後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

本年1月31日逝去のヴァイツゼッカー元大統領に関するメルケル首相の談話

2015年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
ヴァイツゼッカー元大統領 死去 メルケル首相談話:2015年1月31日(東京のドイツ大使館HPより)

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー元大統領逝去の報に接し、悲しみに暮れております。ここに、マリアンネ・フォン・ヴァイツゼッカー夫人ならびにご子息・ご息女方に対し深い哀悼の意を表します。
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏は、我が国で最も重要かつ最も尊敬された人物の一人でした。氏が何十年にもわたり、高い知性、自然に滲み出る威厳、天賦の演説力をもって私たちの民主主義社会のために貢献し続けてくれたことに、私たちは感謝の念を抱き続けます。氏は、1984年から1994年まで大統領を務め、その職務に対する姿勢は高い規範を打ち立てました。大統領として自ら述べていたように「方向性を与える」ことを目指し、自ら課したこの課題を見事成し遂げました。
ヴァイツゼッカー氏は、新たな方向性を指し示すような演説を行ってくれました。これらの演説は、国内外で大きな反響を呼びました。それは、氏の言葉を聴く人が、その背景に実際の体験に裏づけられた価値と清廉潔白な高い人間性を感じたからです。
とりわけ1985年5月8日に行われた、第二次世界大戦終戦40年にあたっての演説が思い起されます。大統領は演説の中で、「ナチスによる暴力支配という人間蔑視の体制からの解放の日」という表現を用いました。これは、ドイツの自己理解にとって重要な意味を持つ、必要かつ明確な発言でした。
ベルリン市長も務めたことのあるヴァイツゼッカー氏は、我が国および欧州の分断克服とドイツ再統一の実現に、特別の思いを寄せていました。1990年10月3日の演説では次のように述べています。「私たちは、今日という日を贈物の受け手として経験することとなった。今回については、私たちドイツ人も歴史に好意的な巡り合わせを与えられた」。この演説と、演説を聴いたときの私の高揚感は、決して忘れません。しかしまた、統一条約だけで統一が成功するわけではなく、当時の発言にあるように、統一の成否は「私たち一人一人の行動次第であり、私たちが心を開き、互いに助け合うことにかかっている」と認識していました。この言葉は今なお真実であり、今日にいたるまで私を導いてくれています。
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏の死は、ドイツにとり大きな損失です。氏が、我が国に対する大きな功績をあげたことを私たちは忘れません。そして一人の人間としても氏のことを忘れません。このような人物が大統領として我が国の最高位の職務を担ってくれたことに、感謝の念を抱き続けてまいります。

(写真はメルケル首相です。)

我が家の庭にも春が来ました

2015年03月19日 | 写真
チェリーの花、ヒヤシンス、ミズキの花、ルピナス、ツバキなどが咲いています。
写真は順番にこれらの花々の写真です。先程撮りました。他にはジンチョウゲの花も咲いています。白梅も紅梅も散ってしまいました。
これからはどんどん他の花も咲きます。間違いなく春ですね。











戦争を絶対にしない決心の為に(4)戦争の犠牲者と遺族の悲しみを何度も思い浮かべる

2015年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
戦争を再びしない決心は日頃、何度も、何度も戦争の悲劇を具体的に思い浮かべることです。
一人一人が心をあらたにして戦争をしない決心をすることです。そうしないと人間は忘れてしまうのです。ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、「戦争による悲しみの山並みを忘れてはいけない」と言い、具体的な悲劇を一つ一つ示したのです。この感動的な名演説を1985年にしました。
それはそれとして、フランスはドイツによって1940年から1945年まで占領されていました。そのフランスでは親ドイツのヴィッシー政権派とレジスタンス派の間で悲劇的な国内戦が繰り返されたのです。ドイツに味方することをフランスではコラボレーションと言うそうです。終戦後、親ドイツ派のフランス人はレジスタンス派によって徹底的な復讐を受けました。日本ではあまり知られていないコラボレーションの悲劇的な歴史を忘れないようにとパリで展示会が開催されているそうです。例によって日本のマスコミは無視です。
この話はFace Bookでフランス人と結婚して、40年以上フランス住んでいたに日本人女性のMotoko Boutdumondeさんから教えて頂いた話です。
今日の話題は、昨年の11月から今年の3月までパリで初めて開催されている「コラボレーション1940-1945 暗黒の4年間」という展示会にまつわる話です。Motokoさんの夫のお父さんがレジスタンス派の一隊に加わっていたので彼女は戦争の悲劇を深く心に刻んでいるのです。
何時ものように戦争の話を読むのは嫌いだという方々の為に昨日、お彼岸の墓参りの花を買いに行ったとき店先で撮った花の写真をお送りします。花の写真を見たあとで気が向いたら続きの文章をお読み下さい。









以下はFace Book で頂いたMotoko さんから頂いたコメントです。
・・・・「荒野の40年」という演説で話されたヴァイゼッカー氏の考え方、良く分かります。恐らく「ユダヤ人殺害を全く知らなかった」というドイツ人はいなかったはずです。・・・・
フランスでもドイツによる占領中はヴィシー政府がすぐにドイツ軍と手を結び、フランスの憲兵や警察がユダヤ人やジプシー、レジスタンスの人々を逮捕し、拷問にかけ、ドイツに渡しました。
フランスは、ドイツ占領下のフランスと自由フランスに分けられました。
収容所に罪のないユダヤ人たちを送ったのは必ずしもドイツ人だけではありませんでした。
コラボレーションと呼ばれるこのドイツ軍への手助けはフランスの恥です。しかし終戦時にこのコラボと呼ばれた人たちは酷い目にあったことも確かです。ドイツ軍の兵士たちと付き合っていた女性たちは公衆の面前で髪を剃られました。・・・・
コラボとしてレジスタンスの人たちや隠れていたユダヤ人をドイツに引き渡した人たちは、もと日本人だった私が考えても許せないと思います。しかし、女性については、本当に愛し合っていた人たちは気の毒です。愛ってロメオとジュリエットの例があるように、敵同士でもどうしようもなく生まれるものだからです。
やっと昨年の11月から今年の3月までパリで初めて「コラボレーション1940-1945 暗黒の4年間」という展示会が開かれました。これはフランス人にも第二次大戦中に起こったことを自覚させ、反省させるためのものでした。ヴィシー政府を支持していなくても見て見ぬふりをしていた人たちがいたということをも忘れないために。
・・・・ヴァイツゼッカー大統領のような真摯な心が一番大切だと思います。「敗戦国」も「戦勝国」もどちらも多くの犠牲者を出しました。ヴァイツゼッカー氏と同じ考えを持つ人が多ければ多いほど世界は平和に近づくでしょう。
私の主人の父は何故か、ヴィッシー政権の収容所に入れられていましたが、その収容所がドイツに移ることになりました。そこで夫の父親は、ドイツではメシが不味いと聞いたので、脱走を決めたそうです。
脱走しようとしたときに、見張りの担当だったドイツの下士官が門を開けてくれ、「俺はもうすぐソ連の前線に送られる。妻に会えることはもうないだろう。お前はまだ若いんだから奥さんに会える。奥さんを大切にしな」と言ってくれたそうです。
そしてまだ自由フランスにあった生まれ故郷に帰り、ひょんなことからレジスタンスの友人の一人がある日都合が悪くなったのでその代理として入り、戦争が終わるまでレジスタンになっていました。
恐らく戦後「コラボ」も処刑し復讐したことでしょう。夫の父がいたレジスタンスのグループは最初は130人ほどでしたが生存者は父を含めて17名だけだったそうです。
それなのに、ドイツと同盟した日本人である私を一人息子の彼女として、また嫁として、本当の娘以上に可愛がってくれました。ただ、レジスタンスで行った殺人とか処刑の話は92歳で亡くなるまで一切しませんでした。ただ、恐らく「コラボ」の処刑に使ったロープを20センチほどずっと持っていました。父は反省とか謝罪という言葉は口にしませんでしたが、きっとこのロープの端を持って自分の処刑した人たちや亡くなったレジスタンスの仲間をいつも思い出していたのだと思います。・・・・・
最後にヴァイツゼッカー大統領の「荒野の40年」からレジスタンスの犠牲者への思いの部分を抜粋して掲載し、今日の記事の終わりと致します。
・・・ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。(フランスやポーランドには強力なレジスタンスがいましたー後藤による注記)
ドイツ人としては(ドイツ国内にもドイツ人レジスタンスがいたのですー後藤による注記)、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。・・・・・(続く)