後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「八ヶ岳花の小道の写真」

2023年06月30日 | 写真
八ヶ岳花の小道の写真をお送り致します。
花の小道は八ヶ岳の標高970mの所にある園芸店です。一年を通して花苗の生産・直売を行っています。
住所は、〒408-0031山梨県北杜市長坂町小荒間475-5 です。

「八ヶ岳に咲く花々」

2023年06月30日 | インポート
この前の記事の書きました山小屋は八ヶ岳にも近いのです。
よく行った八ヶ岳の麓にはいろいろな花が咲いています。
そこで八ヶ岳の花の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://garage-life.jp/yatsugatake-flowers です。

1番目の写真は青紫の花「リンドウ」です。9〜10月にかけて開花します。

2番目の写真は雪が溶けた頃、登山道脇に咲くキンポウゲ科のヒメイチゲです。北海道や本州の近畿地方以北に分布し、亜高山帯針葉樹林や高山帯の湿った草地周辺などに生育します。ヒメイチゲの見頃は5-6月です。

3番目の写真はキバナシャクナゲです。北海道から中部地方までの高山帯から亜高山帯上部にかけて自生する高山植物です。

4番目の写真はアヤメです。多年草です。アヤメの多くが山野の草地や日当たりの良い草地に6~7月頃に自生しています。


「私の好きな盛岡の風景の写真」

2023年06月29日 | 写真
私の好きな盛岡の風景の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/1021559/1021610/1042096/1042422.html です。

この前の記事に書いたように以前研究室にいた山口さんは盛岡で結婚式をあげました。我々夫婦が仲人をしました。
東京の自宅から車で行ったので、市内を見物し不来方の城や北上川、満開の石割桜、宮沢賢治ゆかりの光原社も訪れました。
そんな思い出があるので盛岡の風景の写真をお送り致します。
 

「忘れ得ぬ人々(13)大学の自分の研究室の学生さん達」

2023年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は昔東京工業大学にいた頃の自分の研究室の学生さん達のことを書いてみたいと思います。まず昔の学生さん達の写真の一例を示します。

 この写真は2018年の7月の研究室の最後の同窓会の写真です。
写真の前列の右端の須佐さんから左方向へ私、川上さん、雀部さん、永田さん、左端は幹事の山口さんの奥さんです。後ろの列は右端は私の家内、その左は幹事の山口さん、その左方向へ板谷さん、そして左端は丸山さんです。
最後の同窓会は小平市の「いろりの里」という料亭でした。

川上さん、雀部さん、永田さん、山口さん、板谷さん,須佐さんの6人は私の研究室に5年以上いて工学博士の学位を取りました。
そして、川上さんはスウェーデンに留学し、雀部さんはドイツに留学し、永田さんはベネズエラの国立研究に、山口さんはペンシルベニア大学に留学しました。

その後、川上さんは豊橋技科大の教授、雀部さんは千葉工業大学の教授、永田さんは東京工業大学の教授、山口さんは東京大学の教授、須佐さんは東京工業大学の教授として活躍しました。板谷さんは川崎製鉄の中央研究所の主任研究員のなりました。
皆は定年まで活躍しました。現在はそれぞれ楽しい老境です。
なお後列の左端の丸山さんはすでに助教授になってから私の研究室へ加わったです。

皆それぞれ個人的な思い出があります。雀部さんの父は東大教授でした。三鷹の自宅に行って話をうかがいました。温い方でした。
川上さんの豊橋の家には泊りました。奥様が歓迎してくれました。
山口さんは盛岡で結婚式をあげました。我々夫婦が仲人をしました。東京の自宅から車で行ったので、市内を見物し不来方の城や北上川について思い出がたくさんあります。
板谷さんの立川の実家に行って両親に会い土地のお話をお聞きしました。板谷さんは退職後農業を始めて、毎年見事なそら豆、新玉葱など送ってくれました。
永田さんの実家は飛騨の金山にありました。訪ねたら父親がいろいろ飛騨の話をしてくれました。車で行ったので帰りは野麦峠を越えてドライブを楽しみました。

それにしても自分の研究室の学生さん達皆には公私とも随分お世話になったものです。深く感謝しています。そして懐かしいです。

今日は東京工業大学の自分の研究室の学生さん達のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「仙台の近くの金蛇水神社のボタンの花の写真」

2023年06月27日 | 写真
仙台の近くの金蛇水神社のボタンの花の写真をお送り致します。
 仙台の近くの岩沼市の金蛇水神社で、大輪のボタンが見頃を迎え、訪れる人の目を楽しませています。
金蛇水神社には約100種類1000株のボタンが植えられていて、見頃を迎えています。
赤や黄色、ピンクの大輪のボタンが咲き誇っています。

「忘れ得ぬ人々(11)仙台市愛宕中学校の亡くなった同窓生への追悼」

2023年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
2012年10月に、仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。
若くして仙台を捨てるようにしてアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。
今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。
その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。2回生は全部で350人でした。
その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私の薄情さがこたえました。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。
まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内量君ともよく一緒に遊んだものです。
君が大学卒後、七十七銀行に入り、その得意先まわりの折に私の大学の実験室を訪ねてくれたことがありました。新しい職場に張り切っている様子でした。それが君に会った最後になりました。性格の優しい君に会えると期待しつつ同窓会に行きました。旅立ったことも知らなかった私をお許し下さい。
内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。同窓会に出ていた友人に君の事を聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。
有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったですね。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。今回の同窓会で多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。
我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていましたね。
大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。
村木良彦君。きみは2008年に亡くなり東京の増上寺でお葬式があり私もでました。
テレビマンユニオンを創り、テレビの有名な旅番組を沢山つくりましたね。
仙台時代は君の東八番町の家によく遊びに行きました。中学校と高校では一緒に演劇部でよく遊んだものです。それにしてもテレビ界では有名なプロデューサーとして活躍しましたね。
早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。その君が何時も非力な私を守ってくれましたね。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。
そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思いつつ今回同窓会へ行ったのです。でも君は既に旅立ってしまっていたのです。
早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れないよ。
その他いろいろ追悼したい友だちが沢山いますが、この辺で止めます。
今日は既に亡くなってしまった76人の愛宕中学二回生のご冥福をお祈り致します。どうぞこの私の長い間の不義理をお許し下さい。
ついでに小学校時代の友人へも追悼文をお送り致します。
お霊屋下に本間君という金持ちの家の子がいました。大柄ですが気の弱い優しい性格の子でした。彼の家には小学校の時よく遊びに行き、広い屋敷の中の樹木に登って遊んだものです。終戦直後に、プロ野球の若林忠志選手が彼の家に寄寓していて、小学校の校庭で野球を教えてもらったこともありました。
本間君とはその後会っていませんが、中年の頃、事業に失敗して自殺したという噂を聞きました。彼の気の弱さがよくなかったのかと悲しい思いをしました。
そのお霊下には満州から引き上げて来た羽田君も住んでいました。でもすぐに何処かへ行ってしまったのです。
それから大人のように分別のある三浦君もそのお霊下に住んでいました。しかし三浦君とは一別以来会っていません。賢い子でした。
優等生の鈴木壽君もお霊下に住んでいました。彼とは2012年の同期会で61年ぶりに会いました。感無量でした。

仙台に行くと仙台駅から名掛町、大町、東一番丁とゆっくり歩きながら私は過ぎ去った小学校や中学校の頃の友人のことを思い出します。
懐かしいその少年たちはみんな旅立ったり、はるか遠くに行ってしまってもう二度と会えないのです。仙台の町もすっかり変わってしまいました。

今日の挿絵代わりの写真は仙台を流れる広瀬川の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 





「北京に咲く花々の写真」

2023年06月26日 | 写真
北京に咲く花々の写真をお送り致します。
写真の出典は、http://kamakura.travel.coocan.jp/beijinflower.html です。

1番目の写真は天安門前に咲くキク・サルビアなど秋の花々の写真です。

2番目の写真は王府井天主堂前に咲く黄色いパンジーの花の写真です。

3番目の写真は恭王府花園に咲く薄紅色のハナカイドウの花の写真です。

4番目の写真は頤和園長廊前に咲く菊の花の写真です。

「忘れ得ぬ人々(10)北京ダックと周栄章さんの思い出」

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
周栄章教授と知り合ったのはフランスでした。1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会ったのです。
彼から話を聞きました。周氏は共産軍とともに天津市を占領し、民生行政に参加した人でした。周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になると思います。
さて中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。1981年に北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ北京鉄鋼学院の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。
周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。
こうして周栄章教授と知り合ったことが私のその後の中国との深い付き合いへと繋がったのです。当時の中国は経済成長の前で本当に貧しい国でした。しかし人の心は驚くほど温かでした。
あれから茫々50余年、嗚呼、中国は本当に豊かな 国になったのです。そこで中国の観光案内をしたいと思います。
北京には数々の観光名所があります。万里の長城、天壇公園、故宮(紫禁城)、天安門広場、盧溝橋、周口店、頤和園(いわえん)などなどです。私は家内とともにこれらの全てを見て回りました。1980年から1984年にかけた頃でした。
以下に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘、そして裏町の小さな北京鴨店の北京ダックなどをご紹介したいと思います。そして最後に風光明媚な頤和園を紹介したいと思います。
1980年のある秋の夜でした。北京の北海公園の石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の陸学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。

1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm です。
歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。陸学長さん達に感謝の言葉を述べました。すると学長は中国への旅の感想を聞きます。私はつぎのような話をしました。
「中国は良い国です。しかし共産主義は独裁政治を生むので好きではありません。しかし中国が欧米の植民地にならないためには共産主義を選ぶ他は無かったと思います。中国が欧米列強の植民地にならなくて本当に良かったです。私も嬉しいのです。」
このような内容のことを、一気にしゃべりました。英語で喋りました。
これを聞いて陸学長さんは深くうなずいて、「あなたは中国について何を喋っても良いです。自由にこの国を楽しんで下さい」と言ったのです。この一言で私は途端に楽しくなったのです。

2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。
周栄章さんの招きで2年後に行った家内はその精妙さと美味しさに感激していました。

3番目の写真は仿膳飯荘の宮廷料理です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
周栄章さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
冷蔵庫が無いのか、あまり冷えていない五星ビールが出ます。前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。

4番目の写真は北京ダックの写真です。写真の出典は、http://imagenavi.jp/search/#!/ です。
うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。お互いに英語で話し合いました。
北京鴨は自分で皮を切り取って、薄い白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
皮を全て食べ終わると料理人が出て来て、皮の無い鴨を下げます。調理場で肉を取って、2種類くらいの料理に仕上げて、又持ってきます。それを食べ終わる頃に鴨の骨でダシを取ったスープが出て来ます。これで終わりです。
裏町の北京鴨の店で周栄章さんは、文化大革命で農村へ下放された経験を話しました。毎日、毎日、豚の餌やりと豚小屋の掃除にあけくれたそうです。1976年の秋に、毛沢東が死に、四人組が逮捕されて、やっと自由の身になったそうです。
そして周恩来を絶賛するのです。中国人が一番好きな人は周恩来ですと断言します。何度も断言します。毛沢東の発動した文化大革命で内戦状態になった中国で人民は塗炭の苦しみの底にあったのです。それを少しでも救おうとしたのが周恩来首相だったのです。当然、毛沢東は周恩来を亡き者にしようとします。
これは周栄章さんから聞いた話です。
周恩来がチベット視察から帰るとき乗った旅客機を、毛沢東が空軍に命じて撃ち落とそうとしたのです。その命令に従って空軍のジェット戦闘機が2機、飛び立ったのです。周恩来の乗った旅客機を挟むように両側に並んだ戦闘機は発砲しません。翼を上下に揺らして歓迎しています。コックピットを覗き込むと、操縦士が周恩来へ敬礼をしていたそうです。
後で毛沢東へは霧で視界が悪く、周恩来機が発見出来なかったと報告したそうです。
1976年の2月に周恩来が病死し、4月の清明節のとき天安門広場で群衆が追悼の大集会をしました。それを毛沢東は軍隊をつかって解散させたのです。兵隊も周恩来が好きだったので群衆へ同情、手荒なことをしなかったそうです。
周栄章さんの話は何時までも尽きませんでした。
その後、北京原人の周口店、明の13陵、頤和園、天壇、大鐘の寺、長城、承徳、そして西安の秦の始皇帝の墓、兵馬俑、などなどを訪問しました。しかし話が長くなるので、ここでは北京郊外の離宮の頤和園の写真を3枚だけ示します。

5番目の写真は頤和園の前に堀って作った湖です。

6番目の写真は美しく伸びた長い回廊です。左手に湖の風景が広がっているのです。

7番目の写真は奥にある眺めの良い宮殿です。
3枚の写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものからお借りしました。
大変お世話になった周栄章さんを私は日本に招びました。私の家に泊まってもらい、いろいろな観光地へも案内しました。
周栄章さんは2004年に亡くなりました。亡くなって19年たちましたが彼の温かい友情を思い出す度に胸が熱くなります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「忘れ得ぬ人々(9)仙台の愛宕中学の高橋貞明先生の思い出」

2023年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐに日本の学校制度が新しく変りました。占領軍総司令部の命令です。
仙台市には新制中学校が幾つも出来、私共が入学した第十中学校(後に愛宕中学校と改称)は昭和22年に発足し、我々はその二期生として昭和23年に入学しました。
その頃の小学校や中学校、そして全ての学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。戦中、戦後に通った仙台の向山国民学校の担任の先生がその通りだったのです。今でもその優しかった顔を忘れられません。
そして昭和23年から26年まで通った新制中学校の愛宕中学校先生方も情熱を傾けて生徒の面倒を見ました。
特に忘れられないのが高橋貞明先生です。仙台の愛宕中学で担任をしていた先生です。
この高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。でも何を習ったかすっかり忘れてしまいました。
忘れられないのは踏査部の部活で一緒に泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。
この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。
私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生にお世話になりました。
とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私達悪童連を何度も自宅に招んでくれました。
そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。
私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。
愛宕中学校卒業後に60年ほどたってから仙台で愛宕中学校の同期会がありました。
その時、話題になったのは高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。
当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。
終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。
ここで仙台の様子を示す写真をお送り致します。
1番目から3番目の写真は2012年10月18日に私が仙台に行き撮った片平町、お霊屋下、鹿落坂、の写真です。
1番目の写真はタクシーの窓から片平町の東北大学を撮った写真です。正面の赤レンガの建物が私が卒業した金属工業科です。
2番目の写真は片平町と向山を結ぶお霊屋橋です。この橋を渡って毎日、片平町の東北大学に通ったのです。
3番目の写真はお霊屋下から向山に登って行く鹿落坂です。毎日、東北大学に通った坂です。
少し説明します。伊達政宗の廟所は経ヶ峰という山にあります。その下の町をお霊屋(おたまや)下と言います。片平丁から広瀬川を渡って霊屋下へ行く橋がお霊屋橋と言います。霊屋下から広瀬川に沿って経ヶ峰の中腹を登って向山へ行く坂路を鹿落坂(ししおちざか)と言います。
私は24歳で仙台を出るまで、鹿落坂の上の向山に住んでいました。家の東北方向には愛宕山があり、東南の方向には伊達家代々のお墓のある大年寺があります。そのお寺のある山は大年寺山といいます。家から西の方面は八木山という広大な森林地でした。経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区のようです。何十年経っても昔のままの森林に覆われています。

話が仙台の愛宕中学の高橋貞明先生からそれてしまいました。高橋貞明先生の話に戻します。
先生は情熱的でした。自分の家に私達を招んでくれました。しかし24歳で仙台を離れた私は高橋貞明先生のことをすっかり忘れていました。
ところが約30年後の1993年の息子の東京での結婚式・披露宴に出席してくれたのです。息子の結婚相手の親類だったのです。私は懐かしのあまり涙が出そうでした。貞明先生は昔のまま若々しくはつらつとしていました。これぞ奇跡です。忘れられないことでした。

人生にはいろいろな事があるものです。
今日は仙台の愛宕中学で大変お世話になった高橋貞明先生の思い出を書きました。

れはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の関口教会の年間第12の主日のミサの風景」

2023年06月25日 | 日記
今日の関口教会の年間第12の主日のミサの風景をお送り致します。
今日は関口教会の年間第12の主日のミサにインターネットであずかりました。
その風景の写真をお送りいたします。

「今日の年間第12主日のミサの動画配信」

2023年06月25日 | 日記
今日の年間第12主日のミサの動画配信です。

関口教会の動画配信、

イグナチオ教会のミサ動画配信、

広島のカトリック幟町教会

写真は五島列島にある水ノ浦教会の風景です。


「連載記事の『忘れ得ぬ人々』を続けるべきか?」

2023年06月24日 | 日記
毎日、私は短い記事を書いてインターネットのブログなどへ投稿しています。毎日読んで下さる方は600人から800人です。私はこの読者のためになるような内容の記事を書く努力をしています。読者へ深く感謝しています。
「連載記事の『忘れ得ぬ人々』は読者のためになっているでしょうか?『忘れ得ぬ人々』はあまりにも個人的な内容です。社会性がありません。
私のよぅな老人はつい過去の思い出だけに執着します。それではいけないと反省すべきです。
もっと未来のこと、将来の日本のことなどを話題にすべきです。例えば人間社会の差別などを無くすような建設的な記事を書くべきです。
そのように努力しますので『忘れ得ぬ人々』をもう少し続けさせて下さい。

挿絵代わりの写真は美しい花の写真をお送り致します。
写真の出典は、世界で最も美しい花トップ20 (earthnworld.com)  です。
花々は順に、バラ、チューリップ、ダリア、ブリーディング・ハート、ハスです。


「忘れ得ぬ人々(7)南米へ移民してしまった水元君の思い出」

2023年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の愛宕中学校に行っていた頃、一人の友人がいました。霊屋下に住んでいた水元君です。何度も家に遊びに行きました。母子家庭で母親は働いていて家には水元君だけが淋しそうにしていました。白っぽい顔で優しい真面目な少年でした。
中学校を卒業するとすぐ働き始めました。  繁華街の大町通りにあった相沢メガネ店の店員になったのです。私は高校に行きましが、繁華街に行くたびに相沢メガネ店に寄りました。真面目に働く水元君は店の評判も良かったようです。店の人が私を大切にしてくれます。水元君と店の外で数分立話をします。そんな関係が高校の3年まで続きました。最後に会った時、水元君が言います。「僕、こんど母と南米へ移民することにした。君と仙台とお別れだ。何度も店に寄ってくれてありがとう」と。 微笑んでいましたが淋しそうでした。
それから暫くして相沢メガネ店に寄ったら水元君の姿はありません。店の人が、「水元君は南米へ行ってしまったよ」と言います。水元君は本当に仙台から消えてしまったのです。
それから数年して石川達三氏の「蒼茫」という小説を読みました。南米移民の苦難の場面が出て来ます。水元君のことを思い暗然とした気分になります。しかし真面目で優しいい性格の水元君は周囲の人々の好意と支援を受けた筈です。立派な農園を作ったかもわかりません。多分、孫に囲まれて平穏な老後を楽しんでいることでしょう。そんなことを想像し昔、仙台で交友していた頃の水元君を懐かしく思い出しています。嗚呼、あれから茫々70年です。懐かしいです。

今日の挿絵代わりの写真は現在の相沢メガネ店の本店と広々とした南米の農園の風景写真です。写真は、「南米の農園の風景写真」を検索して、インターネットの写真をお借り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========================
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%BC%E6%B0%93
蒼氓』(そうぼう)は、石川達三の中編小説。1935年4月「星座」に発表され、第1回芥川賞を受賞。同年10月改造社より同作を表題とした短編集が刊行。その後1939年2月から7月までに「長篇文庫」に第二部、第三部が掲載され、長編を成した。ブラジル移民を余儀なくされた貧農たちの悪戦苦闘の日々の悲惨さを、社会的正義感から客観的筆致で描写した作品で、第一部は神戸の移民収容所を描いたもの。1937年映画化、1960年テレビドラマ化された。
第1部は移民収容所から神戸出港までを描いたもので、1932年に雑誌『改造』の懸賞小説募集に応募するも選外佳作となり、翌年加筆して再度発表する予定が、掲載予定だった雑誌が廃刊となって日の目を見ずにいたところ、1935年4月に、新早稲田文学の同人によって創刊された同人誌『星座』に編集長の独断で石川の知らぬ間に掲載され、それが新設の芥川賞の対象作品となり、8月に第1回芥川賞を受賞した[1]。1930年、石川がブラジル移民として渡伯した時のことを描いたもので、題名は民草(たみくさ)、民衆を意味する(「氓」は流浪する民の意)。石川は当時無名の新人だったが、受賞によって一躍人気作家となった[3]。同年10月、他の短編3作と合わせて改造社より『蒼氓』の題で刊行。三笠書房刊行の雑誌「長篇文庫」に1939年2月から4月まで第二部「南海航路」が、7月に第三部「声無き民」が掲載され、同年『蒼氓 三部作』として新潮社から刊行、1951年新潮文庫に入り長く読み継がれた。
第2部は船内の様子、第3部はブラジル到着後が描かれ、渡航した移民たちが、現地に根をおろそうと決意するところで終わっているが、作者の石川は半年ほどで帰国している。