後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

武川米という美味しいお米をご存知ですか?

2010年07月31日 | インポート

山梨県北杜市の武川町は数年前までは武川村といい、美味で有名な武川米(農林48号)の産地でした。南アルプスの花崗岩の中を流れ出る豊富な名水を田んぼに流し、根元は冷やして、葉や稲穂を夏の太陽で照らします。そして何故か土壌が美味な米を作るのです。現在は秋田のヒトメボレや新潟、魚沼郡のコシヒカリなどが有名ですが、それと同じように美味です。

甲州街道を甲府、韮崎、と下って行くと、やがけ北杜市に入ります。北杜市に入って1kmくらい走ると牧原交差点の手前500m位のところの右側に武川町農産物直売センターがあります。中に入ると武川米(農林48号)がコシヒカリと共に並んでいます。玄米の状態で購入して、ご飯を炊く前に精米すると香りが良く美味しいそうです。勿論、精米後の白米も売っています。その上、店は珍しい農産物が季節ごとに並んでいます。夏は最後の写真にあるように金糸瓜、バターナツ、そして、ズッキーニ、夕顔や冬瓜、白桃などが美味しいです。勿論、ナス、キューリ、トマト、ニンジン、ジャガイモ、などの普通の野菜も新鮮で安いです。その他に甲州名物のオヤキや八ヶ岳山麓で製造した美味しいソーセージも売っています。切り花の束もお勧めです。甲州街道に面してるので帰りには必ず寄って珍しい野菜を買って帰ります。

韮崎より先の甲州街道へ行く折があったら是非よって地元の野菜をご覧下さい。楽しいものですよ。

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孤独死を防ぐブログの役割・・・その一つの実例

2010年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

いろいろな事情で孤独な人がいます。年老いて旅立つとき誰も関心を持ちません。人知れず孤独に死んで行きます。市役所が無縁仏の墓へ埋葬し、供養します。都会では死後、何日もたってから発見されたというマスコミ報道が多いのものです。ご本人は覚悟の上なので他人がとやかく言わない方が良いとも思います。

しかし出来ることなら多くの人々が親切な気持ちから関心を持ち、同情し、勇気付ける方が良いと信じています。不運にも無くなったら追悼の気持ちを故人へ送るほうが良いと信じています。

マザーテレサはインドの路上で孤独死をする貧民を家に入れ、最後の日々だけでも愛情を注ぎ人間らしい生活をさせました。故人のいろいろな信仰に従って追悼式を行ったのです。

このように他人へ親切にしたいという善意は全ての人間が持っています。

天涯孤独な人がブログを書いていたお陰で、多くの他人が見舞いへ行き、勇気づけるメッセージを送り、死後は数多くの追悼の投書を送りました。私も見舞いに行きました。励ましのメッセージも送りました。ブログのお陰で孤独死でなくなったのです。

その実例をご報告いたします。

タイやネパールに25年以上、棲みついてアジアの手織り布の蒐集をしてきたHikarunoさんが昨年暮れに肺ガンになり、東京の病院で抗癌剤の治療を受けていました。しかし5月末頃から連絡が途絶えてしまいました。

現地の人々を愛しながら撮影した写真に感動して、このブログで彼の撮った写真を何度もご紹介してきました。アジアの手織り布の展示会にも3回もお邪魔し、親しくお話も聞きました。心やさしい紳士でした。病院へもお見舞いへ行きました。

亡くなったとは思いたくありません。しかし、ひかるのさんとネットの上で知り合い、何度も入院先の病院へ見舞いに行った「がらくた・おやじ」さんが、5月24日は病室で会えたが、6月10日に行った時は既に居なかったという報告を書いていました。

がらくた・おやじさんは方々へ手を尽くして、ひかるのさんの消息を懸命に探しましたが駄目でした。

そしてがらくた・おやじさんは、ご自分のブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/cbe0061/MYBLOG/yblog.html )、で「星は消えた」と題して(1)から(9まで9編の思い出の記を発表しています。追悼記ではありませんが、内容をよく読んでみると、残念ながら、ひかるのさんは亡くなってしまったと思うようになりました。

そして「星は消えた」(9)、の後に数多くのネット上の友人から情愛あふれる投書が掲載されています。これを見て、私は2つの事実に感動しました。

まず、がらくた・おやじ様の親身のお世話ぶりです。病院に何度も見舞いに行き、いろいろ差し入れをし、ひかるのさんが蒐集したアジアの手織り布を売りさばく努力をしてくれたのです。全くの他人がそのようにして、ネット上で知り合った人を助けたのです。

そしてもう一つは、ひかるのさんへ温かい情愛を感じている人々が多数居ることに感動しました。それは「星は消えた」の(1)から(9)の文章へ対して数多くの投書があったことから分かります。特に最後の(9);http://blogs.yahoo.co.jp/cbe0061/43503147.html (コピー不可能なので、クリックしてご覧ください)の後には数多くの人々から、がらくた・おやじさん対する感謝の投書が寄せられたのです。

そして生前のひかるのさんのブログの7月11日記事として友人から確実な訃報が掲載されました。その訃報へたいして39件の追悼のメッセージが投稿されているのです。http://blogs.yahoo.co.jp/hikaruno_season/36435784.html をクリックするとその39件の追悼の文章を見ることが出来ます。

インターネットの世界は「かりそめの世界」。そんなものに本気になっている奴は馬鹿だ。そんなセリフを何度も聞きました。

しかし、その「かりそめの世界」の中でも、情愛あふれる人間の絆が確実に出来るのです。その絆の重要性が実感出来るのです。ひかるのさんとその周りに集まる人々は強い絆で結ばれているのです。美しいきずなです。私は死ぬまで忘れません。

最後にひかるのさんが小康を得て、一時退院していた時に撮影した江東区のある公園の風景写真をお送りします。合掌。

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下は、夫婦の鴨が散った桜の浮いている水面を泳いでいる様子です。Img_609489_35815558_111

(この記事の文章の一部分は7月1日に掲載したものを編集しなおしましたものです。)

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ベリリンの壁の崩壊の衝撃の大きさを理解していない日本人

2010年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

1989年のベリリンの壁の崩壊で、1945年の第二次世界大戦終了後から44年間続いた冷戦がアメリカ陣営の勝利で終わったのです。日本の周辺ではなにも変化が無く、北方4島は相変わらずロシアの領土のままです。従って日本人にとっては冷戦の終了はあまり大きな事件と思いません。しかし、ヨーロッパの東部ではロシアは衛星国を失い、ロシアの軍事防衛線が大きく東へ退いたのです。

以下の地図のようにポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営になってしまいました。更にその東のベラルーシとウクライナも独立してロシアの衛星国から脱したのです。その結果、ヨーロッパの東部とロシア西部の国境がとても大きく塗り替えられたのです。是非、下記のURLをクリックして新しい国々をご覧下さい。http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=56.57975141889055&lon=22.006962946169054&z=6&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=52.004151275936&hlon=19.007695368044&layout=&ei=utf-8&p=

その結果として、ポーランド北部とリトアニアの間に残ったロシア領のカリーニングラードが本国から切り離されて飛び地になったのです。この飛び地はロシアの軍事要塞として重要な意味があります。

それにしてもこの飛び地は不思議な存在です。そこで少し調べて見ました。歴史的には12世紀後半にカトリックの正式な修道組織として公認された「ドイツ騎士修道会」が布教と領土を求め東ヨーロッパへ侵入したことが原因になっているようです。ドイツ騎士修道会が作った国がプロイセンであり、現在のカリーニングラード付近を東プロイセンと呼ばれていました。第二次大戦の始まる前はドイツの飛び地でした

ロシアがそれを奪ったので戦後はロシアの領地になったのです。

ベリリンの壁崩壊の後で、エリツェン大統領がカリーニングラードをポーランドへ返還しようとしました。しかしポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営へ入ろうとしている情報を入手し、ポーランドへの返還を中止し、軍事要塞を自国の防衛の為に保持することになったそうです。

丁度、その頃、北方4島の2島をエリツェン大統領は日本へ返還しようとして橋本首相と交渉をしていました。それが突然中止になったのです。

何故か?私の個人的な想像を記します。ポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアがNATO軍事同盟へ加盟する動きをしたのでロシアは急に警戒を強めたに違いありません。当然、北方2島返還を止め、軍事基地設置を計画したと信じています。

日本では「北方4島返還」と空しく叫ぶ人が多いのも事実です。しかしそれはロシアの西側の東ヨーロッパで何が起きているかを考えないと無駄な叫びになります。

北方4島返還はロシアとNATO同盟軍の動きと密接に関係していると思います。貴方のご意見をコメントととして頂ければ嬉しく存じます。(終り)

下の写真はエストニアの首都リガの風景です。出典は、http://www.tripadvisor.jp/Tourism-g274967-Riga-Vacations.html です。

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三輪修画伯の世界、そして中部白日会展のご案内

2010年07月30日 | インポート

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秋の第36回中部白日会展は9月7日(火)から12日(日)まで名古屋市博物館で開催されます。開場時間は午前9時30分より午後5時までです。

この白日会で中心的に活躍している三輪修さんとはブログのお陰で知り合いになりました。今年の4月に名古屋日動画廊で個展があり、家内と共に見に行ってまいりました。その折に会場で三輪さんからお聞きしたことを記事として掲載しました。

4枚の絵画の写真も三輪さんの御許しを頂いて転載しました。なお、彼の多くの絵画はHP、:http://mujika.jp/miwa/miwa-tenji.htm に御座います。

以下の文章は名古屋での個展で三輪さんに直接聞いたことです。私の4月のブログ記事を再録したものです。

何を描こうとしているのか?「存在を丁寧に、あるがままに描きます。存在そのものに感謝して描きます。そうすると存在の向こうにあるものが見えて来ます」。

哲学や宗教と別次元の深い精神性を感じさせる絵画になっています。彼はキリスト教の聖公会の洗礼を受けた信者です。しかし安易な宗教的な絵は描きません。宗教画のつまらさを感じている私の気持ちからも納得できます。

存在を丁寧に描く。生易しい仕事ではありません。ある色を塗ったら、それが完全に乾くまで何日も待ってから次の色を塗るのです。一枚の油絵を完成するのに何カ月も何年もかかるのです。

彼の絵は何故か淋しい雰囲気を持っています。孤独感が存在の向こうに弱弱しく漂っています。彼の薄倖な少年期が時々影を落としているのかも知れません。

画家には時々作風を変える人もいます。三輪さんも若い頃はいろいろ試みたそうです。しかし現在の作風はやく15年前に確立して、その後は変えていません。

三輪さんのデッサン力、色彩感覚は天才的です。しかし妥協を許さない持続力こそが彼の絵画世界の神髄なのです。それを実行する勇気と努力が彼の作品を独創的にしています。4枚の絵を紹介します。上の2枚は名古屋日動画廊の個展に出展されています。下の2枚は昨年、鮮明な写真を送って頂いたものです。特にセーヌ河の橋の下を流れる水面は、その存在を丁寧に何年もかけて描いていって完成したのです。写真のように見えますが油絵です。水の存在感の向こうに何が見えるでしょうか?それは貴方自身が夫々に感じるものです。

彼のHP:http://mujika.jp/miwa/miwa-tenji.htm にはもと多くの感動的な作品の写真がございます。

三輪修さんの絵画の世界で貴方自身の心がより豊かになれば大変嬉しく思います(終り)

追記:絵画の題目と製作年、上より順に;「吊されたアーティチョーク」2005年、

「存在した時の証」2003年(U賞受賞作品)、「村の風景」1996年、「パリの橋」1996年

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山里に独り住み、自然を楽しむ・・・その四季折々の風景写真

2010年07月30日 | 写真

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上の写真は山林に中で、夏の夜を楽しもうと今年作った青いウッドデッキです。山荘はその奥に2、3棟並んでいる建物で、季節によって使い分けています。

山林の奥深く、住み込んで20年。孤独で寂しいだろうと訪ねて行くと、何時も笑顔で楽しそうにしています。この鬼家(オニイエ)さんとの淡い交友も長くなりました。昔、漢文で、「君子の交わりは淡きこと、水のごとし」と習いました。鬼家さんを訪問するたびにこれを思い出します。今日は彼の四季折々に撮った写真を春、夏、秋、冬の順にご紹介します。山里に住んで近辺の南アルプスや八ヶ岳の山麓、霧ケ峰、美ケ原美術館などへも車で行って、雄大な自然の写真も撮っています。写真は撮っている人の気持ちも写すと言います。写真を見ていると彼の物静かな性格も見えてくるようです。

春の庭 (サクラソウとヤエヤマブキ)

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夏の蓼科と明野への小さな旅

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秋の美ケ森美術館への遠い旅

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山荘の近所から見た冬の甲斐駒岳と八ヶ岳

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写真の出典は「里山に住んで」(http://ihcuik69.web.fc2.com/) です。転載させて頂きまして、鬼家(オニイエ)雅雄さん、有難う御座います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

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夏の山里の花々の写真をお楽しみ下さい

2010年07月29日 | 写真

昨日は、甲斐駒や八ヶ岳が雲に覆われていて見えませんでした。山小屋の近所の山里を車で散策しながら、夏の花々の写真を撮ってきました。夏は日本古来の和花が少くなく、洋風の園芸種が咲いています。毎年、季節毎に、花々の写真を撮っているので、何処へ行けばどんな花が咲いているか分かっています。

花が好きで、四季折々何時でも花が咲くように植えている農家が3軒あります。春と秋は花の種類も豊富ですが、夏は少しさびしい感じがいたします。下の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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広島、長崎への原爆投下へのアメリカ人の謝罪・・・怨念の解消への道

2010年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

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オバマ大統領の意向で広島での原爆犠牲者追悼式へアメリカ政府関係者が初めて出席する予定という。戦後65年、アメリカ政府は広島や長崎での追悼式を完全に無視して来たのです。

親しくなったアメリカ人へ聞くと、原爆投下は日本の降伏決意を早めたと言います。その結果、無駄に死ぬ多くの日本兵を助けたのです。日本人を助けるために原爆を投下したのです。

「しかし原爆は残酷な兵器ではありませんか?」と聞くと、「原爆も焼夷弾も人を殺す点では同じです。兵器には残酷の差は無いものです」と答えます。

そして。「日本人は卑怯な真珠湾攻撃をしたことを忘れていませんか?」と言います。

日本人は原爆投下したアメリカ人へ対して怨念を持ち続けています。アメリカ人は卑怯な真珠湾攻撃をした日本人へ怨念を持ち続けているようです。その怨念は世代を越えて受け伝えられています。

怨念とは何でしょうか?他人へは言えない恨みを抱いて、いつか相手を呪い殺してしまいたいという暗い情念です。建設的な結果にならないことは百も承知です。しかしそれを綺麗サッパリと捨てられません。それが人間です。復讐をするな。神へ任せよ。しかし人間はその教えに従えないのです。

アメリカ政府関係者は初めて出席すことで日本人の怨念の解消の方向へ動きだします。勿論、追悼と謝罪は別です。しかし本気で追悼を祈る心の先には謝罪の気持ちが自然に湧いて来ると思います。謝罪しろと大声で迫るよりは静かに見守るのが大人の態度です。

アメリカ人も真珠湾攻撃にたいして日本人に謝罪して貰いたいのです。バターンの死の行進へ対して謝罪して貰いたいのです。B29搭乗員捕虜の九州大学医学部に於ける生体解剖へ謝罪して貰いたいのです。

日本政府代表がアメリカでの追悼式へ出席したという新聞記事を見たことがありません。人々の怨念が強いので新聞社は目立たない見出しで小さな記事にしたのでしょうか?

さてキリスト教では原爆投下をどの様に考えているのでしょうか?

今年の読売新聞の4月21日の新聞に長崎で原爆を受け、損傷したマリア様の像をローマ法王がサンピエトロ広場で祝福したと報じています。長崎大司教の高見三明神父が持参した焼けただれたマリア像に按手して祝福を与えたのです。

ローマ法王ベネディクト16世はドイツ人です。しかし出身国とは関係なく、原爆を受けて苦しんだ多くの日本人の為に祈ってくれたのです。そして、マリア像をこんなにしてしまったアメリカ人の為に神へ許しを祈ったに違いありません。ローマ法王は戦争が起きるたびに心を痛め、双方の罪の許しを神に祈るのです。強く、強く、祈ります。どちらがより残酷で、どちらが悪いかは神様だけが判断できるのです。

ドイツ人のユダヤ人の大量殺戮についても同じように祈ります。

人間の暗い情念の怨念が少しでも消えるようにとも祈ります。怨念は決して良い結果を生みません。人間は復讐をしてはいけません。それは神がすることです。

広島の原爆追悼式へアメリカ政府関係者が出席することはアメリカ人の怨念を少し解消する効果も生みます。アメリカ人の為にもなるのです。

とても素晴らしいニュースです。上の挿絵の写真は「怨念」を暗示するように掲載しました。下の写真は、怨念が何時かは解消する希望を暗示したいと思い掲載しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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修道院とはどういうところなのでしょうか?

2010年07月28日 | インポート

Monasterio_paular1 このブログには間違ったことが沢山書いてあります。生来いい加減な性格でもあり、アメリカ留学中に、間違ったことでも自分の意見を言う訓練を受けたせいでもあります。間違っても自分の意見を言うことが重要だとさんざん訓練を受けました。出来るだけ間違いが少なくなるように努力はしていますが、以下に書くことにもいろいろな間違いがあると思います。

==何故修道院を訪問したか?===

ヨーロッパの小説や映画には修道院が時々出て来ます。裾の長い衣(スータン)を着た修行僧が高い塀に囲まれた修道院に一生住み込んでお祈りをしているようです。一度内部を見学したいと思っていました。先週、教会のミサに行った時のことです。玄関の前に若い男性が立っていてミサへ来た人へ挨拶をしています。少し話を聞いたらイエズス会石神井修道院で修業中の人と分かりました。そのMKさんの話し方が好ましかったのです。そこでその修道院へ電話をし、訪問しました。写真だけは、「イエズス会石神井修道院の写真だけを、とりあえずお送りいたしますという題目で7月26日に掲載しました。

訪問してお会いして頂いた塩谷恵策神父様へ聞きます;「修道院とはどういうところなのでしょうか?」。あまりにも愚かな質問に一瞬戸惑った様子です。修道院のことを本でも調べず、ネットでも検索しないで無知なまま質問したのです。ところが塩谷神父様は修道院というものを学問的に分類し、体系的に説明してくれました。その上、修道院の歴史を素人にも分かり易くお話をして下さいました。

帰ってからいろいろな検索をして

今野国雄氏と鶴岡賀雄氏が執筆した学問的な文章を見つけました。内容が塩谷神父様のお話と大体一致していますので下に参考文献とともに転載させていただきます。

=====以下の雑な整理を読むと分かりやすい=====

(1)キリスト教には16世紀の宗教改革以前からある旧教と、その後に出来た新教諸派があります。旧教はカトリック、ロシア正教、日本正教などの正教諸派、聖公会、アルメニアなどの東方教会、リーテル派などで新教にはプロテスタント諸派があります。

修道院は旧教にしかありません。新教では修道院の存在を認めないのです。

(2)修道院が大きく3種に分類されます。

高い塀に囲まれた一画に一生住み込んで毎日何回も御祈りを繰り返し、修道院内で労働をして過ごします。塀の外へは絶対に出ません。世の中とは隔絶して信仰をつよめます。

ところが宗教改革の折に、このような修道院の改革も起きます。塀の外に出て、宣教や教育や医療活動に従事する修道院も出て来たのです。その旗手的存在がイエズス会だったのです。勿論、古いタイプの修道院も残りました。函館のトラピスト女子修道院もその一例です。

3番目は社会への奉仕活動を主目的にした数多くの修道会です。清貧、従順、貞潔を守りながら共同生活をします。我々が町でよく見るシスターはこのタイプになると思います。

修道会には我が国で生まれたものもあります。

(3)どのようなタイプの修道院や修道会でも清貧、従順、貞潔の3原則は共通な厳しい原則です。清貧は自分の財産を所有しない、従順は修道院の掟に従うこと、そして貞潔とは一生独身を通すことです。

(4)高い塀に囲まれ現世から隔絶している修道院は、在俗の信者のためにも祈っている。信者もその事を考えて自分の信仰を強めているのです。この理由でその存在は非常に重要であり、貴重な存在なのです。これが宗教改革以前からの古い修道院が現在でも存続する理由です。

以下にYahoo!百科事典からの文章の一部をご紹介して終りとします。

尚、2枚の写真はスペインにある修道院とロシアにある修道院の写真です。出典は、Monasteryhttp://en.wikipedia.org/wiki/Monastery#Buddhism です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

藤山杜人

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――――Yahoo!百科事典 の「修道院」の項目からの抜粋――――

1、起源 (今野国雄執筆)

1947年、死海の北西岸の洞窟(どうくつ)で多くの文書が発見され(死海文書)、この文書の旧所有者たるクムラン教団ユダヤ教修道制が存在していたことが想定された。これと、従来から知られていたエジプトのテラペウタイの集団やパレスチナエッセネ派、エルサレムの使徒集団との関係が問題にされるようになった現在では、キリスト教

修道院の起源もこの時代までさかのぼって論じられなければならないかもしれないが、通常は、3世紀後半期に・・・以下省略

日本における修道院、

[ 執筆者:鶴岡賀雄 ]

日本における修道院の歴史は16世紀のキリシタン時代にまでさかのぼる。布教のため来日したイエズス会士らが共同生活をした住居、また、日本人聖職者、修道士育成のため府内(大分)はじめ各地に建てた大学(コレジオ)、修道士養成校(ノビシアード)などが広義の修道院の初めであろう。また、この時代すでに日本人による女子修道会(いわゆる「みやこの比丘尼(びくに)たち」)があったともいわれる。しかし、わが国における本格的な修道院設立は、明治に入りキリシタン禁制が解かれてからのことで、1872年(明治5)フランスのサン・モール会(聖嬰イエズス愛徳教育修道会)の修道女5人が来日し、横浜の山手居留地英国兵屯地跡に修道院を開いたのが最初とされている。中世以来の伝統的修道会(オルド)としては、1896年にフランスの厳律シトー会(トラップ派)が北海道上磯(かみいそ)郡茂別(もべつ)村石倉番外地(北斗(ほくと)市)に有名な灯台の聖母(ノートル・ダム・デュ・フアール)トラピスト修道院を開き、続いて同会の女子部、厳律シトー修道女会も、98年に函館(はこだて)郊外上湯ノ川(現函館市上湯ノ川町)に天使の聖母(ノートル・ダム・デ・ザンジュ)トラピスチヌ修道院を開設した。以後、ドミニコ会1904)、フランシスコ会1907)、神言会1907)など有力な修道会が次々に来日し、イエズス会も1908年(明治41)には再来日している。現状では、わが国で生まれたものも含めて、男子47、女子94の各種修道会が活動している。なお、修道院の基本構造や生活の原則は全世界で共通であるが、それは各地域の文化的伝統をまったく無視したものではない。わが国においても、日本の建築様式

を取り入れた板敷きの聖堂などもつくられている。・・・以下省略

参考文献:

1.    

今野国雄著『修道院』(1971・近藤出版社)

2.    

D・ノウルズ著、朝倉文市訳『修道院』(1972・平凡社)

3.    

今野國雄著『西欧中世の社会と教会』(1973・岩波書店)

4.    

今野國雄著『修道院』(岩波新書)

5.    

半田元夫・今野國雄著『キリスト教史<shapetype id="_x0000_t75" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" stroked="f" filled="f" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="図_x0020_1" alt="http://100.c.yimg.jp/lib/gaiji/gif/l/01133.gif" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_i1027" style="VISIBILITY: visible; WIDTH: 9pt; HEIGHT: 15pt; mso-wrap-style: square"></shape><imagedata o:title="01133" src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.gif"></imagedata><shape id="図_x0020_2" alt="http://100.c.yimg.jp/lib/gaiji/gif/l/00522.gif" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_i1026" style="VISIBILITY: visible; WIDTH: 9pt; HEIGHT: 15pt; mso-wrap-style: square"></shape> <imagedata o:title="00522" src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image002.gif"></imagedata>』(1977・山川出版社)

6.    

森安達也著『キリスト教史<shape id="図_x0020_3" alt="http://100.c.yimg.jp/lib/gaiji/gif/l/01242.gif" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_i1025" style="VISIBILITY: visible; WIDTH: 12pt; HEIGHT: 15pt; mso-wrap-style: square"></shape> <imagedata o:title="01242" src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image003.gif"></imagedata>』(1978・山川出版社)

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昔懐かしい横濱駅、崎陽軒のシウマイ

2010年07月27日 | 食・レシピ

今日は横浜駅そばで大学の同級生が8人程集まってビールを飲みました。同級生のT内さんが20年間のマレーシアでの技師としての仕事を終えて日本へ引き揚げてきたのを歓迎する会です。SOGOの地下で昔懐かしい横濱駅、崎陽軒のシウマイを買って来ました。昔風に製法を変えないもの(右)と贅沢に仕上げたもの(左)です。

中高年の方々には懐かしいと思い写真をお送りします。ちなみに右は580円、左は1300円でした。関東地方では何処でも売っていますが横濱駅のそばで買って来たので昔の通りの本物のシウマイと感じて楽しんでいます。気分だけでしょうが。(終り)

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壇の浦の悲劇と関ヶ原の悲劇(続き)・・・八丈島へ流された秀吉の家老、宇喜多秀家の悲劇

2010年07月27日 | インポート

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運命のいたずらで敗けた武士へ、人々は公平に接します。お釈迦さまの教えのように人間の儚さをよく知っているからです。関ヶ原で負けてしまった豊臣秀吉の家老であった宇喜多秀家のお墓を探しに八丈島へ行きました。昨年の冬の旅でした。

上の写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓です。現在でも今朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあります。毎日、花が供えられるのです。

秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?

秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で島へ到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の差し入れも許されました。

豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。

前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。明治維新まで八丈島の宇喜多一族へ対する前田藩の支援へ私は頭が下がります。これが日本人の義理人情なのではないでしょうか。

宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。

宇喜多一族は次第に増え、島の重要な家族として人々に大切にされました。

秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。

八丈島へは1917人の流人が来ました。粗暴犯の他に江戸幕府や仏教界での権力闘争に敗れた政治犯も多かったのです。これらの人々は知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしました。歴史民俗資料館発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。カイコと、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記し感謝しています。中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。

これらを総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。

最後に、昨年、欠航のため島に予定より3日間、居続けた間に感じたことを記します。孤島に流されたような気分になります。すると周りの人々すべてが大切な存在として感じられるのです。大島や神津島くらい伊豆半島へ近いとそんな気分にはなりません。太平洋に浮かぶ孤島だからこそ人間が一人一人が大切に思えるのです。

八丈島のローカル文化は欠航という目に会って初めて少し実感したような気分になりました。

宇喜多秀家のお墓を探しに八丈島へ行きましたが、思いがけず船も飛行機も欠航になり3日程の島流しにあいました。そのお陰で知った離れ島の人々の心の温かさでした。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

(下に宇喜多秀家も400年前に見た八丈島の暗く、寂しい風景の写真を付けます)

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イエズス会石神井修道院の写真だけを、とりあえずお送りいたします

2010年07月26日 | 写真

このブログの記事ではいろいろな方々のインタビュー記事もあります。今日は気楽な気持ちで、イエズス会石神井修道院を取材してきました。

ところが、お会いして下さった塩谷恵策神父様に感銘を受け気楽な訪問記が書けなくなりました。博識な上、学問的に体系化された修道院の歴史を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。

イエズス会士にお会いするのは初めてでした。昔から東洋文庫で中国や日本のイエズス会の会員の活躍を読んでいました。イエズス会士に会えるだけで興奮したのですが、お話の内容があまりにも感動的でした。これから少し調べたり、考えたりしてから記事として数回に纏めて見たいと思います。イエズス会の歴史、修道院の種類とそれぞれの役割、ヨーロッパ文化が投影されている教会組織と修道院の関係などを考えて、整理して記事に出来れば幸いと思っています。

今日は取りあえず、4枚の写真をお送りいたします。

上から順に、石神井修道院の書面玄関、船越保武氏作の和風姿のマリア様、石神井修道院の主聖堂、塩谷恵策神父様の御写真の4枚です。

なお船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家で、それに対して高村光太郎賞が1962年に与えられています。敬虔なカトリック信者で東京芸大の教授も務めました。

まず4枚の写真だけをお送りいたします。007 011 015 010

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今日は土用の丑の日、蓮田の中に浮かぶ山中のウナギをご紹介します

2010年07月26日 | インポート

JR常磐線の土浦駅を下車し、東口からタクシーで沖宿方面へ行くと一面に蓮の葉が広がっています。その蓮の葉に浮かぶように藁ぶき屋根の農家風の山中屋が有ります。「うなぎの山中」という看板が蓮田に立っています。

うなぎは焼きを強めにし、濃い昔風の味付けです。天然仕立て風のウナギを昔風の濃いタレで出しています。季節によっては白魚の刺身も出てきます。

その他に、川海老の天麩羅や釜揚げもあります。蓮の葉を渡ってくる夏風にビールを傾けるのも良いと思います。

「うなぎの山中」はHPを持っていませんので、電話0298-28-0804で場所をよく聞いて、地図で確かめた上で行かないと大変です。土浦駅東口から数キロ離れた交通不便な田舎にあります。タクシー以外はバスもありません。霞が浦観光へ車で行って、寄るのに丁度良いと思います。

下の写真にはシラウオのサシミと、その右奥にカバヤキの重が写っています。白魚は酢味噌で食べます。(一皿1000円)

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

(下の写真は2008年10月26日に撮ったものです)

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壇の浦の悲劇と関ヶ原の悲劇・・・平家の落人部落の伝説の真贋は?

2010年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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壇の浦で平家を滅ぼした源氏は鎌倉幕府をつくり我が世を謳歌します。一方平家にとっては壇の浦は最大の悲劇です。1185年の事です。

そして約400年後、関ヶ原の合戦で勝った徳川は新しく江戸に全国統治の首都を作り、260年権力を保持します。負けた豊臣勢や石田三成一派にとっては関ヶ原は最大の悲劇になりました。その一例は続編で書きます。

このように勝利の歓喜と負けた側の悲劇は切り離すことが出来ません。人の世の悲しい定めです。心ある人々は勝敗は運命に過ぎない。負けた方が悪いという冷酷な考えを持ちません。善悪の判断の空しさを知っているからです。

そこで負けて、悲劇に見舞われた側へも温かい支援の手を差し伸べます。可能な限り保護します。そのような人間の優しさを伝えているのが平家の落人部落の伝説です。それを知る度に人間の悲しさと、優しさを感じて静かな気持ちになります。

平家の落人部落は全国のあちこちにあります。しかし記録が残っていてところは多くはありません。記録が無くても私は信用します。

ところが明確に記録の残っている落人部落もあります。栃木県日光市湯西川温泉です。

記録に従って、「平家の里」という落人の里を復元したテーマパークも作られています。

上の写真がその様子です。訪れてみると、付近は水田も作れず畑作もままならない谷間の寒々しい土地です。

そことを考えると復元、展示されている家々は少し立派すぎるようです。復元した人々が落ち延びた平家の武将を哀れんで立派に作ったのかも知れません。平家一門に関する数々の品や木工の道具類が展示されています。壇ノ浦近くの赤間神社から、テーマパーク建設の時に分祀した小さな神社もあります。そのおりに贈られた長門本20巻の復刻版も展示してあります。栃木県の湯西川から遥か遠方の壇の浦はどのような経緯で繋がっているのでしょう?

壇ノ浦の戦いのあと、平家の武将、平貞能(さだよし)は平重盛の妹の妙雲禅尼を助け、宇都宮まで逃げて来たのです。宇都宮の領主の藤原朝網に保護されようと思ったのです。しかし朝網は困ります。そこで付近の最高峰の高原山へ一行を隠します。ところが一行のなかのある女が男の子を安産します。御祝に鯉幟をあげます。山裾に居た落人探索中の源氏方がその鯉幟を見つけてしまったのです。当然攻め込まれます。そこで落人の一団は二手に分かれ貞能(さだよし)は塩原へ逃げ、さらに遠く、仙台の西の作並温泉近くまで落ちて行きます。一方、貞能の一団の他の落人は塩原のさらに西の険しい山々に分け入り、現在の湯西川温泉の地に隠れました。そこまでは記録も残っているのです。

仙台の作並温泉近くまで行った貞能は出家して定義(じょうぎ)と名乗り出家します。この定義は「さだよし」とも読めます。作並から山に入りこんだ所に現在も定義温泉があります。出家して定義と名前を変えた貞能はそこで天寿をまっとうしました。住んでいた堂を後の人々が定義不動堂として現在に到っています。私は仙台で育ったのでこの定義温泉へは3回くらい行ったことが有ります。兎に角、交通の便の悪い山奥にあります。成程、平貞能が逃げ込んだ山奥だとしみじみ納得します。近くの作並温泉へは数え切れないほど行きましたが。定義温泉は遠すぎます。平家の武将、平貞能は死んで、定義不動堂になりました。壇の浦から遥かに遠い東北の寒い山奥で過ごした日々、平貞能は何を考えて生きていたのでしょう。

もっと詳細は「湯西川温泉」と「定義」をキーワードにして検索するとご覧頂けます。

撮影日時:2008年12月1日午前10時頃、撮影場所:湯西川温泉1042、「平家の里」(電話:0288-98-0126)・・・・・終り・・・・・・・・・・         

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

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コンピューターの記憶容量不足の簡単解決法・・・外付けハードディスクを付けました

2010年07月25日 | うんちく・小ネタ

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(上の写真は、2009年8月16日につくば市在住のフォト子さんが撮影したものです。転載させて頂きました)

このコンピューターのハードディスク容量は80ギガバイトと表示してあります。ブログへ掲載した写真を含めて数千枚の写真を記憶保存していました。ところが最近、デスクトップの画面にハードディスク容量不足の警告文が何度も出るようになりました。

仕方がないので古い写真を削除したり、不要なドキュメントを消去してなんとかしのいで来ました。ところがPCデポへ行ったら、500ギガバイトの外付けハードディスクが8000円で売っています。日本のBaffalo社設計のものを中国で生産したものです。とても小さなもので携帯電話くらのものです。USBケーブルでこのコンピューターに繋ぐと直ぐに使えるようになりました。

コンピューター本体が80ギガバイトで、その外に500ギガバイトの記憶容量が付いたことになります。デジカメ写真なら11万2千まい記憶できると書いてあります。

本体のマイピクチャーに保存していた写真の大部分をこの外付けハードディスクへ移動しました。本体が軽くなったので、コンピューターの反応も心なしか早くなったようです。

皆様はコンピューターの事は詳しくてこんな事は常識と思います。しかし老人になってから始めた人にとっては記憶容量の不足は頭を悩ませます。少しお金はかかりますが、簡単に解決できたので、ご報告しました。お役に立てば嬉しいです。

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宗教のお陰で老境が気楽になる、楽しくなる

2010年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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政治と宗教の話題は書いてはいけませんとよく聞きます。 しかし私の関心事ですので、時々このブログで書いています。書く場合はどのような立場の人々も傷つけないように努力しているつもりです。例えば無宗教の人がこのブログの宗教に関係する記事を読んでも不愉快にならないように書きます。事実、無宗教でも立派な人格者が沢山居ることをキチンと書くことが重要です。

また私はカトリックの洗礼を受け。毎週のように教会へ行っています。しかしプロテスタント諸宗派の良いところ、そして仏教の素晴らしい所も知っている限り書くようにしています。

宗教は特殊な宗派のみを狂信すると周囲の人々に大変な迷惑をかけます。ですから私は絶対にカトリックを狂信しないようにしています。

老境になって、従来、何気なく受けてきた「宗教的訓練」のお陰で、他人を平等に見て、その上、等しく大切に思えるようになりました。何かの偶然で会った人々へも挨拶の言葉が気軽にかけられるようになったのです。初対面の人へこちらから挨拶の声を上げるなどということは以前は皆無でした。現役の間は職場の上下関係によって敬語を使い分けたり、お辞儀の角度を微妙に変えていました。

それが仕事を止め、種々の人々とお付き合いをするようになったのです。どんな人々でも神様の前では絶対的に平等なのです。お釈迦様の前では絶対的に平等なのです。もし偉い地位にある神父さんや宗派の代表をしている偉い僧侶が高ぶった態度を取ったら、地獄行きなのです。ですから宗派の代表者がやたら新聞やマスコミに現れる場合はクエッション・マークが付きます。こんな自由な考え方を一旦持つと老境が気楽で楽しくなります。

宗教の気楽さの例を一つ書きます。以前このブログでカトリック神学校の訪問記事を掲載しました。電話して、来てもよいですよと返事を貰いました。車で40分位のドライブ中が楽しくて仕方がありませんでした。少年の頃、行くと必ず大切にしてくれる親類の家に遊びに行く途中のような楽しい気分です。この楽しさは住職さんと少し話をする為にお寺を訪問する場合も同じです。子供のころ行った祖父が住職をしていた寺を思い出すのです。

下にマザーテレサが長崎に来た時の写真を示します。この写真をジット見て居ると写っている人々が家族が集まった時のように楽しげにしています。見詰めているとその家族のなかに自分も溶け込んでしまいます。

こういう訓練を重ねた上で、今度は見知らぬ人々が道路で信号待ちをしている光景を見ます。何故かフッと皆が家族のように思えるから不思議です。信号が変わってすれ違うとき親しげな顔でこちらを見る人が居るのです。

こんな気持ちでこのブログを通して知り合った人々も大切に、そして尊敬するようにしています。ご縁があって知り合ったのですから大切に、親切に、尊敬したくなります。今日はミサに行って来たばかりなので、このような文章が書けるのかも知れません。明日からは俗な人間に戻ってしまうのです。戻っても時々今日書いたような感じを思い出すものです。詰まらない話を書いて恐縮です。もう終りに致します。

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