joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

国語

2009年10月11日 | 日記
「国語」という科目を疑わないことの過ちは、次の点にある。


文を書くという行為は、無意識の発露である部分が多い。


「文を紡ぐ」ともいうが、それは最初から最後まで計画されて書かれているわけではないのだ。


わたしは小説を書いたことがないから、これはひょっとするとしょうせつにはあてはまらないのだろうか?


少なくとも、説明文にせよ随筆にせよ、文を書くというのは、そのときの流れで書いてあることが多い。


その際には、本人ですら意識しない“間違っている”言葉の使用が行われている。しかし、厳密にいえばそれは間違いではない。本人が言いたいことがはっきりとは意識されていないがゆえに、あやふやな言葉遣いがされているだけだ。


しかし「国語」という科目は、文章がすべて一字一句計画的に構成されているという思想の上に成り立っている。


だがそれは、文を書くという行為も、文を読むという行為も、最初から最後まで首尾一貫した論理によってなされるのではなく、その都度都度適応した意味を自分自身が作り出しているということを無視している。


「国語」は、問題として採用された文から生気を奪い取り、それを記号の配列とみなす。


わたしは、文を書いたり読むことがいい加減な行為だと言いたいわけではない。ただ、文を書く読むというのは、自分によって制御できない無意識の働きによってなされているのだ。


その無意識の作業を意識化することは、本人にとって意味あることだ。


しかし「国語」という科目は、そうした無意識的な作業とは無縁に、ただ言葉の表面だけを追う。


文を書く読むという行為は感受性を発揮する行為だ。しかし国語はそうした個性を無視し、死んだ文字に人を向き合わせようとする苦行に近い。


この不毛な科目をまじめに批判することを怠っている、我が国の膨大な数の知識人の罪は重い。

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1 Comments

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Unknown (Y)
2012-01-08 21:58:17
その通り!
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