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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ウクライナの戦乱、『誰がために鐘は鳴る』」

2023年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
もう1年ちかく続いているウクライナの戦乱はスペインの内戦やベトナム戦争を思い出させます。この3つの戦争は原因も経過もまったく違いますがある共通点があるのです。いずれもアメリか、英国、ソ連などを巻き込んだ国際戦争だったのです。ウクライナでは欧米諸国は派兵していませんがミサイルを供給し戦車まで送ろうとしています。
今日はスペイン内戦、ベトナム戦争、そしてウクライナの戦乱を振り返ってみたいと思います。人類の間で何故戦争が絶えないのでしょうか。

まずスペイン内線です。
1936年から1939年の3年間にわたってスペインで内戦が続き、国土が荒廃しました。左派の人民戦線派とフランコが率いる右派の軍人部隊が激しく戦ったのです。
ソ連やメキシコが左派軍を支援し、それに加えて欧米の自由主義者が数多く志願兵として人民戦線側に参加しました。
一方、独裁国のドイツとイタリアは軍人部隊の右派を支援し、1937年にはドイツの爆撃機が人民戦線側が占領していたゲルニカという町を徹底的に爆撃したのです。
結局、フランコ軍が勝利してフランコ独裁政治がその後1975年まで36年間続くのです。
これがスペイン内戦です。
ヘミングウエイはスペイン内戦で左派人民戦線側に志願した男の悲劇的なラブロマンスを書いた小説、「誰がために鐘は鳴る」を1939年に出版しました。
それは大戦中の1943年にゲイリー・クーパーとイングリット・バーグマンの主演で、アメリカで映画化され、日本では戦後に上映されました。以下にその一場面の写真を示します。

1番目の写真は「誰がために鐘は鳴る」の一場面です。機関銃で独裁軍を打っているゲーリークーパーとイングリット・バーグマンです。
いろいろな勢力が外国から加わった1936年から1939年のスペイン内戦は複雑な事情があったのです。この内戦は第二次世界大戦の前哨戦として重要な意味を持っていたのです。

次にベトナム戦争です。ベトナム戦争の始まりはこうでした.
1962年2月、アメリカはサイゴンに援助軍司令部を作り1964年8月にトンキン湾事件を起こし、戦争に直接介入するようになります。
1965年2月、アメリカは北ベトナムの北爆を開始し本格的な戦争に突入しました。これがベトナム戦争の始まりでした
1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線のテト攻勢により、アメリカは大打撃を受けます。
その結果、1968年5月には、パリ和平会談を開始します。1973年1月にパリ和平協定が調印されます。
1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏します。そしてサイゴンは陥落し、南ベトナム国は崩壊したのです。南ベトナムを北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結しました。ベトナム戦争で南北ベトナムは統一され共産党独裁の国家になったのです。

2番目の写真はアメリカ軍の航空母艦から邪魔になっている軍用ヘリを海上に投棄する場面を写した写真です。アメリカ軍の完全敗北を象徴した有名な写真になりました。
この戦争で58000人のアメリカ兵が戦死し数百万人のベトナム人が犠牲になったのです。
サイゴンからの脱出にあたって、アメリカ海軍の航空母艦はすでに多数のヘリを収容していました。後続の避難民を乗せたヘリをさらに着艦させるため邪魔になっている多数のヘリを南シナ海に投棄せざるをえなかったのです。

3番目はウクライナの戦乱です。ウクライナへ侵入したロシア軍を完全に駆逐出来るでしょうか?
NATO軍やアメリカ軍が軍機支援をしているので戦争は長期化するでしょう。ベトナム戦争と同じようになるのでしょう。ウクライナの戦乱の現状を写真で示します。
写真の出典は、https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230127/k10013954911000.html です。

3番目の写真はミサイル攻撃を受けたウクライナの集合住宅です。

4番目の写真はロシアのミサイル攻撃を受けて燃える火力発電所です。  2022年9月

5番目の写真は戦乱の犠牲になり死んだ孫娘の墓の前で悲しむ祖母です。 マリウポリ郊外  2022年11月

6番目の写真は集められた予備役の人と家族の別れです。

7番目の写真は荒廃した首都キーウを歩く人たちです。 2023年1月

ベトナム戦争とベトナム訪問のことを思い出すと、ウクライナの戦争で心が痛みます。ベトナム戦争のように長期間の戦争になるでしょう。
しかしウクライナの戦争はベトナム戦争と違います。原因も背景も全く違います。しかし戦争の悲惨さ惨酷さは全く同じです。資本主義の欧米諸国と共産党独裁のロシアとの戦争ともなっています。資本主義と共産主義の争いという側面も持っているのです。こうなると長期化は避けられません。
しかしウクライナの国土に早く平和が訪れるように祈っています。祈らざるを得ないのです。

今日はウクライナ戦争が泥沼化し長期に続く様相を書きました。ベトナム戦争のように長い戦争になるのです。実に困ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「厳寒の北海道でも春になるとこんなにも花々が咲く」

2023年01月30日 | 写真
季節の巡りとは不思議なものです。雪や氷で覆われていた大地も春になれば草が芽吹き樹々も新緑の葉が美しくなります。厳寒の北海道でも春になると花々が咲き出すのです。
そんな北海道の花園の写真をお送り致します。この頃の寒い日々を忘れて花々の写真をお楽しみ下さい。
写真の出典は、https://www.t-marche.com/tripper/article/970/ です。
1番目の写真はチューリップです。北海道に春の訪れを告げる花のうちのひとつが、このチューリップです。なんといっても品種が非常に多いでです。赤・白・黄色だけではなく、紫やピンク、オレンジ、マーブルのように複雑な色が混ざったものなどを楽しむことができます。

2番目の写真はシバザクラです。木に咲くサクラと違って地面にじゅうたんのように広がって咲くのがシバザクラです。花の形はサクラに似て、芝生のように広がることからこの名が付いています。

3番目の写真は百合です。札幌市にある百合が原公園は、その名の通りユリの名所です。約100種類ものユリが鑑賞できる「世界のユリ広場」があり、さまざまな色や香りを楽しむことが出来ます。

4番目の写真はスズランです。日本一のスズラン群生地は北海道の平取町芽生すずらん群生地です。札幌からは車で約100分の距離にあります。敷地内に立ち入るとスズランの甘い香りが立ち込めます。一般公開されるのは開花からの一ヶ月間だけです。

5番目の写真は百合のズームアップ写真です。大輪の花を咲かせる豪華で上品な花です、芳醇で官能的な香りが楽しめます。札幌にある「百合が原公園」ではさまざまな品種があり次々と開花していくのです。見頃が長いのが特徴です。

厳寒の北海道でも春になるとこんなにも色々な花々が咲くのです。

「春爛漫の花々の風景を想像して暖かい気分になる」

2023年01月29日 | 写真
流石に真冬ですね。毎日、寒い日が続きます。そこで春爛漫の花々の風景写真を見て暖かい気分になっています。
そんな風景写真は「春爛漫の花々の写真」を検索するとたくさん出ています。
その数多くの写真からいかにも春爛漫を感じさせる写真を選びました。皆様も春爛漫の暖かい気分になって下さい。

「カトリック教会、2023年1月29日のミサ動画配信とミサの風景」

2023年01月29日 | 日記
カトリック教会、2023年1月29日の年間第4主日のミサ動画配信は以下の通りです。

2023年  1月29日 10時のミサ

カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/watch?v=A_7S-MWntb0

聖イグナチオ教会
https://www.youtube.com/watch?v=1EhGsld6M9k

今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



写真はローマのバチカンにあるサンピエトロ寺院です。サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの本山です。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。
後の4枚の写真は今日の聖イグナチオ教会のミサ風景です。

「旧貫井村の貫井弁天神社の写真を撮ってきた」

2023年01月28日 | 写真
現在の東京都小金井市は明治22年に江戸時代の貫井村と小金井村が合併して出来ました。
明治政府は明治 21 年に市制・町村制を公布、翌 22 年に施行して明治の大合併と呼ばれる全国の自治体の大規模な編成取りまとめを行ったのです。
それ以前には小金井村と貫井村はそれぞれ別個に村でした。貫井村総鎮守は貫井弁天神社です。裏から豊かな湧水が出ていて大きな池になっています。
今日はこの貫井弁天神社の写真を撮って来ました。写真をお送り致します。

この貫井弁天神社近辺には貫井遺跡があり、後期旧石器時代および縄文時代の遺跡と分かっています。これまで24次にわたる発掘調査が行なわれ、縄文時代中期前半~末葉の住居跡が55軒検出された大規模な集落跡が見つかっています。
近隣には、国分寺崖線に面して西側に国分寺市東京経済大学構内遺跡、東側に小金井市はけうえ遺跡、南側の斜面下位の立川面には荒牧遺跡があり、野川流域遺跡群を構成しています。私の住んでいる場所には後期旧石器時代や縄文時代から人が住んでいたのです。嗚呼。

「花束の歴史」

2023年01月28日 | 写真
花束の歴を調べてみました。
花束の起源はヨーロッパで、1300年から1600年にはヨーロッパでアレンジメントが広まるようになりました。
ヨーロッパでは古くから花を贈る習慣はあったようです。
一方日本では平民の間で花を贈るという行為が行われるようになったのは戦後に欧米文化が日常に入るようになってからだそうです。
昔は薔薇の花束を妻の誕生日に贈っていたものです。久しぶりに今年の誕生日に贈ってみようと思います。
今日は写真の花束を皆様へお贈くり致します。


「懐かしい中国、思い出の友人」

2023年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
中国は歴史的に日本の文化に大きな影響を与えた国です。中国は興味深い国です。その中国の人々も思慮深いと言います。私は若い頃から中国の文化に興味がありました。ところが偶然にもある中国人と親友になったのです。
今日は私が見た中国と中国人の親友のことを書きたいと思います。
その私の親友も実に信義に篤い人でした。1949年頃の中国革命に参加した正真正銘の共産党員でした。周栄章という人でした。彼とはフランスで偶然知り合いました。1976年のことでした。
私は彼の招きで1980年から何度も中国へ行きました。そのお陰で共産党独裁の中国を内側から眺めることが出来ました。私が見た当時の中国の実情を書いてみたいと思います。
まず驚愕的な体験を書かせて下さい。深い地下室で見た驚きの光景です。
中国の首相、周恩来が1976年に死んだ時、彼をしたう民衆が4月の清明節に北京天安門広場に集まりました。大追悼会です。このような周恩来追悼集会が中国全土に広がったのです。
当時は毛沢東も存命で、四人組が権力を握っていたのです。毛沢東は周恩来の人気に嫉妬し、憎んでいたのです。
これは日本の新聞に詳しくは出ていませんでしたが、毛沢東一派は天安門広場の群衆に対して軍隊に攻撃させ、蹴散らせたのです。これを第一次天安門事件と言います。
その後も、中央政府は周恩来の公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止していました。
1980年に北京に行った私に、周栄章教授が声をひそめて、「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言うのです。
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文などとともに花束などが飾られていました。
周さんは「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人なのです」と言い切りました。
何故か私は周栄章さんを終生の親友と感じました。
中国人は一旦親密になると生涯その関係を信じて良いのです。絶対に裏切らないのです。一生安心して付き合えます。周栄章さんもそんな男でした。2004年に亡くなりました。
1949年に彼は共産軍と共に天津市を占領し、占領後の天津市の行政を担当し住民の暮らしを平穏なものにするう努力をしたと言っていました。
中國人がたてまえとして偉いと言う政治家は毛沢東、江沢民、そして習近平のような強権をふるう政治家です。本当に好きな政治家は劉少奇、周恩来、鄧小平、そして胡 耀邦なのです。
この4人は自分の権力拡大よりも人民の暮らしが良くなるように本気で努力したのです。
こんなことは全て親友の周栄章さんから聞きました。
彼は正真正銘の共産党員でしたが私に共産主義が良いとは一度も言いませんでした。私が共産主義は間違っていると言いました。彼は答えません。苦しそうに、「中国が共産主義を選んだにはそれなりの理由があったのです」と言うのです。
ここで一休みして周栄章さんに案内して貰った頤和園と北海公園や故宮などの写真を示します。

1番目の写真は夏の離宮、頤和園の風景です。あまり感動したので何度も行きました。
日本人も北京に行ったら必ず行く名所なのでよくご存じの方も多いと思います。

2番目の写真は故宮の北にある北海公園の石の回廊です。
あれは確か、1980年のある秋の夜でした。この石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。

3番目の写真は北京の中心

4番目の写真は多数の女官たちが住んでいた後宮です。部屋の内部装飾が女官の趣味なのか非常に優雅でした。

5番目の写真は仿膳飯荘の入り口の写真です。この仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれたのです。仿膳飯荘は北海公園の中にありました。

6番目の写真は仿膳飯荘の料理の写真です。(出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm)
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。それから2年後に私と共に行った家内はその料理に精妙さに感激していました。

7番目の写真は北京鴨です。(写真の出典:http://imagenavi.jp/search/#!/ )
周さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
あまり冷えていない五星ビールを注文し、前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。
自分で皮を切り取って、白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
周さんは私をいろいろな所へ案内してくました。北京の天壇、大鐘の寺、明の13陵、北京原人の周口店などです。古都、西安へんの旅もアレンジしてくれました。
周栄章さんさんはその後、何度も日本に来て私の家にも来てくれました。思い出は沢山ありますがこれで止めます。しかし最後に胡耀邦さんのことをちょっとだけ書いて置きたいと思います。
胡耀邦は1983年11月に訪日しました。その時、昭和天皇と会見して天皇を中国へ招待したのです。
日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣と協力して『日中友好21世紀委員会』の設立しました。そして胡は日本の青年3000人を中国に1週間招待したのです。胡耀邦は心筋梗塞のため1989年4月15日に死去した。
ここに胡耀邦さんのことを書くのは現在の中国では一切禁止されているからです。中国共産党は胡耀邦が中国共産党の政策に反対したと主張したのです。そして胡耀邦主席は存在していなかったとして全ての記録を抹殺し、彼に関することはネットにも書いてはいけないのです。共産党独裁の弊害です。

今日は私が見た中国と中国人の親友、周栄章さんの思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「毎日快晴続きの東京なので雪景色に憧れる」

2023年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
今年は日本海に面した地方では雪が多くて除雪作業が大変です。特に屋根の上の雪降ろしは危険な作業です。今年は北海道も雪が多いようです。雪の多い地方では毎日雪に悩まされ、雪はもう沢山だと嘆いています。
ところがその一方、太平洋岸の東京では毎日快晴続きで、まだ雪の一片も見ていません。この正月以来晴天が続きです。雪の積もった風景が懐かしくなります。
そこで以前のブログの記事を見て、そこに掲載されてる雪景色を見ることにしました。
2014年の2月14日の記事にありました。甲府は50年ぶりの大雪で積雪が1m位までになったと書いてあります。
小生が趣味として通っている甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋の付近も深い雪です。大雪の日から10日ほど経過した頃にその雪景色を見に行ってきました。9年前はまだ元気で雪道を登れたのです。
小屋から1.5Kmほど下の松尾さんの家の前に車を駐車させてもらい、そこから杖をついて徒歩で登りました。往復3Kmほどの雪中の山道でした。
その折に撮った雪に埋もれる山林と小屋の写真をお送りいたします。
新鮮な空気の雪の雑木林を散策している気分で写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は小屋へ続く山道の入り口の風景です。水田がある限界の地点です。水田は深い雪の下です。

2番目の写真は登り道の両側に広がる冬の雑木林の風景です。すっかり落葉して冬の雑木林は明るいのです。

3番目の写真は丁度中間地点の雪道の様子です。リュックを背負った家内が気楽に登って行きます。

4番目の写真は小屋に近い雪道の風景です。北杜市で除雪してくれたので歩き易いです。

5番目の写真はいよいよ小屋が見える場所の風景です。家内の左奥に見える小さな小屋が目的地です。小屋は50年前に建てたままの小さな白い小屋です。
山林の中で深雪に埋まっている様子が写っています。 この地域は標高約900mの寒冷地です。気温が低いので雪が融けにくい地域です。雪は家内の膝上まであります。流石の家内も雪の深さに吃驚していました。

6番目の写真は帰り道の雪景色です。美しい風景だと見とれながら山道を下りて来ました。ところが風景に見とれているうちに転んで足先を捻挫してしまいまいました。近所の鍼灸接骨院にその後3ケ月間通う羽目になりました。

7番目の写真は帰りの雪道で車が動けなくなり、家内が走って行って頼み近所の人にユンボで助けられている光景です。スダッドレスタイヤでも雪が深いと無力になることを学びました。

あれ以来9年になりますが雪道に車を入れるのを止めています。
それでも時々雪景色が無性に懐かしくなります。若いころ蔵王山のザンゲ坂の樹氷の間をスキーで滑り降りていた頃を思い出しています。

今日は雪山にある山小屋へ登る雪道の風景をご紹介しました。甲斐駒岳の麓の標高900m位の寒冷地の雪道です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「野生の草花が大地を美しく彩る西オーストラリア」

2023年01月25日 | 写真
西オーストラリア州では、“ワイルドフラワー”と呼ばれる多種多様な野生の草花を楽しむことができます。
さまざまな自然環境で約1万2000種以上ものワイルドフラワーが自生し、多彩な花々が広大な大地を彩ります。

開花シーズンは7月に北部で咲き始め、南下しながら12月中旬まで楽しめます。
写真の出典は、https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000010.000046089.html です。