後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
反対のご意見やコメントも歓迎します。

インターネットで事業資金を集める方法、クラウドファンディングとは?

2018年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
これは典型的なアメリカ文化の一例です。自分の一生の記録を書いた本を出版したい。自分の書いた油彩画の個展を開催したい。外国でボランティア活動をしたい。主婦の家事を助ける新しい台所用品を開発して発売したい。
どれもこれも事業の為のお金が入用です。先立つものはお金です。
そのお金をインターネットを利用して集める方法がクラウドファンディングです。これはアメリカでは日常的に使われています。
日本では2011年3月にReadyforという会社がこのサービスを開始しました。
現在国内No.1の規模のReadyfor社が集めた支援総額は、2011年1千万円だったものが2016年では30億円以上となっています。
5月29日掲載の記事、「葉田甲太氏、ボランティア活動をしている日本人を誇りに思う」の葉田甲太さんもこのReadyfor社のクラウドファンディングを利用してカンボジアに病院を作ったのです。

今日はこのクラウドファンディングの利用方法を、
https://readyfor.jp/crowdfunding から抜粋して簡略に説明したいと思います。
クラウドファンディング(CrowdFunding)とは、群衆(Crowd)と 資金調達(Funding)という
言葉を組み合わせた造語で、「自分の作って歌った曲をCDにしたい」「災害被害にあった図書館を復旧したい」など、
様々な理由でお金を必要としている人に対し、 共感した人が一口1,000円程度からインターネットを通じて出資し支援をする、
こうしたインターネット上で多数の人から資金を募る仕組みを言います。
過去にクラウドファンディングが実行されたプロジェクトは幅広く、築地を舞台にした映画作成、
地域活性のために高校生による商品開発、最新のIoTを使ったウェアラブル製作等から、
自身の自伝本の作成など、数多くのプロジェクトが存在します。
また、途上国支援や被災地支援なども多く実行されています。
プロジェクトを立ち上げる実行者自身も個人、団体、企業、自治体など様々です。

クラウドファンディングという言葉自体は比較的新しいですが、不特定多数の人々から資金を募り、何かを実現させるという手法自体は古くから存在していましたがインターネットの普及に伴い2000年代に米国で先駆的なウェブサイトが続々と開設され、市場が拡大してきました。
代表的なサービスにIndiegogo、Kickstarter等があり、特にアメリカやイギリスではクラウドファンディングは
資金集めの方法として一般的なものになりつつあります。日本では、2011年3月Readyforのサービス開始から、
現在まで複数のサービスが開設され、急速に広まっています。現在国内No.1の規模のReadyforが集めた支援総額は、
2011年1千万円だったものが2016年では30億円以上となっています。

その資金の募集方法は葉田甲太さんの次の寄付募集のページをご覧下さい。
「カンボジアの僻地に病院を建設し、8000人の命を守りたい!!」
https://readyfor.jp/projects/npoaozora
そこには寄付募集の趣旨が次のように書いてあります。
赤ちゃんの「命」を救い、泣いていたお母さんの「涙」を止めたい。
カンボジアの農村では都市部と比べると、伝統的産婆と呼ばれる医学的に教育を受けていない助産師が立ち合う出産が一部残るなど、乳児死亡率(出生1000人あたりの1歳未満死亡数)は高いままで改善されていません。乳児死亡率は都市部では「13」であるのに対して、農村部では「42」と3倍近くの開きがあります(*1)。お母さん・赤ちゃん2人の命を賭けた出産をより安全で確かなものにするため、高額な私立病院の受診や危険な出産をしなくても、安心して出産・外来受診が受けられる「場所」と出産時に赤ちゃんが亡くならないように「技術」を教えることを目的として病院建設を行います。

そして目標金額150万円に対して483万円集まったという報告もあります。
このような資金集めはまだ日本社会では広く知られていません。
しかしこのアメリカの方法もいずれ日本社会に普及すると思います。

写真は離島で総合診療医として働いていた頃の葉田甲太さんです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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最近の日本社会の変化(1)ボランティア文化の隆盛

2018年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の昭和11年に生まれた私は戦前と戦後の日本社会の激変を体験してきました。しかしそんな昔のことを書いても仕方があろません。
そこで1990前後のソ連の崩壊の頃、そしてバブル経済の瓦解の時代から現在までの日本社会の変化について気楽な連載記事を書いてみたいと思います。どうぞお気軽に読み流して下さい。
最近、この欄で次の三つの記事を書きました。
(1)「世界の僻地で幸せに暮らし、その土になる日本人たち」2018年05月24日
(2)「北インドの僻地に住む日本女性、池田悦子さんの幸せな暮らし」2018年05月24日
(3)「葉田甲太氏、ボランティア活動をしている日本人を誇りに思う」2018年05月29日

この3つの記事の共通点は日本人が外国の僻地の発展に貢献するボランティア活動を描いたことにあります。
特に(1)は戦前の古い話ですのでその概略をもう一度書いてみます。
福島県安達郡玉井村の野内与吉さんが1917年ペルーに移民し、1923年にマチュピチュの麓の部落に定住しました。そしてその部落にホテルなどを作りマチュピチ遺跡への観光拠点として発展させ、マチュピチ村の初代の村長になったのです。
野内与吉の次男のホセは1981年から1983年までマチュピチュ村の村長になり、その時、マチュピチ遺跡が世界遺産になるようにペルー政府に働きかけ、間もなく正式に世界遺産に認定されたのです。その後観光客が非常に増え、マチュピチュ村の生活が潤ったのです。こういう話でした。
これは(2)と(3)の池田悦子さんと葉田甲太さんのボランテュア活動と性質が違います。時代も違います。しかし外国の僻地の人々を助けるという崇高なボランティア精神は同じものでした。

この3つの記事を書き終えて、私は考え込みました。
何時から日本社会にボランティア文化がアメリカから導入され、どのように定着したのだろうかと考えたのです。
何時ものように雑に結論を書きます。
元来、アメリカにはボランティア文化があったのです。それが外国へ向けられたきっかけはケネディ大統領が創設した青年海外協力隊だったと私は認識しています。
日本の外務省も国家予算でJICA を組織し、青年達をアフリカなどの僻地の経済発展のために続々と送り出したのです。それに平行するように、日本の慈善団体も世界の僻地へ人材を送り出します。
このような活動と、1990年頃のバブル経済の瓦解以後の日本人の海外ボランティアの性質が非常に変化して来たというのが私の今日の主張なのです。これは私個人の感じ方ですので間違っているかも知れません。
1990年頃以前は外務省の官製ボランティア活動や、各種の慈善団体の社団法人やNPOが組織として資金を支援するボランティア活動だったのです。
それが1990年頃を境にして次第に組織に所属しない個人があくまでも個人の資格と責任によって外国の僻地で活動するようになったのです。
上に書いた池田悦子さんと葉田甲太さんのボランテュア活動は、あくまでも個人の資格と責任によって外国の僻地で活動しています。

何故、それが可能になったのでしょうか?
理由は活動の資金はインターネットで簡単に集めることが出来るからです。

インターネットにはクラウドファンデングという機能があります。不特定多数の人から資金を集める機能を持ったシステムです。
例えば葉田甲太さんは2018年1月にこのシステムを使って303人の寄付者から484万円の資金を集め、カンボジアでの病院建設に使いました。クラウドファンデングという機能は慈善事業だけでなく営利事業の資金集めにも使っている人が多いのです。
さて池田悦子さんはクラウドファンデングという機能は使わなかったようですが、インターネットを通じて資金を集めています。

このように日本人の海外ボランティア活動は組織に所属しない個人が、個人の責任と資格で自由に行う時代になったのです。
日本社会がますます個人の自由と責任を重視するアメリカ型の社会に変化してきたのです。
この海外ボランティア活動は日本国内のボランティア活動の隆盛がその基盤になっているのです。
例えば1995年(平成7年)の阪神・淡路島大震災の場合にはつぎのような個人的ボランティアの活躍があったのです。
・・・地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は1日平均2万人超、3か月間で延べ117万人ともいわれる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者のための献血・義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものとみられる。
このために、この年は日本における「ボランティア元年」ともいわれる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定めた。
この震災で、ボランティアに関わった人々の中には、精神的に大きなダメージを負ってしまった人も多かった。被災した人々のケアだけでなく、ボランティアの心のケアも、とても重要なことであることが明らかになった初めてのケースになった。・・・
(https://ja.wikipedia.org/wiki/阪神・淡路大震災#ボランティア活動 )

東日本大震災でも阪神を大幅に上回る多数の個人ボランティアが活動しましたが、その詳細は割愛します。
このようにして今や日本の社会にはボランティア文化が隆盛をきわめているのです。
この実態を理解しようとしない人もいます。戦前や戦後の日本にはボランティアなどいう言葉が無かったのです。当時の人々にとってはボランティア活動なと想像も出来ませんでした。ですから戦前、戦後に育った高齢者には日本におけるボランティア文化の隆盛が理解出来ないのも無理がありません。私もあまり深く理解出来ません。
理解出来なくても暖かい目で見てあげることが重要ではないでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、都立薬草園で撮って来た花々の写真です。特に1番目の写真は熱帯に咲くヒスイカズラです。花の色が翡翠のように何とも言えない美しい色合いをしています。以下順にシナカンゾウ、ヨウシュイブキジャコウソウ(ワイルドタイム)、ヤエドクダミ、トウカンゾウです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









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葉田甲太氏、ボランティア活動をしている日本人を誇りに思う

2018年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
最近の若い日本人は素晴らしいと思う。尊敬しています。これこそ日本人の誇りと思う。
特に世界の僻地で、ボランティア活動をしている若い日本人が非常に増えたことを心強いと感じています。

今日はカンボジアの僻地に学校を作り、病院を建設しようとしている若い葉田甲太さんをご紹介したいと存じます。彼は30歳前後の若い医師です。

1番目の写真が葉田甲太さんです。彼は2004年にカンボジアに小中学校を作りました。

2番目の写真は農村の通学風景です。

3番目の写真は農村の住宅の様子を示す写真です。

さて若い葉田甲太さんが何故カンボジアに学校を作り、病院まで建設しようとしているかを説明します。
彼のHPから抜粋してその経緯を説明致します。
詳しくは、「カンボジアの僻地に病院を建設し、8000人の命を守りたい!!」
(https://readyfor.jp/projects/npoaozora )をご覧下さい。

(1)何故、彼は学校を作ったか?

彼の文章をそのまま転載します。しみじみと心に響く文章なので、どうぞごゆっくりお読み下さい。

・・・2004年、当時大学生だった僕は、「カンボジアに150万円あれば小学校が建ちます。」というパンフレットを、渋谷の郵便局で見かけ、仲間を募り、お金を集め2005年、カンボジアのコンポントム州に小学校を建設しました。その経緯を綴った『僕たちは世界を変えることができない。』は書籍化され、2011年に東映より映画になりました。
そして、その後もたくさんの方のおかげで支援は継続され、現在、小学校教師6人、中学校教師11人の体制で、小学生220人、中学生280人の子供達が学校に通えています。改めて感謝致します。本当にありがとうございました。

4番目の写真は彼が作った学校の生徒達と先生達です。

(2)何故、病院まで作ろうとしているのか?
2014年、社会人となり、継続支援のため、小学校のある村を訪れたときに、生後22日目の赤ちゃんを肺炎で亡くしたお母さんに出会いました。亡くなる前に、赤ちゃんの呼吸が早くなっていることにお母さんは気付いていたようですが、病院までの交通費がなく、お母さんは受診をためらったそうです。いよいよ、赤ちゃんの状態が深刻になった時に、村長に借金をして州の大きな病院に向かったそうですが、病院に向かうバイクタクシーの途中で、赤ちゃんはもう亡くなっていました。

お母さんは赤ちゃんの呼吸がとまっていることに気付かず、遺体を抱えたまま、州の病院に着くと、お医者さんに赤ちゃんが亡くなっていることを告げられたそうです。それから、お母さんはバイクタクシーにもう一度乗り自宅に帰り、自宅の近くに赤ちゃんの遺体を埋めました。お母さんには、バイクタクシーの借金だけが残りました。

現地の救急車(バイクタクシー)に乗るためには高額なお金が必要です。

支援というのはとても、難しいものです。現地の自立や持続可能性を考えなければなりませんし、支援が現地にとって有害になる事も時にあります。人の幸せはそれぞれですし、自分が思う「幸せ」も、現地にとっての「幸せ」とは限りません。

それでも、一つだけ確かなことは、お母さんはこの話をする時に、ずっと泣いていました。
肌の色や、信じていることは違っても、よほど特殊な状況でない限り、自分の子供を亡くし、悲しくないお母さんは、世界中でいません。
その涙は適切な行動さえすれば、減らせる「涙」のような気がしましたし、減らなきゃいけない「涙」のような気がしました。

5番目の写真は赤ちゃんを亡くした夫婦です。

亡くなった赤ちゃんや、泣いていたお母さんに何かできないかと、カンボジアから帰国後、臨床医として地域で働き、長崎大学大学院の熱帯医学講座にて、亡くなっていく赤ちゃんをどうやったら減らせるかについて学びに行きました。
肺炎には抗生剤、下痢には経口補水塩(ORS)、マラリアには診断キットや蚊帳などが整備されたこともあり、5歳未満死亡率は、減少しています。しかし、生後1ヶ月未満、いわゆる新生児死亡率の減少は、世界的にまだまだ緩慢で、未だに世界で出産当日に100万人の赤ちゃんが亡くなり、期待されたほど減少していないことを知りました。
そして、医学的に教育を受けた熟練された助産師さんが出産に立ち会い適切な処置を施せば、適切な医療サービスがあれば、新生児の死亡を約4割減らすことができることも分かりました。

それと同時にある迷いも生まれました。
いわゆる国際協力といった世界で、研究や、行政機関や、現場レベルで素晴らしい活動をされている方は、既にたくさんいらっしゃいます。
そんな中で、自分が行動したところで、なんの意味があるのだろう。ある国の、ある州の、ある村の、ある事柄が改善したところで、世界の何が変わるというのだろう。結局自分は微力じゃないか。自分の自己満足なんじゃないだろうか。

そんなことを考えていたある日、長崎での日々が終わり、日本の離島の診療所で働いていた時に、ある女子中学生に出会いました。

(3)離島に住む女子中学生に教わったこと。
「映画『僕たちは世界を変えることができない。』を見て、将来私もお医者さんになって、途上国の医療に貢献したいと思うようになりました!」と、その女の子は、自分の夢を語ってくれました。
僕はその時、初めて知りました。自分の活動や、書いた本や映画で、時に人に影響を与えられることがある事を。
行動すればするほど、自分の力が微力であることを、知ります。
勉強すれば勉強するほど、世界はとても複雑で、自分の力ではどうしようもないことが、無数にあることを知ります。
それでも、その活動が微力でも、誰かに影響を与え、まわりまわって、世界は少しづつゆっくり良くなっていくんじゃないか。
たとえ自分の力が微力でも、自分の行動がきっかけで、誰かが新たな行動を起こしてくれるかもしれないこと。
そして、その力が合わされば、時に大きな力になるかもしれないこと。
恥ずかしながら、そんなことを、何歳も年下の日本の中学生の女の子が、逆に僕に教えてくれました。

カンボジアでのお母さんとの出会い、長崎大学大学院の熱帯医学講座、日本での臨床医の経験、島のお医者さんを目指す女子中学生との出会いを経て、「どうやったら赤ちゃん・お母さんの命を守ることができるか」をもう一度考え行動しました。
建設した小学校にワールド・ビジョンという国際NGOが支援してくれていた経緯もあり、ただ情熱のままに連絡を取り、話し合いの末、国際NGOワールド・ビジョン協力の元、母子の命を守るための病院建設を進めていくことになりました。
候補に上がったのはバンティ・ミエンチャイ州のサンブール保健センターでした。
・・・以下省略します。

この活動は2014年に始まりました。もう病院は完成していることでしょう。
今日の記事も長くなってしまいましたが、最後に何故、カンボジアを取り上げたかを書かせて下さい。
それは私の幼馴染がカンボジアが好きで足繁く通っているからです。その理由は、2018年03月05日に掲載した次の記事に書いてあります。
平野茂樹著、「カンボジアの夕日と子供達の瞳に魅せられて」です。

それにしても若い葉田甲太君の次の言葉が感動的でした
「私の活動が微力でも、誰かに影響を与え、まわりまわって、世界は少しづつゆっくり良くなっていくんじゃないか」。
老人の私は、最近の若い日本人は素晴らしいと思います。尊敬しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===追記、病院は2018年2月に完成しました=============
「サンブール保健センター開院式のご報告」2018年02月28日
2018年2月11日、サンブール保健センターの開院式がありました。
産前産後待機室を含む8部屋を完備し、雨季の洪水対策のため、6mほどの高床式の病院が完成しました。

6番目の写真は完成したサンブール保健センターの写真です。

7番目の写真は開院式の様子です。
以下は葉田甲太さんの話です。(https://readyfor.jp/projects/npoaozora/announcements/72605 )

・・・ 本プロジェクトに関わって頂いた、すべての皆様本当にありがとうございました。
ご寄付を頂いた方、ツイッターやFBで拡散して頂いた方、応援して頂いた方、すべての方のおかげでセカンドゴールを達成する事ができました。
開院式の日は、とても晴れた日でした。
以前、出会った時は、お子さんを失い、涙を流していたMaoさんも開院式に来てくださいました。
今回の開院式で再会すると、今は妊娠八ヶ月となり、初めての女の子だと、喜んでおられました。
そして、住民、ヘルスセンタースタッフのたくさんの笑顔を見ることができました。
新生児蘇生法の講習会では、日本の小児科医の先生が、本当に尽力してくださいました。

ふとしたキッカケで、2005年に僕はカンボジアと出会いました。そこから、小学校に通い続け、赤ちゃんを亡くしたお母さんと出会い、今度は医師として、何かできないかと、探し続け、自分の無力さ、ご協力いただいた方への感謝を、とても感じる数年間でした。
そんな中、僕が、クラウドファンディングやこのプロジェクトで、一番驚いたのは、ご協力いただいた方から、「ありがとう」と言われた事でした。
ご寄付を頂いたり、たくさんご協力いただいたにも関わらず、ありがとうと言ってくださる方がいました。
こういうことをやってみたかったから、関われて嬉しいとのことでした。
僕は、そういった方々に、どれだけお世話になっているのだろうと、思いました。
どうやったら、そういった方々に、御恩を返していけるだろうと、考えました。
ご報告するのは、もちろんですが、僕はその御恩を返していけるように、やっぱりこれからも行動を続けていこうと思います。
たくさん、ご協力いただき、本当にありがとうございました。
皆様の一人一人の、ご協力のおかげで、無事、写真にあるようなサンブール保健センターを開院させる事ができました。
そして、この病院で母子の健康を守り、たくさんの方の笑顔をつくる事ができそうです。
そんな瞬間に携われた事を、僕はこの先も、きっと忘れることはないと思います。
ありがとうじゃ足りないかもしれませんが、ご協力いただき、本当にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。                  葉田甲太
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激動北朝鮮、それは興味深い国際政治ショー

2018年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
北の金正恩委員長が困って韓国の文在寅大統領にもう一度会い、アメリカとの仲介を懇願しました。
最近の北朝鮮と韓国とアメリカの激烈なやりとりは実に手に汗を握る非常に面白い国際政治のショーです。
この歴史の急激な転換を前にして私はいろいろなことを考えます。

国家とは何だろうか? 国民の幸福とは何だろうか?
北と南の朝鮮は対立しながらも愛し合っているのか?
北朝鮮と韓国が協力してアメリカと交渉するのは前代未聞ではないか?
やはりアジアは協力して欧米に対立する運命にあるのか?
北と韓国とアメリカが本当に朝鮮戦争の終結に合意するのか?
北朝鮮の体制がアメリカに保障されたら、日本は一兆円ほどの賠償を要求されないだろうか?
一兆円とは日本が戦後、韓国へいろいろな形で支払った賠償と言われています。
それにしても、朝鮮併合はロシア勢力の南下を防ぐという良い効果もあったのでしょうが、日本にとって本当に大きな負の遺産になったものです。
北は拉致問題と日本からの賠償を必ずからめて来るのではないでしょうか?
拉致問題解決に中国とアメリカは日本に協力してくれるだろうか?あまり期待できません。
人類全体のことを考えれば米朝会談の成功は素晴らしいことです。
しかし日本にとっては新しい賠償という問題が起きるかも知れません。手放しで喜んで良いものでしょうか?

昨日からアメリカと北朝鮮の実務者会議がシンガポールと板門店で開催されています。6月12日の米朝会談が全ての点でうまく行くように事務方が鋭意相談し合っているようです。3度目の正直と言います。今度は会談が開かれるのでしょう。

1番目の写真は5月26日午後に二度目の会談を行った時の文在寅大統領と金正恩委員長の写真です。

この記事に関連する動画と記事を以下に示します。

動画:南北首脳、「米朝会談実現へ再会談」
2018年5月27日 6:55 発信地:ソウル/韓国
http://www.afpbb.com/articles/-/3176139

【5月27日 AFP】韓国の文在寅大統領は26日、北朝鮮との軍事境界線にある板門店で、同国の金正恩朝鮮労働党委員長と2回目の首脳会談を行った。トランプ米大統領と金委員長による歴史的会談の実現を目指す動き。
 韓国大統領府(青瓦台)は、「両首脳は、板門店宣言を履行するための、また米朝首脳会談を成功裏に実現させるための方策について意見を交わし、協議を行った」と発表。さらに、文大統領が27日午前に声明を発表することを明らかにした。会談は2時間にわたり行われた。
 両首脳は先月にも板門店で会談し、関係改善を誓う板門店宣言を発表していた。
 今回の会談で撮影された写真には、両首脳が軍事境界線の北朝鮮側で握手と抱擁を交わす様子が捉えられている。
 一方、米国のサラ・サンダース大統領報道官は26日、米政府は来月12日の米朝首脳会談が計画通り開催される場合に備え、準備担当者らを予定通り開催地のシンガポールに派遣すると明らかにした。
 突然の南北首脳会談に続く米政府の発表は、中止と実施の間で揺れる米朝首脳会談が、計画通り行われる可能性を示す動きとみられる。
 トランプ大統領は24日、北朝鮮政府の「すさまじい怒りとあからさまな敵意」を理由に米朝首脳会談の中止を発表。しかし、北朝鮮側が「いつでも」会談を行う用意があると表明した後、25日のツイッター投稿で、会談は予定通り行われる「だろう」としていた。(c)AFP


「朝鮮半島の完全な非核化」金正恩氏が意思表明 韓国大統領が南北首脳会談の結果を発表
2018.5.27 10:34
https://www.sankei.com/world/news/180527/wor1805270018-n1.html
【ソウル=名村隆寛】韓国の文在寅大統領は27日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長と前日に行った南北首脳会談の結果について発表。金正恩氏が「米朝首脳会談の成功を通して戦争と対立の歴史を清算し、平和と繁栄のため協力する」とし、「朝鮮半島の完全な非核化」の意思を示したことを明らかにした。
 文氏は金正恩氏との会談で、「6月12日の米朝首脳会談は成功裏に行われねばならない。中断するべきではないと確認した」と述べた。文氏は22日に会談したトランプ米大統領の考えも金正恩氏に説明した。
 また、文氏は、4月の南北首脳会談で合意した板門店宣言の履行意思を金正恩氏があらためて示したことにも言及。6月1日に南北高官協議を開くことや、軍事当局会談や離散家族再会を行っていくことで合意したことを明らかにした。
 文氏によると、南北首脳会談の開催は金正恩氏が25日午後に呼びかけてきたという。トランプ氏は24日に米朝首脳会談の中止を発表し、北朝鮮に通告した。金正恩氏はその直後に文氏に対話を求めてきたかたちだ。

さて6月12日のシンガポールでの歴史的な米朝会談はどうなるでしょうか?
最近のマスコミのニュースから目を離せません。 そして日本と北朝鮮の関係はどうなるのでしょうか?
拉致問題は解決するのでしょうか?心配です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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何故、私はカトリックのミサの風景写真を掲載するのか?

2018年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので、私がカトリックのミサの風景写真を掲載する理由を簡単に書いてみたいと思います。
この欄をご覧になっている大部分の方々にとってミサの風景写真などご興味が無いと存じます。
日本人の多くの人々は宗教に関心がありません。そして神社やお寺さんへは馴染みがある方でもキリスト教の礼拝やミサには違和感を感じるでしょう。
そこで私はこの違和感を取り除くためにカトリックの礼拝のミサの風景を何度も掲載して来ました。
勿論、カトリックを宣伝しようという浅薄な気持ちも少し混じっていることも白状いたします。
それよりも日本人が異文化に慣れ、異文化に寛容になって貰いたいという願いが強いのです。それが私の主な目的です。

この欄に掲載されたミサの風景写真は実に沢山あります。自分でも驚くほどあります。この沢山の写真の一覧は検索すると出てきます。
その為には「後藤和弘のブログ、カトリックの写真」を検索するとミサの風景と教会の写真が沢山出て来ます。
同じ様に「後藤和弘のブログ、ロシア正教の写真」を検索するとロシア正教の礼拝の風景と教会の写真が沢山出て来ます。
「後藤和弘のブログ、長崎の教会」を検索すると五島列島の教会の写真が沢山出てきます。

このような風景写真は日常的によく見る風景ではありません。しかしこれも日本の文化なのです。寛大なお気持ちで、このような風景写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
そんな理由で私はカトリックのミサの風景写真を毎週1回くらい掲載して来ました。もう10年間もそうして来たので実に多くの写真になりました。

今日はその写真集から一例として、「カトリック小金井教会今日のミサと敬老の昼食会」(2017年09月10日掲載記事)を以下にご紹介します。

2017年09月10日のミサ風景の写真をお送りします。
1番目の写真はミサの様子です。
2、3番目の写真でディン主任司祭の右で聖なるパン片を配っているのは今月23日に叙階して神父になるベトナム出身のディン助祭さんです。
4、5番目の写真は77歳以上の信者の敬老の昼食会の風景です。
食後、聖歌を少しだけ歌いました。5番目の写真にはギターで伴奏しているディン主任司祭が写っています。小金井で7年余り主任司祭をして下さっていますが、ギターがお上手とははじめて知りました。
ベトナム戦争後、神学生だった現在のディン主任司祭が弾圧を逃れ、ボートピープルとして日本に渡って神父になったのです。
ギターを楽しむ心のゆとりを神様がディン主任司祭様へ下さったと思うと私も嬉しくなります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










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今年も咲いた潮来のあやめの写真をお楽しみ下さい

2018年05月26日 | 写真
ほぼ10年前の6月17日に私は霞ヶ浦の西端の土浦港から観光船に乗り、遥か東端の潮来のあやめ祭を見に行きました。
帰りがけに潮来のあやめの切り花を10本と根の株のついたあやめを3本買って来ました。
根の株のついたあやめを庭の水盤に植えたら株が次第に増えて毎年10本以上の茎に20個くらいの花が咲きます。

1番目の写真は今年、初めに咲いた潮来のあやめです。

2番目の写真は潮来から10年前に買ってきた10本の切り花のあやめです。
水揚げの良い花なので途中は水無しでも心配ありません。水切りをして大きな花瓶に入れ2日後に写真のように咲いたのです。

潮来で売っていた小母さんが、大輪の花を咲かせるには、「肥料を少しずつ途切れずに11月まで上げなさい。その間は水を張って置きなさい。冬は乾いた土で良いよ」と教えてくれました。
帰宅後、根っこのついた株を水盤に植え、十分な土を入れました。それから肥料を絶えさないで育てたのです。ご参考までに、切花10本で500円。株付きアヤメ花3本で1000円のでした。
あれからもう10年になります。歳月の流れは早いものです。しかし潮来のあやめは律儀に毎年咲いて私ども幸せにしてくれるのです。
さらに3枚の写真で、2008年6月17日に撮った潮来のあやめの風景をお送りいたします、
どうぞ写真をお楽しみ下さい。





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激動の米朝会談、何故毎日コロコロ変化するのか?

2018年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、トランプ大統領は会談中止だ!と発表したのに、今朝の新聞を見たら、いや開催するというような報道が出ています。
シンガポールでの会談をするのか、しないのか?何故このようにコロコロ変わるのでしょうか?
原因はトランプ大統領の感情的な反応なのです。忍耐強い外交努力をしないで、感情的な反発をすぐに発表してしまうからです。
しかしもう一つの原因は、北朝鮮もトランプ大統領を刺激することを言うからです。
このもつれた感情問題を、今日は一刀両断に、そして明快に説明しようと思います。時系列的に感情問題の起きた原因を書きます。

(1)何故、トランプ大統領は会談中止を決定したか?

1番目の写真は怒って会談中止を発表するトランプ大統領です。

北朝鮮側は3つの約束を破ったのです。1、シンガポールでの米朝双方位の事務方の事前準備会議に米国側だけが行ったのに、北朝鮮からは誰一人来なかったのです。完全な待ちぼうけでした。2、米韓軍事演習を北朝鮮は容認すると言っていたのに実際行ったら激しい非難をしたのです。3、核実験坑道の爆破に、核兵器開発の技術者も招くと約束していたのに新聞記者だけを招いたのです。そうして最近は北朝鮮政府にいくら電話をかけても応答が無いといいます。

2番目の写真は昨日の核実験坑道の爆破の写真です。
そしてトランプ大統領が感情的に爆発して会談中止を発表したのは次の北朝鮮の発表だったのです。

(2)北朝鮮外務省の崔善姫外務次官の発表で真っ赤になって怒ったトランプさん。
今朝の読売新聞に出ていた日本語訳の全文を読むと敵意に満ちた挑発的な文章なのです。
北朝鮮とアメリカが最悪の場合は核戦争になることを暗示しているのです。
これではトランプさんも怒るのは無理もありません。
以下のような報道では核戦争を暗示している部分が核対核の対決というように柔らかに表現してありますが、全文のニュアンスは非常に挑発的な印象を受けます。
https://www.sankei.com/world/news/180524/wor1805240028-n1.html
【ソウル=桜井紀雄】北朝鮮の崔善姫外務次官は24日、北朝鮮がリビアの前轍を踏み得るとしたペンス米副大統領の発言に反発し、「米国がわれわれの善意を冒涜し、非道に振る舞い続けるなら、米朝首脳会談の再考を最高指導部に提起する」と談話で警告した。朝鮮中央通信が報じた。
 崔氏は対米外交を担当する女性高官で、北朝鮮高官が6月12日に開催予定の米朝首脳会談の見直しに言及するのは、金桂寛第1外務次官の今月16日の談話に続いて2回目。
 崔氏は、トランプ政権の中心人物から「核保有国であるわが国」と核開発を放棄後に独裁体制が崩壊したリビアを比べる発言が相次ぐことを強く非難し、「会談場で会うか、核対核の対決の場で会うかは全て米国の決心と振る舞いにかかっている」と主張した。

3番目の写真は北朝鮮の崔善姫外務次官です。

(3)北朝鮮の金桂官第1外務次官の対話の継続を求める即座の談話発表で会談開催へ
これに対してトランプ大統領は、「北朝鮮と今協議している。彼らは非常によい談話を出した。(6月)12日に開かれるかもしれない」と発表したのです。
この金桂官第1外務次官の談話の全文も今朝の読売新聞に出ています。丁寧に読むと実に明るい希望に満ちた建設的な文面なのです。
その上、トランプさんの会談中止の発表後、即座に出された談話だったのです。
これでトランプさんが機嫌を直したのです。

4番目の写真は北朝鮮の金桂官第1外務次官です。

以上を見るとトランプ流の外交は北朝鮮の発表に振り回される感情的なものだという事が明らかです。
対立の原因は北朝鮮が段階的な核兵器廃絶を主張しているのに対してトランプさんは即座に、そして一挙に核兵器廃絶を主張しているからです。
しかし段階的と一挙の意味は定義の仕方でどのようにも意味が変化するのではないでしょうか?
この相違の中間の妥協点を外交交渉で、努力して探す作業を省略して、感情的な応酬をしているのです。
これでは朝鮮半島の核兵器廃絶は難しいのではないでしょいうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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今年のアジサイの花の写真をお楽しみ下さい

2018年05月25日 | 写真
今年は花の咲く時期が一週間早いようです。
小金井市のあちこちのアジサイの花も色づき始めました。
先程、撮って来たアジサイの花の写真です。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。








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北インドの僻地に住む日本女性、池田悦子さんの幸せな暮らし

2018年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
つくづく女性は優しくて強いと感動します。世界の僻地に行って幸せな家庭をもって悠々と人生を過ごしています。特に日本の女性は世界中の僻地に住んでいます。自然体で現地に溶け込んで、異国の生活に何も不自由なく夫を愛し、子供を育て周囲の村人を助けています。日本に残した両親とは電話で話しているようですが、それ以外に日本には未練が無いようなのです。
このような女性は沢山いますが、今日は北インドの僻地のラダックに住んで家庭を持っている池田悦子さんをご紹介したいと思います。

池田 悦子さんは、ラダックのストック村に住んでいます。
兎に角、活発な方です。夫とともに農業をしながら旅行代理店をしてインドのチベットと言われる秘境に観光客を呼び込んでいます。
その上、自分達で改装した自宅の古民家でホームステイを運営しながら子育てをして暮らしています。
彼女のブログ、NEO-LADAKH/ネォ・ラダック (http://neo-ladakh.blogspot.jp/ )には、素晴らしい大自然、その季節の移り変わりや、山と野生動物などが写真とともに沢山掲載されています。
彼女の子育ての様子や、変わりゆくラダックを現地より発信しています。
そして近所の貧しい子供達へランドセルやカバンなどを配る活動もしています。さらにインドの裕福層から集めた支援物資を辺境の村に届けたりしています。
その活動のことは、「優しい世界の作り方」(http://life-on-the-planet.blogspot.jp/2014/09/41.html )に書いてあります。

それでは池田悦子さんの生活の様子を写真で示します。

1番目の写真は池田 悦子さんです。彼女は 1974年12月25日生まれです。 1996年初めてインドへ行きます。バックパッカーの気ままな旅から、現地のNGOや市民団体の活動地域訪問しました。
現在、ラダック出身の夫と、3人の子どもをラダックの大自然の中でのびのびと育てています。インドの少数民族であるラダッキーの、自然と共にある生き方に共鳴して住み込んでいるのです。

2番目の写真は土地の痩せたラダック地方の農業の様子です。

3番目の写真はラダックにヒマラヤ山脈の裾野の山々が迫って、厳しい農業を暗示している写真です。

4番目の写真は悦子さんの家の桃の花が咲き出した様子を示す写真です。厳寒の冬が過ぎ、やっと春がやって来ました。

5番目の写真は自分達で改修した古民家の自宅です。ここで旅行代理やホームステイをしています。

ラダック地方の畑でも、やっと数年前からトラクターで耕作するようになったそうです。
それまでは、牛とヤクの混合種のゾという家畜を使っていたのです。
畑を耕す時の素敵な作業歌も、今では、たまに聞こえてくるだけになったそうです。
民族の歌が消えて、寂しいそうです。
しかし畑仕事が楽しげでも、実際にゾを飼って維持するのは大変なことです。
機械化が進んで寂しくても、悦子さん達は農業をやめません。地に足つけて生きてくには、自分で食べるものくらい少しでも作っていくと決心しているからです。

こんなことが書いてあるのが、彼女のブログ、NEO-LADAKH/ネォ・ラダック (http://neo-ladakh.blogspot.jp/ )です。
このブログを見ると自然と共に農業をしながら生きる悦子さんの人生観に感動せざるを得ません。

世界中の僻地に散らばって住んでいる日本の女性は皆幸せそうです。それに比較して日本の男性はどうでしょうか?
私の個人的な感想では女性の優しさこそ世界中に通用する美徳のように思います。男性は敗けですね。

それはそれとして、今日は異国に住む皆様の幸多かれと祈ります。あわせて皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



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世界の僻地で幸せに暮らし、その土になる日本人たち

2018年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
最近のテレビ番組に「こんな所に日本人」というよう番組が幾つかあります。いろいろな事情で日本人が世界の果ての僻地へ行って、幸せそうに暮らしている様子を紹介する番組です。私が非常に熱心に見る番組です。何故かというと、そこには個人の自由と幸福とは何かという問題が取り上げてあるからです。
私は狭量なのです。東京にしがみついて故郷の仙台だけを懐かしんで生きているのです。ですから私にとっては世界の僻地に住んでいる日本人に、そのことだけで感動してしまうのです。
高校時代の漢文の先生から「人間至る処青山あり」の一節を習って以来、長い人生の折々に必ず思い出しています。
それは憧れですが、私には実行出来ません。
この一節は幕末の長州の月性という僧侶が作った漢詩の最後の一節です。漢詩の意味は次のようなものです。

將(まさ)に 東遊せんとして 壁に 題す。

男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

最後の句の意味はこの世ではいたるところに墓を作れる場所があるということです。

さて世界の僻地で幸せに暮らし、その土になった日本人たちは沢山います。今日は一例として南米のペルーのマチュピチ遺跡の麓にマチュピチュ村を作ってマチュピチ遺跡を世界遺産にした日本人の話をご紹介します。

もう少し正確に書くと 福島県安達郡玉井村の野内与吉が1917年ペルーに移民し、1923年にマチュピチュの麓の部落に定住したのです。そしてその部落にホテルなどを作りマチュピチ遺跡への観光拠点として発展させ、マチュピチ村の初代の村長になったのです。
野内与吉の次男のホセは1981年から1983年までマチュピチュ村の村長になり、その時、マチュピチ遺跡が世界遺産になるようにペルー政府に働きかけ、間もなく正式に世界遺産に認定されたのです。その後観光客が非常に増え、マチュピチュ村の生活が潤ったのです。
野内与吉は1969年にマチュピチ村の土に返りました。しかし現在でも野内与吉はマチュピチュ村の英雄として尊敬されています。
それでは写真に従ってもう少し詳しく説明いたします。

1番目の写真は皆様ご存知のマチュピチ遺跡です。

2番目の写真は南米のペルーの地図です。マチュピチュの場所は南米ペルーのンデス山脈の東側山中にあります。

3番目の写真は野内与吉の写真です。

4番目の写真はマチュピチュ村へ初めて汽車が来たときの写真です。

5番目の写真は現在のマチュピチュ村の駅の様子です。

6番目の写真は現在のマチュピチュ村の風景です。

7番目の写真は観光客で賑わうマチュピチュ村の夜の光景です。

さて野内与吉の孫の野内セサル良郎さんは日本マチュピチュ協会の副会長ですが、彼の話を以下にご紹介します。
野内与吉は海外で成功したいという夢を抱いて、1917年に契約移民としてペルーへ渡りました。
農園で働いたが契約内容と実地の状況の違いから1年で辞め、米国やブラジル、ボリビアなどを放浪します。
しかし1923年頃にはペルーへ戻り、クスコ県にあるペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ線(通称FCSA)に勤務し、会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わりました。そして1929年にはクスコ~マチュピチュ区間の線路が完成したのです。
 その後与吉は、結婚したマリア・ポルティージョとマチュピチュ村に住みこみます。
2人の娘と2人の息子に恵まれ、次男のホセは1981年から1983年までマチュピチュ村村長を勤めます。彼はマチュピチュを世界遺産にする運動に成功したのです。
その以前に野内与吉は、何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作り、水力発電を作り、村に電気をもたらします。
創意工夫に富み、労をいとわず、マチュピチュ村のために尽くして皆に喜ばれていたのです。
 1935年には、この村で初の「ホテル・ノウチ」を建てます。3階建てで21部屋を持つ立派なホテルでした。
 与吉はスペイン語のほか先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語も喋り、現地のガイドもしていました。
村人に信頼されていた与吉は人望を集め、1939~1941年にはマチュピチュ村の最高責任者である行政官を務め、続いて41年からは初代村長になったのです。

 1968年与吉は故郷である福島県大玉村に52年ぶりに帰郷しました。
与吉の両親はすでに他界していたが、兄弟や親戚が与吉を歓迎したそうです。与吉は日本に着くと「電気はついたか?」と質問したそうで、彼の中で時間が当時のまま止まっていたのです。
滞在中は、マチュピチュ遺跡に関する講演会を開くなど、村人にペルーの魅力を伝えていたようである。
また、地元の新聞やラジオ番組に出演し、半世紀ぶりの帰郷に「今世浦島(現代の浦島太郎)」と紹介され、その音声も残っています。
クスコに戻ってわずか2ヶ月後の1969年8月29日に息を引き取りペルーの土になります。
(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v19n3/v19n3_nouchi.html より)

 こういったマチュピチュ村と鉄道の歴史、そしてそれに尽力した日本人の物語は先日テレビで紹介され多くの人の知ることになりました。
しかし、それまでは日本では知られていませんでした。

このような日本人はきっと沢山いると思います。本当に世界は広いのです。
世界の果ての僻地へ行って、幸せそうに暮らしている日本人の様子を見ると感動します。その揺るぎ無い人間愛に感動します。
自分の弱さがしみじみ分かります。
人間の限りない素晴らしさに吃驚するのです。人の自由と幸福とは何かという問題を考えざるを得ないのです。

それはそれとして、今日は異国に住む皆様の幸多かれと祈ります。あわせて皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



 
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栃ノ心の見事な取り口、そして日大アメフト部の不祥事

2018年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日のスポーツニュースにはいろいろ考えさせられました。
一度、十両に落ちた栃ノ心が勝ち進んで欧州出身3人目の大関昇進が確実になったことです。
それから日大アメフト部の宮川泰介選手の潔い謝罪会見には私まで救われた気持ちになりました。
内田前監督が自らの会見で誠実な対応をしていたら、彼がこんな形で会見を開くこともなかったと思います。
今日はこの2つのスポーツニュースについて簡略に書いてみたいと思います。

さて栃ノ心ですが、彼の取り組みはいつも正々堂々とした勝負ぶりでした。彼は2006年3月場所 で 初土俵を踏みました。その後、十両での優勝を経て入幕し小結までなりましたが大怪我をして十両落ちをします。
そして2014年11月場所 に再び 返り入幕し、2018年1月場所で14勝し幕内初優勝したのです。先場所は10勝。
そして昨日10勝目をあげました。直近3場所の33勝を越し大関昇進が確実になったのです。
波乱に満ちた過去でしたが、その相撲は正々堂々と四つに組むオーソドックスな見事なものです。怪力で相手を吊り上げて土俵の外に降ろす技には胸がスッキリします。
故郷の父や家族か喜んでいることでしょう。今後は勝ち進んで何時も正々堂々とした取り組みで勝つ横綱になって貰いたいです。
その彼が2014年に再び幕内復帰を決定的した時の報道をお送りします。

「日はまた昇る 復活栃ノ心」 2014、10月16日
http://blog.livedoor.jp/taguchi_sumo/archives/1011605131.html
九月場所、十両の栃ノ心が全勝優勝して幕内復帰を決定的にした。15日制になって十両で全勝優勝したのは、栃光・豊山(内田)・北の富士・把瑠都についで5人目となる。
もっとも栃ノ心は元小結という点が4人と異なるものの幕下まで陥落した後の十両全勝優勝だから見事である。
そもそも、栃ノ心は2008(平成20年)の七月場所の入幕から昨年(2013年)の七月場所まで約5年半、幕内を維持してきた。にもかかわらず、七月場所の5日目の徳勝龍戦で右膝前十字靭帯断裂及び右膝内側側副靭帯断裂の大ケガに襲われ途中休場するはめになった。そのため、十両陥落したものの2場所連続全休。さらに幕下に落ちても全休と4場所連続休場という悲惨な状況に追い込まれた。
かつて栃ノ心同様過酷な運命に陥った力士がいた。竜虎だ。左アキレス腱断裂で4場所連続休場して幕下まで陥落した。
この間、ベッドで上半身だけ鍛える姿が報道されりもした。復帰は幕下43枚目からスタートした。幕下3場所、十両3場所を要して幕内へ復帰した。
復帰後は横綱北の湖から金星を奪ったり、小結に返り咲いたりして活躍した。しかし、復帰12場所目に今度は右アキレス腱を切ってしまった。土俵の上では苦痛に顔がゆがむ竜虎が忘れられなかった。これが竜虎最後の一番となった。

1番目の写真は2014年の三月場所、武蔵海に勝って幕下優勝した時の写真です。
栃ノ心は幕下2場所連続優勝、十両2場所連続優勝という華々しい実績を引き下げて幕内に戻ってくる。七月場所では逸ノ城を本割・優勝決定戦と連勝している。見ようによっては以前より強くなっている気さえする。幕内でゆくゆくは再び激突する逸ノ城戦をはじめ、横綱・大関戦が楽しみになる。

2番目の写真は2014年、七月場所で十両本割で逸ノ城から勝利した時の写真です。
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そして話は変わり日大アメフト部の不祥事のことについて簡略に記します。
結論を先に書けば悪いのは前田監督で、潔く謝罪した宮川泰介選手の姿には私まで救われた気持ちになったのです。宮川泰介選手は犯した罪の責任は自分にあり、今後一生、アメリカン・フットボールをしないと言ったのです。
彼の記者会見を見た大人たちは皆感動しました。宮川君は必ず正しい生涯を送ると思います。
悪いのは巨悪な日本大学の経営陣の古い体質だということが浮き彫りになった事件でした。

3番目の写真は昨日の記者会見で陳述書を読み上げる宮川泰介選手の写真です。
以下に関連の報道をお送りします。

「悪質タックルは監督・コーチの指示」
https://brandnew-s.com/2018/05/22/nichidaikaiken/
宮川泰介選手は、4/22、4/29はスタメンでした。
5/3の実戦で外された際に、「やる気が足りない闘志が足りない」と監督から言われ、「宮川なんかはやる気があるのか分からないな」、「お前が変わらなないと試合にはださない」と言われたのだそうです。
翌日5/4に「お前は日本代表に行っちゃいけない」と言われ、その後の練習では「ダミーを最初に持つのはおかしい」と半ば強制的にグランド10週の罰を受けたようです。
ですが、監督の指示で「相手のQBを潰したら使ってやる」と言われており、「関学との定期戦がなくなってもいいだろ」と、本当にやらなくてはいけないと思ったのだと悲痛の胸の内を語っています。
「ここでやらなければ、後が無い」と追い詰められており日大アメフト部である井上コーチや、内田監督へ「相手のQBを潰すので使ってください」と自ら申し出があったのだと言います。
そして問題のあった試合で、試合前に前に井上コーチから「出来ませんでしたじゃすまされないぞ」と念を押され、当該プレーに至ったのだそうです。
また、3プレー目に関しては、「普段から相手に掴まれてもお前はおおとなしすぎる」と、首脳陣に言われていたこともあり、見返してやるつもりでプレーをしたのです。
その後のプレーを終えた宮川選手について、日大アメフト部の首脳陣は「こいつのは自分がやらせた」「相手のことは考えなくていい」「周りから聞いたら俺がやらせたと言え」などと言われ、試合後泣いている宮川選手に対しては「優しすぎるところがダメなんだ!」などとさらなる叱責があったのです。
今後の対応については、「お前の罰は試合で終わっている。世間を監督を叩きたいだけでお前はきにするな」「向こうとの試合が無くなってもいいだろう」などと、責任の所在を理不尽になすりつけるような言動も見受けられたそうです。
つまり、この問題は、監督からの指示があったということなのです。
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話は変わりますが、安倍総理の秘書官がこの宮川君のように正直に話さないのは何故でしょうか?
政治の世界の虚言文化が寒心に堪えません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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江戸幕府末期に量産された西洋帆船、スクーナーの歴史

2018年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は江戸幕府が西洋式帆船の造船技術を導入し、風上にも登れるスクーナーを10隻以上も建造した事実をご報告いたします。建造した最初の帆船は1855年5月に西伊豆の君沢郡、戸田村で完成し「ヘダ号」と命名されロシアに向けて出港したのです。それは明治維新の12年前の史実です。
先週、戸田へ一泊旅行をしたのは、この我が国最初のスクーナー、「ヘダ号」の模型が戸田の沼津市立博物館に展示してあるのを見るためです。この沼津市立博物館は戸田崎の突端にあり、その名前は「戸田造船郷土資料博物館、駿河湾深海生物館」と言います。
それでは写真に従ってご説明いたします。

1番目の写真はこの博物館の入り口の写真です。足の弱い私はこの写真の右上に写っているスタッフに体を支えて貰い階段を登りました。スタッフの文字通り献身的な支えが無ければ2階にある「ヘダ号」の展示を見ることは不可能でした。ここに記して彼女の親切に感謝の意を表します。

2番目の写真は「ヘダ号」の大きな模型です。この船は日露和親条約を締結したプチャーチンを乗せて1855年5月2日に戸田を出港してロシアに帰ったのです。
さてこの「ヘダ号」の建造でその後、江戸幕府は得た造船技術をどのように活用したのでしょうか?
幕府はこの構造の帆船を君沢形と命名し、幾つかの藩に、その造船技術を伝えたのです。

3番目の写真は君沢形量産船を描いた絵図「君沢型御船」(福井県立図書館松平文庫収蔵)です。
この江戸幕府の君沢形量産船の建造にまつわる史実を調べてみたら非常に厳密な研究論文のような資料を見つけました。

それが君沢形;https://ja.wikipedia.org/wiki/君沢形 です。
この資料の正確さは次のような参考文献からも伺い知れます。
浅川道夫 『お台場―品川台場の設計・構造・機能』 錦正社、2009年。ISBN 978-4764603288。
石井謙治 『国史大辞典 第4巻 - 君沢形』 吉川弘文館、1984年。ISBN 978-4642005043。
石井謙治 『和船 II』 法政大学出版局、1995年。ISBN 978-4588207624。
石井謙治監修 『日本の船を復元する―古代から近世まで』 学習研究社、2002年。ISBN 978-4054016507。
神谷大介「波濤の洋式帆船「君沢形」」、『本郷』第134号、吉川弘文館、2018年、 37-39頁。NCID AN1046456X
奈木盛雄 『駿河湾に沈んだディアナ号』 元就出版社、2005年。ISBN 978-4861060205。
富士市立博物館 『日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」報告書』 中部海事広報協会、2005年。
船の科学館(編) 『企画展「ペリー来航と石川島造船所」実績報告書』 日本海事科学振興財団、2003年。

私はこの資料を全面的に信用し、その抜粋を読み易いようにして以下にご紹介いたします。
(1)何故、西伊豆、戸田村で西洋帆船が最初に作られたか?
1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督はフリゲート「ディアナ」で来日し、下田沖で碇泊中でした。
ところが同年12月23日(嘉永7年11月4日)に安政東海地震に見舞われて「ディアナ」は下田で大破してしまいます。
そこで修理のため戸田村へ回航しようとしました。途中で嵐に会い航行不能となり、1855年1月17日(安政元年12月2日)に沈没してしまったのです。彼等一行は日本の舟に助けられ戸田村の宝泉寺に落ち着きます。そして幕府の支援で帰国用の帆船を建造したのです。
それが「ヘダ号」だったのです。幕府はこの帆船を君沢形と命名します。君沢形の名前は戸田村が属した君沢郡に由来しました。

(2)設計図と日本の船大工の活躍。
設計図は、クロンシュタット軍港司令官ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンのヨットとして建造された試作スクーナーの図面を用いました。
「ディアナ」に積み込まれていたロシア海軍の機関誌『モルスコイ・ズボルニク(ロシア語版)』(1849年1月号)に図面が掲載されていたのです。この試作スクーナーは全長69フィート(21.0m)、幅21フィート(6.4m)、75総トンだったそうです。
「ヘダ号」の設計はロシア人乗員のアレクサンドル・コロコリツォフ少尉やアレクサンドル・モジャイスキーがしました。
このモジャイスキーは後に飛行機の開発に取り組み、ロシアでは飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功した人物とされています。
幕府側が資材や作業員などを提供しました。幕府は、韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)と勘定奉行の川路聖謨を日本側の責任者に任命して、各地から優秀な船大工を集めたのです。
日本側には洋式船の建造経験は乏しかったにもかかわらず、日露の共同作業は順調で、起工より約3カ月後の4月26日(安政2年3月10日)には無事に進水式を終えました。
艤装も速やかに行われ、5月2日(安政2年3月16日、ロシア暦4月20日)には戸田から初航海に出たのです。建造費用は、労賃を除いて3100-4000両かかったそうです。設計図さえあれば日本の船大工は易々と西洋式帆船を建造出来たのです。

(3)幕府による君沢形の量産体制
「ヘダ号」の建造で洋式造船技術を習得した幕府は、「ヘダ号」の建造許可のわずか15日後の1855年2月8日(安政元年12月22日)には、川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示します。
後に佐賀藩、水戸藩等も技術習得のため、幕府の許可を得て藩士を派遣しています。
その後「ヘダ号」が無事に進水すると、同年5月6日(安政2年3月20日)には1隻の追加建造を命令します。
同年6月6日(安政2年4月22日)にも2隻の追加を指示したのです。
同年9月16日(安政2年8月6日)には、戸田でさらに3隻のほか、石川島造船所でも4隻の建造を命じました。
戸田製の6隻は1856年1月頃(安政2年12月)までには完成している。
以上のほか、箱館奉行所にも君沢形建造指示が出されたが、箱館奉行所では独自設計を行って別型の二檣スクーナー「箱館丸」などを完成させ、これを箱館形と呼称しています。

(4)日本における君沢形の帆船の活用
日本では君沢形各船は、主に幕府海軍の航海練習船及び運送船として使用されました。
1番船から順に「君沢形一番」「君沢形二番」という番号式の船名を与えられたのです。
このうちの「君沢形一番」が、ロシアから返還された「ヘダ」でした。
戸田製の6隻は、1856年1月頃(安政2年12月)に品川へ回航されます。
1856年8月頃(安政3年7月)には、長州藩と会津藩に2隻ずつ譲渡するよう指示が出されています。
また東京湾防備の品川台場の付属砲艦としても、縮小型の韮山形と合わせて12隻が一時期配備されたようです。
君沢形は、ジョン万次郎の提案により捕鯨船として使うことも計画されます。万次郎の指揮する「君沢形一番」は1859年4月(安政6年3月)に品川を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により損傷し、航海は中止となったそうです。

1872年(明治5年)にアレクセイ・アレクサンドロヴィチ(英語版)大公(アレクサンドル2世の子)が来日した際、今度は随行員としてやってきた元「ディアナ」乗り組みのコンスタンチン・ポシエト中将は、函館港で廃船となっているかつての「ヘダ」を見かけこれを懐かしみ、日本側に対して保存措置を取るよう要望している。しかし、同船が保存されることは無く、その後の消息は不明。

(5)君沢形の帆船のその後の実績
君沢形の建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍した。
その一人の上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、帰国後、榎本と共に函館戦争に参加したが、明治維新後も横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮しています。
また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、戸田村などで学んだ長州の船大工の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を萩で建造します。
幕府は韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)に命じて、君沢形を小型化したスクーナー6隻を建造させ、韮山形と命名しています。1866年に幕府が竣工させた国産初の汽走軍艦である「千代田形」も帆装形式は君沢形同様のスクーナーであり、建造現場にも君沢形関係者が多く参加していました。
そして白崎謙太郎著、「明治・海・2人」の中でも明治初年にラッコ猟に使用されたスクーナーは横浜や函館で建造されたと書かれています。
時代は下って日露戦争中ににもこの帆船が使われたのです。

4番目の写真はロシア装甲巡洋艦「ロシア」に停船させられた日本のトップスル・スクーナーAiya Maru (1905年4月26日)の写真です。
以上を総括すると、君沢形は日本の内航海運へのスクーナー導入の契機となったのです。
逆風帆走性能に優れ、少人数でも運航可能、小型船に適したスクーナーは、明治から大正にかけて日本の内航海運で洋式船の多くを占めたのです。

(6)「戸田造船郷土資料博物館」に関するエピソード
明治20(1887)年、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れました。オリガは、関係者に記念品を贈り、造船所跡地や宿舎となっていた宝泉寺などを見学しました。後にオリガの永眠に際し、遺言により100ルーブルが戸田村へ寄贈されました。
昭和44(1969)年、戸田村が造船郷土資料博物館を建設するにあたり、当時のソビエト連邦政府から、500万円の寄付を受けました。さらに翌45(1970)年には、大阪万博が開催され、ソ連館に展示されていたディアナ号の模型とステンドグラスが、閉会後戸田村に贈られ、現在も当博物館に展示しています。

5番目の写真は戸田村で病死した2人のロシア水兵の宝泉寺にある墓です。

6番目の写真は「戸田造船郷土資料博物館」の入り口にあるプチャーチン提督が乗って来た「ディアナ」号の碇です。

7番目の写真は現在世界各地で航海練習に使用されているスクーナーの写真です。

さてあまり長くなるので今日はここで終わりとします。

            謝辞
小生に戸田の君沢形建造の重要性を教えてくれた「海事技術史学会」の会員の白崎謙太郎氏に深甚の感謝の意を表します。
白崎氏には次のような著作があります。
「日本ヨット史」(この欄の2011年11月30日 掲載記事でご紹介しました)
「小網代ヨット史」(この欄の2017年08月04日掲載記事でご紹介しました )
「明治・海・2人ースクーナーとカヌー」(この欄の2018年05月04日掲載記事でご紹介しました)
その他、「日本ヨット協会70年史」と「横浜ヨットクラブ(外人クラブといいました)100年史」があります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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箱根、仙石原の湿性花園の5月の花々をお楽しみ下さい

2018年05月21日 | 写真

湿性花園には箱根の湿地帯だった仙石原の自然の花々が咲いています。
栽培種の花のコーナーもありますが、湿性花園の魅力は昔から仙石原湿地に咲いていた野生の花々にあります。
そんな花々の写真をお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真の左のピンクの花は天然のタニウツギです。

2番目の写真はアミメヘイシソウです。仙石原の在来種ではありません。アミメヘイシソウ はサラセニア属の食虫植物の1種で、捕虫葉の先端部分に紅白の網目模様が入り、美しい花です。。

3番目の写真は青い小さなチョウジソウです。

4番目の写真は白いクサタチバナです。

5番目の写真はヒマラヤに咲いている青いケシの花です。阿片は採れません。

6番目の写真は野生のノハナショウブです。

7番目の写真は湿性花園の南端の木道です。この写真の左には有名な仙石原のススキ原の広大な斜面が広がっています。
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後期高齢者になると考えが変わる(4)人類愛の気持ちが湧く

2018年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
一般的に後期高齢者になると体力が大幅に落ちてきます。すると元気に働いている若い人々を尊敬したくなります。
元気に働いている人々のお陰でこの世の社会が成り立っているのです。若い人々に対する感謝の気持ちが自然と湧いてきます。
この感謝の気持ちは外国の若者に対しても湧いてきます。
国籍に関係なく善良な人々は健全な気持ちをもって社会の為に貢献しているのです。
私は国籍に関係なく健康で社会に貢献している全ての人々を尊敬しています。愛してもいます。
こんな気持ちを人類愛というのでしょうか?
私は75歳を過ぎる頃から人類愛に目覚め、年々それが強くなって来たように感じます。

私の人類愛はキリスト教の影響のせいかも知れません。
キリスト教は国籍に関係なく世界中の人々に信じられています。カトリックだけでも11億人の信者がいます。
私はこの11億人と同じ心を持っています。そこでは国籍はあまり関係がありません。
そしてキリストは「汝の隣人を愛せ」と命じたのです。
私は国籍に関係なく外国の人々も愛せるようになって来ました。
特に後期高齢者になるに従ってこの人類愛は強まってくるように感じます。

現役で一生懸命働いている時は仕事のことが頭一杯になっていました。とても人類愛などという抽象的なことに関心など一切ありませんでした。
仕事を辞めて5年、10年と経過して行くに従って自分の視野が否応無しに広がって行きました。
それも人類愛の気持ちが強くなる一つの原因なのかも知れません。

世界中の人々が人類愛に目覚めれば世界に真の平和がやって来ます。
こんな考えは間違っているでしょうか?
皆様のご意見を頂けたら嬉しく思います。

今日の挿し絵代わりの写真はいろいろなサクラソウの園芸種の写真です。こんなにも数多くのサクラソウがあるのですね。
先週、箱根の湿性花園で展示してありました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




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日本の仏教と釈迦の教えの違い(4)大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違い

2018年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
お早う御座います。今日は日曜日です。一週間たつのが早いですね。
日曜日は宗教に関する簡単な文章を書くことにしています。それからミサに出掛けます。

今日は大乗仏教と上座部仏教の違いを分かり易く書いてみます。ご覧頂いたら嬉しく存じます。

面倒な議論は止して、大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違いを書いてしまえば次の2つになりますに。
(1)上座部仏教では200以上の戒律を守らなければ釈迦の教えを理解し悟りの境地に至らないと教えています。戒律を守るために出家するのです。
一方、大乗仏教では殺生戒以外の戒律はありません。出家しなくても釈迦の教えを理解し悟りの境地に至ることが出来ると言う教義です。
(2)上座部仏教では釈迦を最高位に据えて崇拝します。
一方大乗仏教では全知全能の宇宙神の盧舎那仏や大日如来が人々を教え導くために釈迦になったという教義です。従って釈迦は宇宙神の化身です。誤解を恐れずに書けば釈迦は盧舎那仏や大日如来の部下なのです。家来なのです。このように大乗仏教では抽象的な概念が仏像になっているのです。
これは中々理解し難い教義です。
鎌倉の大仏を見たある有名な女流歌人が大きな盧舎那仏をお釈迦さまと誤解して、「お釈迦さまは美男子だ」と詠んで失笑を買ったこともありました。
盧舎那仏はお釈迦さまではなく、宇宙神だということを知らなかったのです。理解していなかったのです。
大乗仏教の仏像には観音様や薬師如来や弘法大師像やお不動さんなど沢山あります。
しかし上座部仏教では像は釈迦像だけです。ここが決定的違いです。

さて上記のことをもう少し厳密に示します。
上座部仏教では上記のように具足戒(出家者の戒律)を守る比丘・僧伽(サンガ(教団))と、彼らを支える在家信徒の努力によって初期の釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされています。
大乗仏教では後代の時代ごとに仏典やお経が作られましたが、上座部仏教では同一の内容のパーリ三蔵が継承されて来ています。

上座部仏教の教義は、次のようにされています。限りない輪廻を繰り返す生は「苦しみ 」である。この苦しみの原因は、無明によって生じる執着です。そして、無明を断ち輪廻から解脱するための最も効果的な方法は、戒律の厳守、瞑想の修行による八正道の実践であると教えています。
上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と悟りへ至る智慧の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えてきたと主張しています。

一方、大乗仏教では、ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず、過去にもあらわれたことがあるし未来にもあらわれるだろうとの考えが重要なのです。
大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えたのです。
この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の阿閦如来・薬師如来などがあるのです。
また、歴史的存在であり、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至って来たのです。
このように大乗仏教は多神教的であり教義も時代と国々によって変化して来たのです。

このように日本の大乗仏教を上座部仏教と比較してみると日本仏教の特徴が簡単に分ります。
如何でしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は先週、箱根の湿性花園で撮った花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









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