スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(「外務省の最右派」の正論)

2024-05-04 14:23:43 | 日記
5月4日(土)
 昨日の産経新聞の「阿比留瑠比 極言御免」である。外務省内で「最右派」と呼ばれた、山上慎吾前オーストラリア大使について、書いている。『』内は阿比留氏の文章の引用である。
 『山上氏は、斉木昭隆元外務次官が(平成)31年1月の講演で、「敗戦国は歴史を語る立場にない」と述べたことを引用したうえで、反論する。<戦争で一度負けたからといって、また、敗戦の惨禍がどれだけひどかったとはいえ、戦勝国の言い分をすべて受け入れなくてはならないルールなど、何処にもない>』
 ここから阿比留氏は18年2月に、自らがインタビューした、栗山尚一元駐米大使の語った言葉を思い出す。栗山は『歴史はほとんど戦争に勝った側が書いている。勝者が書いた歴史が歴史として受け入れられている。そのことを日本人は受け入れないといけない』と言ったのだそうだ。
 阿比留氏はそんなルールなどないと一応言うが、もっと強く斉木と栗山を非難すべきだ。斉木と栗山は、裏を返せば、では自分たちがもし勝者となったら、勝者の勝手な歴史を書くぞ、それを押し付けるぞと、言っているのに等しいからである。勝者であろうと敗者であろうと歴史は一つであるとの観点を持たねば、正しい歴史認識は持てない。斉木とか栗山は、もし戦前に外交官をしていれば、神国日本とか八紘一宇の歴史を率先して書いた、権力者の提灯持ちをする根性の持ち主なのであろう。
 私は一事が万事という諺はあまり好きではない。人は昔間違えても、今度は間違えないようにしようと、努めるものだからだ。しかし反面を見れば、一事が万事に渡る基調があるからこそ、同じ轍を踏まないように気を付けるのだともいえる。或いはある社会というものは金太郎飴のようなもので、何処を切ってもそれらしい絵柄が現れるという事かも知れない。こう考えると一事が万事は、人間社会に確かに存在すると言えよう。斉木とか栗山を見ると、外務省延いては一般社会の空気というものが、理解できる気分だ。つまり日本社会にこれからはアメリカ様の言う通りに従って行こう、との気分が満ち溢れていたという事である。その方が時代に受け入れられて事が進むからだ。アメリカ様の言う通りにしていれば、外交官として礼遇を受けるだろう。中国様が日本軍国主義を喧伝しても黙って聞いておれば、外交官として釣魚台でアヒル料理を食べさせて貰えるだろう。反対に正しい歴史認識を言えば歴史修正主義者としてニューヨークタイムスに非難され、国家主席様との面会もかなわないだろう。しかしそこで苦労してでも、少しずつでも、正論を通すように努めるのが、敗戦国という逃れられない立場に立った、外交官の本来の役目というものだ。そういう苦労を、斉木も栗山も、ようしないのだ。それで両者とも外務次官に出世する。そう言う奴が最高位に付く。という事は外務省に、情けないアメリカ跪拝思想が漲っているからだ。この跪拝思想は一事が万事で、政界にも、言論界にも、経済界にだって基調としてあるだろう。
 私は何故外務省が、日本が韓国や中国から不当な扱いを受けても、言い返せないのか不思議であった。しかし事は案外に単純で、単に東京裁判史観に従属しているからだろうと、思うようになった。そしてなぜ外交官試験に合格するような頭の良い人間が東京裁判史観に従属するのかと言えば、外務省全体がそういう思考だから、それに従わないと実務に著しい支障が出るからだろう。例えばLGBT法案を通せとエマニエルが言って、いや日本には性差別は有りませんと逆らう外務省職員は、担当から外されてしまうのであろう。
 
 







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