後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は武蔵国分寺跡の櫻の下でお花見弁当を食べてきました

2015年03月31日 | 写真
快晴です。9時半に家を出て上野原公園、小金井公園、そして貫井弁天下の野川の満開の櫻をゆっくり見ました。途中、京樽の花見弁当を買って国分寺跡の桜の下に行きました。車の後部座席に小さな食卓を出して、周囲の櫻を窓から見ながら花見弁当を食べてきました。いわゆる桜の名所でないので、人も少なく悠々と弁当を食べてきました。明日はそこで抹茶道具を持って行って野点をしようと思います。

上の写真は近所の上野原公園の櫻です。

上と下の写真は今朝の小金井公園の櫻です。



上は武蔵国分寺跡の櫻の下に停めた車です。花見弁当はこの車の後部座席でゆっくり食べました。

上の写真は車の後部座席の窓から見た櫻のある風景です。車の周囲はみな満開の櫻でした。

日韓関係、日中関係の奥深さ(1)ある朝鮮人の菩提寺と神社

2015年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
日韓関係と日中関係は日中韓の三国にとって非常に重要です。友好関係を築けばそれぞれの国にとって大きな利益が得られます。しかるに最近、韓国や中国のことを感情的になって攻撃する日本人が増えているのです。感情的になればなる程失うものが大きくなるということは古今東西の真理です。そこで今日から「日韓関係、日中関係の奥深さ」と題する連載記事を書いていきたいと思います。
第一回はある朝鮮人の菩提寺とその人を祀る神社のご紹介です。それは埼玉県にある聖天院と高麗神社です。数年前に訪れて写真を撮って来ました。
この話は西暦700年頃の昔話です。短く纏めましたので是非お読み下さい。
その頃の朝鮮半島では、高句麗が新羅と唐の連合軍によって668年に滅ぼされました。その時、使者として日本に来ていた王族の若光は帰国できなくなり、日本へ亡命しました。
この若光は703年に文武天皇から従五位下に叙せられ、高麗王の姓を賜はりました。この事は続日本書記に明記してあります。
そして13年後の716年に大和朝廷は武蔵国に新たに高麗郡を作り、高麗王をそこの郡司に任命しました。高麗王は朝鮮の高句麗から従って来た1799名の家来を連れて高麗郡に移住しました。
高麗郡は現在の埼玉県西部から東京都の多摩地方にまたがっています。私の自宅から車で2時間以内に行ける所です。写真を撮りに行きました。
さて、高麗王の部下には先進文化を導入したり、農産物の増産を指導する人もいたらしく、高麗郡は農作物で豊かになったそうです。そして農民にとって無理な税は強制しなかったようです。要するに大変評判の良い統治をしたのです。
高麗王は武蔵国の高麗郡に移住する前は神奈川県の大磯を治めていました。そこでも評判が良く、高麗郡へ去ったあと大磯の人々は高麗寺(現在は廃寺)と高来神社を作りました。
兎に角、大磯でも高麗郡でも高麗王は農民を大切にする善い政治をしたのです。
その高麗王、若光は一度も朝鮮へ帰ることが出来ませんでした。故郷から遠く離れた異境の土になったのです。
高麗王の没後、三男の聖雲が、現在の聖天院を建立し、一族の菩提寺にしたのです。
聖天院の隣には高麗神社があり高麗王、若光が祀られています。そしてその神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。
朝鮮から亡命したある王族が日本の武蔵国の高麗郡を見事に治め、現在も人々に慕われているのです。少し話をした住職さんの大黒さん(奥さん)が若光さんのお墓も忘れないで拝んでいって下さいと言いながら場所を教えてくれました。
時空を超えた、何か大きな歴史ロマンを感じながら境内の写真を撮って来ました。
朝鮮と日本の関係の奥深さを示す一例です。下に撮ってきた写真を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人

上の写真は高麗王の子孫、一族の菩提寺の聖天院の写真です。

上の写真は聖天院の本堂前にある高麗王のお墓(廟)です。

上の神社は高麗神社で、神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。