後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆

2011年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

1988年、舵社から出版された、白崎謙太郎著、「日本ヨット史」は名著ですが、絶版になっています。入手困難ですので私の手元にある本を再度読みながら内容を連載でご紹介して行きたいと思います。版権の侵害にならないように要約を私の責任で作って行きます。私自身の感想も加えて行くつもりです。

著者の白崎謙太郎さんは、先日、渡辺修治 さん・・・潜水艦からヨットへ乗り換えた人生 という記事でご紹介した渡辺修治さんとの絆が強い人です。分かり易く言えば白崎さんは渡辺さんのヨットの弟子であり、若い友人でした。従って渡辺さんは白崎さんの本の序文にかえて、「白崎謙太郎君のこと」という題で長文の紹介文を書いています。

この紹介文も史的価値の高いものです。いずれ詳しく紹介していきたいと思います。

それはそれとして、この本の全体の構成は以下のようになっています。

1章 横浜浮世絵と古写真
第2章 最初期のヨット
第3章 横浜ヨットクラブの誕生
第4章 T.M.ラフィンと幻のアルバム
第5章 日本人ヨットの胎動・大正時代
第6章 日本ヨット協会設立のころ
第7章 ヨットレースの幕あけ
第8章 Lクラスと外人クラブ
第9章 国内5メーターと設計の発展
第10章 ブルーウォーター派の台頭
第11章 戦前の外洋ヨットレース
第12章 知られざる野尻湖のヨット
第13章 戦前のオリンピックとヨット
第14章 もう一つの伝統・九州のヨット
第15紹 軍国主義下のヨット

明治維新で横濱や神戸に在住するようになった欧米人の趣味としてヨットが日本で製造されたのです。それが日本人の趣味として普及し始めたのは大正時代になってからです。

何故、ヨットの趣味が日本人が受け入れるのに30年、40年と長期間が必要だったのでしょうか?

日本帝国の海軍の拡張や整備の途上でヨットは重視されたのでしょうか?無視されたのでしょうか?

明治維新のキッカケになったペリーの訪問の時使った帆船には石炭を燃料にした大型蒸気機関がついていました。明治時代のヨットの補助機関は小型蒸気機関だったのでしょうか?

私自身の疑問が湧いて来ます。興味津々です。

次回から自分自身が問題意識を持ってこの本を読んで行きたいと思います。

なお、渡辺修治さんの息子さんは康夫さんで、その奥様のハンドル名をメル母と言い、ブログを書いています。そして白崎謙太郎さんのこの本の事もご紹介されています。

http://blog.goo.ne.jp/naominoyume_1955/e/718d257ea929e849c73ee3e418953c34も合わせてご覧下さいますと白崎さんの回りの人間関係が分かって面白いと思います。(続く

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今年も巨大な皇帝ダリアが咲きました

2011年11月30日 | 写真

高さ4m以上、花の直径が25cmくらいの巨大な皇帝ダリアが小金井公園に咲きました。毎年、冬に消えてしまい、春に芽を出す草花ですが幹が木のように太く、高く育ち、11月の下旬に花を咲かせます。南米の原野からはるばる小金井公園までやって来たエキゾチックな花です。毎年写真を撮りに行っては、遥か彼方の南米の原野の様子を想像しています。何故か心豊かな気分になります。お楽しみ下されば嬉しく思います。

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国家によって束縛される私共の考え方や人生観(3)原発は安全で、経済成長に必要だと信じた国民

2011年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカのジェネラル・エレクトリック社が製造した原発装置をアメリカの同盟国へ輸出する決断を下したのはアイゼンハワー大統領だったと言われています。

ソ連との冷戦が厳しい時代でした。アメリカは同盟国に核兵器の基盤技術を共有して貰ってソ連を軍事的に圧倒しようとしたと言われています。核兵器そのものを提供するのではないく核兵器製造の部分的な下請け能力を持って貰いたいという意図です。そして放射性物質の安全な取り扱い技術を共有して貰いたかったのです。このアメリカの意図にいち早く反応したのが中曽根康弘さんを中心とする政治家や外務省や通産省の役人でした。

核兵器の基盤技術を導入すると言ったら国民の大反対に遭います。そこで原発のもう一つの経済効果だけを宣伝し、核兵器へ繋がる技術だという事実を隠したのです。

「原発は安全だ!経済の高度成長には絶対必要だ!」という国家的な宣伝と教育が展開されたのです。結果として、国民の大多数は原子力の平和利用は素晴らしい!大いに推進すべしと考えるようになったのです。中曽根さんは高崎市に放射線の医学や生物学への利用を推進する研究所を作ったのです。私はその研究所を見学したことがありました。その立派な設備と有能な多数の研究者を見て中曽根さんの視野の広さに吃驚した記憶があります。

それはそれとして、いろいろな施策と宣伝が成功して、「原発の安全神話」が出来あがったのです。

この中曽根康弘さん達の方針は日本へ大きな貢献をしました。アメリカとの安保体制をより強固にし、アメリカは日本を信頼し、その経済発展へ協力したのです。

原発が無くても火力発電だけでも経済の高度成長は起きたと私は信じています。しかしそれではアメリカとの輸出・輸入がギクシャクした上に、在日米軍基地の費用を日本側が担う羽目になったと想像できます。結果として1990年までのような高度成長は望めません。ですから私は中曽根さん達の国策は成功だったと評価したいと思います。

しかし福島第一原発の水素爆発で原発の安全神話の虚構性が脆くも消し飛んでしまったのです。国民は自分達の考え方が国家によって束縛される事実に気がついて愕然としたのです。騙された自分の過失を認めたくないので経済産業省や東京電力を非難します。しかし中曽根康弘さんたちの政治家を非難する人は少ないのです。何故でしょうか?その理由は別の記事で説明しようと考えています。

さて原発の安全神話を信じないで原発の建設に反対した人々も多かった事を見落としては公平を欠くことになります。

反対した人々を私は2種類に分類しています。

(1)原発技術を深く理解し、その危険性を技術的に見抜いて反対した人々。

(2)日米安保体制を少しでも脆弱にしソ連や中国の共産勢力とも交流を深めようとした共産党や社会党の思想の影響を受けた人々。

前者は数が少ないながらいました。このブログでもご紹介した通りです。

一方、後者は圧倒的に多かったのです。結果として原発が政治上の権力闘争の道具になってしまったのです。

私は数年間だけですが、旧核燃料サイクル機構のある小さな技術委員会の仕事をした経験があります。福井県にある「もんじゅ」炉の現場見学も2度しました。いろいろな人の意見も聞きました。

反対意見は共産党や社会党の思想の影響が感じられるものが多いのです。

原発は不毛な政治権力の闘争の道具になって来たことに暗然とした思いが忘れられません。経済産業省や電力会社の情報操作体質は権力闘争の反作用として起きたのです。それは悪い事ですが情報操作体質が出来てきたいきさつは何とか理解できます。

原発の事故は不幸な出来事でした。しかしそれによって日本の社会で隠されていたいろいろな事実が明らかになったのです。情報公開が一挙に進んだのです。

これからは国民が一人一人、自分の考えを深め、確固たる意見を表明するようになる事を祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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紅顔の青年たちも53年たつとこうなります・・・同級会の写真

2011年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

1958年に仙台の大学の金属工学科を卒業した30人の同級会が4ケ月毎に横濱で開催されています。関東地域在住の12人位が集まり談論風発を楽しみます。

今日の午後1時からその会がありました。急病で亡くなったH君へ黙祷を捧げてから乾杯をしました。

今日の話題は皆が技術者だけに福島原発事故に関連した事になりました。大方の結論は現有の50基はそのまま維持すべしという事でした。全電源喪失の場合の緊急発電装置も含めて安全対策を完璧にして稼働を続行すべしという結論でした。

紅顔の青年たちも53年たつとこうなりますという写真を下に示します。

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玉川上水ぞいの紅葉の写真をお楽しみください

2011年11月29日 | 写真

昨日は暗い曇り日でした。家内と小平運動公園に駐車し、玉川上水ぞいを散歩して来ました。肉眼では色鮮やかな紅葉でしたが、なにせ暗い曇りだったので写真では色が出ていません。皆様のご想像力であざやかな色彩にしてお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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国家によって束縛される私共の考え方や人生観(2)朝鮮領有、終戦、そして韓国タレントの大活躍と時代は変

2011年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

終戦直後の頃よく朝鮮人一家の家に遊びに行っていました。自分の家から小さな谷を越した向こうの台地が昔牛飼いの牧場になっていました。戦争が激しくなり牛のいない牧場は草ぼうぼうの荒れ地になっていました。その畜舎の事務室にその一家は住んでいたのです。

父母と、私と同じ10歳くらいの色の白い男の子がいました。気立の優しい子でいつもニコニコして私を歓迎してくれます。日本の小学校へ行くのが厭なのか何時も家で独り遊びをしています。父も母も私を歓迎して時々は朝鮮風のお菓子をもらったこともありました。

その父がある夜に何処からか牛を一頭引いて来て夜中に牧場の片隅の4本の杭に縛りつけて撲殺したのです。牛がなかなか死なないで、悲しそうな鳴き声が長い間聞こえていました。

翌日遊びに行くと、父が大きな鍋一杯に生の肉の塊を入れて、「上げるよ」と言います。家に持って帰りすぐに鍋を返してくれと言うのです。 

当時はひどい食料難で肉などは見た事もありません。私の父母も非常に喜んでいました。味は忘れてしまいましたが大きな鍋一杯の大きな牛肉の塊の重さは忘れられません。その後しばらくしてその朝鮮人の一家は何処かにフッと消えてしまいました。懐かしい人々です。

このような体験があるので私は昔から朝鮮人、韓国人が大好きでした。

ところが日本人の多くは本音を聞くと韓国人を蔑視していたのです。少なくとも20年、30十年前までは差別していたのです。

理由は簡単です。日本政府が国民へ朝鮮民族は劣った民族だというとんでも無い宣伝や教育を終戦までの長い間実施して来たのです。これこそ国家の権力者の考えや方針が国民の考え方を束縛する実例なのです。

明治維新以来の国家の方針として李朝を倒し、朝鮮半島を日本の領土にしようとしたのです。そして満州も植民地化する為にはどうしても朝鮮を併合して領有したかったのです。その国策を実行したのです。

それを正当化する理由はただ一つです。劣った民族は日本が領有して保護すべきというのが理由です。劣った民族だからその言葉を取上げて日本語の使用を強制したのです。名前まで日本風に変えさせたのです。

朝鮮民族がそれを怨みに思うのは当然です。戦後ずいぶん長い間、日韓関係は不幸な時代が続いたのです。

それが最近、韓国のテレビドラマが日本で放映され好評を博しています。韓国のスターが日本で芸能活動をしています。韓国のタレントが日本のテレビで踊って唄っています。その上、多くの韓国のスポーツ選手が日本のチームで活躍しています。

それを見ると昔の不幸な日韓関係を知っている私の眼がしらが熱くなります。ああ、良い時代になったと安堵の気持ちが心に溢れます。

日本のタレントも韓国で芸能活動をしています。日本の多くの若者も韓国へ留学するようになりました。

このようにスポーツ選手や芸能人の自由な交流こそ国際関係を劇的に改善するものな無いと思います。日中間でも早くこのようになる事を祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

 

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逆光の中で見る樹木の美しさ

2011年11月28日 | 写真

樹木を見るとき、逆光で見えることがあります。そしてその美しさに魅了されることが多いものです。その逆光の中の樹木の美しさを写真に撮ろうとします。なかなか難しいものですが、11月21日と22日に山梨県の八ヶ岳の麓で撮った写真をお送り致します。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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国家によって束縛される私共の考え方や人生観(1)外国に住んで感じた事

2011年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

国家によって束縛されると書きましたが、もう少し正確に言えば中央省庁の官僚達と政権与党の政治達と言い替えることが出来ます。要するに国益というあいまいな概念を振り回して権益拡大を活動目的にしている人々のことです。そのような人々を非難しているのではありません。私共が無意識に影響を受け、束縛されているのです。その事を静かに考えてみたいと思います。

今回の「国家によって束縛される私共の考え方や人生観」と題する連載記事では権力者が私共の考え方を束縛している様子を幾つかの例を示しながら明らかにして行きたいと思います。

第一回のこの記事では外国に住んで見て感じた事を書いてみたいと思います。

個人的な経験ですが、私は家族と一緒にアメリカとドイツに住んでいたことがあります。この時家族と一緒ということがその国のいろいろな側面を知る上で非常に重要だったと思います。

まず驚いた事はアメリカでもドイツでも人々の考え方が日本と非常に違う事です。そしてアメリカとドイツの間も非常に違うのです。

1962年から64年に住んだアメリカは日本で観念的に考えていた自由と平等の国ではなかったのです。自由と平等は人生の勝者だけの間にあったのです。負け組の白人と黒人は差別され苦難の人生を送っていたのです。彼等はそれが当たり前の人生だと考えていたようです。すくなくともキング牧師が活躍するまでは。

もう一つ驚いた事は白人も黒人も徴兵制度に賛成し、愛国心に燃えていたことです。

世界を制覇してアメリカがローマ帝国のようになる事を望み、またそれを信じていたのです。当時の最大の敵は共産主義のソ連圏と中国でした。当時はイスラム圏はアメリカの敵ではなかったのです。

その後の歴史展開は皆さまご存知の通りです。

さて一方、西ドイツには1969年から1970年にかけて住んでいました。住んでみるとドイツ人の考え方はあまりにもアメリカと違います。彼等はアメリカの自由と平等など絵空事と笑い飛ばします。そして何事においても伝統を重視し、伝統的な考え方で問題を解決しようとします。解決しない場合に初めて自由な考え方をします。

人生観や職業観においても中世の親方(マイスター)を尊敬する徒弟制度が背景にあります。ですから一生の間、職業を変えず、可能なら子供に継がせようとします。

その上宗教改革の折に起きた30年戦争の話題を好んでします。そしてドイツという国家は昔の幾つかの王国の連合体のような考え方をします。その考え方は日本の人の国家観と非常に違います。

私共の住んでいたシュツットガルトは昔シュバーベン王国でした。そこの新聞の空き家の広告を見ると、「借り手はシュバーベン人に限る」という条件が付いているのです。そこで私は研究所のシュバーベン人を連れて行って、保証人になって家を借りた経験があります。

アメリカでは黒人は別にして誰にでもアパートを貸していました。

ドイツは日本と組んで第二次世界大戦を戦いました。それはドイツの国家方針でした。その昔の国家方針の影響で日本人に親切にする人が多かったのも吃驚ものでした。ある時、夜のパリーの通りで酔ったドイツ人にお前は日本人かとドイツ語で聞かれたことがあります。ドイツ語でそうですと答えると途端に喜んでフランス人は英語を知っているくせにフランス語だけを使うけしからん連中だと愚痴るのです。そして最後は日本と組んでもう一度戦争をやろうぜと険呑な台詞を吐いて消えて行きました。彼の心の中には昔のドイツ帝国の国家の考え方が影響していたのです。

これから何回かに別けて、国家の意思や方針が人々の考え方や人生観に深い影響を与え、束縛している事を出来るだけ明らかにして行きたいと思います。

下に、一番初めに外国体験をしたオハイオ州立大学の金属工学科の建物の写真を示します。個人的な思い出の写真で済みません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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渡辺修治さんの息子が康夫さん、その奥様のブログがしみじみとして良いのです

2011年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

渡辺修治さんの人生の一端を、渡辺修治 さん・・・潜水艦からヨットへ乗り換えた人生 という記事でご紹介しました。

そして康夫氏から奥様のブログをご紹介頂き、渡辺修治さんのヨット歴をもう少し詳しく知ることが出来たのです。3年ほど以前にもそのブログをこちらのブログでご紹介した記憶がありました。

そして今回また、その奥様のブログを読んでいきました。内容豊かなブログですが、掲載記事の分類項目の「下田」という一群の記事を先程読み終えました。

渡辺修治さんの家は300年続いた下田の回船問屋です。そして2005年に亡くなった修治さんのお墓は広台寺にあります。渡辺修治さんはそのお寺の檀家総代だったそうです。

康夫さんの奥様のハンドル名はメルとメル母です。メルは愛犬の名前です。康夫さんはメル父と呼んでいます。ご本人はmissdongameというハンドル名です。

康夫さんの奥様の名前はまだ知りません。

その奥様は「父とヨット」http://blog.goo.ne.jp/naominoyume_1955/ と言うブログを書いています。

そこで私は奥様が修治さんの娘さんと思いこんでいたのです。

渡辺修治 さん・・・潜水艦からヨットへ乗り換えた人生という記事の訂正も致しました。

その上で改めて「父とヨット」というブログを皆様へ推薦したいと思います。

康夫さんの妻として、そして渡辺家12代目の息子、修さんの母としてどのような生活を送って来たかが分かり易く書いてあります。そして義父、渡辺修治さんを取り巻く家族や友人のことが書いてあります。

しみじみとした内容の優れたブログです。

ついでに復元が完成した木造の天城の姿のほれぼれするような写真を示します。その下に1967年に進水した天城の当時の写真と下田のヨットの係留風景と渡辺家の土蔵の写真を左から順に示します。このような土蔵が庭に3つもあるそうです。

前の渡辺修治さんに関する補足になれば幸いです。(終り)

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ヨーロッパでは今日から楽しいアドベント(待降節)が始まります!

2011年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

Adventcandles  ヨーロッパの国々では今日から4週間のアドベント(待降節)の楽しく、浮かれた季節に入ります。家々には針葉樹の枝で作った輪の上に4本のローソクを飾ります。

今日、その一本に火を灯し、毎週、1本ずつ火を灯します。クリスマスの前の日曜日に4本目のローソクに火を灯し、全てのローソクが点火されます。

それから12月1日からアドベントカレンダーという特別の暦が使われます。毎日、カレンダーの一部をめくると紙の裏が箱になっていてチョコレートやキャンディーが入っています。子供の為のアドベントカレンダーですね。下にドイツから輸入された今年のアドベントカレンダーを示します。

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上のカレンダーでは毎日、めくる部分が薄い切れ込みが入っていて一個ずつチョコレートが出て来ます。合計24個のチョコレートが入っているカレンダーです。

子供を甘やかす家では、24日の間、大きなプレゼントを24個用意して豪華なアドベントカレンダーを手製して使います。その写真を下に示します。

Adventkalender_andrea_2 このように子供のいる家庭では今日から毎日楽しい雰囲気がクリスマスまで続きます。

子供が育ってしまった老夫婦も自分達が子供の頃楽しかったアドベントを思い出して楽しいことをします。一緒に買い物に行ったり、外で食事をします。

今日からクリスマスまでは家庭的なほのぼのとした季節です。しかし日本のように商店街が楽しげに飾ってあるのも良いものです。

どちらにしてもアドベントは季節の風物詩のようなものです。皆で楽しく過ごしましょう。震災被害地も明るい希望の灯に火をつけていきましょう!(終り)

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琵琶湖のほとりの初冬の光景

2011年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

「推薦したいブログ」の ちひろさんのブログ(紫さんのブログ)から琵琶湖のほとりの初冬の風景写真を転載させて頂きます。

ちひろさんは何時も琵琶湖周辺の季節の移り変わりを感性豊かに撮影しています。

下の写真の白鷺と川鵜が濃紺の川水に戯れている風景が冬の到来を告げているようです。出典は、http://ameblo.jp/yumenosannpomiti77/です。

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一番理解出来ないもの・・・世界に広がっている日本の漫画、アニメ

2011年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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ある年齢以上の人々に馴染みの無い世界があります。現在の世界で流行している日本の漫画とアニメの隆盛です。上の写真はそのほんの二つの例です。

戦中、戦後にも勿論マンガはありました。しかし最近の漫画やアニメはコンピューターの発達によって大量に製作され、海外へ輸出されているのです。私も幾つかのアニメ映画や子供のテレビ番組を見ました。例えば、もののけ姫や千と千尋などの映画も見ました。内容の良さに感動しています。

多くの外国人は子供の頃に漫画やアニメを見て日本へ親しみを覚えます。そして日本へ行ってみたいと思いながら成長します。

日本製のマンガや映像は絵の質が良く、子供が好きな鮮明な色使いをしています。

そして内容が分かり易い家族愛が中心になっています。人間の正義や自然な感情の動きなどが興味深く描いてあります。その内容は人類に普遍的に理解され、好まれる内容なのです。この普遍性こそ世界に流行する鍵なのです。

従って私は漫画やアニメは日本が世界に誇れる日本文化の重要な一部になっていると確信しています。日本が誇れる文学作品は源氏物語とよく言われます。しかし源氏物語が世界中で読まれているでしょうか?夏目漱石や芥川龍之介の作品は世界中で日本のマンガやアニメほど多くの人々に読まれているでしょうか?

従ってそのような文学作品はいくら優れていての国際的な影響力には限界があるのです。鉄腕アトムから始まった数多くの作品が、世界中の人々に日本への親近感を植え付けているのです。

日本の外交戦略を考える時すぐに軍事力や経済力の事を考えます。

しかし日本の漫画やアニメの力を無視しがちです。このような分野の作品は源氏物語などよりは劣ったもんだという理由で無視します。そしてサブカルチャーという言葉で差別しがちです。

しかしグローバル化した世界の人々を動かすものはサブカルチャーなのです。少なくとも重要な要因の一つになっているのです。

日本人はもっと漫画やアニメの重要性を理解すべきと思います。その普遍性を誇りに思うべきではないでしょうか?

下にフランスのある町に出ている日本のアニメの広告の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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のどかな秋の午後の都立武蔵野公園風景・・・小金井市にあります

2011年11月26日 | 写真

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・午後の斜めの陽射しが池半分を暗くいています。釣り人が陽の当たる岸でのんびり釣りを楽しんでいます。昨日の午後の風景です。

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・午後の陽射しが樹林を透き通しています。こんな光景を見ると心が安まりますね。

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・武蔵野公園の東端から野川公園を見るとこんな風景です。木々の影が長く伸びています。

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・木々の紅葉は山梨県の山里のように鮮やかではありません。特に今年の紅葉はくすんだ色合いになり美しくありません。もう少し寒くなると紅葉も進むだろうと期待しています。

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日本人は原発事故のことを忘れてしまったのか?・・・緊急電源装置の試験運転は?

2011年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム

今年の3月に福島第一原発の4基の原子炉が水素爆発してセシウム137を広範囲に降り積もらせたのです。当然、その放射能の危険性をマスコミが根気良く議論しています。

しかし日本全国には残りの50基の原発が生きているのです。再び地震や津波で全電源が喪失すれば、同じような水素爆発が起きるのです。

これを防ぐ唯一の現実的な対策は充分な発電能力を持つ緊急電源装置を50基の原発に完全に設置することです。

事故直後から幾つかの原発では緊急電源車を高台に設置したいという報道はありました。

しかし50基すべての場所に緊急発電装置が充分設置したという報道が無いのです。「原発の緊急電源装置の現状」というキーワードでいくら検索して調べても安心出来る情報が皆無なのです。

(1)原発一基の緊急電力は一体何キロワット必要なのでしょうか?

(2)それに対して設置した緊急発電装置の出力は何キリワットなのでしょうか?

安全度を200%と仮定した場合の出力は必要とする電力の2倍は必要なのです。

まず以上のような定量的な情報がマスコミに無いのです。緊急発電装置を設置したという報道はあります。問題はその発電能力なのです。これでは飾りの緊急発電装置のような誤解を与えています。

(3)もう一つ重要な事は緊急発電装置を何処に設置し、どのように原発の冷却水ポンプに接続するのかという非常に重要な問題があります。

福島第一原発は冷却水ポンプを海側に設置していたので津波で流されました。ところが第二原発ではポンプ類を原発関連建屋内に設置してあったので無傷だったようです。

もう一つの問題は緊急発電装置をどのようにして冷却ポンプの電源入力端子に瞬間的に接続するかという大問題が残っています。単に高台に設置すれば良いということではないのです。人間の手で数十秒以内に接続出来るような設計になっていなければなりません。この実際的な問題に関しての報道は見当たりません。

(4)そして一番重要な事は全ての外部電源を遮断して、全電源喪失の状態にして緊急発電装置だけで原子炉の冷却を実行する試験を行っていません。少なくともその報道が見当たりません。

ですから現在設置されている緊急発電装置は絵に描いた餅なのです。実験あってこそ信頼できるのです。

この実験には原子炉内部に制御棒を瞬時に挿入し、発電を停めなければなりません。多大の費用がかかる試験です。それにしても一回も試験をしないくても良いものでしょうか?

マスコミが執拗に上に書いた問題を追求しないのは国民の関心が無いからです。

放射能の恐ろしさが分かるのなら、現在まだ稼働していたり、定期検査中の50基の原発の安全性を国民全員の世論によって確保すべきと信じています。

上に書いた私の理解の仕方は間違っているでしょうか?ご意見を頂ければ嬉しく思います。

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渡辺修治 さん・・・潜水艦からヨットへ乗り換えた人生

2011年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム

戦争中は潜水艦に乗ってアメリカ海軍と戦い、戦後はヨットの設計・製作と外洋セイリングに一生を捧げた方がいました。2005年に亡くなった渡辺修治 さんです。ヨットマンの間では有名な方で、「どんがめ物語ー潜水艦とヨット」(舵選書:1)という幻の名著を書いておられます。幻の名著と書いた理由は、現在この本が稀書となり、中古本市場で高値で取引されているからです。

随分前に「舵」という雑誌に「どんがめ物語」が掲載されていてこの本の一部を読みました。その時以来、私の心の中に渡辺修治 さんが刻みこまれ、ヨットに乗っているとき荒天の折に思い出していました。「どんなに荒れても無理しないで生還する精神力が重要です」という教訓を思い出すのです。

4年前に自分がブログを始め、他の方々のブログも見るようになったとき、この渡辺修治 さんの息子の康夫さんの奥様がメルさんという名前でブログを書いているのを発見しました。

先日、イギリスのチャーチル首相も愛用し、戦後日本の会社の所有になったシナーラ号の事を記事にしました。そうしたら渡辺康夫さんからメールが来ましてシナーラ号は健在で、現在はシーボニアというマリーナに係留されていると教えてくれました。そして渡辺修治さんのヨットの製作の歴史を書いたメルさんのブログのURL、http://blog.goo.ne.jp/naominoyume_1955/e/cba273687aad81c7bbf4bdd0d3a1faf5 を教えてくれました。

渡辺修治 さんは戦後すぐに「ミス・どんがめ」という名前の小型ヨットを自作して、それ以来数多くのヨットを製作しています。以下がそのリストです。

1947年  ミス・どんがめ 5m キャットリグ・ヨット 自作

1948年  暁丸  8m機帆走漁船  自作

1950年  どんがめ  Ⅱ

1953年  どんがめ  Ⅲ

1954年  どんがめ  Ⅳ

1958年  どんがめ  Ⅴ

1960年  どんがめ  Ⅵ 

1962年   どんがめ  Ⅶ

1967年       天城 Ⅰ(これがレストアをしたヨットです)

1973年   天城  Ⅱ

1986年   どんがめ Ⅷ (メル父さんがメルボルン・大阪D・Hレ-スに参加 ) 

そして1967年には名艇で有名な木造の天城、I号を作っています。

この44年前の名艇を渡辺修治さんの息子の康夫さんが中心になって瀬戸内海のある造船所で復元したのです。下に綺麗に復元された「AMAGI号」の写真をメルさんのブログから転載せて頂きます。

渡辺康夫さんは小生と同じ東北大学の工学部の出身で、宮城帆走協会の設立に貢献したかたです。始めから外洋セイリングをしていた方です。ハンドルネームは「メル父」やmissdongameと言います。1986年にはメルボルンと大阪の間の外洋ヨットレースに「どんがめVIII号」に乗って参加しています。

私が渡辺修治 さんにこだわるのには理由があるのです。「何故、潜水艦とヨットが繋がるのか」という疑問です。海に魅せられたから、海に出たかった。船ならどれでも良かったからと考えました。しかしこれは答えの半分です。何故ヨットなのですか?

先日、このブログでドイツに派遣された5隻の潜水艦の記事を掲載しました。戦争中、日本の海軍は154隻の潜水艦を作り、敗戦までにその127隻が戦没したのです。潜水艦に乗っていた渡辺修治 さんが生き残ったのは幸運以外のなにものではありません。

敵を殺し、親しい仲間が死んだのです。戦争のための船は絶対に止めよう。風の力だけで航海し、平和な目的だけの船にしよう。そして海に出て、戦死した仲間の弔いをしようと思ったのかも知れません。潜水艦の構造は近代科学の極致です。それに一番対照的なのはヨットではないでしょうか?自然の力だけで海を自由に航海出来るのです。これが、「何故、潜水艦とヨットが繋がるのか」という疑問へ対する私の解答です。想像した解答ですから間違っているかも知れません。

この記事には続編を書いて見たいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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