がじゅまるの樹の下で。

*琉球歴女による、琉球の歴史文化を楽しむブログ*

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百十踏揚行脚~万国津梁の鐘~

2010年07月29日 | ・『百十踏揚』を読ム

■万国津梁の鐘■

その冬―――。

首里城では、冬至の朝拝の日に、
「万国津梁の鐘」が掛けられた。

正式には「首里城正殿洪鐘」で、
「万国津梁の鐘」は後代の通称である。



正殿前、御広庭の一隅には鐘楼が築かれ、
懸鐘式は、冬至の朝拝の後、
各地の後、百官が見守る中、
首里那覇の寺僧が勢ぞろいし、厳かに挙行された。

継妃真加戸金とともに、女官、神女たちも、
御内原を出てきた。

本来なら、踏揚も第一王女として出なければならないところであったが、
気分が優れぬことを理由に、うみないび御殿に閉じこもっていた。



外祖父護佐丸、そして「夫」阿麻和利が滅ぼされて、
踏揚の心の傷は深く、
とても晴れがましい場などに出て行く気にはなれなかったのだ。

そもそもこれは、護佐丸・阿麻和利という、「国の憂い」を除いて、
まさに「琉球の平安」を築き整えたことを祝賀する儀式でもあったのだ。


「百十踏揚 572-」(与並岳生著/新星出版)



はい、百十踏揚行脚記事です。

写真は、今年の正月に首里城の「新春の宴」に行った時に撮ったモノ
やっとご紹介…デス。
(’10新春の宴→   

万国津梁の鐘、というのは結構有名。

2000年に沖縄でサミットがあったとき、
作られた迎賓施設も「万国津梁館」と言います。

でも、この万国津梁の鐘が首里城にあることや、
ましてや尚泰久が掛けた鐘であることは
意外と知らない人も多いのでは…。

万国津梁の鐘が有名なのは、
鐘に書かれている銘文です。

一部、紹介します。



琉球国は南海の恵まれた位置にあり、
朝鮮の優れた文物に触れ、
大明国と深く結び、
日本国とも離れがたく結び、
この領域の真ん中に位置して
(徳や幸の)湧き出ずる蓬莱嶋(理想郷)である。

船の往来をもって万国の架け橋となり、
異国の産物宝物は国中に満ち溢れている。
すぐれた地に生きる人々は、
日本、中国の人徳に浴している。

「百十踏揚 574-」(与並岳生著/新星出版)



島国、琉球の気概を現す文としてとても有名なフレーズです。

「平家物語」とか古典の暗唱があるみたいに、
そのまま暗唱テストに出そうなくらい、沖縄では有名。

尚泰久は、仏門に熱心で
多くの寺院を立て、鐘を造らせたことでも有名なのです。



首里城に起こしの際は、
是非、広福門前広場にある、
この万国津梁の鐘も見学していただき、

「万国津梁」の文字を探してみてください


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百十踏揚行脚~勝連城/南風原御門~

2010年07月10日 | ・『百十踏揚』を読ム

■勝連城跡/南風原御門(はえばるうじょう)■


行列は、城の南面の石畳を敷いた長い急坂を登っていった。
登り詰めたところの門が、
正門の南風原御門だった。

首里城の門と同じ、
櫓を乗せた石造りの拱門であった。




広い城庭には、将兵や城女たちがずらりと居並んでおり、
その中央に、ひときわ豪華な金襴衣装を身に包んだ武将が、
泰然と、床几に腰かけていた。

―――言うまでもなく、阿麻和利その人にほかならなかった。

さすがに、いつもの荒縄巻きの百姓姿ではなく、
按司らしい威厳のある装束である。
髪も端然と結い上げていた。


「百十踏揚 223-」 (与並岳生著/新星出版)



久々の百十踏揚行脚です。
百十踏揚が勝連に嫁入りする場面より。
(この後の、百十踏揚と阿麻和利初対面の場面もたまらんデス(笑))

現在、勝連城跡に入るときに正面となっているの駐車場側は西原御門。

しかし、本来の正門はその反対側の南風原御門らしいです。
そう、海に面しているところが正面。

この南風原御門、観光で来た人が気づくことは、
なかなかないと思います。

すぐに階段のぼって上に行っちゃうからね。

かくゆう私もこの側に気づいたのは後になってからでしたが。


写真2枚目が南風原御門への坂道を上りきろうとしているところ。

もともとは石畳で、この先に櫓の乗った石造りの立派な南風原御門があったのでしょう。


過去記事、「在りし日の勝連城」も参考にどうぞ



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コメント (4)
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百十踏揚行脚~護佐丸の墓~

2010年06月29日 | ・『百十踏揚』を読ム

今月初めに、ふらりと行った中城城址のついでに、
護佐丸のお墓に寄ってみました。

これまで行ったことがなかったので
中城城址のパンフレットで場所を確認してから。

入口に立派な案内表示が立っていたので
すぐに分かりました。

お墓までの道も整備されていて、
緑のトンネルの中を、奥深く、歩いてゆきます。

では、百十踏揚行脚。


■護佐丸の墓■


―――どれくらい経ったであろうか。

犬の吠え声に混じって、馬のいななきを聞いたように思って、
護佐丸は、ハッと目がさめた。

続いて、ブオーッと法螺の音のような、鈍く思いひびき―――。

「なんだ?」

護佐丸はガバと、夜具をはねのけて、寝所を飛び出した。

ブオーッ、ブオーッ―――

明らかに法螺の音が、北空にとどろき渡った。





そこへ、二の郭から、将の一人が転げ込んできた。

「敵は、敵は……勝連、阿麻和利!」

と、悲痛な声で叫んだ。

背に矢が突き刺さっていた。

「勝連軍は、首里の御旗を、打ちふり、首里の御旗ぞ、
これは王軍ぞと、声高に、呼ばわって、おりまする」


「何と?首里の御旗と?しかと、相違ないか」





南の表門も破られたらしい。
喚声があがり、激しい干戈のひびきがおしよせてくる。

「お、表門からは、う、鬼大城殿……
し、首里の軍勢で、ござりまする……」



「百十踏揚 357-」(与並岳生著/新星出版)


 


南の拱門が破られ、
黒い唐甲冑姿の鬼大城が姿を現した。

館は激しく炎を噴き上げ、
庭には火の粉が舞っていた。

その火の粉の中に、るいるいと、身体中に矢を突き刺されて倒れている
中城の武将の姿があった。


「……」



ゴウゴウと音を立てて燃え盛り、
崩れ落ちる館の炎の中に、
護佐丸は呑み込まれたのであろう。


(さらば、護佐丸公……)


さすがに、心の中に呟いていた。
万感込み上げてくるものがあった。



天下一の武将、
尚巴志王とともに北山征伐をなし
三山統一を成し遂げたあこがれの古英雄、
歴史のような存在―――。

その一代の英傑が今、その最期を遂げた。



「百十踏揚 372-」(与並岳生著/新星出版)




小説、「百十踏揚」の中でも臨場感あふれる
護佐丸・阿麻和利の乱の場面でした。

(対 中城戦もいいが、対 勝連戦がまた泣けます…)

引用にもあったように、
阿麻和利は王の指示により(もしくは許可を得て?)、
左三つ巴の御紋を掲げた王軍の立場として中城に攻め入ります。

そして、護佐丸を打ったのち、
すぐに鬼大城を総大将とした王軍に打たれてしまうのです。

だから、護佐丸と阿麻和利は同じ年(1458年)に死んでいます。



どちらも「王軍」によって滅ぼされた中城と勝連ですが、
のちに王府によって編纂された「正史」には
中城・護佐丸=忠臣
勝連・阿麻和利=逆賊

となっています。

なぜ、護佐丸が正史で「忠臣」と書かれるほど名誉回復したかというと、
のちに、護佐丸の子孫が「毛氏」一族(テンペストでもお馴染み!)として大いに繁栄、
琉球王府にとってなくてはならない存在となったから、

と考えられています。

護佐丸の子孫は、今でもたくさんいて、
(護佐丸はかなり長生きしてたあげく、そうとう色々なところで子を産ませた…らしいことや、毛氏の繁栄も手伝って)

なんとまー、
私の身近に2人もいることが判明シマシタ



歴史はつながる、

歴史はつづく…。


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百十踏揚行脚~内間御殿~

2010年05月29日 | ・『百十踏揚』を読ム

さ、百十踏揚行脚。

第6代王・尚泰久

第7代王・尚徳

と続きまして、
お次はクーデターを起こして第一尚氏王統を滅ぼし、
第二尚氏王統を立ち上げた「金丸」の話。

尚泰久王の頃からの臣下であり、
王の右腕として絶大な権力も誇っていた金丸。

しかし、若く、血気溢れる尚徳王との衝突により
一時、王府から身を引き隠居します。


■内間御殿■



(手に負えぬ・・・・・・)

金丸は、砂を噛むような気持ちで口を噤むほかなかった。

金丸のような老練な政治家と、
若く才気に溢れた青年王では、
意識に大きな落差が生じるのは避けがたいことであった。



(遠ざけられる……)

金丸には、自分の手を離れて自立してゆく青年王の凛然たる姿が見える。
しかしそれは、金丸に対しては逆に冷然たる姿である。

(誰のお陰で、王になったのだ)


「百十踏揚 625-」より (与並岳生著/新星出版)



金丸と尚徳王の衝突は、
王の久高島行幸で決定的となる。

「これほどまでに申し上げておりますのに、
敢えて典例を壊すをなされると仰せならば、
お諌め申したこの金丸めも、覚悟がございます。

どうぞ、この金丸めをお斬りなされて、
しかるのちに籠をお立てくださりませ」



金丸もこの頃には、尚徳王に見切りをつけ、
ひそかな野心を胸に沸かせつつあったと思える。

だからこそ、恐れることなく、
むしろ群臣に、「さすが――」と思わせるようなパフォーマンスをして、
ここぞとばかりに、執拗な「哭諌」を演じてみせたかもしれない。



この“与那原事件”の後、

《王、暴虐日に甚だしく、金丸しばしば諌むれども聴かず》

――という、(金丸の側からは)手に負えない状態になっていった。

金丸は、天を仰いで嘆息し、ついに致仕して、
領地の内間村に隠れた。



これが成化4年(1468)戊子8月9日、
金丸54歳の時である。

金丸のこの「隠棲」が、クーデターの引き金で、
その8ヵ月後に、尚徳王は「遽焉として薨逝」した
というわけである。


「百十踏揚 639-」より (与並岳生著/新星出版)




クーデター派は、世子と王妃、王母をはじめとする王族、
そして近臣を殺した後、

王の乗り物たる鳳輦(ほうれん)を担ぎ、
龍衣を捧げて金丸の隠棲する内間村に向かった。



しかし、金丸は、さすがに老獪である。

表面「大いに驚」いて曰く―――

《臣を以って君を奪ふは忠なるか。下を持って上に叛くは義なるか。
爾(なんじ)等、宜しく首里に帰りて、貴族賢徳の人を択びて君と成すべし》

そのように言って、はらはらと涙を流した。



しかし、この時の金丸の「涙」はいかにも嘘っぽい。
要するに「演技」的なのだ。

自分ではなく、首里に帰って、貴族賢徳の人を選んで立てよ

――などと、あたかも尚王統に忠義てするかのような
謙譲さをみせていくわけである。



しかし、そのように「前」王統に対する忠義の心らしく見せながら、
玉城に隠棲する金橋多武喜王子
(※)らの名前は、示唆していない。

金橋や多武喜は、れっきとした尚王統の後嗣であり、
本来なら、金橋王子こそ、
王になるべきであったはずなのだ。

(※ 尚徳王の異母兄。尚泰久王の正妃の子、百十踏揚の兄)



金丸は王位に就くことを固辞し、
海岸に逃げ隠れる“演技”までやってみせる。

茶番もいいところだ。



群臣は「逃げる」金丸を追いかけて行き、
懸命に請う。

追いすがられて、金丸は、
隠居の普段着を仕方なく脱いで、
龍衣(王衣)を着て首里へ登り、玉座に座った、

というわけだ。


そして、

「尚円王」

―――と名乗るのである。



「百十踏揚 646-」より (与並岳生著/新星出版)



引用がかなり長くなってしまいましたが・・・

こちら、内間御殿は隠居したいた金丸の住居、
そしてここに、王衣を携えて臣下がやってきた、

というわけです。

ここ、内間御殿は西原の住宅街の中にありますが、
フク木で囲まれ鬱蒼とした雰囲気を漂わせておりました。



この内間御殿の存在は、実はワタシも今年になって初めて知りました。

知るきっかけになったのは、こちら。



今年の2月に起こった地震です。

この地震は勝連城跡をはじめ、
ここ内間御殿、
糸数城跡など様々な史跡に被害を与えました。



石垣全体的に傾いて、
ロープや鉄筋、シートでガードされておりました。

おとといくらいも夕方に地震があって。

大丈夫だったかな?



さて、金丸(尚円王)。

この後、百十踏揚の後夫であり、自身の忠臣「大城賢勇」も討つことになります。

以後、現在に続く「琉球文化」を花開かせ、
400年あまり続く第二尚氏王統を築き上げた偉大な王・金丸ですが、
「肝高の阿麻和利」でも策士として裏で王府をあやつり、
小説「百十踏揚」でもフォローなきその黒幕悪役っぷり

歴代の王が短命で次々と代わり不安定な王統の中で、
護佐丸、阿麻和利、金丸、大城賢勇と、
誰もが野心を抱いたあの時代。

歴史は、勝者によって書き記されるものですが、
はてさて、その真意はいかに。





あなたはどのように考えますか?



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百十踏揚行脚~尚徳王陵墓跡~

2010年05月26日 | ・『百十踏揚』を読ム

第一尚氏王統、最後の王様、
尚徳(しょう とく)王の陵墓跡です。

実はこの写真は去年の5月中旬に撮った写真。

識名園に行く途中で偶然出くわした史跡です。

住宅街の、道路沿いにポンっと立っておりました。

尚徳王はワタシのブログにしょっちゅ~出てくる
阿麻和利の時代の尚泰久王(6代王)の第3男児(側室腹)。


21歳で即位し、29歳で急死します。

この急死こそが、第一尚氏王統最後のミステリーなのですが…

というわけで、百十踏揚行脚。


■尚徳王陵墓跡■



尚徳王が薨じたのは、成化5年(1469年)4月22日(太陽暦六月2日)である。
在位9年、寿29という若さであり、
その死は、明国皇帝の勅書にも

〈遽焉として薨逝〉

とあるように、いかにも「急死」の印象がある。

王府正史を読むと、彼は「暴虐王」として口を極めて罵られ、
そのしつこいまでの書きぶりから、
「殺された」印象が強い。

琉球王府四史書は、筆をそろえて尚徳王の“悪政”を
激しい語調で罵っている。



前王をこのように悪し様にこき下ろし、
代わった王の徳を賛美するのは、易姓革命の常であるが、
とはいえ、尚徳王に対するしつこいばかりの悪罵は極めつけといえる。

もちろん、それら王府史記のすべてが、
尚徳王を滅ぼした金丸―――尚円王統下に編纂され、
金丸(尚円王)の「徳」を称えるために、
その対極に尚徳王を置いているわけである。

したがって、尚徳王の業績は覆い隠されてしまっているわけだが、
しかし、尚徳王の治世で特筆すべき業績も多かったのである。

この点、見落とすべきではないだろう。



「百十踏揚 631-」より (与並岳生著/新星出版)




今では、尚徳王暗殺説が一般的なような気がします。


尚徳王の父、尚泰久王の右腕として知恵と権力を誇っていた金丸は
尚徳王と対立し、内間村に隠居します。

そして、尚徳王薨去直後に金丸(派)によるクーデターが勃発。

尚巴志に始まった第一尚氏王統は終わりを告げ、
血のつながりが全くない金丸が「尚円王」と名乗り、
第二尚氏王統をスタートさせてゆくのです。


どうしても尚徳王の急死は、金丸(派)によるもの、
という感が強いですね。



7代続いた第一尚氏のお墓。

2代尚巴志~4代尚思達のお墓は読谷村の佐敷森

6代尚泰久のお墓は玉城の冨里

7代尚徳のお墓はこちらの那覇市識名、

三山統一の実行者・尚巴志が父をたてたゆえの、
1代目尚思紹のお墓は佐敷にある佐敷ようどれ(※未体験)、


・・・…あれ?

第5代の尚金福王のお墓はどこだ…?



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百十踏揚行脚~尚泰久の墓~

2010年05月17日 | ・『百十踏揚』を読ム

ここ1週間、女子カメラモードな記事ばかりだったので、
琉球歴女な記事もいれていきましょう。

(その時々によって偏る和々のブログ…

GWに百十踏揚のお墓参りとセットで行ってきた、
百十踏揚の父親、第一尚氏王統6代・尚泰久王のお墓です。


■尚泰久の墓■



「大世主」尚泰久王が薨じたのは、
天順四年(1460)、庚辰6月5日(太陽暦では6月23日)であった。

寿50、在位7年―――。

尚泰久王は、第一尚氏王統においては、
尚巴志王に次いで、存在感の大きい王といえた。

歴史的に見れば、仏教を国造りの基本に据えて、寺々を数多く建て、
知識人たる大和僧たちを招いて厚遇し、文教を盛んにし、

「万国津梁の鐘」を掛けて高らかに琉球の気概を謳い上げ、士民を鼓舞し、



海外貿易も盛んにしていった業績などによって、

尚巴志王以来の名君ともうたわれている。

しかし、一方においては、

岳父護佐丸を、
そして次に娘婿たる阿麻和利を滅ぼしたという、

血塗られた一ページも、付け加えている。



『百十踏揚 603-』より (与並岳生著/新星出版)



最近整備されたのか、尚泰久のお墓は
石も新しく白く光っていましたが、
(尚泰久の子孫は今でもはっきりしておられ、去年催しも行っていました)

元となっている大岩はごらんの通り。

やはりすごい存在感です。


大通り沿いというのがちょっと雰囲気ありませんが…
(1枚目の写真は裏側からの通路になります)



小説「百十踏揚」によると、
尚泰久は第一尚氏王統の玉陵である「天山陵」に葬られたとのことでしたが、
なぜ、尚泰久のお墓がここに?

金丸派のクーデターによる天山陵焼き討ちのときは、
尚巴志から、4代の尚思達王までの遺骨が持ち出され「佐敷森」に葬られた…
というのは以前記事にしたとおり。

どうして尚泰久は生まれシマでもないここ、玉城冨里に?
やっぱり息子・娘たちと一緒にしたかったのかしら。
(でも尚泰久は尚巴志の七男にあたります)



尚泰久のお墓は、長男の金橋(安次富加那巴志)お墓と一緒になっています。
百十踏揚は、次男の多武喜と一緒。

この3人が尚泰久妃(※護佐丸の娘)の生まれ。

もう一人、尚泰久の息子がいますが、側室腹、となります。
その側室腹の第4子が王位を継ぐわけですが…。



これはまた別の機会に。



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百十踏揚行脚~屋良ムルチ~

2010年05月10日 | ・『百十踏揚』を読ム

■屋良ムルチ■

比謝川は読谷山と北谷方面を隔てる大きな川で、
当時は単に「大川」と呼ばれていた。

河川は険しい隆起珊瑚礁の断崖が続き、
あちこちに洞窟がある。




遠く人里離れた中流には、大きな淀みがあり、
屋良漏池(やらむるち)と呼ばれていた。




人を呑み込む、恐ろしい大蛇が棲んでいると伝えられ、
近寄る人もいなかった。

大蛇は火炎を吐いて、村々の作物を枯らし、
天災を招くと伝えられていた。




加那はその大蛇棲む屋良漏池近くの、
洞窟に棄てられたのであった。


「百十踏揚 160-」より (与並岳生著/新星出版)



阿麻和利(※幼名/加那)は、ここ嘉手納町の屋良生まれとなっています。
(当時は、北谷間切、屋良村)

その、屋良にある屋良ムルチ。

ほぼ毎日この前を通っていましたが、
下りたのは初めてです。

ひやっとした空気が流れていて、風もなく、
確かに、淀んだ水の中から何かが出てきそうな空間でした。



屋良ムルチには上記したような伝説がありまして。

こちら↓



というわけです。

下りた先には祭壇(?)が…。



屋良ムルチをもっと嘉手納寄りに進んだところにある
嘉手納の道の駅看板には、この大蛇をモチーフにした(?)龍が絡まっています。




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百十踏揚行脚~百十踏揚の墓~

2010年05月06日 | ・『百十踏揚』を読ム

■百十踏揚の墓■


―――あれ、森の中から、白い蝶が、ひらひらと飛んで参ります。

ひょっとして、うみないびの前……?

ああ、今、わたくしの回りを……。
そうですね、うみないびの前でございますね。



……はい、それでは思戸も、まもなくそちらへ参りますれば、
このようにすっかり年を取っておりますけれども、
どうぞ、お見忘れ下さいますな。

……はい、また昔のように、お側に……。


ああ、海鳴りでしょうか。

……いえ、歌でございますよ。

海鳴りの中から、歌が聞こえて参りますよ。



百十踏揚や
世添う杜に
降れて 遊びよわれば
迎い 誇ら
君の踏揚や……



『百十踏揚 762-』より (与並岳生著/新星出版)


※うみないびの前=うみないび(王女)/~の前(尊称)



はい、GW中に南城市玉城にあります百十踏揚のお墓に行って参りました。

その日、目が覚めて、今日どうしようかな~とゴロゴロしているときに、
「そうだ!百十踏揚のお墓に行こう!」と思い立って(笑)

ただ、はっきりした場所がわからず、
ここら辺らしい、というグスクロード付近をうろうろ。

結局、観光案内センターみたいなところで聞いて、
たどり着くことができました。



百十踏揚のお墓は兄の多武喜との合葬になっています。

が、実はここは移設されたお墓で、
元々は現:玉城中学校の敷地内にあったそうです。↑

割とすぐそこ、の距離ではありますが…。



で、現在の百十踏揚のお墓。

綺麗に整備されていて、とても静かで穏やかな光の中にありました。

木漏れ日がとてもやわらかくて、
気持ちのいい風が吹いている中、
静かに手を合わせました。



…で、振り返ると、



なんと、国民運動場(すごいネーミングだ…)。

結構古いけど、今でも使ってるのかな~?

奥に見える国民体育館は新品のようでしたが。



運動場側からみた百十踏揚のお墓(のある丘)。

運動場(もしくは体育館側)の駐車場に車をとめて、
裏側に行くような感じで、この丘を目指すとすぐにたどり着けます。

小さな案内板もありました↓



沖縄、梅雨入りしました
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百十踏揚行脚~在りし日の勝連城~

2010年04月20日 | ・『百十踏揚』を読ム

■在りし日の勝連城■

城は、勝連半島を貫いて伸びる琉球石灰岩の脊梁大地の北端、
一番高い所に築かれている。

自然の断崖を縁取って築かれた城壁は、鋭く聳え立って、
人を寄せ付けない構えである。

天守に当たる一の郭は海抜90メートルあるが、
そこは南側――踏揚が降り立った南風原の港から
そのまませり上げて鋭くそそり立っており、
麓から眺めると、いかにも天を突くようだった。

(中略)

つまり、勝連城は南風原御門、北原御門、東御門と3つの外門と、
2つの内門をもった構えである。

そんな構えの中に、内部もまた高い内壁を巡らし、
下グスクから上グスクは見上げるように高い。

東グスクから眺めると、三段構えの上グスクは、
それ自体が、城の中の城といったところである。

 

「百十踏揚 226-」より (与並岳生著/新星出版)

 


このブログでも、幾度となく登場している勝連城跡ですが、
在りし日の勝連城の姿は、このようだったと考えられています。

この図はパンフレットや、入り口の案内板で見ることができます。

現在、勝連城跡見学で上ってくる方向は西原御門方面、ということになります。
(南風原御門の通路跡も一応ありますがネ…)

これを見ると、今「城跡」として見学できているのは
上の、ごく一部分なんだなー、ということが分かります。

勝連城跡の発掘調査は続行中。

下グスクの整備・公開も待ち遠しいです


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百十踏揚行脚~勝連城跡/城壁~

2010年04月18日 | ・『百十踏揚』を読ム

そろそろ「百十踏揚行脚」記事も書いておきましょう。

ネタは色々たまってるのに、こんなマニアックなトピックはいかが?(笑)

 

■勝連城跡/城壁■


「仰せの通り、この勝連城は難攻不落でござる。この城壁を、誰がよじ登れましょうや」

と、屋慶名も相槌を打った。

「まこと、この城壁、上から覗くだけでも、身が竦む――」

と、言葉を添えてきたのは南風原であった。

口調に酔いはなく、

「昔は、この上に立って、逆立ちなどして、肝試しをしたものだが、
今や老いて、気も弱くなり、覗くだけでも怯んでしまいますな」

などと、気弱なことを言う。

ここで逆立ちか……下は切り落としたような数十丈の絶壁。

そうか、そんな肝試しなどを、南風原らは若き頃にはやっていたのか……
と、加那が感心していたとき、

突然、茂知附按司がムキになって、

「お主らも、まこと気弱くなったものじゃのう。
それとも、わしへの当て付けか。わしをも老いたと思うているのじゃろう。
隠居のことなぞ、チラつかせておるからのう。どうじゃ、南風原」



茂知附按司は自分の言葉にさらに酔いが絡んで、

「わしを酔いどれの老人と侮るか、お前たちは。
わしは、その名もとどろく、勝連の按司ぞ。
まだまだ若き如きには負けぬぞ。見ておれ」

言うや、いきなり立ち上がって、ふらつく足取りで城壁の方へ歩いていき、
城壁へ手をかけてよじ登ろうとした。

「按司添の前、危のうござります。今宵は風もありますれば…」

兵が手を差し出したが、

「何の、これはわが城ぞ。わが城壁ぞ。何ぞ、怯むことやある。構うな」

 

「百十踏揚 184-」より (与並岳生著/新星出版)

阿麻和利の前・勝連城主、茂知附按司についての場面です。

今に伝わる茂知附按司の最期は、

阿麻和利の策略によって、城壁から突き落とされ死亡した、

と言い伝えられています。

―――が、それもこれも阿麻和利=悪モノとして仕立て上げるための
一伝説、とも取れなくもないですが。

で、そういう現在も残る言い伝えや風評も踏まえつつ、
与並岳生さんの書く「百十踏揚」での阿麻和利像は、
実に納得のいくものばかりで
うなりっぱなしです。

 

というわけで、勝連城跡、一の郭の城壁をご紹介しました★

この日は黄砂に煙る日で見通しは悪かったですが、
「絶壁」という感じはわかっていただけるかと。


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百十踏揚行脚~越来城跡~

2010年02月21日 | ・『百十踏揚』を読ム

おはようございます
今日の沖縄はひっさびさのマーク

なのに私は持ち帰ったシゴトをしないといけないので
今日は一日中引きこもりです。

肝高の阿麻和利の夜公演のために
がんばりましょうか。

さてー、写真は12月に撮ったものですが、
ずーっとずーっとご紹介できずにいたので、

肝高の阿麻和利ツナガリで
久しぶりに『百十踏揚』行脚記事、行きましょう★

 

■越来城跡■

「これからは、返事は、“はい”じゃ」

「うん……。あ、はい……」

父は頼りなげに、もう一度舌打ちしてから歩き出した。
思戸は、後れないよう、トコトコと、小走りに従いて行く…。

行く手には、頂に、越来城の白い城壁を、冠のように乗せ、“おもろ”で

〈鷲の嶺〉

――と尊称される越来嶺が威圧するようにどっしりと鎮座していた。

見上げる越来城=越来嶺は、いかにも大鷲のようだ。

岩山を縁取ってゆるやかに延びる城壁は、
大鷲が悠然と、翼を広げ、今にも飛翔せんとしているかにも見え、
まこと〈鷲の嶺〉というにふさわしい、威厳に満ちた神々しい姿に見えた。

厳しく聳え立つ城壁を仰ぎ見ながら、

(きょうから、あそこで…)

と考えると、思戸は自ずと、気持ちが引き締まってくるのを覚えた。

が、一方では怯み心も出てくる。

父が懸念しているように、
何も分からないトロトロしているに違いない自分なんかが、
あんな立派な御城で、果たして勤まるであろうか……と。

 

「百十踏揚 13-」より(与並岳生著/新星出版)

 

物語の最初の部分から引用しました。

少女、思戸(うみとぅ)が、越来王子・尚泰久の指名により
尚泰久の娘・百十踏揚の付き人として奉公にあがる場面です。

尚泰久は越来王子として、ここ越来城の主でありました。

が、のちに琉球王として首里に上がることになります。

越来城は尚泰久や娘の百十踏揚がかつて住んでいた場所なのです
(百十踏揚の弟、のちの尚徳王もね。『百十踏揚』では大城賢勇も一緒)

そういう背景を見ても、越来城は首里城(王家)に直結した
重要な城のひとつであったことがわかります。

しかし、今は小さな鳥居とうたき、そして解説板があるのみ。

かつての威厳に満ちた姿を消して、

ただひっそりと姿を潜めていました。

『百十踏揚』を読んで、

よし、越来城を探しに行こう!と車を走らせましたが、
最初はたどり着けず。

再びチャレンジして出会えたときは

「ぁれっ!?ここなの!?

とびっくり。

むかしむかし、私が保育園生くらいのとき、
時々この公園に来ていたのです。

まさかここが越来城跡だったとは。

まったく埋もれてしまった、

かつての繁栄にちょっぴりしんみりしました。


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百十踏揚行脚~冬至~

2009年12月23日 | ・『百十踏揚』を読ム

昨日も触れた、冬至に行われていたという首里城の儀式。
ちょっと気になったのでさっき「百十踏揚」をめくって調べてみました。

あ、あったあった。

では、百十踏揚行脚~冬至~です。

 

■冬至■

季節の朝拝は、冬至、正月、小正月などがあって、
この時は王、王妃とも正殿前の御庭に降り、群臣の先頭に立って、香をたき、
その年の吉方、歳徳神(としとくしん)を拝み、
明国に向かって皇帝を遥拝したのち、
群臣の拝賀を受ける。

冬至に、朝拝がおこなわれうのは、
いうまでもなく、この日は昼がもっとも短く、夜がもっとも長いということで、
この冬至を堺に、日足はしだいに伸びて行く、

つまり、太陽の甦り―――

すなわち万物の生命の根源を画する日だからであり、
それゆえ、この冬至の朝拝は、ことに重要な儀式となっていた。

 

「百十踏揚 128-」与並岳生著より

うーん。

こうやって書き写してみると
「テンペスト」との文体の雰囲気の違いがありありと分かります(笑)

ちなみに、「朝拝」とありますので、
儀式は朝に行われていたのですね。

冬至というと、夜が長い=だから夜
というイメージがあるのですが。

現在は首里城でこの儀式は復元されてはいません。

写真は前に撮ったものです。

秋夜の首里城。

 

香をたく、朝拝、ということで1番近い
正月の朝拝の様子については今年の正月の記事をどうぞ。

来年も行くぞー


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百十踏揚行脚~知花城跡~

2009年12月12日 | ・『百十踏揚』を読ム

「使者の方は、なんと?」

踏揚は不安げな面持ち見上げた。



「うむ。やはり降伏せよとのことであった。まず、越来城の明け渡し……」

「で、いずこへ?」

「知花城だそうな」

「天下一の武将」

として、武勲赫々たる鬼大城を、端城へ移れというのは、いかにも露骨なことである。

どんなにか屈辱感と怒りに心を煮え立たせていることだろう。



「ま、知花は、私が育ったところでもあるから、シマ(故郷)へ帰るようなものだがな……」

鬼大城は自嘲ぎみに言ったが、
その表情には、さすがに苦々しさがにじみ出ている。


「百十踏揚 672-」(与並岳生著/新星出版)より

 

後嶽を背にした険阻な知花「石城」は、それなりに攻め難い地形であり、
鬼大城は、ここで最後の抵抗を試みたのであろう。

しかし、今はもう、上から石を落とす兵もいないし、
矢を射下ろす者もいなかった。

圧倒的な「王軍」は、火攻めをかけて、
洞窟に立て籠もった鬼大城を燻り殺したのだと、伝承されている。

洞窟内で、煙に巻かれた鬼大城の最期は、さぞや無念の極みであったろう。

鬼大城ほどの武将である。

今はこれまで……と、敵の手にかかる前に、あるいは煙に巻かれて窒息する前に、
潔く自刎して果てたのではあるまいか。

 

「百十踏揚 723-」(与並岳生著/新星出版)より

 

はい。

「テンペスト」(池上永一著)行脚シリーズに続いて、
「百十踏揚」(与並岳生著)行脚シリーズスタートです(笑)

太字が引用部分で、台詞には人物別に色をつけています♪

でも、テンペストと違って、
「百十踏揚」はまだ1回しか読んでないから
(今、2回目読み始めてて途中で止まってます
テンペスト行脚ほどはアレコレとすぐには書けないかも…なんですが。

テンペストは幕末の頃の琉球が舞台ですが、
百十踏揚は室町時代の頃の話なので時代が違うのです。

琉球では「古琉球」といわれる時代で
「第一尚氏」王統末期の話です。

さて、知花城跡です。

以前、記事にしたことがあったのですが、
どうやら「大城賢勇(鬼大城)」の墓はもっと奥にあるらしい…!

ということが発覚。

今日、リベンジしてきた次第です。

 

続く

コメント (2)
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琉球舞台の大河ドラマ

2009年10月23日 | ・『百十踏揚』を読ム

唇の内側に口内炎ができて腫れてしまってイタイ和々です(涙)
ビタミン採らなきゃー。

昨日、同僚と
「テンペスト」やら「百十踏揚」やら琉球王国時代が舞台の本の話をしてました。

「テンペスト」はきっとドラマ化は無理だけど、
「百十踏揚」はイケる!

という話(笑)

女性が主人公で爆発的な人気を誇った大河ドラマ篤姫も
記憶に新しいところ。

是非、「百十踏揚」を大河ドラマでやってほしい

だって、そろそろ沖縄が舞台の大河ドラマがあってもいいんじゃない?

実は、昔、私がまだ子供だったころ、
「琉球の風」という琉球が舞台の大河ドラマがありました。

しかし、なかなか厳しい視聴率だったそうで…

ま、実在した歴史上の人物ストーリーではなかったそうなので
色々な波紋があったらしいのですが。

でもっ!

当時の沖縄はまだまだ日本の中では知名度も関心度も下の下。

しかし、その後、あの安室奈美恵の登場により沖縄が
全国的に大躍進する時代になってきます。

NHK朝ドラ「ちゅらさん」で沖縄ブームは更に加速。

それから現在に至り、みなさんご存知の通り、
アムロちゃんに限らず、ミュージシャンも女優もモデルも
全国的に活躍している人がたくさんいます。

全国的な知名度も関心度も(当時に比べると)だいぶUPしていると思います。

ましてや、百十踏揚なら、本土・海外でも評価の高い肝高の阿麻和利の舞台の影響で
他の琉球史や人物よりは知名度も高いと思うし。

今ならきっと、視聴率とれると思うけどナー。

で、与並岳生著の「百十踏揚」

琉球版戦国時代とその直後、
三山が統一(※琉球本島天下統一)されたとは言え、
まだまだ非常に不安定な状況。

首里王府とは別に、強大な権力を誇る中城の護佐丸と勝連の阿麻和利。
その2大勢力がいつ反乱が起きてもおかしくない状況に、
王府の権力基盤を括弧たるものにしようとする首里王府。

首里王府内では王位継承の争い

志魯・布里(しろ・ふり)の乱 に
首里城炎上。

明国との冊封関係に各国との貿易合戦。

政略結婚、戦に知恵比べ。

全然、日本の戦国時代や幕末のドラマに引けをとらない
ストーリー展開ができると思うんだけどナ。

見てみたいものです。

写真は夕暮れの勝連城跡。
(過去に撮った写真です)

 

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読了!

2009年10月17日 | ・『百十踏揚』を読ム

『琉球王女 百十踏揚』(与並岳生 著/新生出版)

読了しましたー

買ったのは13日(火)だったけど、
読み始めたのは翌日の14日(水)からだったので、
3日半で読了っ!

私にしては『テンペスト』に匹敵する没頭と速さでした。

シゴトの空き時間や車中(!)、
寝る時間もいつもより遅くなりつつも
続きが気になって気になってドキドキしながら読み進めることができました。

テンペストはフィクション要素が強いですが(設定からしてもネ…)
こちらはだいぶ史実に基づいてのストーリー。

登場人物も実在の人だし。
(影の忍び“真五郎”は…はてさて…定かではありませんが…)

肝高の阿麻和利などを通してその時代の主要人物や
“史実”(とされてきたこと)はあらかた頭に入っていましたが、
その中で漠然と感じていた様々な疑問がいちいち腑に落ちて行きました。

なるほどね~(納得)

なるほど~(納得)

なるほどそういうことかぁ!(納得)

の連続でした。

そりゃ、護佐丸と阿麻和利の隠された関係のところは…
さすがにフィクションかな?とも思いましたが

ただ、様々なことに関してかなり詳しく説明や余談(?)が入ってくるので
勉強にもなりますが、それはともかく早く話の続きを~~っ!
って感じにはなったりもします
(だってその余談が結構長いんだもの…

主人公の百十踏揚はもちろん、
父の尚泰久、
祖父の護佐丸、
夫の阿麻和利、
後の夫となる鬼大城、

人間味あふれる人物描写でした。
(そしてやっぱり阿麻和利かっこいい(笑)かっこよくてラブラブでよかった(笑))

もっとも鬼大城は最初、こいつめ~~~~っ頭悪いしっ

ってなってましたが、後半には涙ホロリ…。

 

ただ、金丸はひたすら悪役でした

これまで悪役とされてきた“逆賊”阿麻和利や、
“謀反人”護佐丸、
それら討伐を命じた“黒幕”尚泰久王は
そう言われ続けてきた事実や理由もふまえつつも納得のいく展開でしたが
金丸に関してはただひたすら悪役で大したフォローもなく…

ま、策略家としてこの時代を操っていた感は
その後の歴史をみても確かに拭いたがいものがありますけどね

 

う~ん、しかし勉強になったぁ!

しかも面白かったぁ!

三国志や戦国時代は私はあまり詳しくはないけれど、
国が揺れ動いているときの武将達の野望と忠義と陰謀と策略。
なんだか通じるものを感じました。

興味のある方は是非、ご一読を

コメント (4)
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