スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(天皇の功利性②)

2019-08-31 15:14:12 | 日記
8月31日(土)
 教育評論家などがよく生徒の自主性を尊重せよと言うが、人が何かをする一番大きな原動力は他人からの強制であって、自主性は何かをする方向づけに過ぎないのではないかと思う。自動車に例えると強制がエンジンで、ハンドルが自主性だと言える。いくらエンジンが強力でもハンドルが道路の側壁に向いていれば、車はいくらふかしても進まない。逆にハンドルの位置は正しくてもエンジンが非力なら、車は坂道を登らない。
 子供の自主性を尊重するのは正しいが、それは部分的な正しさだと限界を知るべきだ。自主性で選んだ方向に向けて押し上げる強制の力を伴ってはじめて、全体的に正しいと言えるのだ。
 大人でもそうである。心的な目標というものも、擬人化された他人からの強制と言えよう。宗教活動だってそうだ。上役からの指示がなければ、例えば析伏的なことなど、普通の人はできない。香港だってあれだけ多くに人が街頭に出なければ、石を投げたり警官に突っ込んだりはできない。命令、義憤、使命感、危機感等々それぞれ強制の度合いは異なるが、人が強い行動に出るのは強い強制が外部から働くからである。
 だから国民が元気を出す、誠実な仕事をする、勤労精神を発揮する等々が上手く行く為には、国民の向かう方向を正しくさせ、それを後押しする外部の力が、ともに存在する必要がある。そういう存在が天皇である。
 戦後の天皇は戦前に比べると黙示的であるが、国民の生活の安定、諸外国との協調、平和志向、科学技術の発展等々の方向性を、国民に示している。その逆を目指していると言う人は、余程の反天皇論者でない限り居ないだろう。また更に黙示的ではあるが、勤労とか努力を国民に要請(一種の強制)している。これまた余程の反天皇論者でない限り、天皇は暴飲暴食や自堕落な生活を勧めているとは言わないだろう。
 天皇の存在が一種の強制力となって、ここがうまく言えなくてもどかしいのだが、日本人を前に向かって駆り立てているのである。そういう素晴らしい功利性を持つ天皇に代わる存在が、他にあるとは思えない。そういう天皇は普遍性を持ち、愛子家に限定したら天皇ではなくなるのだ。