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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「八ヶ岳花の小道の写真」

2023年06月30日 | 写真
八ヶ岳花の小道の写真をお送り致します。
花の小道は八ヶ岳の標高970mの所にある園芸店です。一年を通して花苗の生産・直売を行っています。
住所は、〒408-0031山梨県北杜市長坂町小荒間475-5 です。

「八ヶ岳に咲く花々」

2023年06月30日 | インポート
この前の記事の書きました山小屋は八ヶ岳にも近いのです。
よく行った八ヶ岳の麓にはいろいろな花が咲いています。
そこで八ヶ岳の花の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://garage-life.jp/yatsugatake-flowers です。

1番目の写真は青紫の花「リンドウ」です。9〜10月にかけて開花します。

2番目の写真は雪が溶けた頃、登山道脇に咲くキンポウゲ科のヒメイチゲです。北海道や本州の近畿地方以北に分布し、亜高山帯針葉樹林や高山帯の湿った草地周辺などに生育します。ヒメイチゲの見頃は5-6月です。

3番目の写真はキバナシャクナゲです。北海道から中部地方までの高山帯から亜高山帯上部にかけて自生する高山植物です。

4番目の写真はアヤメです。多年草です。アヤメの多くが山野の草地や日当たりの良い草地に6~7月頃に自生しています。


「私の好きな盛岡の風景の写真」

2023年06月29日 | 写真
私の好きな盛岡の風景の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/1021559/1021610/1042096/1042422.html です。

この前の記事に書いたように以前研究室にいた山口さんは盛岡で結婚式をあげました。我々夫婦が仲人をしました。
東京の自宅から車で行ったので、市内を見物し不来方の城や北上川、満開の石割桜、宮沢賢治ゆかりの光原社も訪れました。
そんな思い出があるので盛岡の風景の写真をお送り致します。
 

「忘れ得ぬ人々(13)大学の自分の研究室の学生さん達」

2023年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は昔東京工業大学にいた頃の自分の研究室の学生さん達のことを書いてみたいと思います。まず昔の学生さん達の写真の一例を示します。

 この写真は2018年の7月の研究室の最後の同窓会の写真です。
写真の前列の右端の須佐さんから左方向へ私、川上さん、雀部さん、永田さん、左端は幹事の山口さんの奥さんです。後ろの列は右端は私の家内、その左は幹事の山口さん、その左方向へ板谷さん、そして左端は丸山さんです。
最後の同窓会は小平市の「いろりの里」という料亭でした。

川上さん、雀部さん、永田さん、山口さん、板谷さん,須佐さんの6人は私の研究室に5年以上いて工学博士の学位を取りました。
そして、川上さんはスウェーデンに留学し、雀部さんはドイツに留学し、永田さんはベネズエラの国立研究に、山口さんはペンシルベニア大学に留学しました。

その後、川上さんは豊橋技科大の教授、雀部さんは千葉工業大学の教授、永田さんは東京工業大学の教授、山口さんは東京大学の教授、須佐さんは東京工業大学の教授として活躍しました。板谷さんは川崎製鉄の中央研究所の主任研究員のなりました。
皆は定年まで活躍しました。現在はそれぞれ楽しい老境です。
なお後列の左端の丸山さんはすでに助教授になってから私の研究室へ加わったです。

皆それぞれ個人的な思い出があります。雀部さんの父は東大教授でした。三鷹の自宅に行って話をうかがいました。温い方でした。
川上さんの豊橋の家には泊りました。奥様が歓迎してくれました。
山口さんは盛岡で結婚式をあげました。我々夫婦が仲人をしました。東京の自宅から車で行ったので、市内を見物し不来方の城や北上川について思い出がたくさんあります。
板谷さんの立川の実家に行って両親に会い土地のお話をお聞きしました。板谷さんは退職後農業を始めて、毎年見事なそら豆、新玉葱など送ってくれました。
永田さんの実家は飛騨の金山にありました。訪ねたら父親がいろいろ飛騨の話をしてくれました。車で行ったので帰りは野麦峠を越えてドライブを楽しみました。

それにしても自分の研究室の学生さん達皆には公私とも随分お世話になったものです。深く感謝しています。そして懐かしいです。

今日は東京工業大学の自分の研究室の学生さん達のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「仙台の近くの金蛇水神社のボタンの花の写真」

2023年06月27日 | 写真
仙台の近くの金蛇水神社のボタンの花の写真をお送り致します。
 仙台の近くの岩沼市の金蛇水神社で、大輪のボタンが見頃を迎え、訪れる人の目を楽しませています。
金蛇水神社には約100種類1000株のボタンが植えられていて、見頃を迎えています。
赤や黄色、ピンクの大輪のボタンが咲き誇っています。

「忘れ得ぬ人々(10)北京ダックと周栄章さんの思い出」

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
周栄章教授と知り合ったのはフランスでした。1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会ったのです。
彼から話を聞きました。周氏は共産軍とともに天津市を占領し、民生行政に参加した人でした。周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になると思います。
さて中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。1981年に北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ北京鉄鋼学院の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。
周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。
こうして周栄章教授と知り合ったことが私のその後の中国との深い付き合いへと繋がったのです。当時の中国は経済成長の前で本当に貧しい国でした。しかし人の心は驚くほど温かでした。
あれから茫々50余年、嗚呼、中国は本当に豊かな 国になったのです。そこで中国の観光案内をしたいと思います。
北京には数々の観光名所があります。万里の長城、天壇公園、故宮(紫禁城)、天安門広場、盧溝橋、周口店、頤和園(いわえん)などなどです。私は家内とともにこれらの全てを見て回りました。1980年から1984年にかけた頃でした。
以下に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘、そして裏町の小さな北京鴨店の北京ダックなどをご紹介したいと思います。そして最後に風光明媚な頤和園を紹介したいと思います。
1980年のある秋の夜でした。北京の北海公園の石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の陸学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。

1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm です。
歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。陸学長さん達に感謝の言葉を述べました。すると学長は中国への旅の感想を聞きます。私はつぎのような話をしました。
「中国は良い国です。しかし共産主義は独裁政治を生むので好きではありません。しかし中国が欧米の植民地にならないためには共産主義を選ぶ他は無かったと思います。中国が欧米列強の植民地にならなくて本当に良かったです。私も嬉しいのです。」
このような内容のことを、一気にしゃべりました。英語で喋りました。
これを聞いて陸学長さんは深くうなずいて、「あなたは中国について何を喋っても良いです。自由にこの国を楽しんで下さい」と言ったのです。この一言で私は途端に楽しくなったのです。

2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。
周栄章さんの招きで2年後に行った家内はその精妙さと美味しさに感激していました。

3番目の写真は仿膳飯荘の宮廷料理です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
周栄章さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
冷蔵庫が無いのか、あまり冷えていない五星ビールが出ます。前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。

4番目の写真は北京ダックの写真です。写真の出典は、http://imagenavi.jp/search/#!/ です。
うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。お互いに英語で話し合いました。
北京鴨は自分で皮を切り取って、薄い白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
皮を全て食べ終わると料理人が出て来て、皮の無い鴨を下げます。調理場で肉を取って、2種類くらいの料理に仕上げて、又持ってきます。それを食べ終わる頃に鴨の骨でダシを取ったスープが出て来ます。これで終わりです。
裏町の北京鴨の店で周栄章さんは、文化大革命で農村へ下放された経験を話しました。毎日、毎日、豚の餌やりと豚小屋の掃除にあけくれたそうです。1976年の秋に、毛沢東が死に、四人組が逮捕されて、やっと自由の身になったそうです。
そして周恩来を絶賛するのです。中国人が一番好きな人は周恩来ですと断言します。何度も断言します。毛沢東の発動した文化大革命で内戦状態になった中国で人民は塗炭の苦しみの底にあったのです。それを少しでも救おうとしたのが周恩来首相だったのです。当然、毛沢東は周恩来を亡き者にしようとします。
これは周栄章さんから聞いた話です。
周恩来がチベット視察から帰るとき乗った旅客機を、毛沢東が空軍に命じて撃ち落とそうとしたのです。その命令に従って空軍のジェット戦闘機が2機、飛び立ったのです。周恩来の乗った旅客機を挟むように両側に並んだ戦闘機は発砲しません。翼を上下に揺らして歓迎しています。コックピットを覗き込むと、操縦士が周恩来へ敬礼をしていたそうです。
後で毛沢東へは霧で視界が悪く、周恩来機が発見出来なかったと報告したそうです。
1976年の2月に周恩来が病死し、4月の清明節のとき天安門広場で群衆が追悼の大集会をしました。それを毛沢東は軍隊をつかって解散させたのです。兵隊も周恩来が好きだったので群衆へ同情、手荒なことをしなかったそうです。
周栄章さんの話は何時までも尽きませんでした。
その後、北京原人の周口店、明の13陵、頤和園、天壇、大鐘の寺、長城、承徳、そして西安の秦の始皇帝の墓、兵馬俑、などなどを訪問しました。しかし話が長くなるので、ここでは北京郊外の離宮の頤和園の写真を3枚だけ示します。

5番目の写真は頤和園の前に堀って作った湖です。

6番目の写真は美しく伸びた長い回廊です。左手に湖の風景が広がっているのです。

7番目の写真は奥にある眺めの良い宮殿です。
3枚の写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものからお借りしました。
大変お世話になった周栄章さんを私は日本に招びました。私の家に泊まってもらい、いろいろな観光地へも案内しました。
周栄章さんは2004年に亡くなりました。亡くなって19年たちましたが彼の温かい友情を思い出す度に胸が熱くなります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「忘れ得ぬ人々(9)仙台の愛宕中学の高橋貞明先生の思い出」

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐに日本の学校制度が新しく変りました。占領軍総司令部の命令です。
仙台市には新制中学校が幾つも出来、私共が入学した第十中学校(後に愛宕中学校と改称)は昭和22年に発足し、我々はその二期生として昭和23年に入学しました。
その頃の小学校や中学校、そして全ての学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。戦中、戦後に通った仙台の向山国民学校の担任の先生がその通りだったのです。今でもその優しかった顔を忘れられません。
そして昭和23年から26年まで通った新制中学校の愛宕中学校先生方も情熱を傾けて生徒の面倒を見ました。
特に忘れられないのが高橋貞明先生です。仙台の愛宕中学で担任をしていた先生です。
この高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。でも何を習ったかすっかり忘れてしまいました。
忘れられないのは踏査部の部活で一緒に泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。
この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。
私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生にお世話になりました。
とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私達悪童連を何度も自宅に招んでくれました。
そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。
私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。
愛宕中学校卒業後に60年ほどたってから仙台で愛宕中学校の同期会がありました。
その時、話題になったのは高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。
当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。
終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。
ここで仙台の様子を示す写真をお送り致します。
1番目から3番目の写真は2012年10月18日に私が仙台に行き撮った片平町、お霊屋下、鹿落坂、の写真です。
1番目の写真はタクシーの窓から片平町の東北大学を撮った写真です。正面の赤レンガの建物が私が卒業した金属工業科です。
2番目の写真は片平町と向山を結ぶお霊屋橋です。この橋を渡って毎日、片平町の東北大学に通ったのです。
3番目の写真はお霊屋下から向山に登って行く鹿落坂です。毎日、東北大学に通った坂です。
少し説明します。伊達政宗の廟所は経ヶ峰という山にあります。その下の町をお霊屋(おたまや)下と言います。片平丁から広瀬川を渡って霊屋下へ行く橋がお霊屋橋と言います。霊屋下から広瀬川に沿って経ヶ峰の中腹を登って向山へ行く坂路を鹿落坂(ししおちざか)と言います。
私は24歳で仙台を出るまで、鹿落坂の上の向山に住んでいました。家の東北方向には愛宕山があり、東南の方向には伊達家代々のお墓のある大年寺があります。そのお寺のある山は大年寺山といいます。家から西の方面は八木山という広大な森林地でした。経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区のようです。何十年経っても昔のままの森林に覆われています。

話が仙台の愛宕中学の高橋貞明先生からそれてしまいました。高橋貞明先生の話に戻します。
先生は情熱的でした。自分の家に私達を招んでくれました。しかし24歳で仙台を離れた私は高橋貞明先生のことをすっかり忘れていました。
ところが約30年後の1993年の息子の東京での結婚式・披露宴に出席してくれたのです。息子の結婚相手の親類だったのです。私は懐かしのあまり涙が出そうでした。貞明先生は昔のまま若々しくはつらつとしていました。これぞ奇跡です。忘れられないことでした。

人生にはいろいろな事があるものです。
今日は仙台の愛宕中学で大変お世話になった高橋貞明先生の思い出を書きました。

れはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の関口教会の年間第12の主日のミサの風景」

2023年06月25日 | 日記
今日の関口教会の年間第12の主日のミサの風景をお送り致します。
今日は関口教会の年間第12の主日のミサにインターネットであずかりました。
その風景の写真をお送りいたします。

「今日の年間第12主日のミサの動画配信」

2023年06月25日 | 日記
今日の年間第12主日のミサの動画配信です。

関口教会の動画配信、

イグナチオ教会のミサ動画配信、

広島のカトリック幟町教会

写真は五島列島にある水ノ浦教会の風景です。


「連載記事の『忘れ得ぬ人々』を続けるべきか?」

2023年06月24日 | 日記
毎日、私は短い記事を書いてインターネットのブログなどへ投稿しています。毎日読んで下さる方は600人から800人です。私はこの読者のためになるような内容の記事を書く努力をしています。読者へ深く感謝しています。
「連載記事の『忘れ得ぬ人々』は読者のためになっているでしょうか?『忘れ得ぬ人々』はあまりにも個人的な内容です。社会性がありません。
私のよぅな老人はつい過去の思い出だけに執着します。それではいけないと反省すべきです。
もっと未来のこと、将来の日本のことなどを話題にすべきです。例えば人間社会の差別などを無くすような建設的な記事を書くべきです。
そのように努力しますので『忘れ得ぬ人々』をもう少し続けさせて下さい。

挿絵代わりの写真は美しい花の写真をお送り致します。
写真の出典は、世界で最も美しい花トップ20 (earthnworld.com)  です。
花々は順に、バラ、チューリップ、ダリア、ブリーディング・ハート、ハスです。


「忘れ得ぬ人々(6)スウェーデンの古民家とエケトルプ先生の思い出」

2023年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
スウェーデンには1972年にストックホルム工科大学へ講義に行って以来お付き合いが続きました。私を招んでくれたのはエケトルプ教授でした。4か月滞在の間自宅にも何度も招待されました。懐かしいエケトルプ教授が亡くなってからもう何年もの月日が流れました。亡くなったとき花束を贈っただけでした。
スウェーデンでは北端のキルナという町まで車で行ったこともあります。
ストックホルム工科大学のスウェーデンの大学院生さんを東京に呼んで我が家に3か月泊めたこともありました。いろいろお付き合いをした懐かしい国です。
エケトルプ教授の古民家の裏の野原に一面に小さい花々が咲いていたのが印象的でした。色とりどりの花が白夜のうす明かり中に夢幻のように広がっています。感動しました。
スウェーデンは緯度が高いので夏は白夜で太陽の光も弱々しい国です。ですから日本の高山植物のような花々が平野の野原に咲いているのです。
エケトルプ教授に聞くと、「草花の種を買って来て家の周りの野原に播いたのです」と言います。そして「よく見て下さい。日本の高山植物のように見えますが、種類は違います」とも云ってました。
エケトルプ教授の古民家の周りに咲いていた高山植物のような花々が忘れられません。
先生は中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。ストックホルムの郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家です。
家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったと言います。内装はすべて白っぽい北国の板材、柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量の少ない乾燥した北国なので、日本の合掌造りの屋根のように急斜面で部厚くはないのです。
建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。
一番の特徴は一階の右半分を使用した炊事場兼食堂。部屋の真ん中に石造りの大きな竃(かまど)があり、その上には分厚い鉄板が乗せてあります。炊事の時にはその鉄板の上に鍋を三、四個置き、薪で煮炊きをするのです。深い鉄鍋を逆さに伏せればオーブンにもなります。
大きな石組みの煙突が家の中心を貫き、その余熱で二階の寝室の暖房にするのです。寝室には電気が無く、灯りはロウソクです。
昔のスウェーデンの農家との違いは炊事場と食堂に電燈と冷蔵庫があるだけでした。テレビはありませんでした。
木の香を楽しみ、夕食後は石の竃(かまど)の前に座り、コケモモでピンクに色づけしたスウェーデンの蒸留酒を飲みます。古い農家を再現するときの苦労話を聞きながら私はその強い酒を少しずつ飲みました。
夜が更ければ寝室へ引き揚げます。窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。このような白夜の風景が珍しく、いつまでも外を眺めていたものでした。
当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで昔泊めて貰ったあのスウェーデンの古民家に似た画像をいろいろ探しました。似ている古民家の写真を見つけましたので下にお送りいたします。

1番目の写真はスウェーデンの古民家です。
写真の出典は、http://fuucaarchi.exblog.jp/tags/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3/ です。
写真の古民家では外壁が板壁になっていますが、私が泊まった家は窓から上の部分は白い土壁でした。屋根は藁葺でした。

2番目の写真はスウェーデンの古民家の室内の様子です。
写真の出典は、http://hanatomo31.exblog.jp/16424403 です。
日本でも古民家を復元して住んでいる人がいます。羨ましい趣味です。私はこの趣味に憧れていましたが、儚い夢です。
古民家に招待してくれたエケトルプ先生には公私ともに大変お世話になりました。その恩人も亡くなって随分年月が経ちました。
日本のテレビでは時々古民家を復元して住んでいる人を紹介する番組があります。それ見るたびにスウェーデンの古民家に泊めてくれたエケトルプ先生をしみじみ懐かしく思い出します。お元気だったころのお顔や姿が思い出されるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

ついでにスウェーデンの風景写真をお送り致します。

3番目の写真はストックホルムの旧市街の風景写真です。
4番目の写真はスウェーデンの農業地帯の風景写真です。

5番目の写真はスウェーデンの夕暮れです。(http://free.gatag.net/2011/05/24/190000.html )

「東京農工大科学博物館を見に行きました」

2023年06月22日 | 写真
私の住んでいる小金井市には東京農工大の科学博物館があります。
以前も行きましたが久しぶりに見に行きました。
展示スペースも以前より広くなり展示物も多くなっていました。

この東京農工大も科学博物館も国立だけあって立派です。
展示は生糸生産と織物のための機械に特化しています。非常に専門的な博物館です。以前は繊維博物館と言っていました。
ホームページにある写真をお送り致します。
詳しくは、https://web.tuat.ac.jp/~museum/information/index.html をご覧ください。


「高原のお花畑、花の都公園」

2023年06月22日 | 写真
高原のお花畑、花の都公園の花の写真をお送り致します。
富士山の麓の高原のお花畑です。

30万㎡のエリアが四季折々の花々で埋め尽くされ、花が好きな方や写真好きな方々等年間多くの観光客が訪れます。
山中湖の近くにあるので何度も行きました。駐車場もあり花々の間をゆっくり散歩できます。山中湖に行ったら是非ともお寄り下さい。