後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

老境をすごく楽しくする(3)ネット生活を楽しむためのたった一つの鉄則

2016年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
仕事をやめて老境にいたると自由時間が豊富にあります。そこでついコンピューターの前に座って時間を過ごすことになります。
山林の中に住んでいるある友人から、ほぼ十年前にブログを書きなさいと言われ、その方法を丁寧に教わりました。
それ以来、毎日のように雑文を書いては掲載してきました。
数年前からはFace Book やSNSの趣味人倶楽部やBYOOLという3つのクラブの会員になって日記やコラムを書いています。
このようなネット生活が楽しいのです。
老境になって昔のことを思い出していろいろ書くことは楽しいものです。また、それを多くの方々が読んで下さるのが嬉しいのです。
その上、心温まるコメントを頂けるのです。感謝の気持がおのずから湧き出てきます。
勿論、少数ながら気分が悪くなるコメントも来ます。でも老人ボケの私はすぐ忘れてしまいます。誰も彼も、みんな、みんな間も無く土に還るのですから、老境は波風も無く、淡々と流れていくものです。
あらためて考えてみるとネット生活は間違いなく老境を楽しくしてくれます。

今日はネット生活を楽しむために私自身が守ろうとしているたった一つの鉄則をご紹介したいと思います。
それは掲載する文章を書いている時、これを読んで下さる方々を想像して感謝しながら書くことです。
こんな雑駁な文章を読んで下さり有難う御座いますと念じながら書くようにしています。
これだけです。これがネット生活を楽しむために私自身が守ろうとしているたった一つの鉄則なのです。
感謝していますと露骨に書かなくてもそれは行間に滲み出ると信じています。
このように書くと立派なものですが、自分も人間なのでこの鉄則を忘れ、他人の気持ちを悪くすることも書いてしまうこともあります。
まだまだ至らない自分ですが、どうぞ寛大なお気持ちでよろしくお願いいたします。

さてこの鉄則はどこから育って来たのでしょうか。何時ものように昔話でごめんなさい。
若い頃、ルース・ベネディクトの「菊と刀」という本を読みました。若い人はご存知ないかも知れませんが、戦後の日本でよく売れた有名な本です。比較文化人類学を素人にも完全に分かるように、易しく、優しく書いた本でした。

この本に次のような文章があったのです。
「世界中の民族文化には優劣は無い」という一節です。勿論、民族にも優劣などありません。この文章は敗戦で打ち沈んでいた日本人を鼓舞したのです。この本がベストセラーのように長い間、本屋さんの店頭に並べてあったのを記憶しています。
それ以来、「世界中の民族文化には優劣は無い」が私の座右の銘になりました。人生のいろいろな場面でこの文章を拡大解釈して使ってきました。

この拡大解釈の一つに、「私の文章を読んで下さる方々には優劣を付けずに平等に感謝すべし」という考えがあります。
そして、「私の文章を読んで、送って下さるコメントには優劣はありません。平等に感謝すべし」ということになります。
これがネット生活を楽しむためのたった一つの鉄則なのです。
しかしこの世は鉄則通りにはいかないこともあります。たまにですが不愉快なコメントが来ます。
もうネット生活から足を洗おうという気分になります。
そういう時こそ、「下さるコメントには優劣はありません。平等に感謝すべし」という呪文をとなえます。

老境に至って社会と隔絶してしまうと、ネットを通して出来る人々との絆は私にとっては非常に大切なものです。貴重なものです。
特に足腰が弱って外国旅行にも行けなくなると、Face Bookを通して、いろいろな外国に住んでいる方々と直接会話が出来るのも大変楽しいものです。ブラジルやフランスやスペインやドイツに住んでいる日本人と交流出来るのです。
台湾や韓国や中国やタイ、インドネシア、シンガポール、などのアジアの国々の方々との交流も深い楽しみです。
そして最後になりましたが、最も嬉しいのは日本の各地に住んでいる方々から地方、地方の文化を背負ったコメントを頂くことです。

とかく、老境になって視野が狭くなるのを逆に広げてくれるのです。
老境をすごく楽しくしてくれるのはネット生活です。
今日の挿し絵代わりの写真は先日、神代植物公園で撮った草花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「梅雨が明けたので奥多摩の払沢の滝と神戸岩の写真を撮りにいきました」

2016年07月29日 | 写真
昨日、関東地方の梅雨明け宣言がありました。今日は宣言通り青空に夏の白い雲が浮かんでいます。
カメラを手に車を奥多摩の秋川渓谷に走らせました。
払沢の滝と天狗の滝の写真を撮ってから、さらに北秋川を遡り、神戸岩の写真を撮ってきました。
秋川沿いの桧原街道は緑濃い杉林の中です。乾いた夏の風が吹き抜けていました。

1番目の写真は今朝の夏空の写真です。

2番目の写真は払沢の滝へ登る道です。右側の建物は明治時代の郵便局を定年後のある人が趣味として移築したものです。

3番目の写真は古い郵便局の前から見える天狗の滝の写真です。

4番目の写真が払沢の滝です。駐車場から山道を20分位登った所にあります。いつもはもっと水量があるのですが、今日は少ない水が飛沫を涼しげに上げていました。

5番目の写真は東京都指定天然記念物、「神戸岩」の説明版です。神戸岩はジュラ紀に出来たチャート層で出来ています。

6番目の写真が神戸岩の写真です。

7番目の写真は神戸岩の足元に出来た険しい渓谷の写真です。

これらの写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

老境をすごく楽しくする(2)自然界に遊び、自然にとけ込む

2016年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の特典は自由に出来る時間に恵まれていることです。
自然の中へ思っきり飛び込んで遊べます。するとやがて自分の心が自然と溶け合って、一体になったような気分になります。恍惚の世界です。これこそ老境の幸せです。
若い間も自然の中で遊ぶことは出来ます。しかしどうしても仕事のことや子供の教育などの心配が頭をよぎります。自然と溶け合って恍惚の境地に遊ぶことは難しいものです。これは私の実体験でした。

さて自然界に遊ぶと言っても遊び方にはいろいろあります。
そこで老境を(1)体力のある60歳代、(2)体力が少し残っている70歳代、そして(3)体力が無くなる80歳代の三つの時期に分けて考えてみましょう。以下に私がどのように工夫して自然界と遊んだかをご紹介いたします。
勿論、自然との遊び方は人それぞれ千差万別です。皆様の遊び方を是非、コメントとして投稿して下さり、ご紹介して頂きたいとお願い申し上げます。

(1)体力のある60歳代の遊び
幸い私は甲斐駒岳の麓の山林の中に本当に小さな小屋を持っていました。42年前の1974年に完成したものです。建てるのを頼んだ地元の業者さんが木造ではすぐに腐って倒れてしまうと言って鉄筋コンクリート製にしてくれた小屋です。そのお陰で現在でも新築当時と変わらず山林の中に建っています。

この1番目の写真はその山林の中の小屋の写真です。
小屋の前にはイワナの登ってくる小川が清らかな音を立てて流れています。
中年の頃にも定期的に行って、小屋のペンキを塗り直していました。忙しくない時は小屋に4日程泊まったこともあります。
60歳代になり時間に余裕が出来てからは毎週一回は通うようになりました。
兎に角、行けば自然がいっぱいで面白いのです。
小川に2ケ所小さな橋を架け、回遊式の小道を作ります。時々イワナの姿が見えます。春ゼミが鳴いています。遠方で雉がケンケーンと鳴いています。小屋の向こう側をサルの家族がこちらを窺いながら遊んでいます。
ストーブに使う薪を近くの雑木林の中に拾いに行きます。ストーブを燃やしてみると煙突のさきから香の良い青い煙が出てきます。
60歳代にはこの小屋に年間40回以上行ったものです。自然界と遊ぶ魅力にひかれて何回も行きました。
60歳代は体力もあり、わざと厳寒の冬に泊まり、薪ストーブを楽しんだものです。

体力があると言っても中年の頃とは違います。以前は小屋に泊まって、白樺湖スキー場に行ったり、八ヶ岳や甲斐駒岳や地蔵岳に登ったものですが、流石にその体力は無くなりました。
60歳代は車で白樺美術館に行ったり八ヶ岳山岳有料道路を走ったりするだけになりました。それでも60歳代は足繁く山小屋に通い、自然界の中で遊んだものです。

さて私のもう一つの自然と遊ぶ趣味は50歳で始めたヨットの趣味です。

この2番目の写真は私が走らせているヨットの写真です。後ろの帆の下に私が一人で静かに座っています。帆に受ける風の強さを考えて走る方向を決めているところです。
このヨットの趣味は風まかせです。自分の努力では風の強弱や風向きはどうしようもないのです。その風は行く度に違います。
ですからヨットは、その日の風に合わせて走らせるのです。「風に舞う」という言葉がピッタリの趣味なのです。
文字通り自然と一緒になって遊ぶのです。60歳代は、毎週1回は係留地の土浦港へ通い、強風でも出艇しました。

(2)体力が少し残っている70歳代の遊び
体力が無くなるとヨットの重いセイルを一人で上げるのがきつくなってきます。体が硬くなって強風で傾いた甲板で動き回るのが怖くなります。ですから強風の時は出艇しません。キャビンの中で読書をしたり、料理を作ったりして遊びます。そして夕風に吹かれながら甲板に座ってビールを飲みます。そしてヨットに泊まるのです。夜の空に星が輝いています。自然が急に身近になります。
しかし体力の限界で75歳のときヨットの趣味を綺麗に止めてしまいました。
綺麗さっぱり止めましたが「ヨットを眺める趣味」は続いています。

この3番目の写真は最近、ヨットを眺めに行った江の島ヨットハーバーで撮った写真です。
座り込んでヨットをしげしげ眺めて時間を過ごすのです。それだけの趣味です。
眺める場所として、他に葉山マリーナや笠島マリーナにも時々行きます。眺めるだけの趣味になりましたが心は風と遊んでいます。

一方、山小屋の趣味はあまり体力が必要がないので70歳代は毎月2回は行きました。体力が衰えたので山登りはしません。
小屋の周りの自然とともに遊んだり、近所の花畑の写真を撮ったりして遊んでいます。

この4番目の写真は小屋の近所から見た甲斐駒岳の写真です。
体力が衰えてくると何故か風景そのものが一層美しく見えるように感じます。これも老境の特典なのでしょうか。

(3)体力が無くなる80歳代の遊び
ヨットの趣味は75歳で止めましたが山林の中の小屋に行って、自然の中で遊ぶことは現在でも続いています。
しかし山小屋までは中央高速道路経由で片道が約150Kmで往復300Kmのドライブです。体力が無くなるとそのドライブが辛くなって来ました。それで今年からか毎月1回位の小屋行きになっています。

代わりに自然がいっぱいの砂浜へ車を乗り入れて、海を何時までも眺めています。
湘南海岸で車を砂浜まで乗り入れて良い場所は茅ヶ崎の海岸と国府津の海岸の2ケ所だけです。

上の写真は先月行った茅ケ崎の砂浜の風景です。

一方山の自然の方は東京都の郊外にある自然豊かな都立公園や神奈川県立公園によく行きます。

この6番目の写真は神奈川県立の宮ケ瀬湖公園の風景です。

この他にいろいろな都立公園にはよく行きます。都立公園にこだわるのは駐車場がある上に、広大な林や湖が広がっているからです。その典型は水元公園や国立昭和記念公園です。
自分が住んでいる小金井市には小金井公園、武蔵野公園、野川公園などの都立公園があります。少し車を走らせれば都立浅間山公園や薬草植物園や神代植物公園や小宮公園などなどがあります。これらの公園は広大で自然林と芝生広場や池が心地良く配置されています。ゆっくり歩いていくと美しい景観が次第に変わっていきます。
公園を設計し、作った人が如何に強く自然を愛していたかが偲ばれるのです。

このように60歳代、70歳代、80歳代と次第に体力が衰えてきても自然の中で遊ぶことが出来るのです。
自然の風景に憧れ、自然と遊び、自然の中に溶け込んでいくと何も恐れることが無くなります。心配ごとも消えてしまいます。
あとは自然に還る自分が居るだけです。このようになると、嗚呼、老境こそ幸せな時期だなあと感じるのです。
今日は梅雨明け宣言のあった晴天の日です。自然を求めて奥多摩へにもドライブに行ってみようと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

相模原市、津久井やまゆり園事件のショック

2016年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、知的障害者施設の「津久井やまゆり園」で事件が起き19人が死亡し、26人が重軽傷を負いました。犯人はこの施設の元職員の26歳の男でした。
障害者がベットに寝ているところを次々に刺しているのです。
あまりににも無残な事件です。そして犠牲者が多数であることに大きなショックを受けています。
今日、いつものように気楽な記事を掲載しようと思っていましたが止めることにしました。
「神も仏も無い」という言葉がありますが、その通りです。
津久井湖やその上流の相模湖はよく遊びに行く場所なので一層大きな衝撃を受けています。
今日は犠牲者の冥福を祈り、その家族の方々の悲しみに心を寄せて過ごしたいと思います。
先日、行った都立小宮公園で撮った花の写真をお送りします。









クイズです、仏教は多神教?一神教?それとも哲学?

2016年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム
仏教が好きな方々は多いと存じます。お寺さんとのお付き合いには疑問がありますが、仏教そのものには興味があり、好きですという方々も多いと思います。

そこで今日は「仏教は多神教?一神教?それとも哲学?」という問題をクイズ風に軽く考えてみましょう。真面目に仏道の修行をしている方々を軽く考えているわけではありません。
しかし少し距離を置いて仏教のことを考えてみようとする問題提起のつもりです。

まず質問に使われている三つの言葉の言葉の定義を始めにいたします。
(1)多神教;
多くの人が一つの宗教だと考えているある宗教体系の中に数多くの神や、神と類似の超越した存在を信仰している場合に、それを多神教と定義します。
神と類似の超越した存在にはいろいろありますがお釈迦さまもその一例です。
(2)一神教;
ある宗教体系の中に唯一の神か、神と類似の超越した唯一の存在を信仰している場合に、一神教と定義します。
(3)哲学;
宇宙の全ての現象の規則性、法則性を論理的に考えた全ての考え方と定義します。
仏教は物質界は空(くう)であり、空なるものこそ物質界の本質であると言って、一つの宇宙観を提唱しているので哲学の一つと定義することも可能です。
ちなみに孟子や孔子の教えは人生訓が多くて、あまり哲学的ではないようです。

このクイズの答えを求めて昨日、日野市の高幡不動に取材に行ってきました。高幡不動は701年に始まった古刹で、関東三大不動の一つです。弘法大師の真言宗のお寺です。
それでは写真に従って仏教が多神教であるという証拠写真を順々に示します。

この1番目の写真は中心柱の下に釈迦の骨があると考えられる五重塔です。中国では石造りの塔が多いようですが、日本では木造のものになりました。

2番目の写真は本尊の不動明王像を祀った本堂の写真です。不動信仰のお堂です。

3番目の写真は本堂の中で護摩を焚いている僧侶の写真です。密教の儀式ですね。多く参拝客が僧侶の後ろで一緒に祈っていました。

4番目の写真は高幡不動の一番奥にある大日堂の写真です。大日如来信仰のお堂です。

5番目の写真は弘法大師を祀った大師堂です。

6番目の写真は有山董糸の碑で、「法鼓鳴り 花人 山を 下りて ゆく」という句が彫ってあったので、ついでに撮った写真です。本題の内容とは関係ありません。

さて昨日は、高幡不動の境内の中の人々の動きを観察して来ました。
人々は真っ先に本堂に行きお賽銭をあげます。僧侶が護摩を焚き、太鼓を鳴らし、読経している本堂の中に、20人位の人々が上がり、座って読経を聞きながら祈っていました。それはご不動様への祈りです。
それが終わると奥の大日堂に行き、お賽銭を上げます。
その帰路に大師堂があるので弘法大師さまへお祈りを捧げ、お賽銭をあげます。
その先には五重塔があるのですが、多くの人は素通りして帰っていきます。
この様子を観察して、嗚呼、仏教は多神教なのだと納得しました。

しかしよくよく考えるとある人は意識的にお釈迦さまだけを拝んでいる人もいる筈です。
不動明王や大日如来や大師像を礼拝しながら、それらの向こうにお釈迦さまが見えるのです。一番重要なのはお釈迦さまだけなのです。
このような信仰の内容を持った人にとっては仏教は一神教なのです。

さて仏教は哲学であると考える人々は宗教を信じない人に多いと思います。
あるいはキリスト教の人もそのように考えているようです。

ですから結論を言えば、今日のクイズの答えは、仏教は多神教、一神教、あるいは哲学のどれも正解なのです。
そのどれかが正解だという人は、仏教に対するその人自身の信仰の仕方や内容によって決まるものと思います。
最後に私自身の答を書きますと、仏教は哲学です。しかし時々、仏教を一神教的に信じている自分があります。恥ずかしい話ですが自分はキリスト教と仏教の混淆宗教なのかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

トランプ氏を嫌う日本人と支持するアメリカ人

2016年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本のマスコミを見ているとトランプ氏を非難するような記事が多いようです。
それにもかかわらず、トランプ氏は共和党の次期大統領候補に指名されてしまったのです。
従ってアメリカではトランプ氏が好きで支持する人が多いと言っても大きな間違いが無いと考えられます。
日本人には嫌われ、アメリカ人には好かれているのです。
その原因はオバマ政権による軟弱な外交でアメリカの国際的評価が下がったことと、国内的にはメキシコからの大量な不法越境が原因になっているという解説がをよく聞きます。そしてトランプ氏は強いアメリカを再び作ると言うのです。
この解説も本当でしょうが、今日はアメリカと日本の文化的相違から、この問題を少し考えてみたいと存じます。
結論を先に書けばアメリカ文化ではトランプ氏は称賛に価いする人物であり、一方、日本人は彼に人徳が無いので大統領には適任ではないと評価されているのでないでしょうか?
彼に比べて広島まで来てくれたオバマ大統領のほうがまだ人間的に優れていると日本人は考えているのかも知れません。

さて日本とアメリカの文化の相違と言えば、文化の基底をなす宗教に対する考え方の違いを考えるのが手っ取り早いようです。
その比較をしようと先日来、いろいろ調べていたら次の資料を見つけました。

明治大学、鈴木研究室の「国際日本データランキング」
(http://dataranking.com/table.cgi?LG=j&TP=ofthosewhobelieveinGod(6choices)&CO=Italy&RG=2&TM=2008 )
この資料は非常に面白いデータを提供しています。大げさに言うと現在の世界の比較文化人類学の基礎資料になるような情報が詰まっているのです。
この資料の中から宗教に関するランキングを2種類だけ選んで以下にご紹介いたします。
(1)神の存在を信じる人の割合(すべての人に対して、神は存在しているという人の割合)
2008年の調査:北欧と主要先進国12国のみの比較
 1 アメリカ合衆国 78.3%
2 イタリア 69.6%
3 イギリス 47.2%
4 フィンランド 46.3%
5 オーストラリア 43.5%
6 韓国 39.4%
7 ドイツ 38.4%
8 フランス 37.3%
9 ノルウェー 37.0%
10 デンマーク 33.6%
11 スウェーデン 24.9%
12 日本 16.4%

(2)宗教は心の安らぎや幸福感を得るのに役立つという人の割合
2008年の調査結果:北欧と主要先進国12国のみの比較
 1 アメリカ合衆国 87.3%
2 韓国 80.3%
3 デンマーク 79.3%
4 イタリア 78.8%
5 スウェーデン 75.5%
6 イギリス 74.5%
7 オーストラリア 73.7%
8 ドイツ 72.0%
9 ノルウェー 71.1%
10 フランス 66.8%
11 フィンランド 61.7%
12 日本 61.6%

以上の他に、鈴木研究室のHPには、20ほどの宗教に関する質問に対するランキングが掲載されていますが、ここでは省略します。
兎に角、アメリカではキリスト教を信仰し、そのお陰で心の安らぎや幸福感を得ていると考える人が多いのです。
これに対して日本では神の存在を信じている人は12ケ国で最下位で16.4%しか居ません。
その神とは日本では神道の神様のことでしょう。その日本で、神の存在を信じている人の過半数は、宗教は心の安らぎや幸福感を得るのに役立つと思っているのです。

話は脇道にそれましたが本題に戻します。キリスト教国のアメリカではトランプ氏が何故支持されるかという問題に戻します。

まずアメリカでは政治家に人徳は日本ほど求めないのです。それには深い理由があります。
簡単に言えば人徳があるか否かは神が判断することなのです。人間が人間を評価してはいけません。キリスト教には人を裁くなという教えがあります。
トランプ氏が敬虔なクリスチャンであるか否かも裁いてはいけません。
その上、トランプ氏の実業家としての才能は神が彼に与えたものです。そのタレントを充分生かした彼は称賛すべきです。
彼があこぎな経済活動で成り上がったという非難はアメリカでは少ないようです。むしろアメリカン・ドリームの具現者として称賛する声が聞こえて来ます。
彼の演説の上手さも神が彼に与えたタレントなのです。そのお陰で共和党の大統領候補者になれたのです。
アメリカの実社会では人格よりも、いろいろな分野の職業における能力が重視されます。それを日本人は弱肉強食の人事管理だと評しますが、その根底には人格の善悪は神が判断する領域だという信仰があるようです。

上に書いたことは日本とアメリカの文化の相違のほんの一例に過ぎません。
日米の文化の相違を考えずにトランプ氏に人徳が無いと評価することは、ヒョッとすると人間としてしてはいけないことかも知れません。
そんな文化の差を考えさせる今日この頃です。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日歩いて来た都立小宮公園の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










日本が多神教の故に250年間の隠れキリシタンが可能だった!

2016年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教関連の記事を書きます。
私は隠れキリシタンの歴史を誤解していたような気がします。
隠れキリシタン達の勇気と忠誠心だけで、250年間を耐え偲んで来たと考えていたのです。
しかし昨年、隠れキリシタンで有名な五島列島を3日間訪ねてこの考えを捨てました。同じ島に住んでいる仏教徒や神道の人々が隠れキリシタン達をかばい、取り締まる役人へ密告しなかったから生き延びることが出来たと考えるようになったのです。
つまり日本が多神教の社会だったからこそ隠れキリシタンが生き延びることが出来たのです。

その上、隠れキリシタン自身も仏教や神道や道祖神などとともに、キリスト教の納戸神を信仰していたのです。このように考えるのは自然な考えではないでしょうか?

江戸時代の農民は役人が課する過酷な年貢に苦しんでいました。彼らが役人に反感を持つのは当然のことではないでしょうか?
年に一回、踏み絵で取り締まっても、周囲の農民の密告無しでは役人には摘発することは困難だったに違いありません。
昨年、五島列島で3日間乗ったバスのガイドさんが何気ないように仏教徒の人々が隠れキリシタンをかばっていたと言ったのです。
信じられないような話でした。

しかし考えてみると周囲の人々は隠れキリシタンのことは皆判ってゐた筈です。いくら檀家制で、お寺にお墓があっても住民同士は納戸神のある家を知っていたに違いありません。

話は飛びますが、ヒットラーがユダヤ人を500万人も殺しました。
その犠牲者の多かった国はドイツ本国ではなくポーランドでした。アウシュヴィッツ収容所もポーランドにあったのです。
ユダヤ人を徹底的に拘束し収容所に送るためには周囲の住民の告発が無ければ効率的に実行出来ません。ポーランドでは密告が多数あり一番多数のユダヤ人が犠牲になったのです。
この歴史的事実を考えると何故、日本には250年もの隠れキリシタンの歴史があったかのか理解出来るような気がします。

私は隠れキリシタンの勇気とイエス様への忠誠心に感動してカトリックになりました。
1971年に洗礼を受けて以来45年間、周囲の日本人に意地悪やいじめを受けたことがありません。周囲の人々のお陰で45年間、教会へ通うことが出来ました。感謝しています。

今日の挿し絵代わりの写真は先日、神代植物公園で撮ったダリアの花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










若き日の冒険と、最後の自慢話、その3

2016年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今回でこの連載を終りとします。
今回書きたいことは戦後のアメリカ人は日本人をどのように思っていたかということです。勿論、アメリカ人と言っても私の接した極く限られた人々の考え方です。
結論を先に書けば男性たちは先の太平洋の戦いで日本人はよく戦ったと感じ、日本人を尊敬すらしているようでした。
女性たちにはそういう意識ではなく、私たちが移民して来たと思い、日常生活に必要な道具を持ち寄って助けてくれたのです。それは後から来る移民を自分たちで助けるというアメリカの美しい伝統文化だったのです。
以上の結論は私共のオハイオでの結婚式と、最初の子供の出産をとうして体験したことから得た結論でした。
まず書きたいのは指導教官のセント・ピエール先生の励ましです。3ケ月ごとの学期が終わると教授室に呼んでくれて実験研究の進み具合を聞いて、いろいろなアドバイスをくれます。そして君は実験が上手だと褒めてくれます。その上、その学期の成績が良かったので、支給するお金を毎月10ドル増やしますと言ってくれたのです。その結果、最初の毎月の支給額の180ドルが8学期後の2年後には260ドルに増えていました。
この少ない支給額から中古の車を買い、その上少しずつ貯金をして婚約者を日本から呼んで結婚したのです。
結婚式の仲人はセント・ピエール先生夫妻に頼みました。
そうしたら奥さんが結婚式場から披露宴の会場など手配してくれました。以下はオハイオの結婚の風習です。
まず奥さんはコロンバス市の地方新聞に電話して日本人の結婚の記事を出して下さいと頼んだのです。結婚の時は地方紙に出すものだと言うのです。1961年の5月21日のコロンバス・ディスパッチという新聞にかなり大きな記事が出ました。
その一方、奥さんは私の同級生の妻たちを自宅に呼び集め、結婚式と披露宴の招待状を準備してくれました。伝統に従って招待状は手書きにしなければいけないと言います。呼び集めた数人の妻たちが手分けして書いてくれたのです。
招待客はアメリカ人と現地の日本人会の方々でした。日本人のほうには家内が手書きの招待状を書きました。日本人会の方々には私共の送迎をしたり、会場での写真撮影をして頂きました。
結婚式は大学の質素なチャペルでしました。私共は当時はまだクリスチャンではなかったのですが、アメリカ人はそんなことは気にするなとおおらかです。
オハイオの風習では結婚式や出産の前に奥さんたちが集まり必要な日用品を贈ってくれるシャワーというパーティがあります。
お茶とクッキーだけのパーティに皆が集まり、贈り物をくれるのです。贈り物は食料品とレシピ、ナベや食器や裁縫道具や、兎に角、日用品に限ります。高価な贅沢な品物はありません。贈り物に対して「お返し」は絶対にしてはいけません。
最初の娘が生まれた時は、日用品だけでなく中古の乳母車や赤ん坊用のベットまで貸してくれました。それらは順送りに他の赤ん坊へ贈る伝統なのです。
これらの風習は貧しい移民がアメリカで家族生活をするための互助精神の伝統文化だったのです。
その他、結婚や出産にまつわるアメリカの面白い体験もいろいろしましたが、長くなるので省略します。

さてアメリカの男性たちは先の太平洋の戦いで激戦を交わした日本人をどのように思っていたのでしょうか?
戦後の日本の新聞にはアメリカ人が日本軍の残虐行為を非難しているというような記事が何度も出ていました。
しかしオハイオに住んでみるとそれを言う人に会ったことがありません。
むしろ日本人の戦いぶりに驚き、内心では少し尊敬しているような感じを受けたのです。
特にカミカゼ特攻隊には良い意味でも悪い意味でもアメリカ人は心に刻んでいたのです。
夜遅くまで実験室にいると同級生が私の所に寄って来て、ニヤリと笑いながら、「カミカゼは止めて早く家に帰って寝ろ!明日、試験があるだろう!」と冗談を言います。
それ以来、私はアメリカ人が私へ親切にしてくれたら神風特攻隊のお陰だと思うようになりました。なにせ私の通っていた新制中学校には特攻隊帰りの社会の先生がいてよく空中戦のコツを話していたのです。そして君たちは特攻隊のためにも日本を復興させねばならないと繰り返し話していたのです。

それから日本の新聞は真珠湾攻撃を非難していましたが私はアメリカ人からその非難を聞いたことは皆無でした。
たった一度だけ酔っぱらった退役軍人のアメリカ人に酒場で日本軍の悪口をさんざん聞かされたことがあります。一緒に戦っていた親友をジャップに殺されたと怒っていたのです。私はしずかに聞くだけでした。
しかし先の太平洋戦争で日本軍はアメリカの民間人は殺しませんでした。アメリカは日本全土の空襲で多数の民間人を殺しました。アメリカ人は決して言いませんが、そのことを知っているのです。しかし隣の席で酔っぱらってジャップの悪口を言っているアメリカ人へそのことも言いませんでした。親友を失った男の悲しみが分かるからです。
もっと書きたいことは沢山ありますが、これで若き日の冒険と、自慢話の連載記事は終わりとします。
写真に結婚式に関連する古い画像を示します。55年まえの写真なので、かなりボケています。ご勘弁下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


上の1番目の写真はオハイオ州の地方新聞のコロンバス・ディスパッチ紙の写真です。1961年5月21日の新聞で、我々の5月23日の結婚式に関する報道です。写真の左は仲人をしてくれた指導教官のセント・ピエール教授の奥さんで、中央が小生で右が現在の老妻です。

2番目の写真は大学内のチャペルでの結婚式に正装して出席してくれたアメリカ人の同級生の写真です。

3番目の写真は披露宴のパーティをしたコロンバス市の中心街にあったディッシュラー・ヒルトンホテルの写真です。

4番目の写真は披露宴のパーティの会場入り口でお客さまを歓迎するレセプションラインです。左の長身のアメリカ人が仲人をしてくれた指導教官のセント・ピエール先生です。人の陰になって写っていませんが、セント・ピエール先生の右は私の父が立っていました。右端が小生で、その左が妻です。

5番目の写真はウエデング・ケーキにナイフを入れている小生と妻です。

6番目の写真は右からセント・ピエール教授、その左がラリフ・スパイザー教授です。その左が小生で左端が妻です。スパイザー教授の量子力学の講義が難解で理解出来ませんでした。理解出来なきなくても暗記して試験を突破しました。恥ずかしい話です。

7番目の写真は同級生の奥さんたちです。左がデイール・ピーターの奥さんで、右がジェリー・ワースの奥さんです。現在見てみるととても若いのに驚きます。

7番目の写真は披露宴に出席してくれた同級生と奥さんです。左がディック・ホワイト夫妻と右がジム・バテル夫妻です。
こうしてあれ以来、茫々55年経ちましたが同級生の名前を皆覚えていることに我ながら驚いています。若い時に知り合った人は忘れないのですね。

若き日の冒険といささかの自慢話、その2

2016年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
前回の記事の「若き日の冒険、恥多き思い出、その1」に書いたような事情で、貧乏だった学生の私でもアメリカへの留学のチャンスを掴めたのです。
フルブライト委員会から送ってきたノースウエスト機の航空券で、羽田を飛び立ったのは1960年の8月のことでした。中学校時代の友人や親類が羽田まで多数見送りに来てくれました。日本は外貨不足で、外国への自由な観光旅行が禁止され、外貨持ち出しは60ドルまでと制限されていた時代でした。1ドル360円の時代です。
オハイオ州立大学での勉強は想像以上に厳しいものでした。
それでも1962年の8月には、Doctor of Philosophy (哲学博士)の学位記を手にすることが出来たのです。
アメリカのDoctor of Philosophyの学位を取得するための必要条件は末尾の参考資料に簡略に説明してあります。

さてこのような短期間で学位を貰えた陰にはアメリカ人の強い支援があったからなのです。それは老境にいたった現在振り返っても、胸が熱くなるような励ましといろいろな助けでした。
指導教官のセント・ピールの励ましと学位論文の指導が素晴らしかったのです。
そして15人位いた博士課程の同級生が実に親切でした。言葉が出来ない私に頻繁に行われる試験の日時と出題範囲を噛んで含めるように教えてくれます。総合学力試験の時は各教授の出題傾向まで教えてくれたのです。

その級友のなかで特に親切だったのが、かなり年上のジョージ・オートンさんでした。
ジョージとはハイオ州立大金属工学博士課程の講義に初めて出た時に会ったのです。
彼はアメリカ空軍から大学へ派遣されてきた空軍大佐でした。
驚いたことに彼はB29爆撃機を操縦して、東京へ焼夷弾を落としに何度も来たのです。
大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。非常に面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。
当時、彼は空軍大佐でしたので裕福だったのか、真っ赤なイギリスのスポーツカーのMGに乗って通学していました。
自宅での簡単な夕食に招んでくれるときは必ずこのMGに乗せてくれます。運転が上手で、なるほど飛行機の操縦をしていた人は違うと感心したものです。MGは繊細で神経質なスポーツカーで運転が難しいのです。

かなり親しくなってから彼に聞いたことがあります。
「なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか?」
彼は急に厳しい顔になって、「俺は東京や各地へB29で何十回も空襲に行ったよ。でもそんな質問は二度とするな」と言ったのです。彼はその後、戦争のことは二度と話しませんでした。

私の帰国後もジョージとは長い間、家族同士の付き合いをしました。家族一緒に熱海の旅館へ泊ったこともあります。
日本に来るときは空軍の飛行機できます。その頃は、とっくに退役していたのですが、何時もアメリカの立川基地に来ます。退役していても若い兵が荷物を持って私の車まで送って来ます。兵は直立するときちんと敬礼をして帰っていきます。嗚呼、これが軍隊なのだなと感じたものです。

ジョージの奥さんのケイが死んだのは1980年頃でした。しばらくしてから南部にジョージを訪ね、二人でケイの墓参りをしました。いつも大声で陽気に話していた彼が消え入るように沈み込んでいます。平らな白い石の墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。ジョージは何年か過ぎたときアニタという女性と再婚しました。元気を取り戻しました。

1988年、私はオランダのエルスビーア出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿の英語を逐一訂正してくれたのがジョージともう一人の同級生のジム・バテルでした。

ジョージのことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々の光景を思い出します。
そして仙台空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。
ジョージは2006年の末に亡くなりました。息子から連絡が来ました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけです。
オハイオの同級生のことはもっと書きたいことがありますが、これで止めにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料=================
「アメリカで博士の学位をとるために要求される条件」
まずアメリカで博士の学位は多くの分野でDoctor of Philosophy (哲学博士)と呼ばれていることを説明します。
それはギリシャからの伝統にしたがっています。古代ギリシャでは哲学も数学も天文学も科学も、そしてその他の分野の研究も全て哲学と称していたそうです。哲学とは宇宙の中の、勿論、地球上の全ての現象の法則性を考え、いろいろな宇宙観を提唱するものです。ですから日本でいう狭義の哲学は勿論、理学や工学や全ての研究分野でも博士号は全てDoctor of Philosophyと呼びます。
日本のように理学博士、工学博士、農学博士などという細分化した博士の学位はありません。勿論、例外はありますが、長くなるので省略します。
このDoctor of Philosophy (哲学博士)の学位を授与される為には以下の4つほどの条件を満足しなけらばなりません。
(1)大学院の十数個以上の科目の単位を取り、その成績の平均点があるレベル以上でなければなりません。そのレベルは大学によって異なりますが、それを下回った成績をとると強制退学させられます。
(2)学科の勉強と並行して自分の学位論文のテーマを指導教官に決めて貰い、その研究を続けなければなりません。工学の場合は自分で実験装置を組み立てて、授業のない夜の時間や週末に大学に行って実験を一人で行います。
(3)十数個以上の科目の単位を取りおわるとGeneral Examinationという総合的な学力試験を受けます。一日間くらいの筆記試験ですが時間に制限が無く、短時間なら図書館に行って調べて答案を書いても良いのです。
筆記試験の次の日に口頭試験があります。これが一番難しくて厳しいものです。
(4)総合的な学力試験の筆記試験と口頭試験に合格すると自分の実験結果にもとずいた学位論文を指導教官へ提出します。
その論文の審査は、4,5人の教授たちによる口頭試験で行われます。この場合重要なことは審査員の教授の1人は必ず他の学科の教授でなければならないことです。これには審査のなれ合いを防ぐ目的と、学位論文が本当に独創的で普遍的な価値があるかを評価する目的があるのです。
以上のような条件が要求されるのがアメリカの学位制度なのです。ですからアメリカでは大学院に入らないといけません。日本のように論文だけを提出するいわゆる「論文博士」という制度はありません。(名誉博士は別です。)
学位記の授与は大きな講堂で学長から手渡されます。それは伝統的な儀式で、出席する教授も学生も黒いガーンと黒い角帽子をかぶります。後ろの席には正装した家族たちが座ります。黒いガーンと黒い角帽子は大学の正門に近い貸衣装店から1日だけ借りるのです。

今日の挿し絵代わりの写真は先日、都立神代植物公園で撮ったいろいろな睡蓮の花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










トランプ氏の大統領候補決定、世界の右傾化がますます進む!

2016年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、差別主義者のトランプ氏が共和党大会で断然一位の1725票を得で、正式に共和党の大統領候補に決定しました。
この決定の影響で世界はますます右傾化すると考えられます。
ここで右傾化という曖昧な言葉の定義を致します。右傾化とは人種主義、人種差別、排外主義、移民反対主義、偏狭なナショナリズム、その他のすべての不寛容な考え方と定義します。
この世界の右傾化は、1990年頃の米ソ対立の厳しい冷戦構造の解消の頃から静かに次第に世界をむしばみ始めたようです。
ですからトランプ氏の大統領候補決定もイギリスのEU離脱もロシアのクリミア半島合併も急に起きた現象ではなく、この世界の右傾化という一見見えにくいが力強い潮流の結果として起きた現象と思われます。日本の最近の右傾化も例外ではありません。

そこで今日は世界の右傾化についてすこし広い視野で考えてみたいと思います。
まずご紹介したいのは2001年が国連主催で南アフリカで開催された「人種主義、人種差別、排外主義および関連の不寛容に反対する世界会議」のことです。
この世界会議は国連広報センターの資料、http://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/1310/ によると次のように紹介されています。
開催期間は2001年8月31日-9月7日で南アフリカ・ダーバンで開催されました。
この世界会議の目的は、国家、地域、国際レベルにおける人種主義、人種差別、および関連の不寛容の根絶を目的としたものでした。そしてその目的の為に不寛容主義の防止や教育をどのようにすべきかを討議したのです。
その会議の趣旨は次のように説明されています。
・・・・最新の技術により世界中の人々が密接に結びつき、政治の境界線が取り外されても、人種差別、排外主義、および関連の不寛容は依然として私たちの社会を荒廃させています。近年「民族浄化」をはじめとする様々な恐怖が現れ、人種的優越という考え方がインターネットなど新しい情報手段を通じて広まっています。グローバル化が進んでも、民族および人種主義という点から見ると、様々な危険性を内包しており、それが排他主義を生み、不平等をさらに増すことにもなりかねないのです。・・・・

この世界会議は1990年代に準備され2001年に開催されています。
ここで驚くべきことは上記に描かれている世界の状況こそ、現在まさにアメリカ、ヨーロッパ諸国、そして日本でも起きているのです。
それは深い海の底を流れる大きな潮流のようなもので個人の力では変えることが非常に困難です。

次にこの潮流の影響の一例として、最近のドイツの右傾化の現象を報じたものをご紹介致します。
「「世界中で右傾化が止まらないない」 ⇒ 欧州が右傾化、排外主義が勢力拡大!ドイツでは毎週の反イスラムデモが恒例化 」
公開日、2016年1月21日、http://mizuhonokuni2ch.com/blog-entry-7862.html より抜粋。
・・・ 欧州で台頭しつつある反移民感情とナショナリズム運動はフランスの風刺週刊紙シャルリー・エブド銃撃事件を利用し、かつてないほどの切迫感をもって長年訴えてきた彼らの主張をさらに広めようとしている。それは文化的アイデンティティーの喪失だ。
ドイツで結成されたばかりの政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の幹部、アレクサンデル・ガウラント氏は「この流血(仏紙銃撃事件)は、イスラム主義の脅威についての不安を無視したり笑い飛ばしたりする人が間抜けであることを示している」と述べた。「ドイツのための選択肢」は移民を制限し、ドイツがユーロ圏から脱退すべきだと主張している。
 これまで、こうしたレトリックは非主流政党のたわ言として直ちに退けられていた。ただ、ここ数年はフランスやオランダ、英国でこのようなナショナリズムを打ち出す政党の躍進が目立つようになっている。伝統的な生活様式が脅威にさらされているという、欧州市民の間で高まる不満がこれを後押ししているからだ。 ・・・中略
・・・仏紙銃撃事件は特にドイツにとって重要な時期に発生した。ドイツでは毎週月曜日に東部ドレスデンで反イスラムデモが恒例化し、ここ数カ月で国全体が揺らぐようになっていたからだ。
 ベルテルスマン財団が8日発表した最新調査によると、イスラム主義は西側世界と融和できないと考えるイスラム教徒以外のドイツ人の割合が昨年11月時点で61%となり、2012年の52%から上昇した。・・・・

さて世界の右傾化のもう一つの例として「福祉国家とは、差別国家の別の名前である」というアメリカとヨーロッパを比較したネット情報をご紹介いたします。以下は[橘玲の世界投資見聞録];http://diamond.jp/articles/-/85030 よりの抜粋です。

以下の文脈は判り難いので、その主張を最初に書いておきます。ヨーロッパの国々は高福祉です。ですから移民が増大すれば福祉制度が崩れるので移民反対なのです。米国に極右政党が存在しないのは、福祉が貧困だからだという主張です。しかしトランプ氏は移民反対なのでそのうちアメリカもヨーロッパのようになると私は思います。
・・・米国では4000万人が医療保険に加入していない。高齢者と貧困層のための公的医療保険はあるが、アメリカ人の多くは企業が提供する医療保険プランを利用している。労働ビザを持たない不法移民はもちろん、自営業者や失業者も自分の身は自分で守るしかない。
米国の貧弱な社会福祉に比べて、ヨーロッパは公的年金や医療保険、失業保険が充実している。日本が目指すのは、そうした福祉国家だと言われる。
ドイツやフランスをはじめとして、ヨーロッパ諸国はどこも極右政党の台頭に悩まされている。それに比べて米国では、人種差別的団体は存在するものの、移民排斥を掲げる政党が国会で議席を獲得することはない。
一見、無関係に見えるこのふたつの話は、同じコインの両面である。米国に極右政党が存在しないのは、福祉が貧困だからだ。ヨーロッパで組織的・暴力的な移民排斥運動が広がるのは、社会福祉が充実しているからである。
国家は国民の幸福を増大させるためにさまざまな事業を行なっている。その中で、豊かな人から徴収した税金を貧しい人に再分配する機能を「福祉」という。・・・中略
アフリカ諸国やインドなど最貧国では、国民の大半が今も1日1ドル以下で生活している。東ヨーロッパの最貧国であるルーマニアでは、1日4ドル以下で暮らす国民が半数を超えるという。先進諸国の社会的弱者は、世界基準ではとてつもなく裕福な人たちだ。彼らが極右政党を組織して移民排斥を求めるのは、福祉のパイが限られていることを知っているからだ。
貧乏人の子供は貧乏のまま死ぬのが当然、と考える人はいないだろう。不幸な境遇に生まれた人にも、経済的成功の機会は平等に与えられるべきだ。では、貧しい国に生まれた人にも、豊かな暮らしを手に入れる機会が与えられるべきではないだろうか。
ここに、貧困を解決するふたつの選択肢がある。ひとつは、世界中の社会的弱者に平等に生活保護を支給すること。そのためには天文学的な予算が必要になるだろう。もうひとつは、誰もがより労働条件のよい場所で働く自由を認めること。こちらは、何の追加的支出も必要ない。
北朝鮮や旧イラクのような独裁国家には移動の自由はなく、国民は政治的に監禁されている。福祉国家は厳しい移民規制によって、貧しい国の人々を貧しいままに監禁している。誰もが独裁国家の不正義を糾弾して止まない。では、福祉国家は正義に適っているだろうか。
米国ではベビーブーマーが引退の時期を迎え、社会福祉の充実が叫ばれている。それに伴って、移民規制は年々、厳しさを増している。米国がごくふつうの福祉国家になる時、「移民の国」の歴史は終わりを告げるだろう。
福祉国家とは、差別国家の別の名前である。私たちは、福祉のない豊かな社会を目指すべきだ。・・・・・

世界の右傾化は単純に移民反対だけの理由で強くなるものではありません。保護貿易主義から民族文化の保護まで種々の要因によって進行する社会現象です。それは複雑怪奇としか言いようのない難しい問題なのです。

しかし困った問題です。人類の将来が危惧される重大問題だと私は考えています。
皆様からコメントを頂けたら嬉しく思います。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、都立浅間山公園で撮ったヤマユリの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「今日の日記と花の写真」

2016年07月20日 | 写真
今日は曇りであまり暑くありませんでした。
午前中に都立浅間山公園の主峰に登って来ました。昨年の秋からもう登る脚力が無くなったと登るのは止めていた丘です。
最近、自宅で階段を登るトレーニングを毎日続けていた効果が出て、軽く20分くらいで頂上に着きました。
80歳になっても毎日トレーニングを続行すると筋肉も少しはつくようです。
1番目の写真は今日登った頂上へ続く階段です。
2番目と3番目の写真は雑木林の中に咲いていたギボウシの花の写真です。
午後からは昼寝をして、ある人を車で迎えに行く用事をしました。
老境の平穏な日がこうして今日も流れて行きます。幸せに感謝します。





若き日の冒険、恥多き思い出、その1

2016年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム
若い頃は冒険をしがちです。老境にいたり振り返って考えると、私の場合は随分と無謀な冒険だったと思います。そしてそれは何故か恥ずかしい思い出でもあります。
しかし懐かしさのあまり、今日から若い頃の思い出を書いてみたいと思います。なるべく現在の若者にも少しは参考になるように広い視野で書き進めて行きたいと思います。
今日の主題は貧乏な若者がどうのようにしてチャンスを掴んだかというお話です。それは時代が変わっても夢のある若者には少しは参考になると思います。
私の高校や大学時代は1951年から1958年の7年間でした。戦争で徹底的に焼き尽くされた街々はまだ舗装もいきとどかず、風の日は土埃が舞い上がっていました。雨の日は泥濘の道になります。食べるものも貧しく、毎日、塩漬けのタラやイワシでご飯を食べていました。肉はめったに食べられません。鯨肉のみそ焼きがご馳走でした。スーパーもコンビニもファミレスも一切存在していません。
お米は統制で、まだ配給制度が残っていました。
自動車の少ない道路を進駐軍のジープだけが我が物顔に疾駆しています。
ある時、ジープの白人兵からチューインガムを貰ったことがあります。甘い夢のような味がしました。途端に、私は「アメリカへ留学するぞ!」と決心しました。
大学に入ってからは本格的に英会話の勉強を始めました。当時は現在のように英語の専門学校などありません。
キリスト教関係のYWCAに行ってアメリカ人の女性から英会話を習いました。その上、進駐軍の家の「ハウス・ボーイ」になりその家の雑用をしました。台所の皿洗いもしました。当時は男子厨房に入らずと言われていた時代だったので恥ずかしい思いをしました。
ある日の夕方、その家の主人が仕事から帰って来ました。ごく短時間だけ話し合ったのです。
私がアメリカへ留学したいと言ったら、とても重要な情報をくれたのです。それはアメリカの大学の工学部の教授たちは大学院の学生に最低限の生活費と月謝を支給してくれるという情報でした。彼も軍務が終わった大学の工学部へ戻って学位をとると言ったのです。
彼と会ったのはそれが最初で最後になりました。ハウス・ボーイの仕事が恥ずかしく、その上なかなか厳しいものだったので1か月で辞めてしまいました。
さてそこから私の冒険が始まりました。
当時、私は大学で金属工学科に通っていました。その学科の図書室にはアメリカの金属工学の専門の月刊誌があるのです。そこにはアメリカの大学の教授たちが書いた研究論文が沢山掲載されています。
恥ずかしいことですが手当たりしだいにアメリカの有名大学の教授たちへ、最低限の生活費と月謝を支給してくれませんかという手紙を10通くらい出したのです。敗戦国の一介の青年がこんな手紙を出したのです。今考えると無謀でした。
ところが2つの大学から支給するという返事が来たのです。
一つはオハイオ州立大学のセント・ピエール教授からでした。二つ目はピッツバーグのカーネギー工科大学のダーギ教授からでした。
二つの返事の支給額を比較するとオハイオの方が多いのです。貧乏だった私は迷わずセント・ピエール教授へ行きますと返事をしました。
ダーギ教授はお礼状を送りました。後年、ダーギ教授に会う機会があったので、直接お礼を述べました。
さてアメリカでの生活費と月謝の問題は解決しました。
問題は渡航費です。当時の大学卒の初任給は1万円ぐらいでした。アメリカへの飛行機代は25万円位でした。
航空運賃が年収のやく2年分位に相当していたのです。当時は業務以外の外国旅行は厳禁でした。勿論、私的な旅行や観光旅行は一切禁止です。その上、外貨持ち出し禁止で、留学や業務でアメリカへ渡る場合は60ドルまでが許されていた時代です。それではとても足りなくてアメリカへ行く人は闇ドルを怪しげな方法で買って持参していたのです。
私の父はとても渡航費は出せないと言います。
万策尽きた私は急に東京に行きました。そして赤坂にあったフルブライト委員会の事務所に行ったのです。そしてセント・ピエール教授から貰った返事を見せました。そうしたら中年男性のアメリカ人の事務所長が、すぐに渡航費は出すから仙台に帰って待っていろと言ったのです。
1ケ月ほどしてアンカレッジ経由、シカゴ乗り換えのオハイオまでのノースウエスト社の往復航空券が書留郵便で来たのです。
セント・ピエール教授の所へ行きました。そして彼には公私にわたり非常にお世話になったのです。現在でもメールの交換をしています。
長くなるので、この辺で止めます。
上に書いたささやかな冒険を、現在思い返すと時代の変化の大きさに茫々とした想いです。
しかし現在でも、夢を持った若者は沢山います。彼等がそれに向かって努力を続ければ、夢は必ず実現するのです。夢の実現には無謀な冒険もいとわないことです。多少の恥も捨てさりましょう。そんな一例を書いてみました。
今日の挿し絵代わりの写真は先日、神代植物公園で撮ったいろいろなランの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









安倍政権の日本の報道の自由度世界ランキングが72位に下落

2016年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の私共は毎日のようにマスコミ情報を見たり読んだりしながら日常生活をしています。
成程、そうですねと納得し、読み流し、忘れてしまう報道もあります。その一方、これは問題だ、間違った報道ではないかと引っかかって、何時までも心に残る報道もあります。
その一つの例が、現在の日本の報道の自由度の世界ランキングが180ケ国中で72位だという報道です。
この日本のランキングは2010年には11位と高かったのですが、次第に下がり、安倍政権になってからランキングが下落して遂に72位になったのです。
そこで今日は以下の順序でこの問題を考えてみたいと思います。
(1)2010年には日本が世界で11位だった日本が2016年には72位になったのは本当か?
(2)フランスのNGO「国境なき記者団」の評価は信用出来るか?
(3)「国境なき記者団」の評価とアメリカのNGO「フリーダムハウス」の評価の比較検討
(4)日本のランキング下落の原因は安倍政権という理解の浅薄さ
(5)報道の自由度の調査機関がフランスとアメリカにあり日本に存在しないことこそ問題にすべき

以上は私自身の問題提起であり、詳細かつ正確な解答は書くつもりはありません。解答は皆様自身でお考え頂ければ嬉しく思います。
それでは上記の各項目ごとにもう少し説明を書いて行きます。

(1)2010年には日本が世界で11位だった日本が2016年には72位になったのは本当か?

答えは明快です。「国境なき記者団」の評価が正しいと仮定すると日本のランキングはここ数年でどんどん下落しているのです。
以下は、日本大学大学院知的財産研究科のHP(http://nihon-u-gs.jp/journalism/article/328/ )からの抜粋です。
・・・日本のランキングは2002年から2008年までの間、20位代から50位代まで時代により推移してきたが、民主党政権が誕生した2009年から17位、11位とランキングを上げた。2008年までの間は欧米の先進諸国、アメリカやイギリス、フランス、ドイツと変わらない中堅層やや上位を保っていたが、民主党政権誕生以降、政権交代の実現という社会的状況の変化や、政府による記者会見の一部オープン化もあり、2010年には最高の11位を獲得している。
しかしながら、2011年の東日本大震災と福島第一原発事故の発生の後、2012年のランキングでは22位に下落、2013年には53位、2014年には59位を記録した。そして今年2015年にはついに過去最低の61位までランキングを下げる結果となった。自由度を5段階に分けた3段階目の「顕著な問題」レベルに転落した状況である。・・・・
そして2016年には72位まで下落したのです。
ですから(1)の問題提起の回答は、正しいもので、日本はどんどん下落してきたのです。

なお、このランキングの上位グループはフィンランド、ノルウェー、デンマークなどの北欧諸国です。そしてアメリカやイギリス、フランスといった先進国は、その時代情勢によって10位代から40位代の中間よりやや上位を推移しています。また、中国や北朝鮮、ベトナム、キューバといった社会主義諸国のランキングは170位代前後を推移し、常に最下位レベルにあります。中東のシリアやイラン、などのアラブ諸国などのランキングも常に最下位レベルにあります。

(2)フランスの「NGO「国境なき記者団」」の評価は信用出来るか?

「国境なき記者団」(http://en.rsf.org/ )は、世界の報道の自由や言論の自由を守るために、1985年にパリで設立された世界のジャーナリストによるNGOです。
毎年発表される世界180か国と地域のランキングの評価方法は、マスコミの独立性、多様性、透明性、自主規制、インフラ、法規制などの側面から客観的な計算式により数値化された指標に基づいたランキングということになっています。
詳細は省略しますが、ランキングは何番と表現しますが、例えば1番と72番の日本の差はそんなに大きくは無いかも知れません。自由な民主主義国の間の報道の自由度はランキングの番号の差ほど大きなものでは無いと私は感じています。
しかしランキングは相対的に報道の自由度の大小をかなり正しく評価していると考えられます。
従って「国境なき記者団」の評価は信用出来るか?と問われれば、「それなりに信用出来る」というのが私の答えです。

(3)「国境なき記者団」の評価とアメリカのNGO「フリーダムハウス」の評価の比較検討

この問題に関しては、以下のような詳細な検討結果があります。
「報道の自由度ランキングは、どう偏っているのか」(言論プラットフォーム、アゴラ)
http://agora-web.jp/archives/2019382.html
この検討結果は是非ご覧ください。しかし重要な2ケ所の部分だけをご紹介いたします。
1、両方の評価がカバーする評価対象は179カ国です。その中での日本の順位は、フリーダムハウスが33位、国境なき記者団は72位です。72位 に対して33位となれば、違いは大きいいと言わざるを得ません。しかし日本のランキングは決してトップグループにはありません。
2、偏りがあるのは当たり前。
「報道の自由度ランキング」はどちらも偏っているし、そうなるのは当然のことだと言うのです。こうした定性的な評価に基づく指標には、ランキング作成者の「価値観」が必ず反映されるからです。
両ランキングの相対的な偏りがより顕著に表れているのが、地域ごとの扱いの違いだ。国境なき記者団がフリーダムハウスと比べ特に厳しく評価したのは、もちろん日本だけではない。
国境なき記者団が最も厳しく評価した国はフィリピンで、以下、インド、マリ、インドネシア、ブルガリア、イスラエル、東チモール、モンテネグロ、日本と続きます。
実は、二つのランキング順位の差を地域ごとに平均すると、アジア太平洋が断然、国境なき記者団が相対的に厳しい態度をとっていることが分かります。フリーダムハウスは相対的にアジアに優しいようです。
逆に、ユーラシア(ロシア等)に対しては、フリーダムハウスの方が相対的に厳しく、国境なき記者団は相対的に優しいのです。
米国のNGOがアジアに相対的に寛大で、フランスのNGOが旧ソ連地域に相対的に寛大だという傾向には、ヨーロッパ人のものの見た方でしょうか。

(4)日本のランキング下落の原因は安倍政権という理解の浅薄さ

報道の自由度のランキングは2002年から「国境なき記者団」よって発表されています。
それによると日本のランキングは2010年の11位から毎年下がっています。
ですから安倍政権時代の報道の自主規制によって下落したという言い方はいかにも雑過ぎると感じられます。日本の社会が、すなわち国民の一人一人が報道の自由というものに対する考え方が変わって来たためと考えるべきです。この項目の考察は難しいので省略します。
しかしランキング下落の原因を安倍政権だけに求めるのは浅薄過ぎると感じています。

(5)報道の自由度の調査機関がフランスとアメリカにあり日本に存在しないことこそ問題にすべき

日本に対しては従来から外国人は日本独特の各官庁ごと、県庁ごと、大会社ごとに組織してある記者クラブの閉鎖性を非難しています。
ですから日本に来て取材した経験のある記者は日本には取材の自由は無いと非難します。
こんな事情もあって日本に対する評価が厳しくなるのかも知れません。
その誤解を解くためにも日本にも「報道の自由度の調査機関」を作ることが重要ではないでしょうか?
「報道の自由度の調査組織」が日本に存在しないことこそ問題にすべきで、将来このような組織を国内に作るべきではないでしょうか?

その他、この問題に関連した情報が出ているURLを示しておきます。 
http://www.asahi.com/articles/ASJ4N0SHDJ4MUHBI02M.html

今日の挿し絵代わりの写真は先日、神代植物公園で撮ったダリアの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











「天皇の生前退位」」に驚く人、驚かない人

2016年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
先の参議院選挙で自民党などの改憲派が三分の二以上の議席に増加し、改憲が可能になりました。
その数日後、現在の天皇が生前退位を望んでいるというニュースがNHKテレビで発表されました。
このニュースで私は大変驚きました。しかし街頭インタビューを見ると多くの中年から若い人は驚いていません。
そのことに私はまた驚きました。
そこで今日は、「「天皇の生前退位」に驚く人、驚かない人」という記事を書いてみようとと思います。
結論を先に書けば驚く人は小生のような後期高齢者に多いようです。それに対して驚かない人は中年から若い人々に多いようです。
その理由に進む前に、以下のような驚くべき一部の人の変わった解釈をご覧ください。

「明仁天皇の「生前退位の意志表明」は安倍政権と日本会議の改憲=戦前回帰に対する最後の抵抗だった!」
http://lite-ra.com/2016/07/post-2416_2.html(以下は前後の文章を省略した抜粋です。)
・・・・実は、生前退位というのは江戸時代後期までの皇室ではしばしば行われていた。ところが、明治になって、国家神道を国家支配のイデオロギーと位置づけ、天皇を現人神に仕立てた明治政府は、大日本帝国憲法と皇室典範によって、この生前退位を否定、天皇を終身制にした。「万世一系」の男性血統を国家の基軸に据え、天皇を現人神と位置づける以上、途中で降りるなどということを許すわけにはいかない。終身制であることは不可欠だったのだ。
 つまり、明仁天皇はここにきて、その明治憲法の真髄とも言える終身制をひっくり返し、真逆の生前退位を打ち出したのである。天皇が生前に退位するということは、天皇は国家の「役職」にすぎないということを示すことだ。役職だから、時期が来たら退位する。役職を果たせなくなったら交代する。もし、これが制度化されたら、天皇をもう一度、現人神に担ぎ上げ、国民支配のイデオロギーに利用することは難しくなる。そのために、天皇はこの「生前退位の意志」を明確にしたのではないか、というのだ。・・・・・・

私は改憲賛成派なので上に書いてある理由を信じていません。天皇は単純に年老いて公務が辛くなったので退位を望んでいるに過ぎないと理解しています。
しかしこれから書く「驚いた人」の説明に便利な部分が含まれているのでご紹介しました。
高齢者は何故驚いたのでしょうか?
それは深い考えもなく、天皇は終身の地位であると思っていたからです。特に上の文章にあるように明治、大正、昭和の3人の天皇は崩御されるまで天皇の地位にあったのです。
そして私の心の中には戦中の国民学校で教わった、「天皇は現人神である」ということが焼き付いていたから驚いたのでしょう。
驚いた次の瞬間、私は退位をする、しないは天皇の基本的人権なのだから、本人が希望する以上、速やかに退位を認めるべきだと思いました。
それは安倍総理や菅官房長官が、「コメントを差し控える」というような曖昧な態度を示していることに反発を感じたからです。

基本的人権とは神から与えられた最低の人間の権利です。ですからこそ欧米諸国の王にはあらかじめ生前退位の規定があります。
この前のローマ法王ですら生前退位をしたのです。
この生前退位は天皇の人間としての基本的人権であり、全ての法律には縛られないという考えなのです。
この考え方はあまり多くの人々に賛成されないかも知れません。しかし私はこの理由で天皇の退位を速やかに認めるべきと信じています。

さてこの一方で生前の退位に驚かない若い人の考え方を見てみましょう。
現在の若い人は天皇の地位を国家の役職の一つと考えているようです。役職である以上、停年も依願退職もあります。ですから本人が辞めたいと言うなら辞めさせれば良いと明快です。
最近の日本では転職が増加していますし、早期退職も普通のことです。それを考えれば生前退職は自然なことです。
何も辞職は基本的人権だというような面倒な議論など必要ないのでです。

その上、平成天皇は震災犠牲者や先の戦争の犠牲者の慰霊の旅を28年間も丁寧にしてきたのです。その上、いろいろなご公務が多く年間240日あまりも公務があるそうです。
お疲れになられたことでしょう。
もう引退して静かな老後を過ごして頂きたいと思う人も少なくない筈です。
それなのに皇室典範に退位の規定がないから退位は認められないので執政を置けばよいという政治家が多いようです。困ったものです。
彼等は基本的人権などには頓着しないのです。

皆様のご意見をコメントとして頂けたら嬉しく思います。
今日の挿し絵代わりの写真は神代植物公園で撮ったベゴニアの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









今日は都立桜が丘公園の雑木林の中を小さな山に登ってきました

2016年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、家の中で足の筋肉をつける運動を毎日しています。3週間ほど続けたので少し足が丈夫になったような気がします。そこで午後から都立桜が丘公園の小山を試しに登ってみました。
雑木林の中の階段を100m位登ると丘の頂上に着きます。
筋肉をつけるトレーニングは意外にも効果があって頂上まで一気に登れました。
今年の1月に80歳になった途端気のせいか体力が落ちてしまい、以前は軽々と登っていた小さな丘にさえ登れなくなっていました。
3週間前に一念発起して筋肉トレーニングを始めて、以前よく登っていた高尾の山々へまた少しは登れるようにしようと思っています。
今日はカメラを持って行かなかったので写真をお借りして、先程登ってきた階段を1番目の写真に示します。

この写真の出典は、https://www.bing.com/images/search?q=%e6%a1%9c%e3%81%8c%e4%b8%98%e5%85%ac%e5%9c%92%e5%86%99%e7%9c%9f&view=detailv2&qpvt=%e6%a1%9c%e3%81%8c%e4%b8%98%e5%85%ac%e5%9c%92%e5%86%99%e7%9c%9f&id=112CF992D75993DF402074007239289FF0EC7B2B&selectedIndex=27&ccid=280wSmed&simid=608030523940077702&thid=OIP.Mdbcd304a679d25fce04d00b9e0693757o0&ajaxhist=0 です。
ついでに昨日、神代植物公園を歩いているとき道端に咲いていた花々の写真をお送りします。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

この2番目の写真はクロレデンドルム・ウガンデンセの花です。