後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「疎開生活とドジョウ汁の思い出」

2024年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
生まれ育った仙台は終戦直前の7月10日に焼け野原になってしまいました。100機のB29が焼夷弾をばらまいて焼け尽くしました。その後すぐに私は弟2人と共に宮城県の北の農村に疎開しました。そこでドジョウ汁を初めて食べ食べました。農家の夕飯によく出たのです。
散歩する度にそんなことを時々思い出します。武蔵野公園の「どじょう池」の傍を通る度に思い出すのです。
1番目の写真は武蔵野公園の「どじょう池」です。
2番目の写真は「どじょう池」の看板です。
この付近は湿地帯でや沼が沢山あります。そこにはドジョウが沢山棲んでいます。昔からこの地の人々がそのドジョウを食べていたのです。
この「どじょう池」を見る度に私は昔の疎開生活を思い出します。そしてよく食べたドジョウ汁を思い出します。
3番目の写真は私が疎開した宮城県の北の農村によく似た農村の風景です。写真はインターネットからお借りしました。
疎開した農家で馬を飼っていました。珍しいので草をよく食べさせました。
4番目の写真は大鍋がぶら下がった囲炉裏の写真です。。写真はインターネットからお借りしました。
疎開した農家では朝と昼の2食には白米が出ました。夜は囲炉裏の大鍋でスイトンを煮て食べました。皆で車座になってスイトンを食べるのです。その時水田の水路で取ったドジョウをたくさん入れるのです。濃厚なドジョウ汁です。ドジョウには脂がのっていて芳醇な味わいです。
食糧難の仙台から疎開したのでドジョウ汁は大変美味しいご馳走でした。感動的な食べ物でした。
その感動は忘れられません。それから暫くして東京に住むようになりました。そうしたら東京にドジョウの専門店があったのです。浅草の「駒形どぜう」です。

5番目の写真は浅草の「駒形どぜう」の本店です。写真はインターネットからお借りしました。
「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は埼玉県北葛飾の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。それが現在の「駒形どぜう」の本店になったのです。
「駒形どぜう」で疎開先の農家で食べたドジョウの美味しさを思い出して浅草の「駒形どぜう」の本店に家内と一緒に行きました。
6番目の写真は「駒形どぜう」の丸どじょぅ鍋です。
7番目の写真は「駒形どぜう」の柳川鍋です。
「駒形どぜう」のドジョウは淡白で泥臭くないのです。妻は初めてドジョウを食べましたが泥臭くないので美味しいと言います。しかし私は少し泥臭い芳醇な味が忘れられません。疎開した農家で食べた味が忘れられません。

今日は泥鰌にまつわる思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

1 コメント

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懐かしいです (植木屋)
2024-05-13 12:37:22
当方、ブログ主さまより一回り下の年金生活者です。私が生まれ育ったのは、まさにブログ主さまの疎開された宮城県北方、登米郡です。恐らく疎開されたのは登米・栗原あたりではなかろうかと推測いたします。泥鰌には懐かしく、かつ何だか物悲しい思い出があり、今でも好んでは食べません。私を溺愛してくれた祖父は、現金収入がなかったので、遠足やお祭りがあると泥鰌をとって売り、それを私の小遣いとして呉れました。おかげで私は惨めな思いをしなくて済んだわけです。何度か妻にその話をしましたが、先日、もうその話はやめてと言われてしまいましたです(笑)。

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