がじゅまるの樹の下で。

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護佐丸討伐の黒幕

2012年09月17日 | ・琉球史散策/第一尚氏

護佐丸討伐の黒幕は誰なのか。

正史の通り阿麻和利の讒言、
というほかにも色々推測されていますね。

金丸とか、尚泰久自身とか。

で、こんな推測もあるのも知ってますか?

 

 

護佐丸討伐の黒幕は

 

 

 

尚徳。

 
*尚徳(しょうとく)*

尚泰久の三男で側室腹。

百十踏揚とは異母姉弟。
尚泰久を継いで21歳で7代目国王となるが29歳で急死。
直後、金丸派によるクーデターが勃発し
第一尚氏王統は滅びることになる。
尚徳の急死も歴史の謎とされている。

 

厳密にいえば、

尚徳・阿麻和利ペア。

 

二人の利害が一致し手を組んだというもの。

 

この説の出典は「護佐丸伝」に掲載されている論文です。

「護佐丸、阿麻和利の乱の史実を探る」
(山田盛善/護佐丸研究者/毛氏16代/1994)

 

阿麻和利の野望は正史にある通り、
天下をねらうこと。

尚徳の野望は二人の兄たち(正室腹で護佐丸の孫)を押しのけて
王位に就くこと。

そのためには護佐丸排除が必要だった。

 

論文によると王位継承を巡っての内部派閥のいざこざがあり
(正室派VS側室派、また越来家来派VS首里古参派)
阿麻和利がその難儀に目をつけて尚徳に策略を持ちかけ取り込む。
(この派閥闘争設定は確か小説「新説・阿麻和利にあったな…)

阿麻和利自体は首里簒奪まで尚徳をうまく「利用」するつもりだったが
護佐丸討伐こそ成功したものの
その後の計画は失敗。

(論文によると中城戦の際に首里兵と中城兵を交戦させ首里兵をできるだけ疲弊させておき、
時をおかずにそのまま勝連軍が首里を攻めるという阿麻和利のプランがあったのでは、と。
で、結論は、そうはさせまいと護佐丸は自決することで無駄に兵力を失わせるのを喰い止めた
という護佐丸の最期に対する見解)

結局、阿麻和利は王軍によって討伐され、
尚泰久の長男・次男は追放(もしくは自ら出ていった)
2年後、王位を継いだのは尚徳、

というわけで、結局一人勝ちしたのは尚徳だった、

というもの。

 

尚徳かぁ…、1458年時点で17歳だよ。

阿麻和利30代半ばだよ。

アリか…なぁ?

 

王位に就いてからの尚徳の悪党ぶり(※正史による)をみれば
ありえなくもないか、な?

みなさんどうですか?

 

歴史ミステリーを推理する時、

「誰が1番得をしたのか」

が1つのポイント。

尚徳と見るか、金丸と見るか、ですかね。

 

ちなみに

鬼大城を粛清したのは金丸ではなく尚徳

ってもあったよ。

一応賢雄は第二尚氏クーデターの時に抵抗し討伐されたというのが一般的だけど
その前に殺されたという言い伝えもあるんだよねぇ。

 

「護佐丸も阿麻和利も死んだ。
後は事情を知りすぎた鬼大城のみだ」

って感じだったのでしょうか。 

 

嗚呼、賢雄…(涙)

 


 

写真は尚徳によって追放された(!?)
長男・安次富加那巴志(あしとみかなはし。金橋とも)
次男・三津葉多武喜(みつばたむき)のお墓。

尚泰久、百十踏揚、それぞれのお墓でもあります。

尚泰久→ 
百十踏揚→ 


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