後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

何故か、急に海が見たくなって晴海埠頭まで行ってきました

2015年03月05日 | 写真
海までは自宅から35Kmあります。東八道路を東へ向かい、環状8号線、7号線を横切り、新宿、四谷、日比谷、銀座、勝鬨橋で隅田川を渡り晴海埠頭へ行きます。往復70Kmの気楽な独り旅でした。時間があるので首都高速は使わないで普通の道路を悠々と走ってきました。広い海を見て悠然たる気分で帰ってきました。つまらない写真ですが晴海の海の写真をお送りいたします。











遥かなハイラル、藤田藤一参事官の献身と悲劇(3)国境を越えた美しい人間の絆

2015年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム
モンゴル人、ソヨルジャップは1925年に生まれ、満州のハルピン学院を卒業しました。
そして2011年、モンゴルのフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。
ハルピン学院を卒業して満州のハイラルで日本の役所に勤め、戦後は共産国家、モンゴルで逮捕され収容所に入れられました。ソ連に対するスパイ養成学校と見なされたハルピン学院を卒業したからです。その後、同じ共産国家の中国へ引き渡され、再び収容所に入れられたのです。中国の敵国の偽満州国で日本側の官吏になったのが罪状でした。収容所生活は36年間でした。その後、名誉回復され、モンゴルのフフホトに帰り、20年間、展望大学という日本語学校を続け、その間、何度も日本に来て、作家の細川呉港氏と親しくなっていたのです。その一生は細川氏の作品、「草原のラーゲリ」という本に詳しく書いてあります。
この本の荒筋はこの欄で、2015年02月14日に掲載した、「満州国の官吏になったあるモンゴル人の悲劇」という記事でご紹介しました。
本の全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html に出ています。
1945年8月9日、突然のソ連軍侵攻の日にソヨルジャップは上司の藤田藤一と別れたのです。藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言ったそうです。
 「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
その直後、ソヨルジャップは藤田の家に駆けつけその妻と3人の娘を探します。ハイラルの駅や街々を駆けずリ回ってさんざん探したのですが遂に見つかりませんでした。家族は偶然通りかかった日本軍のトラックに助けられハイラルの大きな要塞の片隅に隠れていたのです。
悲しいすれ違いでした。
それから以後、波乱万丈の生活でしたが、藤田の家族を見失ったことはソヨルジャップの痛恨事として2008年までの63年間、重く彼の心の重荷になっていたのです。2008年になってはじめて藤田の家族が無事生き延びて日本へ帰って来たことを知ったのです。
藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人は1946年に無事帰国したことが判ったのは2006年の事でした。ハイラルの小学校にいた竹内義信さんが明巳さんと一緒にハイラルの昔の小学校を訪問していたのです。そのことを作家の細川呉港さんへ伝えたのが2006年です。そして2008年に細川さんは長時間、明巳さんの話を聞いた上で、その内容をソヨルジャップに手紙で詳しく伝えたのです。そしてソヨルジャップに明巳さんへ手紙を送って父であった藤一さんの思い出を書いて送るように何度も頼みました。
しかしソヨルジャップからは一切手紙が来ません。手紙が来ないままソヨルジャップは2011年3月6日に肺ガンで息を引き取ります。
その直後の3月12日、ソヨルジャップのお葬式はモンゴルのフフホトでとりおこなわれます。細川さんと数人の日本人、そしてソヨルジャップを尊敬しているモンゴル人、数十人が参列したそうです。昔のハイラルからも遠路はるばる10人ほどが参列したそうです。
そして細川さんが日本へ帰る前の日にソヨルジャップの妻、オヨンフさんが一通の封筒を細川さんへ渡したのです。夫のソヨルジャップが金沢に暮らしている藤田さんの長女の明巳さんへ届けくれと言って息を引き取ったと言うのです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。
手紙を書いて藤田さんの思い出を長女へ送ることは簡単です。そして藤田さんの家族をついに見つけられなかったことを謝るのは簡単なことです。しかしソヨルジャップにはそれが出来なかったのです。あまりにも深い心の傷だったのでしょう。混乱した心で出来ることは現金の入った封筒を残された妻に託すことだけでした。ソヨルジャップの苦しみを考えると彼も憐れです。そして藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた美しい人間の絆です。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶に従いソヨルジャップの散骨が行われました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。(完)