後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「紅葉や花々を見てる間に社会ではいろいろな事があった」

2021年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
自分のことを書いて恐縮ですが、私共は東京オリンピックの1964年に都下小金井市に質素な家を作り住みつきました。もう57年になります。この家が終の棲家となりそうです。
小金井に来てから四季折々紅葉や花々を見ながら家族や友人たちと楽しく暮してきました。
春は花見、夏にはクワガタやカブトムシ探し、秋には月見の茶会、冬には雪合戦や雪ダルマ造りなどなど。 
特に晩秋になると都立小金井公園の樹木の紅葉を眺めて来ました。
広い公園にある樹々が紅葉し、葉が散り始める光景には寂寥感が感じられるものです。緑豊かだった夏が去り寒々とした風が落ち葉を巻き上げています。嗚呼、全てが死に絶える冬がやって来るのだと感じるのです。
そして両親や親類、恩人や友人の死を連想して、なんとなく溜息をつくのです。

想うのは個人的な悲しい別れだけではありません。戦前生まれ、戦後育ちの私にはどうしても戦後の大きな社会の変化が忘れられないのです。苦しい時代の数々のことが脈絡も無く思い出すのです。
思い出すことは沢山ありますが、あまりにも脈絡がありません。そこで帰宅してから年代順に調べてみました。
下は戦後の日本で起きたおもな出来事です。どうぞゆっくりご覧になって下さい。
例えば1972年(昭和47年)の2月3日に札幌オリンピック開催された頃のことは憶えていらっしゃるでしょうか?
1989年(平成元年)の頃、貴方はどのような生活をしていたでしょうか?
そんなことを想いながら以下の年表をご覧ください。

1945年(昭和20年)
8月14日 ポツダム宣言受諾。
8月15日 正午(日本時間。グリニッジ標準時午前3時) 玉音放送でポツダム宣言受諾が国民に公表される。
9月2日 戦艦ミズーリ艦上において降伏文書に調印(日本の降伏)。
1946年(昭和21年)
1月1日 昭和天皇の人間宣言。
11月3日 日本国憲法公布。
1947年(昭和22年)5月3日 日本国憲法施行。
1949年(昭和24年) ドッジ・ライン(安定恐慌)
                                 湯川秀樹氏ノーベル物理学賞受賞
1950年(昭和25年) 朝鮮戦争(朝鮮特需)。
1951年(昭和26年)9月8日 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧安保)調印。

1952年(昭和27年)4月28日 日本国との平和条約発効、日本の主権回復。
1954年(昭和29年)
3月1日 ビキニ環礁で水爆実験(キャッスル作戦)、第五福竜丸の乗組員が被曝する。
7月1日 自衛隊(陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊)設立。防衛庁(現在の防衛省)設置。
この年から、神武景気が始まる。
1955年(昭和30年)
10月13日 社会党の右派と左派が再統一され、日本社会党が成立。
11月15日 保守合同により自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が成立(「55年体制」の始まり)。
1956年(昭和31年)
10月16日 日ソ共同宣言調印。
12月18日 国際連合加盟。
『経済白書』で「もはや戦後ではない」という言葉が使われる。
1957年(昭和32年) なべ底不況。
1958年(昭和33年) 岩戸景気。
1960年(昭和35年)6月19日 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新安保)調印。
1962年(昭和37年)から、オリンピック景気が始まる。

1964年(昭和39年)
10月1日 東海道新幹線開通。
10月10日 - 10月24日 東京オリンピック開催。
1965年(昭和40年)6月22日 日韓基本条約を締結。
この年から、いざなぎ景気が始まる。
1966年(昭和41年) 日本の総人口が1億人を突破。
1968年(昭和43年) 川場康成氏ノーベル文学賞受賞。
1970年(昭和45年)3月14日 - 9月13日 日本万国博覧会開催。
1971年(昭和46年) ニクソン・ショック。

1972年(昭和47年)
2月3日 - 2月13日 札幌オリンピック開催。
5月15日 沖縄返還。
9月29日 日中共同声明調印。
1973年(昭和48年) 第一次オイルショック。
1976年(昭和51年) ロッキード事件。
1978年(昭和53年)8月12日 日中友好条約調印。
1979年(昭和54年) 第二次オイルショック。
1982年(昭和57年)11月27日 中曽根康弘が「戦後政治の総決算」を掲げ第72代内閣総理大臣に就任。
1985年(昭和60年)
4月1日 日本電信電話公社・日本専売公社が民営化、日本電信電話(NTT)・日本たばこ産業(JT)の発足。
1986年(昭和61年)から、バブル景気(平成景気)が始まる。

1987年(昭和62年)
4月1日 国鉄分割民営化。JRグループの発足。
1988年(昭和63年) リクルート事件。
1989年(昭和64年)1月7日 昭和天皇、崩御。
平成
1989年(平成元年)1月8日 皇太子明仁親王、天皇に即位。元号が平成に改められる。
1991年(平成3年)
6月5日 - 9月11日 初の自衛隊海外派遣(海上自衛隊のペルシャ湾派遣)。
12月25日 ソ連崩壊。
この年から、バブル崩壊(失われた20年)が始まる。

1993年(平成5年)8月9日 細川内閣成立により55年体制崩壊。
1995年(平成7年) 戦後50年
1月17日 阪神・淡路大震災発生。
3月20日 地下鉄サリン事件発生。
8月15日 村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」。

1998年(平成10年)2月7日 - 2月22日 長野オリンピック開催。
2000年(平成12年) ITバブル崩壊。
2002年(平成14年)5月31日 - 6月30日 サッカーワールドカップを大韓民国と日本が共催。
2005年(平成17年) 戦後60年。日本の総人口の減少が始まる。

2006年(平成18年)
9月26日 「戦後レジームからの脱却」を公約に掲げた安倍晋三が、自由民主党総裁及び第90代内閣総理大臣に就任(初の戦後生まれの総理大臣となる)。

2007年(平成19年)
1月9日 防衛庁が防衛省に移行。
5月14日 日本国憲法の改正手続に関する法律成立(5月18日公布)。
2008年(平成20年) 世界金融危機(リーマン・ショック)。
2009年(平成21年)9月16日 鳩山由紀夫内閣が発足(民主党による本格的政権交代が実現)。
2011年(平成23年)3月11日 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)・福島第一原発事故発生。
2012年 (平成24年) 尖閣諸島国有化。山中伸弥がノーベル賞受賞。Wii U発売。
2014年 (平成26年) 消費税改定(8%)。御嶽山噴火。赤崎勇がノーベル賞受賞。天野浩がノーベル賞受賞。中村修二がノーベル賞受賞。
2015年(平成27年) 大村智がノーベル賞受賞、梶田隆章がノーベル賞受賞。
2016年 (平成28年) 熊本地震、バラク・オバマの広島訪問、相模原障害者施設殺傷事件、大隅良典がノーベル賞受賞、PlayStation 4発売。
2017年(平成29年) ニンテンドースイッチ発売、2ちゃんねるが5ちゃんねるになる。
2018年 (平成30年) 平成30年7月豪雨(西日本豪雨)、オウム真理教事件の元幹部らに死刑執行、本庶佑がノーベル賞受賞。
令和期 
2019年 (令和元年) 明仁が徳仁に生前譲位。令和に改元。消費税改定(一部10%)。東日本台風。吉野彰がノーベル賞受賞。
2020年(令和2年) COVID-19の流行。予定されていた2020年東京オリンピック・パラリンピックが次年に延期。蒲田女児放置死事件、
2021年(令和3年) 大学入学共通テスト導入。東京オリンピック・パラリンピック開催。日本で新型コロナワクチン接種開始。阿蘇山噴火。京王線刺傷事件。

しかし、それにしてもいろいろな事があったのですね。紅葉や花々を見て気楽に暮らしてる間に社会では実にいろいろな事が起きていたのです。

皆様は戦後、どのように日々を過ごして来られましたでしょうか。紅葉の風景をご覧になって何を想うでしょうか?

今日の挿絵代わりの写真は今年閉園になった京王フローラル・ガーデンの花の写真です。何度も訪れた花園が閉園になるのは淋しいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







「冬に咲く葉牡丹、クレマチス、福寿草、ノースポールの花の写真です」

2021年11月29日 | インポート
いかがでしょうか。
冬は花のイメージが無いかもしれませんが、そんな季節に花を見つけると嬉しいですね。
写真の出典は、https://shikinobi.com/shikinohana_huyu/2 です。




「戦争の悲劇を忘れない(3)第二次世界大戦の戦没者数と未帰還遺骨 」

2021年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は豊かになった。経済的に繁栄したと人々は満足しています。毎日楽しく暮らせれば過去の嫌なことは忘れよう。今更、戦争の悲劇を思い出すのはまっぴらだ。そのように考えている人々も多いと存じます。
しかし私は戦争の悲劇にこだわるのです。それが真の平和を守るいしずえになると信じているからです。
今日は第二次世界大戦で戦没した各国の人々の数を示します。その後で日本人の113万柱の未帰還遺骨についてご報告します。
第二次世界大戦の日本人の莫大な犠牲者数は日本民族の歴史上で最大の悲劇であり絶対に二度と繰り返すべきではありません。
下の国別の犠牲者数の表をご覧下さい。この一覧表は一番正確な犠牲者数として外国のインターネットでよく引用されています。

この一覧表を注意深く見ると日本ではあまり知られていない事実が沢山あるのです。
気が付いた順に記します。
(1)日本の占領地のフィリピンとインドネシアで民間人の死者がそれぞれ最大、100万人と150万人だったのです。
(2)日本領だった朝鮮の人が兵士や軍属として最大47万人以上死にました。
(3)インド人は英国兵として87000人死にましたが、民間人も250万人死にました。
(4)日本軍によって中国人は400万人の兵士が戦死し、民間人を含めた合計2000万人が殺されました。残念ながら、これが世界の常識になっています。
(5)ドイツに占領されたソ連では合計2400万人の人が殺されました。
(6)日本人はあまり知りませんが犠牲者の多かった国々は次の通りです。
ブルガリア、チェコソロバキア、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、オランダ(インドネシアに居た人も含む)、ポーランド、ルーマニアなどです。
これらの国々の幾つかはドイツ側に立って戦争をしたのです。
(7)全世界の総合計です。兵士の死者は15,00万人で民間人の死者は45,00万人でした。総合すると全世界で6000万人の人が死んだのです。この6000万人の数は人類の歴史において空前のものです。

下に第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表を示します。
この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の合計の3項目が順に示したあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war  )

Japan、日本
 212万人
 260万人ー310万人

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属)
  38万人-47万人

Canada カナダ
 45,400
 45,400

China、中国
 3-4,000,000
 20,000,000

インドネシア
 --
 3-4,000,000

France、フランス
 217,600
 567,600

仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)
 --
 1-1,500,000

Germany、ドイツ
 553万人
 660万人-880万人

India、インド
 87,000
 1,500,000-2,500,000

Italy、イタリー
 301,4003
 457,000

Malaya、マレー半島
--
 100,000

Philippines、フィリピン
 57,000
 50万人-100万人

Poland、ポーランド
 240,000
 5,600,000

Soviet Union、ソ連
 8,800,000-10,700,000
 2400万人

United Kingdom(イギリス)
 383,600
 450,700

United States(アメリカ)
 416,800
 418,500

全世界の総合計、6000万人の死者
内訳、 Battle Deaths、15,000,000
    Battle Wounded、25,000,000
    Civilian Deaths(民間人の死者)、45,000,000

脚注;Worldwide casualty estimates vary widely in several sources.
The number of civilian deaths in China alone might well be more than 50,000,000.

そして第二次大戦後、責任を取って自殺したドイツの民間人の数は直後の4日間だけでさえ;ベルリンで1200人、ライプチッヒで600人、ハンブルグで450人、ケルンで300人が自殺したと新聞に出ていたそうです。4日間だけでの総計が2550人です。それに比較して日本では愛宕山にこもった民間人10人位とその他に僅かと言われています。
さらにシベリア抑留でドイツ兵が55万人死に、日本人は5万人死んだのです。

昭和時代の人類は狂気のように殺しあったのです。国家対国家の大規模な戦争によって殺しあったのです。
その昭和時代の太平洋戦争の為に海外で亡くなった240万人の犠牲者のうちまだ113万5千人の遺骨が日本へ帰って来ていないのです。
父や夫や息子や家族を戦争で失った遺族にとっては太平洋戦争は終わっていないのです。113万5千柱の遺骨が還らぬ限り太平洋戦争は終わっていないのです。
最近は若いボランティアも参加して、遺骨を探す努力をしています。しかしその努力は遅々として進んでいません。

 海外の戦没者の遺骨帰還の現状については以下の通りです。(平成23年8月12日現在)
 海外戦没者概数          約240万人
遺骨帰還概数            約127万柱
  未帰還遺骨概数         約113万柱
   うち 海没           約30万柱
相手国の事情(注)により御帰還が困難な遺骨 約23万柱
帰還が可能な遺骨(推計)        約61万柱

(注)国交がない(北朝鮮)、対日感情に配慮する必要がある(中国)など。
《厚生労働省ホームページ 報道発表資料 2011年8月 戦没者慰霊事業のお知らせ から》

今日は「戦争の悲劇を忘れない」の連載の(3)として第二次世界大戦の世界の各国の莫大な戦没者数を報告しました。その後で日本人の未帰還遺骨 が約113万柱あることを書きました。全世界で約6000万人の人間が戦争の犠牲になったのです。人類の歴史において空前の悲劇でした。
現在は平和で豊かな暮らしですが、私は時々このようなことを思い出します。私は戦争の悲劇にこだわるのです。それが真の平和を守るいしずえになると信じているからです。

今日の挿し絵代わりの写真は冬に咲く山茶花と椿の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







「今日からいよいよ待降節、クリスマスがやって来ます」

2021年11月28日 | 日記
今日は、待降節第一の主日のミサに行きました。カトリック小金井教会の今日のミサ風景の写真をお送りします。
クリスマスがやって来るという楽しい季節の始まりです。そしてお正月もやって来ます。
これからは何となく楽しい気分で日々を過ごします。幸運にも家内も私もいたって健康です。
皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘






「蔵王と麓の七ヶ宿町の紅葉の写真」

2021年11月27日 | インポート
仙台に生まれ、育ったので蔵王山には何度も登りました。特に東北大学が蔵王山に清渓小屋を持っていたので大学時代に登ったのも懐かしい思い出です。何度か刈田岳の登って、頂上のお釜を見下ろしたものでした。

懐かしい山なので麓の「七ヶ宿町の紅葉」を検索して美しい写真を何枚も見つけました。
その中から4枚お借りしてお送り致します。

しかし今年の紅葉も終わりです。もう紅葉の風景写真をお送りするのは終わりにいたします。長い間、紅葉の風景写真をご覧頂きありがとうございました。





「戦争の悲劇を忘れない(1)戦没画学生の遺作を見に行く」

2021年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代には第二次世界大戦と日中戦争などがありました。日本人の犠牲者は310万人以上と言われています。はかり知れない数多くの悲しい出来事がありました。どんなに平和な時代が続いても戦争の悲劇を忘れないことが大切と思います。二度と戦争をしないで平和を守るためにも時々戦争の悲劇を思い出すのが良いと信じています。

そこで今日は戦没画学生の遺作を見るために遥々信州の記念館へ行った私の体験をご紹介致します。
10年以上前のことでした。東京駅のギャラリーで戦没学生の油彩画と日本画の展覧会がありました。信州の記念館、無言館から借り出した絵です。召集され出征前の何日間に画学生が今生の想いを込めて描いた絵画です。
無言舘は、長野県上田市、別所温泉近くの山の中にあります。
感動した私はさっそく別所温泉に泊まって、翌日山の中の道を迷いながら無言館にやっと辿り着きました。
鎮魂という言葉を連想させる、修道院のようなコンクリート製の建物でした。
戦没画学生の作品を常設展示しています。館長の窪島誠一郎さんが全国の遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画です。集めた絵画は数百点あると言います。

1番目の写真は無言館です。私と家内は展示してある画学生の遺作の絵画を一枚一枚を丁寧に見て行きました。ガランとした館内に我々の足音だけが響きます。その足音は鎮魂の音楽のように響いたのです。
帰宅後、私は戦没画学生の作品を複写、掲載している画集を探しました。
そうしたら多数の遺作絵画は、NHKきんきメディアプラン発行、「無言館に遺された絵画」2005年版に掲載されていることが判りました。すぐにこの写真集を購入しました。

今日はこの写真集から8枚の戦没画学生の作品をご紹介いたします。

2番目の写真は杉原基司さんの「神戸東亜ロード」です。
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
戦死した後で妹が書いています。
・・・水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき兄は23歳の生命を散らしました。・・・

3番目の写真は金子孝信さんの「子供たち」です。
大正4年、新潟県生まれ。昭和15年、東京美術学校卒業。同じ年に入隊し、仙台の予備士官学校を出て、昭和17年5月27日に中国の華中の宣昌にて戦死。享年26歳。出征の朝までアトリエで天の岩戸を題材にした大作を描きつづけていました。見送りに来た友人に「これは自分の最後の作品。天地発祥のもとである天の岩戸に自分は帰っていくんだよ」と言って出征していきました。そしてそのとおりになったのです。姉を描いた美しい日本画もありますが、「子供たち」という題の日本画を掲載します。彼の家は代々、由緒正しい神社の宮司だったのです。
4番目の写真は岩田良二さんの「故郷風景」です。
東京美術学校卒、入隊後病気になり除隊、昭和24年11月24日病没。享年31歳。
飲まず食わずの行軍が病弱だった良二の体を壊したのです。息絶え絶えで復員。そんな彼を優しく迎えてくれたのが阿波、池田ののどかな風景でした。病床から見える光る吉野川、段々畑の広がりを何枚も、何枚も描いたのです。病気が治ったら東京へ行って絵の勉強をもっとしたいと言いつつ死んで行きました。しかし故郷の風景を再び見ることが出来た幸運に私の心も少しなぐさめられます。

5番目の写真は興梠 武さんの「編物をする婦人」です。
東京美術学校卒。昭和20年8月8日ルソン島、ルソド山にて戦死。享年28歳。
この絵は一番下の妹の絵。絵を描いて出征し、妹は間もなく病気で死にます。その報告を戦場で受け取った興梠 武さんは半狂乱になったそうです。
間もなく天国で二人は会って、静かに見つめあって暮らしていると信じています。ご冥福をお祈りいたします。

6番目の写真は山之井龍朗さんの「少女」です。
大正9年、横濱生まれ、絵画は洋画家だった父から習う。昭和16年出征。1945年5月9日、フィリッピン、ルソン島バギオにて戦死。享年24歳。
尚、龍朗さんの弟、俊朗さんも後から出征し、龍朗さんの戦死よりも前に戦死してしまったのです。俊朗さんは昭和18年4月26日南洋の海に沈む。享年21歳。
この絵はきっと妹の百合子さんを描いたものと思います。

7番目の写真は日高安典さんの「無題」です。
大正10年、名古屋生まれ。絵画は独学。昭和18年出征。昭和20年4月15日、フィリピン、セブ島にて戦死。享年24歳。
弟さんの話、「戦死の知らせは安典の名を書いた紙切れが一枚入っている白木の箱が一つ届いただけなんです。いつも剛気で涙などみせることのなかった母が、あの時だけは空の箱を抱いて肩を震わせて泣いていたのをおぼえています。」

8番目の写真は蜂谷 清さんの「祖母の像」です。
大正12年、千葉県、佐倉に生まれる。絵画は独学。昭和18年出征。
昭和20年7月1日、フィリッピン、レイテ島にて戦死。 享年22歳。
「ばあやん。わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる」と言いつつ丁寧に、丁寧に描きあげた祖母の像です。ばあやんの「なつ」は清を特にかわいがったのでした。
戦争がはじまってしばらくした日 清は慈愛の祖母なつの肖像画を描く。なつの眼、口もと、鼻、頬、顎、手・・・・  その皺一本一本を、けっして見逃すまいとするように清は精魂込めて画布にきざみこんだのです。

9番目の写真は芳賀準録さんの「風景」です。
大正10年、山形県に生まれる。昭和15年、東京美術学校入学。昭和18年出征。昭和20年2月2日、フィリッピン、ルソン島にて戦死。享年23歳。
兄弟姉妹は準録の幼い頃からの画才に期待しやさしく見守っていたのです。

私は何度も戦没画学生のこと、無言館のことを思い出します。20歳30歳台で亡くなった画学生達、若すぎます。嗚呼。そして絵画も何も残さず命の灯を消されてしまった2百万人余の兵士達の無念を想います。
戦前の昭和11年に生まれた私は折にふれて太平洋戦争のことをいろいろと思い出すのです。

そんな想いの中から今日は信州の無言館訪問の思い出と戦没画学生の油彩画と日本画をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「冬の花、園芸種の花の写真」

2021年11月26日 | 写真
冬は温室で咲かせた園芸種の花が花屋さんの店を華やかにします。
そんな花々の写真をお送り致します。
1番目の写真はパンジー、ビオラです。
パンジー、ビオラは、冬の花壇を彩る代表的な花です。毎年、新しい品種が登場し、新品種を楽しみにしている人も多いです。株姿や花はパンジーもビオラもなかなか見分けがつかず、比較的大きな花が咲くものをパンジー、花が小さいものをビオラと呼ぶことが多いです。

2番目の写真はクリスマスローズです。
クリスマスローズの名前は、イギリスやドイツなどと同じ気候の地域で育てると、クリスマスの時期にバラに似た花を咲かせることに由来しています。品種改良が盛んに行われている花のため、色はもちろん、咲き方などのバリエーションが豊富です。

3番目の写真はネリネ(ダイヤモンドリリー)です。
ネリネは、ヒガンバナ科の球根植物です。花びらが日に当たるとキラキラと光り輝く特徴があるため、ダイヤモンドリリーとも呼ばれています。開花時期は10月中旬~12月中旬頃です。

4番目の写真はサイネリア(シネラリア)です。
サイネリア(シネラリア)は、濃淡のグラデーションが美しい花を咲かせるキク科の植物です。カラーバリエーションに富んでおり、さまざまな色合いの寄せ植えを楽しめます。開花時期は11~5月頃です。

以上の説明文は、https://magazine.cainz.com/article/43409 から転載しました。

「日常の買い物風景、面白くない写真です」

2021年11月26日 | 写真
今日は気持ちの良い小春日和です。午後から妻と近所のス-パーに食料品を買いに行きました。
野菜や果物から肉、パンなどを買いました。写真をお送り致します。

日常の買い物なので面白くもない写真です。でもキャベツの緑が美しいです。






「晩秋の清瀬市金山緑地の風景写真を撮りに行きました」

2021年11月25日 | 写真
晩秋の午後の公園は陽射しも弱々しいく淋しい風景です。樹々の紅葉も終わりの色合いです。散り敷いた落ち葉が美しい絵になっています。
そんな風景写真を撮ろうと清瀬市の金山緑地まで車を走らせて行って来ました。
晩秋の公園の風景写真をお楽しみ下さい。







「私は中国文化に憧れる時代遅れの老人です、嗚呼」

2021年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
高校時代に良い老先生から漢文を習いました。そして叔父は漢文学の研究者でした。また1980年代に2人の中国人の親友が出来、北京や瀋陽の彼等の自宅に招待されました。1980年代は熱烈な日中友好の時代でした。中国の何処へ行っても知らない中国人が親し気に話しかけて歓迎されました。こうして私は中国が大好きになってしまったのです。
今日はそんな中国のことをご紹介いたします。
まず日本人なら誰でも好きになる楽しい中国の奥地の農村の風景写真をお送りします。何故か郷愁を搔き立てる風景です。



これら4枚の写真の出典は、「中国の農村風景」、
http://japanese.china.org.cn/travel/txt/2018-03/13/content_50703606.htm です。
中国の南西部の少数民族の農村には昔ながらの美しい風景が広がっているのです。魅惑的な農村風景です。
見たこともない風景ですが郷愁を誘います。歴史の重みを感じさせる農村です。こんな風景を含めて私は中国が大好きになってしまったのです。ですから漢文の文化圏というものがもっと団結して西洋文化に対抗すべきだいと思っています。
この考えは昔の良い意味での大東亜共栄圏というものに一部繋がります。
私は時代遅れの老人なのです。嗚呼。
ですから日本と中国、韓国、台湾そして可能なら北朝鮮はもっと協力しあって欧米諸国と対抗した方が良いと考えています。昔ながらの漢字文化圏の団結を忘れてはいけなではという主張したいのです。まあ、はっきり言えば時代遅れな考えです。
文化と言えば文学や芸術を主に意味します。しかし人間の経済活動も文化の一部です。以下では文学や芸術を割愛して中国の経済活動を取り上げます。
中国の経済力、GDPが世界で2位になり、やがてアメリカを抜いてトップの座につこうとしているからです。
日本と中国、韓国、台湾のGDPを合計すれば大きな数字になります。ですからこれらの国が団結すれば大きな発言力になるのです。日本の過去の武力侵略の歴史を克服して協力関係を築くべきなのです。

5番目の写真は1980年から2021年まで世界の主要国のGDPのの推移を示す図面です。この図の出典は,各国のGDP、http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html です。

この図を見ると中国のGDPの増加は驚異的で、2025年には間違いなくアメリカを抜いて世界一になる勢いです。
従来の歴史において、アメリカのGDPを抜いた国は皆無だったのです。これは破天荒なことです。
今後、中国はアメリカと並んで世界経済の秩序の規範を決めるようになると考えられています。もっとも中国人一人あたりのGDPはまだまだ低いのです。
しかし中国全体のGDPを考えると、アジアの一国である中国が世界秩序の主導権の一角を握るようになるのは確実です。
これはアジアの国々にとって喜ばしいことです。欧米人のアジアへの見る目が変わります。今までは何となく蔑視していたアジアが世界経済に大きな影響力を持つようになるのです。
日本もこの状況への対応を適切に行えば日本の運命も非常に素晴らしいものになるのです。日本の立場が強くなるのです。
日本はアメリカと安保同盟を結び、軍事的にはアメリカの支援があれば日本の安全を守れます。中国なんか怖くありません。ですから日本人は中国の経済力を過小評価する傾向があります。
しかし経済力は軍事力の支えなのです。その意味でも中国の経済力とその中国が作ろうとしている巨大経済圏のことを客観的に理解すべきと考えています。

少し詳しく書きます。世界全体のGDPに占める各国の2017年の比率を考えてみましょう。
中国の15.5%と日本の6.4%とインドの3.1%とを加算すると25、0%になります。この数字はアメリカの24、4%よりも多いのです。
この中国、日本、インドの合計の25%に韓国と台湾のGDP加えればアメリカのGDPを遥かに抜いてしまうのです。
さらにインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、ミャンマー、バングラデシュなどのDGPを加えればアジアには巨大な経済圏が既に出来ているのです。
21世紀はまさにアジアが台頭する時代なのです。
中国はこの情勢に乗じて中国主導の経済圏を作ろうとしています。一帯一路を中心にした中国主導の巨大経済圏構想です。
中国政府は中国から西方のアジア諸国、ロシア、中東諸国、ヨーロッパ諸国にまたがる広大な地域を一帯一路でつなぎ巨大な経済圏を作ろうとしています。
一帯とは陸路でつなぐ経済圏で一路とは海路でつなぐ経済圏です。

何故か日本のマスコミはこの中国の一帯一路経済圏に関するニュースが非常に少ないのです。いたずらに尖閣諸島の問題だけに大騒ぎしています。木を見て森や山を見ていません。

中国主導の巨大経済圏構想に対して韓国や台湾はどのような対応をしているのでしょうか? 報道がありません。もっと日本と韓国や台湾との緊密な協力が必要ではないでしょうか?
世界を動かすのは今やアメリカ一国だけでなくなり、中国も世界を動かし始めたのです。
中国は共産党独裁の国だから付き合いは止そうという考えは現実的でありません。国際経済はイデオロギーや宗教とは関係無くダイナミックに動いて行くものです。

以上が私の今日の主張です。私は中国文化に憧れる時代遅れの老人です、嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「菜の花畑はフランスにもあります」

2021年11月24日 | 写真
菜の花畑は世界中にあります。
この欄の記事の読者の方の幾人かはフランスにお住まいです。
そこでフランスの菜の花畑の写真をお送り致します。

写真の出典はインターネットで「フランスの菜の花畑の写真」を検索して、多くの写真から美しい写真を選びお借りしました。




「炎上した国宝、金閣寺を再建した慈海住職の心暖まる人柄」

2021年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム
国宝の金閣寺は1950年(昭和25年)7月2日に放火されて完全に焼失しました。放火したのは金閣寺の見習い僧侶で大谷大学学生の林承賢でした。この林承賢の世話をしていたのが住職の慈海さんでした。
昨夜のNHK、BSテレビでは金閣寺炎上事件を詳しく伝えていました。ご覧になった方も多いと存じます。
まず再建された現在の金閣の写真と昭和25年以前の写真を示します。
1番目の写真は現在の国宝、金閣寺です。
2番目の写真は昭和25年以前の焼失前の金閣寺の写真です。
昨日の金閣寺炎上に関する番組では三島由紀夫と水上勉の金閣寺炎上を題材にした作品を紹介し、関連した人々について詳しいことを伝えていました。流石にNHKらしく取材も行き届いて内容の深い番組でした。とくに放火した林承賢とその母親の不幸な人生の描き方も過不足無く分かり易かったです。しかし私が一番感銘を受けたのは慈海住職の心温まる人柄でした。
そこで今日は慈海住職だけのことを書きます。

3番目の写真は金閣寺の焼け跡に呆然と立つ慈海住職です。

慈海住職がどんなに暖かいのか箇条書きにします。
1)放火犯、林承賢のことは一切非難しません。記者にクドクド聞かれても、「私の不徳です」と答えるだけです。弟子の承賢が放火したのですから師匠の不徳が100%原因と信じ込んでいるのです。自分は悪いが承賢は悪くないと
ないと思っているのです。
2)懲役7年になった承賢は恩赦で5年で出て来ます。そして間もなく病死します。事件直後に京都に馳せ参じた母親も帰りの汽車から投身自殺します。
慈海さんは哀れに思い2人に美しい戒名をつけ位牌を金閣寺に祀って供養しました。
3)慈海さんは刑務所にいた承賢へ本や食べ物を5年間差し入れたのです。
4)焼失した金閣寺を再建するため慈海さんは単身、托鉢に打ち込みます。同情した人々が寄付をします。やがて財界も動き出します。こうして5年後に金閣寺は見事再建されたのです。慈海さんは徒手空拳でした。

結論です。慈海さんは心優しい本物の仏教徒だったのです。

しかし慈海さんは人間です。全能ではありません。吃音で内向的で病的な承賢の心の闇を見抜けなかったです。放火しようとしている心の葛藤が見えなっかのです。

金閣寺炎上にはいろいろな悲劇が重なっていたのです。とても考えさせる番組でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ポインセチアの写真をお送り致します」

2021年11月23日 | 写真
冬になると花屋さんの店にシクラメンとポインセチアが並びます。

そこで今日はポインセチアの写真をお送り致します。クリスマス
が近づき楽しい気分が溢れます。
写真の出典はインターネットを検索して美しい写真を選びお借りしました。