東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

猪俣良樹,『日本占領下インドネシア 旅芸人の記録』,めこん,1996

2006-09-02 10:36:34 | コスモポリス
傑作!
日本占領下インドネシアに出現した芝居一座「ビンタン・スラバヤ」、その成立から消滅までを、関係者への取材、残された資料から追跡した一編である。

そもそも、当時の演劇をしめす「サンディワラ」というインドネシア語の単語自体が、即席につくられた言葉であって、以前は「バンサワン」「スタンブル」「トニール」などと呼ばれていた。
アラビアンナイトから「怪傑ゾロ」までごちゃまぜにしたようなロマンス調芝居にコメディが加わり、歌やダンスもあるし道化もいる、マライ世界のボードヴィルである。
詳しい解説をしていると、いくら文字数をついやしてもたりないが、この、マラヤ世界風ボードヴィルは、フィリピン経由アメリカン・ボードヴィル、フランスやイギリスのミュージック・ホールの東南アジア版、華僑・華人を通じてのボードヴィルがごちゃごちゃにまじっていたらしい。
インドネシアのクロンチョンの混合文化に似ているわけで、「スタンブル」「トニール」では、クロンチョンも伴奏や幕間に用いられた。

ところが、時代はトーキー映画を娯楽の王者とする。
生身の人間のボードヴィルは、しだいに衰退していって、絶滅するか、と思われた時、このスタイルの芸人一座を蘇らせるものがやってきた。
ダイニッポンである。

当初、日本軍政下の宣伝班も、日本文化の優秀性を説き、日本精神を植えつけるため、大東亜の団結のため、映画を第一の手段と考えた。
ところが……
(以下、差別的表現は、当時の資料で使われていたものであります。いちいちカッコでくくっていられない。)

南洋の土人はアタマが単純で、微妙な日本美などわからない。
日本の姿をみせようと、記録映画をみせれば、なんだおれたちと同じじゃないか、となめられる。
オランダは独自の文化がないので、土人に英米の退廃文化を与えて懐柔したため、日本精神を背景にした日本映画が理解できない。

ほんとのところは、(フィリピンや仏印でも同様だったが)、映画のような娯楽は、世界中に同時に伝播するものであり、そういう意味で、東南アジアのほうが、欧米化がすすんでいたのである。(あたりまえの話であるが、宣伝部の文化人も軍人も植民地とはそういうもんだということが、事前に想像できなかった。)
『風と共に去りぬ』『チャップリンの独裁者』を見ていた観客に、日本の悠長な映画やセリフ中心の演技は、遅れたものにみえたわけである。(わたし自身、『風と共に』や『独裁者』がそれほどいい映画とは思えないが)
しかし、東アジア・東南アジア全域で宣伝活動、いや軍事活動をしている日本に、インドネシア向けに映画をつくっている、時間も人材もなかった。
それで、日本軍お墨付きの演劇グループ「ビンタン・スラバヤ」を結成させたわけである。
ここに、絶滅しようとしているボードヴィルが蘇ったわけだ。

ここで、本書で語られているエピソードをひとつ(本書以外で、わたしは目にしたことがない。)

クロンチョンのスタンダード「ジュンバタン・メラ(赤い橋)」、これはビンタン・スラバヤの1943年の当り狂言で、当時劇団にいたグサンが主題歌を書いたものである。
ところが、この芝居の元ネタは、日本軍進駐直前に上映されていたアメリカ映画『ウォータールー橋』であった。(原作はロンドンの芝居だったかな?)
そして、このアメリカ映画を日本で翻案したのが『君の名は』なのだ。
民衆文化で、インドネシアと日本に共通するのはアメリカ映画!というわけ。
日本宣伝班が悩んだ問題、「結局、日本文化でインドネシアあるいは東南アジアにアッピールするのは、日本の欧米的要素である」というジレンマの見本のような話ではありませんか。

そんなわけで、ビンタン・スラバヤは、当時の大スター・歌姫・ミュージシャンを集め、ファッション・ショーやサーカス(天津生まれのサーカス・マンをスカウト)を取り入れ、大人気を博した。
インドネシア各地を旅し、日本軍兵士の慰問公演でも人気絶大だった。

本書では、こういったビンタン・スラバヤの歴史の掘り起こしとともに、著者の関心・疑問も提出される。
なぜ、日本は東南アジアの人々を魅了するような大衆文化を提示できなかったのか?
なぜ、日本軍の兵士は、集団で女買いをする以外の娯楽がなかったのか?

そりゃ、切羽詰まったうえで始めた戦争なんだから、当然じゃないか、という答もあるだろう。
経済的基盤の薄さが一番の原因ではあると思うのだが、本書を読むと、それ以外のさまざまな要素、無理をかさねて近代化してきた日本の姿がうかびあがってくる。

もうひとつエピソード。
著者へ情報や人脈の協力をした、劇団のサックス・プレイヤー、アマン氏の話。

当時、アメリカのジャズは演奏禁止であった。
しかし、芝居の幕間でジャズを演奏するのは、よくあることだった。軍人がリクエストすることもあった。
藤山一郎がオーケストラとともにジャワを慰問したとき、トランペッター(南里文雄?)がハリー・ジェイムスやデューク・エリントンの曲をどんどん演奏したそうだ。

著者は意外な事実だと書いているが、これは、一般の兵士、将校、それに取り締まる憲兵の感覚の違いではないでしょうか?
一般の兵士は、ジャズだろうがクロンチョンだろうが、初めてきくような音楽だったろう。
また、インドネシア(や他の東南アジア)のミュージシャンは、ジャズ風の演奏だろうがポルトガル風だろうがオランダやフランスのダンス音楽風だろうが、曲が元々アメリカ製かどうかなんて、ぜんぜん気にしなかったのではないか。
アマン氏の奥様の歌姫マレハさんは、日本語の歌が上手でスカウトされたわけだが、彼女もべつに日本の歌だからどうのこうのというわけではなく、商売になり、人気がでるからおぼえたわけである。(ステージで「君が代」を歌ったら、むやみに歌うなと怒られたそうだ!)

ジャズをハイカラで高級な文化ととらえる将校たち、無頓着に楽しむ兵士たち、なんでもごちゃまぜのチャンプルにするインドネシアのミュージシャン、エリントンだろうがハリー・ジェイムスだろうが区別がつかないケンペータイ、それらがビンタン・スラバヤの公演の場で交叉したのではないでしょうか?

という具合に、混乱の中で忘れられようとしていた歴史のひとこまを再現した傑作。

本書の中で、ちらっと、宣伝班に所属する日夏英太郎(朝鮮名フユン)という人物が登場する。
Googleでサーチすると、この人物をとりあげた書籍がみつかった。
次項で、この日夏英太郎という人物をとりあげる。(朝鮮名フユンというのは、猪俣さんのかんちがい、フユンはインドネシア名)
驚くべき人物の軌跡だ。