東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

小田空,『中国の思う壷』(上下),旅行人,2001

2006-12-31 15:26:51 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
中国の旅行記や滞在記をとりあげると、きりがないが、結局読んだ本で印象に残ったものをブログにおとしていく、ということになる。

本書下巻は、延安で日本語教師として過ごした時期の話題。
もはや中国のことを他人事としてかたづけられなくなった著者のディープな中国観察記録である。
もちろん、著者と出版社をみれば一目瞭然なように、軽いノリのトリビア満載の滞在記である。が、深刻な話題をひとつ。

「絶対的に貧しい、どん底の貧困」について。
どうしようもなく貧しく、そこからぬけでる方法もなく、政府もどこも対処のしようがない。イデオロギーや宗教がどうのこうの、エスニシティやジェンダーがどうのこうのと、しちめんどうくさいことを言う以前の、絶対的貧困。
そういう貧困の中で生きていく(あるいは死んでいく)人たちがいっぱいいるらしい。
「顔に表情がない」という一見差別的な表現があてはまる人々。
統計数字にもあらわれず、開発援助や医療援助の目にもとまらず、地元政府のプログラム(保健衛生や教育)も無視している貧困がある、らしい。

東南アジアだったら、こういう貧困は、一時的な気候異変や天災のため、あるいは戦争や内乱のためであることがおおい。
あるいは資源の不均衡な分布、開発経済による環境破壊・汚染、そういうことに原因が求められる。
でも、そういうことがなくても、一時的ではなく、ずっとずっとむかしから、どん底の貧困状態で生きる人たちがいる、らしい。

東南アジアだったら、「豊かさの指標を市場経済だけで測ることがまちがいだ。」とか「数字に還元できない豊かさがある」なんていえる場合もあるが(そして、東南アジアの場合でさえ、そういうもののいいかたは、しばしば誤りであるが)、そんないいかたが通用しない貧しさが存在する、ようだ。

小田空さんが観察した中で、「スーツが一張羅の工作者」というのがある。
「貧しかったら、スーツではなく、動きやすい働きやすい衣類があるのではないか?」という主張は通用しない。
ほんとに「一張羅」、その今着ている衣服以外、衣類がないのだ。
冠婚葬祭に着ていける服、一着しか所有していないのだ。

ふ~む。
東南アジアだったら、ハダカで暮らせるし、スーツなどの場違いな衣類は、単に古着として安いから、という場合があるのだが……。
しかし、延安で衣類なしに過ごすというのはムリなような気がするから、やはりスーツが一張羅という状況も生じるのだろうか?

たいへん深刻な問題である。
これはイデオロギーの問題でも、文化大革命など過去の政策の問題でもなく、植民地政策のせいでもなく、現在の政治・行政の怠慢のせいでもなく、経済開放政策によって解決できる問題でもないようだ。

本書のこの話題を思いだしたのは、
河野和男,『自殺する種子』,新思索社,2002
に、ラオスの生活は、中国やインドに比べ、絶対的な貧困は少ないという、指摘があったからだ。
ラオスが貧しくないなんてのは、ふつうの旅行者の印象だったら無視するところだが、著者の河野和男さんは、タイで育種研究を続けていた研究者であり、栄養問題にも通じているはずだし、なにより一般的な貧困状態を見ている人であるから、かなり信頼性が高い。

OEAやダム開発にかかわる調査では、貧困を強調したり、逆に開発にともなう貧困を過小評価する傾向にあるから、この種の報告書の「貧しい」とか「貧困」という表現は信用できない。
各種統計からも、政府の公式見解からも、ほんとに貧しい人の実態はこぼれるようだ。
また、援助組織や慈善団体の報告は、飢餓や戦乱の状況ばかり強調しがちで、日常的に恒常的に昔からずっと貧しい地域というのは見えにくくなる。

しかし、やはり、こういう絶対的に貧しい地域、人々は存在する、らしい。
と、いうこと……