スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(戦前の日本政治⑤石原莞爾の不思議)

2020-09-30 12:44:32 | 日記
9月30日(水)
 永田鉄山と並び称されているのが石原莞爾である。「最終戦争論」が有名だが私には永田以上に理解し難い存在だ。支那事変当時部下だった武藤章作戦課長が部長である石原を評して、「石原部長の言う事は猫の目のように変わる」「部長のように空想的なことを言っておっては、現実はやれん」と言ったそうだが、武藤の気持ちがわかる気がする。
 「最終戦争論」は昭和40年頃に日米が最終戦争を行うというものだが、その20年も前に日本はアメリカに完膚なきまでに負けた。それで石原は「最終戦争論は間違いだった」と言ったそうだが、まあその時点で最終戦争を言えば気違い扱いだろうからやむを得ないにしても、あまりに情けない話ではないか。
 「最終戦争」にしてもアメリカの20分の1くらいの国力の日本が何故東洋のチャンピオンとして登場できるか(しかも勝つと言っているのだ)というと、日本文化が東西を統合出来る優れたものだから、とくるのだが、これはさっぱり分からない。またなんで最終戦争の後に恒久平和が訪れるのかもさっぱり理解できない。
 石原も全支那領有論者であった。満州事変の頃は、中国大陸での戦争は経費が掛からない、それは中国大陸での徴税其の他によって賄われる(いわゆる戦争で戦争を養う論)からだと言っていたのに、いざ事変が始まってみると、「支那は一撃では倒れない、泥沼化する」「こんな大軍を送り込んだら日本は破産する」と言って、日本権益を放棄してでも蒋介石と和睦せよと言い出す始末だ。
 私は蒋介石との和睦論は正しく、石原は現実を見た軍人だったと思うが、ずっと石原理論を信奉してきた部下たちには、石原は豹変したとしか思えなかったろう。
 私は石原莞爾とは普段は妄想を言うが、実際に事をやる時は現実的な行為をする、そんな二重人格の人に思える。世界に鳴り響く石原莞爾に最終戦争で日本はアメリカに勝つと言われれば、単純な軍人や国民は大喜びをしたろう。それが石原の妄想部分だとは知らずに。戦前の政治に石原の妄想は相当悪影響をまき散らしたと思う。

スケッチブック30(戦前の日本政治④永田鉄山の不思議)

2020-09-29 12:38:08 | 日記
9月29日(火)
 満州事変の頃の陸軍は大きく二つに分かれていた。一つは陸軍大臣とか参謀総長、その直属の省部の部長たちである。この親玉がこの時は陸軍大臣を離れていた宇垣一成である。南陸相とか金谷総長はこの宇垣の子分と言ってよい。もう一つのグループが永田鉄山大佐を中心とする、省部の課長クラスの者達であった。つまり当時の陸軍はトップと、その下の実務幕僚とが離反していて、考え方が大きく違っていたのである。
 宇垣グループは大きく言って長州閥、永田グループは反長州閥と分けられ、永田グループの宇垣グループに対する怨念は凄まじかったらしい。やがて宇垣グループは駆逐されてゆくのだが、まだ年少で陸相総長にはなれない永田グループが繋ぎとして立てたのが、荒木貞夫と真崎甚三郎である。この両者は出身地故か宇垣グループに入れず、冷遇されていたらしい。
 やがて永田は少将となり陸軍省軍務局長という、省部の部長クラスの最重要職に就いた。以後陸軍は永田の考え真直ぐに、政治的行動を取るのだが、彼は私には不思議に思える考え方をしていた。
 前に陸軍は満蒙を取る考えだと書いたが、永田はもう一歩進めて、北支も中支も、支那全土を取るという考えであった。政治家が反対すれば軍刀をガチャつかせれば良いと言っている。こんな事をすれば当然九か国条約違反として、日本は欧米列強諸国から弾き出される。永田はそれでも良いと考えるのだろうが、私にはそこが分からない。
 永田は第一次大戦の時、ドイツに行っている。そこで日露戦争の全期間で使われた砲弾と同量のものが、三日か四日で使われたと驚いている。戦後日米欧の生産力を比較検討した結果、その絶望的なまでの懸隔を知る事となる。そういう中で支那を取って、資源を自給自足出来るようにして、日本は自立して行くとの考えに至るとは、私には理解できない。同時期に宇垣は、だから日本は諸外国と同盟を結び、万一再び大戦となった時、勝つ陣営に付く工夫をするべきだと説いていた。
 仮に全支那を取れば(結局それさえ出来なかったのだが)イギリス一国の生産力に近づく事は可能かも知れない。しかし米英仏が連合して日本にかかってくる可能性も、ぐっと上昇するわけである。永田は当然それでも日本はやって行ける、それでも日本のメリットは大きいと考えたのだろうが、そこが理解できない。
 結果論で言えば支那事変をやっても日本は資源の自給自足が出来なかった。石油と屑鉄をアメリカに握られていた。永田が生きていればどう政治指導しただろうか。



スケッチブック30(戦前の日本政治③)

2020-09-28 09:51:13 | 日記
9月28日(月)
 満州事変を機に陸軍が政治を主導するようになるのだが、当時政治勢力として陸軍、職業政治家、宮中の三つがあった。陸軍は満蒙を取る、その為に欧米との軋轢が生じてもやむを得ない、これに反して職業政治家は欧米協調路線で行くべきだ、宮中は天皇制が維持されればすべて良しという政治姿勢であった。
 陸軍と職業政治家の間で外交方針を巡って大きな違いがあったのだが、それは全て九か国条約に起因していた。第一次世界大戦で欧米諸国は、植民地の奪い合いを武力ですることは害が大きいから、やめた方が賢明だと反省をした。それを具体的に適用した場所が中国であり、九か国条約の第一の本質は、中国を武力で侵略することはお互いに止めようとの、趣旨のものである。第二の本質はアメリカが中国市場への参入を今後するから、それまで中国の現状を保持しておけというものである。これが「機会均等」「中国の領土保全」の意味である。第三の本質が第二のものの裏返しの、日本よ中国に進出するなというものであった。
 当時の欧米諸国の状況を見るに九か国条約とは、アメリカが今後中国市場に本格参入するまで、日本の進出を止めておくというものだと言ってよい。
 だから満州国を作ったという事は、実質的には日本が中国領土を奪ったという事で、九か国条約に違反した、日本は国際法違反の国だとなったのである。
 九か国条約は大正11年に結ばれている。この時満州国が出来ていれば既成事実で押せたが、まだ日本は出遅れていて逆に山東半島の利権を返還させられる有様で、自国の勢力圏設定に国際条約の場で失敗したのである。アメリカはこの後、事あるたびに日本を九か国条約違反として攻め立てた。もし当時素晴らしい政治家がいて、満州を将来日本が支配する勢力圏だと九か国条約の中に設定できていたら、日本が同じ事をやってもそれは合法だとして何の問題にもならなかったろう。だがいくら条約が失敗だとしても日本はその枠組みの中で国を運営してゆくのだ。そこで政治家と軍人では姿勢に違いが出てくる。
 職業政治家は外交の場で常に欧米首脳と顔を会わせる。軍人は常に部下の兵隊を見ていて、こんなに強いのにと思う。この辺が亀裂の原因であろう。


 

スケッチブック30(戦前の日本政治②天皇制)

2020-09-23 10:23:58 | 日記
9月23日(水)
 満州事変で陸軍が政治支配をするようになるのだが、まず何故そんな事が陸軍に出来たのか、その概要を見てみる。
 当時の日本は天皇制である。天皇制とは国家統治の大権が天皇にあるという事である。軍隊を動かすのも税金を取るのも法律を作るのもどこそこの川に橋を掛けるのも、全て天皇が命じるから出来る事なのであった。天皇が意思を示さなければ何もできない国家体制である。だが当然のことながら天皇はスーパーマンではないから実際にはそんな統治は不可能だ。そこで天皇を輔弼する者が必要になる。それが大臣であり参謀総長などだ。
 明治天皇は知らないのだが昭和天皇は、徹頭徹尾この輔弼する者の影に隠れようとした。昭和の天皇制とは君主の意思を絶対に表さないという、建前と真逆の、およそ君主制らしくない君主制であった。よく天皇が己の意思を示したのは2・26事件の時と終戦時だけだったと言うではないか。例えば法律にしても勅令にしても輔弼する大臣の副署がなければ、官吏はその命令に従ってはならないとされていた。これは憲法の条文などから出てくる訳ではなく、当時の人たちが良かれと思って築き上げた慣行であった。
 さてそうなると政治、具体的には内閣であるが、力があって総理大臣の椅子を奪ったものが、すなわち天皇の「意思」を体現する存在だという事になる。建前上は大臣などは天皇に任命され、その意思を実現する役目の筈の者なのだが、天皇は任命にも輔弼行為にも自分の意思を示さないので、力を振るった者が役目を取り、その者のすることが、天皇の意思となるのである。当時政治に携わる三つの勢力があった。一つは民政党とか政友会などの職業政治家である。二つ目は陸軍、三つ目は宮中と西園寺公望である。後者の二つの勢力は自分で政治を行うのではなく、己の権力で政治家を己の都合の良いように動かす、そういう政治との関わり方をした。
 宮中とは具体的には宮内大臣と内大臣と侍従長である。西園寺は次期首相を天皇に奏薦する役目であった。この者たちは陸軍を嫌って職業政治家に好意を持っていた。だが最後には職業政治家に対して冷淡であった。職業政治家が陸軍の横暴を抑えるために天皇の意思を出してくれと西園寺に頼んだ時、それは出来ないと見放している。理由は天皇が陸軍を抑える意思を出せば、それは天皇を宮中と西園寺がそのように操った陰謀の結果であると、自分たちが攻撃されるからである。2・26事件に見るように暗殺される可能性は十分あった。それに天皇が意思を示して事が上手く行けば良いが、その結果が不味いものになれば、天皇の権威に疵が生じてしまう。それは絶対に避けねばならないとの思いからだった。
 このように昭和の天皇制とは、横暴だろうが何だろうがとにかく力ある者が牛耳る原状に、乗っかって行くという、一蓮托生というか或る意味極めて民主的な体制のものであった。
 こうなると後は陸軍と職業政治家のバトルである。バトルなら武力を持つ陸軍が圧倒的に有利である。それに陸軍は一枚岩的だが職業政治家は、政党間の足の引っ張り合いは当然で且つ身内の中にも敵がいる、組織的には漸弱なものである。例えば第二次若槻内閣は有力閣僚で自党幹部の安達内相の造反で、潰れている。天皇制にあっては天皇絶対との建前から、首相とかの下位権力者に相応の権力が与えられていないのだ。だから首相は閣僚の罷免権がない。故に閣僚の造反で内閣は潰れる。これは陸軍でも同じで例えば参謀総長は普通全陸軍の指揮権を持つと思われているが、戦時は知らないがこの当時はそうではなく、各師団長は天皇に直属していた。だから参謀総長独自には各師団長に行動を依頼するしかない。だから関東軍は当初、中央の命令を無視できたのだ。関東軍司令官は天皇に直属している。だから参謀総長は天皇から関東軍の指揮権を委任されたとの形式を取った後でなければ、関東軍を掣肘できなかった。
 陸軍は安達内相に倣って陸軍大臣を造反させ、以後陸軍大臣を出さないと脅せば内閣は成立のしようがない。この時宮中は知らん顔である。ならば陸軍が勝つのは当然であろう。
 こうして満州事変を機に陸軍が政治を支配するようになった。その原因は根本には天皇制にあると思うが、天皇制の下でも陸軍を政治に関与させない制度を作る事は出来なかったのだろうかとの、思いを持つ。よく聞く議論に政府は予算を握っていた、陸軍の予算を削る対策を取れば陸軍の横暴を抑えられたとの話があるが、もっと時代が前なら有効な対策かも知れなかったが、五大国の一つとなった巨大日本陸軍にそんな態度を取れば、必ずクーデターを起こされたであろう。

スケッチブック30(戦前の日本政治①)

2020-09-20 19:39:15 | 日記
9月21日(月)
 満州事変前ころの日本の対中政策は、概ね二つの考え方があった。①は、民政党、特に幣原喜重郎に代表される政策である。欧米と同じ態度で支那に接するというものである。満蒙の特殊権益に拘らず、経済取引を通じて支那の資源を得た方が、全支那更には全世界に交易が広げられて、日本が得られる資源は大きいというものである。これに反対したのが陸軍の②満蒙を取る(領土とする)というものである。これには三つの段階があった。
 1、田中内閣時代--張作霖を利用して満蒙の権益を守る。
 2、関東軍の考えーー張作霖よりも親日的な満州支配者を作る。
 3、満州事変直前の陸軍の考えーー満蒙を日本の領土とする。この考えに纏まり満州国が作られた。
 両者の長所と短所を比べてみる。
 ①欧米と同じ態度で支那に接する。これの長所。欧米との経済競争に伍して行けたなら、ひょっとしたら現在の日本経済のような隆盛を見たかもしれない。短所は同じ事の裏返しであるが、欧米との競争に負けたら、日本には何も残らない。更には世界恐慌によるブロック経済化がすぐに生じたのだから、欧米市場から日本は締め出された訳で、満蒙を取っていなかった日本は果たしてやって行けたか。
 ②満蒙を取る。これの長所。満蒙の資源と市場は、欧米との経済的競争なく、確実に日本のものとなる。短所。満蒙だけでは日本の生存に足りなくなったときどうするか。満蒙を取れば支那の反発は必然で、また欧米諸国も反発するから、通常の経済活動で支那市場に入る事は難しい。
 つまり①は日本発展の可能性は広いが、満蒙という確実な果実さえ逸して死ぬ恐れがある。②は満蒙を食べて当分は死なないが、谷底の小さな農地を耕すようなもので、発展の可能性が狭い。強大な農地で強くなった欧米に負けてしまう恐れが高い。ではどうするという訳である。
 陸軍は②を推し進めた。つまり抵抗があればそれを排除して、支那と東亜に進出すれば良いというものである。その最終結果が敗戦であるが、私は②を推し進めたことは正しい政策だと思う。ただ抵抗勢力が自分より強い場合は、韓信の股くぐり、臥薪嘗胆が必要であったと思う。それが出来るのが政治家であろうが、陸軍は政治家をテロで脅して、駆逐してしまっていた。また当時の制度では政治家は陸軍に関与できなかった。本当は陸軍と政治家が一体となってアメリカに耐えるべきであったのだが、政治家を排除してしまっていた陸軍にそのツケが(そして国民全体に)回ってきたのだ。