東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

『鶴見良行著作集 4 収奪の構図』,みすず書房,1999

2008-12-31 14:45:49 | その他;雑文やメモ
どっかにあったはずだ、と頭の片すみにひっかかっていたが、ここにあった。

p341~342
>たとえば、バナナの箱詰め作業場で働いている若い女子労働者たちは、日給三〇〇円にも満たない賃金だが、よくコーラのたぐいを買って飲むし、足の爪にはペディキュアを施している。かれらの生産するバナナも、つきつめていえば外国大企業のものだし、ペディキュアの紅もコーラも利益は海外へ流れるに違いない。
>あんまりではないか。
>しかし、これはかれらが今日陥っている経済の不可避的な結果でもある。
>農民や労働者が爪に火をともすように倹約したとして、そのわずかな余剰を、生活向上のため、どこに投じたらいい、というのか。
>生産力を向上させ収入を増やすという常識的な路線は完全に閉ざされてしまっている。サリサリ・ストアが流行るのはそのためだ。生産手段と労働がまったく分断されてしまっているために、民衆は手っとり早い消費に向かわざるを得ない


鶴見良行,『アジアを知るために』,筑摩書房,1981の一節である。

この『アジアを知るために』、鶴見良行ファンとしては、いや、わたしはファンと名乗る資格はないが、忘れてしまいたい内容を含む。
中華人民共和国の自力更生路線を支持し、〈農業は大寨に学び、工業は大慶に学ぶ〉というスローガンをまともに評価している。
いやはや、困ったことだ。しかし、こんな時代もあったことを忘れないようにしよう。わたしとて、経済合理性よりも人民の主体性と平等を求める、という理想に共感する。

そして現在、日本の暮らしは中国の工業生産物なしでは成り立たない構造になっている。
毒餃子騒動の時、わたしは呆れましたね。中国からの食品を拒否するなんて、できるわけないでしょうが。自分で米と野菜とダイズとニワトリを育てている人は別だが、そんなことができる人は、生産資本も労働力も備わっている人、なにより健康で若くなければできない。

中国の社会主義に対する憧れは、対岸の火事、じゃなくて、海の向こうの理想郷だから、なんとでも幻想を持てたが、現実の中国が日本の経済と生活に組み込まれるようになると、嫌悪と差別感がわきおこるわけだ。

さて、最初に引用した文にもどろう。

これはまさに現在の貧しい日本の状況とそっくり、やっと日本もアジアの仲間だ、うれしいな。
コンビニエンス・ストアというものを知ったとき、わたしは、こりゃサリサリ・ストアみたいなもんだろうと思った。都会で一週間七日、一日十六時間ぐらい働くサラリーマンには必要かもしれないが、イナカではこんなもの成り立たないだろう、と思っていた。
ところが、あれよあれよという間にそこらじゅうにコンビニができて、貧乏人がこんな無駄で高いものを買うのか?と思ったもんだ。

しかし、貧乏人だからこそコンビニに依存しなければならないのである。
鶴見良行がやっていたように、魚屋でサカナを買い、八百屋で野菜を買い、出刃包丁で調理するなんてことは、鶴見良行が豊かでスキルがあり文化資本が充分備わっていて都市に住んでいるからである。
反対に生活向上が望めないものは、小銭を浪費し、ますます貧乏になっていく。

アメリカ合衆国で低所得者向けの住宅ローンが破綻して、世界中不景気になったそうだが(ほんとうか?)、その住宅というのは、コンビニの冷凍食品をチンするだけのシステム・キッチンが装備されていて、サンマも焼けないし、野菜炒めもできない構造になっているんでしょ?たぶん。
車でスーパーマーケットに行って調理済食品を買う以外ないような住宅地が造成されたのだろう。

つまりだ、貧乏人から小銭を巻き上げる構造ができていて、貧乏人はその構造にしばられて抜け出せない。
その先進国の貧乏人の消費材である車を組み立てる保税加工区、コーラの缶のアルミをつくるアサハン・ダム(本書によれば、アルミサッシを作っているということだが)が、なぜ儲かるのか?言葉をかえれば、これほど無駄で効率が悪そうにみえる事業がなぜ可能なのか、その構図を解き明かしたのが、この巻に同時収録された

『アジアはなぜ貧しいのか』,朝日新聞社,1982

日本をアジアに含めれば、当然含まれるわけだが、現在の日本の貧しさが理解できるだろう。
同時に、アジアには、つまり日本にも、富裕な階層は存在する。またアジアには、つまり日本にも、富裕な階層とは別の意味で、豊かな民衆も生きている、ということが理解できるだろう。
100年に一度の異常な事態などと、アホなことを抜かしている輩がいるが、こういう連中は、1929年の大恐慌もニューディールも知らんのだろうか?1945年当時のドイツや日本の事情を知らんのだろうか?

熱い解説を書いているのが宮内泰介。
その中で、内堀基光の書評が引用されている。(『週刊読書人』1996年2月23日号、鶴見良行没後の書評)

内堀基光は、鶴見良行が持っていた語りかける相手である読者、若者に対する信頼感に違和感をもつ、と書いている。つまりだ、鶴見良行は良質で知的な若者たちをあまりに信頼しすぎているんじゃないか、ってことだ。
宮内泰介は、扇動された若者(本人はそれほど良質でも知的でもない、と言っているが、充分知的ですよね。)にとっては、鶴見のアジテーションは魅力的で大きな影響を与えたと捉えている。

うーん。どっちの言い分も正しいように思えるが、知的でない若者には、さっぱり影響を与えなかったことは確かだろう。
日本の若者も、フィリピンのプランテーションの低賃金労働者のようになる構造が進展した、ということだ。
これで、日本の労働者もめでたくアジアの仲間と連帯できるか、というと、まったく反対に嫌悪と中傷をぶつけるようになるのか……とほほ。