の醤油入れが戦前の昔のままなのです。崎陽軒の古いお客を大切するその気持ちも嬉しいのです。幸せを感じるのです。

9番目の写真は現在の大桟橋の風景です。横浜市は斬新な桟橋の設計を公募することにして、世界中へ呼びかけました。それは2002年のことでした。
その公募には660件の応募があり、その中から最優秀作品としてイラン生まれのファッシド・ムサヴィさんという女性とスペイン生まれのアロハンドロ・ザエラ・ポロさんという男性の2人の合作による設計が優勝したのです。その設計図に従って作られたのが現在の大桟橋です。この桟橋は徹底的に木造になっていますので、散歩していると実に気分が良いもです。
10番目の写真は大桟橋の客船の上から撮った横浜の中心街の夕方の風景です。
ここから豪華客船に乗り日本の各地へ船旅をしたのも思い出になっています。

思い返してみると随分、何度も子供達や家内と横浜へ遊びに行ったものです。貸自転車で市内を回ったり、古い洋館を訪ねたりしたものです。
異国情緒漂う横浜の残影を懐かしです。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)