後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「土間にむしろを敷いて寝ていた秘境、秋山郷を訪問した」

2024年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
秘境とは人の住んでる山奥の秘密の集落のことです。豊かな自然に包まれ秋には紅葉が山々を美しく飾ります。しかし常に飢饉がある山奥です。人々は掘っ立て小屋の土間にむしろを敷いて寝ています。昔の秋山郷ではそんな人々の生活が長年続いていたのです。写真を見ると生活の悲惨さがよく分ります。
1番目の写真は昔の秋山郷の家を復元した家です。
「日本民家集落博物館 信濃秋山郷の民家」、https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/f225c4feb4ff54ee1f1d676bcdceb5ff から転載しました。家にはガラス窓が無く藁壁で覆われています
2番目の写真は屋内の部屋です。土間に筵を敷いて寝ています。囲炉裏を囲んだ掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしていました。
3番目の写真も屋内の部屋です。土間に筵を敷いて生活しています。床が無く地面と同じ高さです。囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。
こんなだった秋山郷も現在は観光客が多く行くようになりました。
特に「日本の秘境100選」というものに選ばれてからは観光客が増えました。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の秘境100選 をご覧下さい。
そして秋山郷へ観光用の小型バスが通れる道路が開通しました。
私どもも2012年の10月28日にこの秘境を小型バスで訪ねました。
秋の秋山郷の山々は美しく華やかな紅葉に彩られていました。その間の曲がりくねった道を小型バスがゆっくり走ります。バスの上から撮った秋山郷の紅葉の写真をお送りします。
4番目の写真は秋山郷を覆う山々の紅葉です。
5番目の写真は蛇淵の滝です。
6番目の写真は秋山郷の曲がりくねった道を行く小型バスです。
写真のような風景を眺めながら私は鈴木牧之の『秋山記行』や『北越雪譜』を考えていました。
「北越雪譜」にはこの秘境で飢饉が何度も起きたことが克明に書いてあったのです。ですから美しい紅葉を見ても悲しい気分になります。
悲劇が繰り返し起きた秋山郷の紅葉は悲しみの色です。飢饉で亡くなった人々の鎮魂のための紅葉に見えたのです。
日本は山国と言いますが、こんな山奥に何故人間が住むのでしょうか?
飢饉で部落全部が死に絶えたという歴史を繰り返しても、山奥に連綿と人が住むのは何故でしょうか?
秘境の秋山郷はあまりにも山深いのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。
それが江戸時代に鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告したのです。
食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。
魚沼郡塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。
そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。しかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。
カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。
現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。
紅葉の山並みが幾重にも折り重なり、深い谷が小型バスを飲み込みそうで怖い道行きでした。
秋山郷は現在13の山間集落の総称です。新潟県の8つの集落と長野県の5つの集落があります。すべて深い深い山奥にあり現在でも交通が不便で都会とは隔絶した文化を有している所です。
この秋山郷のような秘境が日本には100も散在しているのです。
秘境は美しい所ですが悲しい歴史を背負った場所なのです。悲しい歴史があるから自然の美しさが一層深いものになるのでしょうか。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「写真で見る絶滅寸前のロシアの少数民族」

2024年08月31日 | 日記
趣味として私は世界の民族についてあれやこれやと調べています。
そんな趣味で集めたヨーロッパに住んでいる少数民族の写真をお送りいたします。今回は北方の少数民族に限ります。
1番目の写真はマンシ族の住居の夏の風景です。マンシ族はロシアのハンティ・マンシ自治管区の先住民です。ハントィとは近い親戚の意味で現在、およそ12,000人がロシアで暮らしています。写真の出典は、『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ… ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.html です。
2番目の写真は街に出て来たマンシ族の家族の写真です。
3番目の写真は昔のサーミ民族の家と民族衣装を着た家族の写真です。このような家には住んでいましたが現在は近代的な家に住んでいます。テントは夏だけ使うトナカイの放牧地の休憩用で、中で焚火をして弁当を食べたりコーヒーを淹れます。このような民族は北欧からロシアの西北部のかけて住んでいます。サーミ民族はラップ人とも呼ばれています。
4番目の写真はコリャーク族です。
犬ぞりのマッシャー(乗りて)はイルピリ村の住人です。
カムチャッカの北部に暮らすこの民族は現在6,000人しかいません。世界で最も北に住む民族の一つです。写真の出典は、『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ… ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.html です。
5番目の写真はンガナサヌィ族です。
この民族はロシアのクラスノヤルスク州のタイミル地方に住んでいます。ユーラシアの一番北で暮らす民族です。860人です。自称は「ニャ」(友という意味)です。
6番目の写真はロシアのドルガヌィ族です。
テュルク諸語を話す民族の中で世界で一番北に住む民族です。ロシア正教を伝えたコサックたちはドルガヌィ人に自分達の苗字を与えたのです。クドゥリャコフ、ジャルコフ、チュプリン、ポロトフ等でその苗字は今でも残っている。
現在8000人以下でクラスノヤルスク州とサハ共和国で暮らしています。
7番目の写真はイテリメン族です。カムチャッカ半島の先住民です。「イテンメン」(「ここに住んでいる」)という名前の発音が変化しこの様な呼び方になったそうです。

「アフリカの多数の民族とマサイ族」

2024年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
アフリカには3000もの民族がいて2000種類以上の言語が使われています。その多様性は他の大陸とは較べられない多様性です。
例えばアフリカの民族を示せば次のようになります。
 
ヌバ族 アンコレ族 トゥンブカ族 グロ族 ...
 
アングロアフリカン イラク族 アルシャ族 ...

レンディーレ族 イッサ族 ムーア人 ...

ゴンベ族 アムハラ人 ドゥル族 ...

アンガス族 コファ族 バントゥー系民族 ...

イガラ族 トングェ族 クナマ族 ...

ガモ人 ショナ人 ドゴン族 ...

ネグリロ ンゴニ族 キッシ族、などなどです。

以上のようにあまりにも多数なのでそれぞれの民族の詳細は省略いたします。

そこで日本でも有名なマサイ族だけ一例としてご紹介します。

マサイ族はケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民で、人口は推定20 - 30万人程度と推測されています。

垂直ジャンプを繰り返す独特の踊り文化で有名です。 村で一番高く跳べる男性が、村で一番綺麗な女性をめとることができるのです。

本来は定住せず牛やヤギなどの家畜の遊牧で生計を立てる遊牧民でした。現在では都市にも住み観光ガイドや密猟の監視員などの定職を持って暮らしているマサイ族も多いのです。

伝統的マサイ族の住居は牛糞と泥をこねて作った小屋です。この掘っ立て小屋をサークル状に配置し、外側をさらに木の柵で囲うのが村の伝統的なスタイルでした。夜になると放牧していた牛やヤギなどの家畜をこのサークルの内側に入れ、野生の猛獣から家畜を守ります。

一夫多妻制で牛(財産)を多く持つ男は何人も妻をめとることができるが、牛を持っていない男は女性に相手にされず、結婚も恋愛も難しいものです。牛が不足すると他部族の牛を略奪します。成人男性は猛獣退治や牛の放牧以外の労働をせず、普通の仕事は全て女性や子供が行っている。

ここでマサイ族の写真を示します。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%82%A4%E6%97%8F です。

さてマサイ族の主食は牛乳と牛の生血です。近年ではチャパティ・米飯などの炭水化物も日常食となっています。牛乳をギブユという瓢箪に入れて作った原始的なヨーグルトや、牛の血を抜いてそれを牛乳と混ぜ合わせた飲み物もあります。客人が来たときのお祝い事などでは動物を殺して肉食をすることもあるが、大切な家畜を潰してしまうことになるためごくまれです。魚は全く食べなく野菜を食べることもごく少ない。

それぞれの村ごとに長老がいて物事を決定する原始的な長老制です。戦士階級であるモランはこの長老の下に属し、未だ修行中の身分とされている。男性は生涯に必ず一度はモランとなります。モランは槍で武装し、独自の槍術を使います。このほか相撲に似た格闘技も存在し、彼らはこれらを駆使してライオン、豹をはじめとする猛獣とも渡り合うのです。

さてアフリカと言えば奴隷貿易に触れなければなりません。15世紀から19世紀までの500年にはアメリカ向けの奴隷貿易で、700-1200万人のアフリカ人が奴隷として輸出されました。しかしその後、「反奴隷貿易の協定」がアフリカ50カ国以上の国々で締結され奴隷貿易は終わったのです。

以上、アフリカの多数の民族を紹介し、一例としてとマサイ族について詳しく説明をしました。そして奴隷貿易についても簡略に記しました。それにしてもアフリカ大陸には3000もの民族がいて2000種類以上の言語が使われている事実は驚異的です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「マレー半島にあるマレーシアの文化と経済」

2024年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
マレー半島にあるマレーシアは、人口の6割をマレー系、3割を華人系、1割をインド系の国家です。3つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じって並存するマレーシアは、民族構成がきわめて複雑な国のひとつであり、多民族国家であります。しかし熱烈な親日国です。
首都はクアラルンプールで工業と農業が主な産業です。
まず首都はクアラルンプールと農業地帯の写真を示します。

さてこの国の政治と経済を簡略に書きます。
マレーシアのマハティール元首相が「日本に手本にした国造りをする」という「東方政策」を長期間推進してきました。そのこともあり世界有数の親日国家です。 また日本製品や日本食に対する信仰も高く日本に対する信用は絶対的なものです。
マレーシアの領土はマレー半島南部およびボルネオ島北部です。立憲君主制国家です。
1980年代以降はマハティール首相の主導するルック・イースト政策で工業化を遂げることに成功しました。
歴史的には13世紀 に アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わりました。そして1400年 に マラッカ王国が成立したのです。
政治と経済については下記からの抜粋です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
日本との関係
対日関係については、「ルックイースト政策」を掲げたマハティール政権とそれを継承したアブドラ政権の下で緊密な関係が維持されました。トヨタや日本航空、イオンなどの日本企業のマレーシアへの進出し密接な関係を築いてきたのです。
日本が事あるごとに太平洋戦争の謝罪外交をすることについて「いったい、いつまで謝罪外交を続けるのか。自信を取り戻し、アジアのため世界のためにリーダーシップを発揮してほしい」と日本を励ましていたのはマハティール首相でした。
中国との関係
マレーシアは東南アジア諸国としてはシンガポールに次いで華僑の割合が高く、中国文化の影響が強いために中華圏扱いされること多いのです。中華料理店がよく見られ、多くの中国系マレーシア人が芸能人として中国・香港・台湾・シンガポールなどの中華圏で活躍しています。
近年経済台頭する中国に対しマレーシアは国内に住む華僑住民とのつながりを生かして中国に接近しています。
マレーシアと中国は伝統的な友好国です。2014年にはマレーシア軍は中国と初の合同演習を始め2015年、2016年にも行いました。
経済
IMFによると、マレーシアの2013年のGDPは3,124億ドルであり、一人当たりの名目GDPは10,548米ドルでした。2015年の1人あたり国民総所得(GNI)は10,570米ドルであり[、世界銀行による高所得国の基準である12,476ドルにはわずかに及ばず高・中所得国に位置づけられました。日本(2015年1人あたりGNI36,680ドル)、シンガポール(同52,090ドル)、香港(同56,878ドル)、ブルネイ(同37,320ドル)などには遠く及ばないものの、一人当たりのGDPが10,000ドル以上という数値は、アジアの熱帯地域の中では珍しく高い方であり、東ヨーロッパのロシア(同11,400ドル)やルーマニア(同9,500ドル)、クロアチア(同12,690ドル)などと同水準です。
工業化の成功

マハティール首相時代にさまざまな分野において国産化を推進する政策を打ち出しました。なかでも国産車 (National Car) については、日本の三菱自動車の技術を導入した自動車メーカー「プロトン」や、同じく日本のダイハツ工業の技術を導入した小型車メーカーのプロドゥアを設立し、政府の手厚い保護もあって国内シェアの約6割を両社で占めるようになります。またアジアやヨーロッパ諸国への輸出も行われています。
ほかにもルノーやデルコンピュータなどの外国企業の工場の誘致、港湾の整備、空港や鉄道などの各種交通インフラの充実など、主にインフラ整備と重工業の充実を中心とした経済政策を積極的に行い成果を上げています。
食文化
イスラム国家ですが多民族であることから非ムスリムの華人や外国人は飲酒も可能であり、豚肉も食べたりと非常に食の自由度が高いのです。特に中華系移民の間から発祥したマレーシアでしか味わえない食べ物もあり、中でも肉骨茶であるバクテーは人気が高い料理です。
南国なので果物は非常に多彩であり特にドリアンはもっともポピュラーな果物のひとつで、屋台などで売っています。

今日はマレー半島にあるマレーシアの文化と経済をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「南アメリカのアマゾンの少数民族と山岳地のケチュア族」

2024年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は南米のアマゾン地域の少数民族と山岳地域に住むケチュア族をご紹介したいと思います。

ブラジルの大地にはアジアから移住して行ったモンゴル系の先住民族の暮らしがありました。1500年当時の先住民族の人口はブラジル全土で300万人以上だったといわれています。
さらに最近の研究ではアマゾン地域だけで800万人もの先住民族がいたという仮説すら出されています。
ブラジル全国の先住民族の現在の人口はおよそ90万人で、そのうち48%の人がアマゾンに暮らしています。
ブラジルの先住民族は、305の民族で274の言語という多様性な社会です。
1500年以降、植民地化が進められ先住民族は病気や虐殺などにより人口を減らしました。
1957年には、全国にわずか7万人が残るにすぎませんでした。その後、先住民族全体の人口は回復に転じましたが、小さな民族や言語の消滅はいまも進行しています。先住民族保護区は全国に505ヶ所あり、先住民族の57.7%がそこに暮らしています。
保護区の総面積は国土面積の12.5%にあたる107㎢で、うち98.33%がアマゾンに集中しています。カヤポ民族はアマゾン熱帯林保護への貢献が評価されて、2015年に国連が設置する「赤道賞」を受賞しました。
アマゾンの深い森にくらす先住民族は、森のめぐみと、森がはぐくむ川のめぐみを糧に生きています。畑で作物を育て、川で魚をとり、森のけものを狩る自給自足のくらしです。森の中の焼畑では主食となるマンジオッカ(キャッサバイモ)を作ります。家のすぐ裏の小さな畑ではサツマイモやカボチャなどを作ります。

先住民族の生活の中に祭りはとても重要な位置をしめています。死者の魂を送る祭り、3日3晩歌い踊り続ける女たちの祭り、子どもから大人になる通過儀礼、などなどです。祭りの背景には森羅万象に精霊が宿ると考えるアニミズムの世界観が横たわっています。祭りの日、ボディペインティングと羽根飾りの正装で身を整えた人たちで村は色鮮やかににぎわいます。写真はアマゾン地域の少数民族です。

1番目の写真はアマゾン地域の少数民族の家です。細い横木をはさみ込むようにして茅をかけていきます。骨組みは木の皮を剥いだものを縄のように使って縛りつけてあります。屋根を葺く材料はサペーと呼ばれるイネ科の植物です。村のまわりには茅場が何ヶ所かあって、大切に利用されています。

2番目の写真は祭りの踊りです。祭りの日、ボディペインティングと羽根飾りの正装で身を整えた人たちで村は色鮮やかににぎわいます。

3番目の写真は祭りの日の子供達です。子供達もボディペインティングと正装で身を飾ります。

4番目の写真も祭りの日の羽根飾りです。

さて次にクスコ周辺の山岳地に住むケチュア族をご紹介したいと思います。(https://www.andina-travel.com/blog/peru190825/ )

インカ帝国の時代、クスコは巨大な帝国の都として栄えました。そして近郊のウルバンバ谷は皇帝の避寒地として農作物の試験場として重要な役目を担いました。クスコやウルバンバ谷周辺は、インカ文明の中枢であったのです。

インカ文明を興したケチュア族は、今も南米大陸のアンデス山脈沿いに広く暮らしています。今もかつての生活風景を連想させるカラフルな民族衣装をまといケチュア族の文化を守り続けています。クスコから1時間も車を走らせると農村の風景が広がります。起伏に富んだ地形で畑を牛で耕し手作業で収穫をしています。
今もインカの神々への信仰を大切にしているので、農作業の間にも大地の神や太陽神への祈りを何度も見かけることができます。伝統文化と信仰は不可分であり神様と生活は一体なのです。先祖から伝わる祈りの道具を使いトウモロコシの発酵酒“チチャ”やコカの葉を大地に捧げ祈ります。アンデス山脈とケチュア族の繋がりに信仰を支えています。陽気に農作業をしながらも、どこか哀愁を感じさせる目で世界を見つめ少しシャイなのがケチュア族の人々の性格です。そんなケチュア族の写真をお送り致します。

5番目の写真はケチュア族の夫婦です。背景はアンデス山脈です。

6番目の写真は農作業の合間に女がトウモロコシの発酵酒“チチャ”を大地に捧げ祈っている場面です。

7番目の写真は男が収穫したトウモロコシの出来具合を見ている場面です。


今日は南米の平野のアマゾン地域の少数民族と山岳地のケチュア族をご紹介致しました。

 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「北極圏に住むイヌイット民族の家と捕鯨」

2024年08月30日 | うんちく・小ネタ
現在、カナダで生活をする「イヌイット」は北極地方、特に北米大陸の北端と北極諸島沿岸部で生活している。地球上で最も寒冷な地域に太古の昔より居住、生活し続けて来た稀有な民族である。
その民族の家は2種類あり狩猟用の簡単な雪の家と定住用の集落にある立派な家があります。

1番目の写真は狩猟用の簡単な雪の家、イグルーとスノーモービルの写真でし。

2番目の写真は定住用の集落にある立派な家です。
イヌイット民族の伝統的な食生活は主に肉食で、主にオットセイやセイウチ、クジラ等を捕まえて食べていました。また、トナカイを狩る事もあります。ワシントン条約などで狩猟が規制されているイッカクなどの動物についても、イヌイットは狩猟が認められているのです。
近年は都市化が進み、スーパーマーケット等で食品を購入して食べています。
また、衣服や靴は古くは獣の皮を剥いで作った毛皮製の物でしたが、現在は洋服店や靴屋、ネット通販等で購入した市販の洋服や靴が一般的です。
さて北極海は栄養分が豊富なので、アザラシ、セイウチ、クジラなどが多く生息しています。イヌイットが多数の生活する地域はカナダのヌナブット準州です。
日本の面積の5.5倍の広大な土地にイヌイット民族が3万2000人しか生活していないのです。
捕鯨活動の食文化の特徴は生食が中心であり料理といわれるものはほとんどありません。
脂肪を多く摂取し、植物繊維はあまりとらずに高タンパク質、高カロリー食です。狩猟した鯨の生肉もをみんなで分かち合うことも特徴です。捕鯨に関連した写真を4枚お送り致します。 

以上に北極圏に住むイヌイット民族の家と捕鯨をご紹介いたしました。

「私の趣味は民族の文化や社会を調べること、一例はタイ」

2024年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
自分は若い頃からいろいろな民族に興味がありました。いろいろな民族の文化や社会を調べることが趣味でした。文化人類学が趣味でした。
いろいろな民族の日常的な行動や街の様子を調べると、その地域に根づく文化や社会などのしくみが分かるのです。「人間とはどんな生き物か?」ということ興味があるのです。現地の生活に入り込んで調査するフィールドワークにも興味があります。
そんな私の趣味で取り上げた民族は、ドイツ人、アメリカ人、アイヌ、中国人、そしてインドネシア、ベトナム、タイ、ミャンマーなどの諸民族です。
そこで日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教の違いを分かり易く書いてみます。大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違いは次の2つになります。

(1)上座部仏教では200以上の戒律を守らなければ釈迦の教えを理解し悟りの境地に至らないと教えています。戒律を守るために出家するのです。
一方、大乗仏教では殺生戒以外の戒律はありません。出家しなくても釈迦の教えを理解し悟りの境地に至ることが出来ると言う教義です。

(2)上座部仏教では釈迦を最高位に据えて崇拝します。
一方大乗仏教では全知全能の宇宙神の盧舎那仏や大日如来が人々を教え導くために釈迦になったという教義です。従って釈迦は宇宙神の化身です。誤解を恐れずに書けば釈迦は盧舎那仏や大日如来の部下なのです。家来なのです。このように大乗仏教では抽象的な概念が仏像になっているのです。これは中々理解し難い教義です。

そして大乗仏教の仏像には観音様や薬師如来や弘法大師像やお不動さんなど沢山あります。しかし上座部仏教では像は釈迦像だけです。ここが決定的違いです。

さて上記のことをもう少し厳密に示します。
上座部仏教では上記のように具足戒(出家者の戒律)を守る比丘・僧伽(サンガ(教団))と、彼らを支える在家信徒の努力によって初期の釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされています。
大乗仏教では後代の時代ごとに仏典やお経が作られましたが、上座部仏教では同一の内容のパーリ三蔵が継承されて来ています。

このように日本の大乗仏教とミャンマー、タイ、ベトナムの上座部仏教と比較してみると日本仏教の特徴が簡単に分ります。
3枚の写真はタイの托鉢の風景とお寺の写真です。写真はインターンットからお借りしました。



続いてタイ王国の風景をお送り致します。
首都バンコックの写真と地方の風景写真を4枚お送り致します。写真はインターンットからお借りしました。

さてタイと日本は第二次世界大戦の前から強い絆がありました。
1942年には日泰文化協定が締結され、柳沢健を館長に日泰文化会館がバンコクに建設されることになったのです。しかし日本の敗戦により完成しませんでした。
現在、タイにおける在留邦人は81,000人以上も住んでいます。(2020年10月)。世界有数の在留邦人社会があるのです。
タイは親日国なのです。、アサンプション大学ABACポール研究所の世論調査によると、タイ人が一番好きな国は日本なのです。
またタイは高度経済成長をしました。
経済の安定や外国企業の積極的な進出を背景に、1980年代以降の高度経済成長はすさまじく、1985年から1995年にかけての10年間、タイは年間平均9%の経済成長率を記録しました。
タイ統計局によると2015年のタイのGDPは約3,952億ドルであり、東南アジアではインドネシアに次ぐ経済規模です。同年の1人あたりのGDPは5,742ドルであり、隣国のカンボジア、ラオス、ミャンマーよりはるかに高い上、先述のインドネシアよりも高い数値となっています。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD でした。

今日は私の趣味は民族の文化や社会を調べることです。一例としてタイの文化や社会をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「竹山道雄作、『ビルマの竪琴』」

2024年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
竹山道雄作、『ビルマの竪琴』のあらすじ

1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術が無かった。

そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んでいた。隊員たちは歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ」の演奏はお手の物で、部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。

ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備を整える。小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で『埴生の宿』を歌い始めた。両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされる。降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。

収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。彼は、肩に青いインコを留らせていた。隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。

大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませる。数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。隊員たちは我を忘れ、涅槃仏の胎内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。

やがて小隊は3日後に日本へ復員することが決まった。隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。歌う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。

出発前日、青年僧が皆の前に姿を現した。収容所の柵ごしに隊員たちは『埴生の宿』を合唱する。ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。彼はやはり水島上等兵だったのだ。隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ (ここで) 別れよう!)いざ、さらば。」と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行った。

翌日、帰国の途につく小隊のもとに、水島から1羽のインコと封書が届く。そこには、彼が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。

水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するものの、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。ところが、実は彼らは人食い人種だった。彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。

やがて祭りの日がやってきた。盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされる。ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナッの祀られた木が激しくざわめきだす。村人たちは「ナッ」のたたりを恐れ、慄く。水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。

ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、蛆が涌く遺体の山に衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。

水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。

手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。

写真の出典は、https://www.necoweb.com/neco/program/detail.php?id=6551 です。

「ミャンマーの中央を南北に流れるイラワジ川」

2024年08月29日 | 写真
ミャンマーを南北に流れる、全長2000キロの大河イラワジ川はこの国の人々にとって祈りの場です。
ヒマラヤ山脈に源を発するイラワジ川は、ミャンマーの人々にとって希望の大河です。人々はここで洗濯をし、飲み水をくみ、流れに沿って移動するのです。

「昔のビルマ、ミャンマーとは?銃撃により犠牲者多数」

2024年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昔のビルマは現在、ミャンマーという国です。軍事政権が支配しています。その軍隊が2021年にデモ隊を銃撃する事件が起きたのです。3年前の残忍な事件です。
2021年の4月4日までデモ隊を軍が銃撃し犠牲になった人は550人を超えました。ミャンマー国軍は残忍にもデモに参加している市民を容赦なく銃撃しました。子供だろうが、女性だろうが、ただの通行人だろうが銃口を向けたのです。(https://www.afpbb.com/articles/-/3340440?pid=23221381 )
テレビで軍人が市民を銃撃している光景を見た私は衝撃を受けました。戦場で銃撃しているのではなく平和な街で人を至近距離で撃っている光景は初めて見ました。

1番目の写真はデモの光景です。写真は2021年2月7日、ミャンマーの最大都市ヤンゴンで行われたクーデターへの抗議デモです。クーデターは2月1日に起きました。(https://www.tokyo-np.co.jp/article/84611 )

今日は軍が政権を握り市民を銃撃したミャンマーとはどんな国なのか簡単に書いてみます。
ミャンマーは第二次大戦中にアウンサン将軍らによってビルマという国名で独立しました。アウンサン将軍は「ビルマ建国の父」と言われています。この国の民主化をしたのがアウンサン将軍の娘のアウンサン・スーチーです。

2番目の写真は「ビルマ建国の父」と言われているアウンサン将軍です。

3番目の写真は民主化を主導したアウンサン・スーチーです。1945年にアウンサン将軍の娘として生まれました。
さて1989年に国の名前がビルマからミャンマーへ変わったこの国はどんな国なのでしょうか?
この国はインドシナ半島の西部にあり、約67万平方キロメートルの広さがあります。日本の約1.8倍です。人口は推定5404万人ほどで、米作りが盛んで、国民の約9割が仏教徒です。公用語はビルマ語ですが、1948年まで英国の植民地だったことから、英語を話せる人も多いのです。
人口のうち70%をビルマ族が占め、カチン族、シャン族、カレン族などの少数民族が25%を占めています。それ以外には中国人やインド人が暮らしています。

4番目の写真はミャンマーの稲作の風景です。

5番目の写真はお寺で僧たちが祈っている光景です。
このように平和な仏教国で何故残酷なことが起こったのでしょう。原因ははっきりしています。
「ビルマ建国の父」と言われているアウンサン将軍以来、国軍が長く独裁的に政権を握っていたからです。
1948年に英連邦に参加せずビルマ連邦共和国として独立したのち、1962年のクーデター後、ビルマ社会主義計画党のネ・ウィンの独裁政権となります。ネ・ウィンは事実上、軍事政権で1988年まで長期にわたって政権を握っていたのです。しかし1988年に民衆の民主化運動でネ・ウィン体制は崩壊しました。民主化を危惧したミャンマー国軍がクーデターを起こして軍事政権を開始し、国名をミャンマー連邦に改名したのです。
さてここで民主化の旗手、アウンサン・スーチーが登場するのです。
彼女は1988年3月に母が危篤との知らせを受け、病気の母を看護するためイギリスから4月2日にビルマに戻ります。
アウンサン・スーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向けて演説を行ったのです。
それに対抗して国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権が誕生しました。
民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出たと言います。
その後いろいろなことがありましたが省略します。
結局、2011年には総選挙で軍事政権が敗北し正式に解散しました。そして名目上の文民政権が発足したのです。これにより拘束されていたアウンサン・スーチーや政治犯が釈放れます。
2015年に行われた画期的な選挙では、アウンサン・スーチーの党が両院で過半数を獲得したました。
しかしミャンマー軍は依然として政治に大きな影響力を持ち続け、2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、非常事態を宣言したのです。国軍トップのミン・アウン・フライン最高司令官がミャンマーのトップになったのです。
これに反対する多く市が各地で大規模なデモを繰り広げたのです。国軍は銃撃して徹底的に鎮圧しました。2021年2月1日、ミャンマー軍はアウンサンスーチー国家顧問と大統領を拘束し、軍事政権になり、それが現在も続いているのです。
以上がミャンマーの現状なのです。実に混乱した事態が続いている国なのです。

今日は軍が政権を握り市民を銃撃したミャンマーとはどんな国なのか簡単に書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ベトナムの中部のダナンの街中に溢れる南国の花たち」

2024年08月28日 | 写真
ベトナムのダナンの街中に溢れる南国の花たちです。
写真の出典は、https://danang.style/tourism/290 です。写真は全てインターンットからお借りしました。なお在日ベトナム人は増加傾向にあり、2020年末には44万8000人となり、日本の外国人では韓国を抜き、中国に次いで2番目に多いのです。

1番目の写真は白、オレンジ、ショッキングピンクのブーゲンビリアです。

2番目の写真は南国を代表する花、プルメリアです。色は、白、ピンク、濃いめのピンク、などがありますがダントツで写真のような白と黄色の組み合わせのプルメリアが栽培されています。

3番目の写真は寺院の鉢上や家の鉢植えに咲いている色鮮やかな綺麗なアデニウムの花です。
4番目の写真は房状に大きな紫の花をつけるオオバナサルスベリです。名前の通り大きな花をつけるサルスベリの木です。

「ベトナムの観光名所の写真」

2024年08月28日 | 写真
ベトナムの観光名所の写真です。
1番目の写真はハロン湾です。ベトナム北部にある都市ハノイから車で4時間のところにあります。大小様々な小島が浮かび幻想的な雰囲気を醸し出しています。
2番目の写真は【世界遺産】のチャンアン景観地帯です。チャンアン景観地帯はハノイに隣接するニンビン省にある景観遺跡群です。チャンアン景観地帯の魅力はそびえ立つ石灰石の山々や、貴重な原生林や生物が見られることです。
3番目の写真は【世界遺産】のタンロン皇城です。タンロンとは、ベトナムの王朝の都が置かれてきたハノイの旧称です。ここにある遺跡群はまとめて世界遺産に指定されています。遺跡群はハノイ駅から歩いて10分のところにあります。
4番目の写真は【世界遺産】のミーソン聖域です。
ミーソン聖域はホイアンから車で1時間のところにある世界遺産です。チャンパ王国時代を中心に70もの遺構が残っています。ミーソン聖域の建造物はすべてレンガを積み上げたものです。そこに施された芸術的な彫刻は素晴らしいものです。伝統舞踊ショーが開催されています。ベトナムの歴史を学ぶのに良い所です。
ベトナム中部クアンナム省にある古代チャンパ王国の聖なる遺跡です。レンガ作りのチャンパ塔など7世紀から13世紀にかけての遺構が残っています。チャンパ王国は、今日のベトナム中部沿海及び中部高原を支配した。しかしその支配民族は不明です。
ミーソン聖域は、20世紀初頭にフランス人によって発見され、フランス極東学院 (EFEO) により数次にわたり修復・補強がなされた。その一方、フランス領インドシナ統治時代に盗掘を受け、美術品の多くが失われた。また、ベトナム戦争で南ベトナム解放民族戦線アジト掃討のため、アメリカ空軍のB-52の爆撃を受け、大半の遺跡が破壊されたのです。

「ベトナム戦争にまつわる4つのエピソード」

2024年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はベトナム戦争にまつわるエピソードを4つ書きたいと思います。この4つのエピソードは敵味方双方から直接聞いた話です。みなベトナムやアメリカや北京で直接聞いたことです。
この4つのエピソードは朝日新聞などの大新聞のベトナム戦争はアメリカ帝国主義のせいで、社会主義国家は平和主義であるという単純すぎる見方に疑問を投げかけるものです。

(1)爆弾に書かれた日本語ーアジア人の血を流したくない日本人より。
1986年、ベトナムがドイモイ開放政策を導入した後、同国は日本の多額の政府開発援助(ODA)で工場特区開発や高速道路建設を進めした。
1993年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれました。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。
「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。
ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」
チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。
さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」
この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」

(2)韓国兵がベトナムで勇敢に戦ったことにアメリカ人は感動している。
1978年にロサンゼルスで乗ったタクシーの運転手は黒人でベトナム帰りであった。よく喋る男で前線の戦いぶりを振り向いて熱心に話す。
「おれの小隊はいつも韓国兵の小隊と一緒に最前線でベトコンとやりあったよ。ところが韓国兵が素晴らしいのだ。勇気があるだけじゃなく、攻撃してくるベトコンの弱い一角を必ず突く。それでおれの小隊が何回も助けられたよ。戦争慣れしているのだ。夜襲してくるベトコンを必ず追い返す。こちらの小隊長は腰抜けの少尉で、韓国の小隊長の言うことを聞いて動いていたよ。指揮権はアメリカにあるはずだが、前線に出たらそんなこと関係なくなるのさ。負傷兵を背負って帰ってきた韓国兵を見れば、だれでも韓国兵の言うことに従うよ。前線とはそういうものだ」
タクシーを降りる時、「あなたは韓国人ですね。今日のタクシー代金はいりません」と運転手が言う。残念ながら日本人だったので代金を払った。韓国人を褒めてくれたのでチップを多めにして。

(3)ベトナムの難民を一般のアメリカ人が家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をした。
これはオハイオ州立大学のラップ教授の自宅でビールを飲みながら直接聞いた話です。
「ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」、「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」、「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った。アメリカの一般人はみなそうしたよ」、「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」、「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」、「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」、「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」
アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしい。礼儀上そう露骨には言わなかったが。

(4)中国人のベトナム懲罰戦争の奇怪さ。

1985年、北京。知り合いの周教授と五星ビールを飲みながら、こんな話をしたことがある。
「ベトナム戦争が終わった後に、中国軍が北ベトナムを攻撃して北部の三都市を占領した理由を知っていますか?」、「その軍事作戦のことは日本の新聞にも出ていましたが、その理由は全く出ていません」、「十年にわたるベトナム戦争の間、揚子江より南の諸省は食うものも食わずに、食料をホーチーミンルートでサイゴン付近まで送り続けたのです」
「ところが戦争に勝った途端、ベトナム政府は中国の反対を無視してカンボジアへ侵攻、またラオスを攻撃した。カンボジアとラオスを植民地にしようとしたのです。思い上がりもはなはだしいので、懲罰のため北ベトナムを攻撃、三都市を占領したのだ」、「懲罰とは穏やかでないですね?」、「もう一つの理由は、中国の反対にもかかわらずソ連海軍へダナンなどの港湾の使用を許可したからです」
周教授の説明はいつもの明快さがなくて歯切れが悪い。
ベトナム戦争を支援した中国は戦勝後、ベトナムを思い通りにしようとした。しかし独立心の強いホーチーミンはソ連の支援を使い中国から距離を置こうとした。中ソ関係は1959年以来悪化していた。中国はカンボジアを支援していた。ベトナム戦争には厳しい中ソ関係の影が見え隠れするのです。

以上の脈略の無い4つのエピソードの真偽の程は確かめようもありません。しかし全てベトナム人、アメリカ人、中国人から現地で個人的に聞いた事実です。
新聞の一つの役目はこのように戦争に関係する事柄の真偽の程を客観的に調査し独自のニュースとして報告することと思います。単純にアメリカ政府や日本政府の一方的な発表をそのまま報道するのは間違っています。
またアメリカ帝国主義が悪の根源で社会主義国家は平和勢力であるという教条主義的な視点でしか記事を書くのも間違っています。
戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して敵味方双方の人間の本音を調査し記事にすることは人々の心を豊かにする大切なことと信じています。

今日の挿絵代わりの写真の説明をいたします。

1番目の写真はベトナム戦争の光景です。(左上より時計回りで、テト攻勢で防御にあたる海兵隊員と南ベトナム軍(1968年)、第14歩兵連隊第2大隊の兵士を運ぶヘリコプタ―UH-1D(1966年)、ベトコンが潜伏したと見做され焼却される村落を焼く、べトナムの犠牲者です。)写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89 です。

2番目の写真は越南阮朝の都と宮廷の門です。
ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かていました。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されています。

3番目の写真は世界遺産に登録されたハロン湾の風景です。

4番目の写真はベトナム北部の徳天瀑布です。
2,3,4番目の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 です。

ハロン湾の夕日の風景を眺めていると戦争のむなしさがしみじみと身に沁みます。平和こそが一番大切なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)