東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

河野純徳 訳,『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』その2

2008-12-26 19:29:32 | 翻訳史料をよむ
前半のハイライトは1548年1月20日コーチン発信の5通。現在のケーララ州コチから、リスボン帰港の船に合わせて、まとめて発送したもの。

なーんと、ザビエルはモロタイ島にまで行っているんだ。大東亜共栄圏を股に架けて大活躍だ。

大東亜共栄圏とザビエルの足跡が重なるのは偶然ではない。ザビエルは、海洋アジアの交易圏に乗っかり、大文明の影響が薄い地域に布教したから、必然的に大日本帝国の権益が関係する地域と重なるのである。
ムガル帝国や明朝など大文明が相手では、ポルトガル勢は勝負にならないのである。

コーチン発の5通のうち書簡第59が日本人アンジロウと遭遇する経緯を記している。そのため、この部分だけ有名だとおもうが、前後の記述に注目してくれ。

モロタイ島は、
〈ほとんどいつも地震があります〉
〈きっと、聖ミカエルが偉大な能力によって、その地方で神の奉仕を妨げていた悪魔たちを罰して、地獄に閉じこもるように命じたのでしょう。〉

マラッカからのベンガル湾の航海では、
〈三日三晩の大暴風雨で、たいへん危険な目に遭いました。海上でこんなに大きな暴風に遭ったのはまったく初めてでした。〉
〈危険のさなかにあって、私はすべての天使、九つの天使隊から始めて、太祖たち、預言者たち、使徒たち、福音史家たち、殉教者たち、証聖者たち、栄光のおとめたちと天国にいるすべての聖人たちに自分を委ね奉りました。〉

いやあ、たいへんだった。地震も台風のないところからやって来て、えらい体験だったろう。

キリスト教のアジアへの布教は、軍事的手段をもちい、経済的利潤を追求するものであった。と、いうのは世界史の構造から見ると正しい。
ただし、当事者であるザビエルら布教者を、今日の企業家や軍人や植民地統治者のような人間だとみなすのは、単純すぎる見方だろう。
あるときは危険を顧みない冒険者、あるときは世界市場商品を扱う商人、あるときは国王や提督と交渉する外交官、あるときは資金集めに奔走する企業家、あるときは迷信に凝り固まったキリストの使徒である。
なんでもやる万能人なのだ。

ただし、残念ながら、少なくともザビエルに関するかぎり、自然や産物を見る目はない。イエズス会は当時のヨーロッパで、いや、世界全体からみても最高水準の天文学や数学の知識があったのだが、動植物や農耕や漁撈の知識は貧弱である。残念。

書簡62はポルトガル王ジョアン三世にあてた嘆願書。

イエズス会に協力している軍人や行政官の功績を伝えている。

ディエゴ・ペレイラは(ちなみに、この人物はザビエルの友人で生涯を通じ関係が深い。)たくさんアチェ人を殺しました。この功績に充分恩恵を与えてください。

ジョアン・ロドリゲス・カリヴァリョは、船が中国で沈みたいへん貧しくなってしまっています。どうか彼に恩恵を。
この人物は、訳注によれば、〈1548年インド総督より三年間の俸給を受けてペグー王国に船長として赴任したが、そこでビルマの横暴な君主にひどく取り扱われ、その後中国でさらにひどい目に遭って戻って来た〉のだそうだ。訳注もすごいな。

また、ベンガラ、ペグー、コロマンデル、その他インドで死んだ人たちの相続についての嘆願がある。この中で言っていることはどういうことかというと、イエズス会パトロンの財産の保護である。

インディアス在住の政府関係者や軍人というのは、ようするに横領で儲ける人間たちである。
横領で蓄積した財産は、本人が死んだとたんに、まわりの連中が告発したり借金証文をでっちあげて奪いとろうとする。これは、カリブ海・新大陸の事情を知っている人は知っているだろうが、貯めた金を守るオーソリティーが必要なのだ。そこで生前に、死後の財産を守るために遺言でイエズス会に遺贈するのだが、その遺言を国王が保障して欲しいという、要求である。

この例に見られるように、ザビエルたち宣教師の当面の敵、悩みの種は、意外というか当然というかポルトガル人なのだ。
アチェー人を殺したり、ベンガルやペグーで殺されたりという話に注目すると、戦闘行為ばかりしていたように見えるが、意外に平和な面もある。

テルナテのスルタンとは仲良しで、息子を改宗させる話まである。(ただし、実現しなかった、と注にあり。)
また、スペイン勢力とも良好な関係で、ポルトガル・スペイン両方の兵士に説教している。スペイン側神父とも良好。

というわけで、二日おくれましたが、
ハッピー・バースデイ!預言者イーサー!

(なお、念の為、当時はクリスマスを祝う習慣はない。ポルトガル勢とスペイン勢が地球を半周して出会う東南アジアでは、日付と曜日が一日ズレていたはずだが、ミサの日はどうやって決めたのだろう?)