がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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Sitting cat

2012年09月19日 | ・ネコスケ日和

 

疲れた…。

 

栄養素「猫」が枯渇状態。

 

せめてこれ見て癒されよう。。。

 


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なんかこ~、トキメキが無いんだよなぁ…。
いや、ラブなことじゃなくて。


推定年齢考証してみた

2012年09月18日 | ・琉球史散策/第一尚氏

先日、琉球史人物の年齢をネタに記事書きましたが

護佐丸と同じく年齢不詳な人、
百十踏揚と阿麻和利についても追及してみようと思い立ち、

阿麻和利死んだ時は30代半ばとかって言われているけど
それはなぜ?

百十踏揚は?

を考えてみた!

テンペスト年表作った時以来の
年齢考証実施です!

 

今回の記事、我ながらかなりマニアックです。
少しは面白くなるように書こうと心掛けたけど…

ついていける人だけどうぞ(笑)


表を印刷して片手に見ながら読むとより分かりやすくなります

 

まずは年代と、生没年が記録に残っている人を記入。

ついでに護佐丸も推定1390年生まれとして記入。

(一応は確定、水色は推定です)


↓クリックすると拡大します

 

さて、まずは百十踏揚についての考証スタートです。

まずはいつ生まれたのか。

尚泰久が26歳の時に尚徳が生まれています()。

尚徳は三男なので、それまでに長男と二男が生まれていることでしょう。
(尚泰久の結婚が16・17くらいだったとして、それから7・8年間で長男・次男誕生())

問題は百十踏揚が尚徳の姉か、妹か、ということ。

一般的には姉というイメージですが、確かハッキリと「姉」とする記録はなかったような?
(長女としか書かれていないため)

 

そこで結婚期から逆算してみることに。

百十踏揚と阿麻和利がいつ結婚したのかは分かってませんが、
政略結婚の意味合いからも尚泰久が王位についてからでしょう。

しかし、王位についてすぐは首里城再建など
そうとうゴタゴタしていたでしょうから
王位について数年たったころかと。

1458年に結婚させて、すぐ阿麻和利討伐ってこともないでしょうから
間をとって1455年か、1456年頃と仮定。
(でも1456年は冊封を受けている年なのでその年の前後かと思われますが…)

 

さて、この時期に百十踏揚が何歳だったのか。

室町時代の結婚適齢期は14~16歳頃。

20歳だとかなりの年増とされていたようです。

平均寿命も短かったでしょうから、体の発達段階的にこの年齢だったのでしょう。

で、王女たる百十踏揚がまさか「年増」と呼ばれる年齢になるまで
お嫁に行かなかった(行かさなかった)と言うことはないでしょうから
せいぜい1456年時点で15歳か、16歳。

それで遡ってみると、
百十踏揚は尚徳と同じ年生まれ(表・踏揚①)
もしくはせいぜい1つ下
(表・踏揚③)くらい、

ということになります。

異母きょうだいなので、同じ年生まれもアリなんですね。

半年違いで「姉」とかね。

というわけで、
百十踏揚の生年、推定1441年前後。

 

 

問題は阿麻和利です。

阿麻和利を考えるのは結構複雑で…。

例えば、

護佐丸の中城への移動は勢力をつけた阿麻和利をけん制するため

というものがあります。

じゃあ、護佐丸が中城に移ったのはいつか。

護佐丸は座喜味グスク18年、中城グスク18年と言われているので
中城に移ったのは1440年となります。

でも中城グスクの増築はもっと前から着手していたはずなので、
まぁ、中城への移動命令が出て増築を開始したのは
その5年前くらいとしておきましょうか。
(10年という人もいますが…) 

5年前だとすると1435年。

ちなみにこの頃はまだ尚泰久は王にはなっているはずもなく、
尚巴志存命中。

中城への移動命令は尚巴志から下されたものと考えられますね☆

 

では、尚巴志が命令を下した1435年頃、
すでに阿麻和利が王府の脅威になっていたとすれば、

阿麻和利がこの時点で10代であることは考えにくく、
ハタチだとしても、まぁ警戒はするでしょうが、
あの尚巴志(既に60代)がビビるほどとは考えにくいよね?


いくら阿麻和利に才能があったとしても
ハタチ程度なら所詮は若造。

じゃあ、何歳くらいならさらに警戒を強めて
護佐丸を移動させるほどの決断を下すかな~と考えてみると…

どんなに若くても30歳とかでは?

いや、100歩譲って25歳とかにしてみる?

 

そしたらね、

1458年で死んだ時の年齢が
53歳とか(表・阿麻和利②)48歳(表・阿麻和利①)とかなのだ。

うん。組踊「二童敵討」の阿麻和利のイメージそのものの年齢になったぞ。

 

次に、百十踏揚との結婚を考えてみよう。

1456年に百十踏揚(推定15歳ごろ)と結婚してるとすると
阿麻和利は46歳~51歳なんだ。

 

いや、年の差はどうでもいい。

 

当時はこれくらいはざらにあっただろうし、
政略結婚ならなおさらだ。

 

ポイントはこの年の尚泰久、42歳。(表・

 

自分より年上の男が
義理の息子になるんだぜ。

 

もちろんアリエナイこともないでしょうが…
尚泰久の立場で考えてみたら
自分よりも年上の男(しかも身分的にも格下)に
最愛の娘を差し出すにはやっぱりちょっと…ですよね。

尚泰久、王様だよ。
百十踏揚、王女だよ。

ただの父ちゃんと娘じゃないんだよ。

ちょっと、う~ん…となりません?

繰り返しますが、もちろん可能性は無きにしも非ずですがね。

 

さて、そこからさらに突っ込んで考えてみよう。

 

義理の息子はせめて俺より年下であってくれよ!
(BY尚泰久)

という尚泰久の心の叫び(推定)を元に、
推定結婚年1456年、尚泰久42歳の時点で、

阿麻和利40歳だった場合(表・阿麻和利⑤)

阿麻和利35歳だった場合(表・阿麻和利③)

ではめてみた。

 

それで生まれ年まで逆算すると、

護佐丸に中城移動命令が出た時は
阿麻和利は19歳or14歳!

 

10代の若造に、
あのカリスマ尚巴志(60代)が脅威を抱いて

あのナンバーワン武将護佐丸(40代)を大移動!?

 

アリエねぇ~~~(゜д゜;)

 

 

ってことは、

 

尚巴志が抱いた勝連への警戒は
阿麻和利その人そのものというより、
もしかしたら勝連そのもの、
つまり先代の茂知附按司らによる繁栄なのかもしれない、

という話。

 
ってことは、茂知附按司ってすごいんだぜ(・∀・)ノ

 

 

というわけで、阿麻和利推定年齢算出は、
護佐丸の中城移動命令に合わせて考えるのでなく、
(=尚巴志が警戒したのは阿麻和利その人ではなく、勝連の繁栄そのものだった?)

百十踏揚との結婚期を元に考えてみると…

 

なるほど。

そういうことで阿麻和利が死んだ推定年齢
30代前半~半ば(33・34・35)頃ってなってるんだな?
((表・阿麻和利③)(表・阿麻和利④))

 

と、改めて自分で確認できてすごく納得。

 

っていうか、この推定年齢設定、

小説「百十踏揚」ほぼそのまんま!(゜∀゜)

やっぱりこの小説、すごいね!

 

ちなみに大城賢雄についても年齢不詳ですが、
1458年時点で王軍総大将を任されているあたり
20代というよりは30代、
やっぱり阿麻和利とそんなに違わなかったのかもね~。

 

 

ちなみにこの表の数字は満年齢です。
数え歳カウントだとこれにプラス1とか2とかになります。

 

この考証はあくまでも以上の理由に基づいて出した推論です。
結婚適齢期や年齢差など例外もあったでしょうからこれが必ずしも「正しい」というものではありませんのであしからず。

歴史上の人物をより味わうための一材料としてお楽しみくださいm(_ _)m

 


ついていけた人!?
クリックプリーズ!(笑)

蛇足だけど、小説「百十踏揚」では阿麻和利は33歳で没。
イエスキリストも33歳没。
坂本龍馬も33歳没。


悪党(仮)な尚徳

2012年09月17日 | ・琉球史散策/第一尚氏

 というわけで、前記事を受けて、悪党(仮)な尚徳の図。
(でも約4等身でかわいく(笑))

表情こそ悪党風なものの、
実はワタシの尚徳のイラストイメージは、
イラスト描きを再開させた2010年当初からあまり変わってません。

髪型とか(きっちりオダンゴにしないでワイルドさを演出)、
クール系の鋭めの目つきとか、

正装で暴れさせるとか(笑)

鎧甲冑じゃなくてあくまで正装。

やんちゃな王様感を出すのに、これが1番彼らしいと思って。


「琉球戦国列伝」でも、礼服を袖結いにするとか、
かなり遊んだビジュアルイメージだったと思うのですが
よくぞ監修の上里さんがOK出してくれたと思ってます (´∀`;)

 

ちなみに本での尚徳は紐で袖結いをしてますが
ラフでは直接袖を結ぶタイプの袖結いでした。(→

でもそうすると背中の柄が見えないことと、
服(蠎袍)の材質と袖の形的にちょっと無理がありそうだったので
紐タイプにしたのでした。

 ついでに小道具の弓。

本当は琉球の弓は地面につけて射るのだそう。

しかしそれを絵にするとものすごいでかい(長い)弓になってしまい、
人物がすごく小さくなってしまうため普通の弓にした

…という制作裏話。

 

さて、でもワタシの中の尚徳の内面イメージは、
ただの猪突猛進な暴君ではなく、
本にもあるようにちゃんと教養もあったイメージ。

ロマンチックな「書」も残しているし☆

琉球戦国列伝では活字での紹介でしたが、
実際の尚徳の書の画像を見たことあります。
楷書で、端正なきれいな字です。

なのに一字間違えているというあたりが激しくツボで(尚徳の株急上昇↑↑(笑))
お願いしてコラム記事にしてもらいました(^ε^)


ちゃんとまじめにやる時はやる。

無茶するのも、ちゃんと理念があって暴れるって感じ。

高杉晋作的な感じかなー。
(織田信長っていう人もいますね)

ぶっとんでる所はあったと思うから
敵も多かったとは思うけどね(笑)

 

尚徳の人となりも突き詰めてみると結構面白いと思うんだよね。

国笠(くにちゃさ)とのラブもあるし、
金丸との確執と急死は謎めいているし。

いつか現代版組踊で取り上げてくれないかな~?
「金丸」の舞台で一言、声のみで登場したきり?)

 


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琉球戦国列伝での尚徳はここから見れます


護佐丸討伐の黒幕

2012年09月17日 | ・琉球史散策/第一尚氏

護佐丸討伐の黒幕は誰なのか。

正史の通り阿麻和利の讒言、
というほかにも色々推測されていますね。

金丸とか、尚泰久自身とか。

で、こんな推測もあるのも知ってますか?

 

 

護佐丸討伐の黒幕は

 

 

 

尚徳。

 
*尚徳(しょうとく)*

尚泰久の三男で側室腹。

百十踏揚とは異母姉弟。
尚泰久を継いで21歳で7代目国王となるが29歳で急死。
直後、金丸派によるクーデターが勃発し
第一尚氏王統は滅びることになる。
尚徳の急死も歴史の謎とされている。

 

厳密にいえば、

尚徳・阿麻和利ペア。

 

二人の利害が一致し手を組んだというもの。

 

この説の出典は「護佐丸伝」に掲載されている論文です。

「護佐丸、阿麻和利の乱の史実を探る」
(山田盛善/護佐丸研究者/毛氏16代/1994)

 

阿麻和利の野望は正史にある通り、
天下をねらうこと。

尚徳の野望は二人の兄たち(正室腹で護佐丸の孫)を押しのけて
王位に就くこと。

そのためには護佐丸排除が必要だった。

 

論文によると王位継承を巡っての内部派閥のいざこざがあり
(正室派VS側室派、また越来家来派VS首里古参派)
阿麻和利がその難儀に目をつけて尚徳に策略を持ちかけ取り込む。
(この派閥闘争設定は確か小説「新説・阿麻和利にあったな…)

阿麻和利自体は首里簒奪まで尚徳をうまく「利用」するつもりだったが
護佐丸討伐こそ成功したものの
その後の計画は失敗。

(論文によると中城戦の際に首里兵と中城兵を交戦させ首里兵をできるだけ疲弊させておき、
時をおかずにそのまま勝連軍が首里を攻めるという阿麻和利のプランがあったのでは、と。
で、結論は、そうはさせまいと護佐丸は自決することで無駄に兵力を失わせるのを喰い止めた
という護佐丸の最期に対する見解)

結局、阿麻和利は王軍によって討伐され、
尚泰久の長男・次男は追放(もしくは自ら出ていった)
2年後、王位を継いだのは尚徳、

というわけで、結局一人勝ちしたのは尚徳だった、

というもの。

 

尚徳かぁ…、1458年時点で17歳だよ。

阿麻和利30代半ばだよ。

アリか…なぁ?

 

王位に就いてからの尚徳の悪党ぶり(※正史による)をみれば
ありえなくもないか、な?

みなさんどうですか?

 

歴史ミステリーを推理する時、

「誰が1番得をしたのか」

が1つのポイント。

尚徳と見るか、金丸と見るか、ですかね。

 

ちなみに

鬼大城を粛清したのは金丸ではなく尚徳

ってもあったよ。

一応賢雄は第二尚氏クーデターの時に抵抗し討伐されたというのが一般的だけど
その前に殺されたという言い伝えもあるんだよねぇ。

 

「護佐丸も阿麻和利も死んだ。
後は事情を知りすぎた鬼大城のみだ」

って感じだったのでしょうか。 

 

嗚呼、賢雄…(涙)

 


 

写真は尚徳によって追放された(!?)
長男・安次富加那巴志(あしとみかなはし。金橋とも)
次男・三津葉多武喜(みつばたむき)のお墓。

尚泰久、百十踏揚、それぞれのお墓でもあります。

尚泰久→ 
百十踏揚→ 


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ももと庵

2012年09月16日 | ・沖縄のcafe、お食事処

ライフライン、復旧しました~。

あー、良かった。

作業員のみなさま、ありがとうございますm(_ _)m

 

で、停電する直前まで書いてた記事。

以前気になってちらっと記事に書いてた
勝連グスクの麓にできたお食事処「ももと庵」に行ってきました。

肝高の阿麻和利公演の時に(^ε^)

こだわりの食材を使ったメニューは
それほど豊富ではないにせよ、
丁寧に作られた印象で品数も豊富でとてもおいしかったです。

この時食したのは「ももと膳」

これにドリンクとデザートもついていて1150円。

場所は勝連グスク、
南風原御門のすぐそこデス。

ここから仰ぐ勝連グスクもまた格別です。

惜しくもお店の窓辺からは反対向きになるため
グスクを眺められないのが残念。

でもその代わり海が望めますけどね☆

入口にはドーンと「百十踏揚」が2冊も(笑)

うむむ…やはりこの表紙はイマイチやっさ~

内容はあんなに面白いのに、表紙がとっつきにくすぎ
(百十踏揚、なんか目つきが怖いよ…小説の百十踏揚像と雰囲気違いすぎ。文庫版の絵の方がまだいいな…)


お店のリーフレットには百十踏揚についての説明もあり、
百十踏揚を意識したお店であることは間違いありません☆

勝連グスクや、肝高の阿麻和利の公演などで勝連に来た時は
是非寄ってみては?

ただし、営業時間は17:00までなのでご注意を☆

 

ランチカフェ 万鐘「ももと庵」

うるま市勝連南風原3211-7
098-923-0725
11:00―17:00
毎週水曜日定休

 

ちなみにハツラツ百十踏揚看板はなくなってました。
台風で外した(外れた)のかな?

 

photo by ケータイ

 


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サンバ最接近中

2012年09月16日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

轟音がすごくて目が覚めた…。

こりゃスゲェや…(; ̄ー ̄

前回の15号よりクるかもしれん…。

今の所ここは停電はなんとか免れてます。



[6:40追記]

あ、こりゃ「目」入ったな…。
虫鳴いてるし。
30分前が嘘のように静かだ…。

 

[12:00追記]

あー暑い…。
8時頃に停電して、ガス以外のライフライン寸断中…。

早く復旧しないかなぁ…( ´△`)


伊是名島の琉球古道

2012年09月15日 | ・琉球史散策/第二尚氏

伊是名島の琉球古道、サムレー道。

島一番の有力者・銘刈家と伊是名グスクをつなぐ
侍道、というわけだ。

途中途中「現在の道」で分断されてはいるものの
石畳道として整備され、
約2キロ続いているそうです。

全部歩いていみたかったけど、
今回は断念。一部分のみ。

サムレー道の途中にあった「銘刈カー」

カーとは泉のこと。

左三つ巴紋の香炉(?)がありますね。

すぐ横に、サムレー道。

グスクへの出勤・退勤の途中に
ここで休憩したりしたのかな。


クリックで拡大↑

銘刈カーにあった案内板。


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やーぐまい

2012年09月15日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

シゴトin野外、終わった~。

やっぱり雨に降られたよ

 

帰りながら台風対策食材(またの名をおやつ)を買い込んで、
さあ、どうせなら積読中の本を読み進めようかな。

つまみ読みばっかり

傳説補遺 沖縄歴史もまだ手つけてない…)

アレもイイかげん作業進めなければ…。
(と思いながら早数ヶ月…(´ε`;))


台風サンバのせいで色々と予定がキャンセルになったのは癪だけど
ならば、家でできることで充実した連休だったと言える過ごし方をしよう。

ただダラダラ過ごして終わったらもったいないしね。

停電になる前にご飯作り置きして、掃除したら、
始めよう(^ー^)ノ☆*.。

 

写真は伊是名の仲田港。

 


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元祖・中城御殿跡

2012年09月14日 | ・琉球史散策/第二尚氏

約1か月前に撮った首里高校のグラウンド。

校舎改築のために始まった工事で、
国王の世子(世継ぎ)の住まいである中城御殿の遺構が
ごっそり出てきたことで話題になったのは記憶に新しい所。

[琉球新報の記事]
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-194324-storytopic-1.html

奥に見えるのが校舎。

 

ところで「中城御殿跡」は2つ(2か所)あるんです。

この首里高グラウンドと、
龍潭池向かいの、元県立博物館跡地。

県博跡地の中城御殿は戦前まであったので
中城御殿というとそっちをイメージする方が多いと思いますが、
復元も決定してるし…)
その中城御殿は後からできたもの。

元々あった中城御殿は
この首里高校の中城御殿なのです。


↑クリックで拡大します


「次の王は中城王子・泰様。まだ6歳じゃないの!」

(「テンペスト(上) 366」)

と真鶴が叫んだときの中城御殿は
この首里高中城御殿、ということになります。

発掘調査に伴い、校舎改築の工事は中断中…。

どうにか折り合いがつくといいのですが…。

 

photo by ケータイ

 


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サンバって…

2012年09月14日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

台風16号、サンバ!

…ってサンバってる場合か!!∑(; ̄Д ̄)ノ

 

なにこの連休ど真ん中直撃まっしぐらコース!!ヽ(`Д´♯)ノ

この連休のイベントが軒並み中止・延期ですわ。

安室奈美恵の20周年ライブもあったのに丸々中止。
(経済損失そうとうありそう…)


そして那覇青少年舞台プログラム+息吹選抜メンバーの交流公演も中止。

那覇舞台は8月のセンセイションに引き続きの公演中止。

なんというか… なんかもう、可哀想すぎる…

きっと伊平屋メンバーのアトラクション出演も中止だろうなぁ。

 

ワタシも日・月の予定が丸々キャンセル。ホテルもキャンセル。

なのに明日のシゴトは予定通りあるっていうね。

ああ、このもどかしさを一体どこへぶつければ……。

なんかもう、
 
気持ち的にこんなん。
 

 


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銘苅家住宅

2012年09月13日 | ・琉球史散策/第二尚氏

国指定重要文化財 銘苅(めかる)家住宅。

代々夫地頭職を勤めたという名家で、


一言でいえば、

金丸の叔父さんち。

(厳密に言うと金丸の叔父を祖とする名家)


伊是名村ふれあい民族館の資料によると、
金丸の父ちゃん(尚稷(しょうしょく))の弟「真三郎」の家。

※父ちゃんに尚姓が付いているのは遡って冠したからです。
実際に王様になった人ではないです。

誰一人いない完全見学自由&無料でした。

天気も良かったので運よく室内も公開されていて
床の間には尚円の御後絵や掛け軸が。

この建物は明治39年建築・昭和54年修復、だそうです。

25年前くらいから観光地化されたようで、
現在人は住んでいません。

(銘刈家の子孫さんは那覇に移住してるそうです)

 


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レトロモダンな町家ゲストハウス

2012年09月13日 | ☆夏の金沢・京都旅行'12

まだ紹介してなかった旅写真発掘。

京都で泊まった小さなゲストハウス、錺屋さん。

大正時代に建築された大正レトロモダンな町家

ゲストハウスなのでトイレ・お風呂・台所は共同、
アメニティやテレビも無しの分、宿泊費は激安。

今回なぜココにしたのかと言うと、
内装の全てが被写体になるほどのステキ空間!!

玄関入ったその時点からもう虜

↑の写真は主に台所と部屋なんですが、
玄関、縁側、廊下、お風呂場のタイルまでツボ
(全部撮りたかったくらい(笑))

和レトロが好きな方は虜になること間違いないです☆

 

ただ、ただ、玉に傷なのが立地…。

いや、とても便利なところにあるのですが
それゆえ目の前の五条通りの騒音、振動は部屋にいてもモロ受けします

ああ、それさえなければリピートユーザーになるんだけどなぁ…(>_<;)

せめて建物が防音加工されていたらいいのですが…。

一応、フロントで「耳栓」が売ってました

 


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台風16号サンバの存在と進路にテンションだだ下がり中…。


護佐丸●歳で山田按司になる

2012年09月12日 | ・琉球史散策/第一尚氏

昨日フジテレビでやってた
偉人を年齢で切り取るバラエティ、
なかなか面白かった(・∀・)ノ

偉人たちの年齢って歴女的には結構重要(笑)

年齢が分かったほうが
その人物がリアルにイメージできるから。

今の自分や、感覚と比べてみたりとかね。

 

例えば、


尚巴志は、父・思紹が18歳の時の子。
*思紹(1354~1421) *尚巴志(1372~1439)



って知ったらほら、
思紹の人間としてのイメージがちょっとリアルになるでしょう?(笑)

 

さて、年齢不詳な人が多い古琉球の偉人たちですが
護佐丸もその一人。

一応、色んな研究から護佐丸が1458年に死んだ時の年齢が
68~70歳というのが今は一般的になっているので
逆算して生年を1390頃と算出できるのですけどね。
(でもそもそもこの68~70歳ごろっていう根拠って何なんだろう…ソボクナギモン…)

 

その護佐丸ですが、
父から家督を継いで護佐丸が山田按司になったのは15・16歳の時らしい
というネタを過去に書いたことがあるのですが、

そのネタの出典は「護佐丸伝」(新垣正雄著/1996)


でもそう算出した根拠はなんだっけかな~?

と思って、先日再度借りて読み返してみたら…

 

武寧王が尚巴志に滅ぼされたのは1406年。

その頃護佐丸はすでに一人前の武将に成長していたと思われている。

護佐丸の生年を1390年とすると、その頃護佐丸16歳。

すると、護佐丸が山田城主になったのは1406年、
あるいはその1・2年前、
すなわち14~16歳頃と考えられる。

(同 P272)

 

って、うわ~お、根拠薄っ!Σ(゜∀゜;)

1406年時点で10代半ばになっているから
元服して武将(大人)として一人前になった、というのは分かるが、
イコール家督を継いでいた(山田城主になった)という根拠はどこに? ( ̄∀ ̄;)

1416年の北山討伐の時点で尚巴志軍に加わった"読谷山按司"
というのは護佐丸(=26歳ごろ)のことだというのは一般的だから、
若くして家督を継いだだろうというのは予想はつくけどね…。

まぁ、10代半ばで家督を継いだっていうほうがドラマチックではあるから
個人的にはそうであってほしいけどさ(笑)

 

うーむ、この本「忠臣・護佐丸否定」や「阿麻和利賛美」の諸説についてのモノ申しは
結構鋭く突っ込んでるんだけど
護佐丸を賛美する時の視点は結構偏ってたり根拠薄かったりするなぁ~と改めて……
(もちろん納得できるのもあるけど)

ま、色んな人の見解が載ってるのでこの本、好きですけどねー。

手元にほしい一冊。

 

さて、護佐丸10代半ばで山田按司説、
みなさまはいかがお考えですか?

 


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写真は山田グスク(内部)

山田グスク(内部)過去記事→ 
護佐丸父祖の墓→ 


阿麻和利の祖父は●●●だった!?

2012年09月11日 | ・琉球史散策/第一尚氏

肝高の阿麻和利の舞台が終わったばかりなので
久々の阿麻和利伝承ネタを。

 

阿麻和利は出生が謎なので
色々な伝承・伝説・憶測があったりするのですが、
先日古本屋さんで購入した
門中拝所巡りの手引き」にこんな伝説が…。

 

 

 

 

 

 

阿麻和利の祖父は…、

 

 

 

 

 

  

 

北山王・攀安知(はんあんち)だった!?Σ(゜д゜;)

 

なんだとうっ!?

 

 

 

本によるとこうです。

 

尚巴志軍によって滅ぼされた北山王の娘は
兄と共に読谷村古堅(ふるげん)に逃れてきた。

娘はとても美人でしとやかだったので
いつしか大川按司(屋良按司)の目にとまり、
娘は懐妊した。

しかしすでに妻がいた大川按司は
妻にそのことがバレるのを恐れて娘との縁を切った。

娘は子どもを生み、
その子が後の阿麻和利である。

 

「門中拝所巡りの手引き P73」(沖縄の風俗研究会/月間沖縄社/1986)

 

 

大川按司に捨てられ人目を忍ぶ身だったので
娘は阿麻和利を育てるのに苦労した、とも。

 

なるほど、北山つながりか~。

なんかこういう伝説・伝承を読んでると
北山(今帰仁)関係のものってかなりありますね。

実は北山の系統だった、的な。

護佐丸もそうだし。

ほんとうの琉球の歴史」によれば
金丸もそうだし(笑)

 

阿麻和利が北山王・攀安知の血を引いていたとすれば、
首里王府はれっきとした「祖父の仇」ということになりますねぇ。

そうすると、また違った一面が想像できたりしますね。

 

阿麻和利の出生の謎は
屋良按司の子供というのが一般的ですが、
小説「百十踏揚」の設定が好きだな~。

この設定はおそらく著者の与並岳生さんの創作だと思いますが
あながちあり得ない話でもないってあたりがツボです。
(屋良按司の子供だという今に残る一般的な伝承もちゃんと踏まえているあたりも…(*^m^*))

 

写真は屋良グスク裏の比謝川。
イラストは去年の「翔べ!尚巴志」公演販売グッズ用に書き下ろしたチビキャラ攀安知(@現代版組踊ver)です★

 

*蛇足*

肝高の阿麻和利新パンフレット、
お問い合わせで購入できるようです。
今回の公演でGETできなかった方は是非♪
ワタシもインタビュー&イラストで協力させていただきました(→ 
詳細→ あまわり浪漫の会☆BLOG

 


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*TAO Factoryフェイスブック*
(伊平屋島の現代版組踊チーム、コープ牧港にてアトラクション出演)

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秀逸。

2012年09月10日 | ・琉球/沖縄、徒然日記

2012年9月10日(月)

琉球新報 31面

4コママンガ「がじゅまるファミリー」
(ももココロ作)

 


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