後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ある朝鮮の少年の思い出と鍋いっぱいの牛肉

2014年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は終戦直後に一緒に遊んだある朝鮮の少年の思い出を書いてみたいと思います。終戦直後の頃よく朝鮮人一家の家に遊びに行っていました。その家の少年のことです。
自分の家から小さな谷を越した向こうの台地が昔牛飼いの牧場になっていました。戦争が激しくなり牛のいない牧場は草ぼうぼうの荒れ地になっていました。その畜舎の事務室にその朝鮮の一家は住んでいたのです。
父母と、私と同じ10歳くらいの色の白い男の子がいました。気立の優しい子でいつもニコニコして私を歓迎してくれます。
日本の小学校へ行くのが厭なのか何時も家で独り遊びをしています。彼の父も母も私を歓迎して時々は朝鮮風のお菓子をもらったこともありました。
その父がある夜に何処からか牛を一頭引いて来て夜中に牧場の片隅の4本の杭に縛りつけて撲殺したのです。牛がなかなか死なないで、悲しそうな鳴き声が長い間聞えていました。
翌日遊びに行くと、父が大きな両手鍋一杯に生の肉の塊を入れて、「上げるよ」と言います。家に持って帰りすぐに鍋を返してくれと言うのです。
当時はひどい食料難で肉などは見た事もありません。私の父母も非常に喜んでいました。味は忘れてしまいましたが大きな鍋一杯の大きな牛肉の塊の重さは忘れられません。その後しばらくしてその朝鮮人の一家は何処かにフッと消えてしまいました。懐かしい人々です。
このような体験があるので私はあの朝鮮人一家のことを懐かしく思い出しています。
それから時代は変わりましたが、あの少年のことや鍋いっぱいの生の牛肉のことを想うと朝鮮人を懐かしく思います。
最近、韓国人のことを悪く言う人がいます。しかし私は同調しません。鍋いっぱいの生の牛肉の恩義は終生忘れないのです。笑われるかも知れませんが私はそんな小さなことにこだわる小人なのです。 今日の挿絵は 韓国 慶尚南道 海印寺への参道わきの渓流の写真です。
(出典は、http://www.kakura.jp/hw/photos/001/005_2002-12_photos_haeinsa.html です。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

深大寺に詣り、新ソバを賞味してきました

2014年10月30日 | 写真
深大寺の写真3枚と蕎麦屋の写真2枚をお送りします。
 関東には奈良、京都と異なり、古いお寺が多くありませんが、深大寺は天平五年、733年に満功上人が創建しました。その深沙大王を祀ったお堂が現在の深大寺の前身です。現在も深大寺の西約100m位の場所に深沙大王堂があります。境内にはいくつかの御堂があり、大きな枝垂れ桂・金木犀・なんじゃもんじゃの樹が枝を拡げています。
 それはさておき、寺の門前には多くの蕎麦屋があります。今日は広い駐車場がある「多聞」に入りました。評判の良い店で、私たちが店を出る時には店の前に行列ができていました。









時代が変化すると社会風潮や人々の考えが非常に変わる

2014年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前生まれ、戦後育ちの私は随分といろいろな時代を生きてきたものだという感慨にとらわれます。
今、振返ってみると、日本の社会風潮も人々の考え方も時代によって大きく変わりました。今日は大雑把に戦後の社会風潮の変化を描いてみたいと思います。
まず戦後の復興期と経済の高度成長期の間を概観してみましょう。
この期間の特徴は日本には復興と経済成長という明確な国家目標が厳然とあったことです。
そして、この期間には東京オリンピックがあり大阪万博などがありました。そして日本の貿易も次第に増加し国際化が進みました。そのような社会がバブル経済の崩壊の起きた1990年頃まで続きました。
人々の人生観は工業技術の向上と経済の高度成長というlことに大きく影響を受けていました。中央省庁の官僚達と政権与党の政治家達はこの国策に協力する人々こそ価値があると言わんばかりの風潮でした。
私共は無意識に影響を受け技術向上と経済成長に努力することが一番重要なことと信じていました。人生に迷いが無かったのです。
現在の若者が「自分探しの旅に出る」とよく言いますが、1990年以前の多くの人々にとっては人生は自明のことで「努力」が大切にされたのです。
それが1990年以後、豊かになってしまった日本には強烈な国家目標が無くなってしまったのです。その後の混迷と戦後体制からの脱却については続編で考えてみたいと思います。
今回は自分の人生観が日本の国家目標に強く影響を受けていたことに気がついたキッカケを書いてみたいと思います。
そのキッカケは外国に2度住んだ体験でした。家族と一緒にアメリカとドイツに住んだのです。この時家族と一緒ということがその国のいろいろな側面を知る上で非常に重要だったのです。
まず驚いた事はアメリカでもドイツでも人々の考え方が日本と非常に違う事です。そしてアメリカとドイツの間も非常に違うのです。
1962年から64年に住んだアメリカは日本で観念的に考えていた自由と平等の国ではなかったのです。自由と平等は人生の勝者だけの間にあったのです。負け組の白人と黒人は差別され苦難の人生を送っていたのです。彼等はそれが当たり前の人生だと考えていたようです。すくなくともキング牧師が活躍するまでは。
もう一つ驚いた事は白人も黒人も徴兵制度に賛成し、愛国心に燃えていたことです。
世界を制覇してアメリカがローマ帝国のようになる事を望み、またそれを信じていたのです。当時の最大の敵は共産主義のソ連圏と中国でした。当時はイスラム圏はアメリカの敵ではなかったのです。
このようなアメリカの風潮もベトナム戦争ですっかり変わってしまいました。
一方、西ドイツには1969年から1970年にかけて住んでいました。住んでみるとドイツ人の考え方はあまりにもアメリカと違います。彼等はアメリカの自由と平等などあまり信用しません。そして何事においても伝統を重視し、伝統的な考え方で問題を解決しようとします。
人生観や職業観においても中世の親方(マイスター)を尊敬する徒弟制度が背景にあります。ですから一生の間、職業を変えず、可能なら子供に継がせようとします。
その上宗教改革の折に起きた30年戦争の話題を好んでします。そしてドイツという国家は昔の幾つかの王国の連合体のような考え方をします。その考え方は日本の人の国家観と非常に違います。
私共の住んでいたシュツットガルトは昔シュバーベン王国でした。そこの新聞の空き家の広告を見ると、「借り手はシュバーベン人に限る」という条件が付いているのです。そこで私は研究所のシュバーベン人を連れて行って、保証人になって家を借りた経験があります。
アメリカでは黒人は別にして誰にでもアパートを貸していました。
ドイツは日本と組んで第二次世界大戦を戦いました。それはドイツの国家方針でした。その昔の国家方針の影響で日本人に親切にする人が多かったのも吃驚ものでした。
しかし1989年ソ連のベルリンの壁が崩され、冷戦が終結し、東西のドイツが統一されるとドイツ人の風潮が変わったようです。一方ではヨーロッパ連合が強化され通貨はユーロになりドイツの通貨のマルク、ペーニッヒも無くなってしまったのです。
当然ドイツの中世以来の「伝統主義」が崩れてきたようです。ドイツは日本とは違いますが「戦後体制」から脱却したのです。
今日、強調したいことは、日本もアメリカもドイツもその社会風潮が時代とともに非常に大きく変化するということです。当たり前のことですが時々このようなことを考えることが重要だと信じています。現在、自分が何処にいるかを知ることが出来るのです。
今日の挿絵は秋の空と川の流れの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今年の冬の準備のため初めて薪ストーブを焚く

2014年10月29日 | 写真
一昨日、甲斐駒岳の麓の小屋に入り、冬の準備のために薪ストーブを焚いて煙突の具合を調べました。去年、新品に替えた煙突はつなぎ目から煙も漏れることも無くゴウゴウと燃え上がりました。一番目の写真がその薪ストーブです。

そのストーブの左上の窓から見た小川の風景を二番目の写真に示します。

小屋は小川の流れているような低い場所にあるので見晴らしが良くありません。
三番目の写真にあるような東側の斜面の紅葉の下を登ると一挙に視野が広がります。

四番目の写真が視野が開けた牧草地の風景です。

あやしげな雲です。反対側の西方向の甲斐駒あるの筈の空の写真を撮ったのが五番目の写真です。

小屋のある場所は観光地でもなく、また洒落た別荘地でもない深い森に囲まれた淋しい場所にあります。鹿と猿と猪の生息地です。空気だけは滅法、新鮮で美味しい場所です。写真からご想像頂けたら嬉しいです。

共産党独裁国家、中国の人々の生活は我々と同じような日常生活

2014年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
「革命は銃口から生まれる」という物騒な共産主義をかかげた独裁国家の中国は、我々日本にとって恐ろしい国のような感じがします。
中国の共産党独裁政権内の権力闘争や中国海軍の増強と尖閣諸島の領海侵犯などのニュースを見ると非常に殺伐とした社会のように思えます。
しかし中国国内に住んで、日本の工場で働いている人の話を聞くと、中国の社会は日本と同じような家庭生活をしているそうです。
それを示すような道教寺院で撮ったスナップ写真を頂いたので以下にお届けいたします。道教は中国の民間信仰で、日本の神道のような多神教の宗教です。
そして道教は仏教と儒教とともに中国の三大宗教と言れています。ですから大部分の中国人はこの三大宗教を信じています。
その他に2305万人のキリスト教信徒や1800万人のイスラム教徒がいます。
中国の仏教はおもにチベット仏教(ラマ教)と、日本と同じ大乗仏教です。詳しくは末尾につけた参考資料:「中国の宗教事情」をご覧下さい。
最近、中国は宗教ブームでいろいろな宗教が活性化しています。
その理由は独裁政治を続けている中国共産党が「共産党へ楯突かない限り」、宗教の自由を大幅に認めているからです。
中国の民主化を主張したり、独裁政治を批判しない限り、自由に宣教して良いのです。
ただし全ての宗教組織は政府へ届けるのが命令されています。
この宗教の流行は今後も続き、中国では宗教はますます盛んになると思われます。
そこで中国の宗教や信仰の中身を理解すれば中国人への理解が一段と深まります。それを理解するカギになるのが道教です。
道教寺院は日本の神社のように大小さまざま何処にでもあります。
道教には理路整然とした明快な教義も理屈もありません。賽銭を上げて拝めば、家内安全、無病息災、商売繁盛、になるのです。入試も合格しますし、結婚も出来ます。よろずの願い事をかなえてくれるのです。
祀られている神様は関羽のような英雄であったり、地方の偉人であったり、千差万別です。立派な人が死ぬと、人々が守り神として祀るのです。
この様な信仰は日本の神道と非常に似ています。
日本人の多くは仏教と神道の両方を信じています。
同じ様に中国人は仏教徒もキリスト教徒も無宗教の人々も道教寺院にお賽銭を上げて家族の幸福を祈るのです。
道教の寺院(宮観)は漢民族が住んで居る場所なら世界中にあります。
日本人が昔、樺太や満州に神社を建てたように道教寺院は漢民族の守り神なのです。民族の宗教なのです。
これからご紹介する写真は、蘇州の日本企業の現地社長をしていたある方から頂きました。
道教の聖地、玄妙観の写真です。
祈っている中国人の様子を写した貴重な写真です。
一番目の写真は夕暮れの玄妙観の境内です。人々が寛いで歩いています。乳母車を押している母親もわき見をしながらのんびり歩いています。のどかで平和な光景です。

二番目の写真は祀ってある神々の像です。本尊を補佐する神々のようです。

三番目の写真では中年の女性がお賽銭箱(功徳箱)にお金を入れて立ったままお祈りをしています。息子の大学入試が合格するように祈っているのかも知れません。

四番目の写真の右側の女性は拝み台の上に膝まづいて祈ってます。その方が同じお賽銭なら願い事がかないそうな気がします。

五番目の写真では女性が膝まづいています。

六番目の写真では男性がおみくじを買って思案しています。

日本の新聞にこのような穏やかな中国人の暮らしぶりの写真は出ません。
しかし日常の中国人は静かに家族の平安を祈っているのです。
われわれと変わらないのです。新聞の報道は何故か片寄っています。
どんな民族でもお互いに仲良くなるためには、それぞれの平凡な毎日の風景を見れば良いのです。私はいつもそのように信じて来ました。
日本と中国とのあいだに絶対に戦争が起きないように祈っています。(終わり)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料:「中国の宗教事情」===========
 まだまだ動いている、中国の宗教の現状(2011-07-06) 
http://d.hatena.ne.jp/wanbi/touch/20110706/1309923707
 中国には、宗教人口の正確な統計が取られていないが、「百度百科(2011.7現在)」に、おおよその数字が記されていた。それによると、
 「仏教は、現在1.3万カ所の寺院があり、僧侶は約20万人、そのうちチベット語族の「ラマ教」の僧は約12万人、活仏は1700数人、寺院は3000余寺。「小乗仏教系」の僧侶は1万人、寺院は1600寺である。
 「道教」は、道教の宮観(寺院)が1500カ所、道師は2.5万数人である。
「イスラム教」はウイグル族など10の少数民族が信仰している。これらの少数民族の総人口は約1800万人、モスクは3万カ所あって、イマム(僧侶)は4万人。
「ローマン・カトリック教」は、信者の数は約400万人で、神父、教職人員は約4000人、教会堂、会所は4600か所。
「プロテスタント」は約1000万人いて、牧師が1.8万人。教会堂が1.2万か所、簡易集会所は2.5万か所となっている。
 1966年~1976年の“文化大革命”で、宗教を含む各方面に壊滅的な破壊をもたらした。現在は、中華人民共和国憲法第36条で、宗教の信仰の自由が定められている。
・キリスト教徒の7割が女性
 2009年に中国社会科学院世界宗教研究所が、31省でキリスト教信者の調査をまとめた「中国宗教報告」(2010)によると、中国のキリスト教徒は2305万人で、およそ全国の人口の1. 8%を占めるという。
(これは”百度百科”のカトリックとプロテスタントの合計数の1400万人よりも905万人上回るので、数字が著しく更新されたことになる)
 キリスト教徒のうち、洗礼を受けた者は1556 万人で67.5%占めた。中国の女性のキリスト教徒は男性より多く、その割合は7人対 3人といわれる。
・1993年以降に入信した者が73.4%
 中国のキリスト教徒の文化水準は、半数以上が小学校および以下にあった。入信の理由として、7割近くが「自分や家族の病気など」をあげ、「家がキリスト教徒であったため」というケースは15%であった。ただしここ数年来、キリスト教徒の数が大部分の地区で上昇しており、1993年以降に入信した者が73.4%に達しているという。資料 金沢編「中国宗教報告」社会科学文献出版社(2010.8)

今日の甲府の昇仙峡の紅葉をお楽しみ下さい

2014年10月28日 | 写真
昨夜、甲府に一泊して今朝昇仙峡と荒川ダム湖の紅葉の写真を撮ってきました。
昇仙峡も少し紅葉していましたが、その上にある荒川ダム湖周辺は華やかに紅葉していました。写真をお楽しみ頂ければ嬉し思います。












塩と砂糖(6)蜂蜜、メープルシロップ、甘蔦(あまづら)の歴史

2014年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
人類は皆甘いものが好きです。スペインの洞穴の岩に彫った絵画には1万年前の新石器時代の人間が蜂蜜を採集している様子が描かれているそうです。
そして5000年前のエジプトでは蜜蜂を人間が飼育し、蜜を採っていたのです。

上 の写真は蜂蜜の写真です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E8%9C%9C です。
日本の文献上で「蜜蜂」の語が初めて用いられたのは「日本書紀」の皇極2年(643)のくだりに出てくる「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」 という記載だそうです。百済人の余豊が奈良の三輪山で養蜂を試みたけれど、失敗に終わったという記録で、これが日本における養蜂のはじめだというのが通説になっています。
詳しい蜂蜜の歴史は、http://www.beekeeping.or.jp/beekeeping/history/japan にありますのでご覧下さい。
蜂蜜は近代養蜂技術が出てくるまでは採取量も少なく貴重な甘味料でした。
その上、蜂蜜の採取は蜂に刺される危険が伴います。素人に簡単に入手出来るものではありません。そこで人々は植物から安全に採れる甘味料を求めました。
北インドで発見されたサトウキビから蔗糖をとる方法が日本へ導入されたのは江戸時代になってからです。
それまでの日本人の甘味料は枕草子に出てくる甘蔦の樹液を煮詰めた「あまづら」だったのです。
同じようにアメリカ北部の原住民はカエデの樹液を煮詰めたメープルシロップを甘味料に使っていたのです。
メープロシロップは現在でもカナダの特産品としてさかんに作られています。
下の写真はカナダ北部のカエデの森で樹液を採取している様子です。

そして下の写真は採取されたカエデの樹液を煮詰めて作ったメープルシロップです。

上の2枚の写真の出典は、http://www.keico-jp.com/maple/maple.html です。 なおこの文献にはメープルシロップの製法が詳しく紹介してあります。ご覧頂くとカナダ産のメープルシロップがお好きになると信じています。
それはさておき日本の「あまづら」は江戸時代にサトウキビからの砂糖が普及すると製造されなくなります。従って製造方法も分からなくなってしまったのです。
しかし1988年に、北九州市で漢方薬店を営む石橋顕氏が、長年の研究の結果ついに復元に成功し、詳細な報告書を下記のように刊行されたのです。
石橋顕著『幻の甘味料 甘葛煎研究(報告その1)』小倉薬草研究会あまづら調査部会発行 1988年11月(非売品)。
そして2011年には奈良女子大学の学生グループが石橋顕さんの指導を受けて「あまづら」の再現に成功したのです。
その詳細は、http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/amadzura/amadzura_hp.html に出ています。そこで以下に簡単にその製法をご紹介いたします。下は奈良女子大学の構内に生えている蔦の写真です。

この蔦を切りそろえると下の写真のようになります。

まず切り取るツタを選びます。大きな葉の先が三つに分かれて秋に紅葉する、普通のツタでよいのです。常緑のキヅタからは「みせん」が取れません。紅葉する頃に甘い樹液が採れるのです。 蔦の丸太の一方から圧搾空気を 送ると他の断面から甘い樹液が出ます。それを集めて煮詰めたのがしたの写真のような「あまづら」です。

味はどうだったのでしょうか?奈良女子大学の学生の報告書を抜粋します。
・・・・各自割り箸1本持って、あまづらを賞味してみました。それぞれ感想を述べましたが、んーなんとも上品。さらりと甘く、後味すっきり雑味なし。砂糖とも違い、ハチミツやメープルシロップとも違い、これが幻の味か…。参加者一同、大満足でした。あまづらは、冷えるにつれて固まってしまいます。湯煎にかければ元に戻ります。「みせん」はあまり日持ちしませんが、煮詰めたあまづらは、夏を越しても大丈夫とのことです。平安時代に遠くから都に献上されたものですから、日持ちしないと困りますね。今回作ったあまづらは、化学的分析などのために、大事に保存することにしました。・・・・
昔は甘いものが大変貴重だった理由が分かります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

北海道の紅葉と旅の思い出

2014年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の雄大な景観がすっかり好きになってしまいました。
その上、風景がなんとなくなくヨーロッパの風景に似ているのです。
何故か郷愁のようなものも感じるのです。
何度も行きましたが、2011年の紅葉の頃に行った北海道の旅は思い出が深いものになりました。登別温泉の石水亭とキロロリゾートのホテル・ピアノに泊った2泊3日の旅でした。
2011年10月23日に羽田空港を出て、千歳着、バスで室蘭の工場の夜景を眺めてから登別温泉の旅館に泊りました。良い宿でした。温泉の泉質も硫黄系ですが肌に優しい滑らかな湯でした。
24日はオロフレ峠を越えて、ロープウェーに乗り昭和新山と有珠山の景観を楽しみました。洞爺湖の岸をバスで走り、ニセコパノラマラインへ登って行きます。高地の湿地帯の木道を往復2km歩いて神仙沼を見ました。ヒグマが見えると言う人がいて、皆が慌てて帰ってきました。本当にクマが居たか疑問でしたが、皆が興奮して面白そうにしていました。
暗くなるのなるのを待って小樽市の夜景を楽しむために毛無山展望台へ行ってからキロロリゾートへ到着しました。ホテル・ピアノは以前にも泊ったことのある良いホテルです。
次の日はバスで小樽市に行って町を散策したあとで「ニシン御殿・旧青山別邸」へ行き豪華な和風建築を見ました。酒田の本間邸に似た建物です。
その後は札幌を少し観光してから千歳空港から帰ってきました。
北海道は何故か私にとっては何時までも憧れの土地であり、旧懐の情が掻き立てられるところです。
土地の景観や目にする樹木がとてもヨーロッパ大陸に似ているのです。ヨーロッパに憧れ、若いころ家族と一緒に住んだことがあるドイツの風景に似ています。
スエーデンの風景にも似ています。氷河が削った滑らかな丘、白樺やカラマツの林。ポプラ並木。そして牧場や農村地帯の風景が私の旧懐の情が掻き立てるのです。
曇り日の連続でしたので写真が鮮明でありませんでした。しかしお送りする紅葉の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)







佛教とキリスト教の比較(2)神社仏閣での祈りと教会での祈りの比較

2014年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
お祈りは個人の心でするものなのでその内容は知ることが出来ません。
従って神社仏閣での祈りと教会での祈りの比較は非常に難しいテーマです。
しかし、それをあえて比較してみることは仏教とキリスト教への理解の助けになるのではないでしょうか?
神社に行った時、あなたは何を祈るでしょうか?きっと自分と家族の無病息災と平穏な暮らしを願って祈るでしょう。
お寺で法事があって僧侶がお経を唱えている間、多くの人は無病息災とお先祖様への感謝を祈っています。お先祖さまの冥福をお釈迦さまへお願いして祈っています。
一方キリスト教の教会では多くの日本人は自分と家族の無病息災と平和をお祈りしています。そして私はさらにお先祖さまの天国での幸を祈っています。
ここまでは教会での祈りと神社やお寺でのお祈りと同じです。
非常に違う点はキリスト教では神やイエス様の愛が自分で体験出来るように祈っています。神父様や牧師さまへ神の愛が豊かにありますようにと祈っています。
お寺で私はお釈迦様の慈悲が僧侶たちへ豊かにありますようにとは祈りません。
この違いはイエス様の教えとお釈迦様の教えの違いを理解する鍵になると思います。
イエス様は私の教えを守り、私について来なさいといいました。そうすれば人は幸せになるのです。
お釈迦様は全てのことは空(くう)ですと教えました。空(くう)こそ此の世の全てものの本質なのですと教えました。それを自分の力で悟れと教えました。そうすれば人は幸せになるのです。お釈迦さまは自分について来なさいとは言いません。
この二つの宗教の教義の違いについては稿をあらためて書きます。
このように人々の神社仏閣での祈りと教会での祈りは非常に似ていますが、教義が違うので違う部分もあるのです。
今日はここで止めて写真を3枚お送りします。一番目の写真は福井県にある曹洞宗の本山の永平寺です。二番目の写真はその本堂へ導いている長い階段の写真です。多くの人がこの階段で宗教的感動を覚えます。ですから多く人々がこの階段の写真をネットに発表しています。三番目の写真は横浜のカトリック元町教会です。幕末にフランス人神父の建てた教会をその後改築したものです。函館のカトリック元町教会とともに東日本では最も古い教会です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





日野の仲田の森蚕糸公園と多摩川の岸辺を散歩しました

2014年10月25日 | 写真
日野は家内の実家があった所で昔は見渡すかぎり水田が広がっていました。その水田に浮かんだように蚕糸試験場と桑園のがあったのです。
時代の変化で、水田もすっかり消えてしまい、蚕糸試験場も無くなり、その跡地は仲田の森蚕糸公園になっています。
今日はその公園の森の中を散歩し、多摩川の岸辺に出て川の流れを眺めて来ました。はるか下流の方の立日橋の上を多摩モノレールの車両が走っていました。
そのような写真をお送り致します。









佛教とキリスト教の比較(1)四国のお遍路とサンティアゴ巡礼の道

2014年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ものごとを理解するためには比較すると簡単に理解出来るものです。二つのことの同じ点と、違う点を拾いあげればその二つのことが簡単に理解できるのです。この方法を使った学問分野に比較文化人類学というものがあります。
そこで今日から仏教とキリスト教の比較をしながら、その同じ点と違う点を考えて「佛教とキリスト教」という連載記事を書き始めたいと思います。
第一回は四国のお遍路さんのこととスペインのサンティアゴへの巡礼のことを比較してみます。
お遍路さんは弘法大師の生まれた四国にある寺寺を歩きます。サンティアゴ巡礼は聖ヤコブの遺骸のあるスペインの西の端にあるサンティアゴへ向けてフランスから歩いて行くのです。
四国では同行二人として弘法大師が一緒に歩いてくれます。お釈迦様も現れます。疲れても歩き通せるのです。一方、サンティアゴの巡礼では聖ヤコブが一緒に歩いてくれます。時々イエス様も一緒に歩いてくれます。疲れても歩き通せるのです。
歩き通せると非常に大きな宗教的な充実感が得られるのです。全ての罪も洗い流せるのです。
この2つの共通点は苦しい道行きをして信仰を強めるという点です。違いは一緒に歩いてくれるのが弘法大師と聖ヤコブという違いです。
この共通点と違いをもっと深く考えるのは皆様にお任せして写真を見てみましょう。
下はサンティアゴへの道の写真です。

上の写真の道は1000年以上の歴史を持つ聖地への道です。今も年間およそ10万人がフランスからピレネー山脈を越えて歩きます。
スペインに入ると、巡礼の拠点の街があり、そこには巡礼事務所があります。名前を登録し、巡礼者の証明となる手帳を受け取り、無料の宿泊所に泊まります。徒歩によるスペイン横断は、およそ 800kmの道程です。
写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E8%B7%AF です。
上の写真をよく見て下さい。左の草の中に2人の疲れた巡礼者が休んでいます。
歩き通さないでバスやバイクで巡礼の道を行き、一部分だけ歩く人もいます。
四国のお遍路さんもバスで回ったり車で巡るのとまったく同じです。
下にお遍路さんの写真を示します。

上の写真の出典は、http://www.yui-world.jp/?cat=14 で、下の写真の出典は、http://yurarinoakari.jp/ohenro.html です。

遍路巡礼の形は多様化しています。バスツアーで数日かけていっきに巡礼する場合もあれば、むかしと同じく全行程を歩いて巡礼する方も少なくありません。
どんな巡礼スタイルを取っても、四国中に点在する八十八カ所のお寺の巡礼を一度体験した方の心には、静かな深い想いが宿ります。
巡礼を終え、日々の生活に戻ったときこそ、巡礼で得た想いを度々思い出し、一日の無事を感謝し明日の自分を喜ぶ、そんなひと時を大切にしたいという気持ちが湧いてきます。このような精神的な境地はスペインの巡礼も四国のお遍路道も全く同じなのです。
違う点は信仰の対象がお釈迦様とイエス様と違うだけです。
しかしお遍路さんの体験者もサンティアゴの巡礼に行くそうです。四国のお遍路にも外国人がいるそうです。人間は普遍的な共通点に心が惹かれるのでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

このgooブログを見て下さる方々へ特別の感謝をお送りいたします!

2014年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
このgooブログを見て下さる方々へ特別の感謝をお送りいたします!
私は昨日までNTT社が運営するOCNの「ブログ人」で毎日ブログの記事を書いていました。
2007年11月に書き始めててから通算、118万件のアクセス数を頂き、皆様のご支持に感謝していました。
ところがOCNの「ブログ人」がこの11月30日でブログ事業を止めることになりました。そこでこちらのgooブログに引っ越して参りました。
そして昨日、OCNの「ブログ人」からこのgooブログへの自動転送の手続きを致しました。
そうしたら今までOCNの私のブログを見て下さっていた一日平均750人の方々がこちらのgooブログを引き続きご覧頂いたのです。

感謝し感激しています。皆様の義理人情の厚さに心が打たれています。
ご厚情を心から有難く思っています。

何の役にも立たないつまらないブログですが今後もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

皆様のご健康と長寿をお祈り申し上げます。後藤和弘


多摩川の流れを見つつ去り行く秋の日を惜しむ

2014年10月24日 | 写真
住んでいる所が多摩川に近いので暇があると多摩川の岸辺に車を停めて、流れ下る水を眺めます。流れが秋の日の去り行く気配を感じさせるようです。今日も午後に府中の多摩川の岸辺を散歩してきました。
このへんは中流なのでゆったりした流れが午後の陽に輝いていました。
その悠々たる流れを見ながら、御岳駅の下の多摩川の激流を思い浮かべていました。
そこで一番目と二番目の写真に上流の激流の写真を示します。10月7日に撮りました。
そして三番目から五番目の写真に今日の中流の悠々たる流れを示します。
ここから20Km下ると羽田空港の西の東京湾へ注いでいるのです。
写真に晩秋の感じが写っていたら嬉しく思います。









山里の秋の風物詩・・・下仁田ネギの畑

2014年10月24日 | 写真
横山美知彦、「下仁田ネギの畑」
土盛り作業(ねぎの茎の白い部分を土で覆う作業)が終えたばかりで、まだ取り入れには早い様だ。
今日は、暦上は「降霜」だが、その霜がニ三度降りるまでは何処の農家もねぎ畑に掘り鍬を入れない。
近くの山々の木々も徐々に色づき始めた。今年の「下仁田ねぎ」の育ち様は、素人の私が見ても良さそうだ。「下仁田ねぎ」独特の甘味と熱を加えることで柔らかくなり、うま味が増すのは、11月の下旬からだろう。地元の私でさえ待ち遠しい。



「下仁田ネギ」は江戸時代中期以後に有名になったネギです。大変美味しいネギなので大名や武士の間のお歳暮などの贈答品として珍重されたそうです。
明治になって鉄道貨物輸送が始まると下仁田ネギの出荷が急に増加し、多くの人々によって美味しさが認められました。東京では有名な群馬県の特産品です。