やまちゃん奮闘記

1970年代から海外に出かけ、滞在した国が合計26か国、21年の海外生活が終わりました。振り返りつつ、日々の話題も、

1862年(文久2年)高杉晋作達が見た上海

2017-01-04 | 歴史・文化

高杉晋作五代友厚ら幕末の若者ら、合計51人を乗せた千歳丸(256トン)は、旧暦の文久2年(1862年)4月29日早暁に長崎を出港した。海上では台風に遭遇し激浪に苦しみながらも、5月6日の朝、上海到着となった。

初めて目にする上海港の賑わいを、「華夷ノ船舶来往織ルカ如ク」、「就中英船最多シ」。「西洋諸国ノ商船櫛比シ壮観ヲ極メタリ」。特に、「支那諸港中第一繁昌ナル所」と記し、また、「上海滯在之洋船百艘も可有之歟。唐船は一萬艘も可有之歟。誠に存外之振にて候事」と綴っている。


記述からは、想像を遥かに超えた上海港の賑わいに対する素直な驚きが感じられる。

当時の日本で唯一外国に向って開かれていた長崎の出島も、天下の台所で知られた大阪も、ましてや将軍様のおひざ元である江戸も、上海港の賑わいと較べたら、子供と大人の差以上の違いを痛感させられたのではないか。


賑わいの一方、彼らが驚かされたのが、極度に不衛生で雑然とした街並みだった。「上海中、糞芥路ニ満チ、泥土足ヲ埋メ、臭気鼻ヲ穿チ、其汚穢言フ可ナラス」とある。


次に驚いたのが耐え難いまでの水質の悪さであった。

淀んだ茶褐色な流れに、家禽類の死骸、ありとあらゆる汚物、さらにはヒトの死体までが浮かぶ。劣悪な環境のうえに、医療施設は貧弱。猛威を振るうコレラを前にしては、もはや為す術がない。太平天国軍を逃れて上海に辿り着いた体力のない難民はバタバタと斃れる。だが、まともに埋葬はしてやれない。勢い死骸を川に流すしかない――

海外交易で繁栄を誇る一方で、上海は劣悪な環境に悩まされていた。

1862年的日本人如何看待上海?, 侍が発見した上海の賑わいと汚さの理由, 横浜開港資料館, 文久二年幕府派遣「千歳丸」随員の中国観など

写真左、高杉晋作。右:1850年代の外灘. 下: 上海上陸一行

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上海が、単なる漁港から「支那諸港中第一繁昌ナル所」に変じたのは、アヘン戦争敗北の代償として1842年に締結された南京条約によって、広州・厦門・福州・寧波など中国南部沿海に位置する主要港と共に英国に開かれたことに起因する。

1842年からの20年の間に、中国と西欧世界とを結ぶ貿易拠点と変じたのである。彼らもまた、諸外国との交易が繁栄に繋がることを学んだはずだ。

若者は、足と興味に任せて歩く。中国人の住む上海の街だけでなく、西欧人居住区、攻め寄せる太平天国軍から上海を守備するために編成された英仏軍や清国軍の兵営、さらには郊外にまで足を伸ばし、見て歩いた。

高杉は中国人知識人と盛んに筆談をしている。「上海中の賞罰の権は尽く英仏の夷に帰すると。信なりや否や」「城外の地は尽く英仏の管する所に係るか」など、統治の主権に関わる質問をしている。高杉は列強に侵略された清国の実態を知り、日本は強固な軍事力を持つ独立国家にならねばと危機感を強めた。幕末、上海を訪れた日本人にとって、そこは世界をかいま見る窓であった。

沢山の事を学んだのであろう。

  

 

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