後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日中貿易は日米貿易より大きい・・・この現実を直視すべきではないでしょうか?

2015年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
現実を直視すべきではないでしょうか?
以下に、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5050.html より転載いたしました。

2004年に対中国の貿易額(輸出入合計)が対米国を上回ってから、毎年、両者の差は拡大し、2010年には対世界貿易シェアで中国は23.7%となり、米国の12.7%を大きく越えています。
日本の対世界貿易における中国と米国のシェアの推移を見ると、米国は1980年代後半には3割近くのシェアをしめていたのが、近年、低下傾向となり、2004年には18.6%とはじめて2割を切っています。これに対して、中国は、1991年までは1割未満のシェアでしたが、2001年の中国のWTO加盟を契機として、最近急速にシェアを高め、2004年には20.1%とはじめて2割を越え、「米中逆転」の様相を明確にしたのです。
日中貿易拡大の要因としては、日本企業が生産拠点を中国に移し、中国で現地調達できない基幹部品等を日本から輸出、また最終製品のかなりの部分を中国から逆輸入する流れが加速しているのが大きいと言われています。
 一方、中国側から見ると、対日貿易より対EU、対米貿易の方が伸びている。
読売新聞2005.1.27によると、「中国から見た2004年の対日貿易額は、欧州連合(EU)、米国に抜かれて三位に転落し、中国の貿易相手国としての日本の地位はむしろ低下している。」と報じています。
そして昨年の2014年の日中貿易額は実に36.8兆円に対して日米貿易額は21.2兆円だったのです。
日本人の多くは中国が嫌いです。しかしその一方で中国は日本経済のとって一番重要な国になっているのです。
この事実を深く考えるべきではないでしょうか?

中国の経済力と技術力の増進を静かに受け入れるのが日本の国益になる

2015年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
中國や韓国のことになるとすぐに感情的になって怒り出すひとが多い昨今です。
その気持ちも分かりますが、もう少し冷静になって中国や韓国が日本の経済安定にどれほど重要なのかを考えるのが日本の国益にかなうのです。そして中國の工業技術が急速に進歩していることも静かに受け入れることも非常に重要と思います。
これこそ「敵を知れば百戦あやふからず」なのです。
それではまず中国の総生産(GDP)の推移と他国との比較の図面を見てみましょう。
下にその図面を示します。

(図面は、http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/j006.html より)
長い間、世界2位だった日本のGDPを中国は2010年に抜き、日本が3位になったのです。これにショックを受けた日本人は多かったと思います。
しかし 長い目で見ると日本が中国に抜かれたということより、極東に世界第2位と第3位の国が隣接して誕生したということの方が日本にとっては重要な事実と思います。さらに韓国も経済成長率がかなり高いので、東アジア経済圏は確実に世界の中で中心的な役割を占めているのです。
こんなことを書くと時代錯誤だと笑われますが、これこそ大東亜共栄圏のような気分になるから不思議です。
この中國の経済成長にかんして、10月26日に趣味人倶楽部のニックネームさんから以下のようなコメントを頂きました。
非常に穏当で建設的なご意見なので以下に示しまします。
「中国経済は崩壊するとずいぶん前から主張されている方が多いようです。しかし崩壊するどころか、その中国から、イギリスは経済の基幹となる原発を買う契約をしました。
中国は崩壊するには大きくなりすぎています。中国の崩壊があるとすれば、日米欧をはじめとする資本主義国への影響も甚大となります。だから中国を崩壊させないように働きかけるのが結局はアメリカなどの資本主義国なのです。このパラドックスは頭に入れておいたほうがいいでしょう。
中国の崩壊を心配するよりも、資本主義国が自分の足元を心配したほうが良いと思います。
習近平が失脚するのを期待している人も多いようですが、そんなことを期待しても何の意味もありません。失脚しても、共産党独裁政権の下で、第2第3の習近平が現れるだけです。それが中國という超大国の統治には現実的だからです。以下省略。」
そして中国の共産党独裁がいずれ崩壊するという人もいます。
これも間違った考えです。一旦共産党独裁が確立するとアメリカが中国を軍事占領しない限り体制は変化しません。それがソ連の衛星国体制とは根本的に違う点です。
さて中国の工業技術はどのようなものでしょう?
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150609/Searchina_20150609102.htmlの報道を一部抜粋します。
「2013年におけるドイツの製造業の規模は2兆300億ドル(現在のレートで約254兆円)、中国の製造業の規模は2兆7400億ドル(現在のレートで約343兆円)に達し、中国製造業は世界一の規模に達したと指摘できます。中国企業は研究開発に資金を投下し、工場を進化させているのです。すでに華為技術(ファーウェイ)や中興(ZTE)など世界の通信産業で大きなシェアを確保する企業に成長しています。」
中國は報道されているようにインドネシアなどに新幹線を輸出する契約をしています。そしてイギリスにも原発を3基輸出します。
工業技術の向上は日進月歩です。経済が伸びているかぎり研究開発への投資も増大するのが普通です。そして最近では品質管理にも努力しているようです。
技術分野によってはまだまだ遅れている分野もありますが早晩中国の工業技術は一流になるのは間違いありません。
日本の技術が高度成長の間に急速に向上し、世界で一流になったように中国の技術も進歩するのは確かなことです。
中国の経済力と技術力の増進を静かに受け入れるのが日本の国益になるのです。
この結論だけで終わってしまったら舌足らずになってしまいます。
中國の悪い点は国際ルールを無視するような前近代的な体質です。
それを直すのがアメリカの南沙諸島への艦艇の派遣です。日本もフィリピンもアメリカのように艦艇を派遣すべきと思います。如何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
(今日の挿絵は先日撮ってきた釜無川の北の七里ケ岩の黄葉が始まった写真です。) 





この面白くもない趣味を飽きもせず40年間もしています

2015年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
趣味は人それぞれです。いろいろな趣味があります。聞いただけで面白そうで直ぐに真似をして始めたくなるような趣味もあります。
しかし何故それが面白いのか不思議に思えるようなものもあります。
皆さまはどのような趣味をお持ちでしょうか?
私も長く続けていた趣味が2つ、3つとありました。しかし老齢になり体力と根気が無くなり次第に趣味も無くなりました。
たった一つ残った趣味があります。
それは山林の中の小屋に行って数時間、ただボーッと周囲の樹木を眺めているだけの趣味です。ただ意味もなく雑木林を眺めているだけです。
猿や鹿が棲んでいる山奥ですが小屋の近くには来ません。紅葉した雑木が乾いた秋の風に揺れているだけです。
無心に眺めいるのが楽しいので、自分では、これがわが人生で最後に残った唯一つの趣味だと思っています。
昨日もこの小屋に行って、家内とともに小屋の窓から周囲の樹木を飽きずにただ眺めて来ました。
それでは昨日撮った写真に従ってこの趣味をご説明いたします。

この写真は小屋に続く道から撮った山梨県の甲斐駒岳です。小屋は手前に写っている黒々した森の向こう側の深い雑木林の中にポツンと建っています。1974年に建てた小さな小屋です。ちなみに甲斐駒岳は標高が3000m位の花崗岩で出来た美しい山です。

上は甲斐駒岳から流れ出ている川の一つで大武川です。この地方は現在の北杜市になる前は、武川村と呼ばれていました。私の小屋はこの大武川の支流の石空川(いしうとろがわ)を遡った山林の中にあります。

上の写真は石空川の東岸に沿って登っている雑木林の中の悪路です。約2kmほど根気よく登って行くと小屋に到着します。

上は今年の新緑の頃に撮った小屋の写真です。6畳と4畳の部屋に水洗トイレがついています。
無粋な鉄筋コンクリートにした理由はこの土地の強い湿気にあります。建てた大工さんが木造なら10年位で腐って倒れてしまいますと言うのです。正しかったです。40年経過しても写真のように新築当時の姿で建っています。

上は小屋の窓から見下ろした庭で、その中を年中水の涸れない清流が流れています。
小屋に着くとこの窓から飽きもせず小川の流れる音を聞きながらいつまでも眺めています。
無心に眺めています。

上の写真はまた別の窓から見た樹木の風景です。床に寝て樹木の輝きを見ています。

小屋の外に出て小川を眺めて時間を過ごします。落ち葉と苔むした石が美しい絵画のような構図になっています。時間が意味もなくゆっくり流れます。なんとなく楽しい気持ちになります。

上の写真は今年の春に泊まった時に撮った薪ストーブです。
普通の別荘で使う薪ストーブは立派などっしりとした鋳鉄製のものが多く、かなり高価なものです。しかし私の質素な小屋では、しごく簡単な構造のこのストーブを愛用しています。少ない薪で小屋の中がすぐに暖かくなります。
薪の燃える良い香りが部屋に広がります。薪ストーブは意味もなくただ燃やしているだけで楽しいのです。
この山林の中の小屋で周囲の雑木林を眺めたり庭の小川を眺めるのが趣味です。何も考えずにボーッといつまでも眺めているだけです。
ほんとうに面白くもおかしくもない趣味です。それだから長続きしたのでしょう。
皆様はどんなご趣味をお持ちでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

山奥の秘境の苦しい生活と離れ島の豊かな海の幸にたよる生活

2015年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は偶然生まれた場所により、その後の人生が大きく変わるものです。この世の不条理です。
老境にいる私はいろいろな所に旅をして楽しんでいます。しかし訪問先の地方地方の生活があまりにも違うことに驚かされます。
場所によって自然が与えてくれる食べ物にあまりにも大きな差があるのです。
常に飢えを心配している山奥と、海に出れば四季折々、必ず漁のある小島の生活とはあまりにも違いがあるのです。
今日はその一例として山奥の秘境、秋山郷と熱海の沖にある初島の生活を比較してみます。
2012年の秋に長野と新潟の県境の、「秘境、秋山郷」の旅に行きました。

上の写真にあるような小型バスがやっと通れるような山道を根気よく分け入ると益々紅葉が綺麗になっていきます。

そして、上の2番目の写真のような山の奥には昔、13もの村落が存在していたのです。
バスのガイドさんが、「江戸時代の飢饉で村落全員が死に絶えたところもありました」 と悲しげに説明してくれます。
衝撃を受けました。食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。改めて見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
そこで帰宅してから江戸時代の秋山郷の生活ぶりを記述した「北越雪譜」を丁寧に読み直してみました。
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。魚沼郡、塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。
そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
その鈴木牧之の実地調査によると、家々では大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。
フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
飢饉で一村が全滅した時もあったのです。その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
考えてみると険しい山々の連なる山奥には人間の食べられる野生の植物や木の実は非常に限られた量しか生育しません。わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年もあります。その時には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。そしてそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。
山の幸とよく言いますが、わずかな春先の山菜や秋のキノコや栃の実だけです。それも冷害で、取れない年が何年に一回巡りくるのが山奥の秘境なのです。
私はいろいろ考えています。何故、ヤギやウサギを飼育し、夏に太らせて冬に食べないのだろうかと考えます。ヤギやウサギは草食なので山の木々の若葉や下草で育つはずです。それを食べなかったのは江戸時代までの仏教の戒律だったのかも知れません。四足の動物は殺して食べてはいけないのです。場所によってはイノシシをや山クジラと称して、コッソリ食べていた地方もあったのに秋山郷ではそんな話も聞きませんでした。
秋山郷のこの悲惨な生活条件と対称的な場所は静岡県の熱海の沖にある初島という離島です。四季折々、回りの海から魚介や海藻がとれるのです。食糧に困ることはあっても秋山郷のような悲惨な飢饉は起きなかったのです。

上の写真は熱海ー初島間の客船の上から撮った初島の写真です。
初島は温暖な海に囲まれた島で、四季折々、魚貝が手に入ったはずです。
それでも生活は厳しいいので江戸時代から島全体の家の数を41家に厳密に制限した歴史があったのです。
熱海から船で30分の初島には2012年当時でも41家族しか住んでいません。
長男が跡を継ぎ、娘だけの家では長女が婿をとり、家の数を一定にする伝統が現在でも生きたのです。長男以外の子供は島を出ます。
近海漁業と畑作だけの島では41家族しか生きて行けないからです。
島に上陸してみると火山灰のような保水力の無い土が島を覆っているのに気がつきます。作物が出来にくく、真水に困る土地と分かります。これでは生活が苦しい筈と心が痛みます。しかし海の幸が飢饉を防いできたのです。
島はあくまでも平和です。明るい雰囲気なのです。立派な家も貧しげな家も混在していません。41家族に貧富の差が無いようです。漁港に引き上げられ、並んでいる41隻の小型漁船は下の写真が示すように、みな同じ大きさです。

漁期の申し合わせによって平等に魚や貝や海藻が行き渡るようにしているそうです。
苦しいとはいえ秋山郷の村落の生活の悲惨さに比較すると天国のような生活です。
下にこの初島の春の光景を示します。2012年の春に撮った写真です。

こんなにも狭い日本でも場所によっては生活条件が非常に違うのです。
「海の幸」の対句として「山の幸」という言葉があります。しかし海の幸が圧倒的に多くて、山の幸は僅かばかりです。
これがこの世の現実です。一体神様は何故このような不平等を作るのでしょうか?不思議です。不可解です。
人間は偶然生まれた場所により、その後の人生が大きく変わるものです。この世の不条理です。

何故か心が静まり自然に頭が下がります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

北海道の広大な農地の風景写真をお楽しみ下さい

2015年10月28日 | 写真
この10月17日から19日まで、帯広空港に降りて、十勝平野、阿寒湖、知床五湖、オホーツク流氷館と廻り女満別空港から羽田に帰ってきました。
その間、十勝平野の広大な農地の風景に感銘を受けました。
作っているものはトウモロコシ、ジャガイモ、サトウダイコン(ビート)小麦、蕎麦などです。
農家一軒あたりの農地は数町歩から40町歩と非常に広いのが北海道の特徴です。
一町歩は3000坪ですから40町歩と言えば12万坪です。その広大さは本州、四国、九州の農家一軒あたりの何十倍、何百倍ではないでしょうか?
北海道は寒冷地なので、土地の生産力が小さく大規模な畑作でないと採算が合わないという理由だそうです。
それはそれとして、北海道の広大な農地の風景写真をお楽しみ下さい。









南沙諸島へ米駆逐艦派遣、緊迫する米中関係、しかしあまり報道されない事実

2015年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
横須賀を基地とするアメリカの第七艦隊がイージス駆逐艦を南沙諸島へ派遣し、中国が飛行場を建設中の島の領海に出入りしました。
これに対して中國海軍は2隻の駆逐艦を派遣し、警告し監視行動をとりました。
中國が南沙諸島の暗礁を埋め立て飛行場を作ってその周囲を中国の領海と主張していたのです。
中国の行為は国際法で認められない違法な行為なのでアメリカが断固抗議していました。それを中国は無視して来たので、今回は1万トン級の駆逐艦を派遣して、”領海”侵入に踏み切ったのです。
南沙諸島には一挙に緊張した情勢になりました。
しかし中国とイギリスとの親密な関係や、中国の世界経済における大きな影響力を考えると米中間で大規模な軍事衝突は起きないと考えられます。
日本の新聞を見るとアメリカ側に絶対的に正義があり、中国が悪いという報道ぶりです。
しかしこのような国際的な紛争はもっと広い視野で歴史的に考えるのも重要と思います。
下の写真はあまり報道されないのですが、中華民国(台湾)が2008年に南沙諸島に作った軍用飛行場の写真です。

この写真の島は太平島といい南沙諸島では最大の島です。
現在は中華民国(台湾)が実効支配し、行政区画は高雄市に帰属しています。中華民国にとっては、シーレーン防衛の要衝にあたり、警備のため海軍陸戦隊員や海岸巡防署員が常駐しているのです。中華民国が実効支配していますが、他の島と同様に中華民国、中華人民共和国、ベトナム、フィリピンが領有権を主張しているのが現状です。
2008年2月には陳水扁台湾総統が軍用機C-130で太平島に到着、空港落成使用開始式典を主催して駐留する軍関係者を慰問、島内施設を視察しています。
そしてその後はC130大型輸送機が定期的に往復して常駐する軍隊の補給を行っています。
この事実は日本ではあまり報道されません。
中国の埋め立てと飛行場建設だけが大々的に報道されているのです。これは客観的に公平な報道姿勢ではないと私は感じてきました。
さて太平島に対する台湾の正義はあるのでしょうか?それが有るのです。日本の敗戦でこの一番大きな島は中華民国へ引き渡されたのです。ですから一見問題は無いようです。
しかし現在は中華人民共和国、ベトナム、フィリピンがこの太平島の領有権を主張しているのです。
この島は大きな正真正銘の島です。中国の行っているように暗礁を埋め立てで作った人工の島ではありません。ですから中華民国に正義があるようです。
しかしこの太平島の軍用飛行場の建設を見て中国共産党が真似をして飛行場を作ったとしたらその動機は理解できます。理解は出来ますが中国の行為は国際上は違法行為です。
こんないきさつがあるのでアセアン諸国の意見が分かれているのかも知れません。
国際紛争には関係する国の数だけの正義があるのです。アメリカの正義だけを大々的に書きたてる日本の報道ぶりに疑問を感じています。
誤解なさらないで下さい。私も中国が悪いと思います。しかし報道には広い視野で歴史的にいろいろな側面を過不足無く報道すべきと信じています。あまりにも中華民国による大平島の軍事飛行場の建設が無視されているのでご紹介した次第です。
込み入った話題なので気分を良くして頂くために先日行った富士山五合目から見た頂きの写真と黄葉の写真をお送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




私の夢、こんな家に住みたい・・・皆様は住みたくありませんか?

2015年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
夢多い人生は楽しいものです。しかし夢を追って失敗することもあります。
若いころは外国に住むのが夢でアメリカやドイツやスウェーデンに住んだ経験もあります。楽しい思い出も沢山あります。しかし外国はしょせん外国です。苦しいことや悲しいことも沢山ありました。
それが老境になると外国に行く元気も無くなります。そこで日本国内で何処か素晴らしい所に住んでみたいという夢が断ち切れません。住んでみたいような魅力的な家に引っ越すのも見果てぬ夢です。
先日、紅葉の写真を撮ろうと訪れた東京の山地の桧原村に、夢のような「住んでみたい家」が数軒あります。
写真でご報告いたします。

この家は奥多摩に遊びに行くようになってから何十年も変わらず美しく手入れされ存続しています。最近はますます綺麗になってきたようです。

この家は道路に面した狭い土地に建っていますが何時も倉や屋根を綺麗にしています。以前は茅葺だった屋根を瓦葺にしたような急勾配の屋根が青空に美しく聳えています。

この家は昔は名主だったのでしょう。広い屋敷が南向きの山裾に広がり、その下の集落に十数軒の家が群がっています。

この茅葺の家は高い石垣の上にあり、その庭先の生垣も綺麗に切り揃えてあります。現役の江戸時代風の家です。

上はそんな家々の庭先にある柿の木の写真です。
空気が新鮮で、夜には星空の美しい山の里です。
私は数か月間だけでも引っ越して住んでみたいと何時も考えています。
しかし買い物の不便さや病院が無いことを思うと老人の私は引っ越す勇気がありません。
しかし何時かは住んでみたいという夢を捨てきれません。
皆様は住でみたとお思いになりませんか?
蛇足ながら私は山梨県の北杜市の山林の中に小さな小屋を持っています。それで山間にある家に住む辛さや難しい問題を知っています。例えば鹿や猿や猪が沢山棲んでいるので花畑も作れないのです。庭先にイモなど育ててもアッという間に食べられてしまうのです。
ですから写真に示したような家々は大変魅力的ですが、住んでいる人々の苦労が偲ばれます。そしてそれにもかかわらず美しく住んでいる人々に畏敬の念を感じるのです。偉い人とはこういう人々のことも言うのでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

中国が原発3基を先進国イギリスへ輸出し建設・・・時代は大きく変わる

2015年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
最近イギリスを訪問している習近平主席は大歓迎を受けています。
先に国賓として招待していたアメリカは冷ややかな歓迎ぶりでした。あらためて太平洋の覇権をめぐる米中関係の厳しさを感じさせます。
しかしイギリスは太平洋とは遠く離れているので以前から親中國政策をとり中国とは友好関係を作っておいたのです。
その中国が原発3基を先進国イギリスへ輸出し建設するという契約を結んだのです。
これは大変驚きです。従来の中国の工業製品は品質管理が悪く信頼性に乏しかったのです。
それなのに先進国のイギリスが危険な原発を中国に発注したのです。
これで中國はその原発の技術的信頼性の保証と輸出政策への弾みを貰ったのです。
今年の4月に中国はパキスタンに5基の原発建設の受注もしているのです。その他交渉中の国々も含めると中国は近い将来、世界一の原発輸出国になる勢いです。
中國の工業技術が劣悪だった時代はとっくに終わっていたのです。時代は大きく変っているのです。
こんな情勢なのに日本は相変わらず中國を蔑視しています。南京虐殺問題に必要以上に感情的になって中國を憎んでいます。
中國に対する戦前の差別用語を叫ぶ人も多いのです。ヘイトスピーチも沢山あります。
この差別用語とヘイトスピーチが如何に大きく日本の国益を害しているのでしょうか?
冷静に考える時代になって来たのではないでしょうか?
私はネットで差別用語や中国を蔑む文章は絶対に掲載しないように努力しています。
その原因は経済的な理由よりも自分の人格を傷つけるからです。
上記のように中國を高く評価するような記事を出すと建設的なコメントの他に差別用語の入ったコメントも貰います。あるいは中國人を蔑むようなコメントを貰います。
建設的な反論なら大歓迎しますが、感情的な、そして失礼なコメントは申し訳ありませんが消すことにしています。
例えば、「中國の原発技術をイギリスが信用しても中国からの輸入品の品質が悪いのは事実ではありませんか?それなのに中國の技術を認めるようなこの記事は間違っています。」というようなコメントなら大歓迎なのです。このようなコメントは記事の不完全さを補ってくれる有難いコメントなのです。しかし差別用語の入っているコメントや中國人全体を蔑視したコメントはいけません。それは日本の品格を貶めるのでいけないのです。何度も書きますが経済的理由で消すのではありません。私が個人的に日本の品格を貶めると信じているからです。
しかし日本の平和を守る為に、日本の軍備は十分にしておくことも一方では絶対に必要です。残念ながら、それは国際政治の現実なのです。
それにしても時代が大きく変わりつつあるものです。
今日の挿絵は昨日撮って来た秋の陽に輝く相模湖の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=====================
(1)中国、イギリスへの原発3機の輸出で最終合意・総工費は6兆5000億円:http://www.businessnewsline.com/news/201510210730420000.html
国の習近平国家主席は10月20日、訪問先のイギリスのロンドンで記者会見を行い、イギリスへの原発の輸出で最終合意に達したことを発表した。
今回、中国製原発の建設が決まったのは、英サマセット州ヒンクレイ・ポイント(Hinkley Point)原発、サフォーク州サイズウェル(Sizewell)原発、そしてエセックス州ブランドウェル(Bradwell )原発の合計3機で、最初の1機となるヒンクレイ・ポイント原発C号機の運用開始は2025年頃となる見通し。
ヒンクレイ・ポイントC号機を始めとする原発の建設は、中国国営の原子力企業、CGNとフランスの原子力大手、EDFがコンソーシアム(企業連合体)を形成した上で、この中仏合弁のコンソーシアムによって進められることが計画されている。
3機合わせた原発建設の総工費は300億ポンド(約5兆5000億円)にも及ぶもので、中国にとっては政治主導の外国向け先端技術輸出の一大成功例となることとなる。
(2)(中国)パキスタンに原子炉5基輸出、総額150億米ドル。
中国はパキスタンに対し、独自モデルの第3世代原子炉「華竜1号」を輸出する。:2015年04月
http://kabutan.jp/news/marketnews/?b=n201504220181
国営の中国核工業集団(CNNC)がこのほど、「華竜1号」の提供に関する枠組み協定をパキスタン当局と締結した。計5基を総額150億米ドル(約1兆7950億円)で輸出する予定。輸出額は中国の原子力発電業界で過去最大規模となる見通しだ。地元メディアが22日伝えた。
中国はこれまで、原発分野でパキスタンとの連携を強化してきた。CNNCが現地に整備したチャシュマ原発は、出力32万5000kWの1号機が2000年、出力33万kWの2号機が2011年にそれぞれ運転を開始。カラチ原発の原子炉増設も受注している。同原発の2-3号機には、「華竜1号」が採用される運びだ。
中国が“自主開発”と主張する「華竜1号」はPWR(加圧水型原子炉)。国策企業のCNNCと中国広核集団(CGN)の2大原発企業が共同で開発した。CGNが持つCPR1000(フランス系)の改良第3世代炉「ACPR1000」技術と、中核集団が自主開発した第3世代炉「ACP1000」技術を融合。重大事故の予防措置などを強化した。
福島第1原発事故を受けて原発の新設認可を凍結していた中国では、昨年に入って、沿海部での原子炉建設を早期に再開する方針が明らかにされた。今年2月に紅沿河原発(遼寧省)の5-6号機、4月に福清原子力発電所(福建省)の5-6号機が相次いで建設認可を取得している。うち福清原発については、オリジナル原子炉の「華竜1号」が初めて設置される予定。

今日の挿絵は昨日撮って来た秋の陽に輝く相模湖の風景写真です。



21世紀の現在でもカヤ葺の家に住む人の心の豊かさ!

2015年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、東京の秘境、桧原村の紅葉の写真を撮るために、五日市から秋川渓谷を遡りました。
しかし季節が早すぎて木々は紅葉していません。木によっては黄葉しているのもありましたが、まだまだです。先週行った北海道はあんなに美しく紅葉していたのに東京近辺はこれからです。
下の写真がまだ紅葉していない木々の様子です。

ところが秋川の向こうの南向きの山裾に茅葺(かやぶき)の家を見つけたのです。
下の写真がその茅葺の家です。清流から少し上がった日当たりの良い山裾にあります。

この写真のように見事な石垣の上に茅葺の屋根が見えます。
まさか人が住んでいないと思いました。
車で清流の橋を越えて門の前まで行き、そこから挨拶の声をかけました。下の写真は門の所から見た家の左半分です。

 広い庭は綺麗に掃除されていて軒先には洗濯物を乾す枠が2つも吊るしてあります。人数の多い家族なのでしょう。
よく磨いたガラス戸の左端には雨戸をしまう戸袋がついています。
日向ぼっこをしたら心地よさそうな縁側に陽が射し込んでいます。その縁側の外には夏に夕涼みをするような縁台もあります。
声をかけたら返事がありません。森閑としていて人の気配がしません。
そこで門の右を見たら大きな木造のガレージがあり車が3台入るように出来ています。2台の乗用車はありましたが、1台の車のスペースが空いています。きっと一家で下の町まで買い物にでも行ったのでしょう。
また今度はお土産でも持って訪ねてみようと思い帰ることにしました。
清流を渡り振り返ったらし下の写真のような茅葺の屋根の風破が見えました。

屋根の天辺に囲炉裏の煙出しがついています。まさか囲炉裏は使っていないでしょう。プロパンガスで煮炊きをしている筈です。
それにしても江戸時代そのままのような構造の茅葺の家に住んでいる人が居るとは驚きです。下の写真のようなこの家の下の清流を眺めながら、ここに住んでいる人の心の豊かさに感動しました。

以前から江戸時代の農家を復元し、展示してある風景を何回もこのページでご紹介してきました。しかし今日はそこに人が住んでいる家をご紹介出来て私まで心楽しく豊かな気分になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

この紅葉の美しい日本からシリアの戦乱と難民に心を寄せる

2015年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
遠方の外国で起きる戦争や難民のことなどに心を煩わせず、紅葉を楽しみながら毎日平穏に生きる。そんな人生も良いものです。
しかし私にはそれが出来ません。
ベトナム戦争で心が傷付き、湾岸戦争やイラク戦争で心が乱れます。そして最近はシリアでの内戦が混乱を極め何百万人もの難民が生じています。
そのシリアのアサド大統領がモスクワを訪れロシアのプーチン大統領と会談しロシアからの軍事援助を要請しました。プーチンさんは喜び、今後も一層アサド大統領の敵を空爆し、その攻撃力を弱めると約束したのです。
これは混迷が続く中東情勢における、全く新しく、そして危険な展開です。
第一に内戦の続く国の大統領が堂々とロシアの大統領を訪問したのです。驚きです。
アメリカは以前からイスラム国の軍事拠点をサウジアラビアやアラブ首長国連邦と共同で空爆を実施してきました。
シリア国内でもアサド政権を攻撃をしているイスラム国を激しく空爆してきました。そしてもう一派の反アサド政権の武力集団を支援してきたのです。アメリカはアサド政権とイスラム国の両方を消滅する方針なのです。
一方ロシアは反アサド政権の武装組織を壊滅させアサド大統領の権力を拡大、安定させる方針です。イスラム国は温存してロシアの都合の良いように利用しようとしています。
アメリカとロシアの方針が真向からぶつかり合い、お互いの戦闘爆撃機がシリアの上空を縦横無尽に飛び回って空爆を繰り返しているのです。
アメリカの爆撃の対象はイスラム国で、一方のロシアはイスラム国以外の全ての反アサド政権の武力集団です。
アメリカとロシアの戦闘機同士が直接交戦しないという軍事協定もロシアとアメリカの両国が作りました。
この状況は今までの中東の内戦では無かった危険な状況です。
その両国の空爆の強化によって益々シリアからの難民が増えるでしょう。そしてドイツなどへ難民の苦難の道行きが増加するのです。
私はこのシリアの凄惨な状況と難民の苦しみに同情しています。この紅葉の美しい日本からシリアの戦乱と難民に心を寄せるているのです。そして祈らざるを得ません。「一日も早く中東に平和が来ますように」と。
時々、こんな意見を散見します:「欧米が十字軍を送り、近代には中東を植民地にしてきたその恨みを中東諸国が果たしているに過ぎない。日本には一切かかわりの無いことです。放って置きなさい」とか「欧米の傲慢な植民政策のツケが来ているだけです。同情も援助も一切禁物です」という意見です。
こういう意見は欧米の過去の悪行を暴きだして「ザマア見ろ」と言っていると同じです。決して建設的な意見ではありません。それを言うことは自分自身を傷つけているのです。
日本が中国や韓国に執拗に非難されているのは過去の悪行の祟りだと言われたら皆様は不愉快に感じるでしょう。
欧米人が「欧米の傲慢な植民政策のツケが来ているだけです」という言葉を聞いたら不愉快に思うはずです。
ですから私は他国を蔑むような文章や差別用語はネットの上ではなるべく出さないよう努力しています。
同時に差別用語の入ったコメントや他国を蔑むようなコメントを頂いたら心を痛めながら消すように努力しています。
どうぞご理解のほどをお願い申し上げます。今日の挿絵は今回の北海道への旅で撮った紅葉などの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







今回の北海道への旅で撮って来た黄葉の写真をお楽しみ下さい

2015年10月24日 | 写真
先週の10月17日、羽田から帯広空港に飛び、十勝の「さほろリゾート」のホテルとウトロのホテルに泊まる2泊3日の旅を致しました。
十勝平野を見下ろす狩勝峠から、幸福駅、鶴居の里、阿寒湖、知床五湖、網走のオホーツク流氷館などを巡る旅でした。その道すがら撮った紅葉の写真をお送りいたします。
本州や四国、九州の紅葉とはかなり趣が違うようです。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。









山郷、下仁田町に昔と変わらず山車が勢揃いする諏訪神社の秋祭り

2015年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
全国の過疎地では神社の祭りが途絶えているそうです。御神輿を担ぐ人や山車の準備をし、それを引く人がいないのです。
村の鎮守さまの祭りという風物詩が一つ、また一つと消えて行くのは淋しいものです。
しかし群馬県の山あいの町、下仁田町の諏訪神社の秋祭りは7台の豪華な山車が勢揃いして、天保年間(1830~1844)から続く昔のままの賑わいで、今年も10月10日と11日に行われました。
終戦の前後に家内は群馬県のこの下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
このような山あいの小さな町で京都や高山のような豪華な山車が7台もあることが不思議です。
そこで少々調べてみました。
そうしたら諏訪神社の歴史が面白いのです。
昔からあった八幡神社が戦国時代に諏訪神社と変わったのです。その頃、武田信玄が下仁田町を占領し、自分の領地だった諏訪盆地の由緒ある諏訪神社を勧進して名前を変えたのです。
その後、江戸時代になって、諏訪神社は天保8年(1837)に再建されたのです。
その時の棟梁は信州諏訪市の矢崎善四郎とその弟子たちでした。
拝殿・本殿の壁面や虹梁は彫刻でうめ埋められていいます。彫刻師の腕が偲ばれる諏訪の大隅流の技を伝える傑作なのです。
本殿、拝殿の彫刻は、さだかではありませんが、遠く飛騨の国の工匠の作とも言われています。従って豪華な山車は飛騨の高山から伝承さたものとも考えられます。
この下仁田町の諏訪神社の見事な彫刻は3枚の写真で示します。
そして下仁田町の秋の祭りの様子は横山美知彦さんの送ってくれた3枚の写真と、彼自身の文章で示します。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
======秋の風物詩・・・祭りと山車:横山美知彦=====
10月半ばになると、昼間の澄み切った秋の空の終わりに、夜の帳が足早にやって来る。お祭礼の提灯の明かりが何となく気分を、幼かった頃に引き戻してくれる。
かすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に訴えようとしているのだろう。そして何を教えようとしているのだろうか。遠くから静かに聞こえて来る笛や太鼓の独特な音は、私を特別な世界に引き入れてくれる。
町内を引き回す「山車」には、触れることさえ出来ず、上ずった気持ちとは裏腹に、遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたことなど、少子化の現在では想像さえ出来ない。山車の上から聞こえて来る笛、鐘、太鼓の音が、乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた、組々の提灯が左右に揺れる。正面の高い所に座した、町内自慢の人形も、山車の動きに合わせるが如く僅かに揺れる。・・・深まりし秋の祭りの笛の音は遠き昔と変わることなし・・・
下仁田の町内に位置する、諏訪神社は元は八幡社であったとのことだが、諏訪の 諏訪大社(長野県諏訪市)を崇拝した甲斐の武田氏の勢力が、国境を越えてこの地に進出したときに、現在の社名に変えられたと考えられる。今年の例大祭も10月10日、11日の二日間、町中を賑わし事故なく終了した。町内には七基の山車がある。何処でもそうである様に下仁田町でも若者が減ってはいるが、幼い頃から親しみ、目にして来た祭りには、遠方に居住を移して後も自然に集まり、旧交を温め会い、胸をわくわくさせ、山車に群がり、掛け声をかけながら夜遅くまで綱を引く。こんな状態がこれからも永く続くことを願っている私も、その一人である。
(注:上の文章は昨年の10月に頂いたものを再掲載させて頂きました。)
==========================
このようにして山あいの町の例祭も終わり、静かに秋が深まっていくのです。
今年の春に行った町の裏山の妙義山も紅葉が美しくなっているのでしょう。
皆様のお住まいの土地ではどのような秋祭りが行われるのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











ミステリーツアー(3)知床でヒグマ、北キツネ、エゾシカに会う、天都山に上がり、女満別空港から帰る

2015年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
ミステリーツアーの2泊目は知床のウトロ港の前のホテルに泊まりました。
そうすると3日目の普通のコースでは知床五湖を観光し、運が良ければ野生動物が見られます。それから峠を越して知床半島の反対側の羅臼に出ます。そこから船に乗り、ホエールウオッチングの為に沖に出ます。クジラやシャチ、アザラシ、いろいろなイルカが群れ遊ぶ光景を楽しみます。そして帰りは女満別空港から羽田に帰るのが普通です。
ところが、流石にミステリーツアーです。知床五湖までは行きましたが、そこから引き返し斜里から網走、そして天都山のオホーツク流氷館をゆっくり見たのです。予想外のコースでした。
本物の巨大な流氷の展示も感動的でしたが、その屋上から見た網走湖や能取湖やオホーツク海の眺めが雄大で印象深いものでした。
それでは3日目のツアーで見たものを写真に従ってご説明いたします。
ホテルを出て知床五湖に近づいた頃、バスの傍の白樺林の中に大きなヒグマが悠然と歩いています。下の写真はバスの窓から撮ったヒグマです。

この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのです。数分歩いて写真を撮り終わった頃に林の中に消えて行きました。
知床には何度か来ていましたが、ヒグマをこんなに間近に見るのは初めてでした。
さてそこからかなり走った所で、下の写真のようにエゾシカが草を食べている光景を見ました。

エゾシカは熊を恐れるのでクマからは数キロメートル離れた雑木林にいたのです。
その次は下の写真のようにバスの前方の路上で遊んでいる北キツネが2匹見ました。

このように道路で遊んでいるキツネは観光キツネと言い、観光客の与えるお菓子を待っているようです。野生動物へは餌やりは厳禁ですが、それでもたまに誰かがお菓子を投げ与えるのでしょう。
次の2枚の写真は知床五湖のうちの一番近くの一湖の写真です。



駐車場から幅の広い立派な木道があり一湖までは足が弱い人でも歩いて行けるのです
背景の山並みは知床連山です。
この木道の展望台から北の方角を見ると下の写真のようにはるか向こうにオホーツク海が青く見えます。

そして西の方角を見ると下の写真のように知床連山が斜里まで連なっているのが見えます。

知床連山の西の端は斜里岳で、そこで知床半島は終わっています。
知床五湖の観光の後はバスが引き返しました。
そしてウトロを過ぎて斜里へ向かいます。
下の写真はウトロを出た所にあるオシンコシンの滝です。

バスを駐車してお客がオシンコシンの滝壷の近くまで歩いて行きます。
国道のすぐ傍にこんなに大きな滝があるのは流石に北海道です。写真の手前に写っている人間に比較するとこの滝の巨大さが想像出来ると思います。
この後は騰沸湖を左にしてオホーツク海の岸辺を走ります。
斜里を過ぎて網走に行き、そこで焼きサンマや鮭鍋のついた昼食を摂りました。
網走の寂れた繁華街を散歩して、時の流れを想います。
その後は天都山に上がり「オホーツク流氷館」に入ります。年中マイナス15度に保った流氷体験室で濡れタオルを振り回し、棒状に凍るのを実験します。去年の流氷も展示してあります。
そして屋上に上がり下の2枚の写真のような眺望を楽しみます。

上の写真の左前の湖が網走湖で、右遠方にあるのが能取湖です。

上の写真は東北側の眺望で網走市とその向こうにオホーツク海が見えます。
「オホーツク流氷館」を楽しんだあとは網走湖を右に見ながら女満別空港へはバスで40分の行程です。
途中、右手に網走湖に続く湿原の水芭蕉の群落地が見えます。数年前に訪れ、一面に咲いた水芭蕉の白い花に感動したことを思い出していました。
そして下の写真のように女満別空港を飛び立って一路羽田に向かいます。

これが今回の2泊3日のミステリーツアーの終りになりました。
それにしても知床の大自然を見るとどうしても其処に住んでいたアイヌ民族をことを考えてしまいます。
北海道には4万年前の石器時代からアイヌ民族が住んでいました。本州北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。
その土器が本州の古墳時代の頃に土器の模様が竹筆で擦ったような模様になって擦文文化時代になります。
そして13世紀になると北方のオホーツク文化と鎌倉時代の日本文化が混然と流入しアイヌ文化が出来上がったのです。
しかし北海道に住んでいる民族は石器時代からアイヌ文化時代になっても同じアイヌ民族だったのです。大規模な民族移動は無かったのです。アイヌ文化の特徴はそれまで使っていた土器が無くなったことが特徴です。
そして日本から入手した鉄鍋を囲炉裏にかけて料理し、木製の食器とスプーンや箸で食べるようになったことが特徴です。囲炉裏の火を煮炊きに使っていました。
そのアイヌ民族は戦前、戦後まで北海道の二風谷や白老などの辺鄙なところに集落を作って生き延びていたのです。
私は少年の頃、一人のアイヌ人の友人を持っていました。
終戦後に、いろいろな事情でアイヌ人が北海道から私の住んでいた仙台市に移住して来たのです。仙台の郊外の雑木林を切り開いて生活していました。私はそのアイヌ人と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。79歳になっても、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、仙台市の郊外に住んでいましたが、その頃、学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が住んでいたのです。
同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏があり鉄鍋がぶら下がっています。
それで全ての料理を作り食事をしています。父親は白い顔に黒い大きな目、豊かな黒髪に黒い髭。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。
少年は学校に来ません。いつ遊びに行っても、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。
夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、ある日、開拓の彼の家へ行きました。無い。無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家になにか事情があったのでしょう。さよならも言うこともなく消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。70年たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
第二次大戦後までは純粋なアイヌの家族が日本人に混じって東北地方にもひっそりと生きていたのです。
一説によると日本共産党が戦後にアイヌ人を助けるために本州への移住を進めていたそうです。でもその真偽もさだかではありません。
そして終戦後、アイヌ民族はしだい、しだいに日本人と同化して消えていったのです。
国会議員になった萱野 茂(1926年 - 2006年)が最後の誇り高いアイヌ民族の一人でした。
ご興味のある方は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%B1%E9%87%8E%E8%8C%82をご覧ください。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

碧く輝くオホーツク海の風景をお楽しみ下さい!

2015年10月21日 | 写真
今回の東北海道のミステリーツアーではウトロ港からの帰りはオホーツク海に沿って海岸の道路を走りました。斜里を過ぎて小清水の廃駅そして網走までバスの右手にはえんえんと深い蒼色のオホーツク海が広がっていました。
左手には藻琴湖が横たわっています。
北海道の北岸はオホーツク海に面していますが東京に住んでいる我々はめったにオホーツク海を見ることが出来ません。それが眼前に広がっているので感激します。
何枚も写真を撮りましたが3枚だけを示します。そして4枚目と5枚目の写真は天都山の上にある流氷博物館で展示してあった去年の本物の流氷の塊です。キツネやアザラシは作りものですが流氷の塊は零下15度に保持されて展示室で保存してあるのです。
冬になると流氷が押し寄せ北海道の北岸はこのような風景になるのです。
碧く輝くオホーツク海の風景をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









ミステリーツアー(2)ある農園でジャガイモを掘り、オホーツク海の岸辺のあるホテルに泊まる

2015年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は北海道へのミステリーツアーの2回目の連載記事です。
第一回と同じように写真に従って旅の内容をご説明します。
そしてその後で、北海道では有名ですが内地では有名でない江戸時代末期の北方探検家の松浦武四郎についてご紹介いたします。
彼は、アイヌの人達と共に生活しながら探検を続けました。アイヌを愛した明治期の官僚として、北海道という名前を付けた人です。そして北海道の地名の多くをアイヌ人の呼び方を尊敬し、アイヌの地名に漢字を宛ててつけました。その業績は今もなお生き続けています。
しかし明治政府のアイヌ民族へ対する圧政に反対して官僚を止めてしまいます。
明治政府に盾突いた官僚の事績は抹殺される運命にあるのは仕方が無いのです。ですから文部省検定の教科書には出てきません。しかし北海道の学校では必ず松浦武四郎について教えるそうです。そして北海道には彼の銅像や記念館が沢山あります。

それはさておき2日目のミステリーツアーは8:15時に新得町狩勝高原の「さほろリゾート」のホテルを出発しました。出発したらある峠に上がり眺望を楽しんで貰いますという説明しかありません。1時間ほど走りました。
下の写真がその峠からの眺望です。広い十勝平野の遥か向こうに太平洋が見えました。

その峠から東方向にある釧路湿原に続く畑作地帯を通ったらバスの上からあちこちに鶴が落穂をついばんでいる姿が見えます。鶴は一生同じ夫婦で過ごし子供も一緒だと言います。
下にその鶴の家族の写真を示します。真ん中の首がまだ黒くなっていないのが子供の鶴です。黒黒いのがその両親です。

さて今回のツアーで一番特殊だったのは主催した旅行社の契約農場でのジャガイモ堀でした。
下の写真はその農場に続く道です。

下の写真は家内が掘ったジャガイモです。ビニール製の手袋とアシブクロを付けて指で掘り出すのです。

下の写真は宅急便で自宅に着いたジャガイモです。左端の土が付いている箱のが彼女の掘った分です。

農作業をした経験のない家内がジャガイモを土の中から掘り出して興奮しているのです。大きいイモの周りに小粒のイモが沢山ついているのを見て感動しています。
私は戦争中のジャガイモ堀りをしたので今回は敬遠しました。
そのジャガイモの品種はキタアカリと言います。農場主が蒸かしたイモをサービスしてくれました。温かいイモが美味なのです。
今朝も家内が掘ったイモを蒸かしてバターを付けて食べましたが確かに美味でした。
このジャガイモ堀も秘密でした。それだけに一層楽しかったのです。
その後は農場の傍のレストランで昼食の十勝豚の丼とカツ丼を食べました。
下がそのレスランです。

午後は釧路湿原の西の畑作地帯と山の中をひたすら北に向かって1時間ほど走りました。
着いた所はある有名な湖でした。下の写真にその湖の風景を示します。

その湖からさらに北に走ります。次第に夕方になり夕日が沈みかけています。
下の写真にその夕日を示します。

しばらくして道を東方向に変えます。そして見覚えのある知床連山の西端の斜里岳が見えて来ました。ここで宿泊地がウトロではないかと想像がつきました。
ホテルに着いて見ると案の定、ウトロでした。
下の写真は翌朝、ホテルの「窓から撮ったウトロ港とその外側に広がるオホーツク海の風景です。

2日目のツアーで印象に残ったのは十勝平野の眺望と鶴の一家の姿でした。家内はジャガイモ堀の体験に興奮してそれが一番面白かったと言います。
3日目にはヒグマやエゾシカや北キツネを観ましたがそれは明日ご報告します。
さて松浦武四郎の生い立ちや北海道の探検と地名の命名のことは末尾の参考資料の、
(1)アイヌ民族を愛した松浦武四郎
(2)北海道の名前をつけた松前武四郎の生涯
で詳しく説明してあります。是非ご覧になって下さい。
そして全国を旅していると、その地方だけ有名な偉い人が沢山いることに気がつきます。
例えば五島列島に行くと人々が鉄川与助のことを自慢します。美しい天主堂や教会を沢山作った五島出身の大工の棟梁でした。棟梁と言うより教会建築家と呼んだ方がふさわしい人でした。
詳しくはhttp://allxa.web.fc2.com/a-map/jp_nagasaki/tetsukawa/tetsukawa01.htmlご覧ください。
一般的に中央政府の指示に従って大きな業績を上げた人々は文部省検定の教科書に乗り、学校でも教えます。しかしそれ以外の偉人は教科書では無視されるのです。何か寂しい文化ではないではないでしょうか?いろいろな地方に旅するとそんなことを考えさせられます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========
(1)アイヌ民族を愛した松浦武四郎
http://matsusaka-machiaruki.jp/2012/11/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8-2/
「松浦武四郎」翁は北海道の名付け親として最近、北海道各地で記念碑が建てられるようになってきました。人権・観察眼・健脚・地図作製能力・アイヌの風俗画などで素晴らしい能力を発揮した人物でありながら、教科書の片隅にも載っていないことが残念です。しかし北海道では小学校のとき必ず松浦武四郎翁を授業で習うので みんな知っているそうです。道内に武四郎翁の碑が大小54か所もあり 、江差には武四郎翁を祀る神社もあるようです。
江戸時代末期の北方探検家の松浦武四郎翁は、アイヌの人達と共に生活しながら探検を続けました。差別心を持たない人権感覚に優れた官僚として、北海道の地名の多くを考えアイヌ語に漢字を当てはめていった業績は今もなお生き続けています。
(2)北海道の名前をつけた松前武四郎の生涯
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。
文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる[2][1]。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている[3]。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる[4]。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らと知己を得る[5]。

山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に[5]、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し[5]、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった[5]。安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した[6]。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。

余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を奉納した[5]。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせている[7][8]。また、明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。

明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去[2][1]。
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上記のミステリーツアーで行った場所
(1)初めに行った峠は狩勝峠でした。
(2)農場と昼食の食べた所は「丹頂の里」でした。
(3)午後に行った湖は阿寒湖でした。
(4)泊まったホテルはウトロ港前の知床グランドホテル北こぶしでした。