東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

山川暁,『満洲に消えた分村』,草思社,1995 その2

2006-09-13 00:19:59 | 20世紀;日本からの人々
本書のおおきなテーマである残留孤児・残留婦人の問題について。

とにもかくにも日本に引揚げた開拓団の人々にとって、途中で死なせなければならなかった家族と後に残した家族のことは、他人が想像できない、軽々しく口をはさむことができない心の重荷になっていた。
それが、日中国交回復にともない、にわかに、亡霊のように現れてきた。
この時期の、元開拓団の人々の心中は、あまりにも複雑で、他人がとやかくいえない問題であろう。

ところが外部は遠慮なく騒ぎ立てる。

まず、中国政府の公式見解は、「中国人民も日本人民も、ともに日本帝国主義の犠牲者である。云々」というもの。
たしかに、そういいきってしまえば、簡単だ。

一方、日本政府は、口先ではいいこというが、本音は、
「ええい、めんどうなことを持ち出しやがって、これでまた中国に恩を着せられるじゃあねえか。文化大革命の時、みんな殺されていりゃよかったのに。」
というようなもんだろう。

当の開拓団内部でも、さまざまな声がでる。
まず、肉親に会いたい、という強烈な希望。
過去、こどもを捨てたという負い目がよみがえる混乱。
開拓団内部のトラブルの再燃。

たとえば、本書の谷川村開拓団団長の堀口という人物。
この男は、まったく国策に疑問をいだかず、村民が犠牲になったことも、天災のようにとらえ、戦後、残留孤児探しの事業に協力するわけだが、他の村民のうらみ・反発など、まったく理解していない。家族をさまざまな経緯で失った村人のこころも、まったく理解していないようだ。

一方で、元青年団長の宮崎という人物。
彼は、国策を推進した堀口らに、完全に対立している。
堀口ほど単純でない宮崎は、被害者意識もあるが、同時に村民を悲惨な運命にまきこんでしまったリーダーとしての負い目はある。
その宮崎リーダーも、「残留孤児」には理解と同情をしめすが、身を売った「残留婦人」に関してはまったく冷淡である。

おそらく、開拓団当事者以外の日本人のなかには(当事者にも)、以下のように考える方がいるだろう。

つまり、「残留孤児」や「残留婦人」が命が助かったといって、しょせん「人買い」じゃないか。そんなことで、中国政府に恩を着せられちゃあたまんないぜ、という見方だ。

あるいはまた、残留孤児・婦人の援助や人権擁護にたずさわっている方々の中にも、ああした非常事態のことであり、現在の倫理で裁くべきではないし、理由はどうあれ、結果的に命が助かったのではないか、という意見もあるだろう。

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以上、未完成、途中でやめる。