スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(明日は血の雨が降る)

2020-06-30 11:29:25 | 日記
6月30日(火)
 香港国家安全法が成立した。施行は夏ぐらいだと言われるがそんな事はない。実質的には明日からだ。明日は香港返還記念日で、香港政府はデモ禁止令を出している。大規模デモが起これば素晴らしいが、そうはならないだろう。香港住民だってこれからの弾圧に備えて、身を隠さねばならない。しかし明日で命が終わると考える至純な人々も、又多いと思う。そういう人々は街頭に出て、今までにない凄惨な戦いをするように思われる。血の雨が随所に降るだろう。ジャーナリストよ、せめてその記録を取ってくれ。
 日本は幸せで良い。暢気にこんなブログを書いておられる。私に香港の人たちの為に何が出来る訳でもない。日本の為に何が出来るのでもない。せいぜい大村リコールの投票が出来るくらいである。それが生活者というものであろう。雨の中、部屋に閉じこもって、うそぶくくらいだ。

スケッチブック30(大村リコール)

2020-06-29 11:29:50 | 日記
6月29日(月)
 昨日大須で大村リコールのキャンペーン集会が行われた。私は所用で行けなかったが知人に聞くと、たいそうな人出であったとのこと。
 リコールのやり方だが、愛知県の全有権者に、(署名の)受任者応募のハガキを配るらしい。応募ハガキを返送してくれた人(署名受任者となる)に、署名用紙を送り、署名を集めて貰う。
 署名用紙を貰った人はまず受任者欄に自書押印し、次いで署名者欄に自書押印して、その後に賛同者が得られれば家族や友人等に署名してもらう。そういう人がいなければ自分一人の署名でも構わない。署名は必ず対面でして、押印(拇印でも構わないらしい)してもらう必要がある。
 街頭で署名押印をしてくれる人は、少ないと思う。従って実質の署名数は、受任者数に等しいと考える。全有権者に受任者要請のハガキを配るとは、実質的にハガキの返送で、リコール署名をするという事になる。高須院長の英断だろうが(相当な金額が必要だ)、署名集めのハードルは相当下がったといえる。
 ここまでして貰ってリコールが成立させられなかったら、愛知県民の恥というものだ。

 

スケッチブック30(力なき者 香港の哀れ)

2020-06-28 11:16:42 | 日記
6月28日(日)
 香港に中国軍の特殊部隊が入ったとの未確認情報がある。7月1日には国家安全法が施行されるとの話だ。民主活動家は続々と香港を脱出しているとも聞く。香港人にとって実に可哀そうな現実である。
 25年前にイギリスは50年あれば中国は民主化すると夢見たのだろう。逆に中国は50年あれば香港を中国化できると舌なめずりしたに違いない。双方の思惑違いが25年で判明したのだ。しかし今の香港は中国領である。一国二制度は約束事に過ぎない。もし香港が英領のままであればイギリスは戦争の決意をしたであろう。しかし今は負け犬の遠吠え以上の事をする意思はない。
 アメリカも中国に制裁は掛けても戦争を仕掛けるつもりはない。香港が国ではないからだ。
 香港人は実に良く戦った。私はそれまで香港人というのはお金儲けにしか関心を示さない人たちだと思っていた。しかし自由の為にあれだけ戦ったのだ。心からお詫びし、脱帽する。しかし香港には力がない。力なきものは浸食されるのだ。
 香港が英領のままでなくても、せめて独立国だったら、国連軍を組織して、香港解放の武力行使をすることも、出来たかもしれない。しかし法的に中国領とあっては、それは出来ない。これが現実である。国家とか国家が持つ力というものは、国民を守るのだ。人々の集合体はあってもそれが国家と言う形を取らない場合、弱く、その構成員のありようを維持できないのだ。
 沖縄独立とか国なんていらないという馬鹿な日本人がいる。そういう人間は実に我儘勝手な存在だと考える。日本人としての水準を維持する為には、その為の制約が懸かる。日本人として守っては欲しいがその制約は嫌だと言う、実に心根の卑しい奴だ。
 香港の哀れさを良く噛み締めなければならない。

スケッチブック30(大山中尉事件の不思議)

2020-06-27 10:55:26 | 日記
6月27日(土)
 カルチャーセンターで日本の近現代史を勉強しているが、そこで大山中尉事件について新説を書いた本が出ているとの話を聞いた。著者が笠原十九司と聞いてとても買う気にはなれないが、ネットで少し調べてみた。
 私は今まで大山中尉は租界の中か、外だとしても近郊で殺されたと、漠然と思っていた。しかし実際は租界とは相当離れた、上海西部の、中国軍の飛行場近くの路上で、殺されている。大山中尉は陸戦隊でも西部地域担当だったと聞くが、それは租界の中にある。陸戦隊本部に連絡で出向いたとしても、その為には東に向かわねばならないのに、実際は西に行っているのだ。何の為にそんな所に行ったかである。通常の勤務上からの必要で行ったとは思えない。
 そこでここが面白い所なのだが、大山中尉が射殺された道路は、越界路だとネットで出ている。越界路とは普通は租界に隣接して、租界を拡張した場所だと、言われている。つまり租界が手狭になったのでもう少し広げたいと列強が幅寄せした土地を指す言葉なのだ。しかし大山中尉が殺された場所は碑坊路(現在は綏寧路というとある)といい、租界に隣接などしていない全くの飛び地である。また当時は飛行場の他には何もない閑散とした場所だとネットに出ている。なんでこんな所が越界路になるのか、それが不思議だ。ひょっとしたら飛行場は中国軍専用ではなく、実際は民間人も利用していて、租界から飛行場へ行くための道路として、越界路になっていたのかも知れないと思ったが、それ以上は探れなかった。
 しかし越界路であったことは事実らしい。ならば建前上は租界が管理と警備をする筈のもので、中国軍が停止線を張る事など出来ない筈だが、実際はグレーゾーンだったらしい。大山中尉は中国軍の停止線を二つ通過して、第三線の所で射殺されている。日本側から言わせればこれは間違いなく中国軍による無法な殺害である。
 だが時期が時期である。普通はそんなグレーゾーン地区には出向かない。そこを捉えて笠原は、大山中尉が事を起こす口実作りの為に、上官に命令され、死を覚悟して飛行場に向かったのだと、言っているらしい。私は海軍上層部は陸軍に刺激されて戦争したかったろうとは、想像する。だが部下を殺してまでして口実を作るかは、甚だ疑問だ。しかし大山中尉の行動も理解できない。不思議な事件である。

スケッチブック30(西安事件理解できる)

2020-06-26 13:20:18 | 日記
6月26日(金)
 西安事件を初めて聞いた時、何で蒋介石は監禁された時の約束を守ったのか、理解出来なかった。最近少しばかり知識が深まったので、ある程度は理解できるようになった。
 西安事件は昭和11年12月12日に起こっている。この直前の11月25日に、日独防共協定が結ばれた。それまで蒋介石は日本とは小康を保ち、ドイツの援助を得て共産党を撲滅する政策を取っていた。そして撲滅寸前の所まで来て、督戦の為に西安に来たところを、張学良の裏切りで共産党に捕らえられた。このころ蒋介石の胸には、ドイツの援助は早晩なくなるだろう、共産党は根絶させたとして次に日本との戦争となるが、外国の援助なしには日本に勝てない、さてどうするとの思いが、去来をしていただろうと想像するのだ。
 そこでソ連が、私が替わりを務めましょうと、申し出たのだ。
 蒋介石にとっては渡りに船だがソ連の援助を受けるとなると、共産党は潰せない。せっかくいい所まで来ているのに生き延びさせては、将来の禍根となる。またソ連の魂胆は、中国と日本を戦わせて、日本軍がソ連に攻めてこないようにさせる所にある。だからソ連は援助してくれても、日本に軍事的圧力をかけて助けてくれる事まではしないだろう。これではまるでソ連の代理戦争をさせられるようで、馬鹿らしい。アメリカかイギリスが本格的に援助してくれるのが一番望ましい。アメリカなら太平洋から軍事的圧力をかけて、日本の動きを止めてくれるだろうにと、ずいぶん悩んだことだと思う。
 しかし囚われの身である。とりあえずはソ連の申し出を受けないと、命の危険がある。そこで国共合作を約束し南京に還ったが、イギリスとアメリカの援助もさしたる進展を見せず、そうこうするうち共産党に支那事変を起こされて、結果的に西安事件の約束を履行してゆく動きになったのだと考える。